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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

広島市宇品の地名の移り変わり

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記事数=10件/更新日:2005年4月20日/編集者:YSK

広島市の海の玄関口・宇品(うじな)。地名の由来となった宇品島の住所が「元宇品」・「向宇品」と二通りに呼称されることから、この地域における地名の移り変わりについて考察してみました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[38440]2005年3月9日
YSK
[38447]2005年3月10日
夜鳴き寿司屋
[38448]2005年3月10日
YSK
[38451]2005年3月10日
北の住人
[38481]2005年3月11日
でるでる
[38501]2005年3月11日
夜鳴き寿司屋
[38561]2005年3月14日
YSK
[39550]2005年4月10日
ゆう
[40008]2005年4月18日
がんす横丁まま
[40065]2005年4月19日
がんす横丁まま

[38440] 2005年 3月 9日(水)23:06:04YSK[両毛人] さん
元宇品の謎
皆様にご教示いただきたいことがございます。

広島市南区元宇品町は、宇品島を中心とした町名です。明治期の広島市の地図を見ますと、ここの字名は「向宇品」となっておりまして、広電宇品線の最寄の電停も長らく「向宇品口」を名乗っていました(現在は「元宇品口」になっています)。

同じ地域をさすと思われる、「元宇品」と「向宇品」の関係はどのようなものなのでしょうか。正式名と通称名という関係なのか、「向宇品」がある時「元宇品」に変更されたのか、いろいろと調べてみたのですが、分かりませんでした。

情報をお持ちのかたがいらっしゃいましたら、よろしくお願い申し上げます。
[38447] 2005年 3月 10日(木)00:15:27【1】夜鳴き寿司屋 さん
Re: 元宇品の謎
[38440] 2005 年 3 月 9 日 (水) 23:06:04 両毛人 さん

 広島市立大河小学校のHPによれば
明治17年 大河簡易小学校設立(安芸郡仁保島村大河山根)日宇那・丹那・向宇島(向宇品の誤記?)に分校設置

明治24年 日宇那・丹那・向宇品の分校廃止
とありまして、少なくとも向宇品の地名は明治にあったようです。また広島市立元宇品小学校のHP
明治24年、江村岡(現在の小学校の下、アパ-トの所)に仁保島村立宇品尋常小学校が設置され、30余名の4年生までの複式学級でスタ-トしました。
とありますので、明治24年(1891年)には、「向宇品」にたいして「宇品」という地名(ないし集落名)が存在していたようです。

 また宇品港の今昔2では、宇品港の沿革が記載されていますが、宇品港が完成したのが1889年であり、大田川の河口のひとつの京橋川の左岸と宇品島の間に岸壁を構築して建設したとあります。

 どうやら推測ですが明治時代の「向宇品」は現在の「宇品御幸」の付近だとおもいますし、宇品港のフェリー乗り場の付近を指す地名を現在でも向宇品という使われ方をしていますが、こちらは明治時代に作られた港湾施設により開発された地域であり、元宇品は瀬戸内海に浮かぶ島であった地域だと思います。

広島市立宇品小学校のHPより宇品港の昔の写真

 実は以前広島に住んでいたときに元宇品に行ったことがあるのですが、原生林と言われている元宇品公園の森とリゾートのような雰囲気がある高層ホテルを見ていると、とても政令指定都市とはおもえない良い環境だとおもいました。

(余談)
 昔、村下孝蔵(1983年のヒット曲「初恋」のシンガー)の作品に「松山行きフェリー」があったのですが、生前の彼のインタビューでは舞台は宇品港だったそうです。
[38448] 2005年 3月 10日(木)01:03:40YSK[両毛人] さん
向宇品
[38447]夜鳴き寿司屋さん
早速のご意見ありがとうございます。ご提示いただいたリンクも拝見させていただきました。

結論から申し上げますと、地名「向宇品」はやはり、宇品島、現在元宇品町という住所で呼ばれる地域を指すものとして使われています。

ご提示いただいた、宇品港の今昔2の真ん中あたり、「千田貞暁銅像」という写真のキャプションの左には、

宇品島(現在の向宇品)

と書かれています。

また、手許にある地形図集「地図で見る広島の変遷」1925年の地形図には、宇品島の集落名として「向宇品」という記述が見られます。

さらに、現在の広電「元宇品口」電停は、かつては「向宇品口」という名前でした。

私としては、やはり「元宇品≒向宇品」ではないかと思います。この2つの地名の関係についての情報を引き続きお待ちいたしております。
[38451] 2005年 3月 10日(木)06:31:51北の住人 さん
牛な
[38448] 両毛人 さん
勝手に宇品の変遷を作りました。後は現地調査で。

もともと宇品は島であったが、人口増で対岸の干拓地にも居住するようになり、そこも宇品というようになった。

埋め立てで、さらに宇品が広がった。

宇品中心部が対岸の人口集中地に移った。

島は元宇品と呼ばれるようになった。

「もとうじな」を「むこうじな」と呼ぶ人が出た。

宇品の向うだから、向宇品の表現ができた。

私は広島に出張で3日間滞在したことがありますが、良い所でした。お登りさんの例に漏れず、お好み焼きビルを見に行きました。実際に食べたのは別の場所です。
電車の速さにびっくり、札幌市電はとろいです。そこがまた良いのですが。函館市電は早いです、脱線しますが。
[38481] 2005年 3月 11日(金)01:51:01でるでる さん
Re:元宇品の謎
[38440]両毛人 さん
「元宇品」と「向宇品」の関係はどのようなものなのでしょうか

については、わからなかったのですが、手元にある『シマダス』(久々の登場!)によりますと、宇品島(うじなじま)の島名の由来として、
(1)島の形が、臥牛の形に似ていることから「牛の島」
(2)江の内(広島湾)にある島から「内の島」
が変化したものとの説があるそうで、宇品島は古くは「牛奈島」や「氏名島」とも表記されていたことがあったそうです。

また『シマダス』によると、宇品島は「明治37年に仁保村から広島市に編入し、元宇品町となっている」とあります。
[38501] 2005年 3月 11日(金)22:35:26【1】夜鳴き寿司屋 さん
「元宇品」と「向宇品」
[38440] 2005 年 3 月 9 日 (水) 23:06:04 両毛人 さん

また「宇品」をさすと思われる、「元宇品」と「向宇品」の関係はどのようなものなのでしょうか。正式名と通称名という関係なのか


[37858]でベセスダさんが、[37875] でEMM さんが仁保島村のことを書かれていたのですが(仁保島村のハワイ移民についての資料館があるそうです
)、宇品に関係するとおもい図書館で件の村の変遷をしらべたところ

明治22年(1889)4月1日  安芸郡仁保島村が単独村制
明治37年(1904)9月15日 字宇品を広島市に分離編入
大正6年(1917)8月31日  仁保村に名称変更
昭和4年(1929)4月1日   広島市に編入

 とかかれておりました。
 また図書館で大正6年(1917)発行の広島県の地図を調べたところ元の島であった宇品島と宇品港の間に郡境が記入されており、当時は宇品といえば「広島市字宇品」と「安芸郡仁保島村(仁保)字宇品」の二つの地域に分立されていたようです。
 ただ明治27年(1894)年発行の2万5千分の1を確認したところ、宇品港完成当時の広島市と仁保島村の西側の境界線がかかれていなかったため、どうやら新しく宇品港(現広島港)の建設によって誕生した宇品の干拓地の境界が明確になっていなかったようです。

 また、広島電鉄が宇品線を向宇品口(現在の元宇品口)まで開業したのが1915年4月のことですが、その当時はすでに官営の宇品線(*)が開業していたため、終点の宇品駅と同名回避のために別称を用いた可能性もあります。

 そのため、もしかすると開業当時は「元宇品」という地名がなかったばかりか、2つの自治体(戦前の制度でいえば財産区)に「宇品」が存在し、そのような状態が25年存続したため、仁保島村字宇品と区別するために、広島市側の宇品をさす言葉として「向宇品」という地名が誕生したのだとおもいます。

 その後広島電鉄の宇品線は、1951年4月に向宇品から宇品(現在の広島港)まで延伸したのですが、国鉄宇品線の方は軍港のための運輸機能も消滅し、またダイヤや経由地に問題もあり広島電鉄宇品線に押され日本一の赤字路線に転落し、旅客営業は1966年、貨物営業は1972年に廃止され、国鉄営業線として廃止(1986年までは専用側線として存続)されました。そのため「宇品」とつけても国鉄駅との同名回避する必要もなくなったようです。

 現在では「向宇品」の地名は住居表示からは消滅していますが、仁保村が広島市に編入してからは、宇品地区の分断も消滅し一緒に向宇品になったとおもいます。


(*)日清戦争の人員・物資輸送のために1894年に当時広島駅まで開業していた山陽鉄道(現山陽本線)が陸軍省の委託により広島駅と宇品港(現広島港)とを連絡するために建設した路線。
 戦時であったため8月4日着工20日完成という突貫工事であったそうです。日清戦争の主戦場は朝鮮半島であったため相当重宝されたようです。
 また当時は戦争指揮のために広島城本丸に大本営(天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関)が設置され明治天皇が行幸し、また戦時予算を可決するため帝国議会も広島で開催され、現在でも国会が地方開催された唯一のケースです。
[38561] 2005年 3月 14日(月)00:39:04【1】YSK[両毛人] さん
宇品レス
きのう日曜日、スナフキんさんとお会いしました。短い間でしたが、貴重な時間でした。

[38451]北の住人さん
[38476]夜鳴き寿司屋さん
[38481]でるでるさん
[38501]夜鳴き寿司屋さん

「元宇品」と「向宇品」に関するメッセージをいただきまして、ありがとうございました。
シマダス、私も持っていたのに、確認することを怠ってしまいました・・・(汗)。ご指摘を受け、該当個所を確認したところです。

大雑把にまとめますと、
(1)宇品島の正式住所は「元宇品」で、「向宇品」は通称
(2)本土側も宇品島も共に「宇品」で、鉄道駅の同名回避的に「向宇品」の名称ができた。
という説がでてきたことになりますね。

私も十分に調べきれていない部分がありますが、私としては、どうしても「向宇品」は宇品島のみを指す地名であるような気がしてなりません。北の住人さんよりお示しいただいた変遷により近い考えを持っています。

鍵となるのは、広電宇品線の「元宇品駅」の名称変更時期。実は、本当に最近、2001年11月1日なのです。旧国鉄宇品線廃止後も、長らく「向宇品口」の名前が存続していました。「元宇品口」へ改めているので、「向宇品口」電停は、「向宇品」と呼ばれる宇品島(元宇品町)への入口という意味だが、住所は「元宇品町」なので、「元宇品口」という名前に変更することにした、と判断したいと考えます。

また、手許にある図集「地図で見る広島の変遷」の1898(明治31)年頃の地形図では、旧国鉄宇品線のすぐ東側に広島市と仁保島村の境界線が引かれていました。つまり、旧宇品線以西の、宇品港築港のために干拓された土地は、当初より全域広島市域であったようです。

その後、宇品周辺で唯一仁保島村域であった宇品島が1904(明治37)年に広島市に編入されたという変遷を辿ります。宇品築港に際し、既に宇品の中心市街地は港周辺の本土側になっていたため、宇品島側は「元宇品」となり、宇品から見て対岸であることから「向宇品」という通称が生まれた。

私は上記のように推定しますが、確証があるわけではありません。引き続き調査したいと思います。

なお、蛇足ですが、宇品については拙稿でご紹介していたりします・・・。
[39550] 2005年 4月 10日(日)08:30:11【1】ゆう さん
向宇品
春ですね。
今日は煩わしい仕事は忘れて、落書き帳を愛でたいところですが、なかなか。
で、ちょっとばかり過去ログより。

[38561]両毛人さん
「向宇品」は宇品島のみを指す地名であるような気がしてなりません。
私もそう思います。根拠として、元宇品町にある広島向宇品郵便局の存在を挙げます。

手許にある図集「地図で見る広島の変遷」の1898(明治31)年頃の地形図では、旧国鉄宇品線のすぐ東側に広島市と仁保島村の境界線が引かれていました。つまり、旧宇品線以西の、宇品港築港のために干拓された土地は、当初より全域広島市域であったようです。
昨日図書館に行って裏をとってきました。広島市史に次のような記述がありました。

・宇品築港事業により開かれた土地の「宇品新開」は1887年(明治20)に広島区の所轄となり「宇品町」と称した。
・また、このために仁保島村字宇品島は1904(明治37)年の広島市編入時に「元宇品町」を町名とした。

以上と、夜鳴き寿司屋さんに[38447]でご紹介頂いた各サイトの記述、それでも曖昧な点を勝手に推測して次のような仮説を立ててみました。


1. 三角州先の浅い海には大型船が着岸できず、広島の港湾機能は宇品島が担っていた。広島の港といえば「宇品」のこと。
  ↓
2. 「宇品築港事業」で三角州と宇品島との間を干拓・埋立。新しい陸地は当然のように「宇品」と呼ばれた。
  ↓
3. 新しい陸地「{広島区,広島市}宇品町」に対して、「仁保島村{宇品島,宇品}」は「向宇品」と通称された。
  ↓
4.「向宇品」が広島市に編入され「元宇品町」となったが通称は残った。100年かけて徐々に消えつつある。
[40008] 2005年 4月 18日(月)20:13:35がんす横丁まま さん
向宇品再燃
両毛人さんの「向宇品」と「元宇品」論、興味深く拝読いたしました。何ら反論はございませんが、広島の元若者は、今も「むこううじな」を使っています。明治22年、県令千田貞暁によって築港された宇品港ですが、港だけが作られた訳ではなく、遠浅だった宇品新開も含まれています。それまでの海岸線はずっと街中にありました。その名残は今も残っており、伊能忠敬の地図にもはっきり書かれています。当時は「宇品島」しか「宇品」名は、見当たりませんね。
それから、般若堂そんぴんさん、広島弁では、「そんぴん」のことを「はぶてる」といいます。名詞でいえば、「はぶてんぼう」でしょうかね。東京弁では言い表せない、いいことばですよね。
[40065] 2005年 4月 19日(火)10:00:15がんす横丁まま さん
向宇品再々燃
もう一つ、どなたも指摘しておられなかったので、付け足します。
広島の宇品港(広島港)のある街側と向宇品島(元宇品)を結んでいる橋は、「あかつき橋」(通称めがね橋)といいます。築港した千田貞暁の偉業を称えて、「暁」の文字をとって「あかつき橋」になったといわれています。戦時中、ここ宇品に駐屯した陸軍運輸部隊を通称「あかつき部隊」といいました。原爆が投下された折、このあかつき部隊は、罹災者救出に不眠不休の働きをしてくれました。
「あかつき橋」の辺りが、宇品港の船溜まりですが、ここが唱歌「みなと」のモデルといわれています。しかし、作曲者吉田信太は、この曲で有名になり、明治35年広島高等師範学校開校とともに招聘されました。作詞者旗野十一郎は、東京音楽学校の国語の教師で、吉田とは師弟関係にあります。「みなと」作曲のいきさつは、安田寛著「日韓唱歌の源流」1999年刊p.156「港」血族の始祖 に詳しく載っています。作曲の授業中に小山作之助先生が褒めた歌だったんだって。では、どうして「詩碑」が建つに至ったかといいますと、吉田信太に招聘されたW氏が、吉田信太のあとを受け継ぎ、広島市民に広く西洋音楽を広める貢献をして、戦後1965年ごろ、広島のNHKテレビに出演した折に、「みなと」は宇品港がモデルだ、と発言したのが広まるきっかけになったようです。広島市民は、「みなと」の歌のイメージとよく似た宇品港ですから、歌のふるさとであってもいい、と思っています。

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