[47404]を分割しました。大筋はもとの記事の後半です。
[47404]で、17世紀に新潟の繁栄の時代が訪れたことを記しました。これは、基本的には
[47335] matsu さんの考えと同じです。
では、堺商人はその時代にどのような状況だったか?
堺は、1569年に織田信長に屈服して自由都市の地位を失った後も南蛮貿易を含む商業港として繁栄していましたが、1615年に大坂夏の陣の前哨戦で豊臣方の大野治房らに放火されて焦土になりました。
思い返せば、応仁の乱の時代に瀬戸内海航路と兵庫港の危険を避けた遣明船の入港(1469)が、堺の外国貿易進出という飛躍の第一歩でした。戦乱からチャンスをつかんだ堺は、戦乱で滅びたのか?
そうではありませんでした。
幕府は戦火を蒙った堺の町を、新たな町割りで復興させています。「元和の町割」と呼ばれる3間道路(大道は4.5間)の計画都市がこれです。「往古堺ノ町並只今ノ様ニ筋通リ不申」と伝えられるように、慶長地震の頃の町は、倒壊家屋で通行ができないような狭い道幅でした。
前記1617年の新潟の町割も、堺に倣ったものと思われます。
一時的に拠点を失った堺商人の一部が新潟にやってきて、町作りに協力した可能性もあります。
それはともかく、河村瑞賢の西廻り航路で繁栄を見せた酒田が、
「西の堺、東の酒田」といわれた と記されているように、江戸時代前期はまだまだ中国からの輸入生糸販売の独占権(糸割符仲間)などにより、堺が繁栄を取り戻していた時代でした。
寛永の鎖国政策で外国貿易が途絶えたのは確かに打撃であり、元禄以降は大阪の進出で経済の中心としての地位が奪われてゆきます。
そして、「堺」の繁栄を決定的に奪ったものは、18世紀になってから実施された大和川の付け替えによって運ばれた土砂の堆積でした。
大和川は河内国を北流して、合流先の淀川と共に大阪平野を作った河川ですから、関東平野における利根川・荒川と同じように水利の恵みを与える一方で、水害の危険を伴なっていました。
歴史の古い土地だけに、古代から洪水の記録があるようですが、江戸時代になってからも、元和から元禄に至る数十年間に十数回に及ぶ大水害がありました。
17世紀後半になると、水害を受ける河内の村々は、大和川が大阪平野に出る柏原から、これを直接西に導いて、住吉・堺方面へ流す付け替え案の陳情を幕府に対して繰り返しました。新川筋予定地の村々は、当然反対。
昔の流路図と促進・反対両派の嘆願書
その間にも、延宝2年(1674)寅年“未曾有”の広域大洪水がありましたが、河村瑞賢の意見を用いて、付け替えはせずに、淀川河口の改修と浚渫で対応することになりました。
しかし、このような治水工事をしても洪水の被害は収まらず、元禄16年に至って幕府は方針を変更、大和川付替えを正式に決定しました。
工事は、翌元禄17年(1704)2月27日に、川下(海側)から着工されました。昨年が300周年にあたるため、記念事業が行なわれました。
[34118]らるふ さんの記事参照。
最近も
[47321]今川焼さんの記事があります。
この工事によって、たしかに水害問題は解決し、河内平野には新田が開けました。
しかし、大和川の新たな流路は大量の土砂を堺の海に運び込み、江戸時代を通じて何回も改築工事が行なわれましたが、堺の港は土砂に埋没して機能を失いました。
河内の新田地図と土砂堆積前後の堺を比較した地図
というわけで、堺の衰亡を決定的にした大和川付替え工事開始(1704年)よりも30年以上も前に、西廻り航路が整備(1672)されています。
この期間は、堺商人が新潟に進出拠点を作る可能性は十分にあったと思います。
「新潟市栄町」
[47326] が「堺」に由来するということを直接示しているわけではなく、あくまでも状況証拠にすぎませんが。