日本は、第二次大戦に敗れた 1945年の秋に「進駐軍」に占領されました。
年が明けた1946年になると、マッカーサー司令部から発せられた覚書
SCAPIN-677 によって、日本の施政権が及ぶ範囲は、 “四主要島嶼(北海道、本州、九州、四国)と、対馬、大隅諸島を含む約1千の隣接小島嶼” に限定されることになりました
[56190] 。
実は、この文中で“大隅諸島”と書いた部分は、原文では“北緯30度以北の琉球(南西)諸島”なのですが、種子島・屋久島などのことを“琉球諸島the Ryukyu (Nansei) Islands”扱いにしている原文は誤解しやすく、かつ冗長なので、あえて原文に使われていない“大隅諸島”を用いました。
日本の施政権から外された地域には、沖縄、小笠原、竹島、千島などの他に、東京都の伊豆諸島と、奄美諸島、それにトカラ列島(鹿児島県十島村)の北緯30度以南が含まれていました。
屋久島と奄美大島との間に位置するこのトカラ列島。1889年に「町村制ヲ施行セサル島嶼」として指定された当時は「鹿児島県管下薩摩国川邊郡」であり、「川邊十島」という呼び名もあるのですが、1897年に奄美と同じ「大島郡」に編入されました。同時に「大隅国」に変更されたようです。
戦後の1973年には鹿児島郡に所属変更。この時は国界変更はない筈ですから、大隅国のまま鹿児島郡。
郡の境界付近で、新羅(新座)郡→入間郡→(新座郡統合後の)北足立郡→入間郡 と出入りを繰り返した針ヶ谷
[41711]を紹介したことがありますが、同じ土地が 川辺郡→大島郡→鹿児島郡と、全く異なる3郡(2国)を渡り歩いたのは、珍しい事例だと思います。
郡の話はさておき、トカラの島々は、1908年の島嶼町村制による
十島村(じっとうそん)を経て1920年に「本土並み」の村になっていたわけですが、前記のように、思いがけず村内の「北緯30度」に境界が引かれることになりました(1946年)。
このために、境界線よりも北の「上三島」(硫黄島、黒島、竹島)は日本に残り、北緯30度以南の「下七島」(口之島、臥蛇島、平島、中之島、悪石島、諏訪ノ瀬島、宝島)は奄美などと共に日本から切り離されました。
村外で起こった政治力学の影響により、十島村は完全に分断されたわけです。
5年余を経た 1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印されましたが、
この条約 第3条の信託統治条項により、北緯29度以南はそのまま日本から分離されることになりました。
しかし、北緯29度と北緯30度の間のトカラ列島「下七島」だけは、日本に復帰することができたのです。
「下七島」の日本復帰にあたり、1946年以来、実質的には「上三島」だけになっていた「十島村(じっとうそん)」では、旧十島村を復活させるか、分村するかの議論になり、住民投票の結果、圧倒的多数で分村することになりました。
出典
こうして従来の「十島村」と、「下七島」復帰により新たに生まれる「十島村」。
この「2つの十島村」は、どのような経過で現在の「三島村(みしまむら)」と「十島村(としまむら)」になったのか?
実は、この件に関しては、1946年に一時的に日本から切り離された伊豆諸島の復帰を
3年前に話題にした際 に触れたことがあります。
[24269] では、
「奄美群島日本復帰50周年」の年表 に基づいて、連合国最高司令官(SCAP)覚書による1951年12月5日の日本復帰で、「2つの十島村(じっとうそん)」ができ、翌年2月10日に現在の「三島村」と「十島村(としまむら)」になり同名が解消されたと書いたのですが、
[24278]太白さんから、“
十島村HP の年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日”とのご指摘がありました。
今回、市区町村変遷情報の
「十島村」 を調べてみると、1952/2/4はポツダム政令(昭和27年政令第13号)の官報告示日であり、“変更日 1952年2月10日”となっています。
# 十島村に関する暫定措置に関する政令(昭和26年政令第380号)も存在します。
見ていないのですが、便宜上「南十島村」と呼ばれていたとか。(1951/12/5から正式復帰する1952/2/10までの間?)
確認のために、変遷情報の
「三島村」 を見たら、なんと! “従来の大島村の境界”を北緯30度以北とする変更と、「三島村」への名称変更を内容とする総理府告示第132号の日付が“1952/5/14”と、3ヶ月も後になっているではありませんか。
もっとも、“変更日 1952年2月10日”となっているので、告示が遅れただけで、2月10日に正式復帰した「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」は「三島村」に改称し、「2つの十島村」は同時には存在しなかったものと思われます。
# 官報告示には読み仮名が付いていないようですが、この時に「じっとうそん」から「としまむら」に変わったと考えるのが自然でしょう。
# 1952/5/14の告示では、“従来の大島村”と記されていますが、もちろん“従来の十島村”の誤記と思われます。