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落書き帳アーカイブズ 近代化が進んだ現代においても、古から受け継がれた伝統が色濃く残る地域も多いようです。ここでは、神社などの信仰に根ざしたお話を紹介いたします。

信仰に象徴される地域性



★推奨します★(元祖いいね) BANDALGOM 稲生
編集:YSK

記事数=10件 更新日:05年01月14日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[9848]2003年2月26日
沖島 BANDALGOM
[9889]2003年2月27日
日本は、海民の国 YSK
[9894]2003年2月27日
宗像・諏訪 BANDALGOM
[9918]2003年2月27日
下諏訪と上諏訪 TN
[9923]2003年2月27日
Re:下諏訪と上諏訪 Issie
[9981]2003年2月28日
諏訪 TN
[25695]2004年3月3日
氷川神社の分布、利根川中流の島地名 KMKZ
[26344]2004年3月18日
神様の恋の通い路 hmt
[26852]2004年4月3日
諏訪の上下 Issie
[36757]2005年1月14日
上諏訪 じゃごたろ



[9848] 2003 年 2 月 26 日 (水) 14:44:35 BANDALGOM[地域研究家] さん
 沖島
ARC 信仰に象徴される地域性

[9814][9816]YSKさん
宗像市と大島村といえば、古来より信仰を集める宗像三社(宗像大社、中津宮、沖津宮)とのかかわりで、日常的には密接なつながりでとらえられる地域ですよね。大島村の本島に、玄界灘に浮かぶ沖ノ島も加えた範囲は、現実的には途方もない範域になりますが・・・
宗像大社が玄海町にあるのは知っていましたが、大島村本島の中津宮、沖島の沖津宮については気づきませんでした。

沖島は相当遠い所にありますね。
大島村のHPによれば、博多、厳原までの距離がほぼ等距離となっていますが。
女人禁制で島全体が神域となっているということからすると、一般住民は住んでいなさそうですね。
沖津宮を守る人は誰かいるのかもしれませんが。

しかし大島村と合併する以前に、玄海町には地ノ島がありますし、これまで大都市のベッドタウンの行政しか担当してこなかった宗像市が、離島行政を担うことになりますね。
(勝島もありますが、ここは人が住んでいるのかどうか)

私の1つ年上でいらっしゃいましたか。何か、親近感が沸いてまいります。
私も意外でした。
ここのメンバーは「共通一次世代」という言葉が出てきたりして、年齢層が高めと思っていましたので。
これからもよろしくお願いします。
できれば、メール等で個人的にお話できたらと思うのですが。

[9889] 2003 年 2 月 27 日 (木) 09:19:35 YSK さん
 日本は、海民の国
ARC 信仰に象徴される地域性

グリグリさん、お仕事お疲れ様です。
障害対応をしていただき、たいへん感謝しております。

[9848]地域研究家さん
宗像大社(辺津宮)は、玄海町にありましたね。失礼しました。

沖島は相当遠い所にありますね。
大島村のHPによれば、博多、厳原までの距離がほぼ等距離となっていますが。
女人禁制で島全体が神域となっているということからすると、一般住民は住んでいなさそうですね。
沖津宮を守る人は誰かいるのかもしれませんが。
沖ノ島は、5月に行われる大祭の時以外は、神社のみの、島です。
沖ノ島の沖津宮は、「海の正倉院」と呼ばれるほど、多くの宝物が所蔵されるまさに「神域」です。
ここは、漁民や水軍など、多くの海民−海を生活の舞台とした人びと− が古来より信仰した、歴史の溢れる、「海の神様」です。陸上交通が主となり、水上交通が従となって久しいですが、ながらく海上交通を含む水上交通は、わが国の重要な動脈でした。日本各地の津々浦々には、そういった時代の痕跡がまだまだ色濃く残る地域も多くありまして、この宗像の地も、そういった時代の残像を今に伝える地域の1つであると思っております。

大島村と合併する以前に、玄海町には地ノ島がありますし、これまで大都市のベッドタウンの行政しか担当してこなかった宗像市が、離島行政を担うことになりますね。
ただ、現実的なお話に戻りますと、宗像市は鹿児島線沿線にあり、宗像大社のある玄海町などの臨海部とは地形的にもやや一線を画した土地柄のようですし、ご指摘のように、福岡のベッドタウンとしての性格に特化した地域で、宗像の持つ歴史とは無関係な転入者も多いことでしょうね。

私は、宗像三社を含んだ、歴史ある地域性を残した、この地域が1つの自治体となることの意味をより重視したいですね。このまたとない特色と、大都市近郊の住宅都市としての特色をうまく融合させて、文化の香りの高いまちを、目指して欲しいです。歴史的な特色、大都市の近郊という特色、両方を併せ持つなんて、うらやましい限りです。

抽象的な議論になってしまいましたが、この合併の枠組みを選んだのも、他ではない、この地域です。この判断の向こうに、宗像三社にまつわる共通した土壌があって、その基盤の上で新たな町をつくっていきたい、というニュアンスを感じるような気がいたします。

離島行政には、困難な面もあるかと思いますが、ぜひその特色をプラスの方向に捉えて、いい町に成長して欲しいな。そう心から思います。

[9894] 2003 年 2 月 27 日 (木) 10:13:10 BANDALGOM[地域研究家] さん
 宗像・諏訪
ARC 信仰に象徴される地域性

[9889]YSKさん
宗像市は鹿児島線沿線にあり、宗像大社のある玄海町などの臨海部とは地形的にもやや一線を画した土地柄のようですし、ご指摘のように、福岡のベッドタウンとしての性格に特化した地域で、宗像の持つ歴史とは無関係な転入者も多いことでしょうね。
「宗像」というのは宗像大社から由来する広域地名と考えられますが、昭和の大合併で東郷町・赤間町などが合併した現在の(3月31日までの)宗像市は、広域地名を借用していたことになりますね。

もちろん宗像大社に関連した神社などがあり、全く無関係というわけではないのでしょうが、今度の合併で本来のあるべき姿になると言えましょうか。
その点で、新設合併で「宗像市」を受け入れた玄海町の姿勢は、当然のものと言えますね。

宗像と同様に、神社を中心に成り立ってきた地域には、諏訪地域もありますね。
ここも40年来の懸案だった6市町村合併に向けて任意協議会が設置されていますが(富士見町、原村が慎重ですから、5市町または4市町になるかもしれませんが)、この地域の合併でも「諏訪市」になるべきです。
下手に「すわ市」などにはしないで。
「諏訪=諏訪市」ではなく、諏訪大社の諏訪、諏訪湖の諏訪、諏訪郡の諏訪であることを、受け入れていかなければなりません。

[9918] 2003 年 2 月 27 日 (木) 18:56:11【1】 TN さん
 下諏訪と上諏訪
ARC 信仰に象徴される地域性

[9894]で地域研究家さんが諏訪についてお話されておりますね。

前々から疑問に思っていたのですが、下諏訪と上諏訪で人口が3万人くらい違っていたりしますが、あの2つの街は何が違っているのでしょうか。実際に歩いたこともないので、そのあたりの事情は疎いです。

上諏訪には高島城がありますね。そのあたりが関係してるのかな。
昭和23年の集成図を引っ張り出して見てるのですが、もうこの頃には、ほぼ今の市町区域が確立されており、長地村と湊村(のち岡谷市)、湖南村、中洲村(のち諏訪市)がまだ存続してますが、大勢は決していたようです。
長地村が下諏訪に入ればひょっとしたら市になっていたかもしれないですね。

[9923] 2003 年 2 月 27 日 (木) 21:01:34【1】 Issie さん
 Re:下諏訪と上諏訪
ARC 信仰に象徴される地域性 ARC 都道府県内の特色ある「部分地域名」

[9918] TN さん
前々から疑問に思っていたのですが、下諏訪と上諏訪で人口が3万人くらい違っていたりしますが、あの2つの街は何が違っているのでしょうか。

一言で言うと,上諏訪は「城下町&宿場町」,下諏訪は「門前(鳥居前)町&宿場町」という由来の違いがあります。
現在の市街地はいずれも甲州街道の宿場町を中心に発展したものですね。

さらにその背景にあると思われるのは,「諏訪大社」が「上社(かみしゃ)」と「下社(しもしゃ)」とから構成されていることであろうと思います。

諏訪大社は男女2柱の神様を祭った社です。
男神のタケミナカタノミコトを祭ったのが「上社」(「本宮(ほんみや)」=諏訪市中洲 および 「前宮(まえみや)」=茅野市宮川),女神のヤサカトメノミコトを祭ったのが「下社」(「春宮(はるみや)」および「秋宮(あきみや)」=ともに下諏訪町)。「上社」は諏訪湖の南側,「下社」が諏訪湖の北側にあって,大雑把に諏訪地方は両社の“領分”に分かれています。“上社の領分”の中心市街地が上諏訪,“下社の領分”の中心市街地が下諏訪,ということになります。

下諏訪は下社の門前に,中山道と甲州街道とが合流するという2つの条件を背景に発展しました。これが「下諏訪宿」。
一方,上社の方は近世以降に主要交通路として発展した甲州街道・国鉄中央線からは外れてしまっているために門前町の発展はあまり顕著ではありません。
かわって16世紀末に築城された高島城をかすめる甲州街道上の集落が宿場と城下町の商業地区=町人町の機能を兼ねて発展しました。これが「上諏訪宿」。
高島藩の行政機能を引き継いだ関係で,県の出先機関をはじめとする管理中枢機能は上諏訪の城下町地区に集中しています。

冬の寒い朝に凍結した諏訪湖上に現れる「御神渡り(おみわたり)」という現象は,湖の南側の上社に祭られた男神が北側の下社に祭られた女神に逢いに訪れたときの通り道,とされています。
また,6年に一度(「7年に一度」という数え方もある),寅と申の年に行われる「御柱祭り」は,要するに4つの宮のそれぞれ4隅に山から伐り出したモミの丸太を立てて“結界”を作る,という極めて原始的なお祭りで,上社は八ヶ岳から,下社は霧ヶ峰から丸太を曳き出してくるのですが,そのとき上社の御柱には角(つの)が取り付けられるのに対して下社の御柱には角,つまり出っぱりがありません。なぜかと言えば,上社の神様が「男」で,下社の神様が「女」だからです。
下社の神様は「安産・子宝の神様」でもあります(上社の神様は,一面でたいへん乱暴な神様なんですけどね)。
この御柱祭りで上社の御柱を曳き出すのが諏訪市・富士見町・原村の域内の村々,下社を御柱を曳き引き出すのが下諏訪町・岡谷市の村々,ということになっています。

長野県内の地域区分では諏訪は「南信」の一部とされるのが普通なのですが,自他共に“伊那谷”とは別,という意識が強いように感じます。
諏訪地方の支配者は,甲州の武田氏に乗っ取られたり(“諏訪四郎勝頼”がその象徴ですね),他氏が配置されたりした戦国末期から関ヶ原直後を除いて,ほぼ一貫して古代から近世末まで諏訪大社の神職と,その出身の諏訪氏でした。
さらに御柱祭りへの参加を通じて,住民の「諏訪」への帰属意識は比較的高いのではないかと観察されます。
おそらくここでは,「諏訪」が現諏訪市,つまり上諏訪の独占物という意識は薄いのではないかと思います。
ここの2市3町村が合併した場合の新自治体名は「諏訪市」というのが最も自然なように感じるのですが,どうなるのでしょうね。

[9981] 2003 年 2 月 28 日 (金) 12:01:01 TN さん
 諏訪
ARC 信仰に象徴される地域性

[9923]Issie さん
大変勉強になりました。ありがとうございます。
レスして頂いた後、諏訪大社の4つの配置を確認したところ、妙にミステリアスなものを感じてしまいました。

       ●下社春宮
       ●下社秋宮
 ---------- 下諏訪
|       |
| 諏訪湖 |
|       |
 ----------
          上諏訪
●上社本宮
●上社前宮

本・前と春・秋はそれぞれ2Km弱となっており、偶然の産物ではなく何かを意図して配置しているとしか思えませんが、とにかく
大雑把に諏訪地方は両社の“領分”に分かれています。“上社の領分”の中心市街地が上諏訪,“下社の領分”の中心市街地が下諏訪,ということになります。
とのご解説は妙に納得のいくところです。

高島藩の行政機能を引き継いだ関係で,県の出先機関をはじめとする管理中枢機能は上諏訪の城下町地区に集中
納得致しました。

次の「御柱祭り」は来年だそうですね。

[25695] 2004 年 3 月 3 日 (水) 23:03:08【3】 KMKZ さん
 氷川神社の分布、利根川中流の島地名
ARC 信仰に象徴される地域性 ARC 雷の地域性を見つめる

[24980]両毛人 さん
埼玉県における氷川神社や、群馬県周辺の雷電神社など、地域的に分布する神社

こんなページを見つけました。

http://www.tonejo.go.jp/jiten/rekisi/file/reki6-1.htm 利根川上流河川事務所のHP
沿川に同名の神社が多いのは?

古代は各河川の区切りによって宗教圏が異なり、神社も地域的にまとまって分布したのが、同じ名前が多い由縁となっています。古隅田川は、古代の利根川主流で、香取神社が広く分布し、綾瀬川は、荒川の主流で氷川神社が多く分布しました。

氷川神社…出雲国のひかわ簸川が語源。埼玉県・東京都に約230社。大宮市には5社。考昭天皇の代に出雲大社から勧請され、荒川水系を中心に元荒川流域を東限とし、西は多摩川を限界として、武蔵国の古い集落の氏神・鎮守として広く祀られています。

(中略)

雷電神社…本社は群馬県板倉町板倉。ヒョウ除けや雷除、カンバツの雨乞いとして祀られました。


氷川神社は武蔵一ノ宮だけあって、埼玉に限らず、東京にも沢山あるのに、同じ武蔵でも多摩川を渡った神奈川側には皆無なのを不思議に思っていましたが、荒川水系の神様だったのですね。出雲系の神様で語源が出雲の簸川(斐川)との説は聞いたことがありましたが。

雷電神社は群馬の神社でしたか。雷除の神社があるのは、流石、雷銀座と呼ばれる北関東だけのことはありますね。

ところで、同じページには、以前から私が不思議に思っていた事実、利根川の中流部に「島」のつく地名が沢山あることの解説も載っていました。

利根川中流部に「島」のつく地名が多い理由は?

 利根川が早川と合流する辺りには、矢島、内ヶ島、高島、尾島、小島など「島」の字がつく地名が多くあります。これは、かつては洪水の常襲地帯だったこの地域に「島」と呼ばれた中州がたくさんあったのが、地名の由来になっています。水田よりも一段高い位置にある「島」は畑に利用され、現在も野菜の供給基地になっています。

[26344] 2004 年 3 月 18 日 (木) 21:41:34 hmt さん
 神様の恋の通い路
ARC 信仰に象徴される地域性 ARC 地名における「上」と「下」

地名における「上」と「下」について[19527]で まとめたことがあります。
「お上」の王城の地(原則として京都だが江戸の例もある)を基準として上下を決めた官製地名と地形にもとづく上下地名。
地形型は川の上流(かみ)・下流(しも)が大部分だが、段丘地形では上段・下段のペア地名もあり、この場合は「うえ(うわ)」・「した」と発音されます。「上野・下谷」のように単純な上下の字の入れ替えではないペアもあります。

このようにして大部分の上下地名を解明できた中で残ってしまったのが上諏訪と下諏訪。
諏訪大社の上社・下社に由来するとしても、神社の上下はどこから?
じゃごたろ さん[18158][25716] は 上社=本家 説の後で「諏訪湖の上流側(上川のある側)に上社がある」という発言もされておりますが、「諏訪湖の上流」とは何でしょうか?

諏訪湖には上諏訪から下諏訪に向う水流があるとは思えないし…
と考えたあげく、思いついたのが御神渡(おみわたり)の走る向きです。
「御神渡」は 諏訪湖の結氷が気温変化による収縮・膨張による変化を繰り返した結果、歪に耐えきれなくなった上社側の起点で氷が両側から押されてせり上がるように砕けはじめ、この破壊現象が亀裂・氷の山脈として大音響と共に次々に伝播し、下社側の終点に向って走るとされています。
最近は暖冬の影響で発生は稀になり、昨年観測された御神渡は 5年ぶりだったそうです。

御神渡は上社の男神(建御名方命)が、下社の女神(八坂刀売命)に会いに行く恋の通い路と言われています。
御神渡注進式の神事が行なわれる上川口付近は上社本宮の波除鳥居から下社春宮への直線上にあるようです。

懸案もこれにて一件落着…というわけで、勇んで報告しようとしたら、[18142]kenさん・[18145]kentanさんにより、早々とキーワードが書き込まれていました。
諏訪大社の神事に関係あります?
御神渡りとか関係有りますでしょうか?

[26852] 2004 年 4 月 3 日 (土) 00:00:52 Issie さん
 諏訪の上下
ARC 信仰に象徴される地域性 ARC 地名における「上」と「下」

[26841] でリンクしちゃった御柱祭りの日程を見ていて「あれっ?」と思ったこと。

上諏訪は下社の側なのですね。
諏訪市全体が上社側かと思っていました。
“上”諏訪は上社,“下”諏訪は下社か,と…。

こんな区割りになっているのですね。

<上社> 富士見町,原村,茅野市,諏訪市(中洲・湖南・豊田・四賀)
<下社> 諏訪市(上諏訪),下諏訪町,岡谷市

こういう組み合わせでの合併というのは,なかったのでしょうかね。

[36757] 2005 年 1 月 14 日 (金) 21:42:34【6】 じゃごたろ さん
 上諏訪
ARC 信仰に象徴される地域性 ARC 地名における「上」と「下」

似たような話題を何度も書き込んで恐縮ですが、「御神渡(おみわたり)」を調べている間に「上諏訪」に関する情報も集まりましたので、その情報を自分なりにまとめてみました。

古くは「下諏訪」は「しものすわ」と呼ばれ、下社のある諏訪湖北岸一帯を指す地名であり、「上諏訪」は「かみのすわ」と呼ばれ、上社のある諏訪湖南岸、特に上社のある神宮寺周辺を指す地名であったそうです。その後、下社の門前町が中仙道の宿場として「下諏訪宿」となり、その周辺が特に「下諏訪」と呼ばれるようになります。そのため現在の「下諏訪」と下社のある位置は一致します。一方、高島城の城下町が甲州街道の宿場として「上諏訪宿」となりましたが、これは神宮寺周辺とは一致しません。現在の「上諏訪」とはこの「上諏訪宿」のおかれた高島城や上諏訪駅周辺を指す地名となりました。

さてここで問題なのは「上諏訪宿」です。はからずもIssieさんが昨年[26852]で、

上諏訪は下社の側なのですね。
<上社> 富士見町,原村,茅野市,諏訪市(中洲・湖南・豊田・四賀)
<下社> 諏訪市(上諏訪),下諏訪町,岡谷市

と仰っているように現在の「上諏訪」は下社、つまり「しものすわ」の領域にあたります。どういうことでしょう。

現・諏訪市は、まず昭和16年に上諏訪町、四賀村、豊田村が合併して旧・諏訪市となり、さらに昭和30年に中洲村、湖南村と合併して現在に至ります(参考:IssieさんのHP)。御柱祭の諏訪市の区分けは、この諏訪市を構成した昔の村単位であることがわかります。

ではこの上諏訪町をさらに細かく見てみると、明治7年に大和村、下桑原村、小和田村が合併して上諏訪村となったものが、のちに町制を施行したものであることがわかります。現在「小和田(こわた)」は高島城の東側に地名として残っているように、小和田村は「上諏訪宿」の存在する村です。その北隣が大和村、南隣が下桑原村です。(実はこの小和田そのものが「御神渡」と非常に関係が深いのですが、それは別途ということで)

ではこの「上諏訪宿」のある小和田村は「かみのすわ」と「しものすわ」のどちらだったのでしょうか。

もし小和田村が「かみのすわ」であったとすると、その南隣の下桑原村も「かみのすわ」と言えます。では「かみのすわ」の小和田村と下桑原村が大和村と合併した際を考えると、その合併でできた上諏訪村が「かみのすわ」ではなく「しものすわ」に組み込まれるということは不自然であり、まず考えられません。つまり少なくとも小和田村と大和村は「しものすわ」であったと考えるのが自然です。

ということは、「上諏訪宿」とは下社の領域「しものすわ」にありながら「上諏訪」の名を与えられたということになるのです。どういうことでしょうか。

高島城が築城されたのは比較的新しく、江戸幕府が開府する直前の1598年に日根野織部正高吉が設計し、完成したものです。この高島城下が城下町のとなるのはその後であり、江戸時代になって甲州街道が整備され「上諏訪宿」となるわけです。もしかしたら湯治場としてそれ以前から発展していたのかもしれませんが、高島城下が「上諏訪」と呼ばれるようになったのは、この「上諏訪宿」以来ではないかと思います。

つまりこういう事が考えられます。現在の「下諏訪」という地名は「下諏訪宿」を経由して直接的に下社に由来するものです。しかし現在の「上諏訪」という地名は直接的に上社から由来するものではなく、「下諏訪」よりも「かみのすわ」に近い方、もしくは「下諏訪」よりも江戸に近い方という意味合いで、高島城下に割り当てられた地名という意味合いが強いのではないでしょうか。ただし「下諏訪」が由来する「しものすわ」が、「かみのすわ」があって初めて成り立つものであり、「上諏訪」が「かみのすわ」とは間接的に由来するということは否定しませんが。

皆さんはどうお感じになりましたか。

さてここで、根本的な問題が残っています。「かみのすわ」は上社に由来し、「しものすわ」は下社に由来するとすると、そもそも上社、下社の「上」「下」はどうして決められたか、ということです。それと関連があるのが「御神渡」ではないかと思います。

何度もここで書き込んでいますが、昔の諏訪湖はいまよりも大きかったと言われています。諏訪湖周辺の地図を見ながら、想像を豊かにして以下をお読みください。

出典がどこだかわからなくなってしまいましたが、江戸時代には諏訪地方(高島藩)の石高を上げるために釜口(天竜川の注ぎ口)を削って、諏訪湖の水位を2m程度下げて陸地を増やしたため、諏訪湖の面積が半分ほどになったということらしいです。諏訪湖の岡谷側は、岡谷IC付近を扇の要とする扇状地形であり、意外と傾斜があります。そのため水位が2m上がっててもそれ程面積は増えません。つまり、水位を下げた際に陸地となったのは諏訪湖の南東の諏訪市側ということになります。

では現在の諏訪湖の面積を二倍にしたらどうなるでしょうか。おおよそ現在の諏訪IC付近まで湖であったと容易に想像できます。それ以前の時代にはもっと広かったでしょう。そうすると、諏訪湖の北端にちょうど下社が位置し、南端に上社が位置するように見えませんか。

そこで「御神渡」です。この「御神渡」は太古から発生する自然現象であり、諏訪神社の歴史以前から諏訪の地に住む人々に知られたものであることは確かでしょう。そのような人々が、一夜にして現れる(といわれる)「御神渡」という自然現象を目の当たりにして、「神様が馬に乗って通った跡」とか「竜神の現れ」と思うのは当然のことと思います。

諏訪湖には竜神伝説があります。大きく蛇行する「御神渡」がこの竜神伝説の由来となったと思われます。地誌によると、上社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)は諏訪の地に入った後に諏訪湖の竜神を討伐したとあるようですし、天竜川の名前も諏訪湖の竜神に由来するという説もあります。ちなみに、太古の諏訪湖は釜無川に注いでいたものが、八ヶ岳の噴火によりその流路を遮られ、釜口で決壊して流れ出したのが天竜川であるとも言われています。それが元は「天流川」と呼ばれていたのが竜神伝説と重なり「天竜川」になったと。

話は「御神渡」に戻しますが、太古の人々がその様な自然現象に畏怖心を抱き、その神を祀り、鎮めようとするのは自然な流れです。そして「御神渡」が現れ達する諏訪湖の北岸と南岸にそれぞれお社を建てて祀ったのが現在の諏訪大社の始まりではないのでしょうか。「御神渡」の神事では南北方向に「一之御神渡」「ニ之御神渡」の二本が現れますが、上社には前宮・本宮、下社には春宮・秋宮のそれぞれニ社づつあるのは偶然の一致でしょうか。

男神の祀られる上社と、女神の祀られる下社を結ぶように「御神渡」が現れる、と言うととても神秘的に感じられますが、その逆に「御神渡」の現れる両岸にお社を建てたと考えれば必然的なものとなります。これは記紀の時代以前の話であり、諏訪大社がいつから存在するか不明な、日本で最も古い神社の一つとされるのもそのためでしょう。その後、大和勢力に国譲りをした出雲勢力の伝説をはじめとした様々な伝説が混交して、現在の諏訪大社が成り立っていったのではないでしょうか。

さて「上社」と「下社」。「御神渡」が「神が通った跡」だとすると、どちらからどちらへ通って行ったかは気になるところです。そしてその道筋で、神様が降り立った方が「上」であり、神様が上陸した方が「下」であるとするのも当然のことでしょう。

残念ながら私はこの重要な部分に到達しておりません。敢えて言うならば、太陽の昇る南側から神様が降り立ったと考えるとか、「御神渡」の割れ目からその方向を南から北へと判断したのではないか、ということです(実際に私は御神渡を見たことがないので何とも言えませんが)。そして最初は区別のなかった社が、「御神渡」の「上」「下」に連携するように、「上社」「下社」とそれぞれ呼ばれる様になっていったのではないかと思っています。

長々と書き込んだわりには尻切れトンボ的な書き込みになってしまいましたが、現在の私が考えられる内容は以上です。いかがだったでしょうか。最後の「上」「下」に関してはもっと情報を集めてみたいと思います。

そうそう、あと調査の発端となった「御神渡」に関しては別途書き込みをしたいと思います。



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