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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

新宿・角筈散歩

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記事数=20件/更新日:2006年2月5日/編集者:YSK

現在の新宿駅界隈の昔懐かしい地名、角筈(つのはず)、淀橋、内藤新宿などについての書き込みを集めました。超高層建築物群がひしめき合うこのエリアの今昔物語です。

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[7924] 2003年 1月 19日(日)20:43:36【1】Issie さん
都心・副都心・新都心
[7835]ヒロオ さん
ところで、副都心、新都心の定義ってなんなんでしょうか?

これって用語上の定義なんてないと思いますよ。
「副都心」という言葉の出所は1960年代から70年代に東京都が策定した都市計画なんじゃないかと思います。つまり従来の都心である丸の内・日本橋地区へ集中している管理中枢機能を分散させるために,渋谷・池袋などを「副都心」として育成する。中でも新宿(正確には新宿ではなくて旧淀橋区の角筈(つのはず)地区ですねぇ)には淀橋浄水場という広大な空き地予定地がありましたから,まずはその第一候補。
そして上野地区も,副都心として整備することが策定されていました。
バブルの頃に大流行した横浜や幕張,浦和・与野・大宮3市の「新都心」も,プロジェクトの名称として「新都心」と呼んだだけだと思います。

つまり,学術上の用語ではなくて,政策上のキャッチコピーなんじゃないでしょうか。
だから定義なんてなくて,“言った者勝ち”。そして定着しちゃえばそのまんま。
そんなもんだと思います。
[17086] 2003年 6月 20日(金)23:16:26ken さん
角筈
[17080]三丁目 さん
以前は、このあたり一帯は角筈だったんだよ、と教えられました。
角筈が西新宿に、柏木は北新宿になったのは、いつごろだったでしょうか。
中野で幼少時を過ごした私には、角筈は、歴史上の地名ではないですが、つまり、三丁目さんの上司の方と同じ世代だということなのかも。

タクシーに乗った客が「角筈まで」
運転手「ああ、西新宿ね」
客「(独言・・・寂しいなあ)」
というコマーシャルがありましたが、あれは、何のコマーシャルだったですかね。
また、客の役を演っていたのは誰でしたっけ?
[17108] 2003年 6月 21日(土)09:50:27【1】Issie さん
西新宿
[17086] kenさん
[17106] 三丁目 さん
角筈が西新宿に、柏木は北新宿になったのは、いつごろだったでしょうか。

「その地図(帳)」(「エアリアマップ 東京都区分地図帳」昭文社,1972年,700円)には,ちょうど都区内で住居表示による町名整理が進行中だったので,地図の中に町名整理の終了した区域と実施年月日が記載されています。
1971年末時点の新宿区では,
 1965. 8. 1:西落合1~4丁目,中落合1~4丁目,中井1~2丁目
 1966.11.10:上落合1~3丁目
 1971. 2. 1:西新宿1~8丁目,北新宿1~4丁目
 1971. 6. 1:百人町1~3丁目

…というわけで,この段階で町名整理が完了していたのは落合地区と淀橋地区だけなんですね。
東口の「角筈1丁目」が「新宿3丁目」の一部になるのは,もう少し後のことなのですね。(新宿地区の町名を整理した頃だと思います)。
結局,四谷地区や,大久保地区,戸塚地区の町名整理は行われたけれども,市谷・牛込地区にはほとんど手をつけることができずに,旧町名が存続している,ということですね。

1971年末のほかの区の状況は,以下のとおりです。
千代田区 未実施:有楽町,麹町・番町地区,神田地区の大部分(西神田・外神田などは実施済み)
中央区 旧京橋区の大部分は実施済み,旧日本橋区では北部(馬喰町~中洲)で実施済み
港区 未実施:麻布地区の一部(狸穴[まみあな]町ほか),芝地区の一部(愛宕町ほか)
文京区 町名整理完了(67.1.1)
台東区 町名整理完了(67.1.1)
墨田区 町名整理完了(67.7.1)
江東区 新規編入の埋立地(夢の島ほか)以外の区域の町名整理は完了
品川区 町名整理完了(69.2.1)
目黒区 町名整理完了(69.1.1)
大田区 町名整理完了(69.9.1)
世田谷区 町名整理完了(71.9.1)
渋谷区 町名整理完了(70.1.1)
中野区 町名整理完了(67.6.1)
杉並区 町名整理完了(69.11.1)
豊島区 町名整理完了(70.4.1)
板橋区 未実施:徳丸本町・四ツ葉町・下赤塚町(の各一部)
練馬区 未実施:豊玉地区,中村地区,石神井地区(石神井川以南),大泉地区,光が丘
北区 未実施:田端町,中里町,岩淵地区(の一部)
荒川区 町名整理完了(68.3.1)
足立区 未実施:本木町の一部,伊興地区,舎人地区,北東部(花畑町ほか)
葛飾区 未実施:奥戸地区の一部,水元地区
江戸川区 実施済み:中央1~4丁目,松島1~4丁目,松江1~7丁目,船堀1~7丁目,小岩地区

確かこの当時,まだ走っていた都電に秋葉原から上野公園まで乗った記憶があるのですが,秋葉原一帯の電停の名前は「外神田」になっていました。
(あっ,町名としての「秋葉原」は(今はなき)貨物ホームをはさんだ反対側の台東区の一画に今もありますよね。)
[24685] 2004年 2月 9日(月)23:42:09【2】Issie さん
新宿にない新宿駅
[24682] ken さん
昭和初期の地図を見てたら、小田急の南新宿って、千駄ヶ谷新田駅、って名前ですね。

これって,1970年代半ばの小田急新宿駅再改良工事で現在位置に移転する前の,代々木駅方面へ抜ける通りの踏み切り脇の急カーブ上にあった「南新宿駅」ですよね。
この通りに沿って,現在JR東日本の本社があったりするあたりも「千駄ヶ谷町」で,玉川上水が淀橋町との境界であったようです。

戦後になって廃止されましたが,(旧)南新宿駅から問題の谷間を越えた向こう側に「(代々木)山谷」という駅がありました。一方が消えてから数十年後のことになるのですが,南新宿駅の現在位置への移転というのは,「千駄ヶ谷新田駅」と「代々木山谷駅」の統合というようにも見えます。

大塚とか、駒込とか、目黒とか、もそうなんじゃないんですか?
設置時には最寄の駅でした。という感じで。

そこまで行かなくても,お隣の「新宿駅」が…。

図らずも [24556] の続きとあいなりましたが,
「新宿駅」の所在地は1932年に編入されるまでは東京市外,そして(内藤)新宿の“外”の「豊多摩郡淀橋町角筈(つのはず)」。
編入後の35区体制の下では,「新宿」の所属する四谷区ではなくて「淀橋区」。
戦後,1947年の「22区体制」への再編でもって,ようやく「新宿区」に属することができた…。

つけくわえれば,「豊多摩郡内藤新宿町」が東京市へ編入されたのは1920年のことで,この際に「四谷区」へ編入された。だから現在,歩行者天国で伊勢丹側の交通規制を担当するのが「四谷警察署」なわけ。
旧内藤新宿町,そして旧四谷区に所属していたのは新宿通りでは(新宿駅から見て)伊勢丹の少し手前まで。三越や紀伊国屋書店のあたりは旧淀橋町,そして旧淀橋区の「角筈」に所属していて,だからこちら側は「淀橋警察署」改め「新宿警察署」の管轄になっていた,ということですね。

…この辺り,地元(「淀橋」を渡ったお隣り)の ken さん には言うまでもないことでしょうが。
[36207] 2004年 12月 29日(水)22:47:58hmt さん
渋谷タカシマヤ?
[36177]ゆう さん
でも、都庁のあたりを「新宿」と呼ぶようになったのは割と最近のことなんですよね。

ごもっとも。
宿場町時代の「新宿」は、伊勢丹付近の「内藤新宿上町」から大木戸に近い「内藤新宿下町」まで。上町・仲町・下町は玉川上水が流れる方向です。
「新宿」が西に拡大するのは、1885年 日本鉄道が赤羽駅と官鉄・品川駅との間の連絡線を建設し、宿場町から西に外れた「南豊島郡角筈村字渡辺土手際」の畑の中に、「内藤新宿駅」を設けた時からです(1887年新宿駅と改称)。鉄道による交通事故の第1号は狐の親子だったとか。1891年修正の迅速図を見ると、駅の西側、現在の都庁付近にかけて目立つのは茶畑です。

現在の新宿西口は、1986年のコレラ流行を契機として 1999年に竣工した淀橋浄水場と、1910年の専売局タバコ工場により大きく変りました。1904年から甲武鉄道に運転されはじめた電車[35062]の車庫も駅の西側に作られ、電車は甲州街道口と青梅街道口との“二つあった新宿駅”の双方に停車しました。

内藤新宿町が一足先に四谷区に編入(1920)された後、角筈村から淀橋町に変っていた西口も1932年に東京市35区の一つになりました。これが「新宿区」でなくて「淀橋区」だったこと、追分にあった京王線の駅が「四谷新宿」を名乗っていたことなどから、「新宿」のネームバリューは、まだ「四谷」よりも下だったと思われます。
1947年の22区への統合時には、四谷を押し退けて「新宿区」が誕生しており、昭和の初期に「新宿」のネームバリューが高まってきたことをうかがわせます。

そして、「淀橋」だった浄水場跡地の地名を決定的に「新宿」に変えたのは「都庁新宿移転」プロジェクトでした。
ここでは、移転前の庁舎があった地名「丸の内」に対応する地名として「新宿」が使われたわけです。「千代田区から新宿区へ」ではないのです。
同様に、現在の都庁の住居表示が「西新宿二丁目」であることも、重要ではありません。「新宿」と「西新宿」は一応別だし、仮に住居表示が「角筈三丁目」?だったとしても、東京都の都庁所在地は「新宿」なのです[36112]

宿場町として1698年に生まれた「新宿」という地名は、明治になって鉄道駅ができ、そして都庁新宿移転へと、明らかに西に拡大してきました。
たしかに
言葉は多義を持つもの。時代によって意味が変わってしまうこともあります。

ところで、タイトルの件。新宿タカシマヤの住所は東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号です。
「渋谷区内」の、任意の一部(引用原文は「新宿区内」)
であるからと、この店を「渋谷タカシマヤ」と名付けたら、下車駅を間違えた客から非難轟々でしょうね。

言いたかったことは、地名というのは、人々が時と場合(伝える相手方)により使い分け、認識するものであるということです。
自治体名や住居表示の影響はもちろん避けられませんし、戸塚に住む人が「新宿(区内)に住んでいる」ということもあるでしょう。
かくいうhmtの出身地も、「津久井」で通じそうもない相手に対しては、(「神奈川」とは違う場所なのだけど…と内心で思いながら)「神奈川県です」ということがあります。
地名の王道は自然地名ですが、行政区域名を使うのがふさわしい場合や、自然地名ではうまく通じない場合には、当局が「行政目的で作った区域名」を地名として用いることもある というのが私の考え方です。
[38314] 2005年 3月 5日(土)10:22:51【1】Issie さん
千駄ヶ谷新田
[38307] sutekinaおじ さん
新宿には「淀橋」という立派な地名がありましたが

旧区名,あるいは東京市編入以前の旧町名の1つ下のレベルの旧大字では「角筈(つのはず)」ですね。こちらも立派な地名だったのですが。
「(内藤)新宿」は本来,東口の紀伊国屋書店のあたりまでだったので,新宿駅丸ごと,東口のライバル店も含めて,住居表示以前は「角筈」だったわけで。
昔々の新宿駅案内図には,西口が「角筈口」と書いてあったような気がします。

新宿駅が南の方向へ延びていますが

小田急の「南新宿」駅は,1970年代半ばの新宿駅大改良工事以前は新宿駅から1つめの踏切を渡ったところにありましたが,開業当時は「千駄ヶ谷新田」という駅名でした。
「代々木」駅も含めて,新宿駅施設の南半分が属していたのは旧千駄ヶ谷町の区域でした。だから,「代々木」駅も,有名な予備校も,むかし「代々木」の符丁で呼ばれた某政党も,本来の「代々木」ではなく「千駄ヶ谷」にあったのでした。
東京市に編入された1932年当時は,こちらまで「四谷区の新宿」の市街地が拡大することを予測しなかったのかもしれませんね。
甲州街道は境界として分かりやすいし,すぐ南を通過する玉川上水はおおよそ辺りの分水界を反映しているし…,
で,甲州街道以南の旧南豊島郡域をまとめて「渋谷区」,以北の同郡域をまとめて「淀橋区」。

渋谷区に「新宿高島屋」というのも,さすがにちょっと戸惑いますね。
[38354] 2005年 3月 6日(日)19:30:59hmt さん
新宿・角筈・柏木・淀橋・千駄ヶ谷・代々木
駅前駅の「新宿西口駅」から発展した話題の新宿付近の地名をもう少し。

先ず「新宿」と「内藤新宿」
「新宿」の由来は、日本橋から4里も離れていた甲州街道の高井戸宿までの中間に設けられた(1698)「新しい宿場」ですが、実は江戸時代初期に江戸城の白壁に大量に使用された石灰の運搬路であった青梅街道には、それ以前から「内藤宿」があったようです。「内藤」は、この地に下屋敷があった信州高遠藩主内藤氏から。
では、元禄11年に浅草の高松喜六らが上納金5600両を幕府に納めてまで申請、獲得したものは何か。やはりビッグビジネスにつながる営業権でしょう。“民営化”による交通ターミナルの活性化。先日開港した中部国際空港「セントレア」の元禄版です。

こうして誕生した「内藤新宿」。目論見通りに繁盛したものの、20年後には「風紀の乱れ」を理由に突然廃止されます。享保の改革の一環ですが、その背景には新興勢力の抬頭に危機感を抱いた「吉原」「品川」など既存業界の思惑があったはずです。このへんのビジネス事情は現代も同じ。「風紀の乱れ」が登場するあたりは、さすが「歌舞伎町」の先達です。
内藤新宿の再開は、申請しては却下されを繰り返し、田沼意次が権力者になった後の 1772年にようやく実現しました。

「角筈」
内藤新宿の西隣が角筈村。明治13年の迅速測図には町村境界線が入っていないのですが、おおまかには、東の追分を頂点・西の十二社通りを底辺として、甲州街道と青梅街道とに挟まれた三角形の地域と考えてよいでしょう。まさに新宿駅と新都心とを含む「現在の新宿」そのものです。
更に詳しく、現在の新宿駅東口付近を五千分の一図で追うと、三越・大塚家具までが角筈村であったと思われます。

上野からの日本鉄道が、赤羽から山の手経由の連絡線により官設鉄道の品川との間を結んだのが、今から120年前[38325][38338]。この鉄路が角筈村の東部「字渡辺土手際」を南北に貫き、「内藤新宿」停車場が作られました。2年後に「新宿」停車場に改称。つまり、新宿駅の東も西も両方とも角筈村です。

[38314]Issie さん
昔々の新宿駅案内図には,西口が「角筈口」と書いてあったような気がします。
うーん。これは記憶にございませんが、「角筈口」では東か西かわからないように思います。
実は、hmtが「角筈」という地名から真っ先に頭に浮ぶのは、新田裏から現在は遊歩道公園になっている専用軌道を通って紀伊国屋の西側に入っていた東京市電13番系統(角筈―万世橋間)のターミナル、つまり東口なのです。このあたり、青梅街道の北側も角筈村(字五十人町)。

新宿駅の駅舎と乗降口も、時代と共に何回も変っていますが、西口が「青梅口」、南口が「甲州口」だった時代は はっきりと記憶にあります。この名は、乗降場が2つあった[38292]歴史から、自然のなりゆきです。

「淀橋」と「柏木」
[38294] N-H さん
住所としての「新宿区北新宿」のあたりは柏木といったほうがイメージがわきます。
[38307] sutekinaおじ さん
新宿には「淀橋」という立派な地名がありましたが、今では使われることはないようです。

角筈村の三角形の北西端、青梅街道が神田上水を渡るところに架けられた橋が「淀橋」ですね。明治13年測量の迅速測図では、淀橋は橋の名として載っており、付近に郡役所の記号がありますが、まだ地名にはなっていません。
1889年に角筈村と柏木村が合併し、淀橋町となり、1932年には更に広範囲な淀橋区に出世しましたが、戦後の1947年に「新宿」に区名を奪われてしまい、今はカメラ屋により名を知られる状態になるという栄枯盛衰を味わいました。

「千駄ヶ谷」と「代々木」
[38314]Issie さん
新宿駅施設の南半分が属していたのは旧千駄ヶ谷町の区域でした。だから,「代々木」駅も,有名な予備校も,むかし「代々木」の符丁で呼ばれた某政党も,本来の「代々木」ではなく「千駄ヶ谷」にあったのでした。
「千駄ヶ谷」と「代々木」の行政上の境界も、郡部時代の谷筋から山手線沿いへと東遷していますが、現実は、更に東の明治通りに及んでいるのでしょうね。最寄駅名の影響大。

渋谷区に「新宿高島屋」というのも,さすがにちょっと戸惑いますね。
渋谷タカシマヤ[36207]だったらもっと戸惑うでしょう。

最後に、新宿関連で 復活を期待したい地名が、「十二社(じゅうにそう)」。
[38371] 2005年 3月 7日(月)01:16:48音無鈴鹿 さん
まいたうん新宿
こんばんは。音無です。

新宿ネタの皆様。角筈三丁目の音無です。
金曜日あたり地元ネタがちらほら出ているので、書き込みたいなと思いながらも仕事漬け。
遅ればせながら…って殆ど語りつくされましたが。

[38354]hmtさん
角筈村。明治13年の迅速測図には町村境界線が入っていないのですが、おおまかには、東の追分を頂点・西の十二社通りを底辺として、甲州街道と青梅街道とに挟まれた三角形の地域と考えてよいでしょう。
そうですね。西側はもう少し広くて現在の山手通りに近いところもいちおう角筈です。今でも角筈三丁目町会は現役でゴザイマス。北端は資料がないのではっきりとはしないのですが、浄水場の沈砂池とろ過池の間を突っ切るあたり、今なら三井ビルとか三角ビルのあたりが境界だったようです。それからいまの歌舞伎町一帯も角筈村。コマ劇場付近を水源とし戸山→早稲田を流れた蟹川の谷が境界線。むしろ都電13系統のラインといったほうが分かりやすいでしょうか?したがって青梅街道を内藤新宿から西進したときには角筈→柏木→中野となります。角筈飴と鳴子(成子)の瓜を片手に、今はなき十二社の池で遊ぶというのが江戸の遊びのひとつですね~。
前術の谷は淀橋浄水場の建設工事の残土でほぼ埋め立てられ、平地となった後府立第五高女が設立、まさに乙女の花園です。余談ですが音無の母校。でその移転後の歌舞伎座誘致の名残が歌舞伎町という地名になったという顛末。
細々と生き続ける角筈の地名は、甲州街道沿い・文化女子大前にある歩道橋に書かれた『角筈』の文字とバス停、それから水道道路と十二社通りの交差点にある角筈区民センターと図書館くらいでしょうか。柏木も区民センターと幼稚園の名前に残っています。新宿区は新住居表示の北新宿があまり好きではないようで…。でも西新宿は好きみたいで母校は淀橋→西新宿へ改名されました。それに比べるとほぼ絶滅状態の淀橋ですが、カメラ量販店のほかには、淀橋第n小学校は4を残すのみとなりましたが、施設名として他に中央卸売場淀橋市場というのがあります。位置的には甲武鉄道の柏木駅があったあたりですね。柏木駅はカーブがきついところにあったためか神田川の対岸に移設されました。現在の東中野駅です。
淀橋は橋の名として載っており、付近に郡役所の記号がありますが、まだ地名にはなっていません。
郡役所印は神田上水の向こう側、短命に終わった東多摩郡の役所ではないでしょうか?地図では淀橋の畔にありますね。その淀橋ですが、青梅街道の新宿バイパス建設のため架け替えとなっていましたがこのほど完成しました。欄干のデザインは先代の石造り時代を模したもので定礎も「大正13年9月」と復刻されています(…それっていいの?)。先代の淀橋は大正12年の関東地震で落橋したため急遽架けられたものでした。

[38307] sutekinaおじさん
「山手線」内では「板橋駅」が板橋区とほかの2つの区との間にあります。
あれ?
[38325]あんどれさん
正確に言いますと「赤羽線」の駅になります。(中略)「山手線板橋駅」だった時代もあります。(中略)「現在の山手線の一部区間」という記述はあっても「現在の埼京線の一部区間」という記述はありません。
あれあれ??
小学生のころ、池袋~大宮の通勤新線・埼京線ができたのはよく覚えています。それ以前は確かに赤羽線が池袋⇔赤羽間の往復輸送をしていたこともわずかな記憶があります。(黄色の電車でしたっけ??。)
黄緑色の山手線の電車が走っていなくても「現在の山手線の一部区間」であって、緑色の埼京線電車が走っていなくても「現在の埼京線の一部区間」ではないのですか??ごめんなさい。何をもって正確といっているのかよくわからないのいです。お手数ですが音無に教えてくださいナ。

[38346] 白桃さん
♪ただ、あなたの優しさが怖かった・・・
音無には、なんで女の子が長湯の男に待たされてるのか理解不能(逆なら判るんですが)です。数年前この歌の歌碑が淀橋から1kmほど下流に建てられました。でもこの付近の住宅地はちと高級すぎて歌の雰囲気とは乖離しています。高田馬場~早稲田あたりの雰囲気だと思いますね。

[38338]KMKZさん
ところで品川線以前の開業路線で路線が分岐している例は無いのでしょうか?
品川駅と赤羽駅は日本最初の分岐駅ってことになるのかな?
どうやらそのようですね。

[38314]Issieさん
甲州街道は境界として分かりやすいし,すぐ南を通過する玉川上水はおおよそ辺りの分水界を反映しているし…,
で,甲州街道以南の旧南豊島郡域をまとめて「渋谷区」,以北の同郡域をまとめて「淀橋区」。
べつに揚げ足取るのではなく、音無がこの新宿渋谷中野三角地帯に居を構えているが故の疑問です。南豊島郡幡ヶ谷村は甲州街道以北ですけれど「渋谷区」ですねぇ。そもそも何故幡ヶ谷村が東多摩郡ではなくて南豊島郡になったのか地形的に不思議なのです。現在の幡ヶ谷地区は、中野駅~渋谷駅間の京王バスが2系統(環六経由と中野通り経由)あるものの、渋谷区内でありながら京王線新宿行きバスの影響もあり圧倒的に新宿文化圏です。なぜ神田川のような明確な境界ではなくこの位置だけ(現渋谷中野区境)分水嶺というわけではない不明瞭大地の上に郡界が設定されたのかがさっぱりの謎なのです。複雑な区堺のせいで目の前に見えている他区の小学校に通えずわざわざ遠い居住区の学校に通った身としては不可解な線引きに見えるのです。甲州街道沿いの代々木村/幡ヶ谷村が郡界ではどうしてまずかったのかな??

[38299]Issieさん
「北新宿」かなり譲って,あそこは「大久保」系の地名で呼ばれるべきところだと思うのですが
私は大久保とも少々違う気がします。尾張徳川家下屋敷=陸軍戸山学校の谷が大久保ですから、JRの大久保駅自体大久保の西のはずれですしね~。やはり素直に柏木では如何でしょう?

[38294]N-Hさん,[38292]hmtさん
大江戸線の次の駅「東新宿」も首をかしげたくなる駅名です。
ずばり「歌舞伎町」じゃいけなかったんでしょうかね。
歌舞伎町からしたら外れも外れですね。
あれだけ全国区の地名なのだから駅名になったっていいんじゃないかと思うのですが。(N-Hさん)
音無は「歌舞伎町駅」にもっともふさわしいのは新宿駅への乗り入れを果たせなかった西武新宿線の暫定新宿駅たる西武新宿駅だと思います。

[38292] hmtさん
独立の駅ではなく、新宿駅構内にあった「もう一つの乗降場」です。
KMKZサンの記事[38281]を見た瞬間、「(北)新宿駅はhmtさんならご利用経験がありそうですな」とすぐ思ったのですが、当該記事に1906年とあるので早とちりデス。失礼しました。でも、駅インフレ状態の新宿の中でもおそらく、電気不足で跨線橋を超えられなくなった伝説の京王線「新宿追分駅」の利用経験は如何でしょう?>hmtさん


さて余談。ワカゲノイタリについて。
まかいのさん([38310])が5年と約1ヶ月ぶりのご訪問とか。 復帰おめでとうございます。で当該記事の[35]からざっと過去ログを漁っていたのですが。ここでスズカなるHNを発見。
で、音無は昨年ここへ登録のときに気になっていたのですが、過去にチリ系の掲示板にいきなり質問して返事(お礼)もしなかったことがあったことを思い出しました。当時確かに塾講師のバイトしていたしな~。数学教えるのかと思ったら社会科と国語教えるハメになって、挙句の果ては給料踏み倒されたんですがね(笑)。
[191],[194]がどうもそれっぽい。まかいのサンの記録を破ろうとかいう意図ではなくてふと気になったものですから。その節はお礼もせず不躾で失礼いたしました。改めましてオーナーグリグリ様に御礼申し上げる次第です。丁寧なご回答ありがとうございました。
[38397] 2005年 3月 8日(火)00:46:41【1】hmt さん
Re:まいたうん新宿
[38371]音無鈴鹿 さん
新宿ネタの皆様。角筈三丁目の音無です。
西側はもう少し広くて現在の山手通りに近いところもいちおう角筈です。今でも角筈三丁目町会は現役でゴザイマス。

これは恐れ入谷の鬼子母神、いや鬼と言えば角、角筈の十二社か(意味不明)。
町村制施行前の迅速測図ばかり見ていましたが、現在の地図と見比べれば、角筈村と幡ヶ谷村の境界線は、新宿区と渋谷区の境界線に引き継がれていたのでした。

いまの歌舞伎町一帯も角筈村。コマ劇場付近を水源とし戸山→早稲田を流れた蟹川の谷が境界線。

この境界線は明治42年測図の一万分の一にありました。大村邸(歌舞伎町一丁目)が淀橋町(旧角筈村)、大久保病院(現在の歌舞伎町二丁目)が大久保村(旧東大久保村)。この大村邸跡に府立第五高女ができ、更にその跡が現在のコマ劇場。その西、線路側には、戦後「歌舞伎町」という名になってから作られた新宿劇場に、戦前のムーランルージュを偲ぶ「赤い風車」のネオンサインが回っていたことを覚えています。

淀橋。明治13年には地名でなかった(“地名として記載されていなかった”というべきか)と書きましたが、明治42年測図には青梅街道の南に「淀橋」、北に「淀橋姿」の地名が見えます。もちろん行政区域の「淀橋町」も。

何をもって正確といっているのかよくわからないのいです。お手数ですが音無に教えてくださいナ。

「線路名称」赤羽線と「運転系統」埼京線とが混乱しているのではないかと思います。

「線路名称」とは線路の戸籍のようなもので、東海道線の中に本線、山手線、赤羽線、南武線…がありますが、信越本線が横川と篠ノ井の間で分断されている例からも判るように、現実の列車運転経路を反映しているとは限りません。

「運転系統」は現実に列車を運転する系統の呼び名で、埼京線の場合は線路名称上の山手線(旧山手貨物線を利用した快速線)、赤羽線、東北本線(赤羽~武蔵浦和~大宮・東北新幹線沿いの路線)を通して運転する大崎~大宮間です。実際には、更にりんかい線の新木場から川越線の川越へと直通運転されています。

「線路名称」を本籍、「運転系統」を現住所になぞらえると分りやすいでしょう。
新宿駅を通る運転系統は、各駅停車の山手線の他に、埼京線、新宿湘南ライン、中央線の快速と各停(中央総武緩行)と、長距離列車を別としてもたくさんあります。新宿駅の現住所は、本宅の山手線・中央線だけでなく、別宅の埼京線や新宿湘南ラインへと広がってきているといえるでしょう。

しかし、「駅の所属」は、本籍である「線路名称」によります。新宿のように複数の線路が関わる駅でもどれか一つの線路に属しています。
参考までに、新宿駅は山手線の駅です。先に開業した日本鉄道の駅に甲武鉄道が同居した歴史の反映でしょう。しかし、隣の代々木駅は中央線の駅で、山手線の方が同居人です。

少し離れますが、浜川崎駅には東海道本線の電車(旅客列車)は通りませんが、れっきとした東海道本線の駅です。1918年開業の名門貨物駅で、同居人(戦時買収私鉄出身の鶴見線や南武線支線)とは出自が違います。浜川崎では貨物の方が偉いのです。

“正確に教えて”に答えようとして「鉄分」の濃い説明になってしまいましたが、これで事情はおわかりでしょうか。
問題になっていたのが「板橋駅の所属」とすれば、本籍である「線路名称」に従い 「赤羽線の駅」 というのが正確です。
しかし、現住所(現在の運転系統)である 「埼京線の駅」という呼び方をしても許されると思います。
正確を求めてどれか一つにきめつける必要はないでしょう。

発端になった[38307]の“「山手線」内”という表現は、四ツ谷駅等を含む運賃計算上の使い方さえあります。[38388]の末尾に加えておきました。「山手線」にしても、少なくとも4つの使い方があるわけです。

電気不足で跨線橋を超えられなくなった伝説の京王線「新宿追分駅」の利用経験は如何でしょう?

正確に言うと、「新宿追分駅」時代(1915―1930)には生まれておりません。冗談はともかく、「四谷新宿駅」を経て「京王新宿駅」になってからの時代(1937―1945)にも残念ながら利用の機会がなく終りました。
たしか空襲で変電所をやられて、省線を越える坂を登れなくなり、急遽工兵隊が出動して、省線青梅口へと導き、路線を短縮したのですね。1945年7月24日開業とありますから、敗戦間際です。これが現在の京王線 新宿駅の第一歩になりましたが、こちらは当時、疎開児童。

京王線は、戦後の1954~56年にかけて通学に使いました。新宿駅は、西口にあったバラック建築(もちろん地上)で、発車してから急カーブで甲州街道に入り、少しですが路面区間がありました。
路面電車の面影のあるダブルルーフ車が、電装解除された中間車として使われていました。

スズカなるHNを発見。

大先輩! メンバー登録者としては、グリグリさん、かつさん、Issieさん、Firoさん、M.K.さん、まがみさん に次いで古参第7位ですか。
[38515] 2005年 3月 12日(土)15:17:26hmt さん
幡ヶ谷本町・代々木本町・角筈本村・中野本町通
[38498]Issieさん
十二社から方南町へ向かうバスが通過する「本町」が,「渋谷区本町」
…ところで,この「本町」とは,どこの「本町」なんでしょうねえ。

「日本図誌大系」に収録されている2万5千分1「東京西部」(昭7要修)を見ると、郡部時代の地名に「大東京」になって付けられた町名が加筆されており、ゴチャゴチャしていますが、新旧の地名を一覧できます。

さて、問題の「本町」はと見ると、現在の渋谷区本町二丁目付近に豊多摩郡代々幡町時代の「幡ヶ谷本村」の文字があり、これに渋谷区になった「幡ヶ谷本町二丁目」が加筆されています。
「幡ヶ谷」が付いているのは、同じ代々幡町の南側、甲州街道を隔てた所に「代々木本村」(現・代々木中学付近、ここにも代々木本町と加筆)があったためです。後に、代々木の方の本町がなくなったので、「幡ヶ谷本町」が渋谷区で唯一の「本町」として残ったのでしょう。

渋谷区に限定すればこれでよいのですが、北側に目を転じると、こちらにも本村・本町があり、ややこしい。
「幡ヶ谷本村」の数100m北、現在の大江戸線西新宿五丁目駅付近には(豊多摩郡淀橋町の)「角筈本村」。
更に北の「淀橋」[38354]から西、青梅街道沿いには、加筆された(中野区)「本町通」が西へと連なっています。

つまり、代々木・幡ヶ谷・角筈・中野という4地域に、それぞれに「本村」ないし「本町」を名乗る地名があり、ほぼ隣接していたわけです。

「角筈本村」は現在では消滅したようですが、「渋谷区本町(ほんまち)」と「中野区本町(ほんちょう)」とは現存していて、最も接近した場所では100mも離れていません。

中野本町通(ほんちょうどおり)と聞けば、青梅街道を走っていた狭軌の都電14系統に、「本町通二丁目」から「本町通六丁目」までの停留所がずらりと並んでいたことを思い出します。「本町通四丁目・鍋屋横丁」から先は、単線でした。後に複線化しましたが、ほぼ全線が複線になったと思ったら、すぐに1963年廃止。

なお、青梅街道と神田川の間の町を統合した現在の「中野区本町」の範囲は、青梅街道両側にあった昔の「中野区本町通」とは違います。旧・本郷村の範囲に近いようです。

「中野」は、旧・多摩郡の東端、青梅街道の北側に広がる地名で、中野村は1889年に青梅街道南側の本郷村等を合併し、8年後中野町に。更に1932年には北の妙正寺川流域に広がる野方町と併せて「中野区」へと、中世 中野郷 (初見1362年)以来の歴史ある地名を伝えています。

昭和初期、都市化の進行していた中野町と、主として農村だった野方町とは、かなりの格差があった筈です。
まあ、中野区 合成地名説[16804]も、「お話」としては面白いのですが…。
[44006] 2005年 8月 9日(火)18:30:42【1】hmt さん
新宿には 通りに面していない場所に 「裏」地名 があった
[43993] matsu さん
新宿の日清食品ビルのある辺り、…ここは以前(15~16年前は間違いなく)「新田裏」という停留所名でした。
私が不思議に思っているのは「裏」です。何に対しての「新田裏」なのか?

そうか、「新田裏」は既に過去の地名になっていたのか。[38354]では、何の疑いもなく使っていました。

それはさておき、現在の地図ではわかりませんが、昔は、新宿歌舞伎町一丁目と二丁目の境から 東へ流れる 蟹川 という流れがあり、新田裏を過ぎてから北へ向きを変えて、現在の戸山ハイツ、早稲田大学を経て 神田上水(神田川)に合流していました。
神田川に近い早稲田には、名の示すように 田園がありましたが、戸山ハイツ付近には 江戸時代に 広大な尾張徳川家下屋敷[34120]があり、その上流も 右岸には武家地、左岸には給地手作場が多く、「新田」がどこなのか、よくわかりません。

「新田裏」という地名は、そんなに古くまで遡るべき地名ではないのかもしれません。明治の2万分の1迅速図には見えない「新田裏」が、大正時代の1万分の1や5万分の1に登場しています。これを見ると、豊多摩郡大久保村西大久保の中には、新田裏・南裏・北裏と「裏」地名が並んでいます。そう言えば、新宿追分の街道に面したところは「内藤新宿三丁目」でしたが、その北隣は「字三丁目裏」(明治21年5千万分の1)というように、通りに面していない場所には、「裏」地名を使う土地柄でした。

matsuさんの記憶にある「新田裏」交差点やバス停は 明治通りにありましたが、明治通りが貫通していなかった戦前には、「角筈」ターミナル(紀伊国屋の西側)を出て、現在は遊歩道公園になっている専用軌道を通って万世橋に向かっていた東京市電13番系統の新田裏停留所は、100m余り西(新宿区役所第二分庁舎北西隅)にありました。
[44011] 2005年 8月 9日(火)20:53:32matsu さん
裏にも深い・・・
[44006] hmt さん
ありがとうございます、とても参考になりました。
そうするとこれは私の推測ですが、新宿追分から西へのびる青梅街道のどこからかと、大久保村を結ぶ通りがあり、その通りに面していない場所なので「新田裏」となったのでしょうかね?(明治通りが新田のあった頃からの通りとも思えないので)
新田が特定できないとすると、割と短期間で田んぼとしては役割を終えたのか、または人家として早くから開けたために無くなったのか?どちらにしても、「新田裏」の名前だけ残ったのは面白いですね。
現在の青梅街道にも「北裏」という交差点がありますが(練馬区関町南四丁目の辺り)、やはり以前の青梅街道とは違う道筋のためにこのようなことになっているのでしょうか?地図を見ると近くにある天祖若宮八幡宮の裏といったところなのでしょうか?そうそう青梅街道自体が甲州裏街道なんて呼ばれ方もしてましたし。
裏にも深いウラがあるのですね。
[44046] 2005年 8月 11日(木)11:34:25matsu さん
歌舞伎町は田圃の奥だった?
[44042] hmtさん
ありがとうございます。そうですね、「裏」にはそういった意味もあるんでしたね。

現在の新宿五丁目(かつては内藤新宿北裏町だったと思われる)花園神社付近は、大東京発足(1932)よりも一足早く1920年に街道沿いの内藤新宿の町々と共に東京市に編入されており、この地図では四谷区三光町になっています。
この辺りの明治通りと靖国通りの交差点にあるビルに「三光町」と付いていたビルがあったので三光町と呼ばれていたらしいとは思いましたが、「四谷区三光町」でしたか・・・
そういった事情もあるのでしょうか、この辺り(伊勢丹の手前くらいまで)四谷警察の管轄ですね。

それにしても「新田裏」から「歌舞伎町」へとずいぶん変化の激しいことです。逆に何も無かったがゆえにこのように激しく変貌したとも言えるのかもしれませんね。

そうそう前にもちょっと触れましたが、「新田裏」の辺りに久しぶりに行ったとき例の遊歩道をこれも久しぶりに歩きました。この通りから見る風景は15~16年前(当時はほぼ毎日この通りを歩いていました)とあまり変わっていないように思いました。この遊歩道はご存知のように線路跡なので建物がみな背を向けて建っています。その為人通りもさほど多くなく、なんとなく静かな感じがするので変わっていない印象があるのでしょうか。これから大きな変化のある前の静かな時間が流れていただけのようにも感じます。
花園神社の隣にあった小学校(四谷何とか小学校でしたっけ?やはり「四谷」ですね)は現在新宿区役所の分庁舎になっていますが、仮設のプレハブのような建物で残りの敷地も工事中となっていますので何か別の施設が出来るのでしょうかね?やはり変わりつつありますね。
[44125] 2005年 8月 13日(土)16:17:38【2】hmt さん
新宿の東西を結ぶ道
さて、三光院花園神社の北を流れ、川沿いのどこかには「新田」があったかもしれない「蟹川」[38371] [44006] ですが、古い地図によっても、その流れは山手線付近までしか確認できません。しかし、地形的には、この谷筋は更に西に続き、新都心歩道橋下交差点に至っています。

大きな歩道橋があるこの場所は、「雷が窪」という地名で、早稲田へと流れる川の谷頭で、湧水の多いところでした。新宿エルタワーの西側に記念碑がある「策(むち)の井」も、そのような湧水の一つで、松平摂津守(美濃高須)の屋敷の井戸でした。晩年の徳川家康が評判を聞いて鷹狩の帰路に立ち寄り、名水を賞味して むち を洗ったとされます。

この交差点、西からの青梅街道が進んでいた本来の道は、現在の小田急ハルクの北裏の道でした。この道筋を東に延長すると、自然に現在の新宿通りになります。
明治になって鉄道が開通すると、この旧青梅街道と交差する場所には踏切が作られました。当初は1日3往復、貨物列車を入れても閑散とした状態で、問題はなかったでしょうが、甲武鉄道ができ、電車も走り、だんだんと「開かずの踏切」になってきました。跨線歩道橋はできたが、クルマは踏切待ち。

その解決策として、青梅街道は省線との立体交差化を実施することになり、そのルートとして選ばれたのが前記の川筋です。ここは低地だから、もともと鉄道が高くなっており、少し掘り下げれば立体交差になります。
かくて大ガードができたのが1921年(1968年北側に拡幅)。青梅街道(追分からの新宿通り)は踏切の手前で右に曲げられて坂を下りガードをくぐることになりました。この工事で西方寺(現・アルタの西)の敷地は削られ、後に杉並区梅里に移転しました。

1927年、新宿西口に小田急が開通すると、東口からの通路が必要ということになり、元の踏切の位置に歩行者用の地下道ができ、旧街道ルートが辛うじて復活しました。
1959年に新宿まで開通した地下鉄丸の内線の上に作られた現在のメトロプロムナードも、(西側が少し南に振れていますが)この旧街道ルートを引き継いでいます。
[44128] 2005年 8月 13日(土)17:27:38音無鈴鹿 さん
新田裏の新田
[44125][44006]hmtさん
新宿ときたからには答えねば…と思ったのですが、新田裏あたりはちょっと知識不足です。
三光院花園神社の北を流れ、川沿いのどこかには「新田」があったかもしれない「蟹川」
「新田」がどこなのか、よくわかりません。「新田裏」という地名は、そんなに古くまで遡るべき地名ではないのかもしれません。明治の2万分の1迅速図には見えない「新田裏」が、大正時代の1万分の1や5万分の1に登場しています。

明治13年11月の角筈村付近の地図です。残念ながらこの地図では村堺と字名は記入されていませんので新田裏という地名は残念ながら確認できませんが、確かに蟹川沿いには田んぼがあったみたいです。淀橋浄水場の建設工事の残土でほぼ埋め立てられたときいていますが、今でも新宿区役所通りは明らかに窪んでいるのが判るので、往時はさだめし深い谷であったろうと推察されます。あと、青梅街道も確かにまっすぐですね。甲州街道が直角に折れ曲がっている部分が、新宿追分、いまの新宿三丁目交差点です。いまも交差点の交番は追分交番を名乗っていたはずです。しかし”五街道である甲州街道>わき道の青梅街道”であったはずなのに、甲州街道のほうが曲がらなければいけないという構造になっています。こういった構造に疑問を持ってしまうのは、われわれ(私だけ?)が自動車優先による道路構造を当たり前のように感じてしまうからでしょう。もと城下町なんかでは市街地に直角道路なんてざらですから。
それから、三光町という地名も、周囲のビルには残存するものの、公式にはほぼ絶滅かーとおもいきや、ここの歩道橋は「三光町歩道橋」と書いてありました。新田裏は都バスからも消えおそらく絶滅です。
都電13号系統ルートは、私が職場へ自転車でふらふらっと通勤するには最短のルートになっていて非常に重宝しています。四季の道(もと専用軌道)あたりでは時々酔った人が寝ていることがありますが…。
[44653] 2005年 9月 3日(土)17:06:00【1】hmt さん
音無鈴鹿さんに倣って 明治の新宿地図 をお目にかけます
[44128]音無鈴鹿さん
明治13年11月の角筈村付近の地図です。残念ながらこの地図では村堺と字名は記入されていませんので新田裏という地名は残念ながら確認できませんが、確かに蟹川沿いには田んぼがあったみたいです。

村・字の境界が記された地図がありました。 http://blogs.yahoo.co.jp/hmttak/10188611.html をご覧ください。

明治の初期、行政機構の改廃統合は 複雑を極めていますが、地図の作成事業の基礎になる三角測量を 最初に手がけたのは、明治5年(1872)3月工部省の測量司で、イギリス人技師の指導の下に実施されました。翌年には新たに設置された 内務省地理寮に編入され、明治8年には、後の1等三角測量に相当する 「大三角測量」が開始され、明治10年には 内務省地理局とい名になります。

今回お目にかける五千分一「東京実測図」は、この内務省地理局が 作成・刊行したもので、地籍整備という目的を反映して、各村に属する字名地番と その境界線が明示された、たいへん詳細なものです。
残念ながら音無鈴鹿さんがお住まいの新宿西口側は測量・刊行がされておりません。

さて、明治10年(1877)というと西南戦争ですが、作戦には もちろん地図が不可欠です。明治陸軍も明治5年に兵部省から分離した 陸軍省参謀局に 測量局を置いています。測量局の前身の名は、なんと「間諜隊」。
西南戦争によって地図の必要性を改めて痛感した陸軍は、明治11年に発足した参謀本部の下で作戦用の地図作りに本腰を入れます。明治13年2月から開始された 関東地方の二万分一迅速測図[44237]事業は その現れですが、西南戦争で中断していた 皇居周辺三里以内の五千分一測量も 明治14年に再開されます。

それにしても、迅速測図と五千分一測量は、一つ間違えば 東京の市街戦 になりかねなかった、当時の政情不安を反映して、参謀本部が馬力をかけた成果 ということでしょうか。明治17年には、加波山事件や秩父事件が起っています。
測量記録の「偵察録」には、道路の軍隊行進の可否、河川の渡河に関する情報、民情等、作戦に必要なデータが記録されているそうです。

そして、明治17年6月の太政官達により、測量事業は一本化されることになり、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局によって、本格的な地図作りが開始されます。明治18年正式二万分一測図開始。

同じ明治17年頃、陸軍の軍制が江戸幕府から引き継いだフランス式からドイツ式になり、地図もフランス式彩色図から、ドイツ留学帰りの技術者によるドイツ式一色図に変りました。
明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、原図はフランス式彩色図で作られましたが、製版図9面(明治19-20)はドイツ式になりました。「其数九葉に過ぎずと雖も頗る精密の図たり」(陸軍省年報)

同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)は、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。先に紹介した新宿付近のように、西側では日本鉄道(現・山手線)の線までの範囲が作られています。
柏書房[1361]の覆刻版「明治大正日本都市地図集成」、「五千分の一江戸東京市街地図集成」に収録されているので、図書館で見ることができます。

明治の新宿地図に戻ると、100年以上を経て、大きく変わった新田裏隣接地域の中で、西大久保村の避病院(都立大久保病院)は、花園神社と共に、当時から現在まで続いている施設です。

# 最初のイギリス人は別として、フランス、ドイツの技術だったために、地図の世界では古くからメートル法が使われています。
[48567] 2006年 1月 20日(金)02:45:48Shuji_Kamano さん
新宿駅
新宿駅の出口の名前ですが,西口が青梅口,南口が甲州口だったと思います.東口はむしろ本屋だったので却って覚えがありません.
京王線の京王新宿駅はよく利用しました.3番線まであって1番線が急行用でした.急行は省線新宿駅前,初台,笹塚,明大前,下高井戸(日大前),桜上水,千歳烏山,調布,多磨霊園,東府中から各駅でした.東映のあった跡のところに東京パンという店がありました.
[48580] 2006年 1月 21日(土)01:22:01Shuji_Kamano さん
新宿周辺で思い出すこと
今の紀伊国屋ビルのところに木造2階建ての紀伊国屋とオリンピックというレストランがあって,その横に万世橋,牛込柳町を通ってくる都電13番の角筈終点があった.今の靖国通りのあたりには四谷三光町という停留所があった.それから新田裏です.
都立六中の正式住所は知らないけど京王新宿駅の直ぐ裏で新宿御苑か旭町だったのでしょう.一時渋谷区になっていましたが,最近新宿区に復帰したようです.
小田急南新宿は千駄ヶ谷新田の後,小田急本社前と名のっていました.
歌舞伎町は都立第五高女の跡地で開発して歌舞伎劇場を建てようと言う意図で歌舞伎町と命名された物と聞きました.
西武の軌道線が新宿駅横まで乗り入れていました.
新宿駅は最初一番奥の中央緩行線が7番線でしたが,戦前に8番線になりました.小田急が9-12番線,後から乗り入れた京王線が板張りのホームで13-16番線を名乗っていました.小田急駅の改造で通し番号を止めたようです.
[48626] 2006年 1月 22日(日)19:12:14hmt さん
むかしの新宿追分周辺
[48567] Shuji_Kamano さん
京王線の京王新宿駅はよく利用しました.3番線まであって1番線が急行用でした.

かつて音無鈴鹿 さん[38371]
“電気不足で跨線橋を超えられなくなった伝説の京王線「新宿追分駅」の利用経験は如何でしょう?
との問いかけに対して、[38397]
「四谷新宿駅」を経て「京王新宿駅」になってからの時代(1937―1945)にも残念ながら利用の機会がなく終りました。
と答えたことがありましたが、追分にあった旧京王本社ビルの駅を利用した「時代の証人」(笑)がついに現われました。

京王線は、軌道時代から急行運転をしていたのですか。これは知りませんでした。
現在の新線新宿-笹塚間には 地下の2駅しかありませんが、かつては省線新宿駅前、新町、天神橋、西参道、初台、幡代、幡ヶ谷とたくさんの電停があり、軌道ながら急行運転を必要としたのですね。

[48580] Shuji_Kamano さん
木造2階建ての紀伊国屋(中略)都電13番の角筈終点(中略)四谷三光町(中略)新田裏

紀伊国屋書店は、内装に大谷石を用いた建築でした。その横の角筈終点から四谷三光町、新田裏へと通じていた市電の路線跡は、音無鈴鹿 さんの自転車通勤ルートになっているようです[44128]
新田裏という地名についても、[43993] matsu さんを発端にいくつかの記事があります。

これらを含めて、角筈・三光町・新田裏に関する記事 をまとめてみました。
アーカイブズ「新宿・角筈散歩」に収録済みの記事も、多数含まれております。

都立六中の正式住所は(中略)一時渋谷区になっていましたが,最近新宿区に復帰したようです.

東京府立第六中学校の旧々校舎は、1923年関東大震災の半年前に、天竜寺の東側・当時の東京市四谷区内藤町に落成しました。1947年東京都新宿区になった翌年1948年度から新制高校になり、1950年にナンバースクールから東京都立新宿高等学校に改称しました。

1969年に、天竜寺の南側に新築した校舎に移転。ここは、新宿御苑の一部の使用を許され、グランドとして使っていた隣接地です。
昔の地図に描かれていた “ゾウリムシのお化け”のような池[44701] のある谷筋 「千駄ヶ谷」 は、北西の玉川上水からの分水で養われており、この水路が内藤新宿と千駄ヶ谷村、現在の新宿区と渋谷区の境界になっています。
天龍寺と旧々校舎は新宿区でしたが、1969年の校舎の位置は渋谷区側だったので、「渋谷区にある新宿高校」が出現しました。町名は既に渋谷区大谷戸町から千駄ヶ谷六丁目に変った後かな。所在地名と名称のねじれについては、新宿タカシマヤ[36207]の先輩格です。

2004年に3度目の新校舎ができて、またグランドと校舎が入れ替わり、正門も甲州街道側に移り、学校の所在地表記も新宿区内藤町に復帰したというわけです。
[48628] 2006年 1月 22日(日)19:21:19hmt さん
むかしの新宿駅周辺
[48567] Shuji_Kamano さん
新宿駅の出口の名前ですが,西口が青梅口,南口が甲州口だったと思います.

甲州街道に面した2代目駅舎の時代に、専売局のタバコ工場のために “もう一つの新宿駅” 青梅街道口乗降場にも電車が停車しました[38292]。電車の停車場が一つにまとめられ、「青梅口」ができたのは関東大震災後の1924年でした。
翌1925年には山手線が複々線になり、初代の駅があった東側に本屋が新装開業しました。「表口」とか「東口」とかいう通称も使われたと思いますが、「本屋口」というのが正式でしょうか。こちらも青梅街道に面しているが、「青梅口」ではありませんね。
甲州街道に面した南側の出口が、自然に「甲州口」になったのも、この頃のことでしょう。

[48580] Shuji_Kamano さん
西武の軌道線が新宿駅横まで乗り入れていました.

西武軌道は、後の都電14系統ですね。1921年に淀橋町と荻窪村の間の青梅街道上の軌道が開通した後、1926年に新宿の大ガードをくぐり抜けて新装開業した新宿駅本屋の横まで延長されました。
東からの市電はそれよりも前、1924年に 二幸前 まで延長されており、電車による東西の連絡ができました。
クルマによる東西連絡の隘路になっていた青梅街道の 「開かずの踏切」 の北側には、蟹川の谷に 大ガード が作られ(1921)、小田急が開通した1927年には、歩行者の用の地下道も設けられ、軌道の新宿駅乗り入れと合わせて、青梅街道付近の東西連絡は一応解決しました。[44125]

新宿駅は最初一番奥の中央緩行線が7番線でしたが,戦前に8番線になりました.
省線新宿駅が7番線までだったことは初耳です。片面ホームがあったのか? とか、小田急との通し番号はどうなっていたのか? などの疑問が生まれます。国鉄は、後に東側に列車ホームを増設した際に、従来の通し番号を維持するために、01番線、02番線という名を使っていた一時期もあるくらいですから。

小田急南新宿は千駄ヶ谷新田の後,小田急本社前と名のっていました.
これも駅の位置が移動していますね[24685] [38314]

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