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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

旧制中学データベース(北海道・東北編)

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記事数=9件/登録日:2004年4月21日/編集者:YSK

旧制中学系の高校のリスト北海道・東北編です。

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[16665] 2003年 6月 12日(木)14:41:54【5】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/01 北海道編
以前、旧制中学に関する データ・ベースを発表させて頂きましたが、その後、皆様に御教示を頂いた検索サイトによる新着のデータもある程度揃った事から、改めて都道府県別および現行設立区分別に、データを纏めて見たいと思います。創立時点の時系列に従って列挙する方法は前作と同一ですが、今回は以下の眼目において刷新を試みたつもりです。

○ ※は、嚆矢の系譜とは別系列で、その後統合された旧制中学を意味する。
○ 判明している範囲で、現行名に落着くまでの校名を総て列挙。「/」 より右側は、学制改革以降の校名。
○ 新制移行後に合流した高女などの方が、創立時期が古い場合もあるが、ここではあくまで中学の系譜を基本とする。

これらの データに関して、漏れ、誤り、補足がありましたら御指摘下さい。訂正が効く 24時間以内ですと有難いです。さて、この シリーズが完結するのはいつになる事やら。予想を的中させた方には、「雑魚」 の ハンドルを御譲りします。(超嘘)

先ずは北海道から。道立を 「道庁立」 とする独特の言い回しや、町立の時点で 「北海道」 を校名に冠する岩内、伊達、余市各校の創立当時が特徴的です。

道立1895)札幌南札幌尋常中学、札幌中学、道庁立札幌第一中学、道立札幌第一中学 / 札幌一高
函館中部函館尋常中学、函館中学、道庁立函館中学 / 函館高校
1902)小樽潮陵道庁立小樽中学、※私立潮陵夜間中学 / 小樽高校
1903)旭川東道庁立上川中学、道庁立旭川中学 / 旭川高校
1906)根室道庁立根室実業学校、道庁立根室商業学校、道庁立根室中学
1913)釧路湖陵釧路中学
札幌西道庁立札幌中学、道庁立札幌第二中学 / 札幌二高
1917)室蘭栄道庁立室蘭中学 / 室蘭高校
1920)滝川道庁立滝川中学 / 滝川高校、滝川西高
1922)網走南ヶ丘道庁立網走中学 / 網走高校
岩見沢東道庁立岩見沢中学 / 岩見沢高校
北見北斗道庁立野付牛中学、北見中学 / 北見高校
名寄道庁立名寄中学、道立名寄中学
1923)帯広柏葉道庁立帯広中学 / 帯広高校
稚内道庁立稚内中学
1924)余市余市町立北海道余市中学、道庁立余市中学
留萌留萌町立中学、道庁立留萌中学
1937)苫小牧東町立苫小牧中学 / 苫小牧高校
1940)旭川北旭川市立中学 / 旭川市立高校
岩内岩内町立北海道岩内中学、道庁立岩内中学
遠軽遠軽町立中学
函館東函館市立中学
1941)伊達伊達町立北海道伊達中学、道庁立伊達中学
富良野道富良野中学
私立1885)北海北海英語学校、私立北海中学

次号予告) 青森県編
[16666] 2003年 6月 12日(木)15:18:35【2】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/02 青森県編
嚆矢の所在地が県都ではない例の一つですが、これは以前にも言及した様に、青森の街が元々、弘前藩の開港政策に基く後発地であり、城下町である弘前が、のちに官立高校や医専も設置されるなど、文教政策の上で好感された事情があるのでしょうね。で、二中はその津軽地方と対を成す南部地方の八戸に設置し、三中で漸く、折衷的立地である県都の立地と相成る訳で、政治的配慮が窺える思いです。四中が五所川原ではなく木造に置かれた必然性が未だに良く判らない雑魚でした。

県立1884)弘前県中学、県尋常中学、県第一尋常中学、県第一中学、県立第一中学、県立弘前中学
1893)八戸県尋常中学八戸分校、県第二尋常中学、県第二中学、県立第二中学、県立八戸中学
1900)青森県第三中学、県立青森中学
1902)木造県立第四中学、県立弘前中学木造分校、県立木造中学
1942)田名部県田名部中学、県立田名部中学
不詳)青森北青森市立第一中学
野辺地

次号予告) 秋田県編
[16668] 2003年 6月 12日(木)16:02:32深海魚[雑魚] さん
 旧制中学 データ・ベース 第二弾/03 秋田県編
嚆矢の秋田高は、さすが日新学校の系譜を継承するだけあって、やたら改称が目立ちますが、「県立秋田中学」 に落着いた 1901年までの明治期の文教行政が試行錯誤の連続だった事を窺わせますね。横手、角館、秋田、能代の各校は、新制移行後に一旦、校名が単純に地名を名乗る パターンから外れていますが、戦後模索された 「総合制」 の一貫かな。角館高では http://www.akita-c.ed.jp/~sch11124/history/index.html によれば、「北高」 を名乗った時期が断続的に二度あった模様で、何か不可解気味です。

県立1873)秋田日新学校内洋学校、太平学校、中学師範予備科、秋田中学、秋田尋常中学、
県第一尋常中学、県第一中学、県立秋田中学 / 秋田南高
1898)大館鳳鳴県第二尋常中学、県第二中学、県立大館中学
横手県第三尋常中学 / 横手美入野高校
1902)本荘県立本荘中学
1925)角館県立角館中学 / 角館北高
能代県立能代中学 / 能代南高

次号予告) 山形県編
[16670] 2003年 6月 12日(木)17:36:59【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/04 山形県編
大政奉還後の学制発布以前の体制に継承性を求める事自体、疑問視する声は多いと思いますが、公式の継承解釈に基いて見ると、やはり凄いのが米沢興譲館高。嚆矢の禅林文庫が 「藩学」 と位置付けられている点、以前 Issieさんが指摘された藩体制の確立時期との整合性において少々 「?」 ですが、さてどう解釈したものか。その後の学問所 「興譲館」 は、藩政改革に着手した若き日の名君、上杉鷹山公の文教重視政策の所産とされています。しかし、校名に 「興譲館」 を冠するのは 1929-48年および 1956年以降で、終始一貫していた訳ではないのですね。

創立時期では最古ながら、県立移管時期が 1900年と比較的遅い為、俗に言う 「県立一中格」 の ステイタスは、県立の嚆矢にありがちな師範学校併設系の山形東高に取られた観もあります。その山形東、戦前は 「二中」 があったにもかかわらず、「一中」 を名乗っていないのが特徴的で、松本県ヶ丘高 (松本二中系) に対する松本深志高の如き印象を受けます。

旧制史における米沢興譲館高や山形東高は別格として、新制移行後の再編に伴い、暫定的に ナンバー・スクールを名乗る例が多いですね。この中で、新庄北高の旧称に 「新荘」 が登場しますが、私の転記ミスでなければ、「庄内」 と 「荘内」 が概ね同義である、という構図がここにも当てはまるのかな。「荘内」 は、鶴岡南高の旧称の他、銀行名に用いられていますね。

県立1618)米沢興譲館藩学禅林文庫、学問所興譲館、私立米沢中学、米沢尋常中学、県米沢中学、
県立米沢中学、県立米沢興譲館中学 / 米沢一高、米沢高校、米沢西高
1877)鶴岡南鶴岡中学、西田川郡立中学、荘内私立中学、荘内中学、県立荘内中学、県立鶴岡中学
/ 鶴岡一高、鶴岡高
1879)酒田東酒田中学琢成校、県立酒田中学 / 酒田一高、酒田高校
1882)山形東県師範学校内中学師範学校予備科、県中学、県尋常中学、県立山形中学 / 山形一高
1900)新庄北県山形中学新庄分校、県立新荘中学 / 新荘一高、新庄高校
1920)長井県立長井中学 / 長井一高
1921)寒河江県立寒河江中学
1941)山形南県立山形第二中学 / 山形二高

次号予告) 岩手県編
[16696] 2003年 6月 13日(金)01:31:26深海魚[雑魚] さん
 旧制中学 データ・ベース 第二弾/05 岩手県編
古参格の割に、盛岡一高の改称頻度は意外に小さいですね。新制移行後は一旦 「第一」 を名乗り、女学校系などを統合した大所帯の時点で単純に地名を名乗り、その後、再分割で方角付き校名に至る パターンが散見されますが、一関一高の場合は、一旦統合した二高を同名で分離し、新制移行直後の 「第一」 が二年間の ブランクを経て復活した珍しい例です。

1911年創立の胆沢郡立実科女学校あらため水沢高女の継承先として語られる水沢高校のもう一つの前身である水沢中学は、以前にも言及した様に、戦後創立の旧制校です。学制改革が 1948-49年ですから、高女の新制高校移行に伴う併設中学、という事ではない筈。(違っていたら済みません。)

規模が同等と思しき街が近接する北上と花巻ですが、「黒陵」 こと黒沢尻北高の創立時期は花巻に先立つ事七年、しかも設立当初より県立という事で、文教政策上は北上に分がある様です。

県立1880)盛岡第一岩手中学、県尋常中学、県立盛岡中学
1898)一関第一県一関尋常中学、県立一関中学、一関一高、一関高校
1901)遠野遠野中学
福岡県立福岡中学
1924)黒沢尻北県立黒沢尻中学 / 黒沢尻一高、黒沢尻高校
1931)花巻北17町村学校組合立花巻中学、県立花巻中学 / 花巻一高、花巻高校
1941)釜石南県立釜石中学 / 釜石一高、釜石高校
1943)宮古県立宮古中学 / 宮古一高、
1946)水沢県立水沢中学

次号予告) 宮城県編
[16708] 2003年 6月 13日(金)13:49:16【1】深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/06 宮城県編
福島県立高の共学化推進に伴い、東北では唯一、旧中系と高女系の別学制が残った宮城県立ですが、そうした事情から、1970年に県立移管した塩釜高を除き、学制改革の時点で現校名が確定しているのは、隣の岩手県立や山形県立と比較して対照的ですね。また、三中系の古川高や四中系の角田高の場合、仙台の県立校の分校という位置付けでありながら、設立当時は郡立というのも特徴的です。

概ね同時期に開校された築館高と佐沼高ですが、前者が古川に置かれた三中の分校として設立されたのは地勢的に判るとして、佐沼が仙台の二中の分校扱いとされた必然性が良く判らないですね。(ちなみに 二中は、当初宮城県全体としての第二、後年仙台市内の第二、という位置付けですね。) 瀬峰を挟んで何やら宿敵めいたものすら感じてしまうのですが。(笑) それにしても、築館高嚆矢の 「宮城県立宮城県第三中学栗原分校」 という名称、長ったらしいなぁ。

仙台一高と藩校養賢堂については、拡大解釈を覚悟で継承関係ありと位置付けました。これは、仙台という要衝の地にありながら、尋常中学が設置されたのが 1892年と比較的遅く (丁度、文部省の一県一中学令が緩和された頃で、廃校を余儀なくされた長野県中学の長野、上田、飯田各校が復活したのもこの頃です。これは、幕末の混乱期における新政府との関係を反映したものでしょうか。) それまでは、養賢堂の洋学部門を継承する英語専門学校・辛未館が事実上の公立中等教育機関として機能していた点を重視したもので、辛未館から尋常中学に スライドした教師も少なくなかった様です。

県立1736)仙台第一伊達藩校養賢堂、辛未館、県尋常中学、県中学、県第一中学、
県立仙台第一中学、県仙台第一中学
1896)仙台第二県尋常中学分校、県第二中学、県立仙台第二中学
1897)角田県尋常中学伊具郡立分校、県第四中学
古川県尋常中学志田郡立分校、県中学志田郡立分校、県第三中学、県立古川中学、県古川中学
1899)白石刈田中学講習会、郡立刈田中学、県白石中学
1901)築館県立宮城県第三中学栗原分校、県立宮城県第五中学、県築館中学
1902)佐沼県立第二中学登米分校、県第六中学、県立佐沼中学、県佐沼中学
1922)石巻県石巻中学
1927)気仙沼県気仙沼中学
1943)塩釜塩釜市立宮城県塩釜中学 / 塩釜市立塩釜高校
市立1940)仙台仙台市立仙台中学
私立1886)東北学院仙台神学校、東北学院、東北学院普通科、東北学院中等部、東北学院中学
1894)東北仙台数学院、東北中学、宮城県私立東北中学、南光学園

次号予告) 福島県編
[16712] 2003年 6月 13日(金)14:56:07深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/07 福島県編
「文武両道」 が好感されたか、一昨年、第73回選抜高校野球大会から適用された 「21世紀枠」 の栄えある第一号に県立一中系の安積高が選ばれましたが、折しもその春は、同校を含む福島県立の旧中および高女系高校で共学化移行が開始された時期でした。つまり、学制改革直後早々に現校名が確定した事情は宮城県立と同様ですが、一方で、共学化の結果 「安積女子 → 安積黎明」 「白河女子 → 白河旭」 「会津女子 → 葵」 「磐城女子 → 磐城桜丘」 など名称変更されました。(私自身は、地域風土や学校の教育理念次第で、設立区分にかかわらず、共学、別学どちらでも構わないと考えます。)

安積高の御先祖校は元々、現福島市の師範学校に併設された格好でしたが、福島県尋常中学時代の 1889年、当時は安積郡桑野村に属した郡山市内の現校地に移転しました。郡山は元々、二本松藩の寒村に過ぎず、戊辰戦争の戦禍で荒廃した状況にあった様です。(福島市からの県都移転が取り沙汰される様になるのは、鉄道の開通に伴う要衝化が進んだ後の事ですね。) 尋常中学の移転当時、一帯では、県典事と郡山の有力商人が 1873年に結成した開成社による、安積疎水を主要眼目とした開拓事業の真っ最中で、本来、県を代表する中等教育期間が置かれる様な場所ではなかった様ですが、以前にも述べた様に、学園都市形成の呼び水として、東京教育大改め筑波大の誘致や広島大の総合移転に通じる感覚を先取りした側面があったのではないかと考えます。

その戊辰戦争に敗れた会津では、中学設立が 1890年と県内二番手の古参格ながら、県立移管が県立三、四中の設置後だった為、ナンバー・スクールを名乗れませんでした。同校OBによると、これが戊辰戦争に基く確執の産物である可能性は否定できないとの事。ちなみに、県立と区別する意味で 「学法」 を冠する事が多い私立石川高も、結構な古株ですね。当時の石川は相応に栄えた街だったのかな。

県立1884)安積福島中学、福島尋常中学、県第一尋常中学、県立安積中学
1890)会津私立会津中学、県立会津中学
1896)磐城県尋常中学磐城分校、県第二中学、県立磐城中学
1898)相馬県第四尋常中学、県第四中学、県立相馬中学
福島県第三尋常中学、県第三中学、県立福島中学
1918)喜多方県立喜多方中学
1922)白河県立白河中学
1923)安達県立安達中学
双葉県立双葉中学
私立石川1892石川義塾、石川中学

次号予告) 茨城県編
[25203] 2004年 2月 23日(月)01:14:21【3】faith さん
青森から弘前に移転した学校について
[25073] TGRSさん
[25023] まるちゃんさん

弘前は1889年に県下唯一の市になったぐらいですから、
・旧制中学。一中=弘前、ニ中=八戸、三中=青森
と言う風に、「一中」が弘前に置かれてもおかしくないだろうと思います。
もっとも、最初の県立中学校は一旦青森市に置かれたようです。「青森県百科事典」の「弘前高等学校」の項より抜粋します。もちろん、ここでいう弘前高等学校は新制の方です。
二中は弘前の県立中学校の分校が独立したものであることが分かります。
1884年(明治17)8月20日の創立で県初の公立中学校。青森県中学校として同年10月6日、青森県の新町にあった旧藩倉庫を仮校舎にあて開校した。翌年7月、廃校となった県医学校のため新築した校舎に移転。1886年9月、青森県尋常中学校と改称。弘前人士の猛運動で1889年5月、青森から弘前市元寺町の旧県立病院に移転となる。1892年6月、校舎全焼。本町の津軽産業倶楽部を仮校舎とした。翌年7月4日、八戸分校を設置。1894年1月、新寺町に新校舎が落成した。同年3月、青森県第一尋常中学校と改称、同年4月1日、八戸分校が独立し青森県第二尋常中学校となった。1899年4月1日、青森県第一中学校と、1901年6月1日県立第一中学校と改称。1909年(明治42)4月1日、県立弘前中学校となる。同時に木造町の県立第四中学は県立弘前中木造分校となった。1927年(昭和2)2月東奥義塾廃校に伴い4・5年生26人を各収容した。1948年(昭和23)学制改革により現校名(普通科)となる。
師範学校は、青森に本科が、弘前に予科が開設されてスタートしています。「青森県百科事典」の今度は「師範学校」の項より。
1876年(明治9)11月、青森新町に本校、弘前亀甲町に分校が創設され青森師範学校と称し、本校に本科生24人、分校に予科生のみ34人を収容、本県学校教員の養成に当たった。
もっとも分校は1884年には廃止になってしまいます。この後は青森に所在した師範学校ですが、[25042]に書いたように、戦災で弘前に移転します。弘前は戦災に遭わなかったために、移転先が確保しやすかったのでしょう。(軍都であり、軍用地を戦後転用できたものと思われますが、確認できていません。)上掲書には、
1945年米軍機の青森空襲で校舎焼失、翌年11月弘前市に移転し、1949年(昭和24)国立弘前大学の発足で同大学教育学部となった。
とあります。
一方医専も戦災が原因で弘前に移転します。上掲書の「青森医学専門学校」の項から抜粋します。
1944年(昭和19)5月、青森市野分国民学校を校舎に開校。(中略)当時は太平洋戦争中であり、国の軍医養成が主目的であった。1945年(昭和20)7月戦災をうけ校舎、付属病院を焼失、教官、学生に死者が出た。終戦後学校再建のため教官や学生は、浪打や大湊の旧軍隊に赴き実習、実験などの機材を運搬した。翌年7月ごろ学校存廃論が起きた。しかし、関係者の陳情や学生の文部省座り込みの熱意などで存続が決まった。そのころ焦土と化した青森市に存置するか、戦災をこうむらない弘前市に移転するかで両市の誘致合戦が繰り広げられたが、結局国の意向などもあり、弘前市に移転再建されることとなった。翌年3月校舎は当時の朝陽国民学校、付属病院は市立病院が充てられ業務が開始された。
なお、医科大に昇格したのは弘前移転後の1948年です。
したがって、[25042]
医科大、師範が弘前に移ったのは青森の戦災の関係のようですね。
の、「医科大」は「医専」の間違いです。訂正させて頂きます。

青年師範や女子師範については調査でき次第また報告します。(というか調べるのを忘れていました)
faithからすれば、これぐらいの情報は大学のホームページに載せて欲しいですね。

※誤字訂正
[25828] 2004年 3月 6日(土)23:54:33【2】faith さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/02 青森県編 補遺
[16666] 委員長殿
不詳) 青森北 青森市立第一中学
青森北高等学校については、以下の通りです。
1941) 青森北 青森市立第一中学、青森市立第一高等学校、(1969 県に移管)青森北高等学校

野辺地高等学校については以下の通りです。
1926) 野辺地 県立野辺地中学、(1948年 野辺地町立高等女学校を併合)野辺地高等学校

旧制中学校と(町立ではありますが)高等女学校が一緒になって男女共学の県立高校ができたという非常に素直な歴史です。
嚆矢の所在地が県都ではない例
これについては[25203]に書いた通りです。
四中が五所川原ではなく木造に置かれた必然性が未だに良く判らない
これについて、「青森県百科事典」に面白い記述を見つけました。
中学校争奪騒動
第四中学校すなわち西北中学校の設置は、1900年(明治33)県会で可決されたが、その設置をめぐって、西、北郡間に競争が始まった。一応県当局に一任することに決まっていたので、県当局は数箇所の候補地を実検し、土地の状況、飲料水などを調査した結果、西郡木造の旧藩御仮屋跡が学校地に最適であると決定した。しかし五所川原地方ではこれ以来、木造町を恨む気持ちが強く、たびたび争闘が起こり、負傷者を出した。特に1902年(明治35年)5月25日には、山田久須志神社(森田村)の祭礼に集まった五所川原、木造町民4、5人の間に争闘が起こり両方に負傷者が出たが、警察の説諭によって退散した。しかし五所川原町ではこの報を知ると警鐘を乱打し、約200人が木造町に押しかけた。木造町でもこれを知り寺鐘を鳴らして警戒するなど対立はエスカレートし、こん棒、竹やり、その他で乱闘が始まり両方とも負傷者を出しようやく静まった。
第四中学校は、1914年に廃校になりますが、その経緯は上に書いた騒ぎとは別のようです。
同校は開校後職員と父兄間にトラブルが多く、1907年父兄に扇動された生徒が畑校長に体操教師の更迭を要求して同盟休校、1週間後に解決をみたが、職員の中に校長の微温的解決策に不満を持ち、同年12月、生徒の白紙答案提出事件を契機に若木教頭ほか8人が校長に対してストライキを行った。県は事態を重視し教頭ほか8人を解職処分にしたが、翌年同校を弘前中学校の分校とし、1914年(大正3)廃校にした。
もっとも、同資料の「中学校」の項には、生徒の減少が廃校の原因である旨の記述があります。
木造中学校は1901年(明治34)第四中学校として、西郡木造町に創設された。その後、生徒数が漸減し、1910年には弘前中学の分校となり、1913年に廃校となった。その後景気の回復につれて進学希望者がふえたので、1926年(大正15)県立木造中学校として復活開校された。
(なお、同時期の野辺地中学校の設置についても、中学校進学希望者の増加に対応したものであるとのことです。)
[16666] 委員長殿の
1902) 木造 県立第四中学、県立弘前中学木造分校、県立木造中学
ですが、上に書いたように、県立木造中学校開校までの12年間(「中学校」の項の記述に従えば13年間)、対応する学校は存在していません。

参考文献 「青森県百科事典」

※誤字、一部表現修正
※引用追加

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