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落書き帳


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[67599] 2008 年 12 月 14 日 (日) 22:26:57 作々 さん
 久々です。

[67589] YT さん
なんかじっくり読んだり考察したりする時間が無くて、中途半端な内容になっちゃいますが、少しコメントを。

まず、明治12年の第二回共武政表の鹿児島について。
パッと見た感じですが、今で言う鹿児島市の加治屋町、山下町、薬師あたりが無いような気がします。もうちょっと具体的に書くと、当時の山之口馬場町、樋之口通町、東千石馬場町、西千石馬場町、新照院通町、薬師馬場町、鷹師馬場町などです。(細かく書けばもっとあるはずです。)

また、第三回、第四回共武政表の鹿児島は、恐らく鹿児島県庁直轄の府下(もしくは庁下)と称された部分(六日町〜塩屋から東之町、中之町、西之町を引いた部分)に当たると思います。ただしこれはあくまで数字を元に考察しただけですので、参考程度にお願いします。
因みに、この東之町、中之町、西之町は西田3町と呼ばれたところらしく、後の西田町とイコールのようです。

ただ、こう書いてしまうと、第二回と第三回、第四回で鹿児島の人口が変わってしまいます。
このことについては、明治11年に大区小区制に変わって郡区町村編制法が公布されていますので、それが関係しているかもしれません。

坂元村についてはちょっと分かりませんが、他に坂元と呼ばれる地域は無いと思うので、数字が正しいのであれば、合併・分立などで区域が異なるのではないかと思います。

[67598] 2008 年 12 月 14 日 (日) 21:56:12 とんかち☆ さん
 レスその2

これで終わりですので、もう少しお付き合いくださいませ・・・。
次は「鉄」分についてです。


[67584]YASUさん
鉄道会社のイベントに行くと、旦那(または彼氏)、子どものお伴ではないと思われる女性が少なからずいます。

これにはビックリしました!!
でも、やはり女性も「鉄」が入ってる方がいらっしゃるんですね。
「鉄」に限らず、いろんなものに対して「これは男性のもの」、「それは女性のもの」と先入観を抱いてはいけないようです。
実は、私は「鉄」分は入ってませんが(前の書き込みにも書きましたが)、鉄道そのものの話は好きです!
これからもいろいろ勉強させていただきます。


[67591]日本人さん
小学生の女の子にもいるんですねぇ・・・「鉄子」ちゃんが(笑)
でも、お兄さんや弟さんの影響で自分も詳しくなったとかありそうですね。
新幹線の問題ってけっこう難問が多そうですよ。
私の勝手な想像ですが(笑)
きっと、私もその子に新幹線に関する問題を出されてもきっと答えられないと思います。

話は変わりますが、もうそこまで過去ログを読まれたんですね。
この分だと年明け早々には読み終えられそうですね・・・。
さすがは小学生だ!(スイマセン)

メンバー登録おめでとうございます。これからもよろしくお願いします。

いえいえ、こちらこそよろしくお願いいたします。
一番の新参者の私ですが、お手柔らかに?見守ってやってくださいな。
って、年下に言う言葉ではないのかもしれませんが・・・。



過去ログでも話題になっていましたが、レスする時には同じ話題でまとめて何回かに分けて投稿するばいいのか、違う話題でも一緒くたにまとめて一気に投稿すればいいのか迷っています。
1つにまとめてしまうと長くなって読むのに疲れてしまうような気がしますし。
分けて投稿すると同じ人が何回も投稿することになってしまいますし(それに、ランキング目当てだと思われそうですしね)。
これからいろいろとお世話になるので、その都度考えながら投稿しようと思っております。

[67597] 2008 年 12 月 14 日 (日) 21:37:35 とんかち☆ さん
 レスその1

ではでは、レスでございます。
まずは・・・「うみ」なしの話から行きます!


[67543]じゃごたろ様
距離の差がなくても水のありなしで気温が変わるといわれるのが諏訪です。陸地と水を比べると、水の方が熱っしにくく、冷めにくいという特性があります。そのため冬になっても海(水)からの熱の供給があるため、内陸よりも比較的暖かいという気候になります。

確かに、井戸水なんかはいつでも同じような水温を保っていると聞いたことがあります。
それで海があるのとないのとで気温が違ったりするんですよね。
あとは風の向きにもよるんでしょうね。
冬は北西方向からの季節風が吹くので、群馬北部などの山がちょうど北西にあたる埼玉県は寒いんでないでしょうか・・・。
そこに海なし県ときて・・・かなり周りの環境に影響されていると感じたわが埼玉県ですね(笑)



短いレスなのに、話題ごとに書き込みしますと宣言してよかったのかしら??
一気に書いた方がよかったとちょっと後悔しちゃいました・・・。

[67596] 2008 年 12 月 14 日 (日) 21:30:22 とんかち☆ さん
 自分色

[67590]オーナー(グリグリ)様
自分色の登録&メンバーに追加していただいてありがとうございます!!
みなさまの書かれた話に乗っかってばかりの私ですが、よろしくお願いいたします。

早速、メンバー紹介編集機能を使ってみました(笑)
先月この落書き帳に書き込みした出身地の件ですが、やはり一番長く住んでいる鶴ヶ島市にしました。
ちょっとだけ、幼少の時に住んでいた坂戸市(お隣ではありますが)と迷いましたが・・・。


今までいただいております私あての書き込みのレスは話題ごとに分けて書き込みます。
1度にいろいろな話を書きこむと読みにくいような気がしますので・・・。

[67595] 2008 年 12 月 14 日 (日) 20:21:56【2】 Issie さん
 分散から集中へ

[67592] の関連で,相模原が“町”から“市”になる頃の町(市)の広報を読んでいたのですが,面白い記事がありました。
“市”になる半年余り前の1954年4月10日発行の第49号。トップ記事は,かねて清兵衛新田に建設中であった町役場の新庁舎の第1期工事が完了し,同年4月7日から,それまでの上溝庁舎から“本庁関係”の事務が移転したというもの。そこに,新庁舎内部の見取り図が掲載されています。昔の学校の校舎のような木造モルタル造り2階建ての 本館 に,渡り廊下で結ばれた1階建て の 別館,および 食堂棟。庁舎内に配置されているのは,町長室は当然として,総務課,税務課,厚生課,産業課,建設課,それに町議会の議場と事務局,教育委員会事務局,…それだけ。
巨大化した現在の市役所から見ると,建物そのものも,庁舎内でとられていた事務も,ずっと簡素なものでした。
「相模原市」になって約1年後の1955年10月29日号にも「市役所案内図」が掲載されているのですが,「町長」が「市長」になり,教育委員会事務局がほかの建物へ出て,代わりに 福祉事務所 などが入っているほかは,1年半前の移転時と大きく変わっていません。

ご案内の通り,高座郡北部の 上溝・座間2町 と 相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯 の6村が合併して「相模原町」が発足したのが昭和16年の天長節,1941年4月29日のこと(「相模原市史」によれば,別に“天長節”の合併を狙ったわけではなく,4月1日発足のつもりだったが準備が間に合わず29日になった,ということであるようです)。
当時としては大規模な合併によって発足した新町は,町役場を 淵野辺 に置きました。とは言え,その実態は横浜線淵野辺駅の駅裏(こちら側に駅の出口ができたのは淵野辺駅が橋上役化された実に1970年代のことです),「軍都計画」のための区画整理事業のために設置されていた区画整理事務所(現・大野北出張所付近)に“間借り”する形で置かれ,専任の職員はわずか7名というものでした。半年後の9月1日に“間借り”状態を解消するために町役場は合併前の 旧上溝町役場 に移転しますが,別に 旧上溝町 が 新・相模原町 の町政を牛耳ったわけではなく,“間借り”の場所を変えただけのこと。合併後の 相模原町 は,旧町村ごとそれぞれの旧役場に「出張所」を置いて従来通りの行政事務を行っていました(旧相原村役場については「橋本出張所」と改称)。
このような状態は戦後もそのまま続き(出張所は1948年4月1日に「支所」と改称),だから1954年4月に新庁舎ができた時も,「本庁関係」として新庁舎へ移転したのはごく限定された事務だけだったのです。「地域分権」などという偉そうなものではなく,従前の各町村役場で行われてきた行政事務をそのままフシュウ…,もとい,踏襲しただけなのでしょうね。
こういう行政形態であったことは,1948年9月1日に 旧座間町 が分離する際に行政事務上のハードルを低くすることに役だったかもしれません。

※なお,旧座間町では敗戦間もない1945年9月に早くも分離への動きが表面化しています。「軍の圧力」による合併であったことを思わせる動きですね。座間町の分離後,町域北西部の 旧大沢村 でも分離の動きがあったようですが,こちらはやがて消えてしまったようです。

市制施行から1年半経った1956年5月1日,相模原市役所は大幅な機構改革を行いました。
本庁を3部(総務・民生・建設)12課1事務所(福祉)1室(出納)として,それまで各支所に分散していた行政事務のほとんどを本庁に集中させることにしたのです。「支所」は「分室」と改称し,民生部市民課の下で市民の「日常生活に直接関係のあります戸籍,住民登録,配給及び諸証明などを重点とした範囲にとどめ」(市広報)るとされました。「分室」とは,あからさまに“格下げ”を連想させる改称であるように思います。各支所に分散していた機能を本庁に集中させることを象徴しているのかもしれません。
「分室」への改称とともに,旧町村時代のまま 橋本・大野北・上溝 の各支所の管轄にあった「軍都計画」による区画整理区域が「本庁」の直轄とされました。これも“本庁”への事務集中の一環であると同時に,区画整理以前は 清兵衛新田 と 矢部新田 の旧集落以外には何もなかったこの地区がそれなりに市街化したことの結果であるのでしょう。
1941年の合併から15年を経て,ようやく「相模原市」への統合が実現したと言えるのかもしれません。“一体性”が醸成されるまでにそれだけの時間がかかるとも言えそうです。

「分室」は1970年10月1日に「出張所」と改称されました。

[67594] 2008 年 12 月 14 日 (日) 19:18:01【1】 hmt さん
 原宿・神宮前・表参道

[67586] いっちゃん さん ブラタモリ
古地図片手に明治神宮・原宿・表参道界隈をぶらぶら歩くものなのですが、なかなか面白かったです。

明治神宮の森からスタート。南池を水源とする湧き水は、原宿駅東側の竹下通りの少し南を南東に流れて明治通りに出ます。現在でもマンホールや護岸の跡が暗渠になった川の存在を示していました。

この「失われた川」の北側は、荏原郡大井村からの移住者が開拓した上渋谷村の領域で、明治になっても渋谷村>渋谷町字竹ノ下、昭和になっても渋谷区竹下町という 隠田や原宿とは別の町名で呼ばれていました。現在は神宮前1丁目に統合。[48334]

明治通りより少し東には「キャットストリート」[67523] 伊豆之国 さんがあります。正式名「旧渋谷川歩道」からわかるように、新宿御苑の玉藻池を水源とする渋谷川の流路でした。“ゾウリムシのお化け”[44701]の千駄ヶ谷渓谷もその支谷です。

昔の地名でいうと、この付近を境にして南は「隠田」(おんでん)、北は「原宿」でした。千駄ヶ谷村→渋谷区になった後も、この2つの地名は町名として残っていましたが、現在の住居表示では、おおむね渋谷区神宮前1〜3丁目と4〜6丁目になり、町名は失なわれました。

「原宿」は駅名として使われたために、地名として使われ続けていますが、葛飾北斎の 「穏田の水車」 に描かれた「隠田」の地名は消えました。
隠田に代ってよく使われる通称地名が、駅名に使われている「原宿」と「表参道」でしょう。

ブラタモリには「表参道ヒルズ」[49157] matsuさん も登場しました。
その主題である「細長い三角形の敷地の謎解き」は後にして、この土地に1927年に誕生した建物の名前は「同潤会青山アパート」でした。
1932年の「大東京」誕生よりも前ですから、当時この地は「東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字隠田」だったはず。それでも、すぐ近くの東京市赤坂区の町名でもある「青山」という通称地名が使われています。

そして80年後の今回も「神宮前4丁目」という正式町名ではなく、「表参道」という通称地名が採用されました。

「表参道」は、元々は大正9年(1920)に鎮座した明治神宮のために作られた「参道」です。
渋谷からの地下鉄(東京高速鉄道)の駅は、今よりも渋谷寄りに 1938年にできましたが、当初は市電と同じ「青山六丁目」。
初詣だけでなく明治神宮参詣が1年中盛んだった時代です。原宿駅よりも遠いけれども「神宮前」と改称して参詣客を呼ぼうとしたのがその翌年。
戦後の1972年千代田線が開業。「明治神宮前」駅ができたので、こちらは3度目の「表参道」駅に変更。

「青山」は戦前からブランド力のある地名でしたが、地下鉄駅名になったことで著名な地名として定着してきた「表参道」に、その座を侵されつつあるのかもしれません。

[3765] オーナー グリグリさん
原宿や表参道は駅周辺一体の地名として意識されています。そんな中でも神宮前は原宿駅から表参道交差点に至るまでの地名として(住所ではなく)認知されつつあるように思います。
という発言もあり、現住所重視[41773]の立場から「神宮前ヒルズ」という選択肢もあったのかもしれません。
しかし、原宿のJR駅よりは東京メトロの駅に近く、何よりも「表参道に面している」この施設が、「表参道ヒルズ」を名乗るのは、やはり順当な選択であったと思われます。

「表参道ヒルズ+神宮前小学校」の 細長い三角形の敷地 の謎解き。
番組で紹介されたように、浅野邸の敷地北辺をかすめて建設された表参道により分断されたためですが、これは大正時代の浅野邸のこと。
補足すると、芸州広島藩主だった頃の浅野家の下屋敷は、現在の神宮前4丁目の全域に広がる広大なものでした。
表参道で分断された浅野邸は、下屋敷に隣接する抱屋敷で、江戸時代には 墨引[62550] の外でした。
参考までに、上屋敷は外桜田。現在の合同庁舎2号館(総務省)と3号館(国土交通省)。中屋敷は赤坂のTBS。隅田川岸には蔵屋敷もありました。築地市場の一部。

[67593] 2008 年 12 月 14 日 (日) 14:08:47【3】 EMM さん
 スイッチバック・自己フォローなど

[67574]は昼休みの短い時間の間でまとめたものですが、時間がなかっただけにせっかく見つけた参考サイトを生かし切れてません。
具体的には、桑ノ原信号場・羽尾信号場・旧関山駅に関する部分についてI love Switch Backを参考にしているのですが、反映しきれなかった部分がしっかりありました。昼休みがもう10分あれば…

[67575]Issieさん
二本木駅の貨物取扱に関する話は参考サイト中にもありました。そこまで読むことができたのは半日後…。
篠ノ井線乗車に関する話は、[67574]を書き出した時点では特急乗車の時の話だけで書いていたのですが、途中で「あれ?そう言えば鈍行に乗っていた時に特急をやり過ごしてなかったっけ?」というのが頭に浮かんできて、どっちが真の初体験だったか分からなくなったので併記して書いてあります。
いずれにしても、篠ノ井線を通った時まで3のグループのような運用をするスイッチバックが存在することを知らなかった、と言うことです。
子供向けの鉄道の本ではスイッチバックは「急勾配をクリアする為の方法」として紹介されていることは多いですが、「斜面にフラットな形で駅・行き違い施設を作るための方法」として取り上げられている事はあんまり無かったような気がします。
その事と、大学受験まで鉄道になる機会が皆無と言っていいぐらい無かったことが篠ノ井線での経験に繋がっております。

[67578] hmtさん
普通の鉄道ではありませんが、立山砂防工事専用軌道。落書き帳の過去記事 [3277][18054] 深海魚さん他 にも登場するのですが、なぜかスイッチバックには言及されていません。
高低差約200mを一気に登る 樺平の連続 18段 を含め、戦後に整備された部分を含めて全部で 38段(文化庁の資料では42段)のスイッチバックとか。
[67574]を書いている時に初めて存在を知りました。隣県にこんなすごいものがあったとわ。
ちなみに、[3277]深海魚[雑魚]さんの記事中で
隣接の資料館見学を前提に、抽選に
当ると、工事見学ツアーの名目で乗車が認められる場合もあるそうで、是非試して見たいところ。
とありましたが、wikipedhiaによると2006年までは抽選の応募要項に「富山県在住者に限る」という非情な項目があったようです。
2007年からこの制限は撤廃されたようですが、2006年で抽選の倍率は約2倍〜5倍であり、応募の制限撤廃により抽選倍率が上がっている可能性がありそうです。
しかも、荒天中止。やはりハードルは高いようで。
興味のある方は立山カルデラ砂防博物館HPをご参照ください。
せっかく近いんだから、来年に応募してみようかな…

[67584] YASUさん
今年7月5日に「スイッチバック街道惜別羽尾号」という列車が運転されました。
その翌日、羽尾信号場は廃止されたようです。現在では線路は残っていますが、架線は撤去されてしまいました。
[67574]を書いた際には参考サイトやその他の検索で出てきたサイトの記述が入り乱れていたので「休止?廃止?」と書きましたが、wikipediaに架線撤去の話が書かれていました。
記念列車運行が今年7月、架線撤去が9月と言うことで、関係サイトでもまだ十二分に反映され切れていないようです。

−−−−−
クイズの正解発表でもあるオフ会レポートを下書きしたところ、4泊5日でしかもかなり欲張った日程であった事から恐ろしく長大なものになってしまいました。
なので、文章を圧縮するかどうか思案中。でも、文章を圧縮しようとするとまた時間がかかるし…
ああ、そう言えば写真もまだ整理できて無い。


※追記
本稿を書くにあたり参考にしたwikipediaの記事は、立山砂防工事専用軌道見学の応募の条件緩和に関する記述が十分でなかったようです。
詳細は[67605]みのるさんの記事をご参照ください。

[67592] 2008 年 12 月 14 日 (日) 12:32:56【1】 Issie さん
 サンヤ・ブルース および 字相模原

ここ1ヵ月ほど,ちょっとした関心があって,相模原市周辺の住居表示以前の行政区画等を調べています。
相模原市では,1984年に市教育委員会の社会教育課が中心になって主に近世以降の地名を史料や古くからの住民への聞き取りでまとめた『地名調査報告書』というものが出されています。具体的な大字・字の区画については,市の総務局税務部資産税課(当時)が所蔵していた1963年の「土地宝典」を典拠にそれを1万分の1の地図に落とした「付図」がついています。「付図」といってもこちらがメインで,史料や聞き取りで収集した地名もそこに落としてあります。冊子はLPやCDの歌詞カードみたいなもので,付図の解説なのですね。図書館で付図9枚のコピーをもらってきました。

さて,その地図を見ていて気づいたことの1つに,この地域には「サンヤ」という地名が実に多いこと。地図では主に聞き取り調査による地名をカタカナで表記しているのですが,「土地宝典」では基本的に漢字表記となる。で,この実に多い「サンヤ」という地名に対する漢字表記は,大字,つまり明治の大合併以前の旧村ごとに,またバラバラなのですね。以下の通り。

 大字相原:三屋
 大字小山:三谷
 大字上鶴間:山野
 大字上九沢:三家
 大字上溝:三谷

これだけ狭い範囲に分布する“同じ地名”に対する漢字表記がまちまちだということは,恐らく漢字表記自体には意味がないのでしょう。それでは,「サンヤ」とはどういう意味なのか。
東京にも,浅草や代々木に「サンヤ」という地名がありますね。こちらはいずれも「山谷」と表記しますが。こちらの「サンヤ」は,どういう意味なのでしょう。

この報告書が1963年の「土地宝典」を資料としているのは,相模原市では翌1964年から住居表示による新町丁の編成が始まるからです。その直前の状態を留めておきたかったのでしょうね。
相模原では「軍都計画」による大規模な区画整理が行われいて(事業が完了するのは敗戦後のこと),恐らくは1954年の市制施行までの間に,この区画整理事業の対象となった 橋本・小山・清兵衛新田(以上,旧相原村のうち),上矢部・矢部新田・淵野辺(以上,旧上溝町のうち),下九沢(旧大沢村のうち),上溝(旧上溝町) の各大字で新しい土地区画に合わせた大字・字界の再編が行われました。1963年というのは,この大字・字再編後の姿でもあります。逆に言えば,「軍都計画」以前の,つまりは“近世以来”の姿ではないのですね。
お隣りの座間市でも同じような地名調査を行っていて『座間の地名』というものをまとめていますが,こちらはそのような理由から,1960年代の「土地宝典」ではなく,1927年頃のものを資料としています。座間市にとっては,ちょうどその頃に小田急が開通していて,その時の姿が残っているという理由もあるようです。

で,これでようやく確認できた「字相模原」の位置。
この字は,淵野辺・大沼・当麻(たいま)・下九沢の各大字にあり,元は 上溝 にもありました。
このうち,大沼 は1941年に 淵野辺 から分立したので,両大字の「字相模原」は元は1つのものだったのでしょう。当麻 というのは相模川沿いに本体のある集落ですが,江戸時代の後期に相模野(相模原台地中央部)の草刈り場が周辺各村に分割され,当時の当麻村も台地の真ん中に飛地を持つようになりました(同じく隣の座間市域でも,相模川沿いの 座間(宿)・座間入谷・新田宿(しんでんじゅく)・四ッ谷 の各村が 目久尻川 のヤト東側の台地上(相模野の一部で「座間野」と呼ばれる)に飛地を持っていました。現在の大和市との境界沿いに 新田宿 や 四ッ谷 の飛地,というように )。大字当麻の「字相模原」とは,この飛地のこと。大字淵野辺・大沼(旧淵野辺村→大野村)の「字相模原」に隣接した地区で,つまりこれらは全体でひとつながりの区域となっています。おおよそ,横浜線の淵野辺〜古淵間の南側から相模ゴルフクラブまでの間の区域。

もう1つの「字相模原」は,大字下九沢のそれ。かつて,現在のJR相模線が私鉄の 相模鉄道 であった頃,現在の上溝(当時は本上溝)と南橋本(当時は大河原,のち相模町)の間に「作ノ口」という駅がありました。この旧駅のあたりの相模線以東の区域(現在の横山台1丁目あたり)が「字相模原」でありました。
さらに「大字上溝」。ここは,1875(明治8)年に字の整理統合があって(←郡区町村編制法以前ですね),その後,上溝村→溝村→上溝町→相模原町 となる間に,字名は 甲一号〜七号,乙一号〜六号,丙一号〜六号,戌(←“戊”の誤植か?)一号〜四号 というものになりました。“甲”と“乙”が「横山」の段丘崖下,八王子・大山街道沿いの旧集落,“丁”と“戌”が横山上(台地上段)の「軍都計画」区域に当たります。このうちの「戌四号」の元の字名が「相模原」。現在の市役所周辺,つまり現相模原市のCBD(中枢業務地区)の旧名であったわけです。ただし,市役所そのものが位置する場所(中央2丁目)や現在の 相模原2〜6丁目は 大字清兵衛新田,JR相模原駅と 相模原1丁目 は 大字小山 に所属していました。

…何を隠そう,我が家こそが「大字淵野辺 字相模原」に属していたのですね。

[67591] 2008 年 12 月 14 日 (日) 11:02:02【1】 おがちゃん[日本人] さん
 漏れ?

おはようございます。日本人です。

先ほど、過去ログで、みやこ♂さんについて一個指摘漏れを見つけてしまいました。[25912]が、「♂」のついていない「みやこ」さんになっていました。因みに、[45082]で、倉田昆布さんも指摘しています。もしかしたら、記念にととっておいたのかも知れませんが、[33356]にて、YSKさん(両毛人さん)の指摘の「新旧自分色が並んでいる」というのを、グリグリさんが訂正したところを見ると、ただの漏れですよね。とにかく、訂正したほうがいいと思います。

[67579] とんかち☆ さん
女性(女の子も含む)で「鉄」分たっぷりの方っているんですかね・・・。
まぁ、中にはいらっしゃるとは思いますが。
そういえば、「鉄子」と呼ばれるお方もいらっしゃいますね。
そのような人物は、小学校というかなり狭い世界でも数人います。因みに、僕の学年には1人だけ鉄分がある子がいますが、その子は新幹線が大好きです。たまに僕に新幹線についての問題を出してくるのですが、鉄分がそれほどない僕は、あまり答えられません。(恥?)

[67576] geo さん
大学合格おめでとうございます。
そうですね。しかしそれは首都圏在住のスキーヤー・ボーダーの話かと思いますが,どうでしょうかねぇ・・・。
あっ。いけない。[66522] 鳴子こけし さんの、
アニメなどは東京地方中心ということが分かります。
と、していることが大して変わりませんね。すみませんでした。
広島圏・福岡圏は広島県芸北エリアなどが主な人気スノーエリアでしょうか。
多分そうだと思います。距離的にも、雪の量的にも。
ちなみに我が家では群馬県みなかみエリアの某スキー場をひいきにしております(笑)。
今シーズンこそは湖北エリアのスキー場で滑りたいなぁ〜。
ちなみに我が家では僕が生まれてから11年間一度もスキーをしたことがありません。(涙)。
今シーズンこそはどこでもいいからスキーをしたいなぁ〜。(パクリ?)

[67573] 敷守ほむら さん
北海道標津町には「メロディーロード始まり」と「メロディーロード終わり」という標識があるそうです。魚沼にもこの珍しい標識はあるのでしょうか。

最後に、とんかち☆さん、メンバー登録おめでとうございます。これからもよろしくお願いします。

ではでは。

[67590] 2008 年 12 月 14 日 (日) 09:33:11 オーナー グリグリ
 メンバー登録更新

お久しぶりです。メンバー登録を行いました。
登録日ニックネーム登録内容
08.12.14とんかち☆ さん新規登録
とんかち☆さん、登録作業が遅くなったことをお詫びいたします。今後ともよろしくお願いいたします。

ニュースにも書いてありますように、第五回落書き帳公式オフ会の記録ページがオープンしています。まだ、工事中の部分もありますがご覧いただければと思います。

[67589] 2008 年 12 月 14 日 (日) 06:29:32【2】 YT さん
 明治初期の鹿児島の人口

[67581] むっくんさん
詳しい解説ありがとうございます。特に明治初期の行政区分については、私の知らないことが多かったので大変参考になります。
ただ、西南戦争の人口に対する影響は、それほど多くなかったと思います。

まず明治初期の鹿児島郡の本籍人口をまとめますと、以下のようにほとんど人口に変動が認められません。

年号本籍人口史料備考
明治4年以前89,272薩隅日地理纂考鹿児島郷(85,435)と吉田郷(3,837)の合計
明治8年以前89,374共武政表
明治11年1月1日96,382鹿児島県治一覧概表
明治12年1月1日91,747日本全国郡区分人口表
明治13年1月1日92,845日本全国人口表
明治14年1月1日93,242日本全国人口表
明治15年1月1日94,041日本全国戸口表
明治16年1月1日91,750日本全国戸口表
明治17年1月1日97,631日本全国戸口表
明治18年1月1日93,276日本全国戸口表
明治19年1月1日94,778日本全国民籍戸口表

また鹿児島藩の場合は、士族、卒族の大盤振る舞いが行われたため、純粋な帰農の率は少ないと思われます。嘉永5年(1852年)の鹿児島藩の本土の身分別人口は以下の通りですが、広い意味での武士階級は、士人躰から足軽・下人まで約24万人いることになります。

身分薩摩国大隈国日向国三国合計
士人躰4,4874,487
人躰外士4,9724,972
士妻子8,7128,712
郷士人躰10,9507,6874,19722,834
人躰外郷士19,1529,6364,88933,677
郷士妻娘27,14713,9137,34048,400
郷士不明(合計不一致)400400
家来人躰4,4273,4222,43710,286
家来人躰外7,9314,1892,71814,838
家来妻娘11,5316,3854,57222,488
飯隈山2222
人躰外飯隈山3030
飯隈山妻娘5252
福昌寺役人・同妻子1818
妙音寺地神盲僧・同家内33
諸士家来・郷士家来・家中・足軽・諸座附・寺社門前53,63911,2378,75873,634
寺社家・出家7602861281,174
苗代川1,1511,151
三町・野町 (町民)7,7373,4933,24314,473
在郷 (農民)190,55982,70633,989307,254
浦浜 (漁村民)36,86811,1651,36049,393
笠野原838838
半浦194194
塩屋531531
赦免居付・公義流人・遠島者33133166
不明 (合計不一致)22
総数390,477155,81773,735620,029
穢多・慶賀3,0541,2949925,340

上の表の他、奄美諸島に1,566人、江戸に594人、京都に37人、伏見に8人、大坂に86人、長崎に13人の藩士・妻子・座付士・下人・郷士格等がいます。

これが明治3年頃の鹿児島藩では、総人口896,817人中、華族9人、士族244,700人、卒族95,569人、神職3,408人、平民547,191人、穢多5,940人という身分別構成となります。つまり郷士や家来・使用人といった半士半農クラスですら鹿児島藩では士族に格上げされ、更に卒族も大盤振る舞いされています。

ところで鹿児島県治一覧概表に記載されている行政区分は第二回共武政表記載の人口の一年前に相当する明治11年1月1日調です。確かに鹿児島(郷)の中には鹿児島(町)に相当する区分はなく、六日町以下塩屋町までが実質鹿児島の細かい区分に見えます(今町の記載はありません。また鹿児島郷内の鹿児島という記載もありません)。

そこで鹿児島郡を構成する町村を本籍人口を中心に表にまとめてみました。

地名明治6年1月1日明治11年1月1日明治12年1月1日明治13年1月1日明治14年1月1日明治17年1月1日明治19年12月31日
日本地誌提要鹿児島県治一覧概表第二回共武政表第三回共武政表第四回共武政表都府名邑戸口表市街各邑及町村二百戸以上戸口表
鹿児島×32,06720,17120,67049,36048,778
六日町287
中町889
金生町707
築町120
今町×340
泉町/和和泉町556
潮見町930
生産町647
易居町804
呉服町770
大黒町269
船津町2,128
薪町/新町1,998
住吉町1,147
堀江町1,027
車町401
泉和屋町617
恵比寿町417
栄町439
柳町717
浜町611
小川町803
向江町1,641
東之町357
中之町413
西之町611
塩屋町/塩屋村1,624
六日町〜塩屋町合計21,270
荒田村1,771
中村2,266
郡元村1,788
宇宿村1,603
西田村2,085
武村1,056
田上村2,348
西別府村902
上伊敷村1,989
下伊敷村2,391
小野村1,782
永吉村1,244
犬迫村2,942
小山田村2,808
比志島村1,150
吉野村5,552
坂元村27,2401,519
川上村1,422
岡之原村974
本名村1,460
東佐多村<200
西沙汰村<200
本城村<200
宮ノ浦村<200
野町<200

×は記載なし、○は記載ありです。

第3回共武政表(20,171人)と第4回共武政表(20,670人)の「鹿児島」の人口はほぼ第2回共武政表の六日町〜塩屋町の合計(21,270人)と一致します。一方で第2回共武政表の「鹿児島」の人口32,067人の意味が不明です。これらの人口を明治17年以降の「鹿児島」の人口と比較すると、後者は第2回共武政表の「鹿児島」の人口と六日町〜塩屋町の合計を足した約5万人に近いようにみえます。明治19年の市街各邑及町村二百戸以上戸口表には鹿児島以外の人口の少ない町村の人口が記載されていますが、それらを合計しても39,052人にしかなりませんし、本名村を除く吉田郷の他の村の人口の総計はせいぜい1,000人程度です。

本籍人口に大きな変動がないと仮定すると、明治12年1月1日の段階での鹿児島郡の総人口91,747人から、鹿児島以外の村の人口約4万人を引いた約5万人が明治17年以降の統計で鹿児島として扱われている地域の人口ということになります。そして明治11,12年頃の段階では六日町〜塩屋町までの人口約2万人とは別に約3万人が暮らす「鹿児島」という区分が本来ならあったものの、鹿児島県治一覧概表などは肝心の鹿児島郡鹿児島(郷)内の「鹿児島」という区分の記載を怠り、さらに第3回、第4回共武政表の数字も肝心の鹿児島中心分の人口を合算し忘れた数字ではないかと、現在のところこういう推論に私は達しております。

一つ良くわからないのは日本地誌提要で約3万人近くの人口がいるとされている鹿児島坂元村ですが、おそらく明治19年の段階で1,519人しか住んでいない坂元村とは別に鹿児島中心部を内包する「鹿児島坂本村」があり、両者を併せて「坂元村吉」(薩隅日地理纂考での表記)と称していたのではないかと想像しております。区分上、または名称上の混乱があり、鹿児島県治一覧概表以降しばらく鹿児島中心部の約3万人の統計が欠落したのではないでしょうか。

どなたか鹿児島について詳しい方のご意見をお願いいたします。

#追記

明治22年の鹿児島市と比較すると、鹿児島県治一覧概表に登場する東之町、中之町、西之町に相当する町名がありませんが、鹿児島県治一覧概表には山下町, 平之馬場町, 新照院通町, 山之口馬場町, 加治屋町, 東千石馬場町, 西千石馬場町, 新屋敷通町, 樋之口通町, 上龍尾村, 下龍尾村, 長田町, 冷水通町, 春日小路町, 清水馬場町, 稲荷馬場町, 池之上町, 鼓川町, 松原通町, 薬師馬場町, 鷹師馬場町, 西田町, 下荒田町, 上之園通町, 高麗町に相当する町が記載されてません。また西田村, 荒田村を別途併合したことになるようです。

[67588] 2008 年 12 月 14 日 (日) 04:00:43 N-H さん
 Re:都会の真ん中にスイッチバック・・・

[67582]小松原ラガー さん
当該列車にとって見れば立派なスイッチバック(タイプ2)では、というものが先月都会の真ん中で出現(正確には復活)しました。
そういう例でよいのでしたら、東京では毎日おびただしい列車が京浜急行の蒲田駅で方向転換しています(横浜方面〜羽田空港直通の列車)。
ただ、阪急の梅田が行き止まりの駅であるのに対し、京急蒲田駅は駅の構造自体は行き止まりではないので、ちょっと違うかな。
あと、梅田と似たようなものでは、同じく蒲田がらみですが東急の蒲田駅で目黒線⇔池上線を渡り歩く列車が少し前には時刻表上ではあったような。こっちは駅の構造上も行き止まりですね。

ただ、私としては、上記の例はいずれもスイッチバックとは認めたくないなあ。

[67587] 2008 年 12 月 14 日 (日) 02:41:48 ひろち さん
 遅れました

67558] 今川焼さん
篠山市についての私の無知な意見について詳しく説明していただき
ありがたく思います。
合併反対派の私にとっては、「アメ」を出すのではなく「ムチ」を出した
(出し続けている)というのが問題だと思います。「ムチ」を出しさえしなければ
合併せずに済んだ市町村も多々あるはずです。
全国町村会などの発表では、合併はメリット以上にデメリットの部分が
未だに出続けているというものでした。
決して成功した例は多くないと思います。


この現在の広域自治体志向がこれから先何十年続くかはわかりませんが、
私の個人的な希望としましては将来平成の大合併で消滅した自治体が
分離復権することです。それが何十年先になるかはわかりませんが・・。

[67586] 2008 年 12 月 14 日 (日) 01:24:19【1】 いっちゃん さん
 ブラタモリ

先ほどまでNHKでやっていたブラタモリ。放送が延期になった(予定ではオフ会前夜=日付としてはオフ会当日)おかげで、就寝時間を気にせずに見ることができました。内容は古地図片手に明治神宮・原宿・表参道界隈をぶらぶら歩くものなのですが、なかなか面白かったです。

トライアルとのことですが、是非ともレギュラー化して欲しいものです。

[67585] 2008 年 12 月 14 日 (日) 00:52:50 今川焼 さん
 「丹波篠山」

昨日の神戸新聞によると
「丹波篠山」へ名称変更訴え 高速道ICやJR駅名
合併から間もなく十年を迎える篠山市では、周辺に「丹波」の名称が入った自治体の誕生を受け、市商工会などが「丹波篠山」への改称を求めて署名活動を展開。
とのことです。
篠山口駅を「丹波篠山駅」に、舞鶴若狭道の丹南篠山口インターチェンジを「丹波篠山インターチェンジ」への改称をめざしているものです。
地域おこしをねらった駅名改称の方は、各地に前例もたくさんあることですし、費用さえ出せば何とかなると思われます。(その費用が何とかなりそうにないのは[67558]で書いたとおりですが)
問題は、インター名の方です。平成の大合併で全国各地にインター名と自治体名のズレが生じた例はたくさんあるわけですが、リンク先にもあるように先例は、阪和道の有田・有田南(旧称吉備・吉備南)のケースだけです。
ただ、このケースは和歌山県管理の海南湯浅道路から西日本高速道路会社の阪和道への移管の“ついで”というタイミングのよさもあったと思われますし、同じ西日本高速道路会社の山陽道の吉備スマートインターチェンジとの同名回避という側面もあったかもしれません。
高速道路会社としても、ここで無原則に改称に応じると今後全国で改称要望が続出し、収拾がつかなくなる可能性もあるわけで、ここは慎重になるでしょうね。

[67584] 2008 年 12 月 13 日 (土) 22:48:51 YASU さん
 雪あそび、鉄ネタほか

[67537] inakanomozart さん
[67567] 葵区 さん
[67569] 淡水魚 さん
冬の客寄せとして、ショッピングセンターの駐車場やら公園やらに雪山を築くのは、静岡ならなのでしょうか。ただ気温が高いため、溶けてドロドロになるのは致し方ないですね。

[67569] 淡水魚 さん
首都圏の貨物線に乗るツアー
瞬時に満席になってしまったようなので、HP掲載はなかったのでしょうか。友人も挑戦したようですが、あえなく撃沈のようでした。
旧国鉄時代(1985年)にもこのような列車が運転されており、少なからぬ需要はある(笑)と思われるのに今まで運転されなかったのが不思議です。
その時の列車は、今はなき汐留駅始発でした。

[67574] EMM さん
姨捨駅は北に桑ノ原信号場(現役)、南に羽尾信号場(休止?廃止?)があり
今年7月5日に「スイッチバック街道惜別羽尾号」という列車が運転されました。
その翌日、羽尾信号場は廃止されたようです。現在では線路は残っていますが、架線は撤去されてしまいました。

[67577] スナフキん さん
余命いくばくもないともっぱら噂のたつ国電車両
まだ4色見ていないので、また出かけることとなりそうです。
明日最終日の0系新幹線もそうですが、いつでもあると思っていると、いつの間にかなくなっているんですね。
ちょっと横道にそれますが、喫煙家に言わせると昨日あった喫煙コーナーが突然撤去されてるとか(これは違うか)

[67579] とんかち☆ さん
女性(女の子も含む)で「鉄」分たっぷりの方っているんですかね・・・。
私の周りが特殊だと思いますが、友人知人の中に両手で数えられる位はいます。
また鉄道会社のイベントに行くと、旦那(または彼氏)、子どものお伴ではないと思われる女性が少なからずいます。

[67583] 2008 年 12 月 13 日 (土) 12:44:03 山野[揖斐の山] さん
 交換/静岡2件

一時、ここで話題になった事があったと思いますが、利根川の影響で分断された太田市と深谷市の一部地区を
互いに交換する形で両市にそれぞれ編入する案を太田市側の総務企画委員会が報告した。
今後は、6月に市議会、9月に県議会が議決し、12月に総務省宛に報告。再来年3月に官報告示となって境界変更となる予定。
(合併・1件目)
芝川町の申し入れにより富士宮市は昨日、芝川町と合併を表明し、2月頃にも合併協議会を設置されるとの事。参照記事
(合併・2件目)
一方、合併協設置案を3度否決し住民投票により議会放置で合併協を設置した松崎町ですが
相変わらず反対派が多いようで「合併関連調査費」を補正予算から削除したとの事。(またも破談する可能性あり)

[67582] 2008 年 12 月 13 日 (土) 10:08:39 小松原ラガー さん
 都会の真ん中にスイッチバック・・・

小松原ラガーです。

スイッチバックですが、「反則技!」というご意見もあるかもしれませんが、当該列車にとって見れば立派なスイッチバック(タイプ2)では、というものが先月都会の真ん中で出現(正確には復活)しました。

まずはこの記事を。なんと西日本最大規模のターミナルである阪急梅田駅で「よっこらせっ!」と折り返してスイッチバックとなっています。尚、こちらによると正確には梅田駅では宝塚線のホームを使っての折り返しの模様ですが・・・。ただ、面白いのは、確かに臨時列車なのですが、社内の停車駅案内図までがこの臨時列車専用になっていることです。お見事。

ということですが、やはり反則技でしょうか?

[67581] 2008 年 12 月 13 日 (土) 06:20:01【3】 むっくん さん
 鹿児島の人口を考える
白桃 日はまた昇ってほしい

[67560]YTさん
鹿児島に関して何通りもの統計が存在する背景については、どなたか明治初期の鹿児島について詳しい方に解説して欲しいところです。
鹿児島についてはあまり詳しくはないのですが、推測してみました。

まず、江戸時代に話は遡ります。
通常の藩、例えば尾張徳川家62万石では、おそらく侍は城下町である名古屋及び江戸に在住しています。そして町人は城下町に居住しました。これがごく一般的な姿であろうと考えられます。
そして統治の方法ですが、藩の都合上、数村や数町単位で藩が統治していることはあっても、各町村の内部ではそれぞれの町村が独自に自治を行っていました。これら江戸時代に作られた各々の町村が現在の市町村に直接つながります。村のなかに通称で町とよばれたところも全国的に多数ありましたが、山城国葛野郡大将軍村の中にあった下横町(明治元年7月に大将軍村より分立)のように独立した町とならない限りは、基本的には通称どまりで自治体としての町村とはなりませんでした。

ただ薩摩大隅全域と日向の一部を治めた島津家77万石ではこれとは若干異なりました。
何が異なるのかというと、島津家統治地域には郷というものがありました(正確には従来からの郷が存続していましたの方が正しいのかもしれません)。
郡と各町村の間に郷を置き、基本的には数村をまとめた郷単位で統治されました。そして各郷に藩士が分散居住しており、有事の際には、各々の郷が鹿児島の本城を守る外城となっていました。

上記のように郷というものがあったため、鹿児島という言葉は2つの意味を持つようになりました。一つは城下町としての鹿児島、もう一つは鹿児島郷(注)で、鹿児島というと一般的には後者をさすことがほとんどであったようです。
(注):郷の名称において通常は○△郷というのですが、鹿児島郷だけは鹿児島郷とは言わずに鹿児島と言うのが正式であるようです。ただ便宜上、本稿では「鹿児島郷」という言葉を用います。

鹿児島郷の範囲としては、鹿児島城下及び鹿児島郡荒田村・郡元村・中村・田上村・武村・西田村・原良村(明治4年永吉村へ編入)・草牟田村(明治4年下伊敷村へ編入)・小野村・下伊敷村・永吉村・坂元村・犬迫村・上伊敷村・花棚村・皆房村(明治4年比志島村へ編入)・塚之原村(後に岡之原村と改称)・下田村・吉野村・川上村・花野村(明治4年岡之原村へ編入)・西別府村・塩屋村・日置郡比志島村・日置郡小山田村の25か村でした。
鹿児島郷で城下以外の近隣の村に住んだ武士について、「角川地名大辞典46鹿児島県」(著:角川日本地名大辞典編纂委員会、出版:角川書店、1983)では、
文政年間の武家屋敷1,831か所の分布状況は、上方限に571か所、うち2か所は佐土原屋敷・琉球館、下方限に865か所、岩崎・東福寺城・城内に55か所、新上橋・西田・高麗町・荒田・武・中村・草牟田・吉野・上伊敷・下伊敷・大迫・坂元に340か所で、約2割は近在に進出
と記載されています。「約2割は近在に進出」と書かれているように在郷の武士の数は少なくないようです。
#文政年間・・・1818-1829年

その後、明治4年には谿山郡谷山郷の宇宿村が鹿児島郡鹿児島郷へと所属郡&所属郷を変更しています。同時期には日置郡の比志島村と小山田村も鹿児島郡に所属郡の変更が行われていたと考えられます。


さてここからが考察です。
(1)薩隅日地理篇考(明治4年1月15日以前)85,435人
ここでの鹿児島とは薩隅日地理篇考に書かれています。その記載によりますと、鹿児島とは上述した江戸時代からの鹿児島郷の村々及び城下町に、明治4年に新たに鹿児島郷に加わった宇宿村を併せた、20村及び城下町の範囲であることが分かります。
#明治22年4月1日の市制町村制施行時にはこれら20村及び城下町は鹿児島市伊敷村吉野村西武田村中郡宇村となりました。

(2)日本地誌提要第7冊(PDF)(明治6年正月調)27,240人
日本地誌提要第7冊(PDF)123-124コマによりますと、鹿児島坂元村27,240人とあります。坂元村というのは城下町東側の通称・上町と呼ばれた地域の北側にあります。おそらく少なくても上町は坂元村が町場化したのであろうと推察します。そのため坂元村と記載されているのであろうと。
さて、ここの鹿児島とは、おそらく純粋な鹿児島の城下町のみで、近隣の村は含まれて居ないと推察します。
ただ、城下町部分には嘉永5(1852)年には少なくても、諸士家来並足軽・諸座附・寺社門前の39,922人、士妻子の8,712人、三町の4,040人、合計52,674人は住んでいました。
いくら廃藩置県で知行が削減されていく時期とは言え、人口が半減するとは相当に考えにくいですが。

(3)第一回共武政表(明治8年以前)89,374人
第一回共武政表の鹿児島と、鹿児島郡の人口と一致します。既に[67560]でYTさん御自身が推察されていますが、江戸時代からの鹿児島郷の村々及び城下町に、明治4年に新たに鹿児島郷に加わった宇宿村に加えて、さらに鹿児島郡の残りの部分である吉田郷の村々の部分も付け加わった範囲と考えられます。
#明治22年4月1日の市制町村制施行時にはこれら村々及び城下町は鹿児島市伊敷村吉野村西武田村中郡宇村吉田村となりました。

郡区町村編成法が実施される以前の、少なくとも(1)〜(3)の時期は、他の府県のように城下町を構成する町村を以て都市の範囲を決定したのではなく、従前の郷を以て都市の範囲を決定したものと考えられます。
#この時期の鹿児島県以外の府県での都市とは、[67556]拙稿で挙げた彦根のように、自治体と一致するものではありません(都市・彦根には98の自治体がありました)。

(4)第二回共武政表(明治12年1月1日調)32,067人
第一回共武政表の時期からこの時期にかけて、おそらく鹿児島の城下町に住んでいた下級藩士を主とした武士の数が帰農したことで鹿児島の都市人口が激減したことが推測されます。そして西南戦争により、城下町のかなりの部分が消失したために鹿児島の人口減少に拍車をかけたのではないか、ということが推測されます。
これら2つの理由より、城下町のみの人口が嘉永5(1852)年の少なくても52,674人から大幅に減少したことは推測がつくものと考えられます。
しかし第二回共武政表で書かれている鹿児島が[67560]YTさんで示された情報のみからではどの範囲なのかは私にはよく分かりません。
ただ一つ言える事は、別途記載されている六日町から塩屋町は、いずれも鹿児島城下町としての各町の名称です。ということは、鹿児島と別途数えるというのは不適当であると言えるのではないでしょうか。これらの町は鹿児島城下町の内の主要な町を別途例示しただけ、と私は推測します。

(5)第三回共武政表(明治13年1月1日調)20,171人
第三回共武政表の20,171人というのはおそらく鹿児島の城下町各町のみとして鹿児島を取り扱っていると私は推測します。その理由としては郡区町村編制法がおそらく明治12年(ただし第二回共武政表の日付である明治12年1月1日ではない)に鹿児島県に施行されたからです。
郡区町村編制法においては、それ以前と異なり、全国で例外なく均一に町村を取り扱っています。鹿児島県でも法律の基準にのっとり、他の地域と同様の基準を採用したものと考えられます。この時、鹿児島では郷という独自の基準の変更を余儀なくされたために、第二回共武政表より約1万人も人口が減少したのであると私は考えます。

(6)第四回共武政表(明治14年1月1日調)20,670人と都府名邑戸口表(明治17年1月1日調)49,360人
この二書を比較すると明治14年から明治17年にかけて人口が倍増以上しています。そこで理由を考えてみました。

理由の一つ目としては、江戸時代以降盛んに行われてきた海の埋め立てによって城下町が拡がり住める場所が拡がったということが考えられます。ただ、薩摩藩が廃止されてさらにその後西南戦争もあり完全に荒廃していた都市で新たに埋め立てがなされることは考えにくいです。

二つ目としては、薩摩藩が廃止され、さらにその後西南戦争もあり完全に荒廃していた鹿児島の城下町部分にようやく活気が戻ったからということが考えられます。
城下町部分には嘉永5(1852)年には少なくても52,674人は住んでいました。それが一端人口が減少し、明治14年1月1日では20,670人だった人口が、明治17年1月1日に49,360人住むようになったとしても、別段不思議ではない気がします。

三つ目としては城下町が拡がり、町場化した近隣の村々の一部を編入したということが考えられます。これはあったのかもしれませんが、やはり鹿児島の城下町部分に活気が戻ったという二つ目の理由が主であるのではないでしょうか。

(7)明治17年から明治21年にかけて
明治17年1月1日の都府名邑戸口表(49,360人)ですが、明治17年1月1日の現住人口(47,583人)と比較しても2000人程度多いだけで、明治21年末の現住人口(45,092人)と比較しても4000人程度多いだけで、この間はあまり人口に変化がなかったと考えられます。

(8)市制町村制施行前後の状況(明治21年末の現住人口と明治22年末の現住人口)
明治21年末は鹿児島は45,092人となっていたのが、明治22年末では鹿児島市は57,750人となっています。
これは明治22年4月1日に鹿児島市が成立したとき、城下町である47町に加え、近隣の3村も加わっています。おそらくこの約1万人の増加とは、3村の人口そのものではないかと推測されます。

以上長々と書いてきましたが、(1)〜(6)で挙げた本に書かれている人口というのは良く考えれば本籍人口なのですよね。現在であれば本籍の移動というのは容易ですが、この当時はそれほど簡単には出来なかったのではないか、とも考えてしまいます。
ただ、本籍の移動は容易ではなかったが、ある程度の頻度でなされた、という前提でこの文章を書いた、という断りを入れて、本稿の〆とします。

訂正
【1】:誤字訂正
【2】:(4)を大幅修正。(4)の前に一文追記。
【3】:鹿児島郡東別府村の記載を削除(遅くても幕末には所在不明の村とされていたため)。(4)の前にさらに一文追記。

[67580] 2008 年 12 月 13 日 (土) 01:34:16 敷守ほむら さん
 モンテディオ山形、改名を検討?

こんばんは。

この話題についての書き込みがどなたからもまだみたいなので…
スポニチ - モンテディオ改名?候補は「月山山形」
J1昇格を決めたモンテディオの2010年からの改名が検討されているようです。
1996年にチーム名を決める際に約1500票の県民投票で決まった経緯があり、そのため、新たなチーム名を模索してきた、とあるのですが、今までモンテディオという名称に対して10数年慣れ親しんだサポーターの方々の意見を聞かずに上層部だけで提案しているような記事にみえますね…。

なんか、この記事を見ていたら、平成の市町村合併で新しい市町村名にした後に10数年経ってから、あの時は少数の市町村民だけの意見だけで決まったからとお偉いさん方で市町村名の変更を検討し始めた、というシチュエーションが思い浮かんできました。

[67579] 2008 年 12 月 12 日 (金) 23:37:26 とんかち☆ さん
 ちょっと短めに

時間がないので、短めで更新します。
すいません!!

私もスイッチバックと言うと、箱根登山鉄道を思い出します。
子供のころ、家族で乗った時にスイッチバックを行う部分で運転手と車掌が交替する場面を見て不思議に思ったものです・・・。
しかも、子供心に「なんでバックしてるんだろう?」と思っておりました。
実際はジグザグに走りながら登っているんですけど。

今もそうですが、昔も「鉄」分は何もないので(笑)
女性(女の子も含む)で「鉄」分たっぷりの方っているんですかね・・・。
まぁ、中にはいらっしゃるとは思いますが。
そういえば、「鉄子」と呼ばれるお方もいらっしゃいますね。

それでは、よい週末を!!

[67578] 2008 年 12 月 12 日 (金) 23:20:52【1】 hmt さん
 まだスイッチバック

急にスイッチバックの話題が盛り上がったので、尻馬に乗って。

きっかけになった石北線では該当するものはありませんが、やはり正統的なスイッチバックと言えば、[67572] N-H さんが説明された第1のタイプ、すなわちジグザグ運転で斜面を昇り降りするものでしょう。

自動車の場合は、鉄道よりも急な坂を登ることができ、急カーブも曲がれるので、ヘアピンカーブで斜面を克服することはあっても、道路上でスイッチバック運転を必要とする場合は稀なようです。
米沢市の 姥湯温泉の紹介文には、
途中の道路はスイッチバックでの上り下りが必要なめずらしい道路です。
とありました。

大平台のあたりで3回のスイッチバックをする 箱根登山鉄道。この落書き帳の中で登場したのは、意外にも今回のN-H さんの記事が初めてだったようです。

普通の鉄道ではありませんが、立山砂防工事専用軌道。落書き帳の過去記事 [3277][18054] 深海魚さん他 にも登場するのですが、なぜかスイッチバックには言及されていません。
高低差約200mを一気に登る 樺平の連続 18段 を含め、戦後に整備された部分を含めて全部で 38段(文化庁の資料では42段)のスイッチバックとか。

昭和初期に開通してから 80年近くも維持・使用されているこの施設。その歴史的価値が評価され、2005年の文化財保護法改正により導入された「登録記念物」遺跡関係として、2006/7/28全国で初めて登録されました。

[61395] むっくん さんで言及されている2007年9月の 「立山・黒部」世界遺産暫定一覧表記載資産候補への提案書 からpdf資料を開くと、9/28や17/28にこの立山砂防軌道に関係する記載があります。

100年前の小型蒸気機関車が、数箇所のスイッチバックやループ線を使いながら、道路沿いにヒマラヤを登る ダージリン・ヒマラヤ鉄道 のような世界遺産になれるのか?

その前に、まず国内での審査を通って、暫定一覧表記載資産(現在8件) の仲間入りをする必要がありますが。

[67571] 木次線ですね。間に合えば誤記訂正をお願いします。>ペーロケ さん

[67577] 2008 年 12 月 12 日 (金) 22:37:23 スナフキん さん
 私も明日は、スウィッチバック

にわかにこの話題で盛り上がってきました。過去に常紋信号所の記事を書いた本人としても、ちょっと顔出し(汗)を…。

と言うのも、タイムリーなことに明日、そのスウィッチバックを経験することになっているからです。首都圏を代表する、「2」の典型例の箇所ですね。えぇ、もう特急券を確保しちゃってますからキャンセルすることはまずないでしょう。

まぁ、ここは地形的に登坂に絡むような立地ではないので、勾配起源の純粋(?)なスウィッチバックでは全然ありませんが、この駅を境に山に分け入って坂が多くなり、線路も単線になって列車回数が激減することから、「登坂を予感させる駅」ではありますね。まぁ、これ以上この話題には誰も飯能市内かな?(大汗)

関東きっての山岳路線を走るために用意された、重装備の車ももうご高齢です。すでに「スマイルトレイン」(私はたまご電車とか呼んじゃってますが)なる新型車両が、この従来車をほぼ駆逐すべく数をじわじわ増やし始めています。いつかは、たまご電車が盆地底まで走り抜ける日がやってくるんでしょうか…ちょっと味気ない気も。丸っこい電車といかつい石灰岩の山との取り合わせは、どうなんでしょうね?

で、その後は余命いくばくもないともっぱら噂のたつ国電車両を、どんちゃん騒ぎにならない今のうちにちょっと乗っておこうと思います。もう1ヶ所、厳密にはスウィッチバックを経験できるポイントがありますが…ここも、後からできちゃったスウィッチバックで登坂と直接の因果は、ないなぁ(汗)。

※あえて、固有地名はほとんど出さずに書いてみました。大半のメンバーには、これでも私の行く先はほぼ分かられてしまうんだろうな…。

[67576] 2008 年 12 月 12 日 (金) 21:53:18 geo さん
 進路決定&スキー場の人気

 こんばんは。やっと期末テストが終了したgeoです。
 まず,私事で恐縮でありますが,先日受験した某大学一般推薦入試の合否通知が届き,無事(というよりまさかの)合格となりました。これでまずは一安心です。

 さて,マイペースにレスを・・・。
[67544] 日本人 さん
ただ、人気でいえば苗場ほか新潟の主要スキー場のほうが多いのでしょう。
 そうですね。しかしそれは首都圏在住のスキーヤー・ボーダーの話かと思いますが,どうでしょうかねぇ・・・。
 個人的な主観で書きますと,首都圏のスキーヤーが向かうエリアは,交通網の整備などによって上信越道沿線エリア,長野県白馬エリア,栃木県那須エリアなどとかなり分散されたものの,やはり不動の人気エリアは関越道沿線。その中でも「苗場」「上越国際」などの新潟県塩沢・湯沢エリア,そして「谷川岳天神平」「たんばら」「尾瀬〜」などの群馬県みなかみエリアが特に人気でしょうか。
 これが中京圏になると,岐阜県の奥美濃エリアや長野県白馬エリアなど。京阪神圏だと滋賀県エリア,兵庫県ハチ高原エリアなど。広島圏・福岡圏は広島県芸北エリアなどが主な人気スノーエリアでしょうか。
 ご存知かと思われますが,日本最南端のスキー場は宮崎県五ヶ瀬町の「五ヶ瀬ハイランドスキー場」となっています。スキー場の標高がかなり高いために南国九州ながら,天然雪で滑走できるスキー場です。

 ちなみに我が家では群馬県みなかみエリアの某スキー場をひいきにしております(笑)。
 今シーズンこそは湖北エリアのスキー場で滑りたいなぁ〜。

[67575] 2008 年 12 月 12 日 (金) 19:52:40【3】 Issie さん
 オバステ正宗

[67572] N-H さん
スイッチバック

ちょうど 「P誌」 の最新号(2009年1月号)の特集が「勾配に挑む鉄道」で,このあたりの話題がテンコ盛りだったりします。

[67574] EMM さん
元々1だったが後に3のような感じになった、と言うところもあるのではないでしょうか。
篠ノ井線姨捨駅は何となくそんな感じがします。

姨捨駅の線路の配線を見ると,通過するルートが直線になっていて,駅のホームに入るルートも,その反対側の引き上げ線に入るルートのいずれもが,ポイントの分岐側(曲線になっている方)にあります。
“デフォルト”は通過する側(何もしなければ通過するようにルートが設定されている)で,駅に入る列車に対してはポイントを操作してルートを構成する,というのが,国鉄のスイッチバック駅の標準的な設計になっていました。
肥薩線(元の鹿児島本線)の 大畑(おこば)駅 のように,このタイプであるにもかかわらず,通過するルートがない配線になっている,というのはイレギュラーなのですね(もしかしたら,後から通過ルートを剥がしてしまったのか)。
N-H さん のおっしゃる 1 と 3 の違いは,前者が勾配の途中で完全に進行方向を逆転してしまうパターンであるのに対して,後者は進行方向の逆転はなく停車列車のために平坦な線路を設けるパターン,であるように思います。1 と 3 は本質的に違うものであって,1→3 という変化は通常起こらないのでは。

特急に乗っていてスイッチバックに入るのを期待していたら

ダイヤを編成する上では通常,特急のスジが優先されますから,特急がスイッチバックに入って相手の通過をやりすごす,というようなダイヤは組まないものと思われます。もちろん,特急同士が交換する場合は別ですが,篠ノ井線ではスイッチバックの 姨捨 や 桑ノ原 で特急同士が交換するようなダイヤは組まれていないと思います。
その代り普通列車ならば,必然的にスイッチバックに入る 姨捨 だけでなく,信号場である 桑ノ原 でスイッチバック入る機会も昼間でも割と多くあるようです。

二本木駅
日本曹達の工場への引き込み線があるのでそれを利用して作った駅

あたりが開けているのでそのような気がしないのですが,新井から妙高高原へ登るこの区間の勾配は意外に厳しくて,そこに交換駅を設けるにはやはりスイッチバックとせざるを得なかったわけで,これは標準的な 3 のパターンの駅です。
化学工場関連の話は順序が逆で,1911年に開業していたこの駅に隣接した敷地に工場が進出したのですね(1920年操業開始)。
恐らくは,この工場関連の貨物扱いがあったために(貨物列車は客車列車以上に坂道に弱いし,貨車の連結・切り離しをするためには構内が平坦でなければならない),関山 と同時にスイッチバック廃止とならなかったものと思われます。けれども,最近その貨物扱いが廃止されてしまったので,この駅も早晩スイッチバックが廃止されてしまうかもしれません。

[67571] ペーロケ さん
常紋信号場

[67564] hmt さん
「常紋」とは北見国常呂郡と紋別郡からの合成地名です。

ここは“蒸気機関車時代”の末期に,撮影ポイントとして有名だったところですね。当時の鉄道雑誌によく写真が掲載されていて,それで知っていたのですが,「常・紋」がそういう意味だとは気づいていませんでした。

[67574] 2008 年 12 月 12 日 (金) 12:57:52【2】 EMM さん
 スイッチバック

[67572] N-Hさん
スイッチバックには3種類あります。
元々1だったが後に3のような感じになった、と言うところもあるのではないでしょうか。
篠ノ井線姨捨駅は何となくそんな感じがします。
現在は通過列車は姨捨駅のスイッチバックをスルーして本線を直行しますが、このあたりはそれなりに勾配がありますから蒸気機関車などはきつかったのではないかと思われます。
でも駅付近の線形を見ると、やっぱり3のグループかも。
(篠ノ井線は鈍行で5回?6回?と特急で1回通過していますが、鈍行に乗っていて特急通過と出くわしたんだったか、特急に乗っていてスイッチバックに入るのを期待していたらスルーパスで拍子抜けしたのだったか記憶があやふやです…)
姨捨駅は北に桑ノ原信号場(現役)、南に羽尾信号場(休止?廃止?)があり、3つのスイッチバックが連続している(いた)ことになりますが、2つの信号場はスイッチバックの駅・信号場としてはかなり歴史が浅いそうで、姨捨駅と同様に通過列車は本線スルーパスなので当初から3のグループであったと見て良いようです。
あと、スイッチバックと言えば信越本線二本木駅旧関山駅(関山駅は本線上に移転しましたが、スイッチバック線は現在でも待避線として使用されているようです)もありますね。
特に二本木駅はそんなに勾配がある感じでは無い場所にあったので、初めて通過したときには「何でこんな処に?」と不思議に思ったものです。
日本曹達の工場への引き込み線があるのでそれを利用して作った駅で2のグループか?…と見ることもできますが、単線で待避線が必要だが集落との位置関係の兼ね合いで本線上には作れなかった3のグループかも?…と言うことなのかもしれません。
旧関山駅は素直に3のグループっぽいです。

#スイッチバックについてあつかったサイトもいろいろあるようですね。
本稿を書くに当ってはこちらのサイトを参考にさせていただきました。

[67573] 2008 年 12 月 12 日 (金) 12:47:15 敷守ほむら さん
 メロディーロード

こんにちは。

新潟日報のWeb版を見ていたら、こんな記事を発見しました。
新潟日報オンライン - 車で走るとあのメロディーが
記事内では「音響道路」という表現をしていますが、これはメロディーロードですね。
メロディーロードというのは、溝が掘られた道路の上を車で一定速度で走ると、振動が音楽になって聴こえる道路区間なのですが、ちょっと記事を読んでいて気になることが。
尾瀬を歌った「夏の思い出」の一部が流れる。
Wikipedia - メロディーロード
2007年3月に既に群馬県沼田市が「夏の思い出」のメロディーロードを設置しているのですが…。
二番煎じ?

[67572] 2008 年 12 月 12 日 (金) 05:01:05 N-H さん
 スイッチバック

[67571] ペーロケ さん
恥ずかしながら私、来次線出雲坂根駅のように、急な坂道を上がるための施設かと思っていましたが、[20166]スナフキんさんによると、行き違い施設のようですね。

スイッチバックには3種類あります。
1つめは、単純に急勾配を限られた距離で稼ぐためにZ型に行ったり来たりして坂を登るタイプのもの。これはいまだかなり現役で、出雲坂根もそうですし、箱根登山鉄道にあるやつもそうです。
このタイプはスイッチバックをスルーして通過することができません。
2つめは、駅の位置や地形等の事情で、単純に行き止まりになっていてそこから方向を変えるだけのもの。遠軽駅や十和田南駅がこれです。これは広義のスイッチバックではありますが、狭義的にはあまりスイッチバックといえるかどうか。
残りの3つめが、ある程度の勾配区間の途中に駅や行き違い施設を作る際、列車の停止、発車が安全にできるようにフラットな区間を作るためのスイッチバック。こちらは今ははたして現役はあるのかどうか。かつての奥羽本線の4連続スイッチバック駅などが有名でした。
このタイプのものは、通過列車はスイッチバックを経由しないのが普通です。常紋信号所はこのタイプです。

[67571] 2008 年 12 月 12 日 (金) 00:13:15 ペーロケ さん
 常紋信号場

[67564]hmtさん
遠軽駅のスイッチバックのことでしょうか。
いえいえ、そこは[7734]でも言及しているとおり新たに発見したわけではありません。今回発見したスイッチバックとは、ここのこと、つまり、
常紋トンネルの南入口・常紋信号場
のことです。残念ながら石北線は乗った事がないので、ここの信号場の存在までは流石に知りませんでした。恥ずかしながら私、来次線出雲坂根駅のように、急な坂道を上がるための施設かと思っていましたが、[20166]スナフキんさんによると、
行き違い施設
のようですね。

このトンネルは(中略)劣悪な労働条件。怖〜い話も伝えられています。
場所が場所だけに、博物館網走監獄の蝋人形を思い出してしまいます。。。

[67570] 2008 年 12 月 11 日 (木) 21:41:09 おがちゃん[日本人] さん
 れす

こんばんは。日本人です。ここ最近は、自分の家や、ご近所さんの家がクリスマスのイルミネーションでピカピカ光っています。本格的な冬を感じさせますね。

[67568] 桜トンネル さん
問一:その都道府県内にある中核市の数
えぇっ。そんなに単純な共通項だったのですか。少しショックです。また、クイズの数日前に、過去ログの50000番付近を読んでいたのに、まったく「サード」の意味がわかりませんでした。悔しいです。
問二:その都道府県内にある特例市の数
こっちも共通項の単純さからすごく驚きました。これは、問一がわかれば問二もペアで回答できますね。桜トンネルさんからのサービス問題だったかもしれませんが、そこまで考えていたのが、敗退の原因ですね。
問三:その都道府県内にある衆議院小選挙区制選挙区の数
これは、某テレビ番組のおかげで銀メダルが取れました。個人的に感謝しなければなりません。因みに、ヒントの
子供にはこの権利がありません。
と、問題の都道府県の都会にある都道府県の数字が異常に多かったので秒殺でした。
ヒントを[67334]の日本人さんのように「全部あわせて300あります」などのほうが少し分かりにくくなって良かったのかもしれません。
まあ、それでも某テレビ番組のおかげで秒殺だったでしょうが、300という数のキリの良さが影響して、少しは難易度ががアップしたかもしれませんね。

実はこの番組の放送を僕も見ていました。もう出題を決めていた後でしたので、問題を差し替えようかとも思いました。しかし、いい問題がなかなか見付からなかったので、そのまま出題することにしました。新聞のテレビ欄にも出ていたので、「見ている方もいらっしゃるかもしれない」と思っていましたが、本当にいらっしゃったとは。
いや、まさか出題者の桜トンネルさんまでもが視聴していたとは思いませんでした。密かに言ってしまうと、「スキー場」についての問題も出してほしかったです。(爆)

今年も桜トンネルさんの問題には楽しませてもらいました。感謝します。また来年のオフ会の時もよろしくお願いします。

ではでは。

[67569] 2008 年 12 月 11 日 (木) 20:08:39 淡水魚 さん
 雪遊び

[67537] inakanomozart さん
[67567] 葵区 さん
市内のアピタでは週末イベントでふわふわゾーさんとかポニー乗馬とかやることがありますが、駐車場脇に雪山ができていることもございます。この付近は雪が珍しいので、3年ほど前の雪がうっすら積もっていた朝は旧国道1号が大渋滞し、勤務先では遅刻者続出でした。

ところで昨日の朝日新聞朝刊かな?首都圏の貨物線に乗るツアーが載っていました。HP探したけど行き当たりませんでしたが、そのかわりにこんな記事が。

[67568] 2008 年 12 月 11 日 (木) 18:40:33 桜トンネル さん
 答え発表&藤枝市

お久しぶりです!前回の書き込みから、テストがあったので、書きこみから離れてしまいました。予定より2週間も経ってしまいましたが、答えを発表したいと思います。
その前に答え合わせです。星野彼方さん、採点が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。

問三 和歌山県:3 8位 [67384] 星野彼方さん

―共通項―
問一:その都道府県内にある中核市の数

ヒントの意味・・・つかんぼやとにおいて、中核市は「赤い四角」で表されていることからです。[50073]の白桃さんの書きこみの中で、中核市は「サード」のポジションを与えられていることからです。

[67342] k-aceさん

「サード」の意味は上に書いてあるとおりです。「赤い四角」以外にいいヒントの表現が思いつかなかったので、過去ログの中からヒントを出すことにしました。尋ねられた時にどこまで書くか悩んだのですが、記事検索をすれば、一発で分かるので、そこはノーヒントで行きました。

問二:その都道府県内にある特例市の数

ヒントの意味・・・つかんぼやとにおいて、特例市は「赤い線」で表されていることからです。「最近の十番勝負にも出題済み」とはもちろん、第十九回全国の市・十番勝負問四のことです。ただ、この問題と違うところ(過去の認定を含む点)もあり、ヒントとして出すのにも悩みましたが、そのままヒントとして出すことにしました。

問三:その都道府県内にある衆議院小選挙区制選挙区の数

ヒントの意味・・・「子供にはこの権利がありません」というのは、もちろん20歳未満には選挙権が無いことから来ています。ただ、このヒントは簡単だったようで、すぐに解答ラッシュとなったことに驚きました。ヒントを[67334]の日本人さんのように「全部あわせて300あります」などのほうが少し分かりにくくなって良かったのかもしれません。

[67376] 日本人さん

数週間前にやっていた某テレビ番組の放送

実はこの番組の放送を僕も見ていました。もう出題を決めていた後でしたので、問題を差し替えようかとも思いました。しかし、いい問題がなかなか見付からなかったので、そのまま出題することにしました。新聞のテレビ欄にも出ていたので、「見ている方もいらっしゃるかもしれない」と思っていましたが、本当にいらっしゃったとは。

―雪関係―

神戸でも毎年、雪を観測しますが、だいたい早くて12月前半、遅くて12月後半に初雪を観測します。そして、神戸ではよく六甲山で降っている雪が風に流されて、市街地に降っているということがあります。だから、空は晴れているのに、雪が降っているということも何回もあります。そして、実は先週末から今週の初めにかけて、寒波が入り冷え込んで、各地で初雪を観測しましたが、東灘区でも雪は降りました。ただ、ほんのにわか雪で神戸では初雪を観測しなかったようですが・・・。
ちなみに、僕が生まれてから、空き地などに雪が積もったことは何度もありますが、道上に雪が積もったのは2回くらいしかなかったと思います。1回目は約10年前ほどで、まだ幼稚園児でした。2回目は3年前の「平成18年豪雪」の時でして、あのときは神戸でも3センチの積雪を観測しました。あの時、初めて公共交通機関が雪で乱れるのを見ました。帰るのだけでも一苦労でした。

[67567] 2008 年 12 月 11 日 (木) 14:37:44 葵区 さん
 遅ればせながら,雪に反応2

申し訳ありません.長文だと書込ができないので分けます

子供の頃にあった,デパートの屋上へわざわざ雪を運んで子供たちに橇で滑らせると云うイベントは,やはり静岡市ならではなのでしょうか?
雪見遠足と云う名目ではなかったですが,高校受験後の発表前に某富士山麓の遊園地へ「スケート」をしに学年全員連れて行かれました.教諭曰く「ここで滑れば高校は受かってる!」とのことでした
今は個人でも行けるようになったので,やらなくなったのでしょうかね

[67566] 2008 年 12 月 11 日 (木) 14:33:47 葵区 さん
 遅ればせながら,雪に反応

旧静岡市の平野部ではほぼ雪が降りませんが,焼津市や清水区では降ることもありますね
私としてはアルプスだけでなく,市境の高草山にも原因があると思ってます.夏にはフェーン現象を起こすのも「こいつ」だと思ってます
雪を降らせるぐらい重くなった雲が,たかだか500Mの山ですが,そこにぶつかって手前の焼津に雪を降らせる.そこを越えた雲は清水に雪を降らせる…
後は駿河湾から近いのも一因でしょうね

[67565] 2008 年 12 月 11 日 (木) 00:30:55【1】 山野[揖斐の山] さん
 米原駅にて事故発生

えーと、今回のは地理ネタではありませんので書いて良い物なのか微妙なのだが。

私が通学している大学が長浜にあるわけだが、その関係で今年に入ってからというもの
電車に乗るのが好きで廃線とか廃駅とか調べる事が趣味となっている。
で、私自身は岐阜県の者ですので通学する際は当然の事ながら大垣から米原方面(JR)へ行く事になりますが、
昨日この米原駅にて事故があったようです。で、この記事を見てみますと、
1時20分頃、8番線を通過した貨物列車の風圧によって工事用のフェンス1枚が20m程吹っ飛んだようで怪我人が出たという。
(確かに去年からずーっと階段設置の工事をしているんですよねー。いつ完成するんだか。)
危ないですねー。昨日は学科がありませんでしたので休みでしたが、此処に鉢合わせとなったら…。
(因みに7・8番線は帰りの大垣方面行きです。なので無いと困ります。)

電車を利用されている方は工事現場にはくれぐれもご注意下さい。

[67564] 2008 年 12 月 10 日 (水) 18:02:39 hmt さん
 石北線のスイッチバック

[67557] ペーロケ さん
石北線のスイッチバックを発見するなど、分岐周辺の地理に妙に詳しくなってしまいました。

遠軽駅のスイッチバックのことでしょうか。
私も地図で眺めるだけですが、これを見ると北見に通じる鉄道建設の歴史を思い出してしまいます。

旭川の東にあたる北見・網走への鉄道。途中に北見峠や常紋峠があるために、現在の石北線ルートが完成したのは1932年でした。

最初にオホーツク海側を目指したのは、明治40年(1907)に狩勝トンネルが開通していた十勝からのルートです。すなわち、1910年に帯広の東の池田から北へ伸びてゆき翌年には野付牛(北見)まで開業。(1896年の北海道鉄道敷設法[61273]には“十勝国利別より北見国相ノ内”とありました。)
この時点での札幌から北見へのルートは、旭川・富良野・帯広経由という北へ南へまた北への大迂回路でした。1912年には網走へ延長。

第2のルートは、北回りの迂回路です。これは北海道鉄道敷設法に、“天塩国奈与呂より北見国網走に至る鉄道”と記されています。1919-1921年に北見山地を越えて名寄とオホーツク海側を結ぶ名寄線が開通し、1912-1916年に開通していた野付牛からの湧別線と結ばれました。

そして問題のスイッチバックの原因となる第3のルート。
旭川(石狩)と北見を直結する石北線は、1922年に旭川側からスタート。北見側の分岐は昭和になった1927年。常紋トンネル区間を含む湧別線の遠軽駅からですが、地形から逆Y字型になりました。地図

1932年に石北トンネルが開通しました。4329mという長さは、清水トンネル(前年に開通)、笹子トンネルに次いで当時日本第3位でした(丹那トンネルは1934年)。その長さもさることながら、無人地帯でヒグマの襲撃を受けながら苦労して建設されたこのトンネルにより、北見地方ははじめて北海道の中心部と直結しました。

この新ルートの開通によって、湧別線は遠軽を境に分割されて石北線と名寄本線とに吸収されました。石北線は最初からスイッチバックだったわけです。1961年には北見-網走間も統合して「石北本線」を名乗るようになり、逆に網走本線は池北線に格下げ。第三セクターの ちほく高原鉄道 を経て廃止されたことはご承知の通りです。

遠軽駅逆Y字型分岐の北側・名寄本線は、ちほく高原鉄道よりもずっと早く、1989に廃止され、スイッチバック構造がより鮮明になりました。
スイッチバックや ちほく高原鉄道 など関連 KW について検索していたら、昔の記事がありました。

[7734] ペーロケ[utt] さん
石北本線には2路線から合流して、合流した先が廃線となったため、スイッチバック式の駅になった遠軽駅ってありますよね?
(中略)開通当時は遠軽にとっては、湧別方面が一番需要があった方面なのでしょうか?

これに対するレス[7745]深海魚さんでは、湧別の要衝性も推定する一方で、湧別川と生田原川との地形的なからみを考え、遠軽でのスイッチバックは必然なのかも知れないとしています。
つまり、オホーツク海から湧別川を遡ると、遠軽で川が「分岐」している。
鉄道も同じことだったが、川と違って下流がなくなってしまった!

廃線に追い込まれた第1・第2のルートに比べると石北本線が存続しているのはご同慶の至りですが、特急はともかく、国境越えのローカル列車は1日に1本しか停車しないという有様。
そんな駅の中に、「旧白滝駅」があります。「新○○駅」が多数ある中で、「旧」を名乗る地名・駅名は珍しいと思います。
「旧軽井沢」にも、昔は草軽電鉄の「旧軽井沢駅」があったようです。時刻表

石北線の話題。長くなりましたが、ちょっとだけ登場させた常紋トンネルの南入口・常紋信号場にもスイッチバックがあります。現在は使用停止。「常紋」とは北見国常呂郡と紋別郡からの合成地名です。

このトンネルは全長507mで、石北トンネルにはとても及ばぬ長さですが、インフラが整備されていなかった時代(1914年開通)に無人地帯で行なわれた難工事という点ではこれも有名なトンネルです。
劣悪な労働条件。怖〜い話も伝えられています。

[67563] 2008 年 12 月 10 日 (水) 17:50:42 G さん
 上越市でいいんですか?の件

[67561] 2008 年 12 月 10 日 (水) 15:53:10 揖斐の山 さん
[67562] 2008 年 12 月 10 日 (水) 17:14:00 みかちゅう さん

私もヤフーニュースでみました。
確かに紛らわしいですよね。高田と直江津が合併して上越市になり、さらに平成の大合併で周辺の町村を合併し現在に至っているわけで。鉄道は以下の通りなわけで・・・。

以下ヤフーニュースより抜粋

新潟県上越市で北陸新幹線の平成26年開業に向けて市名変更の運動が起きている。市内唯一の新幹線駅を管轄するJR東日本が「上越線」「上越新幹線」との混同を避け、駅名に“上越”を採用しないという憶測が広がっているため。運動を進める「市名を考える市民の会」(長井泰雄代表)は11月末に変更の必要性を説く小冊子「上越市でいいんですか?市民が誇れる市名を!」を発刊、運動に本腰を入れる。
 

 「頸城野(くびきの)市は十分、検討に値する案です」。市民の会が先月29日に上越教育プラザで開いた小冊子の出版記念講演会「市名・地名を考える」で上越市の新しい市名候補が飛び出した。声の主は地名の専門家で講師の楠原佑介氏(埼玉県上尾市在住)。

 地名資料室・地名110番主宰、正しい地名を復興する運動世話人の楠原氏は「国、郡、郷のレベルで、頸城は日本列島で1000年以上たった1つしかなかった。ほかとの識別性が高い地名です」と、歴史的な由緒正しさを前面にその優位性を付け加えた。

 市内唯一の新幹線駅に“上越”を使えるよう木浦正幸市長がJR東日本に「上越線」「上越新幹線」の変更を求める意向を示している。これにも「変更にかかる費用を市が負担するといっても検討してくれるかどうか。たぶん、変えないでしょう」と切り捨てた。

 食い入るように聞き入ったのは30人ほど。旧上越市(直江津市と高田市が昭和46年に合併して誕生)と周辺13町村による平成の大合併のあり方を考える市民団体「住民自治と合併問題を考える会」を中心に19年7月に発足した市民の会メンバーと関係者だ。

 関心の高さには理由がある。平成の大合併で考える会は新市名について住民の意見を聞くよう提言したが、合併協議の紛糾を避けるため住民アンケートなどは棚上げされ、考える会が独自に新市名を問う住民アンケートを17、19年の2度実施した経緯があるため。

 19年の住民アンケートの回答者は70人。複数回答の結果は“くびき野市”はじめ13町村の郡名である「頸城」関連が36件と圧倒的に多く、かつての上杉氏の居城名だった「春日山」関連が12件、旧市の「高田」関連が10件、「謙信市」が5件などの順となった。

 上越は「越後上越市」と「えちご上越市」が計3件だけ。不人気の理由を小冊子は直江津と高田両市が合併で12万人規模になれば新幹線や高速道路、国立大学などを誘致できると、合併を急ぐあまり新市名で十分に市民の意見を聞かなかったためと結論づけている。 JRの「上越線」「上越新幹線」は上野国(こうずけのくに)の群馬と越後の国の新潟両県を結ぶ妥当な命名と説明。沿線に「上越国際」や「上越・石打丸山」の有名スキー場があり、新幹線駅に“上越”を冠すれば県内外のスキー客の混乱を招くと指摘する。

 これを裏付けるアンケート結果も載せている。19年2月に市が首都圏(1都3県)の1000人から回答を得た結果、地図で正しく上越市を指せたのは24.6%だった。考える会の2度のアンケートでも市名変更支持が17年の24%が19年に38%に急上昇した。

 「県外では今でも“私は高田”“私は直江津”といわないと分かってもらえない。市名問題はこの37年間くすぶってきたんです」と話すのは、考える会会長の佐藤忠治・市民の会事務局長。「市名も駅名も地域の看板。変更するならこれが最後のチャンス」と力説するのは長井代表。

 市民の会は2000部作製した小冊子を希望者に配布して運動を盛り上げる計画。駅名について、JR東日本は「地元の意見を聞いて検討していく」、市新幹線交通政策課は「幅広く意見を聞いている段階」が公式見解だが、すでに「越後高田」や「妙高」の名前も挙がっている。

[67562] 2008 年 12 月 10 日 (水) 17:14:00 みかちゅう さん
 「上越駅」はない?

なんか久しぶりになってしまいました。

[67561]揖斐の山さん
JR東日本が「上越線」「上越新幹線」との混同を避ける為に、駅名に「上越」を採用しないという憶測
新幹線は不慣れな旅行者が乗ることも多いので、混同が懸念される以上は「上越駅」にはしないでしょう。そもそも「上越」と聞いて直江津の方を選ぶ人は、新潟県以外では少数派ではないでしょうか。それだけ上越新幹線の名前で定着しているということです。

ある程度は地元の要望が通る余地はあるでしょうが、それではどんな駅名にするのか。
「(新)直江津」や「(新)高田」ではまとまらないだろうからボツ。「くびき」は既にほくほく線に駅があるからダメ。漢字にして「頚城」では既存の市名でもないのに読めないという理由でやはりダメでしょう。
新潟県内の前例に則って「高田直江津」ぐらいでまとめるしかないかも…。

[67561] 2008 年 12 月 10 日 (水) 15:53:10 山野[揖斐の山] さん
 改称運動

ここに上越市でいいんですか?という改称運動の記事があります。
と言いますのは、平成26年に向けて開業予定としている市内唯一の新幹線駅を管轄する
JR東日本が「上越線」「上越新幹線」との混同を避ける為に、駅名に「上越」を採用しないという憶測が広がっている為だとか。
で、その改称案ですが「春日山」や「越後高田」や「妙高」があるとか。
ただ、「妙高」の場合上越市の南側に妙高市があるので無理かと(妙高市を編入してしまって改称なら可能でしょうけど。)
いっその事、元々の高田市に戻せばどうなんでしょうか。(直江津を考慮するのなら郡名を取って頚城市とか)

ひろちさんだったらどう思う?(これは合併ではなく改称の話ですけど)

[67560] 2008 年 12 月 10 日 (水) 02:56:32【2】 YT さん
 江戸時代・明治初期の鹿児島の人口

[67556]むっくんさん
共武政表記載の人口は誤記ではないと思われます。
折角ですので、鹿児島の江戸時代から明治初期までの人口を以下まとめます。

(1) 『鹿児島県史』2巻 (1940年)
(2) 尾口義男「薩摩藩の人口」『黎明館調査研究報告』1998年11号87頁
に江戸時代の鹿児島の人口がまとまっています。

江戸時代の統計は大概は武家人口が除かれており、総数が不明なことが多いのですが、
鹿児島藩に関しては、武家の人口まで細かに記録が残っているようです。
もっとも抜け道が相当あり、鹿児島藩全体で20万人近く記載漏れがあったようですが。

年号貞享元年明和9年寛政12年文政9年嘉永5年
西暦1684年1727年1800年1826年1852年
士人躰4,1494,2354,3254,487
人躰外士4,0954,1694,4664,972
士妻子6,9327,3248,0038,712
福昌寺役人・同家内915
浄楽並火地神座間家内9
妙音寺地神盲僧・同家内3
出家318289297285
諸士家来並足軽・諸座附・寺社門前27,72528,11335,77439,922
士族
卒族
平民
在郷10,38211,95414,28514,281
三町5,7375,1854,9414,040
横井野町104115153129
荒田浜123988866
不明 (合計不一致)162
以上計49,09659,72761,48272,35076,912
穢多・慶賀8911510586
鹿児島総計49,09659,81661,59772,45576,998

以上より、江戸時代の鹿児島は10万都市であった名古屋、金沢には劣るものの、仙台と同等、幕末は仙台以上の人口(約8万人)を有し、ほぼ藩の石高にふさわしい大都市であったことがわかります。もっとも在郷 (農民)や荒田浜 (漁村民?)といった分類が混ざっており、一部郊外の農村・漁村を含んでいたようですが。

一方明治以降の統計をまとめると以下の通りです。

年号明治4年1月15日以前明治6年正月調明治8年以前明治12年1月1日調明治13年1月1日調明治14年1月1日調明治17年1月1日調
西暦1871年1873年1875年1879年1880年1881年1884年
史料薩隅日地理篇考日本地誌提要第一回共武政表第二回共武政表第三回共武政表第四回共武政表都府名邑戸口表
鹿児島85,43527,24089,37432,06720,17120,67049,360
 士族26,992
 卒族2,571
 平民55,872
鹿児島六日町287
中町889
金生町707
築町120
今町340
泉町556
潮見町930
生産町647
易居町804
呉服町770
大黒町269
船津町2,128
薪町1,998
住吉町1,147
堀江町1,027
車町401
泉和屋町617
恵比寿町417
栄町439
柳町717
浜町611
小川町803
向江町1,641
東之町357
中之町413
西之町611
塩屋町1,624
以上計85,43527,24089,37453,33720,17120,67049,360

近代デジタルライブラリーに収録されている薩隅日地理篇考は、1898年出版ですが、冒頭を読めばわかるようにオリジナルは明治4年1月15日に編纂されたもので、人口自体は明治4年以前のものということになります。

明治8年の第一回共武政表は、実際に収録されている統計は明治5年から明治8年までの本籍人口が混ざっています。例えば近江国の場合、第一回共武政表では578,099人となっておりますが、これは明治6年1月1日調の近江国の本籍人口と一致します。一方薩摩国に関しては、第一回共武政表の476,442人は、明治5年549,440人、明治6年586,324人、明治7年590,246人、明治8年590,521人に比べて明らかに少なく、何らかの藩政史料を元に作成したと推測されます。

日本地誌提要第3冊(PDF)は明治6年1月1日調であることが明記されています。また明治11年、12年、13年の第二回共武政表、第三回共武政表、第四回共武政表は、収録された人口はそれぞれ明治12年1月1日調、明治13年1月1日調、明治14年1月1日調と、翌年の正月現在の本籍人口を記載していることが明記されています。明治17年の『都府名邑戸口表』も明治17年1月1日調の本籍・現住人口が収録されています(近代デジタルライブラリーに収録されているのは明治19年の『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』)。

さて、上の表を見ればわかるように、(1) 薩隅日地理篇考、第一回共武政表のように人口を8万人とするグループ (2) 日本地誌提要、第2回共武政表のように人口を3万人前後とするグループ (3) 第3回共武政表、第4回共武政表のように人口を2万人前後とするグループ (4) 明治17年以降人口を5万人前後とするグループ の4通りあります。これら4つはどうみても鹿児島の範囲が異なるわけですが、第2回共武政表には上表のように鹿児島近隣の小さい町が別統計として記載されていたので、鹿児島を含めてそれらを合計してみたところ、53,337人でほぼ明治17年以降と同じ範囲の鹿児島であることが分かります。

このように鹿児島に関して何通りもの統計が存在する背景については、どなたか明治初期の鹿児島について詳しい方に解説して欲しいところです。

#追記
なお江戸時代の史料、薩隅日地理篇、第1回共武政表記載の鹿児島の人口は、鹿児島郡全域であることは確かなようです。寛永13年(1636年)の史料では、「城外」の鹿児島郷の人口が33,432人と記載されており、鹿児島城下町(城下町の人口は記載されていない)と区別されております。貞享元年(1684年)から嘉永5年(1852年)までの5つの史料では、上表のように「鹿児島」の人口がまとめられ、それとは別に直轄領38ヵ郷、私領13ヵ郷の合計人口が見分別に記載されており、この段階では鹿児島郷全域が統計上の鹿児島として扱われています。薩隅日地理篇では「鹿児島郷」の人口が記載され、第1回共武政表では「鹿児島郡」が鹿児島の人口として扱われております。
以上より幕末の鹿児島の城下町人口も、「在郷」を除いた6万人程度とみなした方がいいかも知れません。

しかしながら日本地誌提要、第2回、第3回、第4回共武政表の数字は都市人口としては明らかに少なすぎ、行政上の鹿児島が狭められたのだと思います。第3、4回共武政表では鹿児島郡内の「人口一百以上輻輳地」としては鹿児島しか記載されておりませんが、第2回共武政表では上表にまとめたように、鹿児島六日町から塩屋町までが鹿児島郡内の人口一百以上輻輳地として別途記載されております。「2万〜3万人」という数字は上士が暮らす武家屋敷地区のみの人口、「5万人」という数字は町人階級などが暮らす地域を含めた人口、「8万人」という数字は農村部を含めた「鹿児島郷」または明治時代の「鹿児島郡」の人口ということになるのかも知れません。

[67559] 2008 年 12 月 10 日 (水) 00:24:29【1】 白桃 さん
 都会では傘がないので探しますか

という曲はないのであります。
だけど、井上陽水さんのイメージはこんな感じです。

2度目?の津和野で思いました。(明治8年、津和野は6,920人)
と、書き出したら、「ナオエ過熱ぐ、って誰?どこの独逸?」って邪魔をするオバさん。
これじゃぁ、般若堂そんぴんさんに合わす顔もない。

話をもとに戻して、津和野城址に上りたかったのですが、リフト修理中ということで願いは叶いませんでした。
私が津和野城址に上りたかった理由は、聡明な皆様、お解りいただけると思いますが・・・。

2度目の錦帯橋で思いました。(明治8年、岩國は3,057人)
岩国が麻里布に人口で追い抜かれたのいつだったっけ・・・

何度目かの宮島で思いました。(明治8年、厳島は3,491人)
朱色の神社、朱色の五重塔、それが一枚の写真で納まるのは、ここしか無いじゃぁない。本当にオーナーはペテン市、じゃなくて妖術市だな・・・。(オフ会「ここはどこでしょうクイズ」ビリから3位のワタシ)

浦安で思いました。(明治8年の人口記載なし。---共武政表)
傘をどこに忘れたのだろう。思い出すためにベランダで煙草をふかそうとパジャマのポケットを探そうとしたら、そのポケットがない。南砺、後ろ前に穿いていた。ア〜お粗末!

[67558] 2008 年 12 月 10 日 (水) 00:14:32 今川焼 さん
 篠山市財政悪化の経緯

[67551]ひろちさん
しかし、理由は私もその補助金といいますか特例債だと思います。
形上は上からの押し付けには見えませんが、やはりこれをちらつかせることに
より合併が今現在も推し進められているように思えます。
ひろちさん、はじめまして。
平成の大合併で生まれた市に住む者にとって、合併についてはいろいろ思うところがあります。合併特例債については、初めのころは確かに“アメ”の役割は果たしたと思います。ですが、合併たけなわの2004年度から、いわゆる三位一体の改革で地方交付税の削減が始まると、特例債の旨味は消し飛んでしまいました。いくら7割を国が面倒を見てくれても残りは自治体の借金ですし、財政基盤の弱い自治体にとって借金返済の主要な原資である交付税が減らされては、特例債は絵に描いた餅に過ぎません。結局、その後に続いた自治体は特例債の発行をセーブせざるを得なくなりました。丹波市でも合併までは特例債で建てる新庁舎をどこにするかという話題がありましたが、合併後は新庁舎の「し」の字も出てきません。
もっとも、合併しなければ交付税の減り方はより大きいはずで、「ムチ」の効果は持続しているはずです。

それで篠山市のケースですが。
兵庫県の篠山市はこの特例債が今重くのしかかっていて、財政危機だと聞いたこともあるので・・・。
[67552]揖斐の山さん
篠山市はその特例債によって調子に乗り箱物を作り過ぎたとかで財政が悪化したんでしたっけ?
あっ、揖斐の山さんもはじめまして、かな?
以前ここで、「平成の大合併の嚆矢はどこか」という話題があったと思うのですが、篠山市は平成の大合併の先陣を切りましたが、合併に動き始めたのは、各種優遇策が打ち出されるより前の1997年ごろです。(それ以前にも昭和の大合併以来5回ほど合併の動きはあったのですが)ですので“アメ”に釣られて合併したわけではありません。ただ合併した時に棚ぼた式に優遇策が降ってきて、思いっきりそれを食べてしまった、毒まんじゅうとも知らずに。ということです。
ただし、それも後になって言えることで、当時は特例債を利用して箱モノを次々建て、うまくやった成功例としてマスコミにも取り上げられ、全国各地から視察団が連日篠山詣でをしました。そしてその後、予想もしない交付税の削減です。前市長の「国に詐欺にあったようなものだ」というコメントを何かで読んだ記憶があります。そのあたりは同情の余地もあります。ただ、同じハコものを作るにしても、老朽化した小中学校の改築、補強などのように必要性の高いものに使っていればよかったのですが、結果的にあまり必要度の高くないものに使ってしまった感はありますね、結果論かもしれませんが。(他にも将来人口の見誤りもあるのですが、それについては機会があれば別稿で)

篠山市内には昭和40年代を思わせるような老朽校舎もまだ現役で使われていたりします。ウィキペディアの小学校の記事の写真になぜか使われている篠山城趾に建つ篠山小学校の校舎なんかもそうです。

先月、職員給与の10%削減や公共施設の整理統合・民間委託、補助金の削減など、「痛み」を伴う再生計画が策定され、財政再建に向けて歩み始めました。“合併のツケ”は重いものがあります。

参考
篠山市における地方債の現状
篠山市合併10年目/危機で芽生えた意識を再生に

[67557] 2008 年 12 月 10 日 (水) 00:12:00 ペーロケ さん
 図名存続の分岐点

 1/25000地形図「分岐」、最後の集落が消滅し、人も住んでいない、かといって著名な山がある訳でもない地形図なのに、なぜか惹かれるものがあり、「分岐」周辺の地形図を何度も見てしまいます。お陰で石北線のスイッチバックを発見するなど、分岐周辺の地理に妙に詳しくなってしまいました。1枚の特徴もない地形図で、ここまで掘り下げられるとは面白いですね。次回オフでどなたかが持ってこられるのではないかと密かに期待しております(笑)。

[67546]hmtさん
これは、地図画像が更新されているのに、地名データは古いままという「データ更新時期のズレ」に起因するものと思われます。
 紙ベースのデータで、明らかに集落が消えているのに「分岐」の文字が残ったままというのは何か担当者の意図的なものを感じてしまいますが、なるほど、「分岐」という地名の削除が、「最新情報の更新」という考え方は思いつきませんでした。

例えば「上幌内」という居住地名集落が消滅したために、2万5千分1地形図の図名は「厚真川上流」への変更された事例[65736]のように、「分岐」の図名も変更を余儀なくされると予測します。
 市町村合併に伴う図名変更はよく聞きますが、過去にそんな事例がありましたか。逆に言うと北海道でよく見られる「○○川上流」シリーズも、過去に集落があったものの、集落の消滅と運命を共にした図名が隠れているかもしれませんね。

図名「分岐」は「武利川上流」に変更されるのでしょうか?
 武利川源流は別の図名「武利岳」の範囲にあるため、やや武利矢理ですけど、他に適当な図名がなさそうですね。もっとも、「日高幌別川上流」の例があるから、源流が別の図枠内でも許容範囲かな?

[67556] 2008 年 12 月 10 日 (水) 00:01:45【3】 むっくん さん
 地名と自治体名の比較

[67548]YTさん
鹿児島の人口が上二つの史料で全然違うように、
この時期は行政上の町の範囲はどこまでなのか混乱があったようですが。
YTさんが疑問に感じておられる最大の相違点(鹿児島の人口が日本地誌提要では明治6年に27,240人、明治8年共武政表では89,374人)について、一点気付きました。
都市・鹿児島の人口が二つの史料で全然違うように見えるのは明治8年共武政表が誤記をしているからではないでしょうか。
鹿児島郡全体の人口と鹿児島郡鹿児島の人口が共に89,374人ということは、いくら西南戦争の前で鹿児島に異変が起こっていた時期であるということを踏まえても、変だと思うのですが。

----------------------------
これだけでは何ですので、滋賀県において、明治8年共武政表記載の地名、同書の人口、日本地誌提要第3冊(PDF)記載の地名、同書の人口、同書記載の地名のM6当時の自治体名(注)を表にて比較できる箇所のみを比較してみました。地名が自治体名を指しているところもあれば、広域地名を指しているところもあると考えられます。
(注):M6当時の自治体名(日本地誌提要)とは、日本地誌提要記載の地名に相当するであろうM6当時の自治体を私が推測したものです(おそらく間違いはないとは思うのですが)。

地名人口地名人口M6当時の自治体名
(共武政表)(共武政表)(日本地誌提要)(日本地誌提要)(日本地誌提要)
犬上郡彦根24368彦根24368彦根98ヶ町
滋賀郡大津駅15932五別所村+大津17914別所村,神出村,大津101ヶ町
滋賀郡本堅田村2272堅田2274本堅田村
滋賀郡膳所村1840膳所6371別所村,中ノ庄村,膳所村,木下村,西ノ庄村
滋賀郡別所村1503
滋賀郡中荘村1314
滋賀郡木下村1076
蒲生郡八幡町5895八幡5893八幡66ヶ町
蒲生郡日野町(村井村,4209日野4209村井町,大窪町,松尾町上組,松尾町下組
大久保村,松尾村)
蒲生郡西大路村1646西大路1646西大路村
坂田郡長濱町5369長濱町5369長濱60ヶ町
甲賀郡水口駅4914水口4914水口村
高島郡勝野村1917大溝1917大溝町,石垣村,打下村

#上の表では例えば犬上郡彦根を彦根98ヶ町と記載していますが、当時はその1町ずつが1つの自治体です。

#共武政表に記載の滋賀郡大津駅とはおそらく大津101ヶ町であると考えられます。ただし、同書では滋賀郡の町数が3と記載されています。1つはおそらく大津なのでしょうが、共武政表が町を連たん地域としてとらえている頃から考えて、大津101ヶ町の内の大谷7ヶ町が別の1町であり、追分3ヶ町がさらに別の1町であるという可能性もかなりあると思います。判別には別途資料がおそらく必要になります。

#滋賀郡五別所村は遅くても滋賀県に区制が施行された明治5年4月9日には別所村と神出村に分かれていたと考えられています。

#滋賀郡膳所に関してはかなりの食い違いが見受けられますが、日本地誌提要に記載の膳所を別所村,中ノ庄村,膳所村,木下村,西ノ庄村の集合体と考えると、仮に西ノ庄村に638人の人口があったとするとうまく辻褄が合います。
#膳所の城下町は別所村,中ノ庄村,膳所村,木下村,西ノ庄村の一部区域にありました。

#共武政表には蒲生郡の村井村,大久保村,松尾村を合わせた区域を日野町と呼ぶとありましたが、江戸時代末期には既に村井「町」,大久保「町」,松尾「町」となっており、これは単なる誤植であると考えられます(より正確には、明治初期に松尾町は松尾町上組と松尾町下組に別れています)。

#大溝町、石垣村、打下村の高島郡3町村が明治7年5月2日に合併して初めて、自治体の高島郡勝野村が成立しました。

このように比較してみると、少なくとも滋賀県においては、明治8年共武政表と明治8年出版の日本地誌提要とに記載されていることの差異については、ほぼ誤差の範囲と言っても差し支えないのではないかと思われます。

[67555] 2008 年 12 月 9 日 (火) 23:34:25 Issie さん
 区名候補を絞る

こちらの参加者も多くの方が応募したらしい相模原市の区名公募。
〆切り,そして結果集計の発表から2週間経って,相模原市のHPにはこの応募結果を受けて,最終的な区名候補を5つずつに絞った11月25日の 第6回行政区画等審議会 の会議録(PDFファイル)が掲載されています。
読んでみると面白いですね。“あること”にこだわって何度も何度も同じことを主張している(らしい)方もいたりして。ここでも話題になったことが審議会の中でも議論されていたりもします。…なんか,座長のご苦労が偲ばれるような会議録です。
ま,こうして候補は5つに絞られた…,というわけですね。

[67438] の通り,来週から始まる最終的な「市民意向調査」は,

---------------------------------------------
応募できる人:相模原市に在住、在勤、在学の方
---------------------------------------------

ということになっているのですが,その“応募資格審査”をどのようにするのか,25日の審議会の中では市当局も明らかにしていないようで,…どうんするんでしょ。
もちろん,「市に在住」の私は応募するつもりですが。

[67554] 2008 年 12 月 9 日 (火) 23:00:43 futsunoおじ さん
 雪といえば

(その1)
雪といえば新潟を思い浮かべる人は多いようで、良い意味でも悪い意味でも大きな存在であります。新潟県では「克雪」という言葉もありますが、今では山間部に近い豪雪地域といわれる場所でも冬季の住民の自動車通行はかなり確保されているようです。これには市街地・幹線道路の消雪パイプがある場所だけでなく、整備された舗装道路自体が除雪を容易にしている面もあるようです。地上の雪が除かれる一方で、屋根の雪下ろし中に硬い地面に落下しての重症・死亡事故が恒例のニュースになっているのは皮肉なことです。
戦前の報道写真などで電柱の電線の高さ程に積もり踏み固められた雪の上を人が歩く高田(現・上越市)の町並みを目にすることがありますが、今から見ると別世界の出来事のようです。ただ新潟県に限らず降雪の多い地域では除雪に多額な費用がかけられておりますが、それはまた冬の間仕事の少ない土木・建築関係者の貴重な収入にもなっているようです。


(その2)
ラジオの交通情報を聞きながら冬の関越道を走行することは一冬に数回ありますが、チェーン規制の情報は実際にその場を走行していたりすることもあるので目の前の状況と照らし合わせて聞くのも興味深いものです。「関越トンネル新潟県側〜塩沢石打IC」区間の規制というのが最も多いようで、これより雪が多ければ六日町ICや小出ICまで、少なければ越後湯沢IC、さらには規制なしになります。強い冬型ともなれば群馬県内の月夜野ICから長岡JCTまでということもありますし、関越道からつながる北陸道の新潟中央JCTまでとなると年に数回でしょうか。日常生活で聞くラジオからチェーン規制の情報が耳に入ると、その場所の路面状況や降雪の様子などをつい想像してしまいます。


(その3)
平成の大合併において新市名の候補が公表される際、魚沼地域などでは「美雪市」が必ずといっていいほど最終候補に含まれていましたがどこも採用には至っていません。「美里」・「美郷」・「美川」・「美山」という名の自治体は過去も含めると数多くありますが「美雪」もどこかで採用してほしいものです。

[67553] 2008 年 12 月 9 日 (火) 22:25:13 おがちゃん[日本人] さん
 雪レス

こんばんは。日本人です。
今日も雪についてのレスです。

[67543] じゃごたろ さん
そうでしょうね。海(水)のあるなしでは、気温に大きな影響を与えます。
陸地と水を比べると、水の方が熱っしにくく、冷めにくいという特性があります。
僕もよく勘違いするのですね。今まで、水があると水がないところより寒いと思っていました。ただ、これでまた一個知ったことが多くなりました。
一度結氷すると諏訪湖からの熱の供給が途絶えるため、一気に寒さが持続するという特有の気象現象を示します。これは水のありなしが気候に与える端的に示すものです。
いやいや、これまた知りませんでした。まさか、水のありなしがここまで影響を及ぼすとは思っていませんでした。そうすると、諏訪湖だけではなくどこの湖もそういう現象が起こるわけですね。今年も赤城山の大沼で、じっくり見物したいと思います。
ということは関東、東海でも雪が多くなるということでしょうか。
雪があまり降らない場所に住んでいる僕からすれば、すごくうれしいです。まあ、降りすぎはよくないですが。

[67549] Issie さん
その頃の経験で言うと,長野県内であっても佐久や上田といった東信地方はそれほど雪は降りません。高原の軽井沢は別格ですが。
あれ、そうですか。年に数回(冬が多い)に佐久にいきますが、結構雪がありました。その年が異常なのでしょうか?それとも僕の勘違い?まあ、中野や飯山あたりと比べればはるかに少ないのですが。山の位置感覚などから考えれば、浅間山などの南にある東信地方は、雪が少ないということになるのでしょうか。
積雪の量が増え始めるのは,長野市街地から北の牟礼(飯綱町)への峠を越えるあたりから。
冬に富山に言った経験からすると、確かにそこら辺から雪の量が増え出しますね。峠を越えるということもあり、さえぎっていた山が少なくなったからでしょうか。とにかく、そこを境にして、環境が一気に変わるからですかね。
それを,このあたり(北信地方)では「一里一尺」,つまり北へ1里(約4km)行くと積雪が1尺(約30cm)増える,と表現しています。
ええっ。4km北上するだけで30cmも増えるのですか。驚きですね。それで、やがては、豪雪地帯に入っていくわけですね。

[67552] 2008 年 12 月 9 日 (火) 11:02:39【1】 山野[揖斐の山] さん
 (雑談)/吉井町

[67551]ひろちさん
篠山市はその特例債で箱物を作ったとかで財政が悪化したんでしたっけ?
ある意味この特例債というのは言い方を変えれば借金ですからね。
(ここから本題です。)
高崎市との合併で議会側に反対が多いとかで揺れている吉井町に於いて議会解散請求
昨日、署名8124人分の署名簿を提出され受理されたとの事。

*何やら批判めいた書き込み内容となっていましたので真中の文章を削除。

[67551] 2008 年 12 月 9 日 (火) 04:54:16 ひろち さん
 すいません;

[67545] 揖斐の山 さん
すいません;
ついつい揖斐の山さんに問うような感じで書いてしまいました;
しかし、理由は私もその補助金といいますか特例債だと思います。
形上は上からの押し付けには見えませんが、やはりこれをちらつかせることに
より合併が今現在も推し進められているように思えます。
ただ特例債にかんしては、やはり甘くはなかったようなので、合併推進派の
方にはデメリットの部分もわかってほしいと個人的には思っています。
兵庫県の篠山市はこの特例債が今重くのしかかっていて、財政危機だと
聞いたこともあるので・・・。

[67550] 2008 年 12 月 9 日 (火) 02:38:11 かすみ さん
 わたしなら今週末に寄ってもらってく?

[67547]かぱぷうさん
なかなか面白い体験をされましたね。
その留守番電話、スラスラと読み上げられたのでなぜだ?さては山陰からだなと思ったら東伯の方からでしたか。(笑)
わたしの実家にもしょっちゅう間違い電話がかかってきていました。どうやらたばこ屋さんと勘違いされている年配のご婦人のようで毎度タバコをカートンで注文されても困ります。(爆)

ところでこの週末は毎度の八ヶ岳南麓に行っておりました。小海線を走るハイブリッド車両こうみを貸切にしてしまう世界で唯一の(!?)クリスマスパーティでした。
今年はまだ積雪は少ないですね。沿線ではところどころに残っていてもほとんどないのと一緒でした。ましてや小淵沢〜長坂くらいでは全く雪はありません。1,000m超えの八ヶ岳南麓ですが冷え込みこそきついもののそのワリに積雪量は大したことないんですよね。清里まで行くと全く世界は変わりますが。
今週末は松江に行きますが、どんな天気になることやら・・・。^^;

[67549] 2008 年 12 月 9 日 (火) 00:48:09【1】 Issie さん
 一里一尺

[67544] 日本人 さん
安中はおそらく浅間山や、碓氷峠などに囲まれており、長野ほどは雪は降りません。そのため、境は碓氷峠かと思われます。

実は私は20年余り前に3年ほど長野市に住んでいて(その前の1年間は松本市),信越線で東京との間を何度も往復していました。
その頃の経験で言うと,長野県内であっても佐久や上田といった東信地方はそれほど雪は降りません。高原の軽井沢は別格ですが。
長野盆地も,南半部はまだ雪のあまり積もらない区域に当たります。
犀川よりも北の長野市街になると雪の降る日数は増えますが,それでも「豪雪」というほどではない。私が住んでいた3シーズン,いずれも土の上には雪が消えずにひと冬の間ずっと残っていましたが,アスファルトの上の雪は速やかに消えました。長野市の市街地には,上越市や長岡市など日本海側の都市にあるような路面に積もった雪を解かす「消雪パイプ」のような設備はありません。飯山市にはありますけどね。

積雪の量が増え始めるのは,長野市街地から北の牟礼(飯綱町)への峠を越えるあたりから。
峠の東を迂回する信越線では,豊野を過ぎて鳥居川の谷に分け入るあたりからですかね。長野電鉄では,信州中野から今は廃止されてしまった木島線で夜間瀬(よませ)川を渡るあたり…(信州中野から湯田中の方へ行く線は,志賀高原へ向かって“山登り”をするので,やはり別ね)。
“地理的”な言い方でよく言われるのは,およそ長野市街の北西にある飯縄山と中野市街の北にある高社山を結ぶ線,あるいは北安曇も加えて,大町−長野−中野 を結ぶ線が,雪の多い地域と雪の少ない地域の境界に当たる,というものです。
上越国境のように険しく高い山の壁があるわけではないので,川端康成の“あの作品”で有名な清水トンネルのように“激変”するのではなく,徐々に豪雪地帯へと移行します。
それを,このあたり(北信地方)では「一里一尺」,つまり北へ1里(約4km)行くと積雪が1尺(約30cm)増える,と表現しています。

というわけで,長野県は新潟県との県境に近い北部を除けば,思っているほど雪は多く降りません(高原や高山は別)。それでも日本海に近い長野は日本海側で大雪の降る「冬型」の気圧配置の時に雪が降る機会が多いのですが,松本よりも南だと冬型の気圧配置の時ではなく,関東平野と同じく本州の南岸を低気圧が通過するときの方が雪の降るチャンスは多くなります。

[67543] じゃごたろ さん
「かみゆき」

というやつです。
そのかわり寒いので,降り積もった雪はなかなか解けません。

[67548] 2008 年 12 月 9 日 (火) 00:38:58【1】 YT さん
 赤穂町

[67527]Issieさん

明治8年共武政表によると

赤穂町 1597戸 7067人

明治8年出版の日本地誌提要(人口は明治6年1月1日調)によると、pdfの81頁目の播磨の「名邑」として

赤穂(アカホ) 7134人

とありますので、かなり古くから赤穂町という呼称は存在したと思います。

鹿児島の人口が上二つの史料で全然違うように、
この時期は行政上の町の範囲はどこまでなのか混乱があったようですが。

[67547] 2008 年 12 月 8 日 (月) 23:12:26【2】 かぱぷう さん
 白菜getのチャンス到来! あなたなーらどうする〜?

そう大した話ではございません。

日曜の朝、私の携帯に知らない番号から着信がありました。ビジネスで知らない番号から着信があるような職業でもありませんし、無視を決め込みます。すると留守録にメッセージ、声から推測するに年配の女性のようです。聞いてみて爆笑。山の神にも聞かせたらやはりしばらく笑ってました。
「Aですぅ。ご無沙汰しておりまして。あの〜白菜をとったですがぁ、だけー、取りに来てもらえんだろうか思って電話しよります〜。そのときには電話してもらえんで」(ここでタイムアップ)

で、さて、どうしましょう?
やはり掛けなおして間違いを正した方がいいのか、それとも知らん振りしておくべきか。




結局。掛けなおすことにしました。
「はいもしもし」「あのー先ほど電話を頂いたんですが、間違えて掛けてると思うんですよぉ」「え?どちらですか?」「ですから間違えて掛けてると…」
2、3回そんな問答をしましたがようやく気付いたようです。
「あらぁ〜、どうもすみませんで。おたくはどちらから掛けてあるのですか?」「福岡です」
お母さん、しばらく絶句。こちらが恐縮するくらい丁重に謝られて電話は終わりました。

住所を教えることはしませんでしたし(当たり前だ!)、白菜をいただくチャンスは消えたようです。お母さんは電話で「取りに来て」と言っていたので、もしかするとお宅にお伺いすれば貰えるのかもしれませんが、かかって来た番号から推測するに鳥取県東伯地方からのお誘いでしたので諦めるほかないでしょう。
それにしても、お母さんには悪いのですが面白い経験をさせてもらい得したような気分になりました。やっぱり方言っていいですね。

[67546] 2008 年 12 月 8 日 (月) 23:10:37【1】 hmt さん
 危うし! 1/25000地形図名「分岐」

[67514] 千本桜 さん
2万5千の分岐を見つけました。集落は消滅しても「分岐」の名称は残っています。

リンク画像欄外には国土地理院発行の“数値地図25000(地図画像)、数値地図25000(地名・公共施設)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである”とあり、日本地図センターの 「25000段彩・陰影画像」 によると、それは“平成17年3月31日現在に刊行されている”データのようです。
地図画像に「建物」の記号がなくなった新しい地形図データであるにもかかわらず、「地名」のデータには、まだ「分岐」が残っていたのですね。

[67527] Issie さんによると、平成2年修正の市販地形図でも、既に集落記号は削除されていたとのこと。

[67529] ペーロケ さん
集落が消えても、「分岐」という地名だけが生きているのも変な感じがしますが、地名の存在に「人の居住」は絶対条件ではないということか。。。

これは、地図画像が更新されているのに、地名データは古いままという「データ更新時期のズレ」に起因するものと思われます。
前回の地名調書にはまだ存在したのをいいことに(?)、「分岐」という地名が生き残っていたのでしょう。

[67514] 千本桜 さんは、
図葉名が「分岐」ですから、集落がなくなっても「分岐」の注記を消すことができない(消せば、図葉名を変更しなければならない)。
と書いていますが、ウォッちずには 既に「分岐」という地名がありません[67495]

ウォッちず サービスの位置づけ
最新の情報を反映させているため,刊行されている地形図とは同一でない部分も含まれます。

国土地理院にしてみれば、消したくない「分岐」という地名。それを消さざるを得なかった“最新の情報”とは何か。
それは、遠軽町が新たに作成した地名調書[56419]によって引導を渡されたからだったのでしょう。

…ということで、1/25000地形図の次の版では、「居住地名」としての「分岐」は消え、自然地名としての生き残りも無理。
例えば「上幌内」という居住地名集落が消滅したために、2万5千分1地形図の図名は「厚真川上流」への変更された事例[65736]のように、「分岐」の図名も変更を余儀なくされると予測します。

図名「分岐」は「武利川上流」に変更されるのでしょうか?

[67545] 2008 年 12 月 8 日 (月) 22:27:30 山野[揖斐の山] さん
 何度もと言われましても

[67539] ひろちさん
なぜそんなに何度も設置したりするんですかねぇ・・。
えーと…私にそう聞かれても困ります。
なんせ、合併ネタを見つけては書き込んでいるだけなので…。
ただ、当時「アメ」と呼ばれるものがありまして、(要は補助金みたいな物)
これ欲しさに無理矢理合併を強行した気がありますね。
例えるなら、アンケートや住民投票で反対が多かったが合併した所や
この内、実際にアンケートを取ったら、構成している市町村の内一箇所が反対しても
他が賛成で多数決により合併した所もあったような…これは離脱すれば済む話にも思うのだが。
(違っていたらごめんなさい。)

[67544] 2008 年 12 月 8 日 (月) 21:51:38 おがちゃん[日本人] さん
 雪

こんばんは。日本人です。
いやいや、[67531]を書き込んでからすぐに寝たのですが、今日の朝に落書き帳を見てみると皆様が完璧な説明をしているのを見て、とても感謝です。

[67532] Issie さん
それが“雪”となって日本列島の日本海側に吹き付けた,というものですね。わりとオーソドックスな雪の降り方。九州北部や中国山地には日本海上空から流れ込む雪雲をさえぎる高い山がないので,瀬戸内の方にもわりと簡単に雪雲がやってきます。
つまり、広島や山口では、北のほうに高い山が無いため、北のほうに高い山がまわりにたくさんある安中より早く雪が降るというわけですね。すると、安中よりもはるかに西で、比較的暖かいと思われる福岡でも日本海側の方向に雪雲をさえぎる山が無いために、雪のマークがついてしまうわけなのですね。
上越線の方では沼田あたりが雪の降る/降らないの境になりますが,信越線の方の安中はどうだったかな。
安中はおそらく浅間山や、碓氷峠などに囲まれており、長野ほどは雪は降りません。そのため、境は碓氷峠かと思われます。実際、現在浅間山は真っ白ですが、安中では1度も雪が降っていません。(旧松井田町付近の状況はあまり知りません。もしかしたら雪が降っているのかもしれません。

[67533] geo さん
特に広島県内は芸北・備北を中心に,豪雪地帯である新潟にも劣らないような積雪が毎年あります。そのため,このエリアではスキー場がまとまって分布しています。関東地方でいえば,みなかみや草津みたいな気候でしょうか。
すごいですね。日本でも有数の豪雪地帯である新潟に劣らないほどの雪を観測してしまう広島って。びっくりです。ひょっとして、最も西かつ最も南のスキー場集合地帯でしょうか。(ただ、人気でいえば苗場ほか新潟の主要スキー場のほうが多いのでしょう。)

[67534] ペーロケ さん
[67536] むっくん さん
つまり、雪が多く降るところは、適度な高さを誇る山々の近くにあることも条件の中に加わるのでしょうか。

[67537] inakanomozart さん
みなさんは「雪見遠足」って御存じでしょうか?
知りませんでした。初耳です。おそらく僕のクラスのほとんどがわからないでしょう。
したがって、雪を見る機会がない子どもたちは、雪に対してあこがれに近いものを持っています。
それは安中でも同じです。当然僕も同じです。雪が降るところをうらやましく思います。何しろ雪が降ると授業が止まってしまうほどで、休み時間は、雪合戦や、雪だるま作りなどしかしませんでした。毎日できるサッカーは誰もしません。友達はみんな「雪がたくさん見れる北陸はいいな」とのことです。
このため、幼稚園や保育園では富士山麓方面に、ただ雪を見にいくための「雪見遠足」が実施されます。
それは、雪の見れない静岡ならではの行事でしょう。なんか楽しそうですね。しかし、同時に雪の見たさにそこまでするのがうらやましく思えました。

[67538] N-H さん
そう、ひと冬の間に数回あるかないかのこの気圧配置の時は、条件が重なると関東南部は結構馬鹿にならない雪が積もります。
ああ。確かに、2007年〜2008年シーズンにもそんなことが何度かありましたね。そのようなことになるとマスコミは大騒ぎです。
私が物心ついてから最大の積雪量は、横浜で40cmを超えた年がありました。
そ、それはすごいですね。僕の場合はせいぜい10cmですかね。もう少しいったような気もしますが。そういえば、N-Hさんの書き込みの中では似たような文が過去ログに載っていたような気がしますが、記事検索の仕方が下手なのか出てこない・・・

ではでは。過去ログ読む続きをしないと。

[67543] 2008 年 12 月 8 日 (月) 21:25:18 じゃごたろ さん
 「うみ」なし

こんばんは、じゃごたろです。

[67540] とんかち☆ さん
やはり「海なし県」というのが、この違いのキーワードなのでしょうか??

そうでしょうね。海(水)のあるなしでは、気温に大きな影響を与えます。内陸と沿岸部で気温の差があります。海に近い札幌市よりも内陸の盛岡市の方が最低気温が低いこともあり、「日本一最低気温の低い都道府県庁所在地」ではないかとも言われています。

距離の差がなくても水のありなしで気温が変わるといわれるのが諏訪です。陸地と水を比べると、水の方が熱っしにくく、冷めにくいという特性があります。そのため冬になっても海(水)からの熱の供給があるため、内陸よりも比較的暖かいという気候になります。

諏訪地域はその影響をもろに感じる地域です。最低気温が氷点下10度以下が数日続くと諏訪湖が結氷するといわれますが、一度結氷すると諏訪湖からの熱の供給が途絶えるため、一気に寒さが持続するという特有の気象現象を示します。これは水のありなしが気候に与える端的に示すものです。

さて、昨年観測された御神渡ですが、今年はいかに。先日の長期予報では、ことしは「かみゆき」が多いとか。雪が降って氷を覆うと、雪が断熱材の役目を担って結氷が阻害されますのでねどうなることやら。ということは関東、東海でも雪が多くなるということでしょうか。



[67519] スナフキん さん
年経県値について、皆さんのご判断は?

個人的な考えですが、「宿泊」とは一日では完結しえないものです。ですから、大晦日と元日ともに「宿泊」とカウントしていいのではないでしょうか。

[67542] 2008 年 12 月 8 日 (月) 21:00:38 Issie さん
 今週の黄門様

今ちょうど「水戸黄門」を放送中で,今週は肥前伊万里の“化け猫騒動”のお話ですが,数週間前に黄門様御一行は播州赤穂城下を通過しました。お城のお殿様はもちろん 浅野内匠頭。でも,お殿様は江戸にいていないので,国元を切り盛りするのは城代家老の 大石内蔵助。…まだ,「松の廊下」の前なのですね。

[67535] むっくん さん
明治40年3月25日印刷、同3月30日發行)では上假屋、中村と並んで赤穂(加里屋)と記載されています。

番組では「赤穂の城下」と言っていたかな。こういう呼び方なら,城下町の(本来の)固有の名前を気にする必要はないかも。
あるいは,「かりや」(←加里屋でも,仮屋でも)という固有名とは別に,お城と城下町全体をひっくるめた総称として「赤穂」と呼ぶことはあったのかもしれませんね。

ところで,この「加里屋」と「上仮屋」。いわゆる「上・下地名」の配置とは少し違っていて面白いですね。
現在の地図を見ると,恐らくは住居表示による新町が生まれていて両地区の境界が不分明なのですが,「上仮屋」はお城を中心とした区域。主に武家町だった区域でしょうか。「加里屋」の中心部は昔の町人町の区域を中心とした城下町の本体部分,ということになるのかな。
「加里屋」は結構広がりを持っていて,市街地の北側や,反対に恐らくはかつての塩田であった海岸部にも広がっているのですが,やはり本体は城下町部分でしょうね。
お城を中心とした「上仮屋」があるのは,「加里屋」の“南側”で,そばを流れる千種川から見れば“最下流”。つまり,この「上かりや」という地名は川の流れの方向によるものではありません。
京都を基準とした遠近,という点からも,陸路であればやはり千種川沿いに下ってきて先に「かりや」に到達して,その“奥”に「上かりや」がある,というロケーションですから,ここでも上下が逆になっています。
強いて言えば,海路からアプローチすれば,“下流側”の「上かりや」から加里屋川をさかのぼって「かりや」の城下町中心部に入る,という順番になりますが。
勝手な憶測ですが,城“下”の「かりや」に対して,お城のある方が「上」という意味で「上かりや」ということになったのでしょうか。

[67541] 2008 年 12 月 8 日 (月) 20:52:18 とんかち☆ さん
 訂正です

私はメンバーではないので、新規書き込みでしか訂正ができません・・・。
なので、ここで訂正させてください。

下の[67540]の書き込みの下の方で書いた、「やはり「海なし県」というのが、この違いのキーワードなのでしょうか??」の「この違い」と言うのは
埼玉と都心や横浜の気温の違い
のことです。
この書き方だと「熊谷とさいたまの違い」と取られてしまいそうですよね。

スイマセンでした!!

[67540] 2008 年 12 月 8 日 (月) 20:45:01 とんかち☆ さん
 めっきり寒くなりましたね・・・

12月に入ってから初の書き込みとなります。
みなさんが雪の話で盛り上がっているので、私も仲間に入っちゃいます!!

私の住んでいる埼玉は関東平野に属してるので雪はあまり降りません。
積もるような雪はひと冬に数回程度でしょうか・・・。
暖冬の年は降らないこともあります。
それでも、東京(都心)や横浜に比べたら降る回数も積もる量も多いのです。
たとえば・・・都内や横浜がうっすら積もった場合は埼玉は2〜3pくらいは積もりますね。

また、雪ではないのですが、冬の朝の気温や夏の昼間の気温が埼玉と都心(&横浜)とはだいぶ違ったりします。
だいたい平均で3度から4度くらい違うと思います(単位記号を使おうかと思ったのですが、文字化けが心配なので使わないでおいときます)。
この間の土曜夜の天気予報で埼玉の予想最低気温に−(マイナス)がついてしまいました・・・。

ちょっと悲しいのは、都心とたいして離れていないはずのさいたま市でもけっこう気温が低いんですよね。
ほとんどの日で熊谷と同じかちょっと低いかという感じです。
やはり「海なし県」というのが、この違いのキーワードなのでしょうか??
海から離れると放射冷却が強まる・・・と言うのをどこかで聞いたのですが、本当なのでしょうかね・・・。
私の記憶も時々ウソを覚えるのであまり自信がありませんが・・・。


そんなわけで、みなさまの話題の乗っかってみました★

[67539] 2008 年 12 月 8 日 (月) 17:41:26 ひろち さん
 うーん・・・

[67528] 揖斐の山 さん
なぜそんなに何度も設置したりするんですかねぇ・・。
それは本当に住民が望んだものなのでしょうか?
最近の傾向のように、住民の反対により白紙になったのも、また地元商工会や
財界が強く要望を出しているのでしょうかねぇ・・。

[67538] 2008 年 12 月 8 日 (月) 07:59:45 N-H さん
 関東平野の雪

[67532]Issie さん
関東平野で雪が降るのは,本州の南側を低気圧が通過したとき。

そう、ひと冬の間に数回あるかないかのこの気圧配置の時は、条件が重なると関東南部は結構馬鹿にならない雪が積もります。
積雪日数からいったら東京は京都や福岡よりもかなり少ないはずですが、一旦本格的に積もると20cm以上なんてこともあります。
私が物心ついてから最大の積雪量は、横浜で40cmを超えた年がありました。

よく、「東京の人はちょっと雪が降ったくらいで大騒ぎする」とおっしゃいますが、湿った重い雪がかなり短時間に激しく降り積もりますので、やはりそれなりに大変な事態なのだ、と思います。

[67537] 2008 年 12 月 8 日 (月) 05:00:00 inakanomozart さん
 雪見遠足

雪に関連して・・・
みなさんは「雪見遠足」って御存じでしょうか?
静岡市の平野部では、背後に南アルプスがあるせいか、全国の県庁所在地で那覇市の次に降雪量が少ないのではといわれるほど雪は降りません。
したがって、雪を見る機会がない子どもたちは、雪に対してあこがれに近いものを持っています。
このため、幼稚園や保育園では富士山麓方面に、ただ雪を見にいくための「雪見遠足」が実施されます。(かつては、ほとんどの小学校でも実施されていたのですが、ゆとり教育との兼ね合いで、最近は最近あまり実施されなくなったとか)
雪国の人からすれば笑われてしまうような行事かもしれませんね。

[67536] 2008 年 12 月 8 日 (月) 02:50:52【2】 むっくん さん
 雪

[67534]ペーロケさん
広島の位置が適度に高い西中国山地に接近しすぎているため、山が低くなり次第に下降気流になりきる前に雪雲が広島市街地に達するからではないかな?
このことは、冬場の東海道新幹線の弱点として知られる関ケ原でも同じことが言えますね。福井県嶺南地方から滋賀県北部への障壁となる山地がさほどの距離を持たないため、そのまま滋賀県北部、さらには北西の季節風に乗って岐阜県の関ケ原に雪をもたらします。寒気が強い時はさらには太平洋側の三重県北部まで積雪したりすることもあります。

もっとも冬型の気圧配置で寒気が強い場合で、風向きが冬場の定番の北西の風ではなく北の風になったりすると、滋賀県南部の大津市の中心部付近に積雪をもたらす時もあり、このような時には、京都市中心部でも雪が降ります。
ただしこのような時は、滋賀県のJR琵琶湖線沿線で雪が降るのは野洲市あたりまでで、彦根市などでは雪が降っていないことが多いです。
大阪や神戸で雪が降る時にどのような天気図となっているかは私には分かりませんが、京都市で雪が降る場合というのはこんな時です。

なお余談ですが、「都心の御池通では雨でも、少し北の丸太町通でみぞれとなり、さらに少し北の今出川通で雪となり、さらにかなり北に上って北山通では雪が積もり始める」という京都市中心部の雨雪判別法を聞いたことがあります。このうち御池通〜丸太町通〜今出川通の変化は、以前冬の雪の日に自転車で走っていた時の、私の実感でもあります。

[67535] 2008 年 12 月 8 日 (月) 02:44:17【2】 むっくん さん
 赤穂

[67527]Issieさん
意外に,都市(城下町)そのものを「赤穂」と呼ぶようになったのは新しいことなのかもしれません。
「日文研」の所蔵地図データベース内に収録されている,50000分1地形圖加里屋(明治28年測圖、同32年製版、同36年第1回修正測圖、同40年第1回修正製版、明治40年3月25日印刷、同3月30日發行)では上假屋、中村と並んで赤穂(加里屋)と記載されています。
さすがに明治40年には、明治22年の合併で成立した赤穂町の中心部を赤穂と呼ぶことの方が多くなったということでしょうか。

この地図を眺めていると、この頃の赤穂町などの沿岸部には塩田が広がっていることに気付きます。イオン交換膜製塩法による塩に取って代わるまでは、赤穂で塩作りが盛んであり、塩がかつては赤穂の特産品であったことを今に伝えていますね。今となってはあまりピンとはきませんが。

赤穂がらみの余談ですが、京都市でも山科区に大石内蔵助ゆかりの大石神社がある関係上、毎年12月14日に山科義士まつりが開催されています。
「来週京都に行くんだけれど京都の紅葉がもう終わり」とがっかりしている方がもしおられるなら、足を運ばれてはいかがでしょうか。

[67534] 2008 年 12 月 8 日 (月) 01:43:12【1】 ペーロケ さん
 山陽一の雪国

 かつて冬に泊まった岡山のユースで「広島から来た」と言ったところ、「広島って毎年必ず積雪があるけど、岡山は滅多に積雪はない」と言われたことがあります。そういや私も岩国市民だった時代、同じように「広島は積雪が頻繁にある」というイメージを持ってました。住んでみれば、岩国人はほとんどの人が年間を通して夏タイヤのままなのに、広島人はみんな冬になるとスタッドレスタイヤに換えるのが当たり前という事実に驚かされました。つまり、このあたりは「山陽の雪国」なんですね。

[67531]日本人さん
広島や山口などは、あまり雪は降らないと言うイメージがありましたが、
[67532]Issieさん
九州北部や中国山地には日本海上空から流れ込む雪雲をさえぎる高い山がないので,瀬戸内の方にもわりと簡単に雪雲がやってきます。
 広島付近で雪が降るのは、もちろん関東に比べて「山が低いから」という理由はもっともらしいのですが、同じようにせいぜい1300m程度の壁しかない岡山や、もっと低い壁しかない関西よりも積雪が多いのはどうしてなんでしょうか?まあ私は気象に詳しくないんですが、広島の位置が適度に高い西中国山地に接近しすぎているため、山が低くなり次第に下降気流になりきる前に雪雲が広島市街地に達するからではないかな?というのが私の考えです。おそらく関東地方でも、脊梁山脈を境にして太平洋側は全く積雪がないわけではなく、徐々に積雪が減っていくのではないでしょうか。[67533]geoさん同様、群馬県に例えるなら
関東地方でいえば,みなかみや草津みたいな気候でしょうか。
が芸北ならば、それより南の沼田市あたりが安佐南区沼田(笑)、渋川市が広島市中心部で前橋市が瀬戸内海というイメージでしょうか。

 もう一つの要因として、広島市付近は海が入り組んだ広島湾の入り江しかなく、保温効果が少ないことも挙げられます。岩国では雪が降っていなかったのに、廿日市では山が白くなり、広島市街地では平野まで積雪があったという経験は何度もあります。岩国も広島同様、西中国山地に接していますが、広島湾より安芸灘の方が水温が高いこともあり、かつ海が東側全体に広がっているためか、広島に比べ気候が温暖なのです。岩国では仮に雪雲が流れ込んできても「雨」になることが多く、積もることは滅多にありません。もっとも、岩国は広島と異なり、冠山などの山塊との間に標高が比較的低い高原地帯を挟むため、西中国山地と「接している」とは言えないかもしれませんが。。。

[67533]geoさん
特に広島県内は芸北・備北を中心に,豪雪地帯である新潟にも劣らないような積雪が毎年あります。そのため,このエリアではスキー場がまとまって分布しています。
 昨年、お騒がせな事件があったことは記憶に新しいのですが、山に慣れた人を遭難させるような「吹雪」もあるほどの「豪雪地帯」です。

この場合,両高速を結ぶ広島道は広島北インター(安佐北区),または広島西風新都インター(安佐南区)から北で冬用タイヤ規制がよくかかります。となると天気の境界はこの辺りでしょうか?
 ちなみに可部の人は天気予報で「広島県北部」を見るようです。ただ、山陽道はすべて瀬戸内気候とは限りません。西条付近は可部を凌ぐ豪雪地帯。ここも「広島県北部」の天気予報があたるようで。東広島市も西条など「積雪地帯」と、温暖な「瀬戸内気候」が共存する(しかも、大野宮島よりもはるかに温暖な安芸津)という、ある意味「日本の縮図」と言えそうです。

[67533] 2008 年 12 月 8 日 (月) 00:04:16【2】 geo さん
 市内で全然天気が違う冬の廿日市

こんばんは。

[67531] 日本人 さん
個人的に言ってしまうと、広島や山口などは、あまり雪は降らないと言うイメージがありましたが、安中より早く雪が降りましたね。何故?
 冬,寒気によって日本海から流れ込んでくる雪雲が2000m級の高い山々でブロックされ,雪雲が届かず乾燥した冬晴れとなる関東地方とは違い,広島や山口では日本海から流れ込む雪雲を止めるはずの西中国山地の山々が1000m前後と低いために,簡単に雪雲が流れ込んできてしまうのです。ですから広島県北部や山口県北東部内陸では冬季の降雪量が多く,日本海側気候に分類されます。また地理的にやや日本海に近い広島市周辺や山口市では雪雲が市街地まで流れ込むことがあり,この場合雪が降らせることがあります。11月19日にはこのパターンによって広島・山口で初雪を観測しました。この2都市は瀬戸内側気候でありながら冬季の降水量がやや多めで,かなり強烈な寒気が流れ込むとマトモな大雪になってしまうことも・・・。
 特に広島県内は芸北・備北を中心に,豪雪地帯である新潟にも劣らないような積雪が毎年あります。そのため,このエリアではスキー場がまとまって分布しています。関東地方でいえば,みなかみや草津みたいな気候でしょうか。

[67530] 白桃 さん
昨日、トイレ休憩のため立ち寄った旧・吉和村(広島県廿日市市)あたりは猛吹雪で、びっくりしました。
 平成の大合併の副産物とはいえ,廿日市市の気候の違いはものすごいです・・・。市内でも廿日市・大野・宮島が瀬戸内側気候,佐伯が中間の気候,吉和は完全な日本海側気候。なので雪雲が流れ込むと市内中心部が晴れている同時刻,山間部の吉和では吹雪というのも珍しくないとか。ちなみに吉和地区は日本最南端の豪雪地帯指定地域だそうです。
 南の宮島は暖かいイメージがあるのに,北の吉和ではスキー場があるほど豪雪地帯。ある意味,廿日市市は“日本の縮図”でしょうか(笑)。
 
 そういえば東隣の広島市も雪雲が流れ込むと北部と中心部で天気が違うような。去年広島を訪れた時に,中心部では晴れていたのに,広島北インターを過ぎた途端ミゾレが降ってきたので。
 高速道路では山陽道が規制なしでも,中国道は冬用タイヤ規制がかかっていることがよくあります(どっちも広島・廿日市両市を経由しているのですが)。この場合,両高速を結ぶ広島道は広島北インター(安佐北区),または広島西風新都インター(安佐南区)から北で冬用タイヤ規制がよくかかります。となると天気の境界はこの辺りでしょうか?

#文の校正とかに時間をかけていたら,Issieさんが先に投稿されていました。一部説明が被ってしまいますが,そこのところはご勘弁を・・・

[67532] 2008 年 12 月 7 日 (日) 23:32:21 Issie さん
 討ち入りでござる

[67527] では一応,

だから,本当は「忠臣蔵」と「赤穂浪士」は区別した方がよいのですね。

と書いては見たのですが,現実には現代の私たちは“赤穂藩の事件”(←よく考えたら,「松の廊下」も「討ち入り」もメインの舞台は江戸でした)についても「忠臣蔵」の名で呼んでいます。そんなわけで,たった今もテレビ朝日系列で来週の日曜日に放送される「忠臣蔵」の予告が流されていました。12月14日ですからね。

[67531] 日本人 さん
個人的に言ってしまうと、広島や山口などは、あまり雪は降らないと言うイメージがありましたが、安中より早く雪が降りましたね。何故でしょうか?

討ち入りが行われた元禄15年のこの日(実際は12月15日の未明)の江戸は大雪だったとされています。ただし,これは旧暦。今の暦に換算すると 1月30日(元禄15年は西暦では1702年に当たるのだけど,旧暦の年末は太陽暦では既に年が明けているので1703年)。この頃なら,今の東京でも普通に“大雪”が降ります。
今回の雪は,少し早目の本格的な冬の到来で,大陸から流れ込んだ冷たい空気が暖かい日本海の上を渡る時に思いきり水蒸気を吸収し,それが“雪”となって日本列島の日本海側に吹き付けた,というものですね。わりとオーソドックスな雪の降り方。九州北部や中国山地には日本海上空から流れ込む雪雲をさえぎる高い山がないので,瀬戸内の方にもわりと簡単に雪雲がやってきます。
ところが,関東平野の西から北に連なる山々はとても高いので,雪雲がそれを越えることが簡単にはできず,山の向こう側に雪を落としてしまいます。そして,山のこちら側に吹き下りる時には,空気の持っている性質のために雲は消えてしまいます。だから,山のそばの草津や水上のあたり以外は,通常のオーソドックスな形では雪は降りません。上越線の方では沼田あたりが雪の降る/降らないの境になりますが,信越線の方の安中はどうだったかな。

関東平野で雪が降るのは,本州の南側を低気圧が通過したとき。でも,このような低気圧が現れるのは通常は冬の終わりだし,それなりに冷えていなくては“雪”になりませんから,本格的な冬になるかならないかの12月のうちに雪が降ることは関東平野ではそうはありません。南部では特に。(太陽暦の)12月14日に東京で雪が降ったら,むしろそちらの方が「異常気象」かもしれません。「地球温暖化」のせいかも。
もっとも,江戸時代は全般的に現代よりも寒かったと言われているのですけどね。

[67531] 2008 年 12 月 7 日 (日) 22:40:53【1】 おがちゃん[日本人] さん
 経県値

とうとう、今年も一ヶ月を切りました。こちらでは、朝晩の冷え込みが厳しく、朝はずっと布団の中にもぐっていたい気分です。

さて、2008年版経県値についてです。
[67519] スナフキん さん
通常なら何の問題も起きないのですが、大晦日と元旦が絡む越年宿泊だけに関しては…非常に悩ましいんです。具体的には、12月30・31日・1月1日の2泊3日で、最終日の元旦を2009年の宿泊とみなして栃木県に4点を計上するのが、ありとすべきか…。皆さんならば、どう判断されますか? 私としては、都合いいように解釈するのが許されるならば、○かなぁと考えていますが…。
僕も、記憶に残っている中では一度だけ大晦日&元日に宿泊をしたことがあります。
それは、僕がまだ落書き帳の存在はおろか、「都道府県市区町村」の存在すら知らなかった、2005年〜2006年です。その年は、東京都の従兄弟の家で新年を迎えることとなっていました。そして、僕は新年を迎えてから眠りました。
このころから、「経県値」らしき物を作っていた僕は、2005年版経県値に3点、2006年版経県値に4点を入れました。何故かと言いますと、訪問と宿泊の境は、訪問は歩くだけを表すのに対し、宿泊は泊まること(夜に寝ること)を表すので、寝た時間の日にポイントを入れたほうがよいと思ったのです。
そのため、もし、僕がスナフキんさんのようなことをする場合は、何が何でも1月1日午前0時まで起きていたいです。

以上です。参考になっていないような気がしますがご了承ください。

[67526] いっちゃん さん
楽しいオフ会の裏でそんなこともあったのですね。とにかくお大事にしてください。早く傷が治ることをお祈りしてます。

[67530] 白桃 さん
昨日、トイレ休憩のため立ち寄った旧・吉和村(広島県廿日市市)あたりは猛吹雪で、びっくりしました。
個人的に言ってしまうと、広島や山口などは、あまり雪は降らないと言うイメージがありましたが、安中より早く雪が降りましたね。何故でしょうか?

[67462] 白桃 さん
ホームページ作られたのですね。おめでとうございます。
個人的には超駄作だと思っていたのですが、そのようなコメントはうれしいです。ありがとうございます。

やばい。もうこんな時間だ!!おやすみなさい。

[67530] 2008 年 12 月 7 日 (日) 22:07:24 白桃 さん
 萩みどり

さきほど、「西中国地方定番かけあし1泊2日の旅」から戻ってきました。昨日、トイレ休憩のため立ち寄った旧・吉和村(広島県廿日市市)あたりは猛吹雪で、びっくりしました。
今回は福山市に本社があるバス会社で巡りましたが、(「雇われ」だと思いますが)ガイドさんが非常に「良かった」です。もちろん、白桃都市人口研究所長の立場からみて、「良かった」のです。広島市、萩市、防府市の人口を2005年国勢調査どおり、正確に伝えていました。(ヤレヤレ、私は何しに職場旅行に参加しているのやら・・・)
もっとも「萩は5万8千の小さな町ですが・・・」のくだり、その萩も国勢調査時点から3千人も減ってしまいました。

[67520]hmtさん
それはさておき、“人口三万”は、「白桃都市人口研究所」所長から一言ありそうな数字です。
小坂に限らず、鉱山、炭鉱の人口変動は急激ですね。

タイトルは今回のバスガイドさんの名前ではなく、萩で売っていたお茶の名前です。

[67529] 2008 年 12 月 7 日 (日) 13:36:16 ペーロケ さん
 1/25000地形図「分岐」の謎

[67527]ほか、Issieさん
[67514]ほか、千本桜さん
 「分岐」について色々調べて頂き、ありがとうございます。安易に川の分岐だからと書きましたが、分岐という集落がかつてあったとのこと。勉強になります。しかし、集落が消えても、「分岐」という地名だけが生きているのも変な感じがしますが、地名の存在に「人の居住」は絶対条件ではないということか。。。
 千本桜さんに教えて頂いた「彩色地形図」を見る限り、分岐の地名以外は全く建物の記載が見受けられませんが、内陸部の1/25000地形図の範囲で、建物の記号が全くない例というのも珍しいのでは。北海道でよく見られる「○○川上流」シリーズの中にも、建物が無い地図もありそうな気がしますが、こればっかりは現物を見てみないと何とも言えません。

[67528] 2008 年 12 月 7 日 (日) 13:26:45 山野[揖斐の山] さん
 またもや…

合併予定一覧の内、愛知県海部郡東部の現状ですが、
名西市と名称を決めたものの結局は解散となり、再度「東部四町合併研究会」を立ち上げたが、
今年10月末に議会の反対で大治町が離脱した為、翌月に解散した。
で、現在は残りの3町で研究会を設置したという。

[67527] 2008 年 12 月 7 日 (日) 11:55:19【3】 Issie さん
 播州赤穂 と 信州赤穂

[67514] 千本桜 さん
2万5千の分岐を見つけました。集落は消滅しても「分岐」の名称は残っています。

昨日,神田の三省堂の地図売り場へ行って現物を確認してきました。↑の塗り分け図のとおり,集落記号は削除されていますが,「分岐」の地名記載はあります。
…買いませんでしたけどね。
しかし,「分岐(ぶんき)」という地名は余りにも“直截的”で,事情を知らないでいると,つい「わけまた」とか,それなりに“納得のいきそうな”読み方を考えてしまいますね。

[67495] ペーロケ さん
赤穂〜長野県:赤穂と聞けば、忠臣蔵でおなじみの播州赤穂ですが、赤穂市はそのまんま「播州赤穂」という図名です。

ふと思い立って,それぞれの地図の図歴を確認してみました。と言っても,後から整備された1/2.5万図ではなく,先に整備された5万図の方で。
兵庫県の 「播州赤穂」 の最初の地図の発行は 明治34(1901)年。測図は 明治28(1895)年。
長野県の 「赤穂」 は 明治44(1911)年 の測図(発行年は不明)。
…というわけで,10年の時差で「播州赤穂」の方が先,と思いきや,
実は「播州赤穂」という図名になるのは 昭和2(1937)年 発行のもの(大正14(1925)年第2回修正)からで,初めの2回分は「加里屋」という名前。「加里屋(かりや)」というのは,城下町の名前ですね。「赤穂」というのは本来は郡レベルの“広域地名”であって,この地のピンポイントな地名が「加里屋」。
それはともかく,問題の5万図は「加里屋」という名前で20世紀初めの 明治・大正 を過ごしたので,先に「赤穂」を称したのは伊那谷の「あかほ」の方。

実は,“都市の名前”としての「赤穂」が成立したのも,信州の方が播州よりも先。
播州では,“明治の大合併”の 1889(明治22)年4月1日に,赤穂郡の 加里屋町,上仮屋町,中村 が合併して「赤穂郡赤穂町」が発足しました。読み方は,郡名の読み習慣に従って「あこう」。赤穂浪士の話でも有名なのですが,こちらについては(以前にも書いたとおり)ドリフターズでさえ「あかお」と発音することがあったように,習慣として必ずしも「あこう」で統一されているわけではないようです。
なお,江戸時代の浄瑠璃とこれをもとに作られた歌舞伎の「忠臣蔵」は,もちろん,元禄時代の赤穂浪士事件を題材にしたものですが,それを直接作品にして上演することは当時の幕府から禁止されていたので,お話そのものは赤穂を舞台にしたものではなく,室町時代初期のお話にしてあります。…だから,本当は「忠臣蔵」と「赤穂浪士」は区別した方がよいのですね。

一方,信州の「赤穂」が成立したのは,[44568] で触れたとおり 1875(明治8)年 のこと。「赤須」と「上穂(うわぶ)」の合成地名ですが,それゆえに合成地名らしく「あか・ほ」と読むのでしょうかね。両者混然となって「アコー」という“こなれた”読みに“熟成”するまでには,まだまだ時間がたっていないというあたりか。

いずれにせよ,都市の(公式の)名前としても,地図の名前としても,先に「赤穂」という名で現れたのは 信州 のほうで,播州 は後なのですね。
ちなみに,国鉄の駅としても,赤穂線の「播州赤穂(ばんしゅうあこう)駅」の開業が 1951年 であるのに対して,飯田線の「現・駒ヶ根駅」が 伊那電気軌道(のち伊那電気鉄道を経て,1943年に国有化)により「赤穂(あかほ)駅」という名前で開業したのは 1914年。こちらに関しては,信州の方がはるかに先輩なのですね。なので,後から開業した赤穂線の方が同名回避のために「播州」をつけた,とされています。なお,「駒ヶ根駅」への改称は,駒ヶ根市発足(1956年)の後の1959年。
意外に新しい赤穂線(何しろ,開業したのが戦後になってから)が開業するまでは,山陽線の有年駅から軽便鉄道規格の 赤穂鉄道 が通じていましたが,こちらの赤穂側ターミナルの名前も「播州赤穂駅」。赤穂鉄道の開業は1921年で,こちらも信州の伊那電より遅いのですね。

というわけで,信州の「赤穂:あかほ」の方が播州の「赤穂:あこう」よりも先んじている例が多いのですね。意外に,都市(城下町)そのものを「赤穂」と呼ぶようになったのは新しいことなのかもしれません。

[67526] 2008 年 12 月 7 日 (日) 02:58:00 いっちゃん さん
 越年宿泊&オフ会余話

[67519]スナフキんさん
最終日の元旦を2009年の宿泊とみなして栃木県に4点を計上するのが、ありとすべきか…。皆さんならば、どう判断されますか? 私としては、都合いいように解釈するのが許されるならば、○かなぁと考えていますが…。
全く同じ栃木県での宿泊の話ですが、今年(2008年)の経県値をBiglobeトラベルに『宿泊』と登録したのは、2007年12月31日に記録した実家での宿泊です。大晦日ですから日付(=年)は変わりましたが、寝たのは年が明けてからなので『宿泊』にしました。その後ちゃんと宿泊したのでフォローはできていますが、私としては12月31日から継続的に滞在した上で1月1日を栃木県で迎えた時点で栃木県は『宿泊』としました。
ちなみに基本は[67525]YSKさんのおっしゃる
宿泊チェックイン日に宿泊したとみなしてカウントしております
なのですが、大晦日&元日は特別扱いしています。

さて、[67504]小松原ラガーさん
さて、皆様との楽しいひと時を湯瀬温泉で過ごしたあと、24日は9時46分組で盛岡まで移動、ここで皆さんと別れて、新幹線のホームで函館から来た、しかも道中の坂道で滑って転んで顔に怪我をしたいっちゃんさん(^^;)とタバコをふかしたあとお別れし、あとは、はやて、のぞみと乗り継いで新神戸までさっさと帰ったという次第です。
私が函館を経てオフ会に馳せ参じたかどうかはトップシークレット(笑)ですが、顔の怪我は事実です。24日の朝に私と遭遇した方はご存知かと思いますが、ちょっとやんちゃが過ぎて怪我をしました。おかげさまで顔の傷は癒えました。しかし、メインの負傷箇所である左足をただの打撲&筋肉痛だと思い、しばらく放っておいたのですが、一向に治まる気配が無く、むしろ腫れ&痛みは増す一方。堪らず5日に近所の整形外科に行ったのですが、「患部が壊死状態で、もう少し診るのが遅れていたら全身に菌が行き渡り、かつ骨髄炎を引き起こすかもしれない」状態でした。
いつまでも若くはないようで・・・。

[67525] 2008 年 12 月 7 日 (日) 01:27:02【1】 YSK さん
 年またぎ経県と冬桜

[67519]スナフキんさん
お久しぶりです。人生最高経県値まであと1ポイント(茨城県のみ「歩き」、今後引越予定なし)と迫っている私ですが、今年も茨城県での宿泊は無さそうです・・・。
年またぎの経県値のカウント方法ですが、微妙な問題ですね・・・。参考までに、私の場合、宿泊チェックイン日に宿泊したとみなしてカウントしておりますので(参考:市への到達度リスト)、2009年の経県にはおそらく含めないで計算すると思います。

[67523]伊豆之国さん
鬼石の冬桜(藤岡市の冬桜、という表現に未だ違和感を感じてしまいます・・・)に、この間(11月30日)に行ってきました。ここの見所はなんといっても「桜と紅葉がセットで観られる」ということでしょうか。ここは「桜山」と呼ばれる山の斜面に冬桜が植栽されていまして、頂上からは雄大な奥多野の山々をバックに紅葉と桜を楽しめます。30日現在では、頂上付近は紅葉は見頃一歩手前、桜は七分咲き程度のようでした。この週末はおそらく見頃になっているのではないかと思います(30日の段階でも十分に楽しめました)。ただ、ここはいかんせん山ゆえに一本道なので、見頃の時期には頂上まで1時間以上かかるという、とんでもない渋滞が発生することがありますので、要注意です。

[67524] 2008 年 12 月 7 日 (日) 01:14:11 YSK さん
 岩槻、武蔵野の情景

こんばんは、日中は穏やかでしたが、夕方以降徐々に寒さが増してきている当地です。本格的な寒波がやってきているようですね。

さて、先日より6年ぶりに再開している「シリーズさいたま市の風景」、土曜日は第二弾として、6年前はさいたま市の一員にはなっていなかった岩槻へと行ってまいりました。人形の町だけあって、市街地には名前が聞いたことがあるものも含め、たくさんの雛人形や羽子板などを扱う店が立ち並んでいました。藩政期は城下町であった岩槻はまた、岩槻公園(岩槻城跡)をはじめ、江戸期の雰囲気を感じさせる事物がまた多いのも特徴的でした。現代的な住宅地域となっていても、薬医門風の門構えが風格を感じさせる一角があったり、旧藩校の建物が埼玉県下で唯一残されていたり(遷蕎館;せんきょうかん)と、思わぬ発見に出会える町であると感じました。

岩槻の町からは、少し郊外のエリアまで足を伸ばしてみました。前回の見沼再訪でも書きましたとおり、さいたま市を歩いていて感じることは、里山のみずみずしさです。台地に切れ込むように中小の河川が流下し、見沼田んぼなどの小規模な沖積低地が展開するさいたま市域は、そうした台地と低地との境の斜面などを中心に落葉広葉樹林が穏やかに広がります。この季節は足元いっぱいに降り積もった落ち葉を踏みしめながら、豊かに染まった赤や黄色や茶色の木々が、本当に目にやさしく輝くようで、空気はひんやりしていますが心はあたたかさに満ち溢れてきます。畑には小松菜やブロッコリーなど、これからうまみを増してくる野菜がふんだんに植えられていて、随所に心踊らされる風景がありました。

武蔵野、ほんとうによい風景ですね。帰路には久しぶりのさいたま新都心・けやきひろばへ。恒例のイルミネーションを楽しみました。

[67523] 2008 年 12 月 7 日 (日) 00:32:09 伊豆之国 さん
 冬来たりなば、春遠からじ

いよいよ冬本番の寒波到来。北風がひときわ厳しく身を突き刺す季節になって来ました‥。

[67446]白桃さん
藤岡さくら
群馬県藤岡市の旧・鬼石町は、冬桜で有名。まだ見頃は続いているようです。私も以前見に行ったことがあります。この「冬桜」は春になるともう一度花を咲かせるそうですが、

‥先日のTV番組の中でやっていた「『春の小川』をたどる」というコーナー。この歌のモデルになったという川の本流「古川〜渋谷川」を河口から遡って行くと、麻布十番・広尾などを経てやがて渋谷駅の南側で忽然と姿を消して暗渠に。ここから東急東横店の脇を流れ、「宇田川」を分岐して北に行くと、原宿界隈へ。「キャットストリート」の蛇のように曲がりくねった道(私は「原宿」というと明治神宮方面しか行ったことがないので、果たしてこの道のことでよいか不安です。詳しいことをご存知の方はご教示願います。)も「渋谷川」の川筋の上だそうです。一方、渋谷西武のA・B館の間にある道路は、「宇田川」の川筋の上だそうで、それがあるためにこの両棟は「地下道でつなげられない」というそうです。‥さて、本題の「春の小川」とその背景については、[51171]hmtさんの記事に詳しく書かれているので、そちらに譲ることにしましょう。

[67489]Issieさん
[67488]右左府さん
あぐり
女性の名前
「あぐり」は男性の名前にもありました。鈴木亜久里というレーサーがいたのを思い出します。‥レーサーといえば、「ホンダ」がF1から撤退する、というニュースがありました。スポーツ新聞には、鈴鹿サーキットの地元の困惑の記事が書かれていました。ところで私ですが、以前ここのコースを「走った」記憶があります。といっても、小学生時代に乗った子供用のゴーカートで、レースがないときに「本番」のコースの一部を開放していたようです。かつて父がここの関係の仕事にかかわっていたことがあったことから、鈴鹿サーキットに何回か行ったことがあり、そこのホテルにも泊まっています。
「あぐり」といえば、昭和48年ごろに廃線になった羽後交通雄勝線に「あぐりこ」というかな書きの駅があったそうです。この線より少し前に廃線になった同じ羽後交通の横荘線は、当初は現在の「鳥海山ろく線」([67344])とつながる予定だったそうですが、結局実現せず、その後は水害などもあって部分廃止を繰り返したのち、全廃になったようです。

[67490]にまんさん
自治体名セットの観光地で一番大きなのは、「京都奈良」
そういえば、「京都・奈良」といえばどちらも国際的にもメジャーな大観光地なのに、この両者の頭字をつなげた「京奈」という言い回しがほとんど行われないということについて、もう一年以上も前のことですが、私が抱いた素朴な疑問([61297])に対して、関西在住諸氏を初めいろいろとご指摘を賜ったことについては、ここにまとめておきました。
ところで今日のTV番組で、京都市伏見区の宇治川河畔にある料理旅館「月見館」(地図)の映像が出てきました。私も20年ほど前に泊まっていますが、クラシックな外観はそのままながら、内部はリニューアルされて露天風呂もできるなど、今も健在であったことを知って嬉しかったです‥。

[67522] 2008 年 12 月 6 日 (土) 23:14:49【2】 むっくん さん
 市区町村変遷情報(秋田県・福井県・静岡県・愛知県・京都府・鳥取県)

>88さん

市区町村変遷情報に誤りと思えるところがありましたので報告します。

◎秋田県
32 1902.06.04 町制 由利郡平沢町 由利郡 平沢村
1902.6.4町制は違うのではないでしょうか。明治30(1897)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第92号(明31.9.13)では、1897.12.31には既に平澤町となっています。
秋田県史通史編第7巻年表索引編(著・出版:秋田県、1966)では秋田県告示第28号(1897.2.18)で町制施行したとあります。

◎福井県
1 1890.05.06 改称 南条郡堺村 南条郡 鹿見村
1890.5.6改称ではなくて1890.3.15改称ではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1881〜90年)や福井県史年表(編・出版:福井県、1998.1)では
1890.3.15 南条郡鹿見村,境村と改称(県令第20号
と記載されています。

2 1890.05.07 改称 南条郡神山村 南条郡 茶臼山村
1890.5.7改称ではなくて1890.6.13改称ではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1881〜90年)や福井県史年表(編・出版:福井県、1998.1)では
1890.6.13 南条郡茶臼山村,神山村と改称(県令第38号
と記載されています。

3 1891.04.01 改称 遠敷郡知三村 遠敷郡 南名田村
1891.4.1改称ではなくて1891.3.28改称ではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1891〜1900年)では、
1891.3.28 遠敷郡南名田村,知三村と改称(県告示第43号
と記載されています。

4 1891.09.01 改称 丹生郡豊村 丹生郡 岡山村
1891.9.1改称ではなくて1891.8.29改称ではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1891〜1900年)では、
1891.8.29 丹生郡岡山村,豊村と改称(県告示第129号
と記載されています。

1891.09.17 境界変更 丹生郡宮崎村 丹生郡 宮崎村, 白山村の一部(大字増谷)
が抜けていませんでしょうか。根拠は福井県告示第142号(明24.9.17)です。
福井県県令第19号(明22.2.16)によりますと、明治22年4月1日の市制町村制施行前には大字増谷は増谷村という村でした。

5 1896.04.01 分立 大野郡石徹白村 大野郡 下穴馬村の一部
1896.4.1分立ではなくて1896.4.8分立ではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1891〜1900年)では、
1896.4.8 大野郡下穴馬村,石徹白村を分割(県告示第71号)
と記載されています。

6 1897.02.01 分立 坂井郡北潟村 坂井郡 吉崎村の一部
1897.02.01分立ではないのではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1891〜1900年)や福井県史年表(編・出版:福井県、1998.1)では
1897.4.1 坂井郡吉崎村を北潟村と改称し、吉崎村を分割(県告示第38号)
と記載されています。とするならば、市区町村変遷情報には
1897.04.01 改称 坂井郡北潟村 坂井郡 吉崎村
1897.04.01 分立 坂井郡吉崎村 坂井郡 北潟村の一部
とするのが良いかと考えられます。

7 1898.04.01 分割 三方郡北西郷村 三方郡 西郷村の一部
8 1898.04.01 分割 三方郡南西郷村 三方郡 西郷村の一部
1898.04.01分割ではないのではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1891〜1900年)や福井県史年表(編・出版:福井県、1998.1)では
1898.4.1 三方郡西郷村を南西郷村と改称し、北西郷村を分割(県告示第59号)
と記載されています。とするならば、市区町村変遷情報には
1898.04.01 改称 坂井郡南西郷村 坂井郡 西郷村
1898.04.01 分立 坂井郡北西郷村 坂井郡 南西郷村の一部
とするのが良いかと考えられます。

1906(1899.1.?)境界変更 足羽郡酒生村 足羽郡 酒生村, 吉田郡 岡保村の一部(大字荒木)
が抜けていませんでしょうか。福井県HP平成18年(第54回)福井県統計年鑑1土地市町村の廃置分合(エクセル形式)では明治32(1899)年1月に吉田郡岡保村の一部(大字荒木)が足羽郡酒生村に境界変更されたとあります。
しかしながら、近年の県(都道府)発行の「平成◇◇年度○○県(都道府)統計年鑑」に記載されている自治体の廃置分合は、県(都道府)が所持しているオリジナルの情報源(県告示、県令)によらずに記載されていることが多く、いまいち信憑性に欠けるところもあります。福井県統計年鑑もおそらくそれら大多数の事例に含まれます。
そこで裏付けのために、当時の資料に当たってみました。

福井県県令第19号(明22.2.16)によりますと、明治22年4月1日の市制町村制施行時には足羽郡酒生村の大字数が8吉田郡岡保村の大字数が15となっています。
福井県の統計書によると、足羽郡酒生村の大字数が8、吉田郡岡保村の大字数が15のままとなっているのは福井県統計書[第9冊]明治38年第1篇(著・出版:福井県、明40.5.25)までです。
翌年の福井県統計書[第11冊]明治39年第1-3篇(著・出版:福井県、明41.3.31)で、足羽郡酒生村の大字数が9、吉田郡岡保村の大字数が14と大字数が変わっています。
ということは、福井県統計書からは境界変更があったのは明治39(1906)年と考えられます。

2つの資料を比較すると、境界変更の時期が明治32(1899)年と明治39(1906)年とで一致しません。良くあることですが、おそらく平成18年福井県統計年鑑が1899年と明治39年とを間違えたということであるものと私は推測します。

9 1907.07.01 新設 三方郡西田村 三方郡 田井村, 西浦村
1907.7.1新設ではなくて1907.8.1新設ではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1901〜10年)や福井県史年表(編・出版:福井県、1998.1)では
1907.8.1 三方郡西浦村, 田井村が合併、西田村となる(県告示第134号)
と記載されています。郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明42)でも明40(1907).8.1実施とあります。

16 1935.02.01 町制 坂井郡芦原町 坂井郡 芦原村
1935.2.01町制ではなくて1935.2.11町制ではないでしょうか。福井県公文書館福井県史年表(1931〜40年)や福井県史年表(編・出版:福井県、1998.1)では
1935.2.11 坂井郡芦原村で町制施行、芦原町となる(県告示第43号)
と記載されています。

◎静岡県
30 1901.06.28 町制 志太郡焼津町 志太郡 焼津村
この町制は1901.6.28ではないのではないでしょうか。
根拠は県告示第126号(明34.7.5)で、
県下志太郡焼津村を焼津町と改称す
とあります。この当時の他の告示を見ますと、例えば県告示第68号(明26.12.16)でなされた境界変更においては、告示以前に実施された旨が告示中に掲載されています。
ゆえにこの町制の施行日は1901.7.5とした方がよいのではないでしょうか。

◎愛知県
1 1889.10.01 新設/市制 名古屋市 名古屋区, 名古屋区 本町, 玉屋町, (中略), 春菴町, (中略), 敷寄屋町, (中略), 北禰宜町, 西柳町
(1)1つの町(泥江町)が足りません。泥江町とは、県令第31号(明22.6.18)で名古屋区に明22.7.1に町として編入されたところです。
例えば、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12.)では名古屋市を構成することになった旧・町の最後に記載されています。
(2)春菴町ではなくて春庵横町(もしくは春菴横町)ではないでしょうか。
例えば、地方行政区画便覧(編著:内務省地理局、明20.10.)では春庵横町、郡区町村一覧(編著:内務省地理局、明14.3.)や新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12.)では春菴横町となっているように、春菴横町なのか春庵横町なのかは当時の資料でもまちまちでよく分かりませんが。
#市町村沿革史愛知の百年(編著:愛知県総務部地方課、出版:愛知県市長会、昭43)では春庵横町と記載されています。
(3)敷寄屋町ではなくて数寄屋町なのではないでしょうか。
例えば郡区町村一覧(編著:内務省地理局、明14.3)や愛知県名古屋区地誌(編:佐藤雲韶、出版:鬼頭書屋、明18.6)や地方行政区画便覧(編著:内務省地理局、明20.10)では明らかに數(数の旧字体)寄屋町となっています。新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12.)では數(数の旧字体)寄屋町とも敷寄屋町とも読めますが、これはやはり數(数の旧字体)寄屋町なのでしょう。
なお、数寄屋町は名古屋市西区に今も存在しています。

357 1952.05.03 市制 安城市 碧海郡 安城町
1952.05.03市制ではなくて1952.05.05市制ではないでしょうか。安城市例規集によりますと、
町を市とする処分
昭和27年6月20日
総理府告示第162号
地方自治法第8条第3項の規定により、昭和27年5月5日から、愛知県碧海郡安城町を安城市とする旨愛知県知事から届出があつた。
とあります。

◎京都府
6 1894.10.01 新設 船井郡富本村 船井郡 富庄村, 本庄村
この新設合併は果たして1894.10.1なのでしょうか。この新設合併の根拠は府公示第125号(明27.7.23)で
町村制第4条に依り内務大臣の許可を受け船井郡本荘村富荘村を合併し富本村と名称す
と施行日には何も記載されておらず、京都府市町村合併史(編:京都府立総合資料館、1968)では府告示の1894(明27).7.23を町制の施行日と推測しています。
なお船井郡誌(編:船井郡教育会、1915)74頁には
明治27年10月富庄、本庄2村再び合併して富本村と改称す
と記載されています。

◎鳥取県
30 1913.10.11 新設/町制 日野郡根雨町 日野郡 根雨村, 真住村
1913.10.11新設/町制ではなくて1913.10.17新設/町制ではないでしょうか。
郡市町村廃置分合表(明治42年1月1日-大正2年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大4)では大2(1913).10.17実施とあります。
また平成17・18年鳥取県統計年鑑(平成19年刊)内、1沿革・土地6市町村の変遷(PDF)7コマでも大2(1913).10.17合併/町制とあります。

54 1918.03.01 新設 岩美郡米里村 岩美郡 三戸古村, 大路村
1918.03.01新設ではなくて1918.4.1新設ではないでしょうか。
郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9)では大7(1918).4.1実施とあります。
また平成17・18年鳥取県統計年鑑(平成19年刊)内、1沿革・土地6市町村の変遷(PDF)1コマでも大7(1918).4.1合併とあります。


以上、多数になりましたがよろしくお願いします。

[67521] 2008 年 12 月 6 日 (土) 23:14:32 むっくん さん
 与謝郡岩屋村の分立について

[67517]88さん
京都府与謝郡市場村の一部が与謝郡岩屋村として分立する年月日について
(中略)
確かに施行日の記述はありませんが、施行日の記述がないとき基本的な考え方は「告示日=施行日」ではないでしょうか。原典である京都府告示を元に考えると、ご紹介の岩屋村史及び野田川町史の「M27.10.13付け分立」との記述に疑問符をつけたほうがよいのではないでしょうか。
以前[67216]を書き込んだときには、施行日の記述がない時の基本的な考え方は「告示日=施行日」ではあるが、県(都道府)史や市町村史の記載に別途記載がある時はそれに従う、という考えでした。
しかしつかんぼやんと掲示板で灘の生一本さんの[2946]での考察を拝見して、当該都道府県の公布式に具体的に施行日について記載していない限りは、施行日の記述がない時は「告示日=施行日」を原則とするという考えに変わりました。
#今まで指摘した箇所で、私の考えの変更によって修正しなければならない箇所というのは特にありません。新情報により、新たに変更をお願いすることはあるかもしれませんが。
#また市制町村制施行以前は、当該都道府県の布達や達、(明治19年の中途からは)告示や県令、が出されたからといっても当該町村の廃置分合がすぐになされなかった場合も多々あります。市制町村制施行以前に町村の廃置分合がなされた法的施行日については別途考える必要があるやもしれません。

閑話休題。岩屋村の分立の話に戻ります。
京都府市町村合併史(編:京都府立総合資料館、1968)では、船井郡須知村の町制以前では、根拠となる京都府告示に施行日を記載していないため、とりあえず「告示日=施行日」とみなしているとの記載がありました。
これはおそらく、当時の公布式でも特に施行日について定めていなかったからであると考えられます。

そこで与謝郡岩屋村が分立した日はM27(1894).10.12とする88さんの判断は妥当なものと考えます。

上記のこととのからみで、京都府の一箇所を意図的に紹介せずにいたのですが、次稿で紹介します。

つづく。

[67520] 2008 年 12 月 6 日 (土) 21:47:54 hmt さん
 小坂鉱山に係る自然と人 (8) 秋田県第2の都会?

古い新聞(日経の前身)に、明治45年の鉱山めぐりの記事がありました。その中の小阪【小坂】鉱山。

中外商業新報明治45年
某月某日、奥羽線大舘駅の一旗亭を発し小阪鉄道に乗換して急行すること十四哩半、海抜五百八十尺の高処に達す、下車すれば眼前に一大市街の開展するを見る、旅館あり、商店あり、郵便電信局あり、銀行あり、学校あり、人口三万と註せらる、即ち是れ鉱山の所在地にして小阪町なりと云う。本邦第一の称、実に余輩を欺かずと思えり。

記事の末尾には、“小阪鉱山今後の盛衰は実に探鉱の成績如何に繋れり、記して他日を俟つ。”と記され、既に黒鉱も無尽蔵ではなくなったことが認識されています。

それはさておき、“人口三万”は、「白桃都市人口研究所」所長から一言ありそうな数字です。

秋田県鹿角郡小坂村の人口は、銀山時代には、明治31年日本帝国人口統計の現住人口 5,187人という程度でした。
これが黒鉱を原料とする銅の生産が始まった明治36年には 7,860人、日露戦争を経た明治41年には 14,975人、大正2年には 19,229人と急増して、土崎港町を追い越して秋田県第3位の人口を擁するに至りました。そして翌年には 小坂町 になり、第一次大戦を迎えます。

この第一次大戦中が小坂の最盛期で、公式人口の最高を記録した大正6年には21,696人で、秋田県第2の都市だったと思われます。大正7年日本帝国人口静態統計 による小坂町の現住人口は 20,217人で、能代港町に僅かに及びません。

それにしても“人口三万”にはなりませんが、明治末期の「小坂村事務報告」に「無届ケ住民ハ少ナクトモ5千ヲ下ラザルベシ」とあるように、人口調査が及ばない人口がかなりあったようです。飯場の浮動人口も加え、秋田市の3万5千人に次ぐ人口3万人も夢物語ではないようだと 郷土館のひとくちメモ は伝えています。

[67519] 2008 年 12 月 6 日 (土) 20:57:03 スナフキん さん
 年経県値について、皆さんのご判断は?

オフの感想、いまだに提出できていません。仕事はヒマなんですが…どうなんでしょう、多少時間が経つと思い出深い部分だけがくっきり残ってきて、ダラダラ長くならずメリハリのある感想になるのかもしれませんが。

ちなみに、オフの企画に関する結果類は、本日中にグリグリさま宛直接メールでお送りできると思います。当日使用したexcelデータに加筆しただけの手抜きまとめですが、オフ会記録ページに掲載の際には、どうぞいかように体裁を改変して下さってもかまいません。

さて、Biglobeトラベルとのコラボで経県が立ち上げられて、ずいぶん経ちました。あちらでは生涯経県値のほか(2008)年経県値も登録できるので、皆さんのお出かけ先をかなり左右している存在ではないかと推測します。私自身も2008年の数値は登録していますが、前半に休暇が取りにくい状況だったことが災いし、このままですと非常に白部が多いまま推移して大晦日を迎えることになりそうです。

まだ、2009年分をどうするか、2008年分を永年保存できるようにするのかはよく分からないのですが、さしあたって2009年の分を計上するに当たって、ひとつの問題(疑問?)が沸き起こりました…私、自身2度目となる大晦日の宿泊を予定しているのです。

通常なら何の問題も起きないのですが、大晦日と元旦が絡む越年宿泊だけに関しては…非常に悩ましいんです。具体的には、12月30・31日・1月1日の2泊3日で、最終日の元旦を2009年の宿泊とみなして栃木県に4点を計上するのが、ありとすべきか…。皆さんならば、どう判断されますか? 私としては、都合いいように解釈するのが許されるならば、○かなぁと考えていますが…。

ちなみに私、生涯経県値上、出身の秋田県を「居住」の5点で換算していません。出生後、3ヶ月も秋田におらず板橋区に戻ったのを親から確認しているためです…厳格に基準を適用すると数値に現れないので非常に悔しいですが、しょうがないかなと思っています。小数点以下の0.5点が許されるなら、秋田にはプラス0.5してあげたいところです(笑)。

[67518] 2008 年 12 月 6 日 (土) 18:49:03【1】 88 さん
 市区町村変遷情報小レス その2

[67517]の続きです。

[67216] むっくん さん
■大阪府大鳥郡向井村の一部(大字七道)を堺市へ境界変更する件について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・記載あり  でした。
ご紹介のM27.2.10付け大阪府告示第30号を拝見しました。また、ご紹介の堺市HP(坂井市合併の歴史)、市制町村制施行時のM22.2.20付け大阪府令第17号も確認しました。これらのことから、M27.2.10付け境界変更を追加しました

■愛媛県温泉郡御幸村の一部を温泉郡道後村に境界変更する件について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M32(1899)._._(月日不明)でした。
ご紹介の愛媛県例規類纂によると、「明治33年告示第158号」なる告示があるのは間違いないようなのですが、施行日の記載の有無も不明です。もっとも、告示のあったM33より前のM32に施行ということは、他の事例からも考えにくいです。
このため、告示の断片?を尊重し、「M33(月日不明)境界変更」と修正しました。将来、新資料を発見でき次第再修正する可能性はあります。
なお、松山市例規集の松山市変遷一覧(愛媛県HP内「市町村変遷一覧」と同じ)には、記載がありません。

■愛媛県周桑郡小松村の町制施行日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」・・・M34(1901).11.22
「辞典」・・・M31(34).11.22  でした。
ご紹介の愛媛県例規類纂を拝見すると、確かに「明治31年告示第187号」なる告示が存在するようなのですが、施行日の記載の有無も不明です。
もっとも、告示のあったM33より前のM32に施行ということは、他の事例からも考えにくいです。
ご紹介のあった愛媛県HP内市町村変遷(pdfファイル)には、ご指摘のあったように同一告示での町制はすべて他の文献(入力済みでもある)と一致していることから、愛媛県HP内市町村変遷(pdfファイル)を参照とし、ご紹介のとおりM31(1898).11.22付け町制と修正しました。新資料を発見でき次第、再修正する可能性はあります。
それにしても、同じM31年告示第187号で町制施行した北条町、川之江町、小松町の施行日がすべて異なるのは違和感が少しあります。

■温泉郡立岩村の一部を浅海村に境界変更する件について,
境界変更したの「温泉郡立岩村の一部」とは「大字萩原」です。
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・T3(1914).10.1で、いずれも「大字萩原」でした。
ご紹介いただいた愛媛県統計書のT2.12.31とT3.12.31の記載内容は、ご指摘のとおり、浅海村と立岩村では大字に変更事項はありません。
念のためさらにあとの2年間を同様に調べてみたところ、愛媛県統計書第13冊大正4年第1編29コマの「市町村区画」(明記がないがおそらく大正4.12.31現在)では温泉郡立岩村の大字に「萩原」が、1年後の愛媛県統計書第15冊大正5年第1編25コマの「郡市町村区画」(大正5年末)では、温泉郡浅海村の大字に「萩原」があります。
つまり、はっきりした根拠ではありませんが、2年ずれた、T5(1916).10.1付けが今回の境界変更施行日であると推測し、修正しました

■高知県長岡郡本山村の町制施行年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」・・・M42(1909).6.1
「辞典」・・・M42(43).6.1  でした。
過去の例からも信憑性が高いと思われる、ご紹介の郡市町村廃置分合表(明治42年1月1日-大正2年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大4)から、M43(1910).6.1付け施行であると判断し、修正しました

■大分県大分郡野津原村,今市村→野津原村の変更種別 新設 or 編入
「総覧」「便覧」「辞典」・・・新設  でした。
「幕末以降総覧」・・・不明(区別記載なし)
S30.3.30付け総理府告示第806号を確認しましたが、明確に新設合併でした。よって、そのままとしました
大分市(野津原村)の沿革のページでは、野津原村の名称が存続したこと等から、誤認等をしたのではないでしょうか。

■大分県大野郡大野町の一部(大字沢田?)がS22(1947).3.1野津原村に境界変更した件について
「総覧」「便覧」・・・記載なし
「幕末以降総覧」「辞典」・・・「大字沢田の一部」
また、大分郡大野町が合併して現在の豊後大野市となるときの大野郡5町2村合併協議会の、第6回協議会資料3(pdfファイル)の5/103で、町名・字名の取扱いに関する資料があり、ここに「大野郡大野町大字沢田」があります。つまり、大字沢田の全部が野津原村へ境界変更したのではなく、大野町に残った部分もある(今回そのまま豊後大野市となった)ことが推測されます。
よって、大字未満(=藩政村未満)の境界変更と判断し、掲載は見送らせていただきます。

■大分県鶴崎市の一部,大分郡挟間町の一部を大分市へ境界変更年月日 S31(1956).2.1 or S30(1955).7.1
単なる入力ミスでした。S30.7.1付け総理府告示第1303号も確認しました。よって、修正しました


[67319] むっくん さん
■広島県賀茂郡下市村→竹原町の町制/改称年月日について
施行日の考え方自体は、むっくんさんのご意見どおり、(「役場設置」という実態面に関わらず)告示日=施行日でよいと考えます。
4月17日に町制を迎えたという実体を重視して
という判断をしたのではなく、単に、私の確認がまだ広島県令までたどり着いておらず、「総覧」の記載どおりM22(1889).4.17付けでの「下市村→竹原町」をそものまま転載しただけです。
改めてご紹介の広島県令を確認しましたので、4.17付けの情報は一旦削除しました。将来、広島県の市制町村制施行時の情報に到達したときに、改めて、M22(1889).4.1付けで「下市村→竹原町」での町村制施行の情報を追加したいと思います。
ちなみに、「総覧」「幕末以降総覧」「辞典」「便覧」とも、M22.4.17付けでの「下市村→竹原町」でした。

なお、M23.2.15付けの市制町村制時の香川県阿野郡坂出町の発足直前の、誤:坂出町、正:坂出村についても県令のとおり修正しました。ちなみに、
「幕末以降総覧」・・・坂出町
「辞典」・・・坂出村
でした。

[67457] むっくん さん
■M33(1900).7.1付けの吾妻郡草津村→草津町・六合村の 分立 or 分割 について
ご紹介のアーカイブ、特に[32495]くにやすさんご紹介の群馬県告示を拝見しました。
よって、吾妻郡草津村を廃し、分割して吾妻郡草津町吾妻郡六合村を置く、と修正しました。
それにしても、各種文献とも、「分立」「分割」の言葉の使い分けにはこだわりが感じられません。
市区町村変遷情報では、諸文献の言葉遣いに関わらず、従前の法人格の継承の有無の観点から「分立」「分割」を使い分けることを引き続き主眼としたいと思います。

―――――――――――――――――――――――――
今回も大変ありがとうございました。また、遅くなって申し訳ありませんでした。

[67517] 2008 年 12 月 6 日 (土) 18:48:59 88 さん
 市区町村変遷情報小レス その1

>むっくんさん
大変遅くなりました。いつもありがとうございます。これだけの調査をするには、相当時間もかかり、投稿にも時間がかかっていることでしょう。ほんとに感謝しています。一歩一歩、充実したものになっていく状態を実感しています。
なお、北海道関連の投稿は別途とします。それ以外のものををまとめてあります。各種文献の正式名称は、いつものとおり[55681]拙稿の冒頭にあります。

[67215] むっくん さん 
■M22(1889).7.1付け市制町村制施行時の岐阜市・厚見郡加納村の変更対象町村名についての変更対象町村名について
ご紹介のM22.6.27付け県令第39号を基に岐阜市厚見郡加納村と修正しました。

ちなみに、「幕末以降」でもそのとおりで、特に富茂登村・稲束村の件は単なる入力ミスでした。
私の作業の手順をお話ししておくと、・・・先に「藩政村」の一覧を「幕末以降」に従いその順でExcelに作成しておき、それをconcatenate関数で","とともに連結し、さらに明治初期の合併等を別途反映させて修正し、別の行で「市制町村制・明治の大合併」を完成させた上で、コピー・ペーストで市区町村変遷情報編集画面に入力しているのですが(「直打ち」は基本的にはしていない)、このチェックが不十分でした。

■M22(1889).7.1付け市制町村制施行時の池田郡粕河原村 or 粕ヶ原村について
ご紹介のM30.3.31付け岐阜県告示第58号を基に池田郡粕ヶ原村に修正しました
ちなみに、「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・「粕河原村」でした。

■M30(1897).4.1付け池田郡養基村の変更対象町村名 池田郡粕河原村 or 粕ヶ原村について
ご紹介のM30.3.31付け岐阜県告示第58号を基に、上記同様、池田郡粕ヶ原村に修正しました

■山口県豊浦郡豊西村の一部の下関市への境界変更年月日について S29(1954).8.1 or S34(1959).8.1
これは、[65812] 拙稿でこの件を追加するときに単に入力誤りしたものです。S29(1954).7.31付け総理府告示第693号で、施行日はS29(1954).8.1付けで間違いありません。よって修正しました

■徳島県那賀郡今津浦村の那賀郡今津村への改称年月日について
これは、[65629]拙稿で本データの修正漏れです。諸文献と6年ずれたT4(1915).1.1町制施行と判断し、今度こそ修正しました

■秋田県仙北郡刈和野村→刈和野町、平鹿郡大森村→大森町、平鹿郡沼館村→沼館町の町制施行年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」とも、仙北郡刈和野村→刈和野町、平鹿郡大森村→大森町、平鹿郡沼館村→沼館町とも、M34(1901).7.23でした。
どうやら手元のExcelデータで整理していたときに、操作ミスで単に入力誤りをしたようです。
よって、M34(1901).7.23付け町制仙北郡刈和野町平鹿郡大森町平鹿郡沼館町と修正しました(刈和野町はそのままで正解)。

■福島県双葉郡久之浜村の町制施行年月日について 
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M35(1902).6.1でした。
過去の例でも、ご紹介の郡市町村廃置分合一覧表(明治31年12月31日-明治36年12月31日)(内閣統計局発行、明39.2)は、信憑性は高いです。
もっとも、いわき市の歴史 久之浜・大久地区の歴史等(pdfファイル)でも「M35.6.1付けで町制施行」とあります。
悩ましいのですが、この「郡市町村廃置分合一覧表」の「明治34年6月7日許可」を重視し、施行日は不明であるものの、ご紹介の福島県統計書を鑑み、許可日=施行日と推測し、M34(1901).6.7付けでの町制と判断し修正しました
なお、福島県告示が最善の資料ですが、新たな資料が発見できればまた検討したいと思います。

■福島県西白河郡矢吹村の町制施行年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M36(1903).12.1でした。
過去の例でも、ご紹介の郡市町村廃置分合一覧表(明治31年12月31日-明治36年12月31日)(内閣統計局発行、明39.2)は、信憑性は高いです。
悩ましいのですが、この「郡市町村廃置分合一覧表」の「明治35年12月22日許可」を重視し、施行日は不明であるものの、ご紹介の福島県統計書を鑑み、許可日=施行日と推測し、M35(1902)12.22付けでの町制と判断し、修正しました
なお、福島県告示が最善の資料ですが、新たな資料が発見できればまた検討したいと思います。

■群馬県北甘楽郡小幡村の町制施行年月日について
「総覧」「便覧」「辞典」・・・T14(1925).5.10
「幕末以降総覧」・・・T15(1926).5.10 でした。
ご紹介の群馬県市町村名変遷早見表(PDF)群馬県統計書第70冊大正14年度人口及雑之部の内容も鑑み、T15(1926).5.10付けでの町制施行と判断し、修正しました

[67216] むっくん さん
■神奈川県橘樹郡宮川村の編入先について
□「総覧」・・・M34(1901)4.1付けで橘樹郡宮川村ほか(橘樹郡保土ケ谷町の一部はなし)を横浜市へ編入
□「幕末以降総覧」・・・M42(1909).4.1付けで橘樹郡保土ケ谷町,矢崎村,宮川村が合併し(新設か編入かは不明)橘樹郡保土ケ谷町に。
  M34(1901).4.1付け、あるいはM42(1909).4.1付けで、橘樹郡保土ケ谷町の一部が横浜市へ編入されたとの記載はなし
□「辞典」・・・M42(1909).4.1付けで橘樹郡保土ケ谷町の一部(大字保土ケ谷,神戸,帷子,岩間の一部),矢崎村,宮川村が合併し(新設か編入かは不明)橘樹郡保土ケ谷町に。
  橘樹郡保土ケ谷町の残余(大字岡野新田,岩間の一部)は横浜市へ境界変更(注)。
  (注:「保土ケ谷町を廃し」であれば廃置分合の一部分であるので「編入」、「保土ケ谷町の法人格が存続する(矢崎村,宮川村を編入する)」のであれば「境界変更」。)
□「便覧」・・・M42(1909).4.1付けで橘樹郡保土ケ谷町,矢崎村,宮川村が新設合併し橘樹郡保土ケ谷町に。
  M34(1901).4.1付け、あるいはM42(1909).4.1付けで、橘樹郡保土ケ谷町の一部が横浜市へ編入されたとの記載はなし
ご紹介の郡市町村廃置分合一覧表(明治31年12月31日-明治36年12月31日)及び郡市町村廃置分合表(明治42年1月1日-大正2年12月31日)や、M42.10.30付け官報(M41.12.31「市町村別現住人口」)から鑑みて、M34(1901).4.1付けで久良岐郡戸太町,中村,根岸村,本牧村,橘樹郡神奈川町を横浜市へ編入M42(1909).4.1付けで橘樹郡保土ケ谷町,矢崎村,宮川村が新設合併し(新)保土ケ谷町が発足と修正しました。
なお、「橘樹郡保土ケ谷町の一部(大字岡野新田,岩間の一部)が横浜市へ境界変更(または廃置分合に伴う編入)される」と推測される件については、施行日もM34(1901).4.1かM42(1909).4.1と推測されるものの、現在のところ確たる資料が不明のため、保留とさせていただきます。新たな資料が発見され次第対応したいと思います。

■神奈川県高座郡高座郡松林村,茅ヶ崎村,鶴嶺村→茅ヶ崎町の新設/町制施行年月日について
「総覧」「便覧」・・・M41(1908).7.1
「幕末以降総覧」・・・M41(1908).10.1
「辞典」・・・M41.7(10).1  でした。
過去の例からも信憑性が高いと思われる、ご紹介の郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明42)等から、M41(1908).10.1付け施行であると判断し、修正しました

■神奈川県三浦郡田越村→逗子町の町制/改称施行年月日について  
「総覧」「幕末以降総覧」「辞典」「便覧」・・・T2(1913).4.1でした。
しかし、過去の例からも信憑性が高いと思われる、ご紹介の郡市町村廃置分合表(明治42年1月1日-大正2年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大4)から、T2(1913).4.5付け施行であると判断し、修正しました

■新潟県北蒲原郡松ヶ崎浜村の新潟市への編入年月日について
単なる入力ミスでした。S29.3.30付け総理府告示第405号も確認しました。よって、S29(1954).4.5付け編入と修正しました

■京都府加佐郡河守下村→河守町の町制/改称年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」・・・M23.10._(日不明)
「便覧」・・・M23(1890).12.10
「辞典」・・・M23.12(10).10  でした。
何といってもご紹介のM23.12.10付け京都府告示第104号がありますから、これ以上の根拠はないでしょう。M23(1895).12.10施行と修正しました

■京都府愛宕郡鷹峰村の一部を分け野口村を置く分立年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M25(1892).2.13  でした。
ご紹介のM25.1.29付け京都府告示第8号に従い、M25(1892).1.29施行と修正しました

■京都府中郡大野村を口大野村及び奥大野村への分割年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」・・・M25(1892).3.30
「辞典」・・・M25.3.5(30)  でした。
ご紹介のM25.3.5付け京都府告示第21号に従い、M25(1892).3.5施行と修正しました(口大野村奥大野村)。

■京都府相楽郡木津村の町制施行年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」・・・M26(1893).4.1
「辞典」・・・M26.11.25(M26.4.1)  でした。
ご紹介のM26.11.25付け京都府告示第178号に従い、M26(1893).11.25施行と修正しました

■京都府与謝郡市場村の一部が与謝郡岩屋村として分立する年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・M27(1894).10.13  でした。
ご紹介のM27.10.12京都府告示第172号を拝見しました。確かに施行日の記述はありませんが、施行日の記述がないとき基本的な考え方は「告示日=施行日」ではないでしょうか。原典である京都府告示を元に考えると、ご紹介の岩屋村史及び野田川町史の「M27.10.13付け分立」との記述に疑問符をつけたほうがよいのではないでしょうか。このため、M27(1894).10.12付け分立と修正しました

■京都府熊野郡久美浜村の町制施行年月日について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」・・・M27(1894).11.27
「辞典」・・・M27.11.24(27)でした。
ご紹介のM27.11.24付け京都府告示第199号に従い、M27(1894).11.24施行と修正しました

■京都府葛野郡嵯峨村,下嵯峨村→嵯峨村の変更種別 新設or 編入について
「総覧」「便覧」「辞典」・・・「新設」  でした。
「幕末以降総覧」・・・不明(区別記載なし)
ご紹介のM36.12.1付け京都府告示第546号に従い、編入合併と判断し、修正しました

■京都府中郡丹波村の一部(大字杉谷)を峰山町へ境界変更する件について
「総覧」「幕末以降総覧」「便覧」「辞典」・・・記載なし  でした。
ご紹介のT7.5.7付け京都府告示第255号及び市制町村制施行時のM22.2.23付け京都府令第26号を確認しました。いわゆる藩政村単位ではありませんがほぼその範囲であり、T7.7.1時点での大字単位すべてであり、M22.4.1付けでの市制町村制施行時のものとあわせて事実上藩政村単位での異動になることから、対象とし、T7(1918).7.1付け境界変更を追加しました


続きます。

[67516] 2008 年 12 月 6 日 (土) 18:33:04 むっくん さん
 サイドタウン

[67515]油天神山さん
「ハイウェイサイドタウン」では町名として長すぎる、というのはもっともですが、単に"Side Town"では、「横丁」と訳したくなっちゃう(笑)。新興住宅地のイメージが台なしになりそうで・・・。
サイドタウンは、本来的には名神高速道路開通に併せて、京阪神の別荘地として開発されたものだったと記憶しています。
菩提寺ネットには、
昭和40年から北部から開発が始まり、田舎にしては交通の便が良いため京阪神からの移住者がゆったりとした生活に憧れて来るようになった。そのため当時は別荘が非常に多く、特徴的な三角の形をした赤や青の家が多く建ち並んでいた。
とあります。その後、別荘地から現在一般に思われているような新興住宅地に、徐々に変化してきました。

さて、湖南市には、油天神山さんの地名コレクションに将来追加される可能性のある町名候補がまだあります。
菩提寺ネットでは、サイドタウンや近江台と同一小学校区ではイワタニランド、その南隣の小学校区では三上台が紹介されています。また、三雲の方には甲陽台というのも確かあったように記憶しています。
果たしてイワタニランドという町名が将来出来るのかが、個人的には興味深いのですが。。。

何か、とてもローカルな話になってしまいましたので、このへんで書き込みを終わることにします(笑)。

[67515] 2008 年 12 月 6 日 (土) 12:00:46【1】 油天神山 さん
 オフ会不参加の弁ならびに地名コレクション

お久し振りです。落書き帳には日参しておりましたが、まとまった書き込みをする時間がなかなか取れず、気がついたら一ヶ月以上のご無沙汰となってしまいました。

その間にオフ会はどうやら盛会のうちに終了したご様子で、羨ましい限りです。
毎年オフ会の案内が出るたびに「いいなあ、行きた〜い!」と叫んではいるのですが、如何せん懐具合が苦しいもので毎度失礼しています。
近所で開催の折には是非とも馳せ参じたいとは思っているのですが、関西では三年前に開催済みなんですよね。当時の私は、その年の6月に落書き帳への初書込みを行った切りで、オフ会参加どころかメンバー登録さえ思いもよりませんでしたから・・・今思うと実にタイミングの悪い話です。次の関西開催は何年後になるかなあ。

話変わって。
[67324]伊豆之国さん
お返事がすっかり遅くなって申し訳ありません。湖南市サイドタウンならびに近江台の情報提供をありがとうございました。
国土地理協会HPの10月の地名変更情報に出ていましたから、Mapionの改訂は来月あたりになるかと思います。改訂され次第、地名コレクションに収録の予定です。

さて、この「サイドタウン」の語釈について、ちょっと考えてみます。
Mapionで探してみると、どうやらこの辺りが「サイドタウン」になったようですが、町内に「ハイウェイサイドタウン」というバス停があるようです。
なるほど、高速道路沿いの町ということか! ということで腑に落ちましたが、これを「サイドタウン」と略してしまうのは如何なものでしょう。
「ハイウェイサイドタウン」では町名として長すぎる、というのはもっともですが、単に"Side Town"では、「横丁」と訳したくなっちゃう(笑)。新興住宅地のイメージが台なしになりそうで・・・。

またもや話が飛びますが、今年10月の地名変更情報には「○○ヶ丘」2件、「○○台」3件、「○○の里」1件、「外来語由来」1ないし2件が挙がっており、私が新興住宅地シリーズの編集に携わるようになって以来の大豊作となりました。来月は忙しくなりそうです。
この「1ないし2件」とは何のこっちゃ? と思われる方もおありかと思います。
これは外来語かどうか判断しかねている町名が1件あるからで、それは「四街道市もねの里」であります。

「もね」と聞いてフランス印象派の画家クロード・モネClaude Monet(1840-1926)を思い浮かべる方は多いと思います。
モネは「光の画家」との異名を奉られているくらいで、正に住みたくなるような明るい田園風景を多く描いてきた画家です。新興住宅地の町名に借用される可能性は大いにあると思います。
ただ、まだ裏づけが取れていません。いろいろ調べてはいるのですが・・・。差し当たっては情報提供待ちのコーナーに掲載する方向で考えています。

「四街道市もねの里」の由来についてご存じの方がおられましたら、どうか情報をお寄せ願います。

[67514] 2008 年 12 月 5 日 (金) 20:49:38 千本桜 さん
 分岐の注記

[67502]Issie さん
「ニューエスト」の記載も照らし合わせると,まだ記載されているかもしれませんね。

2万5千の分岐を見つけました。集落は消滅しても「分岐」の名称は残っています。推測ですが、図葉名が「分岐」ですから、集落がなくなっても「分岐」の注記を消すことができない(消せば、図葉名を変更しなければならない)。または、注記密度が疎らですから残しておいても差し支えない。あるいは、場地名としての必要性が高い。そんなこんなの理由があったのかな、と思います。ヤフー地図に記載された「分岐」は、地理院2.5万が基になっていると考えます。

[67513] 2008 年 12 月 5 日 (金) 17:01:32【1】 山野[揖斐の山] さん
 任意協

でるでるさんへ。
12月1日に新庄最上地域合併検討協議会(任意)のHPページが開設されていました。
一方こちらの該当ページ印西市・印旛村・本埜村合併問題懇談会は(リンク先は印西市ホームページ)になるかと思います。
更新お願いします。

[67512] 2008 年 12 月 5 日 (金) 16:11:42 hmt さん
 小坂鉱山に係る自然と人 (7) その後の小坂

[67503] いっちゃん さん
「小坂をもっと知って欲しい会」会長

「三本松を全国的に有名にする会」会長 以来の伝統を誇る落書き帳内任意団体会長の登場ですね。

これまでに、一升瓶友の会会長[59481]、落書き帳パズル愛好会会長[65820]なんてのもありました。
ニックネームとして、ズバリ「NTJ会長」さんを名乗る方もあります。この方は、再調査予定の島を勝手に確認し隊[34591]、湖水の島探し隊[36028]、湖水の島ファンクラブ[37096] など いろいるな任意団体を立ち上げています。

それはさておき
小坂に戻り、「黒鉱」以後の動きをまとめておきます。
明治35年(1902)6月に黒鉱自溶製錬が本格操業した後、明治38年(1905)に小坂鉱山事務所建築。
明治41年(1908)9月に皇太子殿下(後の大正天皇)行啓。10月には黒鉱露天掘り開始(〜1920)。
明治42年(1909)には小坂鉄道が開業。貨物だけでなく、旅客運輸も開始されました。
明治43年(1904)に康楽館が完成。

この後、時代は飛んで、第二次大戦が近づくと政府は戦略物資の非鉄金属の統制にかかります。そして戦時中の昭和18年(1943)の年末には、小坂の経営は、国策会社の帝国鉱業開発株式会社に移りました。
戦争が終って復帰した藤田組は、昭和20年(1945)の12月に同和鉱業と社名変更。

長い操業の間に、さしもの黒鉱も涸渇してきました。幸い、1959年に「内の岱」で大鉱床が発見され、1962年から採掘開始しましたが、1990年に閉鉱。小坂町内のすべての鉱山が閉山したのは1994年でした。

銀鉱山から銅鉱山へと転進し、その歴史も終えた小坂ですが、現在はその技術を生かし、ガリウム(1973)、インジウム(1976)などのレアメタル関連・環境リサイクル事業・金属表面処理など独自の分野に活路を見出しています。
かつて大気汚染物質の硫黄酸化物を排出した金属鉱山は、大量の副生硫酸を鉄道で搬出する時代を経て、電化製品スクラップからの金属資源リサイクル(都市鉱山)など硫黄と無縁な方向へと変りました。DOWAグループ
小坂鉄道の硫酸輸送終了は、本年3月。

先日の小坂訪問の折には遠望しただけでしたが、水蒸気が湧き上がり、現役で稼動している産業施設であることが窺えました。
小坂鉱山事務所の移築復元 も、電解工場増設の支障になったことがきっかけとか。

[67511] 2008 年 12 月 5 日 (金) 13:33:57 山野[揖斐の山] さん
 伊豆/姶良

(静岡県)
東部広域都市づくり研究会が今年2月に解散となりましたが昨日の定例議会に於いて
函南町が東部の首長に論議を年明けにも呼びかける事にしたと発言。
(鹿児島県)
10月に解散となった姶良地区の任意協。この解散後、商工側が合併を求めて要望書を提出したと言う。
それから解散となりましたこちらの任意協のリンクが切れていますので削除お願いします。
(一覧では解散予定の名目となっていますが、実際は既に切れていました。)

[67510] 2008 年 12 月 5 日 (金) 08:46:44 上ひら さん
 Re:高槻の三国

hmtさんこんにちは。[67463]にて、<高槻の三国>で質問させていただたいたものです。

この場所は、高槻の人でも知る人がすくなく、また、高槻のええとこブログでも、書かれていましたが、橋の名前のところも倒れてしまっています。

http://takatsuki.osakazine.net/e142430.html

地名などからは、その土地の歴史がすごく見えてきます。そういった言い伝えなどが、ちゃんと残るように、[都道府県市区町村]のような取り組みはすごく意味のあるものだと思います。

昔は、土地のひとから土地の人、親たちから子どもたちに当たり前のように口承されてきたいろんなことが、核家族になったり、地域で生産をしなくなったこともあって、うまく伝えられずに、埋もれていってしまっているようにも感じております。

あと、ぜひ、高槻の三国も<三国コレクション>にいれてくださーい。

それにしても、このサイト、すごいですね。お気に入りにいれて、なにか調べたいときには、活用させたいただきます。ほんとにありがとうございました。

[67509] 2008 年 12 月 5 日 (金) 03:19:59【2】 YT さん
 仙台藩・仙台の人口 -2-

改めて江戸時代の仙台の人口の内、町方、寺院方人口をまとめると以下の通りです。
年号西暦合計町方寺院方出家寺院方俗
元禄8年1695年25,59022,7066312,253
寛保2年1742年20,37420,3748635,386
明和9年1764年23,098
天明6年1786年15,61711,6105943,413
享和2年1802年17,79813,3026523,840
文政8年1825年18,44413,7497103,985

最盛期には7万人を超えたと推測される仙台の人口ですが、こう並べてみると、1742年と1764年の間で仙台が大幅に減っていることが判ります。『日本地誌提要』によると明治6年には5万1991人です。
[67508]を見れば判るように、仙台の人口のみならず武家人口ですら大幅な人口減少が起こっています。これは天明の大飢饉の影響であると考えれております。仙台藩の陸奥国のみの郡方人口については別史料が存在しており、実際天明年間に10万人の人口減少が起こっています。

年号西暦郡方人高年号西暦郡方人高年号西暦郡方人高年号西暦郡方人高
元禄3年1690年507,900明和4年1767年525,595寛政元年1789年409,632文化12年1815年468,149
元禄8年1695年542,268明和5年1768年524,023寛政2年1790年410,401文化13年1816年472,030
寛保2年1742年559,204明和6年1769年522,759寛政3年1791年411,173文化年1817年475,481
延享4年1747年556,887明和7年1770年520,485寛政7年1795年411,823文政元年1818年477,013
寛延元年1748年551,796明和8年1771年519,557寛政8年1796年415,054文政2年1819年478,654
寛延2年1749年550,158安永元年1772年522,346寛政9年1797年423,074文政3年1820年478,372
寛延3年1750年551,875安永2年1773年519,714寛政10年1798年425,786文政4年1821年479,211
宝暦元年1751年551,000安永3年1774年518,691寛政11年1799年431,488文政5年1822年477,637
宝暦2年1752年551,367安永4年1775年516,062寛政12年1800年437,204文政6年1823年480,670
宝暦3年1753年541,110安永5年1776年516,481享和元年1801年439,125文政7年1824年482,200
宝暦6年1756年539,036安永6年1777年510,249享和2年1802年440,799文政8年1825年481,190
宝暦7年1757年534,901安永7年1778年509,112享和3年1803年440,769文政9年1826年482,884
宝暦8年1758年517,263安永8年1779年505,798文化元年1804年436,763文政10年1827年486,640
宝暦9年1759年515,430安永9年1780年503,931文化2年1805年438,237文政11年1828年490,571
宝暦10年1760年514,576天明元年1781年502,124文化3年1806年438,658天保元年1829年495,744
宝暦11年1761年512,641天明3年1783年493,245文化4年1807年436,468天保2年1830年494,080
宝暦12年1762年513,625天明4年1784年478,894文化5年1808年435,967天保3年1831年495,501
宝暦13年1763年530,252天明5年1785年413,191文化8年1811年453,070嘉永5年1852年478,982
明和元年1764年525,391天明6年1786年411,496文化9年1812年457,301文久3年1863年540,176
明和2年1765年525,067天明7年1787年410,974文化10年1813年458,876慶応3年1867年556,983
明和3年1766年524,845天明8年1788年410,196文化11年1814年463,724

天明年間には武家・使用人階級ですら5万人も人口が減っており、仙台陸奥国領内だけで総人口の1/4に相当する約20万人もの人口が飢餓、疫病、江戸・他藩への流入により消失したことになります。

次回は鹿児島についてまとめます。

[67508] 2008 年 12 月 5 日 (金) 03:11:10【1】 YT さん
 仙台藩の人口 -1-

ほぼ一カ月ぶりに[67197]の続きをまとめます。

先月、今月と当分忙しく、ここ暫く文献調査の機会がほとんどない状況です。

江戸時代の仙台の人口を調べる過程で、
(1) 1772年頃に仙台藩の田辺希文が編纂した『封内風土記』
に記載の仙台の人口を[67197]にまとめましたが、このほか仙台藩時代の人口に関しては、
(2) 玉山勇「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 1942
年、73巻(1号)、pp. 63-94.
(3) 『宮城県史』
にまとまっておりましたので以下紹介します。

まず仙台藩の身分別人口は以下の5年間分伝わっております。

元号元禄8年寛保2年天明6年享和2年文政8年
西暦1695年1742年1758年1802年1825年
惣人高819,749816,061596,282639,070687,802
御一門並諸士諸組付諸職人202,541182,678130,509140,438146,352
仙台寺院人高2,8846,2494,0074,4964,695
 内出家631863594652710
 内俗2,2535,3863,4133,8403,985
御郡方人高542,268559,204411,496440,799481,180
近江国御知行所人高9,0958,9177,9828,0898,129
常陸国御知行所人高10,1949,2997,6117,3587,402
下総国御知行所人高155143147150
仙台御町方人高22,70620,37411,61013,30313,749
一関御家中人高3,3752,8922,6652,7703,113
一関御知行所人高26,69426,29320,25921,67123,032
惣人高と合計の差81

江戸時代武家および使用人の人口は幕府の統計からも除外されていましたが、このように各藩の内部資料には武家・使用人の人口統計が残っています。なお仙台藩の場合は少数の被差別階級の人口が別扱いになっていたようですので、藩が把握していても「惣人高」に加えていない人口が若干あったようです。一関藩は仙台藩の支藩で、仙台藩の「惣人高」に加えられています。
仙台藩は陸奥国の他、近江国、常陸国、下総国にも飛び地を領有しており、御郡方人高(=陸奥国御知行所人高)、近江国御知行所人高、常陸国御知行所人高、下総国御知行所人高、一関御知行所人高の5箇所が仙台を除く郡方の人口です。
一方仙台の人口に関しては仙台御町方人高(町方人口)と仙台寺院人高(寺社方人口)が判明しております。
「御一門並諸士諸組付諸職人」とされる武家・使用人人口は地方に暮らす半農の郷士の人口を含んでおり、城下に暮らす御一門などの武家人口が不明です。ただ町方戸数2385戸に対し、侍屋敷の戸数は8900余戸と伝わっており、仙台府内の武家・武家使用人人口は4万4千人程度と推測されています。

一方[67197]でまとめた『封内風土記』には仙台藩の封内(陸奥国領内)のみの人口がまとめられおり、改めて紹介すると以下の通りです。

仙台城下町または郡諸士並諸士家僕町人百姓
大町2,441
肴町1,285
南町935
立町1,219
柳町687
荒町1,133
国分町1,672
旧材木町675
北材木町1,007
北目町793
二日町926
両染師町704
田町483
新伝馬町796
穀町287
南材木町578
河原町707
南鍛冶町616
北鍛冶町440
宮町779
亀岡町164
大崎八幡町1,341
支倉澱橋町370
処々士宅廃地支店441
処々寺院門前市店2,619
宮城2,95031,141
名取2,10331,324
柴田1,89618,953
刈田15,44611,970
伊具7,39618,614
亘理8,4438,839
宇多3234,139
黒川2,61510,813
加美1,29715,003
玉造3,0678,710
桃生3,85932,757
牡鹿27931,786
本吉42142,612
登米6,79523,193
志田6,18214,923
遠田12,29012,832
栗原6,48365,621
胆沢6,32330,876
磐井3,92355,396
気仙16328,309
江刺2,77032,553
合計95,02423,098530,364

つまり明和9年(1764年)の仙台藩には地方に9万5024人の郷士・使用人が暮らしていたことになります。寛保2年(1742年)の武家・使用人人口は一関藩を除く4国で合計18万2678人ので、人口差の8万人がそのまま仙台に住んでいたと仮定すると仙台城下の人口は10万人を越えてしまいますが、まあ『封内風土記』の武家・使用人人口は色々漏れがありそうですので、この推論は成立しないでしょうね。

[67507] 2008 年 12 月 5 日 (金) 02:28:56【2】 はやいち@大内裏 さん
 栃木等

[67418]拙稿続き
※1西方町は閉会中に議員全員協議会を開き(12/4) 上程の可否を判断する予定です。
西方町長は栃木地区での法定協設置に議会の理解が得られず、今月中に辞任の意向を表明しました。

佐野市・岩舟町は12/5に法定協設置議案を各議会に上程します。

県議会 上程議案:廃置分合
宮城11/27-12/15本吉町を廃止し気仙沼市に編入
栃木12/10-12/25二宮町を廃止し真岡市に編入

市町村議会
(1)上程議案:廃置分合
愛知 清須市 12/3-12/22 春日町 12/5-

(2)上程議案:法定協の設置
栃木栃木市 11/28-12/17藤岡 12/10-12/17都賀町 12/9-12/12大平町 12/7-12/11西方町(提出見送り)
栃木佐野市 12/5-12/19岩舟町 12/5-12/19
和歌山新宮市 12/2-12/17那智勝浦町 ?
福岡前原市 12/1-12/19二丈町 12/9-志摩町 ?
長崎佐世保 12/1-12/18佐々町(12/1 否決済)

[67506] 2008 年 12 月 5 日 (金) 00:40:28【1】 白桃 さん
 ヤケ

[67498]小松原ラガー さん
ん?駅名では「川西池田」なんてもの。
対抗しましょう。「千歳船橋」っていうのもあります堺。人口トータル的にはこっちが上で屈斜路湖。

今日は仕事上、いろいろ有馬温泉。
普段より2合以上入ってますう。

[67505] 2008 年 12 月 5 日 (金) 00:22:12 YSK さん
 新大阪

関西に行く時、帰路はたいてい新幹線利用となるので、宿の拠点は新大阪にすることが多いです。ただし、フィールドワーク実施時(11月22日〜24日)は多くの人々が観光等で関西を訪れていたようで、どうしても大阪で宿泊先を確保できず、22日は少し離れた姫路での宿泊となりました。

この甲斐もあり23日は姫路・明石フィールドワークを行うことができ、姫路城も初めて体験することができたのですが・・・。23日は本当に穏やかな晴天で、穏やかな瀬戸内海に向かう播磨エリアの地域性をどこか髣髴とさせるような、やさしい色彩の青を空は呈しているように感じられました。明石は地域区分としては播磨エリア(東播磨)に属し、町を歩いていても会社名等に「東播磨○○」とか「東播○○」などといったものが散見されたのですが、一方で神戸市とも密接な結びつきがあると思われます。日常生活圏としては明石市周辺はどのように捉えたらよいのでしょうか、気になるところではあります。

ところで、新大阪です。ここは市街地の中心駅というよりは広域的な移動の拠点駅としての位置づけがより濃厚です。駅前もタクシープールや駐車場、バス停などが機能的に集約されていて、それらをホテルやオフィスビルなどが取り囲む風景は、交通結節点として特化した、無機質な印象を刻ませるものとなっているように感じられます。人々がせわしなく歩き、大都市・大阪が引き寄せるダイナミックな躍動感を存分に感じることができる駅構内のそれとは本当に対照的です。

ここ数年新大阪は上述のとおり関西訪問時の拠点として使っているのでようやく駅の構造にも慣れてまいりまして、そんな駅の内外で好対照を見せる新大阪でも、日々多くの出会いや別れや日常の生活があって、いろいろなドラマがもしかしたらあるのかもしれないなどと考えが及ぶような余裕も出てまいりました(大阪駅の構造は1年に数回しか来ない者には複雑すぎて、まだまだよく分かりませんが・・・汗)。そうしたドラマを思うとき、活気に満ちた駅中とは一線を画す構外の無機質な風景は、人々のこうした輝きや悲しみや懐かしさを一緒くたに包含したような、無常や可能性、うまく表現できませんが、そういった人間の弱い部分とか、ピュアな部分とか、そういった部分をあるいは象徴しているのではないのかな、とも感じるのでありました。

末筆ですが、新大阪駅、在来線部分に設置されたエスカレータはことごとく「右寄り」に列ができていましたが、新幹線ホームへ上がるエスカレータは「左寄り」に列ができていたのが興味深かったですね。

[67504] 2008 年 12 月 4 日 (木) 23:13:20 小松原ラガー さん
 遅ればせながらオフ会顛末・・・

小松原ラガーです。遅ればせながらオフ会の顛末を。

まずは今回のオフ会、幹事のグリグリさん、いっちゃんさん、スナフキんさんはじめ、関係の皆様大変お世話になりました。遅くなりましたが御礼申し上げます。有難うございました。

今回は北東北、秋田の地での開催でしたが、私にとっては経県値の薄い地域、というか福島の飯坂温泉、仙台と平泉くらいしか東北はまとも経験していないので、その意味でも自分自身にとって価値がありました。残念ながら仕事の関係でカレンダー通りの休みしか取れなかったため、もう少し回りたかったのですが、それもかなわず、という状況でした。

出発は22日(土)のお昼。午前中に自宅にて諸々の用事があったため、正午頃に家を出て、新神戸駅へ。新神戸で昼飯用に「たこにぎり」を購入し、13時過ぎののぞみに乗るや否や新大阪に着くまでにおなかの中へ。そのまま、東京まで直行し、東京駅で15分ほどの乗換えでつばさに乗り換え新庄まで。実は、オフ会の実施が発表されてから、色々と往路、帰路を考えたのですが、いかんせん当日出発で湯瀬温泉に夕方までに入ろうとすると、神戸の自宅からでは結構苦しいことが判明。飛行機を使えばなんてことないのかもしれませんが、コスト面で断念。では電車・バスとなりますが、昨今のキーワードともいえる「ごく普通の民間人の行き方」ではあまりにも面白くないので、あれやこれやと考えてしまいました。当初は日本海沿いに進み、富山県を宿泊化してから湯瀬温泉に向かおうと考えましたが、富山に宿泊すると翌日出発では湯瀬温泉夕方着がかなり苦しいことが判明。では、ひたすら行けるところまで日本海沿いに北上し、翌日そこから湯瀬温泉に向かうことも考えましたが、どうも今市。どうせそうならということで、少し鉄分系に走りました。で、私自身、奥羽本線の福島〜秋田間が完封状態だったので、そこをクリアすることとしました。で、上で述べたようにのぞみ〜つばさと乗り継いで一気に新庄までとなったしだいです。

福島駅を出て、山形新幹線へと列車が進むと間もなく一面の雪。板谷峠辺りは夜でしたが結構な風景でした。ただ、お昼のたこにぎり以降は固形物を何も口にしていなかったので、宇都宮辺りから結構おなかが減ってきて空腹に耐えながらの道中でした。20時前に新庄駅に到着。小雨混じりながらも、街中には雪が残っており、「ついに来てしまった・・・。」と感じてしまいました。ホテルのフロントでチェックインするや否や、部屋に入らずにそのまま近くの「とりもつラーメン」のお店に。ガ〜ン!ショック!既にお店は閉まっているではないですか!もう一度ホテルに戻り、フロントで「この近くでとりもつラーメンを食べられるところはありますか?」と聞くと、「ここらは夕方にはみんな店を閉めちゃいますからねぇ。」とのこと。色々聞いていくうちに、やっと一軒午前3時まで営業しているところを教えてもらい、そこでようやくGET。あ〜、腹減った。^^; 余談ですが、満腹になったあと、ホテルでマッサージを呼ぼうと思ってフロントに電話をかけたら、「この街には出張でホテルまで来てくれるマッサージ師がおりませんで・・・。」とのこと。sigh・・・。

翌日(23日)、まだ雪が残る中、8時半頃に正真正銘の在来線で新庄から北上開始。湯沢、横手を経て大曲で秋田新幹線に乗り換え。この区間は結構雪が残っており、また、森の中を抜けて行く路線でもあり、結構堪能させてもらいました。大曲では2分の乗換えでこまちへ。特急券を買う余裕もなく、新幹線改札で乗車券だけを入れたら当然のごとく自動改札が閉じる。駅員に特急券がないことを告げると、「東京行きはまだ8分ほど時間があるので、あちらの券売機で買ってください。」と駅員。「ちゃうちゃう。秋田行きです。もう出ちゃいます。」と言うと「じゃ、秋田駅で清算してください。」とのこと。何とか秋田行きのこまちに乗車。ほっ。秋田に着くと、既に「リゾートしらかみ」がホームに停車中。へぇ〜っと感心したり、改札を出て駅の周り、いや駅の「近傍」をチョロチョロしているうちに青森行きの列車の発車時刻。本当は5分ほどあとの男鹿行きに乗車の予定だったのですが、ディーゼルよりも電車のほうがよかろうと思い、追分まで電車で移動。ここでうっかりしていました。実は、元々の予定では秋田駅で駅弁などの昼食を調達する予定だったのですが、朝食をしっかり食べたことと、まだ11時ごろだったため、ころっと忘れてしまいました。これが結構悲劇の始まり。男鹿まで行き、駅前で何か調達できないか探すも、日曜日だったこともあり、全滅。戻って追分での乗り換え待ちの間に調達を試みるも、これまた全滅。その後、東能代、鷹巣と歩みを進めるも、停車時間がそれほど長くなく、ここでも調達不可能。結局15時過ぎに大館に到着するまでお昼抜き。うぅぅぅ・・・。ただ、もう15時を過ぎており、18時からの宴会を考えると、腹が減っているからと言ってもそんなに詰め込むわけには行かない。ここでもおにぎりを2つほど駅のコンビニで買って腹に詰め込んで、16時ごろの花輪線でいよいよ湯瀬温泉へ。やはり緯度が高く、日本標準時子午線より東にあるせいか、この時期、既に外は夕暮れから夜の世界へ。湯瀬温泉着は17時過ぎでしたが、真っ暗。ということで、今回参加の21人中、最後の現地登場となってしまいました。因みに、男鹿線の乗りつぶしですが、男鹿から戻って来る時に、天王の駅で行き違いがあると勘違いして思わずホームへ降りてしまいました。というか、行き違いで少し止まるだろうから、その間に写真でもとろうかと思ったのですが、降りたら単線でホームは一つ。かつ、「発車しま〜す。」との車掌のひと言。慌てて社内に戻ったのですが、たったこの数十秒、いや十数秒かも、が、宴会の際の逆認市度クイズで多くの方の人心を惑わすことに。つまり、潟上市に接地してしまったという次第です。考えてみれば横手も、東能代も、鷹巣もそうですが、本来は設置しなくてもよいところでの設置が今回は多かったです。

さて、皆様との楽しいひと時を湯瀬温泉で過ごしたあと、24日は9時46分組で盛岡まで移動、ここで皆さんと別れて、新幹線のホームで函館から来た、しかも道中の坂道で滑って転んで顔に怪我をしたいっちゃんさん(^^;)とタバコをふかしたあとお別れし、あとは、はやて、のぞみと乗り継いで新神戸までさっさと帰ったという次第です。尚、帰りもな〜んも考えずに列車の予約をしていたため、全く昼飯が考慮されていなかったのですが、こちらは14時過ぎに東京駅到着後、何とか鯖ずしをGETして事なきを得ましたとさ。^^;

何はともあれ、来年のオフ会は、一説にはオリンピック方式で○○市だとか、○○さん未宿泊の県だとか、いろいろある模様ですが、来年もまた参加できるように周到な準備を進めたいと思いますので宜しくお願いいたします。

[67503] 2008 年 12 月 4 日 (木) 23:08:00 いっちゃん さん
 小坂

[67501]hmtさん
オフ会のついでに立ち寄った小坂ですが、調べてみると、日本の産業のいろいろなところに、小坂をルーツとする藤田・久原に縁のある産業人が関係していました。
オフ会が湯瀬に決定し、周辺の見所として小坂を推した立場ではありますが、それは単にみちのくのメジャーではない彼の地に「地理好きには結構そそられるポイントがあるよ」程度のレベルでした。hmtさんの一連の『小坂』絡みの書き込みを拝読するにつれ「私に、もっとそのようなバックグラウンドを踏まえる造詣があれば・・・」と、自らの不勉強を反省することしきりです。
さりながら、グリグリさんをはじめ、今オフ会を機に小坂の地(十和田湖畔ではない)を訪れていただいた方がいらっしゃったことは、自称「小坂をもっと知って欲しい会」会長としては嬉しい限りです。旅行と言うか観光と言うか、そんな業界に20年ほど足をつっ込んでいますが、小坂ほど観光的(地理的or歴史的?)ポテンシャルがあるにも拘らず知名度が低い所ってあまりお目にかかったことが無いもので。
でも、小坂がメジャーになるよりも「知る人ぞ知る」的なポイントであって欲しいと願う自分がいるのも確かなのですが・・・。

[67502] 2008 年 12 月 4 日 (木) 22:21:42【2】 Issie さん
 分岐

[67495] ペーロケ さん
ウォッ地図で見る限り、「分岐」という集落が見当たらず

[67497] 千本桜 さん
市販の二万五千分の一地形図には「分岐」という場地名が記載されている筈です。

私も 1/2.5万地形図「分岐」 を持ってはいないのですが,手許にある 1/20万地勢図「北見」(昭和36年編集,平成2年要部修正,…と言っても主に廃止された鉄道について)を見ると,千本桜さん の示された位置に「分岐」という“集落”があるように記載されています。ついでに,これも手許にある 昭文社 の「ニューエスト北海道都市地図」(1991年版)の 丸瀬布町 のページにも集落記号に添えて「分岐」とあります。
というわけで,昔は「分岐」という集落があったのでしょうね。でも,今はない。
ちなみに,国土地理院のHPで 図歴(地図の発行履歴) を見ると,この地図は1974年1月に初めて刊行されて(測量は1972年),1990年の修正版が1991年に刊行されているのですね。「分岐」という集落が“消滅”(したと思われる)のがいつかはわからないのですが,現在市販されている地形図はこの版ですから,「ニューエスト」の記載も照らし合わせると,まだ記載されているかもしれませんね。

[67495] ペーロケ さん
長野県:赤穂

山梨県と東京都の「丹波」

屋久島の「安房」

「あこう」ではなくて「あかほ」,「たんば」ではなくて「たば」,「あわ」ではなくて「あんぼう」というのもミソですね。

[67501] 2008 年 12 月 4 日 (木) 22:18:10 hmt さん
 小坂鉱山に係る自然と人 (6) 久原房之助の事業は、鮎川義介の日産に引き継がれた

小坂鉱山のオーナー・藤田伝三郎[67425][67436]は、重要な決定はするが、事業の実務は信頼する部下に任せるタイプでした。従って、小坂を事業の中心に据えた彼ですが、現地に赴くことは少なかったと思われます。

小坂の現場で、この鉱山を再生させた久原房之助と武田恭作の二人[67466]も、小坂鉱山事務所ができて間もなく小坂を去り、それぞれが日立鉱山と椿鉱山(秋田県山本郡八森村>>八峰町)の経営者として独立しました。
彼らの下で働いた小平浪平も、電力会社を経験した後に日立で仕事をすることになり、日立製作所を創業しました。

ここまでは、タイトルの“小坂鉱山に係る”人たちであることに間違いないわけですが、話の都合で、小坂で働いたことのない人物を一人登場させます。

それは、破綻に瀕した久原鉱業の経営を引き受けた鮎川義介です。
鮎川義介は久原房之助の義兄で、藤田や久原と同じく長州人。井上馨の縁者です。
鮎川は、久原鉱業の組織を持株会社に改めて「日本産業株式会社」と改称し、その株式公開により得た新たな資本により、新たな事業を展開しました。
日立鉱山は、「日産」傘下の事業会社「日本鉱業」になりました。現在の事業は、日鉱金属と石油を主体とするジャパンエナジーに受け継がれています。後者はJOMOのサービスマークでおなじみ。
今日の ニュース で、両社の持株会社・新日鉱ホールディングスと新日本石油との統合が報じられています。

「日産」コンツェルンに属する会社群には、日本鉱業及び日立製作所のほかに、日産化学・日本油脂・日本冷蔵などもありましたが、「日産」のブランドを最も有名にした会社は、言うまでもなく日産自動車です。この会社は、鮎川義介が1933年にダットサンの製造のために自動車製造株式会社として設立。

オフ会のついでに立ち寄った小坂ですが、調べてみると、日本の産業のいろいろなところに、小坂をルーツとする藤田・久原に縁のある産業人が関係していました。
縁をたどれば、日立製作所や日産自動車のような現代日本を代表する企業グループも、小坂とのつながりがあり、地理的な話題も、秋田県内や日立・石見大森の鉱山地帯だけでなく、干拓事業の児島湾に筆が及びました。

[67500] 2008 年 12 月 4 日 (木) 22:12:23【1】 YSK さん
 自治体名セット

「高校」の修学旅行先が京都奈良でした。うろ覚えですが、当時群馬県立の高校の修学旅行は京都・奈良が西限で、大阪以西は許されていなかった、なんていう噂話も聞いたことがあります。

現在、「美味し国伊達な旅」をキャッチコピーに、自治体とJRが一体となって進める観光キャンペーン仙台・宮城デスティネーションキャンペーンが展開されており、我が家の新聞折り込み広告にもこのキャンペーンだけのオリジナル広告が入るなど気合の入った宣伝が行われています。

ここで気になる表現が「仙台・宮城」。宮城県をターゲットにしたキャンペーンなのですが、「仙台」が冠されています。「宮城」だけではやや押しが弱いため、知名度抜群の「仙台」をトッピングしたのでしょうか。この「仙台宮城」あるいは「宮城仙台」といった言い回しは、このキャンペーンに限らずしばしば見受けられます。


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