都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

どうして船橋市に習志野の地名があるのか?

トップ > 落書き帳アーカイブズ > どうして船橋市に習志野の地名があるのか?
記事数=4件/更新日:2002年12月25日/編集者:オーナー グリグリ

習志野市は、津田沼駅周辺の広がる自治体ですが、隣接する船橋市内にも「習志野」という地名があります。これはいったいなぜなのでしょうか?この地域に造詣の深いIssieさんによる解説をまとめてみました。

… スポンサーリンク …

★推奨します★(元祖いいね) グリグリ 優ちゃん スピカ 北神 そらみつ

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[804]2002年2月4日
Issie
[1367]2002年5月3日
Issie
[4967]2002年11月17日
Issie
[4983]2002年11月17日
Issie

[804] 2002年 2月 4日(月)21:17:30Issie さん
習志野
別のところで書いたことがあるのですが,現在の「習志野市」はその名前からすれば中途半端な存在です。

「習志野」と地名は,明治の初めここに(江戸時代までは「小金牧」と呼ばれていた)陸軍の練兵場が設けられ,明治天皇が視察にやってきたときに「習志野と名づけるのがよかろう」と言ったことによる,という話になっています(彼が自分の頭で考えたことかどうか,わかりませんが)。以来,騎兵旅団の所在地として「習志野」の地名は全国に有名になります。
この習志野原の陸軍施設および演習場は1945年の敗戦当時の行政区画でいえば,「千葉郡津田沼町」「同二宮町」「同幕張町」「同大和田町」の4町にまたがっていました。旧陸軍施設の敷地の多くは二宮町と幕張町の区域にあり,津田沼町は旅団司令部の門と“門前”の商店街,および警察署や郵便局そして国鉄の津田沼駅(ただし駅前商店街は二宮町)が,そして演習場が幕張町から大和田町にかけてひろがっていました。

戦後,“昭和の大合併”の際に津田沼町が中心になって「習志野市構想」が生まれます。
前記4町がすべて合併すれば“完全無欠の「習志野市」”が誕生するはずでした。
ところが二宮町は習志野市ではなく船橋市への合併を選びました。大和田町は南隣の千葉郡犢橋(こてはし)村(現・千葉市花見川区・若葉区)との合併を望み,これが実現しないと今度は北隣の千葉郡睦村および印旛郡阿蘇村との合併を選び,「千葉郡八千代町」をへて現在の八千代市となっています(この市昇格をもって「千葉郡」は消滅)。
結局,津田沼町との合併の話に乗ったのは東隣の幕張町だけでした。この幕張町も津田沼町との合併を主張するグループと千葉市への合併を主張するグループとが対立し,最終的には町を二分して南半分(幕張・武石・長作)は千葉市へ,北半分(天戸・実籾)が津田沼町と合併ということになりました。こうして1954年に「習志野市」が発足します。が,その直後,天戸地区は千葉市へ再編入され,結局旧幕張町で習志野市の区域に入ったのは実籾地区だけになりました。

大字としての「習志野」は旧二宮町にありました。戦後の陸上自衛隊の施設も旧二宮町内の施設が流用されました。したがって,“大字習志野”は二宮町を編入した船橋市の地名となり,戦後開業した新京成電鉄も船橋市内に「習志野駅」を設置しました(その後,「北習志野駅」も新設)。そんなわけで,「習志野」という地名(呼称)は船橋市の方に多く分布します。
一方,習志野市は旧幕張町域の実籾地区の北部(かつての演習場の一部)を分離して,「東習志野」という大字を新設し,何とか「習志野市」としての面目を保っています。

夏の甲子園で2度優勝した「習志野高校」は習志野市立の高校で,もちろん習志野市にあります(校歌に「津田沼」という地名が登場します。現在は東習志野に移転していますが)。一方,「日大習志野高校」は船橋市の習志野にあります。そして「日大生産工学部」は船橋市と習志野市の境目にあります。
習志野警察署と習志野郵便局は現在も戦前のまま船橋市との境に近い習志野市側にあります。そして,これも戦前のまま習志野市から船橋市や八千代市の一部にかけて,つまり“本来の「習志野」”を管轄区域としています(最近は変わっているかもしれないなぁ)。

その昔,幼稚園入園前から高校2年まで私は習志野市民でした。
[1367] 2002年 5月 3日(金)18:01:57Issie さん
習志野について補足
以前の書き込みで「習志野市」成立の経緯について書いたことがあるのですが,私は「幕張町」の南半分が千葉市に編入されたのと北半分が津田沼町と合併して習志野市になったのが同じ日だと思っていました。
でも,よく見たら千葉市への編入と習志野市の発足の期日が違うのですね。
以下のような順序だということです。

1954. 7. 6:千葉郡幕張町全域が千葉市へ編入
1954. 8. 1:旧幕張町のうち実籾・長作・天戸および馬加(まくわり)の一部が千葉郡都田沼町と合体市制,習志野市に
1954. 8.28:習志野市のうち長作・天戸が千葉市へ再編入

というわけ。
さらに,現在は習志野市になっている「東習志野」地区の一部は合併前の幕張町の区域に属するのですが,幕張町が千葉市に編入される直前に千葉郡大和田町から編入されたものです(期日は失念)。
つまり,この区域は半年に満たない間に「大和田町→幕張町→千葉市→習志野市」と3度も所属が変わったことになります。
長作・天戸も2月足らずの間に「幕張町→千葉市→習志野市→千葉市」と所属が変わっているのですがね。

余談:
幕張は中世以来「馬加」と表記されていました。
町村制施行のための“明治の大合併”で武石・長作・天戸・実籾の各村と合体したときに「幕張村」と表記するようになりましたが,旧村を引き継ぐ大字の方は「馬加」のままでした。
千葉市に編入された後,「幕張町」と改称されました。
「幕張」と表記すれば「まくはり」と読むほうが自然ですが,「馬加」と表記すれば「まくわり」と読むほうが素直です。実際,中世豪族の千葉一族の支流である「馬加氏」は普通「まくわり氏」と読まれます(その昔,NHKの人形劇「新八犬伝」でもそう読んでいましたね)。
どちらにせよ,旧仮名づかいでは「まくはり」と表記するから構わなかったのでしょうが,「は」とも「わ」とも読むバリエーションのある地名だったのでしょうね。
現在はもっぱら「は」と読むのは,新都心で有名になったとおりです。
[4967] 2002年 11月 17日(日)12:08:18Issie さん
大習志野市
[4959] ヒロオ さん
もともと今の習志野市の東半分は「千葉郡幕張町」の北半分でしたからね。
今の美浜区幕張西地区が「千葉市幕張地先埋立地」と呼ばれていたころ,そこに建ちはじめた住宅の子供たちが市境を越えて私の通っている習志野市側の小学校に通ってきていました。私たちもよくこの埋立地へ遊びに行ったし,ここの団地へのバスはつい最近まで国鉄津田沼駅から習志野市内を通って入ってきていたんですよね。

でもねぇ…,元習志野市民としては千葉市なぞになってほしくないなぁ。
千葉市には,あまりいい印象を持っていないんですよね。好き嫌い,という極めてレベル低い感情ですが。川鉄公害訴訟のイメージもあるし。
小さい習志野市が好き!

もともと,千葉市の幕張地区と習志野市,八千代市,船橋市東部は市の境をまたいで1つの行政単位を作っていたんですよね。「(旧)千葉郡北部」。
警察も郵便局も電話局もだいたいこの範囲を管轄区域としていて,所在地は習志野市の大久保地区。昔の陸軍騎兵聯隊司令部があったあたりですね。ここが「習志野」の中心だったわけです。
だからね,ここは1つ,習志野市と八千代市に船橋市東部と千葉市花見川区を加えて“正真正銘”の「習志野市」を作ったらいいのに。そしたら「習志野市になくて船橋市にある習志野」なんてことも起こらないじゃない。
…なんて妄想を持ったりもするのですが。

先日,ふと津田沼のあたりに行くことがあったのですが,いつの間にか「習志野郵便局」がJR津田沼駅裏に移転していてびっくり。
八千代市も単独の市として十分な大きさだし,船橋は船橋,幕張は幕張,と昔の「習志野」の単位が意味を失っているのだから,習志野市単独の「習志野郵便局」となるのは当然ですね。

それは,ともかく…
別に百万都市にならなくたって,いいじゃない。
人口が増えるのが都市の発展の象徴で,それで格が上がる…なんてのは,バブルと一緒に破綻した,カビの生えた「右肩上がり」の発想です。
もう,そんな時代じゃないと思いますよ。
[4983] 2002年 11月 17日(日)17:55:25Issie さん
津田沼駅
[4969] ヒロオ さん
>京成習志野、津田沼、新習志野とあるのにJRの習志野駅がないのはどうしてなんでしょうか?

「習志野駅」があるのは京成ではなくて新京成ですね。「北習志野」という駅もあります。
大字・町名レベルでは「習志野」というのは船橋市の地名なのですね。そこを通る新京成に「習志野」「北習志野」という駅があるのです。
「習志野」という地名が全国的に有名になるのは,明治半ば,ここに陸軍の騎兵部隊が配置されてから。だから戦前はとても有名な地名でした。
でも,行政上は千葉郡に属する津田沼町・二宮町・大和田町・幕張町にまたがる地名で,津田沼の占有物ではなかったのです。

ところで,総武線の前身である総武鉄道がここに鉄道を敷設したとき,船橋と幕張の間には駅がありませんでした。後に,その中間点に信号場が設置されましたが,そこがたまたま(辛うじて)津田沼村域にあったので「津田沼信号場」となったものと思われます。やがて“駅”に昇格して「津田沼駅」となりました。
この駅は「津田沼」を名乗るけれども,そこは隣の二宮村との境界でした。駅に最も近い主要道路は北側を通過する成田街道と東金街道。しかも,その先に習志野の騎兵聯隊がある。だから,この駅の建物は津田沼村の集落のある南側ではなくて,2つの街道に向かった二宮村側の北側に向いて建てられました。
そんなわけなので,津田沼駅でよりにぎやかなのは習志野市(←津田沼町)側の南口ではなくて船橋市(←二宮町)側の北口なのです。
新京成の「新津田沼駅」は,これまで何度か移転を繰り返しているのですが,ここは一応習志野市に属しています。

で,津田沼町が習志野市になっても,国鉄がJRになっても「津田沼駅」の名前は変わらないのですが,駅に隣接する「津田沼電車区」はJRになって「習志野電車区」に改称されています。

それにしても納得できないのは「新習志野駅」。
埋立地の真ん中に「野」はないじゃない! 「浦」とか「浜」なら納得できるんだけどね。

ところで,「津田沼」ってあんなド田舎のマイナーな地名がそんなに知られているんですか?
私は「習志野」の方がはるかに知られていると思っていたのですが。
そういえば,甲子園から縁遠くなっちゃったからなぁ。

この特集記事はあなたのお気に召しましたか。よろしければ推奨してください。→ ★推奨します★(元祖いいね)
推奨するためには、メンバー登録が必要です。→ メンバー登録のご案内

… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

パソコン表示スマホ表示