[26610] 尖閣諸島に関連して
[26657]井上清さん
[26659]般若堂そんぴんさん
[26662]夜鳴き寿司屋さん から情報をいただき、いろいろな考えの方の存在を知りました。感謝いたします。
【2】井上清さんご本人の書き込みを前提とした記載を削除(
[26689]ゆうさんのご指摘あり)
それにつけても、
[26625]で 夜鳴き寿司屋さんが言及された 小笠原諸島 がこのような紛争の地にならずに済んだのは幸いだったと思います。
文禄の役における小笠原貞頼発見(1593)の伝説はさておき、1675年 島谷市左衛門らによる探索・領有宣言。
1827年の英国軍艦ブロッサム号のキャプテンビーチィが領有宣言(翌年にはロシア軍艦が来て残念がったとか)。
1830年 多国籍欧米人とオアフ島民からなる移民の定住。1853年にはペリーが寄港して領有も宣言。
1861年咸臨丸派遣により小笠原回収をしたが、1863年に引揚。1875年明治政府による再回収。
こういう歴史を見ると、長期間放置していた小笠原がよくぞ“無事に回収”できたことだと思います。
小笠原が ケンペルの「日本誌」(1727)や 林子平の「三国通覧図説(クロプロート訳1826)」で外国に知られ、Bonin Islandsと呼ばれるようになったのは、MOU NIN SIMA(無人島)と呼ばれていたためですが、どうもこの名前からして「ほったらかし」の感じです。
この「無人島」に住み始めた1830年の移民団は、ホノルル駐在英国領事の支援の下に結成されたもののようですが、英国・米国・ハワイ王国などの植民地ではなく、約30年間は無国籍の「南海の楽園?」として、当時盛んだった北太平洋の捕鯨船相手の薪水・食糧供給基地になっていました。
1840年には陸奥国気仙郡の難破船が島民に助けられ、帰国して報告していますから、幕府は異人の居住を知りながら放置していたわけです。
1853年には琉球から浦賀に向う前にペリーが寄港して(1827年ビーチィの領有宣言は承知の上で?)領有も宣言。もし日本が打ち払いを実行したら、黒船艦隊がここまで退いて態勢を立て直す前進基地でした。同時に石炭貯蔵地などを購入して、サンフランシスコ・サンドウィッチ諸島(ハワイ)・上海を結ぶ航路に備えた補給基地を確保しました。
この時に交渉した 島の指導者 ナサニエル・セボレーとペリーとは、同じ1794年生れで 出身地も近く、親しくなったようです。ナサニエル・セボレーから4代目~5代目の子孫は今も父島に在住し、ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載しています。【2】
1856年にペリーの「日本遠征記」出版。幕府はこれによって小笠原の重要性に気付かされ、1861年に至り、老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させることにしました。
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
と駐日各国公使にも通知して、1861年12月咸臨丸は父島に到着。セボレーたち島民にはジョン万次郎の通訳で日本の領有・既得権の保護・今後の日本移民による開拓への協力方を説明しました。米国公使ハリスの書記官ポートマンからの好意的な書簡もあり、島民も日本の規則に従うことを了承しました。
翌年には八丈島からの移民30人が送られ、実質的な日本領としての開拓・統治が開始されました。
せっかく日本の統治が始まったのに、翌1863年には早々と撤退してしまったのは、幕末多事・安藤や水野の失脚に加えて、生麦事件の賠償金をめぐり英国との間に確執が起き、真っ先に攻撃される事態になることを恐れたためとされます。賠償金問題の解決後も開拓は再開されず、明治維新後も放置状態が続きました。
このような日本に対して外圧を加えたのは英国で、小笠原の所属を再度にわたり質問。
ここに至り明治政府は1875年 田辺太一らを明治丸で小笠原に派遣、神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。なお、明治丸は越中島の東京商船大学に保存されています。
翌1876年には小笠原諸島規則を制定して各国にも通達し、日本の小笠原領有は国際的にも確立されました。移民も再開。内務省出張所が設けられ、1878には学校も。1880東京府移管。1882までに先住民全員が日本に帰化。という具合に日本化が進みましたが…
第2次大戦末期の1944年、日本軍は強制的に島民を本土に引揚させ、残された食糧補給要員も戦後日本兵とともに本土に引揚させられ、「無人島」になりました。(米軍は駐留していたのでしょうが)
1946年、欧米系島民と配偶者135名が帰島。
1968年、「小笠原諸島返還協定」で6月26日に日本復帰