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栃木県足尾町はなぜ栃木県に属しているのか?

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記事数=11件/更新日:2002年12月25日/編集者:あっちゃん

栃木県足尾町は、渡良瀬川の上流を占めますが、中流域が群馬県に属する渡良瀬川流域にあって足尾町は栃木県になっています。足尾町の歴史や生活圏などから、この疑問について読み解きます。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[1064]2002年3月9日
深海魚
[1065]2002年3月9日
Issie
[1067]2002年3月9日
Issie
[1069]2002年3月10日
YSK
[1072]2002年3月10日
miki
[1066]2002年3月9日
深海魚
[1073]2002年3月10日
深海魚
[4856]2002年11月13日
桃象
[4857]2002年11月13日
深海魚
[4859]2002年11月13日
YSK
[4871]2002年11月14日
G

[1064] 2002年 3月 9日(土)09:29:57深海魚[雑魚] さん
足尾町の謎
先月だったか、渡良瀬川鉱毒問題に奔走した田中正造を特集した
NHK番組を見て居てふと思ったのですが、鬼怒川水系と明確に
一線を画する足尾町が栃木県に属した必然性はなんでしょうか?

当時の足尾は殖産興業の最前線と思いますが、そうした要衝故に
栃木県の権勢がモノを言ったとか? それとも渡良瀬川を下るより
日足峠を越えた方が通行は楽だったとか?
[1065] 2002年 3月 9日(土)12:36:38Issie さん
Re:足尾町の謎
なぜ「栃木県」かといえば,理由はきわめて簡単で,
足尾が古代の「毛野国」分割以来「上野」ではなく「下野」の(上)都賀郡に属しているからです。
にもかかわらず上野の「群馬県」に属していたなら,県勢(権勢?)が云々されることがあるかもしれませんが(でも,こんなことはまずありません),栃木県なら至極当たり前の話です。

ではなぜ「上野」でなく「下野」なのかというと,こちらは
> 渡良瀬川を下るより日足峠を越えた方が通行は楽だった
このせいかな?
なにしろ渡良瀬川筋の途中にダムが作れてしまうくらいの峡谷だから。
もっとも江戸時代初めの慶長年間に銅山の開発が始まるまではほとんど何もない“ただの山奥”だから,ここだけわざわざ「下野」というのはやはり少し奇妙ですね。
1つ考えられるのは,毛野国を分割するにあたって,金精峠-白根山-皇海山という“わかりやすい分水界”が使われているけれども,渡良瀬川が平野に出てくる桐生周辺(勢多郡・山田郡)は,利根川流域と地域的に一体であるので「上野」の方に属することになった。けれども渡良瀬川最上流の足尾地域は,さっきの分水界の東側に当たるし,桐生方面とのつながりは弱そうだから,「都賀郡」で,結果として「下野」になった。
こんなところかな。

毛野の上下分割に当たって,足尾銅山の存在は全く関係ありません。
先の通り,銅山の開発が本格的に始まるのは江戸時代になってからです。
江戸時代を通して足尾は幕府直轄領でした。1つは,同じく都賀郡に属する日光の裏山であるということ,もう1つは銅山開発のためでしょう。
おそらくは「日光奉行」の管轄であったのではないかと思います(要確認)。
明治維新後,日光奉行所改め「日光県」の管轄となり,その後の曲折を経て「栃木県」となりました。

1912年に足尾線が開通するまで,足尾の銅は日足峠を越えて日光から運び出すのが“順路”でした。渡良瀬川は鉱毒を垂れ流すことはできても,銅を運び出すのは無理だったのでしょう。
かつて,日光駅から“いろは坂”下の馬返まで走っていた路面電車の最も基本的な役割は,日足峠を越えて運ばれ清滝の精錬所で生産された銅を日光駅まで運び出すことにありました。
足尾線ルートがメインになればこの路面電車は不要となり廃止されてしまいます。自動車渋滞でニッチもサッチも行かなくなるのは,はるか後のことですね。
[1067] 2002年 3月 9日(土)18:56:45Issie さん
足尾のこと
いくつかの点を確認してきました。
で,前言をいくらか修正。

現在は(上)都賀郡に属する足尾地区ですが,明治の初めまでは「安蘇郡」に属していたようです。
古くは細尾峠(日足トンネル)ルートではなく,粕尾峠を越えて粟野町方面へぬけるルートの方がメインだったのだと思われます(ところで,粟野町は上都賀郡の所属です。したがって,粟野町の一部または全部も安蘇郡に所属していたと思われます)。

郡が違っても,足尾は中世以来日光山(二荒山神社)の神領とされました。
これが足尾と日光の結びつきの初めでしょう。
江戸時代,銅山は幕府の直轄領でしたが,他の区域は引き続き日光山領。幕府の機構としては寺社奉行支配となるのでしょうが,いずれにせよ幕府の解体によってともに「日光県」管内となりました。

銅山の開発とともに,幕府は渡良瀬川沿いに銅を運び出すための陸路を整備しています。大間々からは渡良瀬川の水運を利用して江戸へ運び出す。
佐渡の金を運び出すために整備された北国街道や三国街道ほどではないにしても,それなりに賑わったようです。
足尾銅山は江戸時代半ば以降いったん衰微するのですが,明治の初めに古河市兵衛の買収するところとなり,新式の技術が導入されて大鉱山に発展しました。
“フル規格”鉄道としての足尾線が開通するのは1912年のことですが,それに先立ち馬車鉄道が渡良瀬川沿いに敷設されています。
つまり,大間々ルートと日光ルートの2本立てだったわけですが,古河グループ自体としてはアイスホッケーチームがそうであったように日光との結びつきが強そうですね。
[1069] 2002年 3月 10日(日)04:22:51YSK さん
足尾町のこと(余談)
 足尾町のことですが、この町の市外局番は、10年位前(定かではありません)まで桐生市の含まれる地域と同じ「0277」でした。現在は日光市などともに、市外局番「0288」に属しています。足尾町がなぜ最近まで市外局番0277だったのかは分かりません。でも、この事実も、足尾町が桐生市など群馬県側ではなく、日光市など栃木県側とより強い関係にある事がうかがえますね。
 しかし、足尾鉱毒問題については話は別で、渡良瀬川流域の群馬県の多くの地域も甚大な被害を被りました。また、銅の精錬から発生したばい煙は、銅山周辺の豊かな森を破壊しました。現在でも多くの地域がはげ山のままで、植林の努力が続けられています。足尾は、群馬県民にとっては、忘れ得ない土地であるといえます。
[1072] 2002年 3月 10日(日)08:57:37miki さん
郵便番号に見る足尾
足尾町は郵便番号も群馬県と同じような番号でした。
もともとは〒376-05。
上に37がついていますね。
ところが、今の番号は〒321-15(+地域番号2ケタ)。
こういう郵便番号が変更された事、よくありますよね。
茨城県利根町や奈良県月ヶ瀬村がその例ですが。
[1066] 2002年 3月 9日(土)16:52:25深海魚[雑魚] さん
>>1065
成程、やはり日足峠の故ですか。日光市内に古河電工が在るのも
合点が行きます。ちなみに昨年、中禅寺湖畔の半月山にドライブ
しました。展望台付近はちょっとだけ足尾町に属するんですね。
地図で見るとほんの数km先の久蔵沢ですが、実際に行くと物凄い
高低差で、一旦いろは坂を経由せざるを得ない理由を痛感した処。
同じ町内同士の移動で、一旦隣接自治体を経て所要一時間という
例も珍しいですね。(鉄ネタですが、間藤以遠の観光活用の話は
どうなった事やら?)
[1073] 2002年 3月 10日(日)10:28:37深海魚[雑魚] さん
>>1067、1069
粕尾峠ですか。確か道路は狭隘気味なるも、自然豊かな景観なので
ドライブ推奨コースとして何かの旅行誌で紹介されて居ましたね。
安蘇郡といえば、鉱山とは趣が異なりますが同じ「採掘系」として
葛生町を連想します。

鉱毒に付いては、下流の群馬県ばかりが馬鹿を見た観がありますね。
間藤以北は今でも痛々しい禿山が殆どですが、尾根を越えれば景勝
中禅寺湖というのも対照的。鉱害が日光に及ばなかったのは幸い。
[4856] 2002年 11月 13日(水)17:06:01桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
日光
[4853]
>もしこの合併が実現すると、栃木県の北西部に広大な(県全体面積の22.6%)自治体の出現
>となりますが・・・。私としては、新市名も”日光”であってほしいものです。

詳しいことはよくはわかりませんが,「日光」という地名の知名度を考えると,新しい市の市役所は今市周辺,市名は日光と言うことになるのではないでしょうか。そういう例はかなりあるようにも思います。

足尾町の住民の生活圏は鹿沼市ではなく,日光市なのでしょうか。また塩谷町の市町村合併におけるスタンスはどうなっているのでしょうか。

==
[4857] 2002年 11月 13日(水)18:03:07深海魚[雑魚] さん
「日光」 の知名度
[4856] 桃象@国仲涼子ファンさん
>新しい市の市役所は今市周辺,市名は日光と言うことになるのではないでしょうか。
今市市の 「日光ウエスタン村」 や 藤原町の 「日光江戸村」 などに鑑みるに、「日光」 の知名度は
絶対的でしょうね。また藤原町に配慮すれば、鉄道、道路ともに交通の要衝となる今市に市役所を
設置しようとする考え方は自然かと思います。

>足尾町の住民の生活圏は鹿沼市ではなく,日光市なのでしょうか。
そう思います。鹿沼市域では最も西側となる山間の古峰神社には何度か訪れた事がありますが、
ここから山一つ隔てた足尾に抜ける道路は無かったか、あっても狭隘な林道だった様に思うので、
足尾-鹿沼の一般的な移動では、必ず日光を経由します。但し、日足峠という地形的な断絶性や、
行楽期に渋滞が慢性化している国道120号線の事情を考えると、日常的な日光志向がどの程度か、
少々疑問にも感じます。

一方、渡良瀬川を下って大間々、桐生という選択肢もありますが、日光に比べると遠いし、実際に
休日午後に国道122号線を南下したところ、迂回意図と思しき首都圏方面への渋滞に巻き込まれ、
草木ダムから大間々の街まで一時間以上を要した経験があります。

>また塩谷町の市町村合併におけるスタンスはどうなっているのでしょうか。
昔は矢板と新高徳を結ぶ東武ローカル支線の中間という位置付けだった塩谷町が、合併に関して
どの様な立場なのかは存じませんが、経済的には明らかに、河内町や上河内町を軸線上に含めた
宇都宮志向が主流であると考えます。もし今市方面への志向が強ければ、大宮地区から鬼怒川を
越えて今市市小林地区方面に抜ける計画道路が早期に整備されたものと思います。 (まあこれは、
日光や鬼怒川方面に赴く時に、氏家を経由する事が多い私個人の願望も多分に含まれますが。)
[4859] 2002年 11月 13日(水)19:26:52YSK さん
足尾町の生活圏
足尾町の生活圏などについては、落書き帳アーカイブズ内、「栃木県足尾町はなぜ栃木県に属しているのか?」の中にいろいろヒントがありますよ。
http://uub.jp/arc/arc24.html

足尾町の生活圏ですが、基本的には日光市を指向するものと思います。ただ、最近粟野町を介して鹿沼市方面に抜ける県道鹿沼足尾線の整備が進んでおり、鹿沼や宇都宮方面に移動する場合は、こちらを通ることも多いようです。

また、群馬県方面ですが、かつては国鉄(後、JR)足尾線、現在のわたらせ渓谷鐵道や国道122号線を介した方向への移動は、群馬県の実施した買物動向調査などからするとそれなりにあったようです。しかし、現在では、高付加価値商品の買物では宇都宮市を指向する傾向が急速に伸びているようで、群馬県側とのつながりは相対的に弱くなっているようですね。この事実も、県道鹿沼足尾線を通過する人口が少なくないのではないかと私が推測する要因の1つです。

しかし、足尾町は、「足尾鉱毒事件」の舞台であり、群馬県東毛地域や栃木県の足利・佐野・下都賀地域にとっては、忘れ得ぬ土地ですね。
[4871] 2002年 11月 14日(木)00:50:16G[わたらせG] さん
足尾・塩谷
[4856]桃象@国仲凉子ファンさん

足尾町の住民の生活圏に関しましては、[4857]YSKさん[4859]雑魚さんの詳しい解説のとおりでございます。
また、塩谷町のスタンスに関しましては、今のところ、”複数市町村による研究会”は組織されておらず、町職員が市町村合併の効果や課題等について研究を行う庁内組織を設けている程度です。栃木県市町村合併推進要綱によりますと、いろいろパターンはあるようですが、東隣の矢板市との合併パターンに入っているようですね。

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