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落書き帳アーカイブズ 測地技術の発達により、今日私たちは正確な距離や地勢を知ることができますが、先人は努力を積み重ねて地球の大きさを測ってきました。その歴史をまとめてみました。eiji_t さんよりアーカイブズのご提案を頂きました。

地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)



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編集:YSK

記事数=11件 更新日:09年02月15日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[45147]2005年9月25日
10ヶ国にまたがる世界遺産・シュトルーヴェの測地弧 hmt
[45172]2005年9月26日
地球を測った人々(1)エラトステネス hmt
[45183]2005年9月27日
地球を測った人々(2) 世界最初の地形図を作ったカッシーニ家の人々 hmt
[45211]2005年9月28日
地球を測った人々(3) 回転楕円体論争 hmt
[45234]2005年9月29日
地球を測った人々(4) 高橋至時と伊能忠敬 hmt
[45236]2005年9月29日
地球を測った人々(5) 伊能忠敬の地図 hmt
[45256]2005年9月30日
地球を測った人々(6) フラムスチードとハリソン hmt
[45308]2005年10月1日
地球を測った人々(7) キャプテン・クック hmt
[45385]2005年10月3日
地球を測った人々(8) 地球の目方、そしてメートル法のための測量 hmt
[45603]2005年10月12日
地球を測った人々(9) 日本の三角測量 hmt
[45617]2005年10月13日
地球を測った人々(10終) 空から地球を測る時代 hmt



[45147] 2005 年 9 月 25 日 (日) 12:20:04 hmt さん
 10ヶ国にまたがる世界遺産・シュトルーヴェの測地弧
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

今年の7月、南アフリカ共和国のダーバンで開かれた世界遺産委員会の会議で、「知床」など7つの自然遺産と17の文化遺産が新たに登録されました。

この中で「地理的」というか、「地図好き」のテーマとして注目に値すると思ったのが、「シュトルーヴェの測地弧」Struve Geodetic Arcです。
これは、なんと10ヶ国にまたがり、全長3000kmに近い長大な世界遺産です。これまでにも2ヶ国にまたがる世界遺産は幾つかありました。例えばモシ・オア・トゥニャ(ヴィクトリアの滝)。しかし、今回の10ヶ国とは大記録です。

さて、その実体は何か? それは、19世紀に行なわれた緯度差25度20分(弧長2822km)に及ぶ子午線測定の遺跡です。
この大測地事業を実行した帝政ロシア時代の天文学者シュトルーヴェ(Friedrich George Wilhelm Struve ドイツ生れ)は、約40年の歳月(1816〜1855年)をかけて、北極海から黒海に至る三角測量網を設定し、はじめての大規模かつ詳細な測定によって、地球の形や大きさを調査しました。

フィンランドのサイト に出ていた地図をクリックして拡大図をご覧ください。東経26度43分の子午線と、北緯70度40分から45度20分まで、三角点の数256(この内34が世界遺産リストに記載)という三角測量網が示されています。

北端のFuglenesと書いてある場所は、ノルウェーのハンメルフェスト市にあります。人口は1万人くらいのようですが、市制施行都市の中では世界最北端ということになっています。メキシコ湾流を水源とする安定した海流が流れているおかげで、北緯70度を超える北極圏に存在するにもかかわらず不凍港として有名であり、最近は海流を利用した発電でも注目を集めています。

三角測量網は、ここからスウェーデン・フィンランド国境沿いに南下し、ボスニア湾から南はフィンランドを縦断、フィンランド湾を越したら、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバを経て、南端はルーマニアのドナウデルタに接するウクライナの黒海沿岸に至ります。

アレ? 数えてみると9ヶ国(ルーマニアを含まず)で、ロシア連邦が抜けていましたね。北緯60度、フィンランド湾の中に赤い点が付いていますが、この島がロシアなのでしょう。

“10ヶ国”と書きましたが、これは現在の話。
ノルウェーは、シュトルーヴェの測量した19世紀には、ナポレオン戦争後にデンマークから引き渡されたスウェーデン領でした(1905年独立までの約90年間)。
また、フィンランドは、20世紀になってからロシア革命後に独立。
バルト3国も同じように独立しましたが1940年ソ連に併合され、1990年再独立を果たしたことは記憶にあります。
モルドバ(ベッサラビア)も測量当時はロシア。ベラルーシとウクライナも、もちろんロシア。

というわけで、子午線測量の行なわれた19世紀当時には、この長大な子午線弧は、現在の10ヶ国より大幅に少ない2ヶ国でした。北端の一部(スウェーデン領)を除けば、大部分はロシア帝国の国境地帯の測量ということですね。
この測地事業が科学的に意義深いものであったことは勿論ですが、軍事的な意義もあったのでしょう。

「大帝国の国境地帯」ということで付言すれば、今年の世界遺産委員会では、従来の「ハドリアヌスの長城」が「ローマ帝国の国境地帯」Frontiers of the Roman Empireに改名・拡大されて、イギリスだけでなく、ドイツの遺跡も加わりました。

「ローマ帝国の国境地帯」は、ここからはるか東の黒海・紅海まで続くだけでなく、更に北アフリカを横断して大西洋まで一周するわけですから、世界遺産の指定が拡大されてゆくと、「シュトルーヴェの測地弧」をはるかに超える壮大な規模になる可能性もあり、今後の推移が楽しみです。

[45172] 2005 年 9 月 26 日 (月) 23:34:18【1】 hmt さん
 地球を測った人々(1)エラトステネス
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

[45147]「シュトルーヴェの測地弧」に関連して、地球を測った先人たちの業績を振り返ってみます。

やはり最初に登場するのは、古代に地球の大きさを求めたエラトステネス(BC275-BC194)でしょう。ヘレニズム時代の文化の中心地アレクサンドリア。有名な図書館は、彼が館長だったムセイオン(museum の語源)の施設だそうです。

エラトステネスは、ある時、アレクサンドリアの南(ナイル川の上流)5000 スタジオンにあるシエネ(現・アスワン)では、夏至の正午に日光が井戸の底まで届くという話を聞きました。そして、オベリスクの影の長さを使って調べてみると、アレクサンドリアでは夏至の太陽は天頂から7.2°ずれていることを知りました。
これらのデータから計算すると、地球の子午線1°に相当する距離は、約694スタジオンになります。地球の円周は360°ですから25万スタジオンと、これで地球の大きさを計算できることに気がつきました。
1スタジウムを178mとすれば(異説あり)、現代の尺度で44500kmですから、4万kmからの誤差は約11%となります。

スタジウムはスタジオンの単数形で、競技場のトラックの長さに由来します。Delphi競技場のトラックは178mでしたが、Olympia競技場では192mありました。
# 近代ギリシャでは、1海里の10分の1(185.2m)ですが、勿論これは無関係。

この話を現在の地図で検証してみましょう。
アレクサンドリアは北回帰線の北 約850km、緯度にして7.65°ですから“夏至の太陽が天頂から7.2°”という観測には約 6%過小という誤差があったと思われます。
一方、アスワンは北回帰線からやや北に位置していますが、井戸に射し込む光が完全に垂直でなくても“底まで届く”ことはあり得ると思います。
ナイル川沿いの灌漑耕作地帯には、当時から「検地」制度があったかもしれませんが、距離の正確な広域地図は整備されていなかったと思います。5000 スタジオンという距離は(駱駝の?)歩測でしょう。
アスワンはアレクサンドリアの真南ではなくて東に寄っていたのですが、北回帰線よりも少し北だったので、アスワン迄の距離は、北回帰線迄の距離とほぼ等しく、誤差は相殺される結果になりました。
5000 スタジオンという数値自体は、直線距離に比べて約 5%過大と思われます。

このようにいささか曖昧なデータを元にしながらも、結果的には距離の 5%過大と角度の 6%過小(地球のサイズには過大側に影響)による誤差を合わせても 11% 程度しか過大でない地球の大きさが得られたことになります。
日本ではやっと弥生時代になった頃の話ですから、驚くべき正確さと言えるでしょう。

参考までに、それから1700年も後のコロンブスは、、25%も過小の推定値(1°が83km )に基づいて、西回りインド航路の計画を立てたそうですから、中世における科学の停滞、いや後退ぶりがわかります。

[45183] 2005 年 9 月 27 日 (火) 19:02:20 hmt さん
 地球を測った人々(2) 世界最初の地形図を作ったカッシーニ家の人々
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

19世紀のシュトルーヴェ[45147]から一気にBC200年頃のエラトステネス[45172]に遡りましたが、宗教的な考えに支配された中世を飛び越えて、科学技術が復興した時代に戻ります。

小国ながら歴史上重要な貢献をしているオランダは、三角測量を発明した(スネル1617)国でもありますが、角度の測定には大きな誤差を伴って問題がありました。
# エラトステネスの測定でも、角度の測定は、長い距離の測定と共に主な誤差をもたらしていました。

望遠鏡とバーニア目盛付き測角機を開発して、精度の高い三角測量を実現したのはフランスの天文学者ジャン・ピカールで、子午線1度=110.46kmと極めて正確な値が算出されました。余談ですが、経緯儀(トランシット)の名称は、この機械が最初は天体観測用に開発された歴史を伝えています。
これが1669年のこと。ルイ14世が財務長官コルベールを用いて、フランスが富国強兵の道を歩んだ時代です。

コルベールは、強国フランスのインフラ整備事業として、全国的な地形図作製を決め、その実行をカッシーニ(Giovanni Dominico Cassini 1625〜1711)に依頼しました。
土星の輪の「カッシーニの間隙」や、現に稼動中の土星探査機にその名を残しているイタリア生まれの天文学者です。帰化後にはフランス式のジャン・ドミニク・カッシーニの名で呼ばれています。

彼と息子のジャックは、1683年から35年もかけて、前記ピカールの測量を延長しフランスを南北に縦断する三角測量鎖を設けました。次いでジャックと3代目のセザールによる東西横断三角鎖、そしてフランス全土を覆う三角測量網へと進み、1745年に基準点測量が完成しました。

その後、植民地を巡るイギリスとの七年戦争(フレンチインディアン戦争)の煽りによる財政危機やフランス革命という大波乱を凌ぎながらも、細部測量をなしとげ、86400分の1の大縮尺地形図182面を完成させたのは、初代ジャン・ドミニクの測量着手から100年以上を経た1793年、4代目ジャック・ドミニクの時代でした。
この、世界で最初に実現した国土全域にわたる統一規格の切図形式の基本地形図は、「カッシーニ図」の名で知られています。

フランス式彩色地形図[44237]の本家の地形図は、このように 4代にわたって奮闘したカッシーニ家の人々の偉業により誕生したものでした。

[45211] 2005 年 9 月 28 日 (水) 23:36:08【1】 hmt さん
 地球を測った人々(3) 回転楕円体論争
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

天文学者カッシーニ[45183]の測地学上の業績は、フランスの地形図作成だけでありません。天文観測により経度を測定する方法を実現したのも彼です。

大航海時代を迎えると、船舶や新発見の土地の位置を知る必要に迫られます。
マゼランの時代には、航行した時間と向きから距離を推測するしかなく、フィリピンの経度の推測地は35度もずれていたそうです。
経度が測定できず、船や目的地の位置が不明では、航海のロスや海難の発生を免れません。

1598年に、スペインのフェリペ3世が経度測定法を発明した者に終身年金を与えると発表したのに応じたガリレオは、自分が発見した木星の衛星食を利用する方法を提案したとのことです。
そして、実際に木星の4大衛星の運行表を作り、衛星食が観測される時刻から、標準時と地方時の差、つまり経度差を知る方法を実現させたのがカッシーニでした。
この方法によって、地上の経度を測定することはできるようになりましたが、航行中の船の位置を常時モニタする用途には使えませんでした。

カッシーニは、「地球を測った人」に止まらず、「太陽系を測った人」でもありました。1672年には、南米のカイエンヌ(フランス領ギアナ)にジャン・リシェを送って、接近した火星をパリと同時に観測し、その視差から火星までの距離を計測し、これに基づいて地球・太陽間の距離(天文単位)を約1億4000万kmと誤差7%の正確さで求めました。
このようして、太陽までの距離は、ヘレニズム時代にアリスタルコスやヒッパルコスにより測定されていた値よりも20倍も遠いことが明らかになり、太陽系の真の大きさがはじめて判明したのでした。

ところで、この1672年の観測のために、リシェはパリで正確に調整された振子時計を南米に持って行ったのですが、現地では1日に2分28秒も遅れてしまいました。仕方なく振子の長さを短く調節したが、パリに戻ると今度は1日に2分28秒進みました。

この原因は気温の差では説明できず、遠心力のために地球の赤道付近が膨らんでいると考えて、重力差で説明したのがニュートンです。
ところが、カッシーニがフランスでの三角測量結果を検討してみると、北の方が1°の弧長が短く、「みかん形」でなく、「まくわうり形」であると思われたのです(1683年)。

地球楕円体の形に関するこの英仏論争は50年近くも続きましたが、1735年にフランス学士院は、赤道に近いエクアドル(当時ペルー領)と北極圏に近いラップランドに測量隊を派遣して1°の弧長を測定して決着させることにしました。
その結果、ペルー(1゜31'N)110.657km <フランス(45゜N)111.162km <ラップランド(66゜20'N)111.992kmの順に弧長が長くなることがわかり、「みかん形」(と言っても、扁平率約は僅かに300分の1)という地球の形が見えてきました。

[45234] 2005 年 9 月 29 日 (木) 19:20:08【1】 hmt さん
 地球を測った人々(4) 高橋至時と伊能忠敬
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

今年、世界遺産に選ばれたシュトルーヴェの測地弧(19世紀)[45147]を発端として、2000年以上前ののエラトステネス[45172]に遡り、17〜18世紀のフランスを中心とするヨーロッパにおける子午線測定の成果[45183] [45211]を振り返ってきました。

ヨーロッパにおけるこのような新知識は、オランダの暦書として日本に伝えられました。1803年、幕府天文方・高橋至時が「ラランデ暦書管見」で紹介しています。
高橋至時は、かねてから暦学上の必要性から子午線測定に関心を持っていましたが、それまでの日本では、25里、30里、32里など諸説が入り乱れ、信用できる実測値はありませんでした。

この時から少し前の寛政4年(1792)には、ロシアの使節ラクスマンが根室へ来て、日本人漂流民を送り届け、通商を要求するなど、北辺の動きが慌しくなっていました。幕府は蝦夷地に目を向け、寛政11年にここを直轄領とし、堀田仁助をして蝦夷地南岸と陸奥の東海岸を測量させました[42889]

高橋至時は、南北に長い子午線に沿って江戸から蝦夷地までを測量をすれば、子午線1度の実測値を得ることができ、北辺防備にも役立つという理由で幕府の許可が得られると考えました。しかし、誰にこれをやらせるのか? 

ここに、絶好の人物が現れます。
高橋作左衛門至時が天文方になった寛政7年に入門してきた下総国香取郡佐原村の伊能勘解由忠敬です。財をなした御隠居の身でありながら向学心に燃えています。
彼は子午線の長さの件でも実行力を発揮して、江戸市内の自宅と職場の間(緯度差1分半)で実測を試みましたが不成功。
相談された師匠は、待ってましたとばかりに、「もっと大きな緯度差で測らなければ角度の誤差が大きくて駄目だよ。蝦夷地までの測量をやってみる気はない?」と持ちかけました。

伊能忠敬のやる気を確認した高橋至時は、幕府に申請して許可を得、寛政12年(1800)閏4月19日に、伊能忠敬の一行6名は江戸を出発しました。幕府の命令書には
御用中一日につき銀七匁五分宛下される
とありますが、この程度の補助金では費用は賄いきれず、この大事業は、金と時間のある御隠居のボランティア活動で始まりました。そして、閏4月から10月迄をかけて、奥州街道と蝦夷南海岸を測量して実測図を作り上げました。

幕府に提出した大図21葉、小図1葉の出来栄えに、“測量試み”として許可を出した幕府は驚き、苗字帯刀を許されることになりました。勿論「伊能」という苗字は百姓身分の頃から持っていましたが、これを公式に使えることになったということでしょう。また、日本刀は方位磁石を狂わせるということで、実際には竹光を差していたそうです。

翌 享和元年の第2次測量を経て、享和2年(1802)には、発端になった子午線1度の弧長を28里2分(110.75km)と計算しています。
# 尺貫法の十進表記もあるのですね。

最初に記したように、その翌年、第3次測量の後にはオランダから、ヨーロッパの測定結果がもたらされました。
自分たちが求めた子午線弧長の測定値とヨーロッパのそれとが一致していることを知り、高橋・伊能の師弟は手を取り合って喜びました。

【1】 苗字帯刀に関して追記
年譜を見ると、“享和元年(1801) 幕府より苗字帯刀を許される”とあったので、上記のように書いたのですが、それより前の天明3年(1783)にも、浅間山噴火のあった年に “利根川洪水で凶作。利根川堤防修理に活躍。津田氏より苗字帯刀を許される。”とありました。
寛政12年(1800)の命令書にも
高橋作左衛門弟子 西九小姓番頭津田山城守知行所 下総国香取郡佐原村元百姓 浪人 伊能勘解由
とあり、学問の道に入った時には既に士分であったようです。
# 苗字帯刀には、領主のローカル・ライセンスと幕府の全国ライセンスがあるのかな?

[45236] 2005 年 9 月 29 日 (木) 19:28:24 hmt さん
 地球を測った人々(5) 伊能忠敬の地図
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

子午線の測定からは外れますが、ここまで来たので、ついでに伊能忠敬の地図作りを記してしまいます。

高橋至時の暦学的観点から始まった測量事業ですが、伊能忠敬の方は、最初から地図作りに情熱を燃やしていたのかもしれません。第3次、第4次の出羽・越後・北陸・東海沿岸の測量から戻った後で高橋至時は若死しますが、伊能忠敬は「日本東半部沿海実測図」を完成させて幕府に提出し、文化元年(1804)9月に11代将軍家斉将軍家斉の上覧を得ました[22357]。この時の大図・中図・小図の縮尺3点セット[35754]が最終版にまで引き継がれています。

地図の正確さに感心した幕府当局は、伊能忠敬を正式の幕吏として登用し、これ以降の西日本の測量(第5次〜第8次)は、幕府の事業として、「伊能測量隊まかり通る」ことになりました。測量は第9次、第10次の江戸府内測量へと続いた後、文政元年(1818)に74歳で死去しました。
「大日本沿海與地全図」が完成して、幕府に提出され、伊能忠敬の喪が公表されたのは文政4年、その後来日したシーボルトが「カナ書き特別小図」[22387]を持ち出そうとした事件は文政11年(1828)のことでした。

ところで、前記のようにヨーロッパの測地学の成果は、1803年には高橋至時の知るところとなりました。
地球が扁平な回転楕円体であるいう情報も入手していたわけで、この点については伊能忠敬も助言を受けていた筈ですが、伊能図は地球を球体として表現されています。
現代の地図と伊能図とを重ね合わせると、蝦夷地が東にずれている等のゆがみが指摘されています。
この点に関しては、いろいろな議論 があるようですが、地球楕円体を無視したことも主な要因でしょう。

伊能忠敬の測量した大図は、本質的に地表を平面とみなせる範囲の海岸線を正確に表わしたものであり、緯線と経線とは描かれていませんが、本質的には直交しているものと考えられます。これに対して、中図・小図では、サンソン・フラムスチード図法のように、京都基準の中央経線(中度)以外では、平行緯線と斜交する経線が描かれています。
この経線は、現在の地図と比較すると、あまり正しくないことがわかります。伊能忠敬は、日食・月食の機会だけでなく、京都と江戸での木星衛星食の同時観測(カッシーニが開発した経度測定法[45211])も行ない、経度の測定を試みましたが、結局はあまり成功せず、地図には反映されませんでした。

シーボルト事件では厳しい処置をした幕府ですが、開国後になると態度が変わります。
文久元年(1861)に英国海軍アクティオン号が海図作成のために日本沿岸の測量を始めましたが、この時に同乗した幕吏は、地名の質問に答えるために伊能図を持参していました。これを見た艦長はオールコック公使を通じて伊能図を入手し、その海岸線を利用して海図を作成したそうです。この時に再来日したシーボルトも日本に居たとか。

江戸城無血開城のおかげで、伊能図は無傷のまま明治政府に引き継がれましたが、不幸なことに明治6年の皇居火災で正本(最終上呈本)は全部焼失しました[34231]
しかし、測量事業の関係者が下図から針穴で写して彩色した副本や、江戸時代や明治時代に作られた写本が存在し、その姿を伝えています。最も代表的な副本は、伊能家に伝わる副本ですが、明治政府は正本の焼失後、その提出を求め、近代的な地形図整備に利用しました。内務省、陸軍、水路部等で作製された地図が伊能図を基礎としているのは、このような経過によります。
この副本も関東大震災の際に、保管先の東京帝国大学図書館と共に焼失してしまいました。

国立国会図書館の写本は、東日本に限られているものの、色彩・保存状態共に良好で、ネットで閲覧することができます[42805]。この写本は、明治初期に副本から模写されたもので、1997年に気象庁図書館で発見後、移管されたものです。
伊能忠敬の地図と史料 の中に、伊能図總目録があります。

[45256] 2005 年 9 月 30 日 (金) 14:48:55【1】 hmt さん
 地球を測った人々(6) フラムスチードとハリソン
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

子午線を測って地球の大きさと形は判ってきましたが、その地球の中で、東西の座標を決める経度の測定は難問として残っていました。

経度とは、丸い地球の中のある地点がどの方向を向いているかを、基準の向きと比べたもので、これは時刻(地方時)の差、すなわち時差でもあります。時差を測るには、正確に時を刻んでいる状態で運べる時計が必要ですが、振子時計が発明されても、その運搬はなかなか困難でした。

星空を背景に動く月の位置は、世界中(勿論、月が見えている範囲内ですが)で見える共通の時計として使えます。
でも、1ヶ月かけてゆっくり文字盤を1周する針を持った時計では、精度の良い時刻(すなわち経度)の観測はできません。

もっと針の進み方が早い天文時計の一例は月食です。これを同時観測すれば、地方時の差(経度)測定の精度は良くなります。しかし、これは大掛かりな仕事であり、稀にしか使えません。ガリレオやカッシーニは、月食よりも頻繁に観測できる木星の衛星の食を利用しました[45211]

星空自体も毎日1周する天体時計です。でも、これを利用するためには、恒星の正確な位置を観測した表を整備する必要があります。
1675年に創立されたグリニヂ天文台は、まさにこのような「天体時計」の整備を目的としたもので、それは、海洋国家イギリスの経度測定技術開発の要となるものでした。しかし、職員は年棒は100ポンドの台長Astronomer Royal フラムスチード 一人だけ。チャールズ2世はお金に関してはケチだったようです。
それでも、フラムスチード は、実用化されつつあった振子時計や望遠鏡付き四分儀を使って恒星の位置を角度 10秒程度の精度で測定してゆきました。彼の名は、地理の世界では、サンソンの名と結合した地図投影法の名として知られていますが、これは彼が恒星図に使った投影法です。

国王に代る議会政治の時代になった1714年、艦隊の海難事故続発に手を焼いたイギリスの議会は、海上での位置(つまりは経度)を正確に求める方法の開発に、精度に応じて最高で2万ポンドの賞金を出すことを決めました。王政時代のフラムスチードの年棒の200倍です。

賞金の求める精度を持つ方法として、先ず精密な天文学的な方法が名乗り出ました(マイヤー)。
しかし、相前後して登場した強敵は、全く違う手段でした。船上の振動に耐えて正確な時を刻む機械時計です。
温度補正機構と摩擦や振動に強い脱進機とを備えたマリン・クロノメーターを発明したのがジョン・ハリソンで、1735年の第1号から更に改良を続け、1761年に第4号(H4)を完成させました。グリニヂ海事博物館

イギリスのポーツマスから西インド諸島のバルバドスへ経度差約60度、7週間の航海で検定した結果、天文観測とハリソンの時計による経度の違いは9.8分(時間にして39.2s)で、角度0.5度以内という要求精度を十分に満たしていました。

しかし、グリニヂ天文台長のマスクリーヌは、大工出身のハリソンの成果をなかなか信用せず、マイヤーの方法を改良して「グリニヂ航海暦」として完成させます(1766)。

賞金はというと、経度委員会は、1765年にとりあえずマイヤー未亡人に5000ポンド、ハリソンには半額の1万ポンドのが支払いました。残りの1万ポンドが支払われたのは、発明から 10年以上を経過した1773年でした。

[45308] 2005 年 10 月 1 日 (土) 22:48:21【1】 hmt さん
 地球を測った人々(7) キャプテン・クック
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

最初にガリレオが挑戦し、以後、ニュートン、ライプニッツ、フック、ハレー(彗星で有名なEdmond HalleyはJohn Flamsteedの死後、第2代のAstronmer Royal)など錚々たる人物が失敗した経度測定用の精度を持つ可搬時計・クロノメーターは、無名の職人ハリソンJohn Harrison (1693-1776)によって実現しました[45256]
これは名人芸的な作品で、量産向きではなかったようですが、キャプテン・クックで知られる James Cook(1728 - 1779)の航海に使用されて、南太平洋など、それまで未知だった地域の経緯度が測定され、地図の空白域がほぼ埋められました。

クックの第1回航海(1768〜1771年)は、タヒチで金星の太陽面通過を観測して、天文学的にその経度を測定することを第一目的として、イギリス王立協会が派遣した調査隊でした。クックはこの仕事の後、海軍省の秘密命令で太平洋を南下し、長らく存在が信じられていた「南方未知大陸」Terra Australis Incognitaを探りましたが、存在しないことを知りました。
その次は西に進んで、オランダ東インド会社のタスマンが発見した後放置されていたニュージーランドを探り、北島と南島とを分けるクック海峡を発見し、更にオーストラリアの東海岸も発見しました。
この周辺は、オランダの探検の方が先行していたのですが、詰めが甘く、後にシドニーができたニューサウスウエールズなど、広大な新天地の領有権は、こうしてイギリスに帰属するところとなりました。

クックは、この航海でグレートバリアリーフも発見していますが、ここで座礁して修理した船の名が「エンデバー号」です。毛利さん(1992と2000)若田さん(2000)が乗組んだスペースシャトルの名は、この第1回クック探検隊の船に由来しています。ついでに、ディスカバリー号(向井さん1998と野口さん2005)も第3回クック探検隊の船の名です。

クックの探検より少し前の「ガリヴァー旅行記」(1726年刊行)で、最初に漂着した小人国「リリパット」の位置は、ヴァン・ディーメン島(タスマニア)の北西です。ここにオーストラリアがあることは知られていなかったのです。
# 余談ですが、ガリヴァーは、3回目の旅行の帰途の日本で、「踏み絵」の儀式をなんとか免れたことを記しています。4回目のフウイヌム国で登場する「ヤフー」は、インターネットのおかげで、すっかり有名になりました。

さて、第1回の航海で否定的な結果を出した「南方未知大陸」ですが、その後もまだ存在説が残っていたので、1772〜1775年の第2回航海では、更に南の南極圏の氷海(71°10′S)まで探り、事実上存在しないことをはっきりさせました。
クックは、この航海にハリソンのクロノメーターを持参し、発見した島々の経度を測定して、「ハリソンの正確な時計がある限り、経度の間違いは今後起きない。」と高く評価しています。

クックは第3回の航海(1776〜1779)で、北西航路の可能性を探り、サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)からベーリング海峡を越えた先の70°30′Nに達しましたが、その先は氷海で、当時の船が航行可能な北西航路は存在しないという結論を出しました。ここでセイウチの肉を食べて腹をこわした体調不良が、ハワイに戻った時に、地元民に襲撃されて命を落す遠因と伝えられます。

このように、クックの航海を通じて地球の姿を明らかにするには大いに役立ったハリソンの時計ですが、量産向きではなかったので、どの船にも乗せて航海の安全を図るという当初の目的は、直ちには実現しませんでした。しかし、18世紀中には、アーノルドが約1000個のマリン・クロノメーターの生産に成功し、イギリス人の船が七つの海を制覇する力になりました。

[45385] 2005 年 10 月 3 日 (月) 23:59:15 hmt さん
 地球を測った人々(8) 地球の目方、そしてメートル法のための測量
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

ここは地理の話題が中心なので、「地球を測った人々」と言っても、主として地球の寸法を中心として、経度の測定と地図作りまでに話題を限って進めてきました。
勿論、地球の内部の探求とか、地磁気とか、地球を測る対象は他にあるわけですが、これらはすべて省略して、一つだけ、地球の質量を測った(量ったと書くべきか?)キャベンディッシュHenry Cavendish 1731-1810についてのみ、言及しておきます。

リンゴを落す万有引力の法則は、ニュートンによって発見されていますから、万有引力の定数を測れば、既に知られている地球の寸法と重力加速度とから地球の質量が計算できます。彼が、細い糸で吊るした球体に大きな質量を近づけて、そのねじれから引力を測っている実験の様子は、高校の教科書に出ていました。
こうして求めた定数から求めた地球の質量は、5.98×10の27乗gで、体積で割ると平均密度は5.52g/cm3と、地球表面の岩石の倍以上あり、地球の中心には重い物質が沈んでいることがわかりました。

さて、話題はまた経度の長さの測定に戻ります。
18世紀の終頃にフランス革命が起ると、宗教によらない共和暦の制定、時刻や角度も60進法から10進法に変更、そして、単位もメートル法へと、大改革が行なわれました。

1年を自然現象から命名した12ヶ月プラス5日とし、長い伝統を持つ「週」も廃止して10日ごとの「旬」休にした共和暦は不評で、「ブリュメール(霧の月)のクーデタ」で政権を握ったナポレオンの時代、1806年からグレゴリオ暦に復帰しました。時刻や角度の10進法化も定着しませんでした。現在、人々に受け入れられて定着しているものが、唯一、メートル法でした。

「universal」な長さの単位を制定する発端となったタレーランの提案(1790)では、秒打ち振子の長さが示されていたようですが、フランス学士院で検討の結果、地球の子午線1象限の長さの1000万分の1を、新たな単位「メートル」とすることになりました。

パリを通る子午線の三角測量は、既にカッシーニ[45183]によって実施されていたわけですが、新しい単位を正確に定めるために、1793年に、メシェンとドゥランブルによって、ダンケルクからバルセロナまでの精密測量が再び実施されました。革命の動乱時代、スパイと疑われたり、メシェンがスペインから帰国できないなどの社会的な状況の中でも、当時の技術による精密測量の限界に挑戦したと言われます。

この測量結果に基づいて、白金製の標準器Metre des archivesが作られたのは1799年でした。もちろん、地球楕円体[45211]を考慮して計算した値です。

しかしこの後も時代は激変し、革命の産物だったメートル法は、フランスでさえ直ぐには普及せず、メートル法の正式採用は1840年になります。国際条約が締結されるのは更に後で、1875年でした。1889年に、白金イリジウム製の30本の原器の内、 Metre des archivesに最も近い1本が國際メートル原器として指定されました。革命時代の子午線測量の結果は、このような形で、国際的な「メートルの定義」に生かされたわけです。

余談ですが、國際メートル原器による定義は、やがてその精度が問題になり、精度測定手段に用いられたスペクトル線の波長に定義が変更になりました(1960)。その後1983年に改定され、日本でも平成4年の計量単位令で、新しい定義が採用されています。

[45603] 2005 年 10 月 12 日 (水) 19:07:51 hmt さん
 地球を測った人々(9) 日本の三角測量
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

少し間が空いたので、前回までのあらすじから。
2200年前に、アレクサンドリアのエラトステネス[45172]は地球の大きさをかなり正確に測り、カッシーニ[45183]や伊能忠敬[45236]に代表される人々の測量の成果として、陸地の実測地図が整備されてきました。
海を隔てた新天地に航海し、南太平洋には、想像されていた南方大陸がないことを始め、地球上で未知だった地域の地理を明らかにしたのはキャプテン・クック[45308]でしたが、クックの航海で経度の測定が可能になったのは、フラムスチードによる星空の地図と、ハリソンが作り上げた正確な時計[45256]のおかげでした。
フランス革命の嵐の中でも、地球を測った人々の活動は続き、長さの基準であるメートル原器が作られました[45385]
メートル原器の精度の検定は、光の干渉を利用した精密測定技術へと進化し、1907年には、マイケルソン(Albert Abraham Michelson)がノーベル物理学賞を受賞しています。

今回は、日本の三角測量を振り返ってみます。
「地球を測る話」の発端となった世界遺産・シュトルーヴェの測地弧[45147]が測量された19世紀前半を通り過ぎて明治時代が中心になります。

三角測量の発明は、新興国オランダのスネルにより、1617年になされました[45183]。そして、早くも1643年には日本にも伝えられましたが、幕府は、これを「幻術」として使わせなかったとのことです。
伊能忠敬の測量法も、方角と距離(主として歩測)を積み重ねる「導線法」によるものでした。

三角測量が日本で実現したのは明治になってからの東京中心部が最初で、1872年(明治5年)に工部省により、江戸城富士見櫓、芝愛宕山などに三角点が設置されたとあります。この仕事は内務省に引き継がれますが、最後には、三角測量は陸軍に統合されました(1884)。
なお、三角測量による正式の地形図作成が開始される前に、一部の地域については、迅速測図が作られました[44237]

三角測量は、方位角の測定により三角網を広げてゆきますが、原理的は1辺だけでよいわけですが、「基線」の正確な距離を実測する必要があります。初期の東京測量での基線測定は、深川や本所で行なわれたようですが、今日につながる三角測量の最初の基線は、明治15年の「相模野基線」[34440] です。
現在は記念碑的な意味しか持たない状態になっていますが、手元にある1:25000地形図「原町田」(昭和29年修正測量)を見ると、相模野基線周辺の多くは見通しの良さそうな畑や桑畑です。但し、既に畑の中に縦横に街路が作られており、Issieさんの探訪記にあるような、建物が立ち並ぶ姿を予感させています。

距離の直接測定は、“原理的は1辺だけでよい”わけですが、三角網を広げてゆくと、どうしても誤差が積って大きくなります。そこで、三方原(現・浜松市)、饗庭野(現・高島市)など各地で基線が作られました。いずれも陸軍施設のあった場所ですね。最終的には、内地14ヶ所、外地6ヶ所の 基線 が測定されました。

このようにして、三角測量が進められ、日本全国の「5万分の1地形図」が作成されてゆきました。
三角点を設置しようと登山したが、果たせなかった剱岳のことは、[43689]で記しました。
明治も終り頃になると、基線測量には、熱膨張率の小さいアンバー(インバール)製の基線尺が使われるようになりました。この合金を発明したギョーム (Charles-Edouard Guillaume)も、精密測定法の開発により、1920年のノーベル物理学賞を受賞しています。彼はまた、エリンバーの発明により、温度変化の非常に少ないテンプを実現して、時計技術の進歩にも貢献しています。

数kmの距離を0.1mmの桁まで測る基線測量の作業は、大変な苦労があったようです。
しかし、1960年代になるとレーザー技術が発達し、反射プリズムに向けて発射した光が返ってくるまでの間の発振回数から長距離を直接測定できる「光波測距儀」が実用化し、これに取って代わられることになりました。
なお、1958年にレーザーの理論を発表したタウンズ(Charles Hard Townes)は、1964年にノーベル物理学賞を受賞しました。
アンバー製の基線尺の使用は、1954年、滋賀県の饗庭野基線での再測量が最後になりました。

光波測距儀の出現は、また、「三角測量」の本質を「三辺測量」へと変化させることになりました。
そして、更に「GPS」の出現により測定対象は「衛星から来る電波の所要時間」へと変って、地表面の「三角形」でさえなくなってゆくのですが、「三角点」という名称は、そのまま残っています。

[26266]では、沖ノ鳥島に関して、
東露岩にある「一等三角点」(北露岩には三等三角点がある)。でも三角測量をするには3つの三角点が必要なのではないかな?
と、からんでみたのですが、距離を測る(三角形を作る)相手は衛星だから、地表の「三角点」は、1つでも2つでも良いわけでした。

[45617] 2005 年 10 月 13 日 (木) 19:25:52 hmt さん
 地球を測った人々(10終) 空から地球を測る時代
ARC 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案)

「四千万歩の男」というように、長い間、“地球を測る”のは、地表で行なう測量でした。
ところが、20世紀になると人類は「翼」を手に入れ、その前に完成していた写真術と結びつけた空中写真の撮影が可能になりました。写す角度をずらした2枚の空中写真撮影により、高さを含めた情報の記録が可能になり、ステレオ写真の立体図化機によって地図を作れるようになりました。
この方法で2万5000分の1地形図が作成された際(1968年)、剱岳の高さが見直されたエピソードは、[43689]で記しました。

飛行機よりも高い空中を飛ぶ人工衛星も、地球を測るための、有力な手段になりました。
人工衛星の軌道は、地球の重力の影響を受けて微妙に変化します。これを電波で追跡すれば地球の形を測定できます。[45211]では、地球は僅かに扁平な回転楕円体ではあったことを記しましたが、詳しく調べると、みかん形の回転楕円体から、更に様々な「ゆがみ」を持っていることがわかりました。

地殻の表面にはヒマラヤ山脈やマリアナ海溝のような凹凸がありますが、それだけでなく、仮想の海水面(ジオイド)にしても、回転楕円体からずれていました。北極側が突出した洋梨形にも譬えられます。
赤道面も完全な円ではなく、インド洋のモルジブの付近は回転楕円体から凹んでおり、逆に ニューギニアは突き出ているという具合。そのようなジオイドの凹凸を示す地図は、例えば理科年表で見ることができますが、引用サイトもあります。

人工衛星を利用した「地球を測る」手段として、欠かすことができない存在になっているのが「GPS」 Global Positioning Systemです。
位置の知られている星を観測すれば、時刻の情報と共に処理して自分の現在位置がわかる…という事実は、「天測」として利用されてきました。フラムスチードに始まるグリニヂ天文台が整備してきた航海暦がその代表的なものでした。

GPSは、直接的にはロランC(Long Range Navigation-C)のような地上局を使う電波航法の後継でしょうが、1日に1周する星空を利用した「天測」の現代版であるとも言えます。こちらは、高度2万km、12時間で1周する人工衛星NAVSTARを24個(他に予備)用い、昼夜を問わず4個以上の衛星から電波を受信することができます。元来は軍事目的のために米国が開発したシステムですが、1993年から民間でも使えるようになりました。

NAVSTARには、極めて正確な時刻を刻む原子時計が積み込まれており、1ミリ秒毎に信号を発信しています。地上では、受信した時刻と衛星が電波を発信した時刻の時間差を測って衛星までの距離を知ります。衛星の位置は厳密に管理されていますから、3個の衛星までの距離を知れば、理論的には自分の位置がわかります。
実際には、受信機を安価に作る必要があり、1000万円もする原子時計を使うわけにはゆきません。クオーツ時計では誤差は免れず、これが距離、従って位置の誤差になります。その対策として、 GPSでは4個目の衛星からも受信することで、受信機の時計の誤差を消去します。とても巧い仕組みです。
# GPSの開発は、ノーベル賞に値する仕事だと思うのですが、誰がやったのか知りません。

GPSでは、地球の重心を原点とする直交座標で位置を表わします。
三角測量の時代は、地球の表面(ベッセル楕円体)が基準でしたが、測量方法がGPSになると、地図作りの基準も見直され、地心座標に基づく世界測地系に移行しました。2002/4/1に施行された 改正測量法では、地図を投影する楕円体も世界測地系のGRS80になっています。
具体的には、東京付近で経線が東に290m、緯線が南に350m程度(距離にして南東に約450m)ずれ、経度の値がマイナス12秒、緯度の値がプラス12秒程度変わりました。
この落書き帳では、変更された地形図の図取りの重複などが話題になりました。「地形図」に親しもう!
なお、海上保安庁所管の海図はWGS84に基づいていますが、GRS80との実用上の差異は殆どないそうです。

GPS測量と言えば、世界最高峰エベレスト(チベット語でチョモランマ「世界の母神」、ネパール語ではサガルマータ「大空の頭」)の高さを測り直したというニュースが入っています。
中国の国家測量局は9日、世界最高峰のエベレスト(中国名:チョモランマ)の高さは今年5月から行った測定の結果、これまでの公表値より3.7メートル低い、8844.43メートル(誤差0.21メートル)だったと発表した。

1999年にアメリカの研究チームがGPSで測った結果は8850m、中国が1975年に測定した値は8848.13m。
頂上が氷雪に覆われていることも、数字が変る要因の一つでしょうか。地球温暖化で低くなる傾向?
なお、チョモランマQomolangmaは、「珠穆朗瑪峰」と書き、「珠峰」と略記されるようです。

余談ですが、昔、世界最高峰は崑崙山脈のアムネマチンという説を聞いたことがあります。調べてみると、世界一高い山は? というページがありました。これによると、アムネマチンは9041m。崑崙・チベット・ヒマラヤの大きな山塊が重力の向きを狂わせたせいだという説明ですが、それにしても違いすぎる。

上記ページには、ジオイドからの標高の他に、地球楕円体からの高さ(最高はK2の8859m)にも言及しています。おまけの「地球中心からの高さ」については、[29173]日本最高峰?沖ノ鳥島 参照。
地球楕円体面からの高さとジオイド面からの標高の説明図

GPSから山の高さに脱線しましたが、ここで本筋に戻し、「更に遠い空の彼方から地球を測る」方法を一つだけ追加。
それは、 VLBI(Very Long Baseline Interferometry:超長基線電波干渉法)です。詳しくは、国土地理院のVLBIのページをご覧ください。

最後のあたりになると、業績をあげた個人名が出なくなりましたが、これで「地球を測った人々」のシリーズを終ります。
シロウトの断片的な知識をつなぎ合わせて作ったストーリーです。誤りなどあればお許しください。
長文におつきあいいただき、有難うございました。



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