都道府県市区町村
落書き帳

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[2753] 2002年 8月 24日(土)13:26:05深海魚[雑魚] さん
都市機能分化
[2751]
>門前町の長野は,つまり商業都市なわけで,そこには別のセンスもあるだろうし。
勿論、松本が総じて長野より上格と言う事ではありません。他地域の古参中等学校の
分布から考えて、徳川幕府時代に一定の向学精神が醸成されたと思われる城下町が、
明治時代の文教政策上、重視された傾向が窺える為、この様な発言となりました。

門前町にして商業都市の長野と城下町の松本のかような関係を、或る種の機能分化と
考えるなら、青森と弘前、酒田と鶴岡、上越市の直江津と高田、奈良と大和郡山、
福岡市の福岡と博多、日南市の油津と飫肥、那覇市の那覇と首里などでも、同じ様な
地勢が見て取れる様にも思います。上記の弘前と大和郡山、そして彦根は、県都より
尋常中学の設置が先行した街ですが、津軽藩の開港政策や大津と京都の近接性などを
考慮しても尚、有力な城下町という共通の印象が大きいですね。

一方、今でこそ県都移転すら取り沙汰される県央部の交通の要衝ながら、明治初期は
県都でも城下町でもなく、戊辰戦争の災禍を被り荒れていた郡山に福島県尋常中学が
設置された経緯は今一つ不明です。同校が元々は福島の師範学校に併設された存在で、
郡山の立地は移転の結果という事から、官民挙げた大型公共事業と目される開成社の
開発事業の尖兵、つまり筑波研究学園都市における筑波大学の様に位置付けられたと
いう事なのかな、という風に推しているのですが。

>これはもちろん長野に開設されたのですが,
信州大教育学部も、松本深志高と同様に開智学校が前身であると仄聞したのですが、
長野の設置となると、そうではないのでしょうか。長岡の国漢学校も、複数の後身校を
持っていますが、財政上の理由から、こうした学校に主要教育機関たるを委ねていた
明治期の財政事情が窺われます。一方、私立茨城高の起源である水戸藩校弘道館が、
正規の中等学校と位置付けられたのが昭和に入ってから。それまでの空白期間が少々
意外に感じられます。
[16715] 2003年 6月 13日(金)16:02:28深海魚[雑魚] さん
旧制中学 データ・ベース 第二弾/08 茨城県編
さて、いよいよ我が地元編。学制改革の際は、当時の公立校は単独継承で移行した為、当時全国的に多用された男子系の 「一高」、女子系の 「二高」 という暫定的名称 (仙台二高 → 仙台二中 の様な例外もありますが。) が今日に至るも健在である点は、これまで申し上げた通り。しかし、太田、鉾田、水海道、竜ヶ崎の各一高では、戦後一時期、単純に街の名前を名乗った時期があり、二高系は当時 「○○女子高」 を名乗っていました。それを敢えて 「第一」 「第二」 に改めたという事は、共学化を意識していたという事ですかね。(ちなみに、バンカラの巣窟とされた私の古巣では、1950年に初の女生徒二名を受け入れています。)

茨城二、三中 (共に 1883年創立) と土浦、下妻の両一高との継承関係については、決め手となる資料が見付からない為、水戸の茨城県尋常中学から分校として派生した時点を以て創立と解釈しました。その系譜からすると、県立中学十校のうち、半数以上の六校が水戸を中心とした 「親戚筋」 となる訳で、これは済々黌を中心に派生した熊本県立中学の陣容に通じるものがあります。日立学区の最難関校である日立学区は 1927年の単独創立。神奈川県立川崎中と同年で、この辺りに何やら工都としての時期的な必然性を感じます。元々は独自学区を代表する存在でありながら、農村部の少子化から、日立学区の外縁部という位置付けに落着いた太田一高の方がよほど先輩格で、こうした一種の逆転現象に、工都を擁する地域ならではの特有の趨勢を感じた雑魚でした。

県内最古参である茨城高が中等教育機関と認定されたのは昭和に入った 1927年。それ以前の自彊舎、弘道学舎、水戸塾、水戸学院が、どの様な内容の学校だったのか気になるところ。ちなみに、男女共学、中高一貫制強化に移行して初の卒業生を輩出した今春の進学実績たるや、案の定、という感じでしたね。水戸界隈では益々人気が高まるだろうな。

県立1878)水戸第一茨城師範学校予備学科、茨城中学、茨城第一中学、県尋常中学、
県中学、県水戸中学、県立水戸中学
1897)下妻第一県尋常中学下妻分校、県立下妻中学
土浦第一県尋常中学土浦分校、県立土浦中学
1900)太田第一県立水戸中学太田分校 / 太田高校
水海道第一県下妻中学水海道分校、県立下妻中学水海道分校、県立水海道中学 / 水海道高校
竜ヶ崎第一県土浦中学竜ヶ崎分校、県立竜ヶ崎中学 / 竜ヶ崎高校
1922)鉾田第一県立鉾田中学 / 鉾田高校
1927)日立第一県立日立中学
1928)県立境中学
1929)麻生県立麻生中学
私立1814)茨城水戸藩弘道館、自彊舎、弘道学舎、水戸塾、水戸学院、茨城中学

次号予告) 栃木県編
[36713] 2005年 1月 12日(水)23:47:43【1】千本桜[軒下提灯] さん
足利VS栃木
[36661]両毛人 さん
新栃木駅前(こちらは東武線)から箱森交差点を経て、栃木インターチェンジの横を過ぎ、国道293号線まで延びている幹線道路
そう、そこですよ。ICを過ぎて道路の左側の店。そこで前日光牛のステーキ食べませんでしたか?。よく分からないけど、見た感じでは広い範囲から集客していそうで、小山のいっちゃんさんや佐野のみやこさんなども一度は食べに行ってそうな店がありましたでしょう。だからどうってことないけど、ちょっと栃木ICまで戻ってみません?。この栃木ICからジャスコまでの間。いつも不思議に思うんです。あのような条件の場所だと運送会社が立地しても良さそうだけど、それが無いことを。

栃木とくれば足利。ふたつとも町並みが綺麗に整備された良い街だと思います。足利の中心街って「シャープな美しさ」。栃木の中心街って「まろやかな美しさ」。そんな風に感じています。栃木中心街を観光客が回遊していませんでしたか?。栃木って、観光ポイントと観光ポイントを徒歩で回遊できるんですよね。それが多少なりとも「まちなか」の賑わいに結びついているように感じます。でも、足利。ちょっときつい。なんば寺と足利学校にたむろはするが、「まちなか」に観光客があまり流れ込まないような・・・そんな風に見えます。繁華街を挟んで「なんば寺」の反対側にも観光スポットが有ればいいのにね。私がジリジリ気をもんでも仕方ないので、ここらはひとつ両毛人さんにヒトハダ脱いでもらって、何とかなりませんか。「おい、てめぇ~ら、足利に来たからには、通や伊勢町をぶらついて帰るのが筋ってもんじゃござんせんか」とか何とか言っちゃって。いえいえ、そんな下品なことを言う両毛人さんじゃないことは分かっています。お遊びですよ。

書込訂正機能で訂正。
なんば寺を、ばんな寺に訂正します。うっかりミスでした。でも、また間違いそうな名前ですね、ばんな寺って。
[45552] 2005年 10月 10日(月)07:12:46G さん
足利 対 新田 (両毛の「対抗戦」)
[45470] 2005 年 10 月 7 日 (金) 12:55:58 烏川碧碧 さん
[45550] 2005 年 10 月 10 日 (月) 05:57:39 稚拙 さん
定期戦のフラッグ隊を思い出しました。

私の言う「定期戦」というのは、もちろん(?)「高前定期戦」のことで、これすなわち上州を代表する2校――タカタカこと高崎高校とマエタカこと前橋学校――との間で毎年戦われる定期戦のことです

両毛では、県境を越えて「対抗戦」が行われておるようです。タタカこと群馬県立太田高等学校とアシタカこと栃木県立足利高等学校との間で戦われる対抗戦のことです。こちらは、まだ歴史が浅く、1985年からのようです。なので、足利学校卒業の私は、経験がありませんでしたが(^^;
[54123] 2006年 9月 22日(金)21:41:33ezekiel さん
名残 ~ 「立なし」公立高校、「県あり」私立高校
[54106]faith さん、

この時期でも府県立、官立とも特にあいまい性はないと思いますよ。

 今回話題にしている「立なし」公立高校や「県あり」私立高校の
名前のルーツ、もっと言えば、名残や痕跡の糸を辿ろうとする時に、
学校が基本的に文部省管轄になって、いわゆる“戦前の官立学校”
のイメージが出来上がる前の貌を浮き彫りにすることが第一歩では
ないかなあ~と考えた故です。明治19年以前(正確には明治17~8年
以前)の官立という言葉は、そういうニュアンスでの”あいまい”
だったのですが、私の言葉足らずだったようで、失礼しました。

 一つ前に頂いたコメントになりますが、

[53908]faith さん、
師範学校は官立移管まで「○○県師範学校」というような校名だったようですが、府県立の中学校の校名には1901年に(ざっとみたところ)多くの府県で一斉に「立」が入っていますね。

 私が今注目しているのは、『(ざっとみたところ)多くの府県で
一斉に「立」が入っていますね。』に該当しない学校なんです。
「県あり」私立高校に興味を持ったのは、[53967]でコメント
したように、今月はじめに岡山県の高梁を訪れた時に、岡山県高梁
日新高等学校という学校名を見たのがきっかけでした。
 この高梁は山田方谷の生誕地で、閑谷学校を閑谷精舎として再開
させ、後に私立の閑谷中学校となるのですが、1921年に岡山県に
移管されて岡山県閑谷中学校となっています。

 江戸期には、幕府の昌平校以外に“学校”を名乗ることを禁じて
いたのですが、昌平校より歴史が古い足利学校と閑谷学校だけは
例外でした。

 「立なし」公立高校や「県あり」私立高校を辿ると、まさに名残
だなあ~と感じます。

p.s.

[54099]ezekiel
明治19年の転換は、明治12~13年のゴタゴタに端を発し、

読み返して気付いたのですが、ちょっと不適切な表現でした。
“ゴタゴタ”を撤回して、“せめぎあい”と訂正します。
[72972] 2009年 11月 28日(土)02:37:24白桃 さん
グリグリ劇場「水戸黄門」(石島騒動の巻)
あらすじ:ときは寛文10年(1670年)のこと
船坂峠を越えて備前三石にご老公一行がさしかかったとき、いきなり刺客に襲われる・・・
その頃、讃岐と備前の間で世に言う「石島騒動」が持ち上がっていた。讃岐高松藩2代目藩主松平頼常は光圀の実子であることから、不利な裁きになることを怖れた備前岡山藩では、国家老の神山油天が悪徳商人加賀屋と結託し、黄門暗殺を企てていた。ただ、そのような陰謀は岡山藩主である名君池田光政の耳には入っていなかった。果たして黄門様の運命やいかに!
主なキャスト(俳優は敬称略)
登場人物俳優役回り他
風車の弥七じゃごたろ
隠密ニジェガロージェッツ実は松尾芭蕉
駕籠かき(前)リトルお銀に高速道路代金2両をふっかける
駕籠かき(後)ソーナンス
謎の薬売りペーロケ実は高松藩御雇忍者
かわら版売り星野彼方本筋に全く影響を与えない
傘張り浪人らるふ岡山藩家臣であったがリストラにあう
丹波屋主人今川焼岡山の宿屋の主であるが、ドラマ終盤で重要な役目を演じる
素浪人白桃岡山城下でいつも飲んでいる単なる酔っぱらいセリフなし
大工の熊五郎BANDALGOM前述の素浪人といつも飲んでいる
石島の漁師久兵衛かぱぷう隠密らを石島に案内
慈円futsunoおじ西大寺の僧
格さんいっちゃん実は印籠のセールスマン
小松帯刀小松原ラガー祖父は小早川秀秋。加賀屋にそそのかされ、光圀を襲う
多羅尾坂内MasAka閑谷学校で地理を教える先生
飛猿スナフキん
神山油天油天神山岡山藩国家老(どっちかいえば悪役)
うっかり八兵エぺとぺと
松平頼常N-H
助さん88
飴売りでるでる実は岡山藩御雇忍者
八墓村の子どもあっちゃん
六車宗旦JOUTOU高松藩城代家老
お銀かすみ今回は入浴シーンなし
水戸黄門hmt
池田光政グリグリ
船吉YASU吉井川船頭
加賀屋EMM(どっちかいわなくても悪役)

オフ会に参加されなかった皆様へ:テキトーにキャスティングしたものであり、くれぐれも役柄からご本人をイメージしないでください。
[80400] 2012年 3月 13日(火)19:43:18【1】白桃 さん
光政村と津田村
岡山県の(旧)上道郡にかつて光政村と津田村がありました。
この両村は1953年に西大寺町他と合併して西大寺市となりましたから、今では岡山市東区であります。
光政村は光津村と政津村が合併、津田村は君津村と升田村が合併してできた、典型的な合成自治体名ということになりますが、人物由来自治体名である可能性もあります。
「光政」は名君とうたわれた池田光政からというのはお察しどおりですが、「津田」は閑谷学校の設立、後楽園造営にあたって中心的役割を果たし、百間川の開削や新田開発に貢献した備前藩士、津田永忠からではないかと考えます。
むろん、偶然から生まれたものでありましょうが、二人の人物を意識した命名ではないか、光津、政津、君津、升田の4地区が互いに隣接して「新田地帯」にあるのを見て、そう思った次第です。
[79251] 2011年 8月 27日(土)13:52:30【2】Issie さん
日田に行ってきた
うちの職場にはこの季節,「夏休み」というイベントがあるのですが,それは“お客様方”のこと。私たちは原則,通常勤務です(実は昔はそのあたりかなりルーズでした。“うるさく”なったのは10年ほど前から)。というわけで,規定通りの夏休み(夏季休暇)が8月の末になってやっととれたので,かねて予定の九州新幹線に乗りに行ってきました。
ともかく,まずは鹿児島まで直行するとして,どうやって帰ってこようか。
そこで,
・肥薩線の矢岳越え(これは17年前に一度乗車済み)
・西鉄電車に乗る(5年前,選挙で選ばれる“偉い人”のお供で太宰府に行ったときに乗りそびれた)
・日田彦山線にでも乗ってみよう(筑豊線は13年前に乗車済み)
というサブイベントを考えました。

で,九州新幹線。わざわざ新大阪乗り換えで「さくら」に全区間乗車。
感想は,「まあ,こんなものか」と。
在来線時代の「つばめ」にビュッフェをつけていたJR九州のことだから「さくら」にも何か工夫が,と期待したのですが,新幹線は「西」や「東海」に合わせる必要があるのでしょうかね。“普通”の設備でした。
乗ってみれば,新しい新幹線の常でトンネルばかり。高架区間は高い防音壁で景色はほとんど見えず。やっぱり新幹線は「旅行」の手段ではなく,飛行機と同じく2地点間を短時間で移動するためだけの手段と割り切るべきなのでしょうね。

矢岳越え。17年前は八代側から越えて,吉松からは吉都線経由で宮崎へ流れたのですが,今回は鹿児島側から。隼人-吉松間が初乗車(国分までは学生だった25年前に乗車済み。このときは国分から今は亡き大隅線と志布志線(これは現存)で宮崎へ行った)。地図も視ずに乗ったのですが,霧島の西側をスルスルと吉松まで行くのかと思ったら,狭い谷間を通って何度も山越えをするのですね。矢岳越えとともに,日露戦争中の艦砲射撃対策と言われてはいるけれども,よくもわざわざこんなに地形の険しい区間を選んで「鹿児島本線」を通したものです。
矢岳越えそのものは……,あちらこちらに乗車体験記があるので割愛。一つだけ,「観光列車」というのも馬鹿にはできないな。車内が(ある意味)ケバくて居心地悪かったが。

西鉄電車。大牟田から久留米まで乗車。
「久留米」なのは,出発前日に宿の予約をしようと思ったら(ほとんど思い付きに近い今回の旅行なので),博多(福岡)がどこも一杯で予約が取れず,やむなく久留米にしたら一発でとれた,という次第。ま,でも結果的に久留米の町を歩くことにもなって,これは怪我の功名。
大牟田から料金不要の特急に乗ったが,これが速い。30分前に大牟田を発車した各駅停車を柳川で追い抜いたが,これは各停が遅いのか?
柳川付近では筑後平野特有の「クリーク」の断片が車窓からもよく確認できる。こういうものは前政権党以来の農業+土建政策で“きれいな田んぼ”に整備されてしまったと思っていたが,後で地図を見てみると柳川周辺には意外にも昔(白秋の時代?)のまま残っているのですね。この場合,水路を丁寧に拾って“濃い青”で表示している「ウォッちず」がおすすめ。
やはり,柳川駅のあたりで自転車を借りて走り回るのがよさそうです。平坦だしね。

で,日田彦山線に乗るために日田へ。
いや,汽車に乗るためだけじゃなくて,日田自体にも興味があったので。
お昼の日田彦山線列車の発車時刻まで,3時間という駆け足だけど日田の町を歩く。
だって不思議ですよね。何でこんな所に天領があって,西国郡代がいたのか。そして,たとえば江戸時代後期には「咸宜園」という“近代的”な私塾があって,近場の周防の村田蔵六(大村益次郎。塾には違う名前で入門願を出しています)はともかく,奥州出身の高野長英がシーボルト事件の余波とは言え“こんなところ”にいたという。不思議で,魅力的な町です。
日田駅の北西方にある 豆田町 というところが西国郡代の“陣屋前町”で,古い街並みがとてもきれいに残っているのですが,実はこれは何度か大火を経験していて今あるのは明治・大正以降のものだとか。飛騨郡代の高山には陣屋がきれいに復元されているのですが,こちらは敷地が分割されて普通の民家になってしまっているので,復元は難しそうです。
やっぱり3時間では足らなかった。でもこの季節,それ以上歩く気はしなかったな。

日田彦山線に乗って最初に驚いたのは,大分県(豊後)から福岡県に入って直に豊前に入るのかと思ったら「宝珠山」。……??? これって,筑前朝倉郡最奥部の(旧)宝珠山村だよね。何と日田彦山線が通っていたのか…。
これは地形抜きで行政界だけの地図を眺めていては気づかないことでした。
で,筑豊線で「筑豊の“筑”」の方を通った13年前に対して,今回は日田彦山線で「筑豊の“豊”」の方。当たり前ですが,40年以上も経てば“炭鉱の町”の影はだいぶ薄れますね。ボタ山を探してみても,車窓からすぐにそれとわかるものはありませんでした。
そうこうするうちに小倉に着いて。また新幹線。
新横浜に着いたら関東は大雨で,少し前には横浜線が停まっていたとか。家に着いたら今度は新幹線が運転見合わせとかで,私自身は遅れに遭うことなくダイヤ通りの電車で帰ってこれたのですが,運のいいことでした。


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