都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

郡はなくしてもいいのではないか? -「郡」とは何なのだろうか−

トップ > 落書き帳アーカイブズ > 郡はなくしてもいいのではないか? -「郡」とは何なのだろうか−
記事数=16件/更新日:2005年11月10日/編集者:あっちゃん

東京都の島嶼部以外の町村は、すべて何らかの「郡」に属しています。郡は、現在では地域呼称としての意味しか持ちませんが、歴史ある地域単位であり、現在の地方行政の区分けなどに大きな影響を及ぼしているようです。意味がなさそうで、存在感のある「郡」についてまとめました。

… スポンサーリンク …

★推奨します★(元祖いいね) グリグリ てへへ なお BANDALGOM hmt 稲生 faith 右左府

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[720]2002年1月25日
miki
[728]2002年1月26日
Issie
[745]2002年1月28日
miki
[746]2002年1月28日
Issie
[749]2002年1月29日
さの
[751]2002年1月30日
miki
[753]2002年1月30日
ケン
[754]2002年1月30日
Issie
[755]2002年1月30日
Issie
[756]2002年1月31日
Issie
[7260]2003年1月2日
Issie
[9296]2003年2月16日
Issie
[28126]2004年5月11日
Issie
[28801]2004年5月31日
地名好き
[42582]2005年6月26日
北の住人
[45967]2005年10月22日
Issie

[720] 2002年 1月 25日(金)16:39:54miki さん
郡の移籍
郡の移籍は94.4.1の福島県古殿町(東白川郡→石川郡)以来8年ぶり。
郡といえば昔は行政区画でしたが、今では単なる地方分けです。
別になくしてもいいのではないでしょうか?
[728] 2002年 1月 26日(土)18:42:29Issie さん
「郡」は現在では自治体でもなく行政区画でもない“ただの地域呼称”となっているのですが,実際には多くの都府県や国の機関が県を下位区分するのにお手頃な単位として利用されています。

たとえば千葉県は県の出先機関として「支庁」を県内全域に設置していますが,その管轄区域は旧郡域がそのまま利用されています。西北部の旧東葛飾郡の市町村を管轄するのは東葛飾支庁,木更津・君津・富津・袖ヶ浦の旧君津郡4市を管轄するのは「君津支庁」というように。
ただし,北東部の海上・匝瑳2郡の区域(銚子・旭・八日市場の3市を含む)は「海匝支庁」,千葉・習志野・八千代の旧千葉郡3市と市原市(旧市原郡)は「千葉支庁」というふうに2郡単位で統合されることもありますが。

千葉県ほどはっきりしていなくても,多くの都府県で「郡」という単位は重宝されているようですね。
そもそも郡は,はるか昔の6~7世紀,大和政権が本州以南を「統一」していく過程で支配下に組み込んでいった各地方の支配者の縄張りに起源をもつものですから,地域をまとめる単位としてある程度の必然性があるのでしょうね。
もちろん,律令時代の「郡」と近代以降の「郡」の範囲が全く同じわけではないのですが。
とはいっても,地域をとりまく条件のその後のいろいろな変化で,地域間の結びつきは変わってくるから,「郡」の範囲と実際の生活圏とが一致しなくなってしまったところも多いでしょう。
今や「郡」は単なる地域呼称でしかないから,そういうズレが発生しても放っておく,という選択もあるでしょうが,それが県の下位区分と連動している場合にはそれと辻褄を合わせたい,と考える選択肢もあるでしょうね。
安代町の所属変更も,そんな流れではないのかなと思います。
実際,安代町は二戸郡に所属しながら県や国の出先機関では盛岡(岩手郡)の管轄に入っていますから。鉄道も道路も盛岡につながっているしね。

放っておくか,辻褄を合わせるか,どちらを選択するかは都道府県議会の権限です。

なお蛇足ですが,東京都の「島嶼部」(伊豆諸島)は古代以来「伊豆国」に属していますが「郡」に属したことはありません。小笠原諸島は「国」にさえ属したことがありません。だから,日本国内でこの地域だけは「○○郡」という地域呼称がありません。東京都は現在,この地域に「大島」「三宅」「八丈」「小笠原」の各支庁を設置していますけどね。
[745] 2002年 1月 28日(月)17:51:11miki さん
沖縄の郡
郡の話で盛り上がっているようですね。
そういえば、沖縄の方って郡を表記しない事結構ありますよね?
みやげものとか郡抜かしていますよね?
...アメリカ統治時代の名残でしょうか?
その時には郡なんてありませんでしたし...。
[746] 2002年 1月 28日(月)18:50:34Issie さん
Re:沖縄の郡
書かなくても困らないからじゃないかな。
北海道も普通,郡なんて使わないでしょ。こちらは支庁で十分。

米軍統治下でも市郡町村レベルの区画には変更はありませんでした。
本土で地方自治法が施行されると,沖縄でもそれに準じた条例が制定・施行されています。で,真和志市はじめ浦添市までの各市が米軍統治下で誕生したのです。
ただし「琉球政府」が発足するまでの過程では「沖縄」「奄美」「宮古」「八重山」の各“群島政府”がつくられたりしています。奄美=大島郡,宮古=宮古郡,八重山=八重山郡ですね。

沖縄に“本土並み”の地方制度(府県制・市制・郡制・町村制)が施行されたのは明治も終わりになる頃です(「沖縄県」自体は1879年の琉球処分で設置されていますが)。「郡」という区画が沖縄に実施されるのもこのときが初めてで,沖縄諸島が「国頭郡」「中頭郡」「島尻郡」の3郡に分けられ,宮古諸島と八重山諸島がそれぞれ1郡とされました。
だから律令時代以来ずっと「郡」を使用している本土に対して沖縄にはなじみが薄かったかもしれません。
ただ,沖縄地域をこの5区域+1地域(奄美)に区分する分け方は琉球王国以来,本島を「国頭」「中頭」「島尻」の3地域に分けるのは15世紀に統一されるよりも以前,14世紀に島内の3つの勢力がそれぞれ別個に中国(明)に国王の地位の承認を求めたときのそれぞれの勢力の縄張りに由来します。
だから「郡」という呼称とは関係なく,「国頭」「中頭」「島尻」という地域呼称そのものは大変に歴史のあるものです。
[749] 2002年 1月 29日(火)23:29:59さの さん
名田の東西
徳島県には名西・名東の両郡がありますが、これは「名田」(なだ)の東西という意味のようです。なぜか「なにし」「なひがし」ではなく「みょうざい」「みょうどう」と呼んでいます。名田は、地名や吉野川にかかる橋の名前として残っています。
名東郡には佐那河内村1村だけ、名西郡には石井・神山の2町があります。郡内の学校の大会が開催されることがあります。
昨年、石井と神山を結ぶトンネルが開通し、行き来しやすくなったようです。従来のトンネルは、山道をくねくね登って峠に数十mだけ掘られたものでしたが、新しいトンネルは登らずに通れます。(不要不急の事業といううわさもある)
こんど帰省したおりには、新しいトンネルを通り神山温泉にでもでかけます!
[751] 2002年 1月 30日(水)10:58:39miki さん
郡の東西南北
1つの郡が2つ以上に分かれるという事はほかにもありますよね。
1.東茨城郡、西茨城郡
2.北埼玉郡、南埼玉郡
3.東白川郡、西白河郡(どうして字が違うのでしょうか?)
...こうやって見てみると、例が結構多いんですよね。
時間がないのでほんの一部しか書ききれません。
広島県ではそういう事ありませんが。
[753] 2002年 1月 30日(水)17:20:41ケン さん
郡のこと
東西南北のつく郡のことですが、もともとは一つだったようです。しかし明治のとき一つの郡では広すぎるので、東西南北に分かれたようです。徳島県名東郡は佐那河内村以外は徳島市に合併されたようです。
沖縄のことですが、国頭は北山、中頭は中山、島尻は南山とも呼ばれていました。
[754] 2002年 1月 30日(水)20:01:55Issie さん
Re:郡のこと
現在の郡は,直接には1878(明治11)年の「郡区町村編制法」と1890(明治23)年の「郡制」とによって編制されたものです。

「郡区町村編制法」では地方の行政区画を編制するにあたって江戸時代以来の郡・町・村という区画を“復活”させ(明治初期,政府は意識的にこの区画を廃止しようとしていた),都市部には「区」という区画を設置(のちの「市」の前身)し,このとき“広大な郡”は東西南北・上中下などに分割されることになりました。
条文を以下のページに掲げてあります。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/gun/henseiho.htm
この制度に基づきそれぞれの郡には郡役所が設置されましたが,規模の小さい郡の場合は数郡で統合して郡役所が設置されました。

「郡制」を施行するとき(1900(明治33)年に完了)には,こうして数郡規模でまとめて郡役所が設置されていた郡が統合されて“1つの郡”になりました。たとえば備後国(広島県)の√b田郡」と「品治郡」はどちらも小さな郡だったので共通の郡役所を府中に置いていたけれども,郡制を施行するにあたって両郡が統合されて「蘆品(芦品)郡」になった,というように。
このとき,こうした郡の統合によって大量の「合成郡名」が全国に誕生しています。

明治以降の郡の変遷については,こちらをご参考に。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/gun/gun.htm
[755] 2002年 1月 30日(水)23:44:47Issie さん
Re:郡の東西南北
前の発言の続きを送ろうとしたら,また CGI BUSY になってしまいました。
グリグリさんは私のせいではないと言ってくれたけど,何か複雑。
ともかく復活したようなので,もう一度アップしなおします。

肥前国の「松浦郡」は「東松浦郡」「西松浦郡」(佐賀県),「北松浦郡」「南松浦郡」(長崎県)に分割されています。
日向国の「諸県郡」は鹿児島県から宮崎県が分離したとき,宮崎県となった区域が「北諸県郡」,鹿児島県に残った区域が「南諸県郡」となりました。宮崎県の北諸県郡からはその後さらに「西諸県郡」と「東諸県郡」が分離し,2県にまたがって東西南北の諸県郡がそろいました。しかし,郡制施行に際して鹿児島県の南諸県郡は東噌唹郡と統合されて「噌唹郡」となり,日向国から大隈国に編入されました。

武蔵国は最終的に東京府と埼玉県,神奈川県に分割されましたが,「足立郡」のうち東京府の管轄となった区域が「南足立郡」(現・足立区),埼玉県の管轄に入った区域は「北足立郡」となりました(その後,郡制施行の際に埼玉県北足立郡は荒川をはさんだ新座郡を編入しています)。

「葛飾郡」はさらに複雑です。
葛飾郡はもともと「下総国」に属し,隣国の武蔵国や上野国・下野国と境を接して下総国の北西部を占める広大な郡でした。中世には現在の江戸川を境にして「葛西」「葛東」などに分けられたりしましたが,江戸時代の初め,幕府によって江戸川以西が「下総国」から「武蔵国」に所属変更がなされました。
明治になり廃藩置県ののちの県の再編を通して,両国にまたがる「葛飾郡」は東京府・埼玉県・千葉県・茨城県に分割されました。
そこで郡区町村編制法による郡編制の際に,それぞれ次のような呼称になりました。
武蔵国葛飾郡
 東京府の区域 --> 南葛飾郡
 埼玉県の区域 --> 北葛飾郡
下総国葛飾郡
 埼玉県の区域 --> 中葛飾郡
 千葉県の区域 --> 東葛飾郡
 茨城県の区域 --> 西葛飾郡
というわけで,「東西南北中」がそろいました。
(下総国葛飾郡の一部が埼玉県になったのは,江戸時代半ば以降の河川改修によって,江戸川の流れが少し東に移動したからです。)
しかし,郡制施行のための統合によって,埼玉県中葛飾郡は北葛飾郡に編入され(同時に武蔵国に編入),茨城県西葛飾郡は猿島郡に編入されました。一方,千葉県東葛飾郡は南相馬郡を編入しています(このために旧相馬郡は茨城県となった利根川以北の「北相馬郡」だけが残りました)。
さらに東京府の南葛飾郡は東京市に編入されて葛飾区と江戸川区となり,現在残っているのは千葉県の東葛飾郡(下総国)と埼玉県の北葛飾郡(武蔵国)だけとなったのです。
[756] 2002年 1月 31日(木)00:13:18Issie さん
郡の大きさ
前の発言のとおり,「郡」の起源をさかのぼれば律令時代,さらには7世紀後半の大化政権の「コホリ」に至ります。大化政権では「評」という字を用いていましたが,天武・持統朝の頃から「郡」と表記するようになったと言われています。
基本的にはそれまでの「国造」の領域と,それらの間に設置された中央直轄地などを下敷きに区画されたものなので,一般に早い段階で大和政権の支配下に入った地方では1郡の規模が小さいものがほとんどです。つまり,北九州から瀬戸内を経て畿内,そして伊勢湾沿岸あたりまで。関東でも比較的早くから大和政権と関係を結び開発の進んだ利根川中流域の群馬県南部から埼玉県北部の区域では規模の小さい郡が集中していました。
だから,広島県も含めてこの地域には明治初めの郡区町村編制で東西南北などに分割された郡がなく,むしろ郡制施行の際に統合された郡が非常に多いのです。

反対に,遅くなってから大和政権の支配下に入った地域には広大な規模の郡が集中しています。肥前の松浦郡や日向の諸県郡,越後の頸城郡や蒲原郡(ただし,現在の北蒲原郡のあたりは中世まで「沼垂(ぬたり→ぬったり)郡」という独立した郡でした)など。陸奥国の最北部には中世になってようやく「糠部郡」が設けられ(律令制はほぼ崩壊していたけど),そのうちの南部には「一戸」~「九戸」という区画が生まれ,北部には中世末期に「北郡」「津軽郡」という呼称が定着します。北郡はさらに明治になって「上北郡」と「下北郡」に。
要するに,概して畿内から見て「辺境」に属する地域に大きな郡が分布し,明治になって東西南北などに分割されているのです。

郡区町村編制による郡の分割と郡制施行による郡の統合とで,郡の大きさはだいたい全国同じになったはずなのですが,それでも東北や南九州の郡はあいかわらず広大で,近畿周辺の郡は狭小ですね。
もちろん,全体的な傾向ですが。
[7260] 2003年 1月 2日(木)11:24:19Issie さん
郡を分ける
[7258]白桃 さん
>「香川県の西」という意味ではなくて、「旧香川郡の西」ってカンジ・・・でもないか?

よそ者の意見ですから,一般的な話として聞いてくださいね。
「香西/香東」のペアーは,おそらく「香川郡」の西半・東半の意味で正解だと思います。
「香西氏」という豪族がいたとすれば,それは「香川郡の西部を縄張りにしていた」ことを主張するものでしょう。中世に香川郡を東西に分割する形で荘園のようなものが成立してのではありませんか。あるいは,香川郡自体が「香西郡」と「香東郡」に分割されていたかも。

同じようなペアーは,四国だと阿波の「板野郡」の「板西(ばんざい)/板東(ばんどう)」がわかりやすい例です。元の郡名は思い出せない(ずっと以前にここで話題になりました)が「名西(みょうざい)郡/名東(みょうどう)郡」ペアーは,分割された郡がそのまま現在まで続いている例です。

対岸の播磨にも「賀茂郡」を分割した「加西/加東」のペアーがありますね。「飾磨郡」「揖保郡」も,明治半ばの郡制施行で再統合されるまでは「飾西(しきさい)/飾東(しきとう)」「揖西(いっさい)/揖東(いっとう)」のそれぞれ2郡に分かれていました。

というわけで,こういうパターンの地名は全国に多く分布します。郡名になったものから,荘園名でとまったもの,名字としてポピュラーになったもの,さまざまです。中には市制・町村制下で自治体名になり(でも多くは“昭和の大合併”で消滅した),付近を通る鉄道の駅名になったものもあります。
思いつくものを並べてみますね。
下総印旛郡→印西(いんざい)・印東(いんどう)
香取郡→香西(かさい)・香東(かとう)
葛飾郡→葛西(「葛東」は定着せず)*「葛西」地域は近世初めに武蔵へ所属変更
上総市原郡→市西(しさい)・市東(しとう)
周淮郡→周西(すさい)・周東(すとう,すどう)*郡制施行で君津郡に統合
海上郡→海北(かいほう,「海南」は定着せず)*近世初めに市原郡に統合
夷隅郡→伊北・伊南(別表記の「伊甚(いじみ)」による)
武蔵多摩郡→多西・多東
入間郡→入西(にっさい)・入東(にっとう)
尾張海部郡→海西(かいざい)・海東(かいとう,かいどう)*近世初めに木曽川以北は美濃へ所属変更

もっといっぱいあると思うんですけどね。
とりあえず,これだけ。
[9296] 2003年 2月 16日(日)01:15:26Issie さん
「郡制」下の郡
[9290] utt さん
[9295] YSK さん

1890年に公布され,準備の整った府県から順次施行された「郡制」の下では,「郡」は“府県の下位行政官庁”としての側面と“地方自治体”としての側面の両面がありました。
「自治体」としての側面を代表するのが「郡会」の存在です。当時は国会(帝国議会)以下,制限選挙が採用されていた時代ですから,当然に選挙権・被選挙権を持っていたのは限られた“地方名望家”に属する人々(もちろん男性だけ)ですが,郡会は(法律としての「郡制」に列挙されたものに限るが)郡内の行政に関しての意思を決定する権限を持っていました。また,郡には課税権は与えられませんでしたが郡内の町村が分担して拠出するお金の使い道を決定する権限,つまり財政上の自治権も持っていました。「郡立学校」の設置・運営が,その代表例ですね。
ただし,“執行機関”たる「郡長」を選任する権限は持たず,これは府県知事や北海道庁長官と同様に“官選”の官吏でした。そして郡会の決定事項を執行する一方で,上部機関たる府県および国の監督下で一般行政を行いました。これが「府県の下位行政官庁」としての側面。実は「府県」と全く同じです。

1923年にまず,この「自治体としての郡」が廃止されました。議決機関たる郡会が廃止され,郡財政に関する自治権が消滅した,というものです。郡立学校などは多くの場合,府県に移管されました。
次に1926年には「郡長」および「郡役所」が廃止されて,「行政官庁としての郡」も消滅しました。以後,「郡」は単なる地域呼称となって現在に至ります。
ただし,戦時中の1947年に1~2郡ごとに設置された「地方事務所」は,このときに廃止された「行政官庁としての郡」の部分復活と考えられています。
ちなみに「郡」を廃止したのは大正デモクラシー終盤の政党内閣でした。「地方事務所」を設置したのは,もちろん軍部が主役となった官僚内閣です。
地方事務所は,戦後の地方自治法の下で都道府県ごとにそれぞれ違った道筋をたどることになります。

なお,「市制・町村制」下では市長・町村長の選挙権を持っていたのは市会・町村会でした(議会が選出した市長・町村長“候補者”が実際に市長・町村長になるまでは何段階かの手続きがありました)。住民が直接選出したわけではありません。
首長(都道府県知事・市町村長)が等しく住民から直接選出されるようになるのは,1947年の地方自治法施行に先立って行われた「統一地方選」以後のことです。
[28126] 2004年 5月 11日(火)00:53:52【1】Issie さん
郡のたし算
[28124] 白桃 さん
ところで、「御津郡」は御野郡と津高郡の合成郡名ではなかったでしょうか?「都窪」もそんな気が…

そうですね。
郡制施行前後の岡山県の郡の異動を見ると,

[備前国]
・赤坂郡+磐梨郡 →赤磐郡
・御野郡+津高郡 →御津郡
@統合なし:和気郡・邑久郡・上道郡・児島郡

[備中国]
・都宇(つう)郡+窪屋郡 →都窪郡
・賀陽郡+下道(しもつみち)郡 →吉備郡
・阿賀(あか)郡+哲多郡 →阿哲郡
@統合なし:浅口郡・小田郡・後月郡・上房郡・川上郡

[美作国]
・英田郡+吉野郡 →英田郡
・勝北郡+勝南郡 →勝田郡
・東北条(とうほくじょう)郡+東南条(とうなんじょう)郡+西北条(さいほくじょう)郡+西西条(さいさいじょう)郡 →苫田郡
・久米北条郡+久米南条郡 →久米郡
・真島郡+大庭郡 →真庭郡

…となります。
美作の勝田・苫田・久米3郡の場合は,中世以降に分割された郡(苫田郡の「○条」というのが典型ですね)を再統合したものですが,特に吉備平野の場合は律令時代までさかのぼる古い郡だったりします。
奈良時代末期,吉備の出身で遣唐使も経験した官僚政治家である吉備真備は,「吉備」という“大きなウヂ名”の下に「下道:しもつみち」という“サブのウヂ名”を名乗っています。明治になって吉備郡に統合された「下道郡」につながるのでしょうね。

吉備平野が比較的小さな郡に細分されていたのは,畿内がそうであるように,ヤマト政権にとって早くから支配の及んだ,「先進地域」であったことを示唆しているように思えます。
確か,キビ(吉備)の支配層は割と早くからヤマトの政権と良好な関係を作っていたんじゃなかったでしたっけ。
[28801] 2004年 5月 31日(月)00:37:44【1】地名好き さん
岡山県加賀郡
[28772]TGRSさん
[28751]月の輪熊さん
[28719]夜鳴き寿司屋さん

[28714]はやいち@大内裏さん
合併後は「加賀郡」に所属するようです。
加茂川の「加」と賀陽の「賀」
郡に焦点を絞って考察するに、
過去には複数の郡が一つになる時、元の郡名からそれぞれ一字とっているケースが多く、例えば三重県「名」張郡+伊「賀」郡=名賀郡といった方法がもっとも多いのだと思います。
でも今回は、元の自治体名からそれぞれ一字とって、新自治体名ではなく、郡名にするのですよね?

[14190]三鈴さん
[2116]mikiさん
こういうケースもありますね。
三重県で1896/03/29に「河」曲郡+奄「芸」郡=河芸郡になり、この河芸郡が安濃郡と1956/09/30に再び…「安」濃郡+河「芸」郡=安芸郡に。現在の安芸郡域は二度もあったのですね。
佐賀県では「三」根郡+「養」父郡+「基」肄郡=三養基郡。3郡が絡んだのがありますし、
又、香川県では阿野郡+鵜足郡=綾歌郡というのがありますね。
[16347]kenさん
綾歌郡なんて、良い名ですが、これも阿野(あや)郡と鵜足(うた)郡の合成ですからね。
で述べられておられる通りです。
那珂郡+多度郡=仲多度郡
怡土郡+志摩郡=糸島郡
もありますね。

勝田郡勝央町と英田郡英田町の合併も、今回の「加賀郡」の件にならって、可能性が全く無い訳ではないですよね?
ただ飛地合併が実現するかどうか…
[42582] 2005年 6月 26日(日)11:03:45北の住人 さん
北海道の郡名案
北海道大学附属図書館の北方資料データベースで、明治2年 (1869)の松浦武四郎「郡名之儀ニ付申上候書付」の写本が読めます。
北海道の郡名とその語源に興味のある方には面白いと思います。
ちなみにこの中では、札幌の語源は「サツテクホロ」としており(22ページ)、簡単に書くと、「乾いた所」といったような説明がされています。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/kyuki/doc/0A010310000000.html
[45967] 2005年 10月 22日(土)10:24:51【1】Issie さん
ながれもきよき しらかはのみづ
[45929] matsu さん
同じ福島県内に西白「河」郡とあります。この「川」と「河」の使い分けは何故でしょうね?

明治の初めに,たとえば新潟県の「蒲原郡」が“北・中・西・南”に4分割(“東”蒲原郡 は福島県に所属)のとは違って,「東白川郡」は「磐城国白川郡」,「西白河郡」は「磐城国白河郡」という,もともとお互いに別個の郡だったからだと思われます。

古代・律令制の時代から中世までは,現在の“両しらかわ郡”だけでなく 石川郡 の区域も含めた領域が「白河郡」と呼ばれていたようです。 恐らくは中世の後半,特に戦国期あたりにこの郡が細分され,江戸時代の元禄期までに「石川郡」「白河郡」「白川郡」が鼎立するようになりました。
「白河郡」と「白川郡」の並立状態は江戸時代を通して続き,松平定信で知られる 白河城下 は「白河郡」,しばしば譜代大名の左遷の地などとも言われる 棚倉城下 は「白川郡」の所属とされていたようです。

明治初年に 陸奥国 が分割されたときに,白河郡・白川郡 は 石川郡 ほかとともに「磐城国」に編成されました。奈良時代にごく短期間 陸奥国 南部が分割されたときには 白河郡 は「石城(いはき)国」ではなく「石背(いはしろ)国」に所属していたようです。明治の分割の際に,「中通り」(…という表現はまだ生まれていないと思いますが)のうち南部の3郡だけが「岩代国」ではなく「磐城国」に属するようになったのは,なぜなんでしょうね。
(そういえば,田村郡 も 磐城国 所属でした。この辺りならば,「阿武隈川が境」で理解できるのですが,岩瀬郡 と 西白河郡 の境界はそのようなはっきりしたものがないのですよね。
以前にも書いたことなのですが,明治の奥州分割,藩政時代の境界も引き継がず,現在の県境にも引き継がれず,じつに不思議な分け方です。)

明治4(1871)年7月[旧暦]の廃藩置県の後,11月の府県統合で 白河郡 は「二本松県」,白川郡 は「平県」の所属となり,2つの「しわかは郡」はそれぞれ別の県に所属することになりました。ところが,1876年に 磐前(いわさき)県(平県が設置直後に改称) が,会津の 若松県 とともに 福島県(二本松県が設置直後に県庁[予定地]移転,改称)に統合された結果,ふたたび「しらかは郡」の両立という状態になり,1878年の 郡区町村編制法 による郡の再編でそれぞれが「西白河郡」「東白川郡」となるまで,短い期間ではあるけれどもその状態が続いていました。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内

… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

パソコン表示スマホ表示