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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[56601]2007年2月3日
Issie

[56601] 2007年 2月 3日(土)10:17:34【2】Issie さん
Re:相模原市の相模原
[56599] 千本桜 さん
市民はその街区に向かうとき、「相模原に行く」と言うのだろうかという疑問が湧いてくるわけです

「相模原に行く」という言い方はするだろうと思います。
ただ,私自身,「市役所へ」行ったり,「市民会館」へ行ったりすることがあっても,「相模原へ」行くことはあまりありません。淵野辺地区(大野北地区)の住民にとっての相模原地区の求心性はその程度です。

相模原市には「相模原」と呼ばれる地区が2ヵ所あります。1つは,問題の「相模原1~8丁目」を含む JR相模原駅 南口周辺。もう1つは,南部の小田急相模原駅 周辺。

「相模原」という地名自体は,1941年の合併による「高座郡相模原町」誕生以前から,上溝町(大字を編成せず)の字名としてありました。相模川の河岸段丘“中段”上に位置する 上溝町 の中心集落から見上げた段丘崖の“上の段”(横山)の一部,現在の「星が丘」「千代田」などが含まれる一帯です。が,“字名”ですから,その地名としての認知度は地元に限られたものであったと思います。

「相模原」という呼称が広く知られるようになるのは,1930年代後半に相次いだ陸軍諸施設の進出以降であるようです。それでも,上鶴間(現・相模大野)や淵野辺に進出した施設が「原町田」を称したように,当初は“(原)町田の一部ないし隣接地区”という認識であったようです。
その頃,当時の 大野村上鶴間 と 新磯(あらいそ)村磯部 にまたがる辺りに陸軍の病院(現・国立病院機構相模原病院)が進出し,近くを通過する小田急線上に新駅が開設されて,病院との間に“門前町”が形成されました。新駅は当初,「相模原駅」と称しましたが,後に「小田急相模原駅」と改称しました。戦後の1950年代後半以降,駅周辺は北部の横浜線沿線よりも一足早く市街地化しました。
行政上,相模原市はこの周辺を当初は「国病前」地区,次いで「相模台」地区と呼んでいますが,一般的には「小田急相模原」,最近では略して「おださが」と呼ばれています(ただし,私の友人で30年以上前に上鶴間に住んでいた四街道市民は「おださが」という呼称を知らないといっていましたから,その頃は行われていなかったようです)。

「相模原」が住居表示地名として新設されたのは1964年のことです。それ以前は「大字小山(おやま)」および「大字清兵衛新田(せいべえしんでん)」のそれぞれ一部で,合併前は 相原村 に属していました。ただ,この辺りを「相模原」と呼ぶことは,1940年代初めに横浜線の「相模原駅」が開設され(このときに小田急の「相模原駅」が「小田急相模原駅」に改称“させられ”た),駅周辺に市街地が形成された頃から行われていただろうと思います。
この地区は,相次ぐ陸軍施設の進出を背景に1930年代末から進められた壮大な都市計画である「軍都建設計画」の中で,計画都市・相模原の中心の1つとして設計された地区で,だからこそ,小田急から「相模原」の駅名を“奪う”ことまでしたのでしょう。

合併による「高座郡相模原町」の発足も,軍都計画の一環でした。地元では合併で「相模原市」となることを当然の目標としていたのですが,「どこにも市街地がないじゃないか!」という理由で内務省が“市”となることを認めず,「全国最大(面積)の“町”」として発足したわけです。
軍都計画そのものは1945年の敗戦によって挫折しましたが,それまでに計画区域の区画整理と水道施設の整備というインフラはおおよそできあがっていました。この基盤の上に1960年代以降,横浜線相模原・矢部・淵野辺各駅の南側の計画都市区域の宅地化が進行し,現在の“ベッドタウン”としての相模原市の中核となりました。

軍都計画では,合併前の 上溝町・相原村・大野村 の3町村が境を接する辺りに官庁街が設計されました。現在の市役所はまさにその位置にあります。そしてここには現在,計画通りの官庁街が確かに成立しています。
そして,この“官庁街”の玄関に当たる 国鉄(当時)相模原駅前 には,それなりの商業集積が進みました(現在の南口側のみ。北側には米軍が居座り,一切開発ができない。1990年代後半になってようやく米軍が“一部返還”に応じ,北口が開設された)。
その意味で,まさにこの地区は「相模原の相模原」に違いありません。

けれども,最初に述べたように,この「相模原地区」の求心性は高いものではありません。
前にも発言したことがありますが,相模原市の商業中心地は 原町田 と言うべきものと思います。つまり,市内ではなく,隣接県(都)の町田市内にそれがある。
“市内唯一のデパート”である伊勢丹が進出している 相模大野 の商圏は,淵野辺以北の横浜線沿線(旧市域北部)には及びません。
1990年の京王線乗り入れ以来,現旧津久井郡2町(城山・津久井)をも標的に入れて近年成長著しい 橋本 も,あくまでもその地域の商業中心に過ぎません。
そうした中で,相模原地区の商業集積はどちらかというと管理中枢的な性格が目立って,住民の買い物行動レベルでは,今や 北部の橋本・南部の大野 のいずれにも見劣りがする印象です。
それらを全部見渡した上で,圧倒的な求心力を持つのは,やはり 原町田 というのが私の感覚です。
その程度の商業力しか持たない相模原市が政令指定都市とは何を考えているのか,というのが正直な感想なのです。

なお,行政では,相模原地区を含む計画都市区域の大部分が市役所本庁の直轄区域に属し,「本庁地区」などと呼ばれています。「相模原の相模原」という点では,実はこの本庁管内の計画都市区域を上手にまとめる呼称がないという点で,困ることがままあるのですね。この場合,「相模原地区」では,それが指す範囲が特定しづらく不都合が多いのです。


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