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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

北関東のワンダーランド、両毛地域への誘い

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記事数=40件/更新日:2004年3月15日/編集者:YSK

栃木県と群馬県の県境付近に広がる「両毛地域」。なぜ「両」で、どうして「毛」なのか、といった問題やこの地域の特性まで、いろいろな話題を集めました。ここでは、広く両毛線沿線として捉えられる栃木市関連の話題も併せて掲載しています。

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★推奨します★(元祖いいね) YSK G Pachi いっちゃん みやこ♂ 烏川碧碧 足利人@伊勢原市民 音無鈴鹿 でるでる おがちゃん

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[2879]2002年9月2日
深海魚
[2883]2002年9月2日
YSK
[3012]2002年9月11日
G
[4536]2002年11月5日
G
[5137]2002年11月20日
YSK
[5367]2002年11月25日
G
[5521]2002年11月28日
G
[5850]2002年12月4日
YSK
[5852]2002年12月4日
ken
[9152]2003年2月13日
YSK
[9170]2003年2月13日
YSK
[9175]2003年2月13日
YSK
[9473]2003年2月19日
YSK
[9497]2003年2月20日
YSK
[9537]2003年2月20日
YSK
[9569]2003年2月21日
BANDALGOM
[9575]2003年2月21日
YSK
[9961]2003年2月28日
でるでる
[10041]2003年2月28日
ペーロケ
[14566]2003年5月2日
YSK
[14592]2003年5月3日
G
[14616]2003年5月3日
YSK
[14618]2003年5月3日
YSK
[14644]2003年5月4日
白桃
[14700]2003年5月5日
YSK
[14720]2003年5月5日
千本桜
[14731]2003年5月5日
YSK
[14744]2003年5月5日
YSK
[14995]2003年5月9日
YSK
[20686]2003年10月6日
YSK
[20992]2003年10月13日
ニジェガロージェッツ
[22903]2003年12月20日
G
[24281]2004年1月30日
いっちゃん
[24289]2004年1月30日
G
[24327]2004年2月1日
YSK
[24400]2004年2月2日
みやこ♂
[25322]2004年2月24日
千本桜
[25441]2004年2月27日
千本桜
[25699]2004年3月3日
千本桜
[26232]2004年3月15日
G

[2879] 2002年 9月 2日(月)19:00:15深海魚[雑魚] さん
両毛地区
異なる県での越境合併の可能性が高いのは、やはり両毛地区になりますかね。
元々は毛野国とかいう統一体だったらしいし。ところで、両毛地区というと
具体的にどの市が含まれるかな。個人的には、栃木県が栃木、佐野、足利、
群馬県が館林、太田、桐生、伊勢崎かと思います。前橋は少々苦しいかな。
何れの市も複数の鉄道が交錯する要衝で、求心性の高い突出した規模の街が
存在しない横並び状態というのが特徴的ですね。

取り敢えず越境で相互流動が大きいのは、距離的にも近い足利と太田かな。
群馬県主体の東武伊勢崎線は、足利市域で一時的に栃木県を通過する格好が
特徴的ですね。足利市駅周辺にどの程度の求心性があるのかは判りませんが、
往来がある程度制約されるであろう渡良瀬川の存在を考えると、江南地区の
太田志向はかなり大きいのかな、とも思われます。

足利の街が無ければ、東武特急 「りょうもう」 も、館林から東小泉経由で
太田に抜けたのだろうけれど。両毛線経由で上野―高崎に急行が走っていた
時代が懐かしい。
[2883] 2002年 9月 2日(月)22:23:12YSK さん
両毛地域
両毛地域は、もともと「上毛野」と「下毛野」の2つの「毛」の国をひっくるめた言い方でしたが、JR両毛線の開通等により、栃木、群馬両県にまたがった地域を指すようになりました。

現在では、国土庁・建設省等6省庁(当時)、栃木、群馬県により地域開発計画が策定され、栃木県4市町(足利市、佐野市、安蘇郡)、群馬県16市町村(桐生市、太田市、館林市、新里村、黒保根村、勢多郡東村、山田郡、新田郡、邑楽郡)の20市町村を指すのが一般的なようです。人口80万人あまり、山梨県や福井県に匹敵する人々が暮らしています。

現在では、この両毛地域で公共施設の相互利用や、スタンプラリー等のイベントが行われるなど、ある程度の一体的な取り組みがなされています。

両毛地域は、足利、佐野、桐生、太田、館林の5つのほぼ同規模の都市がほぼ等間隔に点在する、全国的にも珍しい地域のひとつといえますが、中でも最も中心性が高い都市は、足利だと思います。足利市の旧市街は渡良瀬川北岸ですが、現在では東武足利市駅周辺の地域の商業集積が著しく、土日には多くの購買客を集める郊外商業地域を形成しています。かつては、日本最初の繊維業の工業団地“足利トリコット団地”の敷地だったのですが、ほとんどすべてが郊外型の店舗群に変わってしまいました。

現在、法定合併協議会として佐野市と安蘇郡の協議会が、また任意の合併協議会で太田市外5町の協議会がそれぞれ組織され、合併への模索が続けられています。
私としては、前橋・高崎地域と、宇都宮地域との間で埋没している地域の中での中核都市の誕生を期待してしまいます。日常的に結びつきの強い足利と太田の合併などは、非現実的かもしれませんが、ものすごく期待してしまいます。

特急「りょうもう」ですが、しばしば利用する私としても、足利市を経由するのはちょっと遠回りかなと感じてしまうこともあります。現に、東京に出るのに熊谷まで出るという人も少なくないようです。
雑魚さんの鉄道網から地域性に迫るアプローチは、個人的には大好きです。いつも感心させられます。
[3012] 2002年 9月 11日(水)12:28:05G[わたらせG] さん
わが街の市町村合併の歴史
こんにちは、毎回楽しく拝見させていただいております。
昔から、地図をながめるのが好きでして、昨今の市町村合併には、大変興味をもっております。みなさま方は大変な知識をお持ちのようで、いつも関心させられております。
これからも、豊富な地理ネタ、地理の宝庫からいろいろ楽しみたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

落書きついでに、わが街(足利市)の合併の歴史が広報に載っておりましたので紹介しておきます(ローカルですみません)

足利市は、大正10年に市政を施行後、昭和26年の毛野村の合併を皮切りに、その後6回の合併を経て、現在の足利市となりました。
            合併町村名      人口(人)     面積(k㎡)
大正10.01.01  市制施行       35,632     9.40
昭和26.03.30  毛野村        63,750    23.10
昭和28.04.01  山辺村        78,362    29.99
昭和29.08.01  三重村・山前村   91,346    44.38
昭和29.11.01  北郷村・名草村  102,949    89.97
昭和34.04.01  富田村       106,940    99.84
昭和35.07.01  矢場川村の一部  110,703   103.56
昭和37.10.01  御厨町・坂西町   145,994   177.68

これらの合併により、足利市は栃木県下第2位の都市として、また、両毛地域の中核的な都市として、経済、産業、教育、文化などあらゆる面で中心的な役割を担ってきました。  とあります。

足利市は旧郡すべて合併しつくしており、当面は単独市の考えのようです。
[4536] 2002年 11月 5日(火)03:11:32G[わたらせG] さん
桐生市相生町
[4534]雑魚さん

東武桐生線、上毛電鉄の密着並行区間はさながら複線のようですが、さらにこの桐生市相生町は上毛電鉄の富士山下駅・天王宿駅、東武桐生線・わたらせ渓谷鉄道の相老駅、わたらせ渓谷鉄道の下新田駅・運動公園駅とさらには町内に駅こそありませんがJR両毛線もこの町内を通っており、いろいろな鉄道会社の鉄路がいり混じったのおもしろい地域です。過去において「西の西陣、東の桐生」といわれ一世を風靡した織都桐生の当時の勢いがうかがわれます。
[5137] 2002年 11月 20日(水)21:46:52YSK さん
群馬の謎に迫る(足利市は栃木県ですが・・・)
[5127]実は小学生さん
>その掛川城も東海大地震でドカドカーッって崩れてしまわないか
>最近、とても不安です・・・。
そうですか。逆に考えれば、そういったことが起こると惜しいと感じられるほど素晴らしいお城なのでしょうね。是非行ってみたいですね。
それはそうと、太田市はある意味では「城下町」です。それは・・・、富士重工業の「企業城下町」。町の経済のかなりの部分が、この自動車メーカーの主要工場が立地することにより潤っています。「太田市スバル町」なんて町名もできてしまいました。
みなさん、もっとスバル車買ってくださいね~。

>ところで、群馬県で思うことをいくつか挙げます。鉄道ネタですが。

>◎両毛線ってなんであんなにくねくねしてるの?
作られた当時の目的のためですね。1889(明治22)年に両毛線は全通したのですが(山手線が一周完成するのより早かったのです)、両毛線の役割は、当時日本の主要輸出品であった生糸や絹織物を横浜港へ効率よく運ぶことでした。ですので、伊勢崎、桐生、足利、佐野などの、機業(織物を織る産業のことです)の盛んな都市を結ぶ格好になりました。群馬県の冬の風物詩「上毛かるた」の「ま」の札を紹介いたします。

繭と生糸は日本一(最近斜陽化の一途ですが)

>◎東武伊勢崎線、館林-太田間は足利へ北上、また南下していて、なんかやだ・・・
>東武小泉線の方がまっすぐで好き!
そうですね。私も、特急りょうもう号で北千住や浅草に向かうとき、足利を通るのが遠回りであるように感じることがあります。
これは、やはり両毛地域の諸都市を結んでいくという発想があったためでしょうね。いまでこそ太田市と足利市は似たような人口規模ですが、足利市(隣の桐生市も)の市制施行は1921(大正10)年と早く、東武線は1925年までには完成しますが、この当時足利や桐生はこの地域ではずば抜けた中心性を持つ都市だったのです。
また、小泉線ですが、こちらは太田と小泉に勃興した軍需産業との関連がありそうですね。現在の大泉町には東京三洋電機の大工場がありますが、かつては太田市の富士重工業の工場敷地などとともに、「中島飛行機」という、軍用の飛行機を作る工場でした(その中島飛行機は戦後解体され、今の富士重工業に発展したのです)。そういった工業地帯を結ぶ動脈として作られたのではないかと私は考えますね。

>◎東武小泉線は東小泉で分かれてるけどなんで?
熊谷市から北の妻沼町まで、「東武熊谷線」という電車があったのを知ってますか。この路線と小泉線の支線を結び、利根川を渡る新線を作る計画があったのです。このことについては、雑魚さんをはじめ鉄な方々の方がお詳しいと思いますので、詳細は省きますが、結局実現を見ることはなく、熊谷線は廃止されてしまいました。利根川には橋げたまで完成していたのです。今は完全に撤去されてしまいましたが。なお、西小泉駅より利根川に向かって、路線とすべく整備された線路があったそうなのですが、今では「いずみ緑道」という散策ルートに変わっています。

>◎大泉って小泉と大川の合成地名だと思うけど、小泉町でもよかったんじゃない?
>大川って村だし。それに東武小泉線もあるし、駅名も全部小泉ってついてるし。
確かに町の名前が「大泉」で、駅名は「小泉」とは、紛らわしいですよね。とはいえ、町であろうと村であろうと自治体に違いないのだから、村だから名前を残せないというのはちょっと飛躍したご意見ではないでしょうか?大泉町発足の時の様子を私は知る由もありませんが、両町村が合併するにあたり、対等合併という意味を含めて、今の名前を選択したのでしょう。現在の大泉町は人口4万を超え、製造業の発達により財政力も豊かで、県内唯一の交付税を受けない自治体です。また、都市化も進み、小泉町と大川村がどのあたりで境を接していたのかは、今では全く想像できません。

>◎前橋と高崎って合併しないの?でも岡山と倉敷と同じように合併しなさそう。
私も前橋と高崎は合併しないと思うし、この2都市が並立して県央地域を作る姿こそが群馬の地域性なのだと思っています。
前橋と高崎については、拙書き込み[3396][3365][3357][2768]で書いていますので、こちらを参照してくださいね。
[5367] 2002年 11月 25日(月)04:41:29G[わたらせG] さん
妄想
[5233]YSKさん
>ところで、以前足利市長が太田市と合併したいなんて言っていたような気がしたのですが・

 ずいぶん前になりますが、9月15日広報には、「足利市の中期・長期的な考え方」として、中期的な目標として、合併協議を進めている佐野市、田沼町、葛生町との合併による人口30万人を超える中核市を目指した町づくり、長期的には生活圏を一つする両毛5市や両毛地域での合併により、両毛百万都市構想の実現を目指すことも一つの方法である。というような記載がありました。
 私が思うに、太田市と足利市が同じ県であればもうすでに合併していたのではないかと・・・?足利市は栃木県の南西端に位置しており、旧郡(足利郡、梁田郡)すべて合併済みで縁談相手はもういない状況です。ちなみに栃木県が例示した5つの合併パターンのうち4つのパターンで足利市は単独になっており、残る1つのパターンが佐野、田沼、葛生との合併なんですよ。なんで足利は栃木県なんだろ?と昔から不思議に思っております。いっそのこと、交通の要衝太田に県庁を置いて、”両毛県”なんてのはどうでしょうか?(勝手な妄想ですが・・・)
[5521] 2002年 11月 28日(木)02:53:30G[わたらせG] さん
[5480]雑魚さん
佐野ラーメンのお味はお口に合いましたでしょうか?行列待ちはたいへんでしたね。青竹打ちの麺は腰が強く、独特の食感(舌触り)で、スープはさっぱり系でしつこくなくほどよい感じが佐野ラーメンの特徴ですね。私も森田屋、太七、戸叶、赤見屋等々で何度か食べました。地元の友人によると、おやじの店、すり鉢がおすすめだそうです。(実をいうと私は、中華そば系の細い麺のほうが好きだったりして(^^;)

[5514]いなさん
日本ギャンブル列島、拝見していて高校の時の先生が、「両毛ギャンブル線」と言っていたのをふと思い出しました。高崎競馬、前橋競輪、伊勢崎オート、桐生競艇、足利競馬と公営ギャンブル全て揃ってます!なんですね。その先生の口癖は、「卒業したら、大学行って、花のお江戸でヨイヨイかぁ~」でした。懐の深い、味のあるいい先生でしたよ。元気かな~(懐)
[5850] 2002年 12月 4日(水)00:35:05YSK さん
両毛人(りょうもうびと)
[5845]Issieさん
>「両毛」と言った場合には,上(毛)野・下(毛)野両国にまたがる地域(どうも,
>上野・下野“全域”というイメージはないですね)をさすわけですが,
私も、両毛人の一人として、「両毛地域」とは、栃木・群馬両県の県際地域のことだと思っていたのですが、広辞苑では、「上毛野・下毛野の併称」という説明しかなかったのを見たものですから、意外に思いつつも、オリジナルな意味はそういったところなのかなという多少安易な気持ちから、上州・野州両方を指す意味でも使うようだ、とこの掲示板で書いたことがあります。

やはり、「両毛」が現在の、栃木・群馬にまたがる地域、というイメージで固定化するのは、現在のJR両毛線の開通以降のことではないでしょうか。同時に、この狭い意味での「両毛」は、機業地という等質性をもって成長したため、やがて「両毛地域」という言い方に変化し、栃木、群馬両県にまたがる地域を指す地域名称として成熟してきたといえるのではと考えています。

現在、行政上の両毛地域は、足利市、佐野市、安蘇郡、桐生市、太田市、館林市、新里村、黒保根村、勢多郡東村、山田郡、新田郡、邑楽郡の範囲(20市町村)とされています(この20市町村によって広域行政協議会がつくられています)。

両毛線沿線でも、伊勢崎や栃木、小山などは両毛地域には含まれないのですね。

>「東毛」「北毛」などという言い方をするの,もっぱら「上野」の方だけですね。
>つまり,「上州」という言い方とは別に「毛」も使われる。
西毛、中毛もよく使われます。東毛は、上に書いた両毛地域のうち群馬県の部分、中毛は前橋市と伊勢崎市を中心とした地域、西毛は高崎市、藤岡市、富岡市、安中市を中心とした県南西部、北毛は上記以外の、沼田市、渋川市、吾妻郡、利根郡他の地域です。

地域構造的には前橋と高崎が「中毛」を構成するとみたほうが自然なのかもしれませんが、群馬県民の意識では、「高崎は西毛の中心都市」という見方のほうが強いのです。このあたりが、前橋と高崎の関係を暗示しているようで、面白いですよね。

>そういえば,「野州」「東野(とうや)鉄道」のように「野」を使うのは,もっぱら
>「下野」の方でした。
自宅から車で20分もかからないところに、野州山辺駅(東武伊勢崎線)があります。やっぱり私は「両毛」の只中に暮らしているんだな。
[5852] 2002年 12月 4日(水)00:49:44ken さん
re:両毛
[5850] YSK さん
>「両毛地域」とは、栃木・群馬両県の県際地域のことだと

そもそも鉄道の両毛線の命名自体は、上(毛)野・下(毛)野両国を結ぶ鉄道という意味で始まっていたのかもしれないけれど、「両毛」という言葉が、他にあまり、上(毛)野・下(毛)野両国を指すような使用例がないもんだから、「両毛」と言えば「両毛線沿線」という感じが定着したたんじゃないですかね。

私の個人的印象としては「両毛地域」と言われると、栃木県も足利や佐野までは入るイメージですね。栃木はビミョー。
[9152] 2003年 2月 13日(木)18:33:07【1】YSK さん
両毛地域の枠組み
[9144]kenさん
両毛地域につきまして、格段のご配意を賜り、厚く御礼申し上げます。
関東平野の片田舎に過ぎない両毛地域を落書き帳の長年の懸案?にまでしてしまったYSKです。

両毛地区については、足利・佐野地域を群馬側に付けた方が良いのか、太田・邑楽・館林地域を栃木側に付けた方が良いのか、地元事情が良くわからないので、ちょっと、判断しかねてます。が、現県界のまま分けるのは良くないと思ってます。
そうですね。太田市と桐生市で合併話が進んでおりますが、私としては生活圏をファクターに考えればという前提でお話しますと、太田市は足利市と合併すべきと考えております(県またぎという事情や町の規模がそれなりにあるため両県議会が同意する見込みは無く、この合併は事実上不可能ですが)。
まず、桐生地域も両毛地域に入れてやってくださいね。

生活圏や、文化的な同質性、双方の県央地域へのアクセスのしやすさを総合的に勘案すると、足利・佐野地域を群馬県に編入するほうが自然に思います。佐野付近は、となりの栃木の生活圏との関わりから位置付けは微妙なところですが、少なくとも栃木よりは館林とのほうが結びつきは強そうです。
[9170] 2003年 2月 13日(木)23:05:45YSK さん
群馬県の地域区分講座
[9169]seahawk さん
なぜ群馬県は地域名に「毛」をつけるんですか?旧国名を上野と言ったのは分かるんですが。
[1017]に簡単に書いたことがあります。上野国(≒群馬県)と下野国(≒栃木県)は、かつて「毛野(けぬ)国」と呼ばれていました。後に、上毛野と下毛野に分割されて、「毛」の字が省かれて、上野と下野へと変化したのです。群馬県を指して「上毛」と呼ぶのはそのためです。そして、「毛」の字を基本に県内の部分地域は呼称されるようになり、東毛、西毛、北毛、中毛(「中毛」という言い方は最近はしなくなりつつありますね)という地域名称が誕生しました。

同じ毛の国、栃木でも「毛」を使いそうですが、栃木県では「野」の字を使います。「東野交通」とか、「野州」とかいう言い方は、栃木県のみに通用しますよね。

さて、次に地域区分ですが・・・

[9161]special-weekさん
東毛は伊勢崎か藤岡あたりになるのでしょうかね
群馬県民の感覚からは、伊勢崎も藤岡も「東毛」にはなりません。
#伊勢崎市は近年前橋市との結びつきを強めたためで、年配の方の中には、もしかしたら伊勢崎も東毛と感じる方もいらっしゃるかもしれません。

次のリンクの群馬県地図(上毛新聞HP内、合併情報)をご覧下さい。
http://www.raijin.com/news/kikaku/sichoson/index.htm

東毛:東毛広域、桐生広域
北毛:渋川広域、(利根)沼田広域、吾妻広域
西毛:高崎広域、(多野)藤岡広域、(甘楽)富岡広域
中毛:前橋広域、伊勢崎(佐波)広域
※( )内は、広域市町村圏の名称には含まれる地名

とするのが一般的でしょう。高崎市は県央地域とするよりは、「西毛」の中心都市とする見方が伝統的です。
ですので、高崎市と前橋市を含めた県の中央部を指す場合は「県央」、前橋市を中心とした地域を指す場合は「中毛」という使い分け方をするのだと思います。
[9175] 2003年 2月 13日(木)23:59:29【3】YSK さん
両毛地域とは/群馬県の自動車ナンバー
今日は本当に忙しいですね。群馬県民&両毛人冥利に尽きます・・・。

まずは、special-week さん、群馬における「毛」の謎、群馬県の地域区分などは[9170]に書きましたのでご覧下さいね。
伊香保も、北毛地域に入るんですよ。

さて、両毛地域については、[2883][5850]あたりに詳しく書かせていただきましたが、栃木、群馬がともに「毛」の国であったということから、もうお分かりですよね。2つの「毛」の国にまたがった地域、という意味です。

とはいいましても、「両毛」が現在の地域を指すようになるまでにはいくつかの段階を経ておりまして、まず「広辞苑」を参照しますと、上毛野(上野;上州)と下毛野(下野;野州)の併称とだけ書いてあります。つまり、当初は「両毛」とは現在の栃木県と群馬県とをひっくるめた言い方だったんですね。

その後、両方の毛の国を結ぶ路線として「両毛線」が敷設され、徐々に「両毛」が栃木、群馬両県にまたがった地域(両毛線沿線)を指す言葉に変化したものと思われます。そして、機業地域としての同質性などから一体的な生活圏が形成された足利、佐野、桐生、太田、館林の5都市を中心とした地域が両毛地域と呼ばれるようになって、現在に至ります。

とはいえ、長野原町の人でさえ「両毛」の意味をよく知らないというのですから、群馬県は「群馬」という名前でゆるやかに結合した、分散型の地域であることを改めて実感しますね。

参考:両毛広域都市圏総合整備推進協議会HP
http://www.sunfield.ne.jp/ryoumoukouiki/

[9169]seahawk さん
個人的な意見としては、県央と東毛の2つに分割する案がいいと思います。
地域研究家さんともども、私案をご支持いただき、ありがとうございます。

3つに分割するのであれば県央地区を「群馬」「上毛」「上州」のいずれか、北部は「赤城」「榛名」「群馬」のどれか、東部を「東毛」「太田」(YSKさんの街であると共に東部地区の中央にある理由から)がいいと思います。
県央地域は、いっそ「前橋高崎」にしてしまうのも案かもしれません。「尾張小牧」があるんですから、こんな群馬らしいナンバーがあってもいいんじゃないでしょうか。高崎が、前橋を先にするのは嫌だ、といっても自治体コード順ということで折れていただきましょう。

また、「太田」を推挙いただき、感動です。実は、太田市は「スバル」で知られる富士重工の発祥の地で、現在でも本工場があるなどの「自動車の町」ですので、「太田」ナンバーもやむを得ないかな、という地域感情はあると思っています。

前橋、高崎、草津のナンバーを使うのはタブーではないでしょうか?草津は特にかなりはずれの位置にありますね。伊香保などの別の有名な温泉地を無視して草津とつけてしまえば、群馬でナンバー戦争が起こってしまうでしょう。あと、滋賀県にも草津市があるのでそれを避けるというのも一つの理由です。
草津は有名ですが、地元の感覚ではあまりに北西に偏ってますね。気象予報区の二次区分でも「水上北毛」と「草津北毛」に分けていますからね。よって、私はまたしても4文字ナンバー「草津水上」を推します。

[9173]special-weekさん
県央を上州とするのもちょっと厳しいです。上州のイメージはやっぱり空っ風ですよね。空っ風は赤城山から吹きつける風ですから県央地域を表すにはそぐわないでしょう。
上州=上野(こうづけ)≒群馬県、すなわち上州は群馬県の代名詞なのですから、県央であろうが、草津であろうが、太田であろうが、群馬県内である限り「上州」です。
それに、「空っ風」はなにも赤城山の独占物ではなくてですね、冬季に日本海側から太平洋側に吹きつける北西季節風のことですから、赤城山からの「赤城颪(おろし)」、榛名山からの「榛名颪」、浅間山からの「浅間颪」もすべて「空っ風」です。もっと広域に解釈すれば、筑波山の「筑波颪」も空っ風になるでしょうか。
申し上げにくいのですが、何か、群馬県の地域構造をあまり的確に頭に描いていらっしゃらないようですね・・・。まあ、この間startさんが都道府県に行ったことがあるパーセンテージを算出していらっしゃいましたが、群馬県は関東地方中ではワーストでしたからね・・・。もっと群馬のこと、両毛のことを分かってもらえるように、YSK、頑張ります!

しかし、
それだったらむしろこの際、お隣栃木県と自動車登録の県境を取っ払てしまい、両毛ナンバーを創設したらいいんじゃないですかね?
という案は、私が密かに思っているウルトラC案です。群馬県東毛地域に、現「とちぎ」ナンバーの地域を合わせて「両毛」ナンバーができたらいいなと、不可能なこととはいえ、いつも妄想しています。
この場合、小山市と下都賀郡は両毛にはなじまないので、「宇都宮」ナンバーに変更することが必要かもしれませんね。

とはいえ、上州空っ風、かかあ天下に義理人情といったすさまじい地域イメージを与えられ一体性を指摘されがちな群馬ですが、以上にお話しましたとおり、実際はさまざまな地域性に溢れたエリアのゆるやかな共同体といった感覚の地域なのですね。
このことを考えますと、「両毛」ナンバーができないのであれば、無理に複数のナンバーに分けるのではなくて、そういった諸々をうまく象徴した県名「群馬」ナンバー1つでいくのが、実は一番群馬らしい道なのではないかな、と考えております。
[9473] 2003年 2月 19日(水)20:59:10【1】YSK さん
越県通学
両毛地域は、生活圏がボーダーレスですので、学区間入学に制限があるものの、その枠内をめいいっぱい使った公立高校の越県通学があるようです。

足利市内→太田高校、太田女子高校(太田市内→足利高校、足利女子高校もあり。昔はこちらのほうが普通だった)
桐生市内→足利高校(逆もあり。ただ、桐生女子は比較的山間部にあり、他市からの通学はたいへんそうです。足利女子は一応市街地内ですので、もしかしたら通う人もいるでしょうか・・・)

館林と佐野の間もけっこうありそうですね。

私立高校に関しては、ほとんどボーダレスですね。

ちなみに、太田市内から館林市の高校に通学する場合などでは、東武伊勢崎線を使うため、県内の高校に通っているのに日々県境を越えているということになりますね。
[9497] 2003年 2月 20日(木)09:22:41【2】YSK さん
足利は、両毛の雄
[9481]雑魚さん
足利学校に象徴される街のステイタスが作用したか、あるいは足利自体の地勢的な要衝性が高かったか、いずれにせよ後発の足利中改め足利高の拠点性が長らく高かった様で、
やはり、両毛地域で都市といえば足利、といったステイタスだと思います。今でこそどんぐりの背比べ的な同じような規模の都市の乱立状態となっておりますが、高度経済成長期の中頃(1960年代後半から1970年代の前半くらいまで)までは、足利は両毛の中では卓越した中心性を持つ都市だったと思います。 国勢調査ベースで太田市の人口が10万人を越えたのは1975年になってからのことで、対する足利市の場合、1950年代には既に人口は10万人を越えていたようです。また、人口規模の観点でも、現在でも足利市は両毛地域では最も多い人口を擁していますからね。

太田市でも、名家の多くの子ども達は、足利高校に通ったのだそうです。また、工業高校や商業高校などが各都市に設立される前までは、足利や桐生にしかこういった高校はなく、そういった面でも多くの通学者を集めていたようですね。

また、足利の中心性を象徴する存在が、「足利銀行」ですよね。不良債権を抱えてその存立が危惧されているとはいいながらも、栃木県最大の地方銀行です。これは、戦中の統制経済下における、いわゆる「一県一行政策」により県単位に銀行が統合された結果ですが、栃木県の場合県都宇都宮ではなく、足利市を基盤とした銀行がその座についたことは、足利市の往時の繁栄ぶりが伺えますね。現在でこそ同行の本店は宇都宮市の所在ですが、1965年までは本店は足利市に立地しました。

以上のようなことを考えますと、やはり、「足利は両毛の雄」なのだと思います。
[9537] 2003年 2月 20日(木)23:01:52【2】YSK さん
両毛線沿線の、歴史の古い都市群を歩こう
[9501]地域研究家さん
レスありがとうございます。ぜひ、足利に行ってみてください。私が以前松戸さんの書き込み答えて挙げた理想都市ベスト10に入れた、とても魅力的な町です。市街地もきれいな町並みに整えられていまして、足利学校、ばん阿寺の界隈は、とても美しいです。

「渡良瀬橋」には、情緒がたっぷり表れている気がしますが。
市街地に接して並ぶ3つの橋のうち、東の国道293号線となっている橋が「田中橋」、東武足利市駅の至近にあって最も古い歴史を持つのが「中橋」、そして一番西側にある橋が「渡良瀬橋」です。各地にある、赤ん坊の額にはんこうを押して子供の健やかな成長を願う神事が行われる浅間神社がある浅間山のたもとに架かる鉄橋で、地元での愛称はずばり「鉄橋」です。足利出身の母は、「渡良瀬橋」と言っても、どの橋のことかピンとこないようでした。夜には穏やかにライトアップされ、西側には渡良瀬川の流れを介して赤城山を望むことができます。冬が一番美しいので、そろそろラストチャンスが迫っている感じですね。 >雑魚さん

この、渡良瀬川から見た、足利の町。最も好きな風景の1つです。

また、以外に、両毛線沿線には、歴史の古い、町並みの美しいまちが多いんですよね。

まず、栃木。ここは巴波(うずま)川による水運で栄えた町で、現在でも川沿いに並ぶゆたかな町並みが保存されていて、ちょっとした情緒を味わえます。また、付近の大平山は紫陽花の美しいところで、天気がよければ関東平野を一望できます。焼き鳥と卵焼きと団子をセットで食べるのが、なぜかここの名物です。

次に、佐野。佐野厄除け大師とラーメンで知られるこの町。実は、人形の産地でもあります。私はこの町を歩いたことがありませんので、できれば、この町についてよく知ってそうな、でるでるさん にご登場いただければと思いますが・・・。
なお、東北道佐野藤岡インターチェンジが掠める丘陵、三毳(みかも)山は片栗の花の群生地があります。早春のたおやかな丘陵は、薄紫色の絨毯になるようです。

足利は紹介しましたので、桐生ですね。「西の西陣、東の桐生」といわれるほどの織物の産地で、中心市街地には、銘仙を織り成した工場群が並んで、この町ならではの情緒をつくりだしています。また、可住面積が20パーセントに満たない山の多いこの町。山間部には隠れたそばの名店があったりするようです。ギャンブル好きな人には、競艇の町、パチンコの町、と映るかもしれませんね。

最後に、城下町としての風格を色濃く残す町、館林をご紹介します。城沼、多々良沼、近藤沼などの豊かな湖沼に抱かれた、水と緑の町です。中でも、つつじの古木が見事に花をつける「つつじが岡公園(花山公園)」は必見です。また、昔話の「分福茶釜」のモデルとなった茂林寺もあります。最近では、宇宙飛行士向井千秋さんの出身地としても知られますね。文豪田山花袋の旧居の近くに、「向井千秋記念こども科学館」があります。

つつじに紫陽花の季節が、ベストシーズン。8月第一土曜日に開かれる「足利花火」も見ごたえがあります。
ぜひ一度、両毛の歴史の古い都市群を歩いてみては、いかがでしょうか。
[9569] 2003年 2月 21日(金)14:34:36BANDALGOM[地域研究家] さん
個性的な町並み
[9563]の書き込みの後、連続書き込みしようとしたのですが、変な英語のメッセージが出て書き込みできませんでした。

[9537]YSKさん
一番西側にある橋が「渡良瀬橋」です。各地にある、赤ん坊の額にはんこうを押して子供の健やかな成長を願う神事が行われる浅間神社がある浅間山のたもとに架かる鉄橋で、地元での愛称はずばり「鉄橋」です。足利出身の母は、「渡良瀬橋」と言っても、どの橋のことかピンとこないようでした。
「渡良瀬橋」の歌には、「八雲神社」が出てきますが、地図を見たところ、渡良瀬橋とは位置がずれていますね。
足利市駅の左手に山が迫っていましたが、それが浅間山ですね。
「浅間神社」は橋のたもとの「女浅間神社」と、山側の「男浅間神社」がありますが、「赤ん坊の額にはんこうを押して子供の健やかな成長を願う神事」はどちらで行われるのでしょうか。

夜には穏やかにライトアップされ、西側には渡良瀬川の流れを介して赤城山を望むことができます。冬が一番美しいので、そろそろラストチャンスが迫っている感じですね。
ライトアップされるのは、森高の歌の影響でしょうか。
(By大学の指導教授の影響で森高ファン・・・「この街」は十八番です)

栃木、佐野、足利、桐生、館林・・・人口規模が大きくなく、それでいてなかなか個性的な町が揃っていますね。
越境合併で50万都市に、という話が以前からありますが、この個性を考えると、周辺町村との合併に止めておくべきではないかと思いますね。

栃木は高1の12月、両毛線から東武日光線への乗り換えにだけ降りたことがあります。
「小京都」や「小江戸」と呼ばれる歴史ある町であること、明治の一時期県庁所在地であったことなどはその後に知ったため、この時はほとんど素通りでしたが、大平山が駅の間近に見えたので、意外と山が近いものだな、と驚いたものです。
栃木駅前は何もない印象でしたが、歴史的な町並みは新栃木駅の方が近いんですね。

他は富弘美術館に行く時に素通りしただけですが、このあたりの個性的な町並みも、一度は2泊ぐらいしてゆっくり散策したいものですね。
桐生は地図で見ても、市街地に山が迫っていますが、駅からの北側の眺めは甲府に似たものを感じました。
[9575] 2003年 2月 21日(金)18:25:43YSK さん
両毛レス
[9569]地域研究家さん
レスをいただき、ありがとうございます。
両毛は、際立った「おいしいもの」がない、ということを除けば、意外な散策スポットが多いものです。

「渡良瀬橋」の歌には、「八雲神社」が出てきますが、地図を見たところ、渡良瀬橋とは位置がずれていますね。
田中町(渡良瀬川右岸)と緑町(同左岸)にそれぞれあるようですが、おそらく歌われたのは足利公園にある後者のほうであろうと思われます。比較的新しい橋である緑橋の北詰に近い場所ですね。

足利市駅の左手に山が迫っていましたが、それが浅間山ですね。
「浅間神社」は橋のたもとの「女浅間神社」と、山側の「男浅間神社」がありますが、「赤ん坊の額にはんこうを押して子供の健やかな成長を願う神事」はどちらで行われるのでしょうか。
地元では、正式名称である「足利市駅」よりは「東武駅」と言ったほうが話が通じます。浅間神社の神事ですが、その名のとおりでして、男の子は男浅間、女の子は女浅間で、押してもらいます。6月1日だそうです。

また、お話しなかった足利市の名所をいくつか。
JR冨田駅付近にある「あしかがフラワーパーク」は、草花や花木が見事な公園です。日本で最も大きい藤棚があり、その壮観さはほんとうに圧倒されるようです。近くには、「栗田美術館」もあります。

栃木駅前は何もない印象でしたが、歴史的な町並みは新栃木駅の方が近いんですね。
歴史的な町並みが残る地区は、倭町・湊町付近の巴波川岸です。また、雑魚さんがお話されていた「県庁堀」は、市役所や栃木高校のある入船町付近です。嘉右衛門町付近にも「岡田記念館」があり町並みが残るようですが、やはり栃木市の歴史的町並みを訪れる時は、栃木駅のほうが近いと思います。確かに、駅前は町外れなので、これといった特徴はない地域となっていますね。

富弘美術館に行く時に素通りしただけですが、このあたりの個性的な町並みも、一度は2泊ぐらいしてゆっくり散策したいものですね。
紫陽花の時期は、大平山で紫陽花を見て、佐野でラーメン、足利学校を経由、勢多郡東村の富弘美術館を見学後、日光市の霧降高原を散策、という何とも豪華な日帰りバスツアーの観光バスに遭遇しました。みなさんも、このコース、辿ってみては、いかがですか?
[9961] 2003年 2月 28日(金)03:31:08でるでる さん
栃木駅は移築保存へ
[9619]拙稿(でるでる)
あの古めかしくも風格のある駅舎の方も、建て替えられてしまったのでしょうか?
[9668]YSKさん
久しぶりに栃木駅を通りましたが、東武線はすでに高架で営業を始めているように見えましたね

と、先日栃木駅についてのお話をしたところ、27日の読売新聞栃木県版に栃木駅が移築保存されるとの記事が出ていたので、驚きました。

その記事によりますと、栃木駅周辺の立体交差化事業によるJR両毛線と東武日光線の高架化に伴って、当初は栃木駅舎は解体され、新築される予定でした。ところが、昭和の初め頃(昭和3年、1928年)に建てられ、大きな半円形の窓や小さな屋根窓などが特徴のこの駅舎は、今も市民のシンボル的存在となっているとして、駅舎の保存や活用を求める市民の署名活動が起こったそうです。

この声に対して栃木市も「文化的に価値がある」としながらも、市の財政状況が厳しいために、駅舎の引き取り手を探していた所、地元の病院理事長が「古い駅舎がなくなるのは寂しい。何とかしたいと思った。人が集まる場所にして、街おこしに役立てば」と移築費用を出して引き取りたいとの名乗りを挙げたそうです。

今後、JR東日本から栃木市を通じて駅舎を無償で譲り受けたうえ、栃木市も一部費用を負担して、約3キロほど北にある栃木市運動公園に隣接する民有地に移される予定で、駅舎の移築作業は5月頃にも始まるとのこと。移築した栃木駅舎はその後、博物館や展示館として“第二の人生”を送る予定なのだそうです。

ということで、私の懐かしい高校時代の思い入れのある駅舎が、解体されずに保存されるとのことで、個人的にはとても嬉しい知らせでした。それにしても、あの駅舎を運動公園まで移送するのは、かなり大掛かりな作業ですよね。一体どのようにして運ばれるのか、とても興味のあるところです。

ところで[9668]YSKさん。
栃木市によく行かれたとのことですが、どうやらその理由も書き込みされているようですね

いやいや・・・(恥)。高校時代の初恋は、所詮片思いで終わってしまいましたので・・・それが理由という訳ではないです、多分・・・(涙)。栃木市内に友人がいたことと、部活の試合などで(先程の、市の運動公園が主な試合会場でした)よく栃木駅を利用していたのですよ、きっと(^^;。 あ~懐かしき青春時代・・・(懐)
[10041] 2003年 2月 28日(金)22:35:19ペーロケ[utt] さん
足利市の共存への試み
[9736]YSKさま
ショッピングセンターと既存の商店街が共存する試みについてですが、
どういった内容なのかは、私もよく知りませんね。
私も昔、本で読んだ程度なので、詳しくは覚えていませんが、そもそもコムファーストが、
足利市内での郊外店vs商店街といった小さな争いよりも、
太田、桐生、佐野などのライバル都市に対向して、足利市の集客力、競争力を
高めるためにアピタと共同で設立されたものだとか。。。
それゆえに商店街との関係も良好であり、共存するためのさまざまな企画
(両地域をつなぐ無料バスの運行など)がされているだとか。。。
その結果としてYSKさまをはじめとして市外からの買い物客を呼び寄せていますし、
他の商店街とは違った視点はむしろ先見性ですね。(もし違っていたらすみません)

しかし、複数のライバルが互いに意識しあって競争する関係として、面白い例ですね。
他にも三重県、山口県、静岡県などのように他の同規模分散型の都市構造を持つ地域でも、
同じような都市間競争が考えられそうです。
[14566] 2003年 5月 2日(金)23:16:51【2】YSK さん
「両毛」は、群馬と栃木を超えられるか?
[14443] グリグリさん
「両毛人」というのが、地域的に一般的な意識なのでしょうか。

「両毛人」というのがそう言う意味で都道府県の枠を超えるほどの醸成されたあるいは社会的に認知された意識なのでしょうか。
結論から申し上げますと、「両毛」という地域区分はどちらかと言えば一般的ではないでしょう。両毛地域でも、やはり県単位に地域を意識する人のほうが多いのではないでしょうか。

地域区分としては意識していなくても、実際の日常生活はというと、県境を越えた日常的な移動は当たり前。県境を越えて親戚がいる、という人も多く、栃木、群馬の県境に並ぶ都市たちは、相互に密接な関係にあるんですよね。
ですから、「両毛という地域区分もありじゃない?」と言われて、はじめて、「ああ、そう言えばそうかもしれないね」、という返答が帰ってくるような、そんな地域が「両毛」です。みんな、当たり前すぎて、あまり省みないんでしょうね。

以前、地域のイメージにマスメディアが与える影響は少なくない旨お話したことがあるのですが、天気予報や、新聞の地域面のエリアなどは、押しなべて県単位ですよね。また、その他でも、天気予報や会社組織の営業所の体系、車のナンバーや高校野球の代表校を選ぶ単位など、この国の地域単位はほとんどすべて「県境」を利用します。

また、地域の一体性の関連ですが、これは江戸期の都市システムの態様が今日のそれを形成しているように感じられます。大藩が大きなエリアを支配した、加賀藩、仙台藩、土佐藩、薩摩藩などは、大城下町が広大な地域を束ねる伝統が今に続いていて、石川県(金沢)、宮城県(仙台)、高知県(高知)、鹿児島県(鹿児島)といった、県単位の地域性を育みましたね。

一方、群馬県や栃木県などの関東諸県は、江戸期を通じて、広大な藩が置かれませんでした。江戸の防衛のためなのだそうで、天領や旗本領、諸藩の領地などが複雑に入り組んだ地域でした。ですので、地域ごとに中小の都市が発達し、それが横並びに並ぶという地域構造が形成されました。

高度成長によって、東京大都市圏がそれらの一部を飲み込み、北関東でも県庁所在都市が各県を統括する存在として成長して各県内の諸地域を束ねるようになっても、その基本構造が生きているのですね。

エリア派を自認する私といたしましては、一定の地域区分にこだわることなく、まっさらな目で、なるべく多様な視点から地域を眺める立場をとりたいですね。

群馬や栃木という区分も真実。両毛という区分も真実。ただ、メディアの趨勢を考えると、「両毛」のほうがやや分が悪い。だから、私はちょっと両毛の肩を持って、しきりにPRしているわけなんですね。
[14210] にて、
太田市の場合、群馬県の一部であることはそれほど重要ではなく、両毛地域として一体性のある地域の、一中心都市であることのほうがより意味があることなのだと思っております。
と申し上げましたが、これには「両毛」の分の悪さと、あまり認知されていない「両毛」というパースペクティブとを、私なりに表現してみたものです。

また、「太田市の場合、群馬県の一部であることはそれほど重要ではなく」には県央地域と東毛地域とのちょっとした確執のような意味合いも含めています。

一般に、東毛地域の人間は、あまり前橋を好意的に思っていない「ふし」があります。その逆もあって、前橋の人間は「東毛」をあまりいい目では見ていないようです。

ここには、東毛地域が製造業の集積地で、その経済的な基盤を軸に、独自に自らを成長させてきたという自負が絡んでいます。県の中心地域と互角に渡り合って、時には県に頼らず、じかに国に働きかけてしまう。「首都圏整備法」による「都市開発地域」の指定を、太田周辺地域は群馬県内で他に先駆けて受けて、工業団地の造成を容易にして、今日の基盤の基礎を作りました。現太田市長のスタンスも、この当たりの地域性が濃厚に反映されているように見えますね。「前橋や高崎は、支店経済といった、他律的な成長をしている。それに引き換え、太田は自らの努力で成長したんだ」そんな自負が。

一方、前橋や高崎も、自らの影響力を離れて時として独自の動きを見せて対抗しようとする東毛地域をよく思わない。県内における、こういった地域間の対立軸も、「両毛」という地域を実態的なものにしている要因なのかもしれませんね。

でも、やっぱり最後は「鶴舞う形の群馬県」。多様な顔を見せる、多様な地域の集合体として、なんとなく存在して、輝いてしまうのが、「群馬」。おもしろいですよね。

ですので、両毛地域にあっても、地域の意識の基本は「群馬」あるいは「栃木」なのだとおもいますね。日常的な生活圏としては「両毛」なんですが。
[14592] 2003年 5月 3日(土)13:12:44G[わたらせG] さん
両毛
[14588]Issieさん YSKさん
広報の市長のコラムに合併関連の話題があったのでかいつまんで

 昭和22年(1947),栃木県足利郡には、この狭い地域に17の市町村がありました。足利市、毛野村、山辺町、三重村、山前村、北郷村、名草村、富田村、御厨町、筑波村、梁田村、久野村、三和村、小俣町、葉鹿町、吾妻村、菱村です。
 昭和30年(1955)に、吾妻村が佐野市へ、昭和34年(1959)に菱村が桐生市へそれぞれ合併し、昭和26年(1951)から37年(1962)までに全部の町村が足利市に合併され、足利郡がなくなったわけです。
 この間、菱村が群馬県に編入するにあたり、群馬県からは矢場川村が編入されるわけでありましたが、村で議論があり、分村という形で全部が編入されませんでした。その代案として、現在の太田市高瀬地区を足利市へとの考え方があったようですが、それも結論に至らず、現状のままとなっています。現在でも高瀬地区の子供たちは、足利の山辺小学校と、山辺中学校へ市(県)を越えて通学しているのです。
 昭和34年(1959)に菱村が桐生市に合併の際は、1140世帯、5700人の人口移動がありました。しかし、矢場川は分村の結果、540世帯、3019人の足利市への流入ということで、合併による単純比較で申しますと、面積は約18k㎡、人口2681人、600世帯のそれぞれ減とらります。
 今頃になって群馬県の栃木県への対応を不満として議論することはできませんが、過去合併の歴史として私たちは認識しておく必要があると思い記述したのであります。

とありました。矢場川村の合併に関しては、他書籍によると、最終的には当時の自治庁による現地調査、調整斡旋が行われるほどの騒動が展開されたそうです。明治期の廃藩置県後の一時期、館林県が栃木県に所属していた時もあり、生活、文化などさまざまな面において、名目上の群馬県、栃木県という括りだけでは済まされない地域が「両毛」なのだと思います。


[14616] 2003年 5月 3日(土)21:01:16YSK さん
矢場川村(やばがわむら)について
[14588]Issieさん
旧矢場川村の半分が栃木県足利市へ編入されていたということ。
私も過去ログ[616][2878]で、この「越境分村」について書いております。

現在の住所表記でいいますと、

足利市:南大町(足利市街地に「大町(だいちょう)」がすでに存在していたので、もとの字名「大町」に「南」を冠しました)、 里矢場町、新宿町(あらじゅくちょう)、藤本町、荒金町

太田市:矢場町、植木野町、東新町の一部

が「旧矢場川村」の村域でした。旧村名にもなっている矢場川の流路が旧県境です。

県道足利千代田線(39号線)が同川を渡河する橋の名前は「両毛橋」。現在は足利市堀込町と同市藤本町との間にかかる橋となっていますが、地域の歴史がその橋の名に刻まれています。

Issieさんもご推察の通り、旧矢場川村の足利市に編入された地域は、隣接する足利市山辺地区と市街地が連担しており、また現在の県境となっている地域には水田が広がって市街地は一応途切れているので、旧県境よりもむしろ現県境のほうが、より地域の実態にあっているように感じられますね。

(旧矢場川村域における、20万分の1地勢図の旧国界と現県境との)ズレは地勢図には反映していませんね。
この点は、私も気づいておりました。旧菱村や旧飛駒村の一部にかかわる、旧国境と現県境とのずれは明確に記載されているのに、どういうことなのかな、と。地域住民として、国土地理院に確認を求めてみようかな?

矢場川村にあった小学校は、足利市に市立矢場川小学校として存続していますが、1つの中学校を維持する規模ではなかったため、「矢場川中学校」は廃止となりました。同小学校の児童は、卒業後隣接地区の山辺中学校へ通学することとなります。

太田市に編入された地域は、やはり独立した小中学校を設置するほどの規模ではなく、隣接する韮川地区の小中学校の学校区に編入されました。中学校は、太田市街地北東に接する現北中学校。かなりの距離の通学を強いられたことになりますね。現在は、韮川地区東部に「城東中学校」が開校しています。

行政地区でも、「矢場川」は「韮川地区」に編入されています。
[14618] 2003年 5月 3日(土)21:30:10【2】YSK さん
太田市高瀬町の越境通学
[14592]わたらせGさん
菱村が群馬県に編入するにあたり、群馬県からは矢場川村が編入されるわけでありましたが、村で議論があり、分村という形で全部が編入されませんでした。その代案として、現在の太田市高瀬地区を足利市へとの考え方があったようですが、それも結論に至らず、現状のままとなっています。
高瀬(たかぜ)地区は、旧村では市場村の一部地域(後、旧毛里田村の一部)でして、長らく大字市場の一部を構成していましたが、先に説明しました町名設定によって、「高瀬町」が発足しました。[9883]で紹介しました、5度も県境を越える県道が、この地区を通過します。

矢場川村の合併問題の打開策の1つとして、高瀬地区の足利市への編入が取りざたされていたとは初耳でしたね。

そもそも、群馬県の示した合併の枠組みの試案では、矢場川村は旧毛里田村と旧休泊村(それぞれ、現在は太田市の一部)とともに、「下山田町」として合併することが望ましいとされており(桐生市や大間々町の一体を「上山田地域」、太田市東半分の山田郡域を「下山田地域」とする呼称がありました)、この合併話は順調に進んでいました。しかし、旧休泊村がその後太田市への編入を希望したため、「下山田町構想」は頓挫し、旧毛里田村と旧矢場川村は、他自治体への編入(実質的には太田市への編入)を求められる事態になりました。3村で1つの町なら、と足利市への憧憬を抑えて「下山田町」への合併話を進めていた矢場川村にとっては、この頓挫は深刻な問題となっていきます。

そして、菱村の越境合併を受け、矢場川村では足利市への編入論が湧き上がったのですが、一方において太田市に近い地区から反論が上がり、相当に紛糾したと聞いております。最終的には、わたらせGさんご指摘のとおり、国の調停などを経て、現在の形におさまったものと思います。

現在でも高瀬地区の子供たちは、足利の山辺小学校と、山辺中学校へ市(県)を越えて通学しているのです。
これは、かなり伝統的に行われてきた特例で、太田市はこの越境通学のために、必要な経費を足利市に支出しています。本来の学校区は毛里田小、毛里田中なのですが、幾度か是正を試みたものの、調整がつかず、現在まで続いていると聞いたことがあります。

なお、高瀬町と隣接する市場町(旧大字市場の範囲)は、市外局番も「0284」、つまり足利局の管轄となっています。

以上のような事例、わが国では珍しい越境合併や越境分村がここでは3例も行われているという実情、これらを考え合わせますと、「両毛」という地域の特質がこういった部分に現れてきているのかもしれませんね。
[14644] 2003年 5月 4日(日)12:41:06【3】白桃 さん
累年国勢調査でみる太田市の人口推移(YSKさん千回記念)
 両毛地方、太田市の人口推移は、人口オタクの白桃にとっても風変わりで関心があります。IssieさんがHP、市町村変遷[群馬県]を立ち上げていただきましたので整理することができました。誠に有り難うございました。

太田市の行政区画変遷等
 1940年4月 九合村、澤野村、韮川村を編入
 1943年11月 鳥之郷村を編入
 1948年5月 市制
 1957年4月 強戸村、休泊村を編入
 1960年7月 矢場川村(栃木県境部を除く)を編入
 1963年4月 宝泉村を編入
 1963年12月 毛里田村を編入
 1980年   新田町と境界変更
 ここで、注目することは昭和の大合併期にまったく合併が行われていないことです。

調査年太田(全域)九合澤野宝泉鳥之郷強戸毛里田韮川矢場川休泊
19205,803--4,0664,5755,3593,5884,6537,9464,4513,7383,941
19256,830(47,055)4,0074,6925.5143,6374,7177,9274,5733,6544,105
19307,304(48,079)4,1214,8555,8153,7154,8057,8274,4873,6494,102
193510,451(53,313)4,4715,1246,3123,8854,8807,9224,9443,6354,288
194042,206(78,688)----11,0245,0385,6708,737--3,9874,936
194749,943(86,883)----12,356--7,31710,052--4,7285,927
195049,556(86,376)----12,464--6,95410,201--4,6675,933
195550,019(85,951)----12,234--6,7839,898--4,5355,787
196062,600(83,571)----11,536----9,430------
196587,898(87,902)------------------
197098,257(98,262)------------------
1975110,723(110,728)------------------
1980123,115(123,115)------------------
1985133,670(133,670)------------------
1990139,801(139,801)------------------
1995143,057(143,057)------------------
2000147,906(147,906)------------------
1920年当時、太田(太田町)はとりたてていうほどの都市ではなかったようです。当時、群馬県の市及び町で太田より人口規模が大きかったのは、前橋市(62325)桐生町(37674)高崎市(36792)館林町(14635)伊勢崎町(14295)富岡町(11074)沼田町(9768)藤岡町(9056)渋川町(9017)尾島町(7863)安中町(7754)大間々町(7141)新町(6908)吉井町(6295)室田町(6271)大胡町(6147)と、16を数えます。後に太田市に編入される毛里田村よりも少なかったのですが、1935年には1万人を超える都市となり、現在の太田市を構成する旧自治体の中でトップの座につきます。この間に周辺農村部はさしたる人口増加をみせておりませんので、おそらく太田に都市的機能が集積し名実ともに地域の中心となったのではないでしょうか。それでも、渋川(13502)沼田(14012)富岡(12840)よりも人口は少なく、伊勢崎(23588)の半分にも満たない程度だったのです。第一次の合併により、1940年には市になってもおかしくない人口(42206人で伊勢崎市40004人を超える)を擁することになりましたが、この間の人口増は合併による算術合算的なものでないことは一目瞭然です。また、この間に宝泉村はじめ周辺部もかなりの人口増を示しております。後の合併は必然的なものであったのかもしれません。戦後、そして高度経済成長期(前期)にも太田市の人口は停滞しております。再び増加しだしたのは、高度経済成長期も後半で、高度経済成長期の終焉である1975年以降も着実に伸びております。
 太田市の人口推移を考察するにあたり、中島飛行機と富士重工の話を入れないのは無謀なことです。が、そのあたりはYSKさんの過去ログにおまかせして、白桃は単に人口推移の現象面に絞り報告いたしました。

 禁酒、禁煙と同じ感覚で書き込みをしばらく我慢しておりました。また、当掲示板において最近非常に不愉快なことがあり、それにも我慢してきました。もう我慢の限界です(笑)。ちなみに、白桃の禁酒、禁煙の誓いは24時間もったことがありません(情けナカ)。それに比べれば、ということでお許しください。
[14700] 2003年 5月 5日(月)11:05:17【1】YSK さん
太田市の都市構造
[14697]白桃さん
レスをいただき、ありがとうございます。太田市など、話題になることはおよそないと思われるくらい、特徴のない工業都市ですので、いろいろと関心をお持ちいただけると、私としましてもとても嬉しいです。各地区の位置や特色などをご紹介しつつ、ご質問にお答えできればと思います。

旧太田は、第一次合併で編入した地域(九合、沢野、韮川)の各旧村の半分ぐらいの人口しかないこと。これには驚きました。もう、このあたりは市街地が連続しているのですか?
[14612]に書きましたとおり、旧太田町の範囲は、住所で言えば、東本町、本町、西本町、金山町、浜町、スバル町、八幡町の一部、金山丘陵一帯(東今泉町・吉沢町・上強戸町・強戸町・長手町・東金井町のそれぞれ一部;かつての「大字太田」の範囲)でした。

県道前橋古河線(県道2号線)に沿った東本町~本町~西本町に連なる市街地が、太田の旧市街地(旧太田町の市街地:例幣使街道に沿った宿場町)で、金山へ向かう県道が分岐するルートから、金山南麓の大光院まで続く市街地が、呑龍様の門前町ということになります。大光院があるのも旧太田町の範域になります。

で、この太田の市街地なのですが、地元の人間としてお話するのは偲び難いのですが、誰の目にも、さびれきってるように見えるのではないでしょうか。県外の友人に市街地を見せたところ、「これが、町・・・???」と言われてしまいました・・・。かつては、映画館4館をはじめ、多くの飲食店や商店があってそれなりに賑わっていた町だったのですが、モータリゼーションの勢いは恐ろしく、自動車での購買活動が当たり前の現在、かつての活気は失われて久しいようです。また、人口の停滞から人口の高齢化も着実に進行しております。

現在、東武線太田駅周辺では、線路の連続立体交差事業と、それに付随した区画整理事業が行われようとしており、それによって家を追われる高齢者向け及び若者を中心市街地へ惹き付けるためののマンション2棟が完成しましたが、先行きは以前不透明です。

旧太田に変って、現在の太田市の中心的な商業地を擁するのは、九合地区と沢野地区ということになろうかと思います。九合地区は、太田駅南口から大泉町との境にかけての一帯で、戦後に開かれた新市街地「南一番街」と、国道407号線沿線のロードサイド型の商業地が主な商業地です。南一番街は、戦後水田しかなかった地域を区画整理して誕生した新市街地なのですが、やがてここもロードサイド型の商業地との競争に敗れ、現在では歓楽街へと変貌し、南一番街を象徴してきたアーケードも、痛みきって崩壊する懸念があることから、現在は撤去されてしまいました。

沢野地区は、太田地区の南、九合地区の西側で、国道407号線より西がその範域といってよいですね。国道354号線との交差点(高林交差点)が、地域の中心で、大泉町と連続した市街地を形成しています。太田では最近まで人口増が続いてきた地区で、今年度より新たに小学校1校が開校しました。

このように、商店街という目で見た場合、太田市にはめぼしい中心市街地はない、というのが適切な表現なのかもしれません。さびれた中心市街地があって、そこからの市街地が一応九合や沢野、市街地北東の韮川地区、沢野地区の西側の宝泉地区につながっていますが、商業の中心は、ロードサイド型の店舗です。さらには、最近オープンした佐野のイオンやプレミアムアウトレット、新田町のジョイフル本田、太田と足利の境に位置するカンケンプラザなどが郊外で集客をみせており、購買行動は分散化の一途を辿っていますね。

さらに、国道122号線と、太田市街地の環状道路とが交差する石原町・下小林町の一帯に、イオンが進出することとなり、現在工事が始まりました。今秋オープン予定の「イオン太田ショッピングセンター」は、北関東最大の規模となる見込みで、太田周辺地域の商業地図は大きく書き換えられることとなると思われます。

なお、韮川地区と宝泉地区の人口増は、主として地域内に造成された団地や、スプロール的に建設された集合住宅が、人口を吸収したためのもので、中心市街地というよりは、住宅地としての色彩が強いですね。

休泊地区は太田市の南東、東武小泉線竜舞駅周辺、毛里田地区は市の北東、国道50号線が通過する一帯で、北関東道の太田インターチェンジができる予定です。

鳥之郷地区は旧太田の北西に接し、東武桐生線三枚橋駅周辺、強戸地区はさらに北西、同線治良門橋駅周辺となります。
[14720] 2003年 5月 5日(月)20:08:39千本桜[軒下提灯] さん
両毛地域の都市間競争/最高路線価
いざ対決!ライバル都市といえば、やはり両毛地域の都市群に目が向きます。今回は両毛5市(桐生、太田、館林、足利、佐野)の平成14年分最高路線価の対決です。

都市最高路線価の場所1平米あたり評価額
足利市通2丁目県道桐生岩舟線125,000円
太田市飯田町南一番街120,000円
桐生市末広町県道大間々桐生線105,000円
佐野市若松町県道佐野停車場線100,000円
館林市本町県道館林停車場線90,000円

最高路線価の高い順に並べると、足利、太田、桐生、佐野、館林になります。両毛地域の都市序列はこれで妥当でしょうか?判断がむずかしい。地価に関しては素人ですが、桐生の最高路線価105,000円を、110,000~115,000円程度に修正してやりたいですね。現行の最高路線価ですと、桐生は足利、太田クラスじゃなくて佐野クラスの都市のイメージです。確かに斜陽都市ですが、そこまで落ちてるかな?と疑問に感じます。

両毛地域で最も評価額が高いのは足利市通2丁目の旧国道50号。1平米あたり125,000円。この街路は美しく整備されていますが、すっきりし過ぎですね。賑わいまで削ぎ落してしまったのかな? 人が歩いていません。市域人口16万の市の中心街にしては、人の臭いが足りないように感じます。もともと足利の都市圏人口がそれほど多くない上に、アピタなど郊外へ賑わいが移行したのが原因でしょうか?

このように最高路線価に基づく都市比較は、時として信じ難い結果を出したりしますから要注意です。例えば市に至らない徳島県の鴨島町や池田町の最高路線価が、足利、太田を上回っています。もし最高路線価の高額な都市が大きい都市なら、足利より徳島県の池田が大きな都市になります。どう考えても変でしょう。

徳島県、高知県の小さな町の最高路線価が、どうしてあんなに高いのか私は理解できません。それと同時に、両毛地域の都市がどうしてこんなに安いのかも理解できません。どなたか、足利、太田、桐生、佐野、館林の最高路線価は妥当か? 両毛地域の都市規模序列は足利、太田、桐生、佐野、館林の順で妥当か? お考えをお聞かせ下さい。都市規模とは漠然としすぎていますから、都市の中心性&拠点性に絞ってみましょう。
[14731] 2003年 5月 5日(月)22:34:07【1】YSK さん
Re:両毛地域の都市間競争
[14720]軒下提灯さん
最高路線価の高い順に並べると、足利、太田、桐生、佐野、館林になります。両毛地域の都市序列はこれで妥当でしょうか?
足利市が、商業面において総合的には最大なのではないかと思います。
確かに、足利市は自らの商圏に包含しする確固たる自治体を周囲に持っているというわけではないのですが、伝統的な商業中心地として、両毛地域から広く購買客を集めているように思います。ご指摘のアピタ周辺の休日の賑わいは、それをよく示していると思います。

ただ、両毛地域の場合、抜きん出た都市がなく、それらが互いに鼎立している地域性をむしろ強調すべきで、これらの都市の序列は、この地域を語る上ではあまり重要なことではないと考えています。

また、早い時期(1970年代中葉あたり)から自動車利用がほぼ日常的となっている両毛地域においては、旧市街地の停滞と、郊外における大型店舗の発達という構図が早くから進んでいまして、一般的な都市における中心市街地と比較して、集客力に劣るといったことも、都市(中心市街地)の比較を難しくしている要因であると思っています。

徳島県、高知県の小さな町の最高路線価が、どうしてあんなに高いのか私は理解できません。それと同時に、両毛地域の都市がどうしてこんなに安いのかも理解できません。
都市の規模と、中心街地に対する評価とは、必ずしも比例しないということなのでしょうか。両毛地域の場合、購買行動が分散しているために、中心市街地がそれほど企業活動上有利な場所であるとは限りませんので、相対的に最高路線価が低く抑えられているのではないでしょうか。反対に、四国の町の場合は、郊外地域に商業地がそれほど形成されていないために、中心市街地が企業活動の上では相対的に有利な土地柄となっていて、それが地価に反映しているのではないかと思われますね。

このように、両毛地域の各都市は、確固たる中心市街地がないまま(中心市街地はあるが、その影響力が相対的に弱いために、としたほうが適切ですね)郊外に店舗が充実して購買行動が分散し、結果都市構造も極めて分散的なかたちとなっています。

こういった中心市街地、郊外の商業地を総合した形であれば、都市間の比較はできると思いますが、私の場合、やはりそれは相対的な問題としてみなし、両毛地域は似たような中心都市が並びあって成立している地域である、という部分をより重視する立場をとりたいですね。

何かちゃんとした答えになっていないかもしれませんね。
[14744] 2003年 5月 5日(月)23:57:03【1】YSK さん
足利市と佐野市
[14736]雑魚さん
レスありがとうございます。

私が、[14731]にて、
伝統的な商業中心地として、両毛地域から広く購買客を集めているように思います。
としたのは、足利市全体が購買客を集めているという意味で書きました。誤解を招きやすい言い方をしてしまいましたね・・・

足利の中心街は渡良瀬川の北側となる為、東武沿線域からですと、渡河地点が限られ某かの隘路になるのではないか、という印象があります。その辺り、実勢はいかがでしょうか。
私が、足利の郊外で商業地として連想するのは、渡良瀬川にかかる田中橋以南の国道293号線沿線の一帯ですね。ここは、中核的な商業施設であるコムファースト(核となる店舗が「アピタ」です)を中心に、ロードサイド型の店舗が軒を連ねておりまして、休日ともなりますと、慢性的な道路渋滞が起こります。現在、足利の商工会議所も、この地区にあります。

ご指摘の国道50号線沿いも、店舗が多いですね。

なお、あえて書かなかったのですが、先のアウトレットやイオンの進出などによって商業的な集客力を高めつつある佐野市の存在も、見逃せません。

[14740]uttさん
都市規模を考えたら、むしろ佐野市ががんばっているような感じがしますね。
という評価も頷けるところです。

また、[14700]にも書きましたが、イオンは北関東最大のショッピングセンターを太田に建設中です。

こうなると、足利の商業基盤も一段と厳しいものになってくるのかな、という感も否めませんね。

とはいいながら、こういった商業地図の再編は、両毛地域の場合、いずれも旧市街地を度外視したところで展開していまして、これがさらなる自家用車利用の拡大や、無秩序な市街化の進行等を招来する懸念もありまして、何ともいえないところですね。
[14995] 2003年 5月 9日(金)22:11:46【2】YSK さん
太田市レス
[14988]TNさん
今日は、YSKさんを育んだ街に御邪魔させていただきました。
なんと!ご連絡をいただければ、仕事を抜け出してでも、いろいろとご案内いたしましたのに。
それにしても、何の特徴もない、見所など何もない、こんな町に・・・

でも、ようこそいらっしゃいました。

駅の北西に高山公園という小高い丘があり、石段を200段程登ると、赤松生える山頂に高山神社。
ふもとの道路はよく通過しますが、実は私は高山神社に行ったことがありません・・・(恥)。
春には桜がとてもきれいです。

木々の隙間からは北に小高い山、南に太田市街が展望できます。
金山丘陵の一部ですね。金山は、太田市の中央に広がり、まちのシンボル的な山となっております。山頂には新田神社があり、戦国期には難攻不落の山城として機能していました。最近、山頂一帯に石垣や井戸などが整備され、往時を思わせる景観になりました。また、新田氏を祀る新田神社もあります。
ふもとには、「子育て呑龍(どんりゅう)」として知られる古刹、大光院があります。徳川家康によって建立され、住職として入った呑龍上人が、親のない子供を多く引き取って育てたことから、子供の健やかな成長を願う多くの参詣者を集めるお寺となりました。

小学校の前にある角のタバコ屋から振り返ると今登った高山神社のお山と民家の瓦屋根が落ち着いた佇まいです。
太田市の旧市街ですね。小学校の北の通は「北裏通り」と呼ばれ、この通より南側、県道に沿った一帯がかつての宿場町です。モータリゼーションと高齢化に悩む旧市街地は、人通りも少なく、私も滅多にいくことがありません。その割に道路は車で溢れており、どこかアンバランスな感じです。

どうか、この次お越しになるときは、私に声をかけてくださいね。

#実は、私は高校になるまで、太田の町へまともに出かけたことはありませんでした。
両親が共働きのため、幼少期は日中足利の親戚に預けられていることが多く、また買い物も専ら足利で、近所に友達はいず、足利で遊ぶことが多かったんですね。太田市に生まれながら、太田の市街地の事情はほとんど理解していないのです。

つまり、私は「太田市」に住んではいますが、「太田」の人間ではないのですね。

そして、私が足利に並々ならぬ憧憬を寄せる要因は、こんなところにあります。
[20686] 2003年 10月 6日(月)14:19:38YSK[両毛人] さん
るるぶ両毛
ここで、一息つきます。

実は、何年か前に(何年前かは忘れました)、「るるぶ両毛」が発刊されたことがあります。今から5~6年前に、栃木県と群馬県とにまたがった両毛地域を一体的に整備し、北関東における第4の中核都市県を形成しようという、国土庁(当時)を中心にした地域整備計画が策定されたことがありました。

その取り組みの結果、両毛20市町村と栃木、群馬両県によって広域行政の推進協議会が結成され、地域住民であれば、同じ条件で域内の公立施設を相互利用できるようになったのですが、そういった広域行政推進の取り組みの1つとして、両毛をアピールする雑誌として、「るるぶ両毛」が発売されたのでした。

1年限りの限定版だったのか、その後刊行されておりませんが、私に両毛を気づかせてくれるきっかけの1つとなった雑誌だけに、懐かしい思いですね。

[20685]にも、年号がつかない「能登半島」や「東三河」といったタイトルが見えますが、もしかしたらこの両タイトルも、公的な機関によって発刊された限定版なのかもしれません。能登半島など、能登空港が開港し、そのアピールのために、石川県や地元自治体がJTBに働きかけて発行した、なんてストーリーが考えられそうです。真偽の程は定かではありませんが・・・。

続き(近畿と九州・沖縄)は、今夜にでも公表いたします。
[20992] 2003年 10月 13日(月)15:36:17ニジェガロージェッツ さん
両毛地方へ行ってきたよ
久しぶりの書き込みです。新規の常連色をご登録された方々が大挙加わり、随分ここの雰囲気も変ってきました。
新規に自分色を得られた皆様、おめでとうございます。そしてグリグリさん、ご同慶の至りです。

さて、[20905][20946]で両毛人さんからご紹介がありましたが、この土曜、日曜日と両毛地方をご案内頂きました。
両毛人さん、運転とご案内に加え数々のお気遣い、本当にお疲れ様でした。

初めて群馬県と栃木県を訪れ、小生の未踏県は沖縄、鹿児島、静岡、山梨、茨城、福島の6県に減りました。また、初めて黒い出汁の饂飩を食してみて、その美味に舌鼓でしたが、そんなことはさておき、両毛で感じたことを少々。

まず、「両毛」の定義ですが、てっきり群馬県+栃木県の総称だと思っていました。もちろん、広義的にはそのような意味合いもあるようですが、一般には両県の県境に跨る一体性のある地域を差し、その範囲は[16634]両毛人さんの挙げておられる市町村に該当するようです。
その中にある「両毛5市」と言われる都市群、それぞれに個性的な魅力ある都市に感じました。
中でも軒下提灯さんの仰る「キリウハタオリスク」こと桐生市は、その名の通り機織業で発展した古い都市で、その中心街の商店街の規模と古い佇まいには、今でこそ商業核としての衰退が見受けられたものの、30年以上前は相当な繁華街だったことが伺えました。
一方で軒下提灯さんの仰る「アシカガニヒキイルスク」こと足利市は、古くから栄えていた都市に、巧く足利尊氏公に肖っての町興しが当たったのか、随分と街並みの整備された観光都市のように映りました。それにしても史跡・足利学校に至る街路の名称が「学校様通り」とは恐れ入りました。
あと、軒下提灯さんの仰る「サノスク」こと佐野市は、「佐野ラーメン」(小生初めて耳にした銘柄です)の街として有名だそうですが、所謂「佐野ラーメン」なるものは両毛地域の一般的なラーメンで、何も佐野限定のものではなく、佐野市が巧く町興しに担いだものだとか。
最後に軒下提灯さんの仰る「オオタビンスク」こと太田市は、その市域の中央に「金山」という独立峰があり、ここが広大な関東平野の北端にあたるとかで、東武の太田駅南口に突き当たる広々とした道路の両側の繁華街は、当に関東の「行き当たり」的な雰囲気で、感慨に耽りました。
[22903] 2003年 12月 20日(土)07:57:23G[わたらせG] さん
[22884]KMKZさん
記憶が曖昧なのですが、A学校の近くにA氏の邸宅跡に建立されたお寺がありますが、堀に囲まれていたのは、お寺の方だったような。
そうですね。10数年前までは、足利学校にはお堀はありませんでしたね。東小学校移転の際、発掘調査終了の後、復元された部分(小学校の跡地)にお堀もできたようです。ですから、足利学校の南側と西側にはお堀はありません。KMKZさんのご記憶の通り、「大日様」(家では「だいにっつぁん」とよんでますが)はず~っと昔からお堀に囲まれておりました。

私の両親は、このお寺のそばに住んでいたことがあるそうです。
家富町ですかね?「大日様」「学校様」付近の町は石畳になり、きれいに整備されてますよ。なんか 小綺麗に(おとなしく)なり過ぎて活気がないのが気になりますが・・・
[24281] 2004年 1月 30日(金)10:58:02【5】いっちゃん さん
みかもの月
[24277]ペナルティキックさん
栃木県内での両毛地区の範囲が何処までになるのかを教えていただきたいです。
Gさん宛の質問に対して横ヤリを入れるようで恐縮なんですが、
まずは[2879]で深海魚さんが、[2883]で両毛人さんがおっしゃられているように、
自治体で線を引くのであれば、
足利市、佐野市、田沼町、葛生町の2市2町を指します。
これに異論がある人はたぶんいないでしょう。
そして、拙稿[23984]にも書きましたが、(新)みかも市や栃木市は下都賀地区となります。
しかし、[24016]における両毛人さんの
「地域」といいますと、自然発生的に作り出されたエリア、というイメージなのですが、「地区」という用語には、境界によって厳格に区画された範域、というニュアンスを感じます。
と言う言葉をお借りすれば、
「両毛地域度」は自治体の境界だけでは括れないと思います。
そこで、小山在住の私の目から見ての「両毛率」を最近流行りの手法で表すと、

足 利佐 野田 沼葛 生藤 岡岩 舟大 平栃 木小 山
10080807040301010

という感じです。
非両毛率の部分は「下都賀率]とすればいいのでしょうが、
さらに「宇都宮率」や「茨城県西率」が加わってくるのでとりあえず「両毛率」だけにしました。

この点でいえばペナルティキックさんがおっしゃる通り、
みかも市(藤岡・岩舟・岩舟)は境界と言えると思います。

Gさん、みやこさん、両毛人さんのご意見もお伺いしたいですね。

ただ、佐野に相次いでできた巨大商業施設の影響もあり、
両毛地区に目を向ける人が増えてきているのは事実でしょう。
私なんかも、最近休日に家族で佐野に行くことが増えてきましたしね。

ところで、「みかも市」って現3町の中心部があれだけ離れていて
上手くやっていけるのかどうか心配です。
そうそう、小山市に本社がある和菓子チェーンで売っている
「萩の月」もどきは「みかもの月」です。

※表を修正
※ミスタッチで何度も修正する羽目に・・・
※ペナルティキックさん、修正しておきました。
[24289] 2004年 1月 30日(金)17:43:24【1】G さん
行道の月
[24277]ペナルッティキックさん
[24281]いっちゃんさん
両毛地区の範囲
私も、いっちゃんさんのおっしゃられている通りだと思います。「両毛率」の表、解りやすいですね。両毛人さんのページすごく参考になりますよ。(必見)
http://www.chiikibun.com/ryomo/ryomo2.html

おまけ
こんなのもありました。
http://www.macpro.co.jp/acci/
の中の”両毛広域都市圏と都道府県データとの比較”
[24327] 2004年 2月 1日(日)00:34:48【1】YSK[両毛人] さん
りょうもうWalker
[24281]いっちゃんさん
両毛地域を話題にしていただきまして、ありがとうございます。
両毛度を考えるにあたり、考えなければならないのは、「そもそも両毛地域がどのような地域的なまとまりでもって認識されるのか」ということではないかと思います。

拙い絵で恐縮ですが、私のページ(↓)に両毛の地図を出しています。
http://www.chiikibun.com/ryomo/ryomo.html

見ていただいてお分かりになると思いますが、両毛地域は、第一に渡良瀬川流域を主な範域としていること、第二に、東武伊勢崎線や両毛線、わたらせ渓谷鉄道線によって結び付けられている地域であることが見て取れますね(というか、川と鉄道しか基本的に描いてませんが・・・)。

また、主要都市間の生活行動や人口移動も密な地域でして、自然環境的にも、日常生活圏的にも一体的な範域を形成している、それが両毛地域が1つの圏域として認識されるキーであるわけです。

足利、桐生、太田、館林及び群馬県下の市町村においては、人口流動的な範域はほぼ両毛地域内に収まっていますが、佐野周辺では、日常生活圏的に、岩舟町、大平町、藤岡町あたりからの人口の流出入も無視できない量が把握されますので、この付近が佐野と栃木とのゆるやかな緩衝地帯とみなされると考えられます。

以上、長々と書いてしまいましたが、私の結論としても、いっちゃんさんの説と同じとなりました。

[24242][24289]Gさん
拙ページを引用いただきまして、ありがとうございます。また、興味深いデータありがとうございます。これほどのポテンシャルを持つ地域ながら、県境にまたがるせいで、その特性が相対的に目立たないのですよね・・・。足利市など、「栃木県第二の都市」と紹介するより、「両毛最大の都市」としたほうが、はるかに的を射た表現だと思うのですがね・・・。

なお、ご紹介いただきました、両毛地域のプロフィールページですが、ちょっと写真を追加しました。昨日撮影してきたばかりです。

お礼とお知らせ
拙ホームページですが、29日からタイトルが変更になっています。メンバー紹介の部分を変更いただきまして、ありがとうございました。
[24400] 2004年 2月 2日(月)09:55:48みやこ♂[みやこ] さん
岩舟町は両毛地域?
[24281] いっちゃん さん
[24327] 両毛人 さん
両毛地区のお話ですが,三毳山が東の端であろうことに疑問の余地はありません。ただ,今度できる「みかも市」のうち,現在の岩舟町のかなりの部分は江戸時代,佐野庄だったのだそうです。
つまり,岩舟町の北西部の「小野寺」。それから,岩舟町中心部近くの「下津原」。ここは両方とも佐野庄だったと。「庄」と「郡」の関係は,私には解りませんが,教えてくれたその人曰く「まぁ,同じ安蘇郡だと思っていいよ」だそうです。

道理で大平町の富田(大平下駅前)出身の友人は明らかに違う言葉をしゃべっていますが,岩舟駅前の先輩は,かなり佐野弁に近い印象なわけですね。なお二人とも,ジモティー(生まれながらの地元民)です。
岩舟駅から佐野駅までは西に約7kmくらい,大平下駅までは東に約3kmなので,単純に距離だけ見れば岩舟は大平町寄りの言葉を使っても良いのでしょうが,倍以上の距離があるのにもかかわらずこの先輩が「両毛語」を話しているということは,あるいは「両毛地域」の境界はもう少し東進するかも知れません。無論,はっきりとした線引きは不可能だと思いますし,その先輩だけが特別なのかもしれませんし。とはいえ,岩舟町の両毛度は,案外高いのではないでしょうか。

ところで岩舟町の奥(栃木市になっちゃいますけど)に源流を持つ三杉川は,なぜか両毛線のところで流れを急に西に変え,三毳山北方を迂回して再び南流しています。つまり岩舟町の北半分に降った水は,佐野市に流れ込んでいるのです。実に人工的です。この理由は「その人」にも解らないそうです(もしかしたら,三毳山西側にあった越名沼に水を集中させて氾濫原とし,三毳山の東側になる旧河道の下流を農地開発したのかもしれません.)。
その無理な工事のおかげで(?)十分な縦断勾配がとれなかったためか,三杉川が線路をくぐるところは両毛線最大の難所となっています。大雨が降るとすぐ水が溢れて電車が通れなくなってしまうのです。佐野・岩舟間は両毛線唯一(前橋あたりはどうでしたか)の複線だというのに。ちょっと余談でした。

高校生のころ,電話の声から誘拐事件の犯人像を推理するテレビを見ました。言語学者の金田一さんが解説していたのですが,そのバックに映っていた方言地図を妙に覚えています。ちょうど関東地方で,両毛地域が一つのくくりになっていました。「あぁ,俺たちの言葉は県境を越えているのだ」と実感したことを覚えています。残念ながら詳細な境目までは記憶にありませんが。熊谷市あたりはどうだったのかな?

なお「四叉路」も,地道に収集を継続中です。そのうちに一覧表にまとめたいと思っています。
[25322] 2004年 2月 24日(火)21:44:28千本桜[軒下提灯] さん
両毛5都市考/人口集中地区人口編
桐生と足利の「都市の大きさ」についてアンケート調査を実施した。調査員/軒下提灯。調査対象者/40歳~80歳代の桐生市民8名。調査対象人数が少ないけど、我慢してください。この聞取り調査は何年も前から何回も実施していますが、いつも同じ結果になります。そりゃそうですわ~。調査対象となる人はいつも同じ人で、しかも私の身内ばかり。ちょっとアンフェアな調査ではございますが、結果発表いたします。

問1/あなたは桐生と足利では、どちらが大きな都市だと思いますか。
答え/さぁ~、どっちだろうねぇ~・・・。同じようなもんじゃないんかい、と誰も明確な答えを出せない。
問2/では、あなたが若かった頃の桐生と足利では、どちらが大きな都市でしたか?。
答え/全員即座に、そりゃ~桐生よ、と即答する。

あの頃は、あっちからもこっちからも人の足音が聞こえて、桐生の町は賑やかだったよ~。あの頃って、40~60年前のことだと思うけど、両毛で最も繁華な町は桐生だったことを、ある年令以上の人はみんな憶えている。私もそうである。初めて桐生の町を見た小学生の時から、私の中で桐生VS足利の比較が始った。
済みません。ちょっと時間がないので、話の続きは後日にします。人口集中地区人口の推移を書き出しますのでご覧下さい。昭和35年の人口集中地区人口は、高崎よりも桐生の方が多かったのです。数字の中に刻み込まれた都市の盛衰を想像してお楽しみ下さい。

両毛5都市の人口集中地区人口推移(桐生との比較用に高崎のオマケ付き)
都市名昭和35年昭和40年昭和45年昭和50年昭和55年昭和60年平成02年平成07年平成12年
桐生80,51080,12685,12695,88096,16994,59695,12593,85888,575
足利57,01461,84057,11478,77180,05678,46288,61188,32894,700
佐野29,55931,35331,41434,83839,49440,74941,01341,28940,710
館林23,46224,87525,36727,38226,35531,91034,71838,15437,913
太田14,76216,65220,89524,31254,42171,85580,33481,72682,866
高崎79,50782,07296,611115,451115,417127,783163,239169,775171,141
[25441] 2004年 2月 27日(金)09:40:55千本桜[軒下提灯] さん
両毛5都市考/人口集中地区人口変化球編
平成12年国勢調査による人口は
足利市163,140人 足利市を100とした場合
太田市147,906人 太田市は91
桐生市115,434人 桐生市は71
私の記憶では、昭和30~40年代の両毛地域で最も繁華な町は桐生だった。だが現在、足利市の人口を100とすると、太田市は91、桐生市は71。桐生の凋落ぶりは否定できない。でも、実際に町なかを歩いてみると足利と桐生の間に100対71の開きは感じられない。


平成12年国勢調査による人口集中地区人口は
足利94,700人 足利を100とした場合
桐生88,575人 桐生は94
太田82,866人 太田は88
両毛地域の人口集中地区人口を見てみましょう。足利を100とすると、桐生94、太田88。なんだか、市域人口よりも人口集中地区人口の方が都市の大きさをリアルに伝えてくれそうです。でも、人口集中地区人口は必ずしも都市の大きさを表わしている訳では有りませんから要注意。


平成12年国勢調査による人口集中地区人口変化球
太田115,121人 太田と大泉の人口集中地区を統合した場合の人口集中地区人口
桐生100,265人 桐生と大間々の人口集中地区を統合した場合の人口集中地区人口
足利94,700人 
人口集中地区もまた、行政界という見えないククリで分断されています。しかし、太田と大泉の人口集中地区は互いに拡大膨張して、連続状態になっています。空の上から見下ろせば桐生と大間々も一体の都市状態です。この考えに基づいて人口集中地区を組替えてみましょう。両毛地域の人口集中地区は1位太田、2位桐生、3位足利になりました。いったい、両毛で一番大きな都市はどこなのでしょうね。渾沌としてきました。
[25699] 2004年 3月 3日(水)23:57:09千本桜[軒下提灯] さん
両毛5都市考/最高路線価編
[25441]軒下提灯の続き
30年、40年前の古い話で恐縮ですが、両毛線の小山~伊勢崎間で最も繁華に見えたのは、やはり桐生の本町通りでした。現在は高架で本町通りを跨ぐ両毛線ですが、あの頃は踏切のある平面交差でしたから、繁華街をまっ二つに横切ってディーゼルカーが走っていました。横切る瞬間に車窓から繁華街を見るのが大好きでした。今でも本町5丁目6丁目を歩くのは好きです。でも、寂れてしまいましたね。現在の両毛地域で最も都会的な景観をした街はどこかと問われたら、桐生の本町とは言いにくいです。やはり、今では足利の通2丁目なのかなぁ。足利の中心街は見た目スッキリした綺麗な街ですが、人通りが少ないのが気になるところです。最高路線価から都市規模を推測するって、かなり疑問があるのですが、ちょっとやってみましょう。なぜ疑問があるかというと、徳島県鴨島町や池田町のように、明らかに小規模な四国の町の最高路線価が足利や桐生より高額だからです。それを承知で比較すると次のようになります。

最高路線価(徳島県鴨島町のオマケ付き)
都市平成13年平成14年平成15年
足利145,000円125,000円110,000万
太田135,000円120,000円100,000万
桐生125,000円105,000円99,000万
鴨島185,000円165,000円150,000万

足利の最高路線価は、平成13年が通2丁目単独で記録。14年、15年は中心街の通2丁目と郊外の田中町が同額で最高路線価を記録。アピタ周辺の田中町&朝倉町を郊外とみなして良いのでしょうか?。とすると、宮城県気仙沼市と同じように、市の活動中心地は中心街ではなく郊外に有るという不思議な事態になりつつありますね。
太田の最高路線価は、平成13年、14年、15年とも、太田駅南口線通り。
桐生の最高路線価は、平成13年、14年とも中心街の本町通りと末広町通りが同額で最高路線価を記録。15年は末広町通りが単独で最高路線価を記録。ついに桐生本町通りも首位の座を末広町サンロード商店街に譲り渡しましたね。末広町の背後には長崎屋が立地しているのが強みかも。この長崎屋は昔、本町通りに立地していて、商店街の核店舗の役割を果たしていました。
[26232] 2004年 3月 15日(月)18:41:50G さん
足利のワイナリー
[26202]かすみさん
[26210]N-Hさん
[26229]月の輪熊さん

地元で頑張っているワイナリーです。
ココです↓
http://www.cocowine.com/index.html
関連記事です↓
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/daw/wz_cocofarm.htm

「ルート50」方面にお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいませな。!(^^)!

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