都道府県市区町村
落書き帳

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[19728] 2003年 9月 9日(火)14:04:55hmt さん
孀婦岩
[18922] TN さん
リンクの地形図に99の数字が見えます。
大海原から突き出た99mの岩の柱! もちろん等高線は描けません。
孀婦とは夫に先立たれた女(寡婦)のことで、孤独に直立する姿から名付けられたものでしょうが、実際も、火山の山体が侵食で失われて取り残された熔岩柱なのですね。
[19806] 2003年 9月 11日(木)15:04:53hmt さん
孀婦岩・続
[19744] ken さん
写真のリンク有難うございました。
父島、母島、兄島などの「家族」成す小笠原諸島と隔絶
なるほど。

[19728]hmt
もちろん等高線は描けません。
気象庁の火山解説資料に等高線・等深線の入った詳細な図がありました。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/338_Sofugan/338_index.html
「孀婦岩を頂部とする地塊は東西約10km離れた比高1,500~2,000mの2つの山体から構成されている。」
海面下では今でも つれあい と結ばれているのですね。少し安心しました。
私が孀婦岩の存在を知ったのは、30数年前に団伊玖磨さんの紀行文でしたが、現在ネットで検索すると360件も出るのですね。「豆南諸島」という呼称は私も初耳。
http://www5.big.or.jp/~n-gakkai/katsudou/reikai/200010_01.html
によると、17世紀に幕府御船が八丈島から孀婦岩を経て無人島(Bonin Islands=小笠原)を探索しています。
[22460] 2003年 12月 2日(火)13:40:45【2】hmt さん
「南方四島」問題
ここで「南方四島」とは、[18922] でTN さんが「所属市区町村名が無い」「都直轄」と指摘された ベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩のことです。
これらの位置から、青ヶ島村に属してもよさそうですが、それなりの理由があって都直轄となっているのでしょうか。
[18943] Issie さんのお答え
人が住んでいなかった,…せいで「村」を編成するに至らなかったのでしょうか(有人島であった「鳥島」は,火山活動のために1939年に全島民が退去しています)。
のように 住民がいなかったことが先ず挙げられますが、「日本の島事典」(三交社1995)は、下記要旨の如き領有権問題があったことを伝えています。

これら「南方四島」につき、青ヶ島を飛び越えたかたちで八丈町が領有権を主張し、青ヶ島村が強く反発した結果、わが国で唯一どこの市町村にも帰属しない地域として東京都八丈支庁が管理している。

なお、鳥島については、昭和40年11月激度の火山性地震による測候所閉鎖後、完全な無人島になっているが、国勢調査人口は 青ヶ島に所属し、現在も国勢調査の都度、青ヶ島村から人口ゼロと報告している ことが記されています。
青ヶ島村元助役による http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021210.html を読むと、「伊豆七島」から疎外されていた青ヶ島が、八丈町に対して村の独立を守ろうとする気概は相当なもののようです。
「南方四島」に八丈町の領有権が認められることは、青ヶ島村の外堀を埋められることに等しく、出城の鳥島が都直轄になってからも、5年毎に「人口ゼロ」を報告する既得権?を死守しているのでしょう。ここで native Torishiman の独白。いくらアホウだからと言って、鳥島の名の由来であるオレタチを数えない「国勢」って、差別じゃないの?

【1】「無人島である」という表現を「住民がいなかった」に修正。これは「無人ぶにん or むにん島」が小笠原諸島(Bonin Islands)を意味する固有名詞でもあったため、これとの混乱を避けるためです。【2】読み仮名追加
[22569] 2003年 12月 6日(土)22:12:28【1】hmt さん
参照資料の引用です
[22560] グリグリさん
[22460]では 要旨として紹介した 「日本の島事典」(三交社1995) の原文を引用します。
なお、ベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩の領有権を、青ヶ島を飛び越えたかたちで 八丈町が主張したことに 青ヶ島村が強く反発、現在これら四島は 我が国では唯一どこの市町村にも帰属しない地域として 東京都八丈支庁が管理している。
…というわけで 私の考えではなく、参照資料:(財)日本離島センター監修・菅田正昭編著 の受け売りです。従って「南方四島」が唯一という 「何か特別の理由」 があるか否かについてはコメントできません。
不確実な記憶ですが、八丈町の領有権主張について 否定的なことを記した資料もあったようですから、参照資料を どこまで信用してよいのかわかりません。

現在の帰属未定地については グリグリさんがまとめられた通りと思います。言葉の単純な解釈ですが、陸地および内水面の境界未定は 必然的に所属未定になり、その他に 外海の島のように 自然境界が明確でも所属未定の地がある ということではないでしょうか。

現在に限定しないと、明神礁[18970]・民間人が住んでいた千島の一部[18943] もあったのですね。
【1】新南群島は、高雄市に編入されていたのですか[18943]
ついでながら、新南群島[18954]の出ている日本地図は、今となっては貴重な存在と思います。私の持っている 昭和13年文部省検定済・朝鮮総督府検定済「改訂新選詳圖・帝国之部」は1年早すぎたので出ていません。

昨日オフ会の席で披露された昔の地図の中で、スナフキんさん持参の地図には、「南方四島」が 次の名で記されていました。
バヨンネース岩、須美壽島、鳥島(三子島)、孀婦岩
藤田元春:新日本圖帖(刀江書院)、たしか昭和9年というご紹介でしたから、鳥島に住民がいた時代の地図です。三子島は初耳。
[24183] 2004年 1月 26日(月)17:17:42hmt さん
伊豆七島 という名に苦しめられた 青ヶ島
[24179] トミ さん
伊豆七島とはどの島々のことですか?
大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島という辞典の説明だけでは「落書き帳」のレスとしては不十分ですね。
利島や御蔵島よりも人口が多い式根島が入っていないのは何故? 青ヶ島も入っていないし、八丈小島や鳥島にも以前は住民がいました。それなのに 七島 とは?

このような疑問に答えてくれるのが、菅田正昭さんの「島風とシマ神」です。
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021210.html をご覧下さい。「伊豆七島に入っていない」という理由で差別待遇に苦しんだ島の歴史が記されています。
菅田さんが助役を務めた青ヶ島村は、
村制施行は昭和15年4月1日と八丈小島より7年も早かったのに、昭和31年7月8日の参議院議員選挙の時まで、国・都レベルでの選挙権を奪われていた
そうです。たかが名称、されど名称の怖いところですね。

このようなこともあって、現在は「伊豆諸島」という名称が一般的になり、「伊豆七島」はあまり使われなくなっているようです。「伊豆諸島」は、例の南方四島(豆南諸島[19744])までを含みます。
リンクした菅田さんの文中に出てくる「伊豆七島観光連盟」も「東京諸島観光連盟」と改称されています。
「東京諸島」とはあまり聞いたことのない名称ですが、伊豆諸島・小笠原諸島を含めた地域のようです。
http://www.tokyo-islands.jp/index_2nd.htm
[24187] 2004年 1月 26日(月)19:12:54【2】hmt さん
「伊豆」は いずこ?
伊豆諸島関連でもう一言。
「伊豆」と言えば静岡県 と考え勝ちですが、言うまでもなく「伊豆国」は、現在静岡県になっている本土側の国地と、東京都になっている島嶼側の島地とから構成されていました。

【2】新政府になってからは韮山県を経て足柄県へ。明治9年の足柄県解体で伊豆部分は静岡県へ統合 [24127]
伊豆の本土側はそのまま静岡県になっていますが、【2】島嶼側は2年後の明治11年に東京府に移管されます。

実は明治9年に小笠原諸島の日本帰属が国際的に認められ、内務省小笠原出張所設置。これを東京府に移すことが検討されていたため(明治13年に実現)、小笠原諸島の手前にある伊豆諸島が一足先に東京府直属になったようです。
このようにして 伊豆の歴史の中で 全部が静岡県だった時代 は僅か2年で終了。

こんどは田方郡の一部から「伊豆市」が誕生するので、「伊豆とはどこ?」の答が更にややこしくなります。

【1】タイトル変更
【2】[24190] Issie さんのご指摘を受けて2個所を修正
廃藩置県後は韮山県を経て…→新政府になってからは韮山県を経て…
島嶼側(賀茂郡の一部)は→島嶼側は

“島地”は伊豆半島の南部と同じく「伊豆国賀茂郡」に属していた。
との記述 http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021101.html に基づいて書いたものですが、
伊豆諸島には律令時代以来,現在に至るまで「郡」が編成されたことがありません。
と指摘されると修正しないわけにはゆきません。
廃藩置県と書いたのは全くのミスです。
[24269] 2004年 1月 29日(木)23:43:49【2】hmt さん
伊豆諸島が日本でなかった53日
[24187] では 明治11年(1879)の東京府移管まで しか記しませんでしたが、伊豆諸島の帰属を巡っては、まだとんでもない履歴がありました。
島庁、支庁の設置、都制施行は さておき、なんと 伊豆諸島が日本でなかった時期があったのです。
1946年1月29日(たまたま今日と同じ日付ですね)、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書 「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」 により伊豆諸島全域が 日本政府の統治領域から外されてしまいました。
戦後の混乱期とはいえ、3月22日に日本に復帰するまでの53日、下田よりも北にある伊豆大島が 日本でない時期があったとは!
しかも この間に伊豆大島では 独自の憲法草案まで作られたというから驚きです。
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

なお、伊豆諸島といっしょに日本でなくなった トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。現在は両村共に 鹿児島郡。
北緯29度以南の奄美諸島復帰は、トカラ下七島復帰から2年後の 1953年12月25日になりました。

なお 小笠原諸島の日本復帰は1968年6月26日。沖縄復帰は1972年5月15日。北方四島は未復帰です。
[24282] 2004年 1月 30日(金)11:30:04【1】hmt さん
七島なのに十島村とはこれいかに?
[24278] 太白 さん
十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足
私が参照したのは名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」 http://www.city.naze.kagoshima.jp/museum/museum/hukki-3.html 記載の年表でした。その1951年のところに
連合国最高司令官覚書により北緯29度以北(十島村の下七島)が日本復帰(12月5日)(大島郡十島村(じっとうそん)が二つ存在することとなる)
とありました。SCAP覚書の日付と現実に復帰した日付のズレかもしれません。

旧十島村(じっとうそん)の一部である三島村の硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した鬼界カルデラ(6300年前に大噴火)の北縁にあたります。

「トカラ」の表記は漢字が正しいのだろうと思いますが、入力の便宜上カナにしてしまいます。
十島村HPでさえも カナ表記が見られるので、地元も許してくれるでしょう。
【1】補足
[19907] 般若堂そんぴん さん 、[19914] U+3002 さん に教えていただいた表示法を試る機会だったかもしれませんが。

表記と言えば、[24269]では「奄美諸島復帰」と書いてしまいましたが、上記名瀬市のHPにあるように、当時の用語としては「奄美群島復帰」が正しいですね。訂正しておきます。
[24286] 2004年 1月 30日(金)16:13:22hmt さん
伊豆七島と言うも九島あるが如し
タイトルは[24282]に対応した自己レスです。
「日本の島事典」41頁の伊豆諸島の説明
伊豆半島の南東の太平洋上に富士火山帯に沿って点在する大小116の島々の総称
を参照すると、青ヶ島や南方四島を除外しても100島ぐらいはあると思われます。

0.01km2=1ha以上を目途に、主島別に主な付属島も列挙してみます。数字は面積km2。
大島(91.05)
利島(4.12)

新島(23.17)+ 付属島:式根島(3.69)、鵜渡根島(0.40)、地内島(0.19)、早島(0.11)、大平島(0.01)
# 式根島は元禄地震の大津波(1703)により新島との間の陸地が崩壊分離したと言われ、住民は新島に移住し、明治22年まで無人でした。しかし現在は利島や御蔵島よりも多い数百人が住んでいます。
神津島(18.48)+ 付属島:祇苗島(ただなえじま0.15)、恩馳島(おんばせじま0.04)
# 新島と神津島は、黒っぽい玄武岩や安山岩からなる他の島々と異なり、白っぽい流紋岩の熔岩。粘性の大きい流紋岩が火山ガスの泡を含んで固まったのが軽石。

三宅島(55.44)+ 付属島:大根原島(0.02) 御焼島の名の通り度重なる噴火に見舞われています。
御蔵島(20.55)+ 付属島:藺灘波島(いなんばじま0.01)
八丈島(69.48)+ 付属島:八丈小島(3.08)
これで17。伊豆諸島116と言っても小さな岩礁が多いのでしょうね。
1km2以上の付属島は式根島と八丈小島だけなので、やはり九島(青ヶ島を含めれば十島)ですか。

伊豆七島に入るか入らないか微妙な地位にある青ヶ島は、天明の大噴火で住民334人のうち生き残った202人が八丈島に脱出。八丈島での悲惨な生活から50年後に青ヶ島還住を実現したリーダーは、「青ヶ島のモーゼ」佐々木次郎太夫でした。(柳田國男:青ヶ島還住記)

熱海沖の初島(0.44)は本土の付属島として扱われ、現在は伊豆諸島には含まれませんが、初島を含めて10島の由来が述べられている古書があるように、昔は違うのかもしれません。

話が古くなったついでに、もう一つ
「和名抄」に見える(賀茂)郡内の郷は、賀茂、月間、川津、三島、大社の五郷である。(伊豆国の)延喜式内社は…46座で(中略)三島郷内の海島鎮座は24社とある。なお「続日本後記」の承和7年9月23日条には当郡上津島で噴火による造島
というような記載(角川日本地名大事典22巻331頁)を見ると、平安時代には三宅島、神津島等の島嶼部も賀茂郡の内と認識されていたように思われるのですが……「令外の郡?」>[24190] Issieさん
[24468] 2004年 2月 4日(水)14:20:02【3】hmt さん
瀬戸内海には まだまだ人口の多い島があるようです
[24364] 花の東京都民 さん
短時間で書き込まれたために、脱落した島があるようです。瀬戸内海だけですが、H2人口が100人以上と思われる島につき、脱落分をリストアップしました。H7の人口を補足していただければ幸いです。
地図と対比しやすいように、県別やランキングでなく、東から西に配列しました。
[24375] なきら さん ご指摘の因島を始めとする 3島が 1万人以上ですね。
データが揃ったら、このような配列の「島コレクション」をupしたいと考えています。

島の名 面積(H14) 市町村 人口(H2) 所在
沼島 2.73 兵庫県 南淡町 812 淡路島
大毛島 7.26 徳島県 鳴門市 3,527 四国
島田島 5.71 徳島県 鳴門市 438 四国
長島 3.52 岡山県 邑久町 1,656
前島 2.4 岡山県 牛窓町 318
大島 0.69 香川県 庵治町 482四国
直島 7.8 香川県 直島町 4,583 直島諸島 備讃諸島
手島 3.41 香川県 丸亀市 117 塩飽諸島 備讃諸島
高島 1.05 岡山県 笠岡市 212 笠岡諸島 備讃諸島
田島 8.59 広島県 内海町 2,015
横島 4.02 広島県 内海町 1,723
向島 22.22 広島県 向島町 10,840 しまなみ海道 芸予諸島
因島 34.97 広島県 因島市 32,640しまなみ海道 芸予諸島
生口島 31.06 広島県 因島市+瀬戸田町 17,404 しまなみ海道 芸予諸島
岩子島 2.45 広島県 向島町 886 芸予諸島
高根島 5.57 広島県 瀬戸田町 768 芸予諸島
大芝島 1.7 広島県 安芸津町 238 芸予諸島
鹿島 2.64 広島県 倉橋町 570 広島湾
似島 3.87 広島県 広島市南区 1,683 広島湾
厳島(宮島) 30.39 広島県 宮島町 2,786 広島湾
興居島 8.48 愛媛県 松山市 2,350 坊予諸島
八島 4.17 山口県 上関町 117 熊毛群島 坊予諸島
長島 13.73 山口県 上関町 2,793 熊毛群島 坊予諸島
笠戸島 11.77 山口県 下松市 1,709
向島 8.09 山口県 防府市 2,099

【1】香川県庵治町の大島を追加
[24547] 2004年 2月 6日(金)15:12:31hmt さん
軍艦島の人口
島の人口と言えば、かつて日本一(世界一?)の人口密度であった長崎県高島町の端島(軍艦島)を思い出します。現在は無人島ですから、もちろん [24364]花の東京都民さんのリストには登場しません。

面積約6.3ha=0.063km2の島に 1960年頃は5,300人以上、人口密度8万人以上と言うより、1人あたりの面積12m2以下と言った方がわかりやすいでしょうか。島の半分以上は三菱の石炭鉱場ですから、居住区域の人口密度は更に倍以上になります。炭坑は交替勤務で稼動しているので、全員が居住区域に揃う時間はあり得ませんが。
このような密集居住区に林立したのが、日本初(1916年建築)の鉄筋コンクリート造高層集合住宅を含む、5~9階建のアパート群でした。島の外観から、1923年に新聞に「軍艦島」の名で紹介され、1945年には米海軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けたとか。[20073] 地球人 さん
端島の土地自体も、もともと2ha程度の岩礁をボタなどで埋め立てて形成された半人工島です。

一時はこのように繁栄した端島鉱も1974年1月15日閉山。このときの人口は2,200人でしたが、同年4月の定期便廃止までに全員が島を去り、無人島になりました。

なお、端島の属している高島町。現在は人口814人で「全国の町 人口ランキング」の最下位ですが、全盛期には、高島・端島の両島合計で約22,000人も居たそうです。
[24560] 2004年 2月 6日(金)19:51:21hmt さん
シマダス・軍艦島・九龍城砦
[24552] 花の東京都民 さん
既に[24557] N-H さんのレスがありましたが、「シマダス」 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4931230148.html は日本離島センター【編】で、[22569] [22678] 等で登場した「日本の島事典」と同系統の本と考えます。
[24470] 太白 さん からご紹介のあった「しましまネット」も同系統のサイトなので、共通するデータが利用されていると思います。

軍艦島の名の由来は、写真を見れば一目瞭然です。潜水艦が間違えたのも納得。
http://www.interq.or.jp/cool/unya/gunkanzima/

香港にもこんなような巨大人口を抱えていた建物がありましたね?
なんていう名称かは忘れましたが,今は取り壊されて無いはずです。
九龍城砦 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/china/kowloon.html ですね。
[26206] 2004年 3月 14日(日)19:23:42【1】hmt さん
不忍池の弁天島も「島」ですが
[26144] 太白 さん
そもそも、「島」っていったい何なのでしょうか?
他の言葉にも言えることでしょうが、言葉は、使う人・その場の雰囲気によって異なってくるのが自然なことと思います。船を使わなくても行ける島・人工島や埋立地・川の中洲等を「島」に含めるか否かも、その場の雰囲気次第と思います。

あまりにも簡単に越えてしまう海老取川の先にある羽田空港を「島」と意識する人ヘ少ないと思いますが、多摩川河口ノ自然に形成された2つのデルタをもとにしたこの陸地は、
自然に形成された陸地であって、水に囲まれ高潮時においても水面上にあるものをいう
という「国連海洋法条約」の「島」の定義にさえ適合しそうです。(海洋という前提から外れているか?)
もっとも[26062]愛比売命さんが「羽田空港島」を数え上げたのは、条約を意識したわけではなく、「関西空港島…箕島(長崎空港)」と書いた筆の勢いからだと思いますが(笑)。
羽田は埋立で拡張した土地ではないかと言い出すと、長崎空港はもとより本州を含む大部分の島が「島」の地位を失いますから、“自然に形成された陸地”には「純血主義」を唱えないことにしましょう。

しかし、過去に遡ると自然のデルタだった部分があるから「羽田空港島」であるという論法では、海上の長い橋を渡った先にあって羽田よりもずっと「島」らしい感じのする関西空港島との釣り合いがとれません。
「認島度」については「島に渡った」という各人の感じ方が大切で、「国連海洋法条約」のような 出来合いの定義を適用することは不適当なように思われます。

[26174] ありがたきさんが「立派な島という印象」と評価されている第二海堡に至っては、人工島でありながら一般人には近寄り難い島で、これを「認島度」から除外するのは、どう考えても不自然です。
ちなみに「海堡」とは「海のとりで」のことで、幕末に築いた第四台場跡地・現在の天王洲アイルが名乗っている「シーフォート」も同じ意味ですね。
台場の20世紀版とも言える第二海堡は1914年完成当時は世界最大級の海上軍事要塞と言われましたが1923年の関東大地震で大破しました。

[26135] 音無鈴鹿さんの発言には「海を越えた先の陸地」こそ「認島度」の対象と考えたいという気持ちが込められており、よく理解できますが、どの程度の距離を隔てる海があれば「島」と考えるのか? これは人により さまざまでしょう。

[25639][25748]で牛山牛太郎さんが紹介されているように、土渕海峡の最狭部は9.93mで、1996年ギネス認定の「世界で一番狭い海峡」です。 http://kazekobo.cool.ne.jp/kaikyo/dobuti.html
この海峡の西側は「前島」という通称があるようですが、国土地理院の島面積にもシマダスにも独立の島として収録されておらず、小豆島の一部として扱われているようです。
シマダスは離島振興センター編なので、10mの海峡では島と認めたくないのかもしれません。

国土地理院の島面積には登場するがシマダスから疎外されている主な島を列挙します。
針尾島: [17741]地球人さん
市外の人を針尾島に連れて行って、「ここは島だよ」と言っても、なかなか信用してもらえませんでした(笑)
彦島:れっきとした自然島 [24550]N-Hさん。海峡の写真のリンク [24566]まるちゃんさん。
向島(防府市):「むこうしま」と読むらしい。本土と結ぶ錦橋は旋回式可動橋。
昔はもっと本土から離れた「島」だったものが、江戸時代の開作(干拓)によって狭い水路を残すのみとなった様子が http://www.bunkazai.city.hofu.yamaguchi.jp/6kinsei/06-15/6-15.html でわかります。同じ字を書いても尾道の対岸は「むかいしま」、浅草の対岸は「むこうじま」。

島を隔てる狭い水路の中には人の手が加えられたものがあります。この場合、人工島とは逆に 水面の人工的開削 が新たな島を作るかという問題があります。
[18618] U+3002 さんが紹介されているように、大船越瀬戸(1672年)・万関瀬戸(1900年)は人工的な運河だから、対馬は2つ(厳密には3つか)の島にはならないという理屈が大勢を占めているようです。「千葉島」を排斥する理由としても、利根川の人工的な瀬替えが指摘されています。

かつての音戸の瀬戸は干潮時には陸つづきになり、満潮時でも浅瀬のため船が通れなかったのを平清盛が切り開いたとして有名ですが、一応もとからあった水路の改修の形なので、倉橋島が島であることに問題はないようです。
隣の能美島と江田島の間も同じように干満により浅い海になったり陸つづきになったりする場所だったのだと推察ます。[18638]ゆうさんによると海底を浚って船を通したが(堀越ノ瀬戸)、さらに堆積が続いて飛渡瀬戸になり、ついには連接して「飛渡瀬」になったとあります。自然の堆積と人工と両方の作用があったのでは? 島は合体したのに名前は別々。

全く「島」っていったい何なのでしょうか?

【1】海堡と向島に関して補足。誤字その他若干の修正。
[26266] 2004年 3月 16日(火)13:58:00hmt さん
岩の上に鳥が止まる広さがあれば「島」
白川静「字統」より
「島・嶋」…もと海鳥の住む岩島をいう字。その大なるものを島といい、小なるものを嶼という。

[26206]では「島」を認定するにあたって考慮に入れる要素として、人手の関与や越えるべき水面を取り上げました。今回は島の大きさです。
「島」は「大陸」や「本土」に対する相対的概念で、その大きさの上限はほぼ明らかです。
世界的にはオーストラリアとグリーンランドとの間、国内では四国と択捉島の間に上限が引かれています。目的によっては沖縄本島と佐渡島との間で区別することもあるようです。
カナダ北端のエルズミア島。これは面積については本州と同じくらいの大きな島ですが住民は極めて少なく、離島扱いでしょうね。

問題は下限です。二見の夫婦岩は「島」なのか?
夫婦岩は島であろうとなかろうと観光的価値に変りがないでしょうが、「島」であるか否かで経済的価値が大きく変るのが沖ノ鳥島です。
日本政府は「沖ノ鳥島は島である」として、領海12海里および排他的経済水域 EEZ=exclusive economic zone 200海里を主張しています。沖ノ鳥島の存在は、日本の国土面積を上回る40万km2のEEZを我が国にもたらしています。

[26206]で引用した「国連海洋法条約」の島の定義は、1958年の領海条約の定義を踏襲したものですが、これが人工島を排除したわけは、海洋の経済的利用に関係するためでした。この条約は121条第1項の「自然に形成された陸地」の他にも第60条第8項で「人工島、施設及び構築物は、島の地位を有しない」と駄目押しをする念の入れようです。
しかし、この定義に大きさの規定は直接にはありません。だから「高潮時においても水面上にあれば、どんな小さな岩でも島である」ということになり、「水面上」を維持するために300億円を投じた護岸工事も行なわれました。

ところがこの条約の121条第3項には「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」という規定があり、鳥が止まれても人が住めないような岩は(基線=低潮線から12海里の領海はOKでも)200海里のEEZ はダメとされているようです
沖ノ鳥島の排他的経済水域について1999年の国会質問での政府答弁がありますが、何となく苦しい感じです。 http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/law.html 参照。

では、この「島」の実態は? というわけで写真を探したら……
ありました! http://vldb.gsi.go.jp/cgi/tr_table.pl?410 東露岩にある「一等三角点」(北露岩には三等三角点がある)。でも三角測量をするには3つの三角点が必要なのではないかな?
それはともかく、一番下の写真、コンクリートで固められた岩の小さいこと。まさに鳥が止まるのがやっと という大きさでした。これを「島」であると主張する日本政府の勇気に感服!

ところで、最初の位置図にあるように2つの露岩は東西に並んでいるのに東露岩と北露岩。なぜ?
実は西側に北露岩と南露岩があったのです。南露岩はキノコ状の岩が波浪で倒壊した状態で発見され、1937~1938年頃に波浪に流されて消失したようです。
このような事例もあるので、現在は辛うじて水面上を維持している2つの岩も危ない…というわけで実施されたのが1989年に完成した護岸工事でした。
http://www.takagigumi.jp/step17.html によると、略最高高潮面からの高さ僅かに16cmと6cmだったキノコ状の岩の周囲を消波ブロックと特殊なコンクリートで固めたとあります。一等三角点のある東露岩には、更にチタン製のフタをかぶせるという過保護ぶりです。

ほんの小さな岩ですが、200海里を確保しようと努力すると金食い虫になります。護岸の維持は本来自治体の仕事ですが、東京都にとってもその負担は大変というわけで、改正海岸法を受けた政令(1999/6/18)により、国の費用全額負担で直轄管理をすることになったそうです。 http://www.thr.mlit.go.jp/bumon/b00037/k00290/river-hp/kasen/forefront/sea/0008.html

「国の直轄管理」と言われると、この“現代の天領”と自治体の小笠原村や東京都との関係がどうなったのか気になりますが、東京都に代わって国(建設省、現 国土交通省)が海岸の管理をするという意味で、東京都小笠原村沖ノ鳥島であることに変更はないようです。

沖ノ鳥島にあるのは護岸工事を施された2つの岩だけでしょうか?
いやいや http://homepage2.nifty.com/shot/okinotori.htm には、なんと3階建ての建物のある人工地盤が写っています。ここは重要な気象観測基地(無人)で、2003年2月までは ネットでリアルタイム気象観測データが公開されていました。
海岸保全に加えてこのような利用を含む実効支配の実績は、先に問題になった条約121条第3項の「経済的生活の維持」を裏付けるものとして役に立つのかもしれません。

海面上の岩のことばかり気にしていると沖ノ鳥島は小さな存在のように思われますが、海面下の実態は 深海からそびえ立つ雄大な海山です。
1996年の調査により、最終間氷期に形成された12万5000年前の珊瑚礁が、最終氷期に下降した海面レベルまで浸蝕され、更に7500年の温暖期に海中に沈んで、上にできた新しい珊瑚礁が現在の海面近くにほぼ平らな頂上を形成していることがわかりました。
海面上の小さな岩は、富士山の白雪や笠雲のような珊瑚礁で上部を覆われた古い巨大な山体の頂が、海上に突き出たものなのでした。

日本最南端の沖ノ鳥島のことを書いているうちに、幻の日本最東端の島 (サンズイのない)「中ノ鳥島」の存在(実は不存在)を知りました。
興味のある方は http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/01/ganges.html をどうぞ。
[26381] 2004年 3月 19日(金)19:53:06hmt さん
つしまじまにつしまし
対馬島に対馬市ができて過去帳に入った長崎県上県郡と下県郡ですが、その上下関係はいかがなものでしょうか。
朝鮮半島により近い、いわば日本の外側が上県郡というのに違和感がありませんか?
「長崎県の地名」(平凡社2001)は、大宰府からの距離からみた場合 上下が逆のように思われるが、大宰府が置かれる以前から上県・下県の称があり、上県から日本海航路で上京する方が下県から瀬戸内海航路で上京するよりも近かったので、都に近いほうが上県、遠い方が下県とされたと説明しています。
対馬上島・下島についての言及ですが、[18748]なきらさんも
小さい島が上島、京都に近いですね。
うーん。交通体系が違う昔の名前だから上県が都に近いというわけか。
…でも隠岐の場合は京都に近いほうが道後ですね。これはどういうこと?

それにしても昔の人は上下や前後で区別するのを好んだようです。今は東西南北が流行ですが。

それはさておき、タイトルに使った「対馬島」にも違和感がありませんか?
「対馬島」は離島振興法で使われている「指定地域名」かつ「島名」です。
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/pdf/ichiran1603.pdf
「シマダス」も離島振興センターの本ですからこの名を使っているのですが、屋上屋を重ねた名前という感じです(漢字では重なっていないのに)。
落書き帳の過去ログを検索してもヒットしないところをみると、一般に使われていない「行政地名」のようですね。
国土地理院は「対馬」です。
国土交通省の中なのに、役所の部門が変わると 耳慣れない新しい「行政地名」を作り出す というのでは国民が混乱します。
[26554] 2004年 3月 25日(木)21:45:27【1】hmt さん
四島・七島・十島・三島の次は「五島」
領有権問題? がらみで いずれの町村にも所属していない南方四島[22460]
式根島や青ヶ島を数えていない伊豆七島[24183]
十島村(じっとうそん)が戦後に分断されて生まれた三島村(みしまむら)と十島村(としまむら)[24269]
…というわけで、今度は五島列島です。

中通島・若松島・奈留島・久賀島(ひさかじま)・福江島の五つの主島を中心として、これに周辺の島多数を含めて約140の島々。…というのが一応の説明でしょうが、“周辺”の範囲が問題です。

自然地名としての「五島列島」は、[17147] 地球人さん にあるように「北は宇久島から南は福江島まで連なる列島」で、宇久島・小値賀島(おぢかじま)を含んでいます。

ところが、離島振興法による「五島列島」は中通島から福江島までを中心とする島々で、中通島に隣接する野崎島以北の 北松浦郡小値賀町・宇久町に属する島々は含まれていません。
では、これら北部の島々は…というと、はるか60kmも東に離れた鷹島までを含む「平戸諸島」ということになっています。
そのせいで、離島振興法に準拠するシマダスでは、「五島列島」の中通島~福江島は「西海の島々」の章、「平戸諸島」の宇久島・小値賀島は「九州北部の島々」の章と 全く異なる場所に収録されています。

つまり、行政上の「五島列島」は長崎県五島支庁管内に限られ、自然地名としての「五島列島」と異なることになります。

[26381]で言及した“行政地名”「対馬島」は、事実上 自然地名の「対馬」と同じ意味であり、余計な字が付いているだけで実害は少なかったのですが、“行政地名”「五島列島」の方は、同じ言葉で自然地名と範囲が異なるので、混乱をもたらす可能性は こちらの方が大きそうな気がします。

もっとも、宇久・小値賀が行政的に狭義の「五島列島」から切り離されたのは、1878年に広大な松浦郡が東西南北に分割された時に遡り、小値賀島は江戸時代にも平戸藩領だったという歴史があるので、現地では二つの意味の「五島列島」を使い分けることに慣れているのかもしれません。

しかし、五島氏(宇久氏から改名)が福江島に本拠を移す前の発祥の地であり、江戸時代にも五島氏の支配が及んでいた宇久島が 「五島列島」でないというのは、やはり不自然な感じを受けます。
明治時代、中通島の手前の狭い海峡に引かれた南北松浦郡の境界線は如何なる背景を持っていたのでしょうか?

この点については、地球人さん[17147]も「いまだに謎です」と発言 。
私にもよくわかりませんでしたが、「長崎県の地名」(平凡社2001)には次のような記載がありました。
史料の制約を前提とするものの、五島を冠した地名が見えるのは、中通島・若松島・奈留島・福江島に限られていることから、少なくともある時期以降は 宇久島・小値賀島を除いた五島列島が「五島」であり、5つの島であったらしい。
文意からして「ある時期」とは中世のある時期、例えば14~15世紀頃かと思われます。
南北松浦郡の境界線には、明治よりもずっと前から、島の配置だけではわからない何かの存在理由があったのかもしれません。

ところで、行政の作り出した地名が従来からの地名と異なる範囲を示す混乱は、自治体名(の略称)がらみでは、顕著に現れていますね。
例えば:さいたま(市)と埼玉(県)と(南北)埼玉(郡だった地域)と埼玉(さきたま)と。
これに比べれば「2つの五島列島」など、騒ぎ立てるほどのことではないのかも…

【1】補足:中通島という名は、ここが五島列島の ど真ん中 であり、北端ではないことを表しているように思われます。
[26610] 2004年 3月 26日(金)23:53:28【2】hmt さん
日本の手を離れている間に紛争の種がまかれた尖閣諸島
尖閣諸島がニュースで話題になっているので、ひとまず地理と歴史のおさらい。
現在の地籍は 沖縄県石垣市登野城。 これは石垣市の中心部の地名です。
実際にある場所は 西表島の北約150kmにある 3.8km2 の魚釣島(釣魚台)を主島とし、その東に南小島・北小島と岩礁、更に北東に久場島(黄尾嶼)、ずっと東に大正島(赤尾嶼)。

政府の基本見解 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/ にあるように、1895年1月14日に日本領土に編入されました。
これは日清戦争中のことですが、1885年以来数回にわたる実地調査により、清国を含めて どの国にも所属している証跡がない無人島であることを確認した上で、国際法で言う無主地の「先占」として日本の領土とする閣議決定をしたようです。1903年には沖縄県八重山郡大浜間切登野城の地籍を設定。

1884年頃から古賀辰四郎による開発が始まり、1909年通称古賀村の人口248人とあります。羽毛の採取が行なわれたアホウドリは絶滅しました。1932年には魚釣島・北小島・南小島・久場島が払下になり、近年まで埼玉県に住む古賀さんの私有地のままだったようです。
政府は2002年10月に魚釣島など三つの島に賃借権を設定したということです(読売社説2004/3/25)。米軍管理の久場島以外の私有3島を、正式に国の管理に移す意思を表明したものでしょう。【2】

第2次大戦後は米国の施政権下になり、久場島と大正島は米軍の射爆場になりました。
そのまま沖縄返還…となれば問題なかったのでしょうが、日本の手を離れている間に新事実が明らかになりました。
東シナ海の海底資源を調査していたECAFE(国連・アジア極東経済委員会)が、「沖縄諸島と台湾、日本の間の大陸棚の縁や、黄海・渤海には石油埋蔵の可能性が高い」として、尖閣諸島海域にも大規模な海底油田・天然ガス田があるという考えを発表したのです(1968)。

この海底資源に最初に反応したのが台湾で、1969年中華民国行政院は東シナ海大陸棚の主権的権利を先ず主張し、翌年にはガルフその他の米国系石油企業と探査・試掘の契約を結んだりしました。東シナ海大陸棚の北側海域には日本・台湾・韓国の石油鉱区設定が重複し、1970年には3国で領有権を棚上げして、石油を共同開発する協議が行なわています。

こうした事態の進展のなかで、それまで何もしなかった中国は、1970年末になって 「尖閣諸島は中国の領土であり、その周辺の海域は中国の海であり、したがってその海域の資源に対して中国は主権的権利を持っている。日本・台湾・韓国の協議は中国の資源を掠奪する企みである」との強硬な抗議を行なっています。

このようにして1972年5月15日を迎え、米軍施政権下に発生した領有権争い付きの尖閣諸島は、沖縄返還協定に基づき施政権が返還される南西諸島全島の一部として日本復帰。

「尖閣」という名は、なんとなく中国的な響きですが、1900年に調査・探検をした黒岩恒が、急峻な岩山が屹立し海食崖に囲まれた地形から命名した由。

「中国福州・琉球間の航海に関する16世紀以来の文献に釣魚台(魚釣島)・黄麻嶼(北小島)・黄尾嶼(久場島)・赤尾嶼(大正島)が記されている」という中国の領有権主張の根拠に対して、日本政府は 「これらの文献記載は航路の目標に過ぎず、1895年の無主地の先占行為は 国際法上有効である」と反論しているようです。

【1】補足
地学的に見ると、尖閣諸島は東シナ海大陸棚の東縁にあり、沖縄トラフを隔てた八重山諸島と自然地理上は区別されているようです。中国側の大陸棚に乗っていることは、領有権問題には関係ないはずですが。
[26683] 2004年 3月 29日(月)18:43:49【2】hmt さん
「無人島」が日本領になるまで
[26610] 尖閣諸島に関連して [26657]井上清さん [26659]般若堂そんぴんさん [26662]夜鳴き寿司屋さん から情報をいただき、いろいろな考えの方の存在を知りました。感謝いたします。

【2】井上清さんご本人の書き込みを前提とした記載を削除([26689]ゆうさんのご指摘あり)

それにつけても、[26625]で 夜鳴き寿司屋さんが言及された 小笠原諸島 がこのような紛争の地にならずに済んだのは幸いだったと思います。

文禄の役における小笠原貞頼発見(1593)の伝説はさておき、1675年 島谷市左衛門らによる探索・領有宣言。
1827年の英国軍艦ブロッサム号のキャプテンビーチィが領有宣言(翌年にはロシア軍艦が来て残念がったとか)。
1830年 多国籍欧米人とオアフ島民からなる移民の定住。1853年にはペリーが寄港して領有も宣言。
1861年咸臨丸派遣により小笠原回収をしたが、1863年に引揚。1875年明治政府による再回収。
こういう歴史を見ると、長期間放置していた小笠原がよくぞ“無事に回収”できたことだと思います。

小笠原が ケンペルの「日本誌」(1727)や 林子平の「三国通覧図説(クロプロート訳1826)」で外国に知られ、Bonin Islandsと呼ばれるようになったのは、MOU NIN SIMA(無人島)と呼ばれていたためですが、どうもこの名前からして「ほったらかし」の感じです。

この「無人島」に住み始めた1830年の移民団は、ホノルル駐在英国領事の支援の下に結成されたもののようですが、英国・米国・ハワイ王国などの植民地ではなく、約30年間は無国籍の「南海の楽園?」として、当時盛んだった北太平洋の捕鯨船相手の薪水・食糧供給基地になっていました。
1840年には陸奥国気仙郡の難破船が島民に助けられ、帰国して報告していますから、幕府は異人の居住を知りながら放置していたわけです。
1853年には琉球から浦賀に向う前にペリーが寄港して(1827年ビーチィの領有宣言は承知の上で?)領有も宣言。もし日本が打ち払いを実行したら、黒船艦隊がここまで退いて態勢を立て直す前進基地でした。同時に石炭貯蔵地などを購入して、サンフランシスコ・サンドウィッチ諸島(ハワイ)・上海を結ぶ航路に備えた補給基地を確保しました。

この時に交渉した 島の指導者 ナサニエル・セボレーとペリーとは、同じ1794年生れで 出身地も近く、親しくなったようです。ナサニエル・セボレーから4代目~5代目の子孫は今も父島に在住し、ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載しています。【2】

1856年にペリーの「日本遠征記」出版。幕府はこれによって小笠原の重要性に気付かされ、1861年に至り、老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させることにしました。
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
と駐日各国公使にも通知して、1861年12月咸臨丸は父島に到着。セボレーたち島民にはジョン万次郎の通訳で日本の領有・既得権の保護・今後の日本移民による開拓への協力方を説明しました。米国公使ハリスの書記官ポートマンからの好意的な書簡もあり、島民も日本の規則に従うことを了承しました。
翌年には八丈島からの移民30人が送られ、実質的な日本領としての開拓・統治が開始されました。
せっかく日本の統治が始まったのに、翌1863年には早々と撤退してしまったのは、幕末多事・安藤や水野の失脚に加えて、生麦事件の賠償金をめぐり英国との間に確執が起き、真っ先に攻撃される事態になることを恐れたためとされます。賠償金問題の解決後も開拓は再開されず、明治維新後も放置状態が続きました。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国で、小笠原の所属を再度にわたり質問。
ここに至り明治政府は1875年 田辺太一らを明治丸で小笠原に派遣、神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。なお、明治丸は越中島の東京商船大学に保存されています。

翌1876年には小笠原諸島規則を制定して各国にも通達し、日本の小笠原領有は国際的にも確立されました。移民も再開。内務省出張所が設けられ、1878には学校も。1880東京府移管。1882までに先住民全員が日本に帰化。という具合に日本化が進みましたが…

第2次大戦末期の1944年、日本軍は強制的に島民を本土に引揚させ、残された食糧補給要員も戦後日本兵とともに本土に引揚させられ、「無人島」になりました。(米軍は駐留していたのでしょうが)
1946年、欧米系島民と配偶者135名が帰島。
1968年、「小笠原諸島返還協定」で6月26日に日本復帰
[26719] 2004年 3月 30日(火)18:02:46hmt さん
井上清さんの亡霊でしたか
[26689]ゆう さん
歴史学者井上清氏は2001年に他界されています。
ご指摘 有難うございました.
[26657]でリンクされたページには「筆者紹介:…現在…」とあり、同名で投稿されていたのでてっきり90歳以上でご存命と思っていました。ご指摘を受けて 私も共同通信 2001年11月27日配信記事により他界を確認しました。
それにしてもニックネームとは言え、亡霊に語りかけられたとは…

ということで、前提が誤っていた [26683]の該当部分は削除しました。
[28741] 2004年 5月 29日(土)23:32:50hmt さん
硫黄鳥島の所属
[28574]だんな さん [28642]hmtで硫黄が登場したついでに硫黄の付く地名を検索してみました。

Mapionの住所では6ヵ所。
東京都小笠原村硫黄島、鹿児島県三島村硫黄島、沖縄県久米島町硫黄鳥島の他に硫黄沢(宮城県)、硫黄内(福島県)、硫黄田(ゆおうだ福島県)。
国土地理院の25000分1地形図検索の地名注記では、長野県飯山市の「硫黄」というそのものズバリの地名の他に、硫黄山(北海道、東京都、岡山県、広島県、大分県、宮崎県)、硫黄岳 (青森県、長野県、鹿児島県)、硫黄尾根・硫黄乗越 (長野県)、硫黄川(北海道、福島県、新潟県)、硫黄沢(宮城県、福島県、群馬県、新潟県、富山県、長野県)など多数出てきます。
さすが火山国日本。
島では、南硫黄島・北硫黄島 (東京都)の他に昭和硫黄島 (鹿児島県) もありました。

元素(Ag)由来の地名としてアルゼンチンと銀座を挙げたことがりますが[22273]、硫黄は、金・銀・塩などと共にそれに由来する地名群を持っている数少ない物質だと思います。
試みに「石灰」を調べてみたら長崎市本石灰町、北海道石灰川、愛媛県石灰山が出てきました。

ところで、最初に出てきた沖縄県久米島町硫黄鳥島。
徳之島の西方にあるのに鹿児島県でなくて沖縄県。しかも久米島という遥かに離れた島に所属しています。
記憶によると、琉球所属は王府を通じて硫黄貿易をコントロールしたかった薩摩の意図によるものだったとか。
ちょうど100年前(1904年2月)の爆発で島民全員が久米島に移住していますが、もともと久米島出身の人たちによって硫黄採掘がされていたのでしょうか?
[29173] 2004年 6月 10日(木)13:27:31【1】hmt さん
日本最高峰?沖ノ鳥島
[29124]sutekinaおじさんが根性で求めて下さった自治体の高低差とは直接関係ないのですが、土地の高さに関する話題。

日本で一番高い場所は、富士山ではなくて沖ノ鳥島だという説があります。

たしかに沖ノ鳥島は深海からそびえ立つ雄大な海山[26266]ですが、「沖ノ鳥島=日本最高峰」説の根拠は麓からの高さではなく、地球の中心から測った高さ(地心距離)です。
下表のデータは、大久保修平編著:地球が丸いってほんとうですか?(朝日新聞社)によりましたが、感覚的に比較しやすいように、地心から6370kmを超える高さ(m)を示しました。

山名緯度標高m地心距離-6370000m
沖ノ鳥島20゜25.5'N05595
富士山35゜21.6'N37764833
宮之浦岳(屋久島)30゜20.2'N19354631

地球楕円体が張り出した赤道海面の地心距離は6378.1kmで、北極海面の地心距離6356.7kmよりも21.3kmも大きくなっています。この傾向があるために、日本最南端の沖ノ鳥島は、海面すれすれの高さながら、日本最高峰?の地位を獲得しました。

地心距離をモノサシにした世界の高山ベスト10は、最高峰チンボラソをはじめとしてアンデスの山々が占めます。唯一アフリカから5位のキリマンジャロが参入。
標高(ジオイド面=仮想的な海面 からの高さ)では世界最高のエベレスト(ネパール語ではサガルマータ「大空の頭」、チベット語でチョモランマ「世界の母神」)は、32位だそうです。

山名緯度標高m地心距離-6370000m
チンボラソ(エクアドル)1゜29'S631014458
キリマンジャロ(タンザニア)3゜05'S589513952
エベレスト(ネパール・チベット)27゜59'N884812270


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