都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

都道府県名の由来 〜都道府県名はいかにして命名されたのか〜

トップ > 落書き帳アーカイブズ > 都道府県名の由来 〜都道府県名はいかにして命名されたのか〜
記事数=18件/更新日:2003年7月16日/編集者:YSK

私たちが地域を語るときに、最も身近な地域スケールの1つが「都道府県」ではないでしょうか。「ご出身は?」と問われたとき、真っ先に「北海道です」とか「宮城です」などと応えるケースが多いでしょうね。このアーカイブでは、そんな「都道府県名の由来」にせまります。

… スポンサーリンク …

★推奨します★(元祖いいね) YSK 三丁目 kentan ken 作々 いっちゃん G hmt BANDALGOM 烏川碧碧 みやこ♂ 右左府 でるでる さざ波 グリグリ


[46] 2000年 5月 14日(日)01:39:03キラー・カーン さん
ご存じでしたら教えてください。
小学校の時、担任の先生が言っていたことが本当なのか知りたい!
県名と県庁所在地が一致する県(例・青森県と青森市、千葉県と千葉市)
は、幕末(?)に官軍側についていたから許されたが、
逆に一致しない県(例・栃木県と宇都宮市、愛知県と名古屋市)
は、賊軍だったので一致する所在地を許されなかったということです。
この話は本当ですか?私の記憶違いでしょうか?
本当だとしたら、今回の埼玉県のさいたま市はいいのかな?
まぁ、過去の話ですからね。(でも引っかかる)
教えてください。

HP 4-4会ホームページ
[47] 2000年 5月 20日(土)07:33:29オーナー グリグリ
まとめてフォロー
さきしま さんへ
「さいたま市」正式に決まりましたね。
確かに落とし所としては妥当かとは思いますが、私はひらがなの市というのは、
なんか重みがないようで、あまり好きではありません。

Maybe さんへ
ご訪問ありがとうございます。
「全国市区町村リスト」見ました。
町村まで全部リストするのはなかなかできないことだと思います。

キラー・カーン さんへ
官軍・賊軍という話は私もどこかで聞いたような気がするのですが、
おそらく違うと思います。PHP文庫の「47都道府県うんちく事典」には
都道府県名の由来が詳しく述べられています。それを見る限りでは、
ご指摘のような話はないと思います。この本によれば、都道府県名は、
都道府県庁所在地の都市名、あるいは、その所属する郡の名前から
付けられています。例外は、万葉集からの命名である「愛媛」、それと
北海道と沖縄です。栃木と三重は栃木市と四日市市(三重郡にあった)に
県庁所在地があったときの命名です。

では、埼玉県は? 埼玉県の県庁所在地は当初岩槻市にありました。
岩槻市は埼玉郡に属していたからです。

なお、この本に、都道府県の区割りや県庁所在地の決定に当たって、
新政府側に属したかどうかが考慮されたとするのは俗説とあります。
ただし、名称については、幕府側にたったところでは、藩名と同じ
名称を避けるために郡名を採用したいという気持ちが働いたのかも
しれない、と記述されています。

ではまた。
[967] 2002年 2月 24日(日)21:06:36Issie さん
戊辰戦争伝説
> 戊辰戦争の遺恨

別にこの話題に関して,ということではないのですが…

一般的な話として,私は「戊辰戦争で…」という話はあまり信用していません。
もちろん,個々の話題について確かに戊辰戦争が原因で,ということはあるのだろうと思います。
しかし,「賊軍」「官軍」という色分けで全部をひっくるめて一律に説明する説は信じることができない。

たとえば,よく話題になるのは都道府県名について。
いわく,「賊軍」であった地域の県は懲罰の意味も含めて従来の藩名から改称された…。
これは本当か?

現在の47都道府県について大雑把に言えば,東日本では県庁所在地ではなく郡名による県が多く,西日本に所在地名による県が多いのは事実です(ただしあえて言えば,秋田・千葉・佐賀・大分・宮崎・鹿児島の各県は郡名と所在地名が同じで,どちらによるものか判断できない)。
でも,これは結果の話であって,1871年の廃藩置県の段階からこの47都道府県に統合することを構想していたとは思えない。
この47という数や各県の名称になるまでには多分に偶然によるものが少なくないし,途中の変遷を見れば,一概に「賊軍」「官軍」の色分けで説明できるほど単純なものではないように思います。

たとえば,「賊軍の首魁」であった徳川宗家の藩を前身とする県は,なぜいまだに「静岡県」なのでしょう(“駿河府中”から“静岡”へ改称したのは明治政府ではなく,徳川家自身です)。当然,真っ先に改称され,県庁が移転されてしかるべきです。
福島藩主の板倉氏は代々幕府の高官で,当然戊辰戦争の「賊軍」です。戦後に藩主は移転させられたけど,城下町の福島はそのまま県庁が置かれつづけ,しかも「信夫県」とはなっていません(1871年11月半ばの半月を除いて)。
新政府に協力的であった福井藩や宇和島藩を前身とする県は改称された上,隣接する県に併合されてしまいました(福井県はその後,幾多の変遷を経て復活しますが)。
新政府主流派の一角である「佐賀県」でさえ,しばらくの間はなくなっていたのです。

「戊辰戦争で…」と説明するのは簡単だし“面白い”のですが,それが本当かどうかはそれぞれの事例についてきちんと確認することが必要なのだろうなぁ,と思います。
もちろん,これは「戊辰戦争が原因である」というのを全否定するものではありません。本当にそれが原因の場合もあるでしょう。それがきちんと確認できればそれでいいのです。

ところで,福島と二本松の話,詳しいことは私は知らないのです。
[2167] 2002年 7月 12日(金)17:03:00miki さん
長野県・県名の由来
ここに書いてありましたよ。
http://www.windsnet.ne.jp/20/
[2280] 2002年 7月 21日(日)22:31:13YSK さん
栃木市
栃木市は、地元では「栃木」と呼ばれているのではないかと思います。

そもそも、栃木県の県名も、この栃木市から由来しています。大雑把に説明しますと、現在の栃木県は、栃木を県庁所在地とする旧栃木県と、宇都宮を県庁所在地とする旧宇都宮県が合併してできた県です。県庁を宇都宮に移す代わりに、栃木は県名として残りました。
つまり、「栃木」は、県の名前である前に、栃木という都市の名前であるわけです。ですから、少なくとも地元では、栃木市に行くときは、「栃木へ行く」と言うのではないかと思います。

ただし、県外からの通行者に配慮してか、道路の行先案内の表示板には、「栃木」と書かず、「栃木市」と表示してあることが多いですね。

この点、県名からとった沖縄市や、県名(郡名)からとった山梨市とは違うわけですよね。ただし、山梨市の場合、市制施行時の旧構成町村に「山梨村」があるようなので、一概に「違う」と決めつけるわけにはいきませんが。

栃木市は、江戸時代に巴波川(うずまがわ)の水運で栄えた歴史のある町です。最近の小京都ブームで、観光客も多いと聞きます。
[7081] 2002年 12月 28日(土)12:05:03ken さん
re:彦根
水戸と彦根はそういうことですが、もっとも
[7075] 江州人さん
> 彦根城天守閣前の梅の木は水戸市から送られたものだそうです。
これ、何度植えても枯れてしまう、とか、なかなか育たないとか、何かそんな逸話がありませんでしたっけ?井伊直弼の怨念説みたいな。
凄く小さいですよね。彦根城天守前の水戸の梅。

和解友好都市という点では、萩市と会津若松市は、未だに民間レベルのさまざまな融和活動は行われているものの、市民意識調査などでは、行政レベルでの「友好都市」などについては、「時期尚早」(135年経ってますが)という感じみたいですね。

さて肝心の彦根市。
[7053] 江州人 さんの
SUB:彦根は著名?
ですが、間違いなく著名でしょう。
彦根藩は、譜代大名全国最大の35万石。彦根城天守は、全国に4つしかない国宝天守。
もし、薩長新政府による懲罰的政策がなければ、彦根市が旧近江国の県庁になり、現滋賀県は彦根県という県名になっていても不思議はない、そういう格の街だと思います。
ここでは皆さんご存知と思いますが、反薩長行動を取った県は県庁所在都市名でない県名を付けられたところが多いのは有名な話。
彦根の名が自治体名から消えるというのは、ちょっと考えたくないですね。
[7123] 2002年 12月 30日(月)01:55:04【2】Issie さん
賊軍藩と県名
しばらくぶりに(旅行中に酒を飲む習慣がないもので)日本酒を5合飲んだら,前の発言を書いた後眠っちゃいました。

[7081] ken さん
>ここでは皆さんご存知と思いますが、反薩長行動を取った県は県庁所在都市名でない県名を付けられたところが多いのは有名な話。

ずいぶん前にここにも書いたことがあるのですが,
この話,明治半ばからよく言われ広く信じられていて,それなりに説得力があって面白い説明なのですが,私は少し疑問に思っています。少なくとも,これで全部の場合をすべて一律に説明できるのか。いわゆる「鉄道忌避伝説」と同レベルの,後付けの説明ではないのか。

たとえば,「福島県」。
陸奥(岩代)福島藩は幕末段階で譜代大名の板倉氏3万石。小藩ながら譜代大名として代々幕府機構の主要部分を担い,戊辰戦争でも奥羽越列藩同盟つまり「賊軍」側に立ち,あげくに戦後,2千石減封の上,三河重原(愛知県刈谷市)に飛ばされました。
「空き地」となった福島地域は政府直轄となり,「福島県」が設置されます。これが結局は現在の福島県につながるわけですが,1871(明治4)年7月(旧暦)の廃藩置県後,11月の“第1次府県統合”の段階では一旦廃止され,「中通り」は「二本松県」(旧二本松藩,丹羽氏5万石もやはり「賊軍」です)に統合される予定でしたが,すぐに福島を県庁所在地とすることに変更され,「信夫県」ならぬ「福島県」のまま,1876年の“第2次府県統合”では岩代国全域と磐城国の大部分が統合されて現在の福島県となります。
最終的な県域からすれば福島は北に偏りすぎているのですが,旧藩名そのままですね。
賊軍中の賊軍,会津(若松)藩の「若松県」も会津松平氏からの領地没収で設置された後,旧会津藩の藩域のまま(現在の新潟県東蒲原郡も含めて),そのままの名前で“第2次府県統合”で福島県に合併されるまで存続しました。

同様に,「賊軍」藩の1つである出羽(羽前)山形藩(水野氏5万石)も版籍奉還後の1870(明治3)年7月(旧暦)に近江朝日山(滋賀県東浅井郡湖北町)に移転した後,政府直轄となって設置された「山形県」が「村山県」となることもなく“第1次府県統合”で村山・最上地域統合の核となり,“第2次府県統合”では「置賜県」と「鶴岡県」とを合併して現在の山形県となりました。
この「鶴岡県」,旧庄内(鶴岡)藩(酒井氏,もと17万石から12万石に減封)と旧松嶺藩(庄内藩支藩,2万石余。同名回避のため松山藩から改称)および庄内藩からの没収地を管轄していた旧山形県の庄内地域分が“第1次府県統合”で統合されて成立(田川郡および飽海郡)した「酒田県」から1875年8月に県庁を移転したものです。実は「鶴岡藩」(「庄内藩」は通称。藩庁=旧城所在地が鶴岡なので,版籍奉還後は「鶴岡藩」が正式名称)は1869(明治2)年9月(旧暦)に「大泉藩」と改称しているのですが,酒田から県庁が移転してきたときには“旧称”の「鶴岡」が復活しているのですね。
言うまでもないことですが,庄内藩もまた「賊軍」を代表する藩です。

「愛媛県」。
伊予松山藩主の久松松平氏は薩長にとっての「仇敵」である伊勢桑名藩・久松松平氏の親戚で,やはり「賊軍」に分類されたので,それが旧藩名を奪われて郡名でもない(松山城下は温泉郡と久米郡にまたがる),こともあろうに神話から引っ張り出した「愛媛県」となった原因に見えるのですが,それも適当かどうか。
旧松山藩領を中心とする「中予」北半および旧西条藩(ここは紀州徳川家の親戚)領などからなる「東予」が“第1次府県統合”で「松山県」に統合され,これが1872(明治5)年2月(旧暦)に「石鉄(せきてつ)県」に改称されました。石鎚山にちなむ名前なのだそうですが,旧藩名とも郡名とも関係がないところは,現在の「愛媛県」と同様です。
一見,松山藩が「賊軍」であるせいにも見えるのですが,西条藩は親戚の和歌山(紀州)藩ともども,一応は「官軍」側ですよね。
それよりも,旧藩名でも郡名でもない県名,というのは伊予北半の「松山県」改め「石鉄県」だけでなく,伊予南半,つまり宇和島藩や大洲藩など「南予」地域(宇和郡)および「中予」南半(喜多郡ほか)を統合した「宇和島県」でも同様,「石鉄県」に遅れること半年の同1872年6月(旧暦)に「神山(じんざん)県」に改称されています。
説明するまでもなく,宇和島藩は幕末の改革派を代表する藩であり,旧藩主の伊達宗城は明治政府初期の高官でしたから,藩名を奪われる所以などどこにもないわけです。
にもかかわらず,北半の松山県と同じ軌跡をとり,両者を統合した県が「愛媛県」となった,というのは,単なる「賊軍」か「官軍」かという問題とは違う次元の指向性があるように思います。

近江の場合,“第1次府県統合”で湖北7郡と湖南5郡の2県に統合され,湖南の方は大津に県庁が置かれて「大津県」(廃藩置県以前に旧幕府直轄地を管轄する県として1868(慶応4)年閏4月(もちろん旧暦)に“直ちに”設置)となり,これが1872(明治5)年正月(旧暦)に郡名による「滋賀県」に改称されています。
一方,湖北の方は当初は長浜に県庁を置く予定で「長浜県」とされたのですが,結局のところ県名はそのままで県庁は彦根に置かれ,「大津県」の改称に遅れること1ヶ月,同年2月(旧暦)に郡名による「犬上県」に改称されました。
同年9月(旧暦)には,その「犬上県」が廃止されて「滋賀県」に統合されることになります。
「犬上県」が廃止され,彦根が県庁所在地としての地位を失ったことにはさまざまな経緯や思惑があったと思われます。けれども,わざわざ県名を「長浜県」から「犬上県」に改称したあたり,少なくともこの段階では「犬上県」を恒久的に設置することが志向されていたようにも感じられます。
「彦根県」でなく「犬上県」というのは,並行して「大津県」から「滋賀県」への改称が行われていますから,旧彦根藩固有の問題ではないのではないか。
(旧城下町であった膳所ではなく大津に県庁が置かれたのは,廃藩置県以前から既に「大津県」があったからでしょう。この場合とは若干性格が違うのですが,やはり「賊軍」藩を代表する越後長岡に県庁が置かれなかったのは,財政破綻によって廃藩置県前に長岡藩が「倒産」して廃止されたとき,中越地域の旧幕府直轄領を管轄するために以前から設置されていた「柏崎県」に統合されたからで,長岡藩が「賊軍」であったこととは直接には関係がありません。)

1876年の“第2次府県統合”で全国の府県の数は今よりも少ない38にまで減少しました。実はこのときに消えかけた有力県が1つあります。それは「山口県」。
規模からすれば統合されて当然と言えなくもない山口県が存続したのは,当然に長州藩系勢力の運動があったからでしょう。「佐賀県」などは“第1次府県統合”と“第2次府県統合”の2度にわたって一旦“消滅”し,2度にわたって“復活”しています。
ここらあたり,政府内部の各勢力のさまざまな力関係が反映したものであり,ほかの府県についても同じようなことがあったであろうことは想像できます。
けれども,単純かつ一律に

>反薩長行動を取った県は県庁所在都市名でない県名を付けられた

とは言えないのではないか。別に,この説を頭から否定するつもりはないけれど,個々の府県についてきちんと検証する必要があるのではないか,そう思っています。
[9519] 2003年 2月 20日(木)18:22:25【3】YSK さん
山梨市について
[9515]雑魚さん
そもそも県名としての 「山梨」 との整合性は何か?そう考えると、結構謎の多い山梨市でした。
この山梨市、確かに県名からとったとも思えるのですが、やはり郡名の「東山梨」からとったと考えるわけにはいかないでしょうか?そもそも県名の「山梨」も、もとは郡名なんですよね。

同様の自治体の命名例としては、岩手町(岩手郡)、茨城町(東茨城郡)、群馬町(群馬郡)などがありますが、これらは県名をつけたというよりは、合併時の新自治体名として「郡名」を採用したものと理解してみるわけには、いかないでしょうか?

また、志賀町(滋賀郡)も漢字は違いますが、似たような事例ですね。
現在は主に仙台市青葉区の一部となっている旧宮城町(宮城郡)も同じだと思われます。

「島根町」は微妙な感じですね。八束郡なのですが、IssieさんのHPを参照させていただいたところ、現在の八束郡は島根郡ほか2郡が統合したものなんですよね。しかし、「島根町」成立時(1969.4.1)には島根郡はなかったわけだし・・・。
そこで、島根町HPにアクセスすると、解説文がありました。
http://www.town.shimane.shimane.jp/other/tanjou.html

島根村と命名せられた所以はもともと島根郡名に起源しています。

とのことでした!島根町も、県名が由来というわけではないのですね。


ということで、純粋に都道府県名を援用して命名された市町村名は、沖縄市と北茨城市、そして、さいたま市くらいなのではないのかな(4月1日に誕生する「東かがわ市」もそうかな)、と考えますが、いかがでしょうか?

#すでに消滅した「茨城市(現・北茨城市)」などの現存しない例は、除外しました。
[12387] 2003年 4月 3日(木)21:47:04Issie さん
おほきた,みやさき,するがふちゆう
[12267] ken さん
大分というのは少なくとも江戸時代は府内と言ってたと思いますが、何時、どういう由来で、出てきた名前なのか?
宮崎もちょっと何時出来た名前なのかわかりませんが。

「大分」も「宮崎」も本来は郡名ですから,地名そのものは律令時代までさかのぼれますね。
それが京都府峰山町の「丹波」集落や,奈良県桜井市の初瀬川扇状地(三輪地区)の「ヤマト」のようにピンポイントな地名が広域地名に成長したものか,逆に「さぬき市」のように広域地名が域内の部分について用いられるようになったのかはわかりませんが。
(よそのHPでも話題になっているようですが,「大分」を「おおいた」と読むのは直接には律令時代に「おほきた」または「おほきだ」と読まれていたものが“音便”と同じ作用によって「き」の子音が脱落したからです。だから問題の核心は「おほきた」に「大分」という字を当てたのはどういう理屈か,ということになるのですが,私はその答えを知りません。)

近世城下町「豊後府内」が近代都市「大分郡大分町」に改称された正確な日付は手許の資料ではわからないのですが,おそらくは明治もしばらく経ってからのように思います。ただし,1889(明治22)年の市制・町村制施行段階では「大分郡大分町」が町村制による「大分町」に移行した,とあります。
府県レベルでは明治4(1871)年7月の廃藩置県で「府内藩」が「府内県」となった後,この年の11月に豊後国内各県が統合されて「大分県」が成立しています。これは県庁所在地の府内が「大分郡」に属するからなのですが,福岡県に属する豊前のうちから宇佐・下毛2郡を編入した1876(明治9)年の段階では「大分郡府内」という呼称であったようですから,明治10年代のうちに改称されているのかもしれません。

宮崎は近世城下町でさえない小集落であったものが1873(明治6)年に美々津県と都城県のうちの日向部分を統合した新しい県の県庁が置かれて急成長したものですね。県庁が置かれた段階で「宮崎郡宮崎」という呼称ができあがっていたようです。
宮崎には市内に宮崎神宮があります。この神社そのものは由緒の古いものであるようですが(神武東遷以前の「宮崎宮」跡なんていうのは,もちろん単なる“伝説”に過ぎないものでしょうが),神社の“格”が上げられて積極的な整備が行われるのは明治になってからですから,江戸時代に「都市としての宮崎」があったかどうかは,疑問に思います。
やはり「都市・宮崎」は県庁が置かれてから,と考えたほうがよいでしょう。

“県庁所在都市”の名前で意外に新しいものにもう1つ,「秋田」があります。
「秋田」という地名そのものはとても古くて,律令時代,「東夷」に対する前線基地である陸奥の「多賀城」や「胆沢城」と対応する対「北狄」前線基地の「齶田(飽田:あぎた/あきた)城」が置かれて以来のもので,平安末期から中世にかけては「城(じょう)氏」や「秋田氏」の“名字の地”(中世,人の呼称で何も付けずに「城(じょう)」と言えば,それは「秋田城」を意味します)となり,安東氏(秋田氏)の支配の下で室町・戦国時代には現在よりも土崎寄りにあった(当時の)秋田城周辺に集落が発展しました。
けれども,現在の「秋田市」はそれを直接引き継ぐものではなく,秋田氏の転封・佐竹氏の入封以降,より内陸に新たに建設された「久保田城下町」を引き継ぐものです。
近世を通じて「久保田」と呼ばれた都市が,明治4(1871)年に「秋田」と改称したものなのですね。都市の名前としては意外に新しいわけです。

「駿府(駿河府中)」が「静岡」に改称されるのは,徳川宗家16代当主・徳川家達が駿河府中藩の知藩事に任命された直後の明治2(1869)年8月7日のことのようです(だから,以後は彼は「静岡藩知事」)。
「静岡」への改称は「府中」が「不忠」に通じることを嫌ったことによる,という説明がよく行われます。このことだけを取り上げれば,それは本当かもしれませんが,実は事実として,版籍奉還後の知藩事任命の際に駿河だけでなく全国の「府中藩」が一斉に改称しています(常陸府中→石岡,長門府中(長府)→豊浦,対馬府中→厳原)。全国的な視野から見れば,これは中央政府管下の地方行政区画としての「藩」に同名のものが存在することを回避するための改称であると思います。
外にも同名の藩が複数存在していた「勝山藩」「金沢藩」「亀山藩」「田辺藩」「松山藩」「吉田藩」,あるいは表記は違うけれども読みの同じ「みねやま藩=峰山/三根山」で,少なくとも一方の藩の改称が行われています。
詳しくは,こんなページもつくってみたので,こちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/h-iten.htm

ところで,私は「静岡」というのは本質的に「駿府」という地名を改称したものに過ぎないと考えています。
「静岡」と呼ばれるようになって以降,その範囲が徐々に拡大して清水をも呑み込むことになったのですが,「静岡」が「駿府という都市」を包摂する,というのは本来的に私にはシックリ来るものではありません。“大静岡市”の中に「駿府城下町」の区域が含まれる,というのなら理解ができるのですが。
[16351] 2003年 6月 6日(金)10:49:48【1】YSK[両毛人] さん
「群馬」は好きです / 都道府県名は広域地名とは考えない立場です
[16324] てつ(沖縄の)さん
太田市近辺の人が「群馬」という地名があまり好きではない、という事なのでしょうか?
[16326] 雑魚さん
勝手に想像するに、群馬県である以前に両毛地区である、という郷土意識の産物ではないでしょうか。

そうですね。「群馬」という地名は好きですよ。否応なく「自治体名」として日ごろから表記しなければならないですし、一定の地域イメージ(敢えて内容は書きませんが)を持って語ってもらえる地名という意味では、素敵な名称だと思いますね。
とはいいながら、「群馬」は前橋市や高崎市の周辺、いわゆる「群馬郡」の周辺の地名ですから、私たち両毛地域を表現するとすれば、「群馬」以外にもっとふさわしい地名があるのではないかと思うのですね。

「群馬県」という言い方をする場合、これは地名ではないと考えています。この行政地域を指し示す「自治体名」と捉え、その自治体名に「群馬」という地名を借用している、といった感覚ですね。ですから、あくまで地名「群馬」の守備範囲は、前橋市、高崎市周辺のいわゆる「群馬郡(今は勢多郡の一部となった東群馬郡に、現在の群馬郡、北群馬郡を加えた範囲、でよろしいのですよね?Issieさん・・・)」に限られると考えています。

この県名における認識は、他の多くの都道府県について言えます。栃木町(現・栃木市)の名前を借用した栃木県、(東・西)茨城郡の名前を借用した茨城県(茨城町)、岩手郡の名前を借用した岩手県(岩手町)などなど・・・。もともとの地名を借用しないで命名された府県名は、北海道と愛媛県、そして沖縄県だけではないのかな、と考えます。

いずれにいたしましても、都府県名をその県全体を示す広域地名とする考えを、私はとらない立場です。
[16381] 2003年 6月 6日(金)23:46:28【2】ゆう さん
都道府県名の命名
[16351]両毛人さん
もともとの地名を借用しないで命名された府県名は、北海道と愛媛県だけではないのかな、と考えます。

そうですね。[47]にてグリグリさんも書かれてますように、原則として
都道府県庁所在地の都市名、あるいは、その所属する郡の名前から付けられています。

北海道という名前は道全域を表します。
#かつては札幌県などもあって原則に沿っていました。

愛媛県は、古事記の神話から「かれ伊豫国を愛比売といひ」の、愛比売に新しく字を当てたと言われていますので、県全域を表すけれどほとんど使われてなかった名前ですね。
#[47]には万葉集とありますね。

もうひとつ、沖縄県も例外です。原則通りなら那覇県なのでしょうが、沖縄という、郡よりも広い地域を表すけれど県全域を表すものではない名前を採っています。
「借用」という考え方をとれば、これも借用であることは確かです。


もともと「○○県」というのは行政組織の名前です。ある企業が東北地方を管轄する支店を仙台市内に置くと考えたとき、名前を東北支店とするか仙台支店とするか。県名は後者の考え方で付けられたのでしょう。
ところが、その管轄地域全体を表す地名という、当初からは想定外の使いかたが広まっているのだと思います。
[16388] 2003年 6月 7日(土)00:39:21【1】Issie さん
沖縄と琉球
[16381] ゆう さん
古事記の神話から「かれ伊豫国を愛比売といひ」の、愛比売に新しく字を当てた

県庁所在地でも郡名でもない,というのはこれが初めてなのではなくて,統合以前に中・東予を管轄していた「石鉄(せきてつ)県」(明治5<1872>年旧2月に松山県から改称)と南予を管轄していた「神山(じんざん)県」(明治5<1872>年旧11月に宇和島県から改称)もそうで,なぜか伊予国だけに行われたことなんですよね。
ここに派遣された県令たちに,何がしかのポリシーがあったのですかね。
ちなみに,旧松山藩・久松松平家は徳川一門の「佐幕藩」ですが,旧宇和島藩・伊達家は幕末の「改革派」の1つですよね。維新の進行で取り残されていったようにも見えますが。

沖縄という、郡よりも広い地域を表すけれど県全域を表すものではない名前

「沖縄」とは本来「本島」,あるいは周辺の島々も含めた地域を指す呼称ですね。
「琉球」というのは,おそらくはこの島々の住民自身が名づけたものではなくて,中国から与えられた呼称だと思われます。つまりは中国王朝(具体的には明と清)との冊封関係を背景にした呼称なのでしょうね。
1879年に清朝との冊封関係と「琉球」王朝を否定して「県」を設置するにあたって,明治政府としては「琉球」という呼称を認めることはできなかったのではないかと思います。そして,「琉球」に替わるこの地域全体の呼称として選ばれたのが「沖縄」だったのでしょう。

逆に,戦後この地域を占領して日本政府の統治から切り離した米国は,あえて「琉球 Ryukyu 」という古称を選んでいます。
どうも米国は,少なくとも初めのうち,パナマをコロンビアから無理やり切り離して独立させたように,沖縄を日本本土から切り離すことを意図していたようだ,とも言われていますね。
英語表現としては必ずしも一般的でなかった Ryukyu, Ryukyuan を使用したことに,その意図がうかがえるのかもしれません(ヨーロッパには,16世紀のポルトガル語経由の Lechio:レキオ 系の呼称が行われたことがあります)。
「琉球」か「沖縄」か,というのには,かなり微妙な問題が含まれているのかもしれません。
[16400] 2003年 6月 7日(土)02:44:54【1】YSK[両毛人] さん
石鐡県、神山県
愛媛県が発足する1つ前の段階に存在したこの2つの県ですが、

景浦勉(1995)『伊予の歴史(改訂版)』愛媛文化叢書刊行会

によりますと、両県名の由来について、以下の記述が見られます。

松山県は1872年2月9日に至り、石鐡県と改称せられた。これは四国第一の高峰石鎚山の名によった。

1872年6月23日に宇和島県は神山県と改称せられ、支庁を大洲に設けた。これはもとの宇和島・大洲の両県の境にある出石山を、古く矢野神山と称したという伝説に基づいた。

また、「石鐡県」については、司馬遼太郎の街道を行くシリーズ『南伊予・西土佐の道』におもしろい話が載せられています。ちょっと長めですが、引用してみます。

(以下、引用)
旧松山城下を中心とする「県」は松山県とよばれていたが、
「松山県という名称そのものが古くさい。民心一新のために改称したい」
といったのが、明治四年末に、県令として赴任することになった土佐人本山茂任(しげとう)である。
(中略)
新政府は最初は松山県令にするほどだから優遇したが、その後人物力量のいかがわしさを知って、神祀院に移し、神主にした。
(中略)
「石鉄(鐡)県にする」
 というのである。
 この男がひとりで考えたらしい。典拠もなにもなく、当人は四国山脈の名山石鎚山の石をとったというが、鉄はどこからとったのだろう。気勢い立つ時代だから強い漢語が好まれる傾向はあったが、それにしても石と鉄はただ強いだけで、意味としてのふんいきをなさない。
 太政官への具申書に、松山がふるくさく石鉄が新鮮で民心の統一に役立つという意味のことが書かれていたそうだが、この程度の人間でも薩長土肥に属していれば県令ぐらいになれる時代であった。
 土地では、
「イシテツ」
 とよむ人があったというが、イシガネとよむのか、イワガネなのか、それともセキテツなのか、よくわからない。
(引用終わり)

司馬氏は、以上の文章によって、愛媛県の北半分が「旧賊軍」ということで粗暴な県令が任命され、センスのかけらもない「石鉄県」という名を与えられてしまった、という見解を示しています。

まあ、この旧賊軍地域が藩の名前を県名に付けさせてもらえなかったとする俗説については、[967]Issieさんのお話にもありますとおり、一概に信用できるものではないようですが、愛媛県の場合、「石鉄」という県名に改称せられた事情は、概ね司馬氏の類推するところに近い状況であったのではないかと思われます。

石鉄県と神山県は、「愛媛県」として統合されたのですが、この「愛媛」という命名センスについては、司馬氏も好感を抱いている旨、上記引用部分に続く個所に書いていますね。私も、個人的には「愛媛」はすてきなネーミングだと思いますよ。
[16664] 2003年 6月 12日(木)13:24:02ken さん
都道府県名の由来について
[16508]でのひろきさんが紹介されているページ
都道府県名の由来について
http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/geo-hist/prefname.html
は、今、気づきましたが、最後を見ると、参考文献「日本の地名・都市名」(今尾恵介/日本実業出版社) とありますね。
帰宅したら、再確認してみよう。

今尾恵介についてご存知ない方は、私が営業しております、もう一つのサイト
http://www.geocities.com/imao_keisuke/
をご参照ください。

気が狂ったかのような連続書き込みでしたが、special-weekとの差が近づいたので、一瞬7位になってみたいがための、姑息な動機でした。
special-weekさん、皆様ご無礼しました。(一応、書き込みの為の書き込みはしてないつもりですが)
[17874] 2003年 7月 6日(日)13:43:41m さん
初めまして(^-^突然すみません。
県名と県庁所在地が一致していない理由って分かりますか??できれば詳しく・・・
[17877] 2003年 7月 6日(日)15:22:47まがみ さん
Re: 初めまして(^-^突然すみません。
[17874]m さん
県名と県庁所在地が一致していない理由って分かりますか??
県名はもともと県庁所在地の都市名あるいは郡名からとられたものが大半です。

県名と県庁所在地の関係を3つに分類すると、
1.県名が、県庁所在地の都市名に由来するもの。当然、県名=県庁所在都市名となります。
2.県名が、県庁所在地の郡名に由来するもの。茨城県、滋賀県、島根県など。
3.上のいずれでもないもの。北海道、愛媛県、沖縄県。

2.の、郡名に由来するものについては過去ログ[46][47]などをお読みください。
3.については、[16351][16381][16388]などに詳しいです。

また、反新政府派の藩は県名=県庁所在都市名ではない、という説については、[967][7081][7123]などが参考になると思います。
[18304] 2003年 7月 13日(日)23:48:40赤尾鯰 さん
県名と県庁所在地が一致しない理由
[17877] まがみ さん
[17874] m さん
県名と県庁所在地が一致していない理由って分かりますか??
グリグリ さんは[47]で否定されてますが、私は戊辰戦争影響説を支持致します。

戊辰戦争影響説は、戊辰の役で官軍に協力しなかった藩が中心となる県の場合、その藩の中心都市名を県名にしなかったという説です。
県名と県庁所在地が異なる県は、北海道、岩手、宮城、群馬、栃木、茨城、埼玉、神奈川、山梨、愛知、石川、三重、滋賀、兵庫、島根、香川、愛媛、沖縄の18県ですが、この原則から外れた県の事情は以下のように解釈されてます。

(神奈川・兵庫)
兵庫県は、旧幕府が安政条約で兵庫湊を開港することとなったのに、隣に神戸港を開削したため、両者がモメテしまった。結局、明治政府が、兵庫県神戸市兵庫区という組み合わせで決着させることとなった。神奈川県横浜市神奈川区も全く同じ事情。
(愛知・石川)
尾張・加賀も“戊辰の役の態度好ましからず”と明治政府にいわれ、名古屋県・金沢県は見送られた。
(青森・山形・福島・新潟)
奥州列藩同盟に参加し、特に反抗的と目されたこの4県は、中心となる藩都を県庁所在地にさせてもらえませんでした。普通にいけば、弘前・米沢・会津・長岡が県庁所在地になっていた。

明治政府が、こんな子供じみた意地悪したなんて証拠文献は残っていないでしょうが、この説を支持するかは、皆様のご判断にお任せします。
[18367] 2003年 7月 16日(水)20:37:36【1】Issie さん
Re:県名と県庁所在地が一致しない理由
[18304] 赤尾鯰 さん
戊辰戦争影響説は、戊辰の役で官軍に協力しなかった藩が中心となる県の場合、その藩の中心都市名を県名にしなかったという説です。

私はヘソ曲がりなもので,いわゆる「鉄道忌避伝説」も「我田引鉄説」も疑ってかかることにしているのですが,この件も充分に疑わしいと考えています。

神奈川県横浜市神奈川区も全く同じ事情。

これは,そういう事情でしょうか。
それよりも旧幕府の「神奈川奉行所」を「神奈川県庁」が引き継いだ,と解釈するほうが自然に思います。
お互いに都市として隣接していた「神戸」と「兵庫」とは違って,久良岐郡の「横浜」と橘樹(たちばな)郡の「神奈川」とは,間に入り江と掃守(かもん)山下の断崖絶壁をはさんだ別個の都市です。なぜ「横浜」に「神奈川奉行所」か,という問題になりますが,それは明治政府ではなく徳川幕府の問題です。

普通にいけば、弘前・米沢・会津・長岡が県庁所在地になっていた。

米沢は県庁所在地でした。
明治4(1871)年11月[旧暦]の全国的な“第1次”府県統合以来,1876(明治9)年8月の“第2次後期”府県統合で「山形県」に統合されるまで,米沢は「置賜(おきたま)県」の県庁所在地でありました(置賜県は,「置賜郡」1郡だけを管轄区域とする全国で唯一の県です)。
会津(若松)も同様に「若松県」の県庁所在地でした。置賜県と同日に「福島県」へ統合されました。
奥羽越列藩同盟への「懲罰」であるなら,なぜすぐに県庁所在地の地位を奪わなかったのでしょう。5年も引張った理由は何なのか。
ちなみに,旧山形藩(水野家)も旧福島藩(板倉家)も旧幕府・徳川政権内では非常に有力な譜代藩でしたよね。さらに両家とも,明治になってから旧山形藩・水野家は近江朝日山へ(明治3年),旧福島藩・板倉家は三河重原へ(明治2年)それぞれ移転しています。
移転は将軍家に代わる明治政府の命令でしょうから,「それほどの藩」だったということでしょうね。明治政府は両藩の移転後,速やかにその“跡地”に「山形県」「福島県」を設置しています。
にもかかわらず,今に至るまで県庁所在地であり,さらに県名と県庁所在地名とが一致するというのは,どういうことでしょう。

長岡藩は,明治4年7月[旧暦]の廃藩置県を待たず,明治3年に廃止・消滅して「柏崎県」に編入されています。
維新後に大幅に領地を没収され,戦闘で城下町や領内が荒らされたことによる財政破綻が原因であって,もちろん戊辰戦争が直接の原因ではあるのですが,「懲罰」とは次元の違う問題ですね。
「柏崎県」は旧幕府時代から越後南部の幕府直轄領を支配するために柏崎に設けられていた代官所を引き継いだものです。「倒産」した長岡藩の領地・住民を隣接する柏崎県が吸収するのは当然のことであるし,戦争で焦土と化したばかりの長岡にわざわざ県庁を移転する理由はないでしょう。
傍目から見れば「身の程知らず」にも“あのような行動”をとったために大変に目立つ存在となった長岡藩ですが,そもそも三古(さんこ:三島・古志)2郡を中心とする地域を領知していた「7万余石」の小藩(譜代としては中規模ですが)に過ぎません。
長岡城下町と柏崎とは都市としての規模にそれほど大きな開きがあったわけではないのです。
結局,第1次府県統合の段階では越後南部の各県が「柏崎県」として統合されました。
それがさらに1873(明治6)年6月に越後北部を統合していた「新潟県」と合体します。
越後全域の中心として,「開港場」に指定されている新潟に県庁を置くのは,至極当然な選択だと思います。

明治4(1871)年の廃藩置県から,1888(明治21)年に現在と同じ45府県(北海道と沖縄を除く)となって安定するまで,各府県はかなり複雑な廃置分合を繰り返しています。
この間には,一時的ではありますが“薩長土肥”の“肥”,「佐賀県」が消滅しています。「山口県」の廃止が俎上に上ったこともあります(さすがに,これは潰されましたが)。

個々の府県をのぞいてみれば,旧徳島藩・蜂須賀家との関係に発する淡路島の帰属問題とか,筑摩県廃止・長野県への統合をめぐる話題とか,キナ臭い話が伝えられているところも少なくないのですが,それでは明治政府に一貫した方針があったのかというと,とてもそのようには思えません。
そもそも「廃藩置県」自体が周到な準備・計画の上に行われたことではなくて,かなり「行き当たりばったり」のものだったらしい,という指摘があります。

「戊辰戦争影響説」は,明治もだいぶ経ってからこれを唱えるジャーナリストが現れてくるようなのですが,それは政権内部の側の人ではありません。
すでに落ち着いた「45府県」を眺めてみて,「そういえば…」というレベルで思いつくことはあるでしょうが,実際にそのような「証言」をした人がいたのかどうか。

そのようなわけで,私はこの説を支持していないのです。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内

… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

パソコン表示スマホ表示