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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

Remember 1.17 〜阪神淡路大震災と地域〜

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記事数=16件/更新日:2006年2月5日/編集者:YSK

1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)は、未曾有の被害をもたらしました。被災地域の状況を地理学的なデータ等により描きます。実際に被災された地域からのご報告には、私たちにとっても得るものが多いと思います。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[4519]2002年11月4日
ニジェガロージェッツ
[5161]2002年11月21日
TN
[7642]2003年1月13日
ニジェガロージェッツ
[7653]2003年1月13日
ニジェガロージェッツ
[7664]2003年1月13日
TN
[7675]2003年1月14日
ニジェガロージェッツ
[7736]2003年1月15日
ニジェガロージェッツ
[7746]2003年1月16日
ニジェガロージェッツ
[7766]2003年1月16日
らるふ
[7803]2003年1月17日
ニジェガロージェッツ
[7905]2003年1月19日
ニジェガロージェッツ
[7912]2003年1月19日
らるふ
[7988]2003年1月21日
ニジェガロージェッツ
[35132]2004年11月16日
ニジェガロージェッツ
[36808]2005年1月16日
ニジェガロージェッツ
[48473]2006年1月17日
らるふ

[4519] 2002年 11月 4日(月)15:47:21ニジェガロージェッツ さん
地震への備え
[4487][4501]実は小学生さん
予想されている「東海大地震」をご心配のご様子。
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神大震災に神戸市長田区で被災した者として一言。
(但し、ここで語り部の如く震災当時の状況を詳しく述べるのは控えます。)

恐らく各自治体で「地震への備え」的な要綱が発表されていることと存じますが、食料や水など「あれば便利」程度のものは後で幾らでも救援物資として入手出来ます。また、箪笥や家具をいくら固定していても震度6強クラスの揺れに襲われると、家屋そのものが倒壊しますのであまり意味がありません。もちろん補強して損な事はありませんので、補強もお勧めしますが、あくまでも気休め程度にお考え下さい。ラジオからの情報も比較的程度の軽い被災地から入って来勝ちでしたので(重度の被災地では情報を発信できる状況になかった)あまり役に立ちませんでした。第一、ラジオを聞ける状況であればすでにその人は「助かって」います。
で、震災への備えとして是非、ご用意頂きたいものは、「大型のバール」、「鋸」(できれば金切鋸も)、「金槌」です。
これらは倒壊した家屋に生き埋めになっている人を救出するのに不可欠です。
よくある木造2階建ての家屋は、1階部分が押しつぶされ2階が1階の高さに圧縮された状態で全壊しているのが非常に多かったです。この押し潰された1階に閉じ込められた人を助け出すには、2階の床板を剥がし、1階の天井板を破って救出するより手段がありませんが、この作業は素手で出来るようなことではありません。もし命からがら脱出できたなら、まだ脱出できていない人を助け出してあげてください。近所で火災が発生していれば既に一刻の猶予もありません。
もし、生き埋めになり閉じ込められたなら、助けを待つ以外にありません。

[4507]ケン(地理好き)さん
>長田区は何割ぐらい復興しているのですか。
人口でいえば東灘区、灘区、中央区の3区ではすでに震災前の状況まで回復またはそれを上回るぐらいまで復興しましたが、長田区に関してはまだ8割程度の人口にしか回復していません。
詳しくは神戸市の統計ホームページ
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/013/toukei/contents/jinkou.html
のなかに「人口150万人特集」がありますのでそちらをご参照ください。
私はもっと厳しい見方で
A,震災直前推計人口(1995年1月1日)129,978
B,震災直後国調人口(1995年10月1日)96,807
C,現在の推計人口 (2002年10月1日)104,837
のデータから、長田区の復興率=(C-B)÷(A-B)×100=24.2% とします。
実感としてはこの方が近いと思っています。実際、ご近所は空き地や駐車場だらけです。

[4511]せかさん
的確なフォロー恐れ入ります。
単純に表記を間違えていました。お蔭様で24時間以内の書き込み訂正に間に合いました。
有難う御座いました。
[5161] 2002年 11月 21日(木)01:05:11TN さん
地震の影響、お水の大切さ
二ジェガロージェッツさん、いなさん、夜鳴き寿司屋さんのお話からの派生です。
一介の元・土木施工管理技士に過ぎない私ですが、お水の大切さ、本当に重要だと痛感しております。

阪神・淡路大震災(1995.1.17発生)の水道の被害(神戸新聞HPより)

 水道の断水  127万戸
 復旧・復興費 541億円
 完全復旧   1995.4.17(発生より3ヶ月)

水道管の埋設に携わっていたことのある立場から述べさせて頂きますと、3ヶ月での復旧は驚異的な短さです。2,000mの配水小管(75mm~350mm)を布設替する標準的な速さは半年くらいです。本管(400mm以上)になると、300m布設替するのに1年くらいかかることもあります。我々の仕事仲間も神戸へ応援に駆け付け様々な苦労があったようですが、一方でそれを誇りともしていました。環境の激変に為す術も無かった地元の方の当時のご苦労を想起するに、言葉が出てきません。
地震をきっかけに水道管の耐震化が東京都内でも急速に進み、現在も進行中です。神戸での被害が管の折れよりも、接合部の抜け出しが圧倒的に多く、そこから漏水し配水機能が麻痺したため、抜け出し防止機能にすぐれた管に取り替えているのです。
ところで、水道工事は税金で行われているように思われがちですが、実態は水道料金から賄われているのです。お水は決して安いものではありません。そのあたりは、うちの家内でもなかなか理解できずにいたようです。「湯水のように」お水を使用される方には注意を喚起したいと思います。

あの震災で、失った尊い犠牲の次に私がつらかった事は高速道路の倒壊でした。「安全神話」の崩壊でもあり、土木屋には俄かに受け入れられないものでした。その後の検証で、地震に弱い構造だった事が判明し、以後その工法は使用されず、既存の橋脚に鋼板を巻く補強が、鉄道の高架、道路の橋脚などあらゆる所で行われているところです。
倒壊した山陽新幹線の高架橋脚から木片が出てきたこともショックでした。このような背信行為は構造不況の典型、建設業自らの首を絞める行為です。建設業に携わる方が居られましたら、お考え頂きたく存じます。
[7642] 2003年 1月 13日(月)00:27:59【2】ニジェガロージェッツ さん
震災から8年の神戸・新長田界隈 (1)
神戸にまた悪夢の1月17日5時46分がまたやってきます。
あの1995年は、14日が第2土曜日、15日が日曜日で祝日、16日は振替休日と言うことで17日は多くの人にとって3連休明けの火曜日の未明、我われ神戸の人間にとっては17日よりも3連休明けの火曜日の方が「あの悪夢」を思い出すことが多いのです。
今、手元に3冊の写真帳があります。ここに収めてある写真は震災直後の1月から2月にかけてカメラ片手に避難所を抜け出し、焼け野原となった新長田界隈を写して廻ったものです。
この写真帳を辿って8年を経過した被災地の現在の様子を一枚一枚同じカメラ位置でもう一度、写して廻ろうと計画し、今日行って参りました。(完全に怪しいオッサンでしたが、時期柄か違和感がない)
復興半ばとはいえ、完全に瓦礫に埋まった当時の状況と違う今日では、それらの撮影位置を特定するのも困難でした。実際に現場を歩き、様相を完全に変えた街並みの中に、たった一箇所の変わっていない部分(片隅に写る倒壊を免れたビルの屋上にある高架水槽、歩道の縁石、電信柱など)を発見したときは感激ものでした。

現場を歩きながら、考えたことなどを地区ごとに書いて見たく存じます。
(但し、ここに書く地区名はあくまで私が便宜上つけたもので、実際の土地区画事業などとは関係はございません。)
人口データは国勢調査人口を用い、復興率の計算は「減った人口」と「回復した人口」の比率で計算しました。
計算法は、震災前の1990年10月1日人口:A、震災直後の1995年10月1日人口:B、2000年10月1日人口:Cとすると
復興率%=(C-B)÷(A-B)×100 で計算致しました。(1995年1月1日推計人口が丁目別に出ていないため、1990年国調人口で代用。1990年人口の方が95年1月人口より多いと思われるので、復興率は実際よりやや低めになりますが・・)
ただ、2000年の国勢調査時点から既に2年以上が経過し、現状の人口と差異が生じているために参考までに2002年11月30日の住民基本台帳(プラス外国人登録)人口を併記しておきます。

【新長田駅南地区】 神戸市長田区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率 2002.11.30
地区合計3,7971,6962,19523.8 2,956
日吉町1~2丁目209155382420.4 410
若松町3~4丁目5633745679.7 743
若松町6~7丁目1688460-28.6 35
大橋町3~7丁目1,105741576-45.3 537
腕塚町5~6丁目1351411306.0 690
久保町5~6丁目691239110-28.5 83
二葉町5~6丁目926439200-49.1 458
この地区はほぼ全域が神戸市の「復興市街地再開発事業」の区域にあります。この再開発とは、大雑把にいえば区域の土地を一旦神戸市が買い上げ、再開発ビル等を建設し住民に分譲したり賃貸したりする手法です。
この区域は商店街が縦横に並ぶ一大商業地域で、1960年代より「西の副都心」として位置付けられましたが、1980年頃には市街地の空洞化が顕著になり副都心とは名ばかりで、さらに震災では倒壊だけでなく大部分が大火により焼失してしまいました。神戸市はここに再び「副都心」を建設すべく、震災2か月後の再開発地域に指定しました。1997年には早くも駅前の若松町4丁目に27階建ての再開発ビルが完成しましたが、これは震災の直前から着工したものでした。実際の復興再開発としては1999年3月に日吉町2丁目に12階建ての市営住宅が完成したのが始まりで、現在までに日吉町2丁目、腕塚町5・6丁目、若松町3丁目、二葉町6丁目に再開発ビルが完成しています。
上記のデータでは二葉町等で大幅に震災直後の人口を下回っていますが、これは再開発ビル建設が始まったための建ち退きによるものです。逆に完成した再開発ビルが建つ日吉町や腕塚町では震災前の人口を大幅に上回っています。
震災前には腕塚町の「神戸デパート」から久保・二葉町にかけて「大正筋」と呼ばれる新長田のメインストリートがありましたが、デパートもろとも完全に焼失してしまいました。「大正筋」のアーケイドの在りし賑やかな姿は既に過去のもので、現在では「再開発の工事現場の中の歩道」のような寂しい哀れな姿です。嘗て大正筋に軒を並べていた商店の一部が既に完成した再開発ビルに入り、細々と営業を続ける姿は痛々しいものがあります。再開発地域すべての完成はまだまだ遠い未来のことです。それまで、減少した商圏人口がどの程度回復するのか、地域の高齢化とともに頭の痛いところです。
また、「今の新長田にこれだけのビル群が必要なのか?」というのも疑問点として挙がっている程ですが、私的には、早くビルの林立する活気ある未来の新長田の一日も早い誕生を願っております。
[7653] 2003年 1月 13日(月)12:47:32ニジェガロージェッツ さん
震災から8年の神戸・新長田界隈 (2)
[7642]の続きです。

【鷹取東地区】 神戸市長田区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率2002.11.30
地区合計2,2744111,38052.01,585
日吉町5~6丁目6758137048.7491
若松町10~11丁目65711643258.4490
大橋町10丁目122538546.481
野田町4丁目2321041050.8125
海運町2~3丁目5885738862.3398
JR新長田駅と鷹取駅の中間(やや鷹取寄り)に位置するこの地区は震災直後に火災が発生し、大部分が焦土と化してしまいました。火災発生が地震発生直後(夜明け前)だったため、瓦礫に埋まり身動きの取れないまま火災に巻き込まれ多くの人命が失われたのもこの地区です。
全域が「震災復興土地区画整理事業」に指定され、そこでは「鷹取東第一地区」と称されています。
「土地区画整理事業」を大雑把に言えば、土地の所有者が土地の一部を道路や公園等に提供し、街並みを整える手法で、土地の移動を伴います。当然、割り当てられる土地に不満があったりして地権者がもめるのですが、この地区では比較的早く土地の境界が画定し、建設工事が始まりました。一戸建て住宅だけでなく1998年頃には民間マンションも相次いで完成し、現在では地区全域に新住宅や商店がほぼ建ち揃った観があります。地区内は防災のために街路が広げられ、要所に公園が整備され、綺麗な住宅がゆったりと建ち並ぶ落ち着いた景観からは、震災直後の焼け野原はおろか、震災前の密集した街並みを連想することが出来ないほどです。
神戸市のホームページの中に
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/33/toti-ku/jl00051.htm
この地区についての事業の沿革が詳しく述べられています。

【千歳地区】 神戸市須磨区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率2002.11.30
地区合計3,0435651,59741.61,812
常盤町1~4丁目51064957.0207
千歳町1~4丁目74917741742.0421
大池町1~4丁目1,29113363543.4756
寺田町1~3丁目49319145085.8428
この地区も火災により地区の過半が焼失し、火災を免れた場所でも大部分の建物が倒壊するなど甚大な被害が発生した所です。高層マンションも倒壊し、大きい所では大池町4丁目にあった14階建(うる覚え)住宅も全壊しました。震災前、この地区は住宅と工場・作業所(地場産業である製靴工場)が混在した街並みでしたが、焼失した区域を中心に「震災復興土地区画整理事業」区域に指定され、復興に向けて現在でも工事が進んでいます。地区の中央にあり震災時には避難所として活用された「市立千歳小学校」は2002年3月末に廃校となり、現在では校舎の撤去工事も終わり更地になってしまいましたが、計画では1haの公園になるようです。地区全体としては、まだまだ工事半ばで更地が広がる所も多く、これからが復興の本番といった所でしょうか。
なお、全壊した大池町4丁目の市営住宅はいち早く再建されました。
[7664] 2003年 1月 13日(月)20:03:48TN さん
地下鉄海岸線とインナーシティー問題
[7642][7653]ニジェガロージェッツ さん

ニジェガロージェッツ さんのご報告により、神戸が確実に復興の道を歩んでいること、また、「活気よ再び」という意気込み・願いを感じ取ることができたのですけれども、私などが触れていいものか悩む問題ですが、低層木造住宅の密集、高高齢化率といった問題があるところへあの震災が襲い、復興と絡めてインナーシティー問題に果敢に挑んでいる、といった印象を持っております。
↓そのリーディングプロジェクトとしての地下鉄海岸線が存在するとのことですが
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/54/040/kaigansen.htm
実際には結果が出るまでには長い月日がかかるのでしょうが、是非とも活性化がうまくいって欲しいものです。

ところで、東京では関東大震災後の郊外化、無秩序なスプロール化によって形成された「木造賃貸アパート(木賃)ベルト地帯」が環5(明治通り)と環7通りの間に存在します。都市計画家の中には、震災・戦災復興都市計画の網を被せることが出来なかったとして“東京都市計画の暗黒時代”などという人もいて、実際私も住んでいたこともありましたが(板橋区大谷口のあたり)、防災上の不安などは近くで火事が起こるたびに感じていた部分です。しかし、比較的密なコミュニティーがあるのも事実でして、コミュニティーの維持と防災都市計画の共存という問題がうまく解決して欲しい、というのが願いです。
この場合は、私のように「景観」などと能天気なことは言っている場合ではないですね・・・。しかし、「都市の不燃化」と「都市景観」は日本では相容れないものなのでしょうか?
[7675] 2003年 1月 14日(火)00:00:46ニジェガロージェッツ さん
震災から8年の神戸・新長田界隈 (3)
[7653]の続きです。

【新長田駅北地区】 神戸市長田区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率2002.11.30
地区合計7,7573,1594,63232.04,988
川西通1~5丁目1,15337952819.3620
細田町1~7丁目94247179067.7715
神楽町1~6丁目81841467965.6692
松野通1~4丁目1,625901871-4.1970
水笠通1~6丁目2,0446021,13737.11,114
御屋敷通1~2丁目48412639575.1393
御屋敷通4~6丁目691266232-8.0484
この区域はJR新長田駅北側と幅員30mの中央幹線の間一帯の区域で、震災前には林立する製靴工場に戦後からの狭小住宅と商店や市場が密集し、公園と呼べるのは水笠通1丁目にある「水笠公園」ぐらいで、典型的な住商工混在地区を生していました。現在でもその性格は基本的に変わっておりません。
震災時には、この密集市街地の殆どの建物が倒壊し、西部の松野通3・4丁目、水笠通6丁目では大規模火災が発生しました。震災後の復興ではこの区域の大部分が「震災復興土地区画整理事業」の区域に指定され、「新長田駅北地区」と呼ばれていますが、区画整理にあたって地権者の調整が永らく付かなかったためか現在でも市内で最も復興の遅れている地域の中の一つです。
復興の目玉的存在になっているのは新長田駅北側に構想されている「アジアタウン」で、「長田をアジアと日本の交流拠点に」との壮大な夢が託されています。確かにこの地域には韓国系の人々や最近ではヴェトナム人などアジアからの外国人も多く暮らしており、「アジアタウン」の素地はあります。2000年7月には構想の中核施設として「アジアギャザリー神戸」が細田町7丁目にオープンしました。
住宅では神楽町5丁目の工場跡地に市営住宅が建設されたのに続き、地区内の各所に公営民営を問わずマンションが建設されていますが、長い間空き地のまま放置されていたような所も数多く散在しています。その中にも換地が済んだ所から新しい街路が造られている区画もあり、更地の中にも近々建築工事の着工を予感させる所もあります。西部の松野通のように未だに震災直後となんら変わっていない区画もあり、地区全体としての復興はまだこれからといった所でしょうか。
神戸市のホームページの中に
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/33/toti-ku/jl00043.htm
この地区についての事業の沿革が詳しく述べられています。

【戸崎地区】 神戸市長田区・須磨区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率2002.11.30
地区合計3,8351,7313,00660.63,070
西代通1~4丁目1,17048686655.6919
戸崎通1~3丁目1,3386071,01055.11,025
大田町1~2丁目674334725115.0682
戎町1~2丁目65330440528.9444
幅員30mの中央幹線の北に位置し、山陽電鉄線(現在は地下化)以南、市営地下鉄線(道路では幅員25mの板宿線)以東の区域で、概ね住宅地で占められています。板宿線沿いには商業地が連なっています。この地区は震災時の火災で焼失した区域が広くあり、また火災を免れた家屋の多くも倒壊するなど、甚大な被害がありました。震災当日、住民総出でバケツリレーをして延焼をくい遂げたのを後にニュースで見ましたが、これは大黒町1丁目で戎町1丁目の北隣に当たります。一部が「震災復興土地区画整理事業」区域の指定を受け、「鷹取東第二地区」に入っています。震災後暫くは更地も広がっていましたが、比較的早期に復興が始まり、外から見れば今ではほぼ建ち揃った観があり、今後大きな変化はないでしょう。商圏としては新長田より板宿(山陽電鉄、市営地下鉄の駅あり)の商圏に入ります。
[7736] 2003年 1月 15日(水)23:20:32ニジェガロージェッツ さん
インナーシティ問題 (神戸市長田区から)
[7665]TN さん
>低層木造住宅の密集、高高齢化率といった問題があるところへあの震災が襲い、
>復興と絡めてインナーシティー問題に果敢に挑んでいる、といった印象を持っております。


神戸の旧市街地のインナーシティー問題は、かつての異常なほどの密集もあって深刻なものがありました。
神戸の場合、都心部を形成している新生田川以西の中央区と、郊外を形成している東灘・垂水・西・北の4区及び須磨区北須磨の間に横たわる旧市街地が「インナーシティ」の区域に当たると思われます。東部市街地では灘区及び中央区のうち新生田川以東、西部市街地では兵庫・長田2区及び須磨区南部(地元行政では「須磨本区」と呼ばれています)がこの区域にあたり、1995年の震災では壊滅的な打撃を受けました。この区域は全て戦前期に密集市街地を形成しており、その多くは戦災で焼失しましたが、戦後はいち早く復興し1950年代中葉には早くも密集市街地を再現しておりました。なお、長田区南部などでは戦災でも焼け残った長屋なども多数ありました。これがTNさんの仰る、「低層木造住宅の密集」するインナーシティ市街地です。
高高齢化率の問題は、こういった狭小住宅から若年層が独立して郊外に住居を求めて去った後、老齢層だけが残ることによって生じる問題です。人口統計では、人口は大幅に減少するものの世帯数はあまり減少しない現象で数値に出てきます。
低層木造住宅の密集と高高齢化率の問題は、ここで改めて述べるまでも無く、全国の古い大都市において共通の問題です。ただ、神戸市の場合は1970年当時で130万そこそこの人口だったにも拘らず、六甲山地と大阪湾に挟まれた狭い市街地の地形上、都市規模に対し異常なほどの密集ぶりで、神戸市の悲願である新市街地の造成が70年代以降郊外で急ピッチで進んだことも相まって、急激に旧市街地からの人口の流出が始まったことです。
特に、長田区などはその典型例です。以下、長田区の人口の推移です。
調査日人口面積km2人口密度世帯数世帯当たり人口
1940.10.1229,35610.6021,637.3650,1174.58(林田区のデータ)
1945.11.1112,99210.0511,242.9930,2363.74
1947.10.1150,20410.0514,945.6737,4084.02
1950.10.1167,1098.6419,341.3241,1394.06面積再測定?
1955.10.1189,8068.6022,070.4745,1674.20
1960.10.1202,2668.6623,356.3549,5514.08
1965.10.1214,34510.4520,511.4857,1653.75海面埋め立て
1970.10.1210,07210.7219,596.2760,4063.48海面埋め立て
1975.10.1185,97410.7217,348.3258,7773.16
1980.10.1163,94910.7215,293.7555,7182.94
1985.10.1148,59010.7213,861.0153,7302.77
1990.10.1136,88411.4711,934.0952,9162.59面積再測定
1995.10.196,80711.478,440.0237,9402.55
2000.10.1105,46411.469,202.7945,8712.30
 注)人口データなどはその時点当時の統計表などから掻き集めたため、速報値などが混じっているかも知れません

ご覧のとおりの酷い人口減少です。人口で1965年と1990年を比べると77,461人(36.1%)の減少に対し、世帯数では僅か4,249世帯(7.4%)の減少にとどまっています。
しかし、何十年もこの地に暮らす馴染みの老人達が多いということは、それだけ地域コミュニティーが強い地域であったことも確かでしたが、インナーシティ問題と都市の不燃化の問題は議論されながらも事実上棚上げの状態となり、人口減少にも歯止めがかからないまま震災に遭遇することになりました。
震災での長田区の焼失面積が他区に比べ群を抜いている一因です。(長田区の全焼棟数4,759は、2位の兵庫区940棟を大きく上回る酷さ)
市は震災で街が焼け野原になったのを機に震災復興と絡めて、懸案のインナーシティ問題を解決すべく再開発と土地区画整理事業の「網」をかぶせて「果敢に挑んでいる」というTNさんのご感想はその通りだと思います。
その一方でこの「網」がかぶさっていることで、新たな土地の境界が定まらず、たとえ古くからの住民や商店であっても勝手に建物を再建できないため、復興が遅れていることも事実です。その間にも当初は一時避難的に他地域に転居したものの、既にそこでの生活基盤が出来てしまい、「今さら長田に」と帰って来ない住民も数多く出る結果となってしまいました。

>そのリーディングプロジェクトとしての地下鉄海岸線が存在するとのことですが

地下鉄海岸線(2001年7月7日開通、新長田―和田岬―三宮・花時計前)の建設構想は神戸市電の廃止(1971年)直後に既に出ておりましたが、採算性が問題となり長く放置されてきた感があります。
それでも地下鉄西神・山手線が1987年に全線開通した後、建設についての議論も活発となり震災発生前には既に着工されていました。震災復興よりも兵庫・長田2区南部のインナーシティ対策の色合いの濃い路線です。
なお、神戸市営地下鉄の当初の構想では、これら西神・山手・海岸の3線に加え「東部線、布引―原田(王子公園)」というのもありましたが、それについては議論さえされておりません。唯一記憶にあるのは、当初は山手線「仮称・布引駅」としていたのを「新神戸駅」と改めた際、布引駅構想は新神戸駅に隣接して造られる「東部線」の駅として残すことが神戸新聞に出ていたことぐらいです。

>実際には結果が出るまでには長い月日がかかるのでしょうが、
>是非とも活性化がうまくいって欲しいものです。

実際に行政に携わっている者ではありませんが、神戸市民の一人として勇気付けられるお言葉です。
ありがとうございます。
[7746] 2003年 1月 16日(木)01:00:04ニジェガロージェッツ さん
阪神大震災被災地の「復興率」を計算してみました。
[7649]uttさま
>あの震災からだいぶ経ちますよね。もう8年ですか。
>神戸を訪れたら、表面上ではかなり復旧しているような感じですけれど、
>まだまだ本当の復旧までには至っていないようですね。(中略)
>早く本当に復旧する日が来ることを願ってます

レスありがとうございます。
西宮市で被災なされ他地域へ転居なされた由、ご苦労も多かったことと察します。
実は私も西宮市生まれです(産院がそこにあっただけのことですが)。
震災から8年を経て、東西に長いかつての被災地でも神戸都心を挟んで東と西でかなり大きな差が出てきたようですね。
西宮市の人口は震災前には1990年の426,199人をピークに横ばいから僅かに減少傾向を示していたにも拘らず、復興の過程であっさりとピーク時の人口を抜き去り、近年では激増する勢いをみせています。
ライバル?尼崎市の人口を上回るのも時間の問題でしょうか。

ここで、震災復興の市街地東西格差を見るため、西宮市から神戸市被災6区まで人口の回復状況から2002年12月1日推計人口による「復興率」として計算してみました。
以下、結果です。
震災直前人口は西宮・芦屋両市は1994年10月1日の、神戸市の各区は1995年1月1日の、それぞれ推計人口です。
復興率の計算方法は[7642]での計算式を用いました。
(淡路、北淡町も計算したかったが、人口資料が手元に揃わなかったので残念)
市区名\人口・復興率震災直前1995.10.12002.12.1復興率
西宮市424,328390,389451,945181.37
芦屋市86,63075,03288,250113.97
東灘区191,716157,599199,142121.77
灘区124,53897,473124,663100.46
中央区111,195103,711111,661106.23
兵庫区117,58898,856107,62746.82
長田区129,97896,807104,92824.48
須磨区(本区)78,90863,25571,71554.05
もちろん、西宮市域には塩瀬・山口地区など震災で被災していない地域も多く含まれ、更に東灘区の六甲アイランドや中央区のポートアイランドには1995年10月当時には大規模仮設住宅が建設されており、当然その人口も含まれ、また全体に言えることですが1995年10月1日国勢調査人口を被災直後の底辺としての人口数値とすることの問題もありますが、まずは大まかに復興の状況を知ることが出来るのではと思っています。
さて、この東西格差はどこから来るものか?
例えば長田区などは土地区画整理事業の遅れに加えて、地域の地場産業の製靴産業の不況や産業そのものの海外流出などがあり、復興が遅れているのでしょう。
西宮あたりの事情については詳しくは存じませんが、「大阪」の影が見えるような気がするのですが・・。
[7766] 2003年 1月 16日(木)20:20:30らるふ さん
震災から8年
[7752] ニジェガロージェッツ さん
>拙稿「震災から8年の神戸・新長田界隈」シリーズをアーカイブスに取り挙げて頂き、誠に恐縮です。
長田区におられるニジェガロージェッツさんには、震災を語る資格は大有りです。
以前、震災エリアの住宅着工数(持家)について調べたことがあるのですが、須磨区から西宮市までの沿岸市区の平均で95年度は例年の10年分に相当する持家着工数がありました。
その中で突出していたのが長田区で、95年度1年間でなんと15年分もあり、95~98年度4年間で合わせると30年分の住宅が着工されていました。日本の住宅は平均して30年以内に建て替えられていることを考えると驚異的な異常値です。
4年間で30年分の家が建つということは、当然内26年分は無理して建てられた訳です。無理した出費は他の消費を圧迫して、多くの人々が元の生活に戻れない状態をつくります。恐らく、それらの無理した負債が完済されるのに20~30年かかると思われるので、本当の復興にはまだまだ時間がかかるのでしょう。
一方、西宮あたりでは、工場などの企業所有地がマンションやショッピングセンターに変わった印象で、復興というより経済発展すら感じます。ただ、新しい商業施設はロードサイド型が多く、古い商店街近辺は不便になったような気がして、お年寄りには住みにくいようにも思います。(震災直後は若い人が街を離れ、高齢化が急激に進んだ印象でしたが、今はなんか別の街になってきたような気もします)
[7803] 2003年 1月 17日(金)05:53:44【1】ニジェガロージェッツ さん
震災から8年の神戸・新長田界隈 (4)
[7675]の続きですが、これで「震災から8年の神戸・新長田界隈」シリーズの最終稿とさせて頂きます。
今稿では「御蔵菅原地区」および「御船地区」を取り挙げたく存じますが、両地区とも新長田駅との地域的な繋がりは薄く、駅勢圏でいえば高速長田駅、市営地下鉄長田駅の圏内に属する地域です。

【御蔵菅原地区】 神戸市長田区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率2002.11.30
地区合計2,6107621,10018.31,339
菅原通3~4丁目6701831860.6263
御蔵通3~4丁目69812823819.3284
菅原通5~7丁目418292282-7.9296
御蔵通5~7丁目82415939435.3496
この地区はJR線の北側に隣接し新湊川以東、兵庫―新長田間のやや兵庫駅寄りのところに位置しており、中央部を南北に貫く幅員30mの都市計画道路長田線が地区を東西に分割しています。そのうち東地区(菅原通・御蔵通の各3~4丁目)は震災前には菅原市場を核とした商業・住宅地区を形成していたものの、戦前からの長屋も残る狭小住宅の密集地域でもありました。震災では地震発生直後から出火し、南東角にあったガソリンスタンド(消防が死守した。現在は廃業)を残して全焼してしまいました。
この地区の悲劇はマスコミでも大きく取り上げられ、焼け落ちた菅原商店街のアーケイドは震災写真集のシンボル的存在でした。震災直後の1月31日に天皇・皇后両陛下が長田区に行幸されたのも、また渥美清扮する「寅さん」が訪れたのもこの地区でした。震災復興土地区画整理事業「御菅東地区」に指定され、復興が進められましたが未だに空き地も多く、完全復興からは程遠い状況で、往時の面影もありません。
たまたまこの地区で真っ先に仮設店舗を建てて食堂を再開された御老人のお話を聴くことが出来ましたが、復帰された世帯は半数以下とのことで、地区内で建築中の住宅は現在のところ僅か1軒だけとのこと、残念なことに折角再開した食堂も今では休業中だとか。
この地区を被災現場の代表的な地区として訪れる人々も多いようで、地区内の要所要所に現在までの復興状況を写した写真パネルなどが配されており、大変勉強になる地区でもあります。
一方、道路長田線の西側(菅原通・御蔵通の各5~7丁目)は震災前から現在に至るまで工場と住宅の混在地域で、一部が震災復興土地区画整理事業「御菅西地区」に指定され復興が進められています。こちらは製靴工場の雑居ビル等の立ち並ぶ街並みのままです。
復興事業については神戸市のホームページに詳しく出ています。
御菅東地区 http://www.city.kobe.jp/cityoffice/33/toti-ku/jl00049.htm
御菅西地区 http://www.city.kobe.jp/cityoffice/33/toti-ku/jl00050.htm

【御船地区】 神戸市長田区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率2002.11.30
地区合計2,7378231,39629.91,544
御船通1~5丁目2,33360589116.6935
大道通1~5丁目404218505154.3609
地下に神戸高速鉄道が走る中央幹線の北側に位置した古くからの住宅街でしたが、ここも震災時に出火し、一部が焼け野原になってしまいました。復興では、この一帯で中央幹線の拡幅工事と阪神高速の建設工事が行われており、これに面する大道通では建築線が北側へ後退しましたが、その一帯に中層住宅が数棟並んで建設され、人口は増加中です。御船通でも住宅が建ち揃い始めました。


《あとがき》
以上4回にわたり震災から8年を迎えた神戸市長田区新長田駅周辺地域について寄稿させて頂きましたが、ここに書きましたことはあくまでも街並みの復興についての表面的な印象を私見で述べさせて頂いたに過ぎません。人口データから「復興率」と称し尤もらしく計算しましたが、これも単純な「人口回復率」に他ならず、本当の意味での復興状況を表すものではありません。
実際の復興状況を測るには人口データではなく、地域の商業規模や工場出荷総額、更に地域に暮らす人々の生活水準がどの程度回復しているのか等の経済的な側面からの調査も必要となるでしょう。
また[7766]らるふさんが大変詳しくご説明なされておられるように、多くの住民は生活再建のために莫大な負債を抱えることとなり、この震災さえなければ存在しなかった負債だけに、全国的な不況も重なり切り詰めた厳しい経済状況の中、その日その日をなんとか食べつなぐような最低限の生活を余儀なくされている住民が「今は復興し、震災は過去のこと」と思える日は何時のことか (ま、これは小生個人のボヤキですが)。
そして、いくら街が復興し住民が安心して暮らせる都市になったとしても、この震災で直接犠牲になられた6,433名の方々に加え、その後の生活苦の中で命を落とされた方々が帰ってくることはありません。

あれから8年。再び1月17日、午前5時46分を迎えました。
[7905] 2003年 1月 19日(日)02:14:30ニジェガロージェッツ さん
KOBE 1.17を終えて
[7766]らるふ さん
震災エリアの住宅着工数(持家)について調べたことがあるのですが、須磨区から西宮市までの沿岸市区の平均で95年度は例年の10年分に相当する持家着工数がありました。
その中で突出していたのが長田区で、95年度1年間でなんと15年分もあり、95~98年度4年間で合わせると30年分の住宅が着工されていました。日本の住宅は平均して30年以内に建て替えられていることを考えると驚異的な異常値です。
大変詳しいフォロー頂き、感謝申し上げます。
小生、存じなかったデータだけに驚きです。それにしても、長田区で95年度の1年間で15年分の持ち家着工数とは当時を振り返っても信じられない高率です。ただ震災前の状況では、長田区内は住宅と工場や商店が密集した状態で、また居住者と建物所有者と土地所有者がそれぞれ別だった所が非常に多く、新築工事の活発な地域ではありません、というより希な地域でした。ですから、もしかしたら計算の「分母」となった平時1年分の着工数が非常に小さかったのかなと思いますが如何でしょうか。
またそういった職住密接型(つまり単純な住宅地ではない)の長田区における95年度つまり震災直後の状況は、一刻も早く生業を再建する必要があって、たとえ震災前の住居(商店、工場)所在地が再開発事業用地であっても、土地区画整理事業地域に指定されていても、極端な話、他人の土地であっても、仮設、本建築を問わず建ち上げて営みを再開する必要があって、その年に15年分の着工が集中する背景になったのでは、とも思います。
ですが(データに基づかない)小生の感想では実際に新長田周辺地域では98年以降に持家着工が本格化した印象を持っております。

[7829]YSKさん
いつもお忙しい中、アーカイブスの御編集、頭が下がります。
YSKさんご執筆の都市ごとの詳しい描写にも刺激され、1・17を機に何か震災復興に関してレポートと書こうとしたのですが、小生、生まれながらに文才が無く、巧く書けずに尻切れレスになってしまいました。お恥ずかしい限りです。
ただ、このテーマは被災者の一人である小生さえも重く気の進まないテーマでもありました。震災に関するテーマで稿を起こすのは、今回がわずかに2度目で、1度目は震災から1年半を経た96年中頃にロシア・ニジニノヴゴロドの言語大学で震災当日に身の回りに起こったことや小生のとった行動を書き留めたのでしたが、ロシア人向きにロシア語で書いたもので気楽に書けましたが、今回はさすがに別です。当り障りの無いように書いた結果としてお茶を濁す程度のものにしかなりませんでした。申し訳ございません。

「くすのき」ですが、奇しくも兵庫県の県木ですね(あと熊本県、佐賀県も)。
小生が「くすのき」で連想する木は長田区西代通2丁目と3丁目を分ける公道の東半分を閉鎖するかのように聳え立つ1本の神木くすのき。道路交通上、非常に邪魔になるとのことで昭和初期まで数回にわたり伐採しようとした住民がいたそうですが、伐採中に皆悲運な事故に遭い、結局平成の世まで木は生きています。震災時は付近一帯の住居は倒壊し、現在では街の表情が一変していますが、神木はそのままの雄姿。あの木は戦災、戦後の振興、インナーシティ化、そして震災、すべてを達観してたのでしょうね。

今年は、ぜひ、といいますか、必ず神戸に行き、今の神戸を感じたいと思います。
神戸に興味を持っていただき、誠に嬉しい限りで、心よりお待ち申し上げます。
でも、決して無理は為さらない様にして下さい。

[7882]TN さん
[7803]《あとがき》のお言葉の前にレスを躊躇した、というのが正直なところです。
あの《あとがき》を書いたのが丁度、17日の午前5時46分前後のことで想うところが多く、気分的に湿っぽくなって仕舞い、この「落書き帳」にそぐわない書き込みになってしまいました。お詫び申し上げます。
[7664]東京にも「木賃ベルト地帯」があるというのを初めて知りました。大変興味があります。
明治通り沿線の墨田区京島地区の方々が神戸市長田区南東部にある真野地区に(京島の方いわく、非常に街並みが似ているそうで)、防災のことや、都市計画のことなどを住民同士の交流も兼ねて来られたのをテレビで見たことがあります。


今年も1月17日が通り過ぎました。小生は新長田駅前で行われていた追悼行事に足を運んで黙祷してきたのですが、あのとき、一被災者として苦労が足りなかったのではとつくづく感じます。
というのは、復興途中に嫌気がさして96年から97年にかけてロシア・ニジニノヴゴロド市に逃避していたことから来る「後ろめたさ」です。そう言った意味では、まじめに復興に取り組む「神戸っ子」ではなく「ニジェガロージェッツ」なのでしょう。

湿っぽくなるので、これで暫く「震災ネタ」は控えさせて頂きます。
[7912] 2003年 1月 19日(日)13:04:45らるふ さん
長田区の持家着工戸数
[7905] ニジェガロージェッツ さん
長田区の持家着工戸数について、補足しておきます。
一応、比較の対象として神戸市東部の東灘区のデータもつけておきましょう。

91~94年度の持家着工戸数
年度長田区東灘区
91151240
92129280
93157269
94147324
上記の平均146278

95年度以降の持家着工戸数
年度長田区対91~94平均東灘区対91~94平均
95226315.5384013.8
9612108.319357.0
976064.26302.3
983752.63921.4
993592.53791.4
003482.43001.1
012271.62590.9

長田区は、もともと持家着工数が多い方ではないように思いますが、(最近の鳥取県が年間2000戸前後なので)95年度の2263戸という数字はやはり驚異的でしょう。
両区とも95~96年度の2年間では91~94年度平均の20年分以上の着工数で大きな差は感じられませんでした。しかし、それ以降は東灘区の方が元の数値にもどるのが早く、復興のスピード差を感じます。長田区の復興ペースの遅さが、98年以降に持家着工が本格化したと言われる感覚の原因ではないでしょうか。
それから、東灘区の94年度がやや多めなのは、95年3月頃から復興がすでに始まっていたのかも知れません。
[7988] 2003年 1月 21日(火)01:36:34ニジェガロージェッツ さん
らるふ さん、YSK さんからのレス、雑魚 さんの「メンバー紹介」に大感謝
[7912]らるふ さん
長田区の持家着工戸数の詳細データをレス下さり、ありがとうございます。
比較の対象とした東灘区のデータも大変に参考になります。
神戸方面の地理に詳しくない方々のためにご説明申し上げますが、西神戸の長田区と、東神戸の東灘区は震災で共に壊滅的被害を被りましたが、その街の性格は全く異なる地域です。
長田区は主に明治末期から大正期にかけて膨張する神戸市人口の受け皿地域としての密集市街地として発展しつつも、戦災では焼け残りが多く、低層木造狭小住宅の密集する下町の住工商の混合地帯です。
一方の東灘区は、主に昭和以降神戸との市街連坦が始まったものの、性格としては阪神間の別荘街とした「お金持ちの街」としての側面がありましたが、戦災では神戸市(当時は市外)以上の罹災率を被りました。しかし、戦後も閑静な高級住宅地としての市街地を形成し、もともとの豪邸が姿を消した跡地は高級マンションが林立する街並みでした。
つまり、この2つの区は神戸市のなかでも正反対の性格と歩みをもつ区です。
らるふさんがこの2つの区を引き合いに出されたのは復興状況を測る上でも参考になるところです。
ただし、持家着工戸数が東灘区は長田区の倍近くの数値がでていますが、市街地の面積も倍近くあることを付記致します。

[7914]YSKさんからも身に余るお言葉、恐縮です。
ご連載中の「シリーズ・クローズアップ仙台」興味深く拝読させてもらっております。小生とは全く縁の無い地域だけに大変勉強になります。益々のご発展お祈り申し上げます。

雑魚さん御執筆の「メンバー紹介」お見事です。
思い切った表現の中にも雑魚さん一流のお気遣いが感じられ、お見事というより他ありません。
が、小生のロシア語は見掛け倒しで、大したことはないのですが・・。今は隣でフォローする人も居ませんからね。
過分なお言葉、恐悦至極に存じます。
お疲れ様でした。
[35132] 2004年 11月 16日(火)22:17:25ニジェガロージェッツ さん
11月1日の神戸市の推計人口が震災前人口推計値を越える
拙稿[34879]の冒頭に若干触れておりましたが、11月1日の神戸市推計人口が震災前の推計人口最高値(1995年1月1日、1,520,365人)をはじめて上回りました。
1995年1月17日発生の震災により激減に見回れた神戸市人口が、推計人口で最低を記録したのが1996年4月1日の1,415,720人でした。
(1998年10月の被災地人口調査結果により、1995年10月の国勢調査人口まで遡っての修正値によれば同日の人口は1,423,096人ですが、この人口値も修正値の中では最低。なお本稿では、96年4月という時点が、前年の国勢調査に近いことから、修正前のデータで話を進めます。)
回復まで「10年はかかる話」と言われた神戸市人口は、予想通り9年10か月を要したことになります。

以下に区別人口データを提示します。

1995年1月1996年4月人口差2004年11月人口差(95.1との)人口差(96.4との)
東灘区191,716155,605-36,111203,55011,83447,945
灘区124,53895,253-29,285127,0392,50131,786
中央区111,195102,153-9,042114,7363,54112,583
兵庫区117,55897,313-20,245107,414-10,14410,101
長田区129,97893,413-36,565104,077-25,90110,664
須磨区188,949174,532-14,417172,115-16,834-2,417
(6区計)863,934718,269-145,665828,931-35,003110,662
垂水区237,735239,0311,296223,584-14,151-15,447
北区217,166232,24015,074225,6448,478-6,596
西区201,530226,18024,650242,42240,89216,242
(3区計)656,431697,45141,020691,65035,219-5,801
神戸市1,520,3651,415,720-104,6451,520,581216104,861

震災直前の95年1月と、震災後の96年4月推計人口を比べると、震災により六甲山脈南麓の旧市街地6区(東灘区から須磨区)では、合計145,665人の人口減を記録する一方、被害の比較的軽かった郊外3区では、仮設住宅の建設などにより41,020人の人口増となっており、神戸市域がはっきりと2分されることを示しています。
更に04年11月人口を見ると、その後の復興過程では、一様に被災した6区でも東部3区(東灘、灘、中央)で確実な復興を歩んでいる一方で、西部3区(兵庫、長田、須磨)では復興の遅れが人口データにはっきりと出てきました。
須磨区では96年4月人口より更に人口が減少していますが、これは被災した須磨区南部の本区での復興の遅れと共に、被災を免れた区北部の北須磨ニュータウンでの―言葉は悪いですが―「オールドタウン化」による人口流出の結果によるものです。
この「オールドタウン化」の現象は、垂水区、北区でも見られます。
復興の過程で、仮設住宅の解散撤去(1999年まで)により、西区や北区での人口減少要因はありましたが、新規開発による住宅建設が進む西区では、依然(衰えたとはいえ)人口増加が進んでいます。

なお、近年の神戸市の人口動向では、郊外住宅地での人口増加は低迷、または減少し転じ、特に垂水区や北須磨での人口減少が目立ちます。一方でマンション建設が好調な都心から東(東部3区)での人口増加が目立っています。
但し、市全体では自然増加および社会増加ともに縮小傾向にあり、近い将来、人口減少都市になるのではと思います。個人的には3~4年後の153万人~154万人あたりがピークではないかと感じています。

その後は(災害が無いにも拘らず人口144万人から13年間で131万人にまで減少した)ニジニノヴゴロド市と同じ道を辿りそうに思えてなりません。
[36808] 2005年 1月 16日(日)21:55:04ニジェガロージェッツ さん
10年目の1・17を前に
地元で阪神淡路大震災に被災した一人として被災直後に写した写真を基に、今から2年前、再び復興途上にある神戸市長田区の新長田界隈を、同じカメラアングルで写して廻りました。
そのことを「震災から8年の神戸・新長田界隈」と題して4回に渡り、こちらの「落書き帳」に投稿させて頂きましたが、その後の2年の間に現地では再開発の進捗に伴い、街並みも変わってきました。
2年前の2003年初旬当時の街の様子は、現地をご案内する機会があった両毛人さんのwebサイトに詳しく紹介されています

その後2年間の再開発と復興による人口の変化については、今年の国勢調査を待たなければなりませんが、10年目の1・17を迎えるにあたり、一足早く住民基本台帳人口のデータをご紹介させて頂きます。
#1990年と1995年の人口データは国勢調査結果。以外のものは住民基本台帳人口(含、外国人登録人口)より算出。但し、国勢調査と住民基本台帳とでは人口の捉え方が違うため、単純比較は出来ませんが、人口の流れの様子は垣間見ることは出来ると考えます。
復興率%は
(最新2004年末人口-被災後1995年人口)÷(被災前1990年人口-被災後1995年人口)×100 
で計算しています。単純な人口データからのみの算出で、実際の復興状況とは異なります。

【新長田駅南地区】 神戸市長田区 (関連過去記事[7642]
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12002.11.302004.12.31復興率
地区合計3,7971,6962,9563,53587.5
日吉町1~2丁目209155410417485.2
若松町3~4丁目56337743785142.2
若松町6~7丁目168843519-77.4
大橋町3~7丁目1,105741537735-1.6
腕塚町5~6丁目1351690703523.9
久保町5~6丁目6912398330514.6
二葉町5~6丁目92643945857127.1
2年前(2003年1月当時)と比べ、震災で全焼した大正筋商店街(腕塚、久保、二葉の各町5・6丁目)の再開発、復興に見られるように、国道2号線以南で再開発ビルの完成が成りました。
現在は、国道2号線北側の大橋町5~7丁目で再開発ビル群の新築工事が進められています。
若松町6~7丁目では人口が減り続けていますが、これは再開発の立ち退きによるもので、ここでは未だ再開発ビルの着工には至っていません。

【鷹取東地区】 神戸市長田区 (関連過去記事[7653]
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12002.11.302004.12.31復興率
地区合計2,2744111,5851,59163.3
日吉町5~6丁目6758149150070.5
若松町10~11丁目65711649047366.0
大橋町10丁目122538110068.1
野田町4丁目23210412513927.3
海運町2~3丁目5885739837960.6
震災で一面が焼け野原となった地区ですが、2年前も時点で既に住宅の再建がほぼ建ち揃っており、その後は大きな変化はありません。この地区は土地区画整理による低層住宅の建設が主で、前出の「新長田駅南」の一部の町に見られるような、高層再開発ビルへの入居による劇的な人口増は見られません。

【新長田駅北地区】 神戸市長田区 (関連過去記事[7675]
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12002.11.302004.12.31復興率
地区合計7,7573,1594,9885,67854.8
川西通1~5丁目1,15337962060228.8
細田町1~7丁目94247171570549.7
神楽町1~6丁目81841469270973.0
松野通1~4丁目1,6259019709466.2
水笠通1~6丁目2,0446021,1141,61370.1
御屋敷通1~2丁目48412639343486.0
御屋敷通4~6丁目69126648467896.9
2年前には空き地が目立っていた地区ですが、その後、土地区画の整備が成り、新築住宅が建設されつつあり、空き地も当時に比べると少なくなりました。それでもまだ、地区全体としては建ち揃っていません。

【御蔵菅原地区】 神戸市長田区 (関連過去記事[7803]
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12002.11.302004.12.31復興率
地区合計2,6107621,3391,37233.0
菅原通3~4丁目67018326326416.6
御蔵通3~4丁目69812828428828.1
菅原通5~7丁目41829229630711.9
御蔵通5~7丁目82415949651353.2
2年前の時点で建築を終えた所が多く、街の様子は見た目には大きな変化はありません。

取り敢えずの過去ログの補足を兼ねた現地からの報告ということで、長文書込み失礼しました。>グリグリさん
[48473] 2006年 1月 17日(火)12:36:18らるふ さん
1月17日は連休明けの火曜日だった。
[7642] ニジェガロージェッツ さん
あの1995年は、14日が第2土曜日、15日が日曜日で祝日、16日は振替休日と言うことで17日は多くの人にとって3連休明けの火曜日の未明、我われ神戸の人間にとっては17日よりも3連休明けの火曜日の方が「あの悪夢」を思い出すことが多いのです。
そう、今年は「あの1995年」と同じ曜日の廻り合せ。ところが、ハッピーマンデーのおかげで15・16日はただの日・月曜日になってしまいました。しかし、最近の「耐震偽造」の報道などを見ると「地震災害とその中にある人々の苦難を忘れてはいけない」という想いが強まるこの頃です。利益を優先して安全を軽視するのは人として許せない・・・・。(以下自粛)

「2005年の国勢調査の数値が出たことだし」と、1995年1月17日(火)の兵庫県南部地震の主な被災地の人口推移を表にしてみました。それで、昨日からそれを眺めながら、なんやかんや想いを廻らせておりました。(市・区における1995年の人口の減少具合や、その後の回復具合など・・・)

■国勢調査人口推移
1985年1990年1995年2000年2005年
尼崎市509115498999488586466187462484
伊丹市182731186134188431192159192248
宝塚市194273201862202544213037219853
西宮市421267426909390389438105465338
芦屋市8712787524750328383490580
東灘区184734190354157599191309206041
灘区13374512947397473120518128048
中央区119163116279103711107982116602
兵庫区13042912391998856106897106987
長田区14859013688496807105464103771
須磨区181966188119176507174056171629
垂水区224212235254240203226230222725
明石市263363270722287606293117291033
淡路市5630654643532355188449076

眺めているうちに、ふと、もし1985~1990年の増減のペースでそのまま推移いていたら、2005年にはどうなっていたのか?と思いました。(下の表は、1985~1990年の増加率で単純計算したものです。)

■1985~1990年の人口増加率でそのまま推移した場合のシミュレーション
1985年1990年1995年2000年2005年
尼崎市509115498999489084479366469841
伊丹市182731186134189600193131196728
宝塚市194273201862209747217940226453
西宮市421267426909432627438422444295
芦屋市8712787524879238832488727
東灘区184734190354196145202112208261
灘区133745129473125337121333117457
中央区119163116279113465110719108039
兵庫区130429123919117734111858106275
長田区148590136884126100116166107015
須磨区181966188119194480201056207854
垂水区224212235254246840258997271753
明石市263363270722278287286063294056
淡路市5630654643530295146349943

2005年の数値を見比べると、須磨区・垂水区はかつてのニュータウンの高齢化により90年代に増加から減少に転じたため食い違いが生じていると思われます。
逆に、西宮市は、被害の大きかった商店街や工場を、中高層マンションや大型商業施設へ転用し、実際の方が大幅増となっています。(灘区・中央区にもそんな傾向が多少あるのかも知れません。)

ん~・・・。不本意なのですが、そのほかの市・区は、前後だけを見ると似たような結果になってしまいました。
しかし、被災地には、失ったものは還らないし、重い負債と心の傷は残ったままなのではないでしょうか。

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