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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

シリーズ・地域の地理雑学−新潟県編−

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記事数=6件/登録日:2003年6月15日/編集者:YSK

新潟県内の地理雑学をセレクションしました。「新潟県はどの地方に属するのか?」等も併せて参照いただくと、おもしろいかな、と思います。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[889]2002年2月13日
Issie
[890]2002年2月13日
Issie
[913]2002年2月17日
Issie
[914]2002年2月17日
Issie
[7179]2002年12月31日
Issie
[7507]2003年1月9日
Issie

[889] 2002年 2月 13日(水)19:04:23Issie さん
新潟
現在,新潟市は信濃川をはさんだ左右両岸に市街地が広がっていますが,本来の「新潟」は信濃川左岸(白山神社側)“だけ”の地名です。新潟駅のある信濃川右岸の方は「沼垂(ぬったり)」と呼ばれ,新潟とは全く別個に独立した市街地を形成していました。

「沼垂」は古代に大和政権がこのあたりまでようやく勢力をのばした7世紀に設置された「停足柵(ぬたりのき)」までさかのぼる大変に古い地名です。
現在の沼垂市街がこの時代からずっと続いてきたわけではもちろんありませんが,信濃川と阿賀野川(江戸時代までは直接日本海に注ぐのではなく,ここで信濃川と合流していた)の河口に発達した河港として古くから栄えました。

対岸の「新潟」は沼垂に比べればずっと新しい港町で,江戸時代を通じて特に長岡藩の外港として発展しました。
しかし幕末に幕府の直轄領となりここに幕府の役所が置かれたことが,恐らくは新潟が沼垂を凌駕し,県庁が置かれることにつながったのでしょう。
なおこのとき長岡藩は代わりの領地として長岡西方の山間部を幕府から与えられたのですが,何より重要な財源であった新潟を失ったことは,その後に京都所司代を勤め,戊辰戦争の当事者にもなった長岡藩にとって大きな経済的痛手になりました。

さて,新潟。
明治になり,現在の信越線の前身である北越鉄道が長岡から信濃川右岸(東側)を通って県都への路線を延長したとき,とても信濃川をわたることができなかったので「新潟駅」を信濃川右岸の沼垂市街に設置しました。もちろん,これでは新潟市街から遠すぎるので,後に万代橋近くまで路線を延長して新たに「新潟駅」を開設して,それまでの新潟駅は地名のとおり「沼垂駅」に改称されました。また,この間に右岸の“中蒲原郡沼垂町”は左岸の“新潟市”(旧西蒲原郡)に編入されています。
左岸の新潟市街には柏崎からの越後鉄道(現JR越後線)が「白山」まで乗り入れていましたが,昭和に入ってからこの白山駅と新潟駅を統合し,さらに新発田までの新線を建設して秋田・青森方面への直通運転を可能にするための路線変更が計画され,戦後になって工事が始まりました。
ちょうど1964年の新潟地震の前後に一連の工事が完成し,新潟駅は万代橋近くの従来の新潟駅よりはやや新潟市街から遠い現在位置に移転し,沼垂経由の旧ルートは廃止されました(ただし沼垂までの区間は現在も貨物線として営業しています)。
またこれと前後して新発田までの「白新線」も開通し,青森への特急列車が新潟を通過することができるようになりました。つまり,「白新線」というのは“白山-新発田間の路線”という意味なのです。

そうこうするうちに,いつのまにか右岸の沼垂市街は左岸の新潟市街と一体化,というよりは“呑み込まれて”,現在の新潟市街となったのです。
[890] 2002年 2月 13日(水)20:11:00Issie さん
長岡藩
> 長岡藩側が「官軍」だった

読み落としていました。
長岡藩は,会津藩と並んで戊辰戦争で官軍と直接戦闘を交えた「賊軍中の賊軍」です。
激しい戦闘で長岡城下町が完全に焼失した上に,戦後(会津藩や南部藩とは違って)藩の存続は許されたものの領地の大半を明治政府に没収されて,藩財政は完全に破綻していました。ここに(誰の入れ知恵かわからないけれども,意味を取り違えているように思えて仕方がない)小泉首相の演説で有名になった「米百俵」のお話になるわけです。
でも結局,財政的に藩を維持することができず,長岡藩は廃藩置県を待たずに廃止されて(要は倒産した,ということ),既に設置されていた「柏崎県」に編入されました。
だから,長岡に県庁が置かれなかったのは別に「賊軍」であったせいではありません。実際,同じ「賊軍中の賊軍」であった会津藩の(会津)若松にはかなり遅くまで「若松県」が置かれていたし(後に福島県に編入。ちなみに福島藩も幕府側の藩であり,戊辰戦争後三河に移転させられました),仙台や盛岡はいまだに県庁所在地でしょ。

新潟の場合は,ここが幕府直轄領となり,さらに安政条約で「開港場」に指定され(これも幕府直轄領だたからです。いくら幕府でも“独立した”大名の領地を勝手に開港場に指定することはできません),この幕府の役所がそのまま明治政府の役所に流用されたことが,新潟が日本海側最大の都市に飛躍する基礎になりました。
[913] 2002年 2月 17日(日)20:31:21Issie さん
新潟のこと
> 阿賀野川のルート変更(現在の通船川?)

そうです。1731年までは現在の通船川が阿賀野川の本流でした。さらに南の新津市との境には「小阿賀野川」というのもあるから,こちらが優勢であったこともあるかもしれません。
いずれにせよ,このあたりは治水・排水事業が完了する1960年代まで極めて劣悪な泥田で,田んぼだか沼だか区別のつかないような状態だったようです。そのころの記録映画では亀田あたりの農民が胸まで泥につかって田植えをしている映像がよくでてきます。
新潟県が“おいしいお米の大産地”となったのは実はごく最近で,江戸時代以来の治水と農地改良の結果なのです。
[914] 2002年 2月 17日(日)20:32:34Issie さん
上越・中越・下越
> 新潟県は畿内に近い方から上越、中越、下越と区分される

いつから始まった区分なのか私は知らないのですが,通常「上越」は高田や直江津(つまり上越市)を中心とする頸城地方を指します。県北部の岩船地方や北蒲原地方が「下越」なのは疑いがありません。
微妙のなのは「中越」と「下越」の境界と,新潟の位置付けです。
通常,「中越」というのは長岡を中心とする地域と理解されていて,その場合には長岡市(古志郡と三島[さんとう]郡にまたがる)を中心に古志・三島・刈羽の各郡および魚沼3郡と,それに三条を中心とする南蒲原地方が含まれます。
「下越」を新潟を中心とすると考えれば岩船・北蒲原に加えて,西蒲原・中蒲原・東蒲原3郡も「下越」に含まれることになります。でも文化的には,新潟は中越の方に近く,先の岩船・北蒲原に限った方が合理的なこともあります。
つまり,一番問題なのは蒲原地方をどうわけるか,ということなのです。

行政の立場では,やはり新潟を「下越」に含めることが多いのですが,「中越」との境目はそれぞれの機関によってまちまちです。
ご参考までにこちらをどうぞ。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/kubun/tyubu_1.htm#niigata
気象庁の予報区分についてはこちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/tenki/t-hoku.htm#niigata

> これらの区分と「柏崎県」との関係は?
これはこちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/k-tyubu.htm

魚沼地方は「中越」に含まれます。特に上越線(これは“上州・越後間の路線”という意味。頸城の上越とは全く無関係)で長岡と結ばれた北魚沼(小千谷が中心)と南魚沼(一応,六日町が中心)は問題ありません。ただ,十日町を中心とする中魚沼地方は高田・直江津方面との結びつきも強く,衆議院の中選挙区時代には上越と同じ「新潟4区」に含まれていました。長岡を中心とする中越地方は,言わずと知れた「新潟3区」ですね。「1区」は新潟近郊と佐渡,「2区」は下越というわけ。

> 千曲川と信濃川の分界

長野県と新潟県の県境です。
越後の方では「信濃から流れてくる川」という意味で「信濃川」と呼んでいるのでしょうね。
信州では「千曲川」というオリジナルの名前があるし,“信濃を流れているのは自明の理”という意識があるのかもしれません。
相模川は「相模の真ん中を流れ,相模を代表する川」という意味なのでしょうが,信州の人にはそういうネーミングをする感覚がなかったのかもしれませんね。
このあたり,昔からそう呼んでいるだけで別に理屈はないでしょう。全国で命名法が首尾一貫している必然性など,どこにもありません。

> 「千曲」と「筑摩」

「千曲川」というのは,漢字で書いたとおりの意味だと言われていますが,どうでしょうか。
「筑摩」は今でこそ「ちくま」と読んでいますが,もともとは「つかま」と読んでいました。現在でも,松本市南部の「筑摩地区」は「つかま」と読んでいます。
だから,これは“偶然の一致”と考えてよいでしょう。
[7179] 2002年 12月 31日(火)01:57:43Issie さん
雪についての覚え書き
どうも私は YSK さん に2日ないし1日先立って,ほぼ同じルートを移動したようです。
26日 東京 → 盛岡
27日 盛岡 → 八戸 → 青森 → 秋田
28日 秋田 → 新潟
29日 新潟 → 長岡 → 水上 → 高崎 → 大宮 → 武蔵浦和 → 西国分寺 →…

本当は普通列車で,と行きたいところですが,最近は特急利用が増えましたねぇ。
普通列車自体が利用しづらくなってきていること,できたら午後半日くらいは街中の移動に使いたいから,できるだけ早く目的地へ着きたいこと,あたりが理由です。
夜行はできるだけ利用しない主義なので。だって外が見えないから。

そんなわけで,上の中で普通列車を利用したのは29日の長岡から先だけです。新潟と長岡の間は高速バス。
実のところ,盛岡と八戸の間はどちらにするか迷いました。
ま,今回の思いつきのきっかけは新幹線の八戸延長だから,ここはひとまず新幹線で。
…しかし,沼宮内(今度からは「いわて沼宮内」か…)から先はトンネルばかりで,予想通りつまらない。もっとも,在来線の奥中山越えも結構退屈なんですが。
上越新幹線に乗らないのはもちろん,雪の季節に清水トンネルとループ線を通らない選択肢はないからですね。ついでに高崎での「鳥めし」も楽しみだし。

この時期の東北は何度か行ったことがあるのですが,最近の暖冬傾向で年内には雪がないことが多く,東北での雪国体験は初めてでした。越後や信州の雪は体験済みなんですけどね。

で,一番感じたこと。
越後と東北とでは寒さの質も雪の質も違う,ということ。
私が知っている雪は越後や,たまに東京に降るビショビショの雪。信州は寒いから違っていましたけどね。
(私,信州で初めて冬を過ごして一番驚いたのは,雪が降ってきても地面で融けずに路面がぬれないこと。落ちた雪が融けないまま風に吹き寄せられていたこと。積もり始めの段階なら,ホウキで雪をかき寄せてしまえば雪かきが済んでしまうこと。翌朝はツルハシで雪(というより氷)を砕いて片付けてしまうこと。全部,寒くて凍ったままの乾いた軽い雪だからですね。)

庄内のあたりは微妙でしたが,北東北3県の乾いた雪と越後の湿った雪とでは車窓から眺めても質感が違うように感じられます。なるほど,風で吹き飛ばされるわけだ。
新潟県では当たり前の消雪パイプが全然ないのも,雪の違いと関係がありそうな気がしました。

ところでこの間,冬型の気圧配置が続いていて,中でも盛岡から秋田へ移動した27日は東北上空を寒気団が通過したせいで,特に青森県内は大雪,日本海縦貫線をはるばる旅してきた大阪や上野からの寝台特急はベタ遅れでしたが,秋田から新潟へ移動した28日は“中休み”。ちょっとばっか期待した日本海の波は穏やかめだったのは少しばかり残念でした。
新潟は盛岡や秋田に比べると暖かいですねぇ。新潟市内ではこの日1日で前日までに降った雪が融けてしまったようで,ほとんど見当たりませんでした。
ところが翌29日,新潟から長岡まで高速バスで移動してみると,新潟と長岡では風景が全然違うのですね。
新潟では全くなかった積雪が三条・燕を過ぎるあたりから地面を覆い始める。見附を過ぎると一面を覆うようになり,信濃川を渡って長岡市(…といっても城下町の対岸)はすでに「雪国」の光景でした。積雪は数センチだけど。
長岡から汽車に乗り,次の停車駅の宮内。目に見えて積雪が増えます。越後滝谷,小千谷と行くにつれて見る見る雪は深まり,小出を過ぎて魚沼盆地に入る頃には数十センチ,場所によっては1メートルくらいに。
長岡(中越)と新潟(下越)とでここまで違うとは思いませんでした(もちろん,下越でも今回通過しなかった新津や五泉ではまた違っているのでしょうが)。

もしカブっちゃってたら許してくださいね。>YSK さん
(1日・2日でどれだけ風景が変わったか,実は楽しみだったりして。)
[7507] 2003年 1月 9日(木)18:36:02Issie さん
白根駅
[7492] 雑魚 さん
>堤防沿いの経路から、白根駅でも確か市街が川向こうになるなど制約が
>多かったですね。

「白根駅」も相模線の「厚木駅」のように,当該市町村外の川向こうにある,と思っちゃうでしょ。
確かに白根駅があったのは西蒲原郡味方村で,白根市(旧中蒲原郡白根町)の市街地から見れば川向こうなのですが,実は味方村の大字では「白根」なのですね。1901年に味方村その他と合併するまで,ここは「西蒲原郡白根村」という“単独の村”でした。もちろん,新潟交通の前身の新潟電鉄がここに駅を作ったときには,とうに「味方村」になっていたわけですが。
だから少なくとも,この駅名は所在地の地名によるものと言えなくもないのです。
おそらくは中之口川をはさんで両岸にまたがって「白根」と言う地名があって,それが川を境に「西蒲原郡」と「中蒲原郡」とに分割されたときに,「白根」もまた分割されたものと思われます。ただし,より大きな集落が形成されていたのは“右岸”(中蒲原郡)側なので,2郡に分割される以前から,こちら側は「白根町」,“左岸”(西蒲原郡)側は「白根村」と,それぞれ別個の共同体を形成していたかもしれません(確認していないのですが,もしかしたら川の両岸で江戸時代の所属藩が違っていたかも)。

今,市制・町村制施行当時からの新潟県の市町村の変遷をまとめているのですが,“明治の大合併”が行われる以前の蒲原平野や頸城平野には膨大な数の新田集落があるのですね。十数ヵ村を合併して1つの新しい村が誕生したというものが非常に多い。
そして,新潟県では市制・町村制施行の1889(明治22)年4月1日に次いで,1901(明治34)年11月1日に「明治の大合併・第2弾」というべき全県的な町村合併が行われています。
もちろん,「昭和の大合併」による市町村の整理も行われている。
これでずいぶんの数の自治体が整理されているはずなんですけどね。

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