都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[5110]2002年11月20日
深海魚
[18902]2003年8月7日
今川焼
[83712]2013年7月22日
にしさん21号
[6684]2002年12月19日
ken
[63766]2008年2月19日
だんな
[64972]2008年5月4日
hmt
[76727]2010年11月10日
Issie

[5110] 2002年 11月 20日(水)09:09:31深海魚[雑魚] さん
さざんかの宿
昨夜、会社の忘年会で 「さざんかの宿」 を歌っていた時から、今朝までの記憶が全く無い。
「何言ってんの、デレスケ !! 玄関で死んでたから寝室に運んだの、重かったんだからね !!」
奥様、申し訳ございません。週末も業界団体の懇親会があるので宜しく御願いします。(焦)

上記演歌の一節を聞くと、難関大出身の才媛にして性格温厚、美形と三拍子揃った、当時
新婚の人気者同僚が思い出され、少々トラウマの雑魚でした。(女房と知り合う以前の話。)

[5065] 桃象@国仲涼子ファンさん
はい、これで正解と思います。

>でももんだい1,2,5はお手上げですね。
問弐はあっさり解かれると思っておりましたが。問壱が判る方は私と同様 「病気」 です。(笑)

[5067] TNさん
お帰りなさいませ。御復帰、御祝い申し上げます。

[5087] くはさん
>がんばってみたんですが、繋がったのは20村でした。まだ甘いですか?
一度通過した村は再度通らず、市や町に入る事無く、最大幾つ連続するか、との趣旨ですが、
20村も繋がりましたか !! (頼りない出題者ですね。)

[5097] 管理人様
御指摘の件、了解しました。当分、現行の手法で参ります。
[18902] 2003年 8月 7日(木)11:38:09今川焼 さん
大江氏について
[18895] 般若堂そんぴん さん
その元である大江氏は丹後国の大江と関係があるのでしょうか?
京都府の大江町は大江山からとった名称で、大江町内には大江という地名はありませんので関係はないと思います。
ところで百人一首の小式部内侍の歌に
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」というのがありますが、この大江山はよく間違われるのですが、丹後の大江山ではなく京都市西京区の大枝のことです。それで
[18898] Issie さん
「大江氏」は,もともと「大枝」と表記して
とあるので京都市の大枝ではないかと思い、調べてみると「大江」についてならなんでもわかるようなホームページに行き当たりました。それによるとやはりルーツは京都市の大枝のようです。

大江さんのホームページ
http://www.246.ne.jp/~denden/index.html

ちなみに小式部内侍という人は和泉式部の娘で、和泉式部の父親は大江匡致といってと大江一族なわけで彼女は自分の母方の祖先由来の地を歌に残したことになります。また彼女は母親に似てたいへんな才媛だったようですが、のちに鎌倉幕府で活躍した大江広元とは又いとこの関係になるようです。

それでは大江山と大江氏は関係がないのかというと上記ホームページによると丹後には大江姓が多いということですし(大江町側ではなく、宮津市側)、謎は残ります。また余談ですが和泉式部の夫の藤原保昌は源頼光や坂田金時(あの足柄山の金太郎ですね)らと共に大江山の鬼退治をしています。(その大江山にしても京都市の大枝ではないかとの説もあり何かこんがらがってきそうです)
それから山形県の大江町は大江氏と関係があるんですね。

地名と人名の関わりは、ほんとうにおもしろいですね、Issie さんや ken さんのお話、大変興味深く拝見しています。

それと、大江町(京都府の方)のURLが下記に変更になっていました。
http://www.oe-kyoto.jp/
[83712] 2013年 7月 22日(月)05:18:07にしさん21号 さん
都道府県名の常用漢字
 かなり久しぶりの書き込みとなりますが、今まであまり気づかれなかった話題を挙げたいと思います。

 2010年に常用漢字が改定されて、196字追加され5字が削除されました。

 このうち、このホームページと関連する漢字を挙げると、まず例を挙げると、都道府県名に使用されている漢字が全て追加されています。

 ところが、これについて以下のような問題点があるのを見つけました。

 (1)追加漢字の読み方について
 都道府県名に使用されている漢字として追加された「阪」と「媛」について、漢検発行の漢字学習ステップの2級版を見ると、訓読みが書かれておりません。以前、常用漢字に追加された時の報道では「都道府県名専用」の読みとしてそれぞれ「さか」と「ひめ」の読みが追加されていたように記憶をしていますが、訓読みの欄に縦棒が引かれていました。
 これでは、どうして追加されたのか、その意義自体が問われかねません。「阪」の場合、「京阪」や「阪神」といった地域名があるのでまだわかりますが、「媛」の場合、「才媛」や「名媛」などがありますが、これらの語句を一般生活上で見たことがありません。結局のところ、都道府県名として追加されたのか、一般の語句に使用される漢字として追加されたのか分からない状況にあるといえます。

 また、「埼」についても、常用漢字表では「さい」の訓読みしかありません。確かに「埼玉」の場合、「さい」と読みますが、本来は「さき」の音便変化であり、「さい」と読む漢字ではありません。この字のつく他の地名を挙げると、2001年に新潟市と合併した黒埼町や、佐賀県にある神埼市などの場合、「埼」を「さき」と読みます。事実、漢和辞書を見ても「さい」の訓読みはありません。むしろ、「埼」を「さい」と読むのは「埼玉」くらいでしょうか。
 「埼」を「さい」と読むと教えた場合、これらの地名の読みをそれぞれ「くろさい」や「かんさい」「かみさい」などと読み間違えられる恐れがあります。これによって読み間違えられれば、常用漢字表そのものに問題があり、不適切な漢字の読み方の指導が行われているということになります。しかも、その不適切な読みが、「常用漢字表」によってお墨付きされるという深刻な問題に繋がります。
 しかも、「埼」を常用漢字に追加するならば、一層のこと「碕」も追加してもよいのではないかといった理論につながっていきます。(鳥取県にあった赤碕町の字に使用されている以上、JIS第1水準の漢字になっていますが、漢検では「対象外」の漢字だそうです。しかも、島根県内の岬の名前に使われている以外、一般的ではない漢字です)
 そもそも、漢検の場合も、2級までは基本的に固有名詞に使用される漢字を対象としているわけではないので(ただ、私が持っている参考書も「宇治」「新潟」「天津(テンシン)」などが書き取りの問題にあった)、基本的にはその漢字の部首を質問する以外では出題しにくいと思います。

結局のところ、「埼」のつく名前の自治体などがこの問題をどう考えているのか、知りたいところです。


 (2)県庁所在地名の漢字などについて
 今回の改定によって、都道府県名の漢字はすべて常用漢字内となりましたが、都道府県庁所在地名、政令指定都市の市名、旧国名に使用されている漢字で追加されなかった漢字があります。(例を挙げると、札幌の「幌」など)これらは地理の授業では最重要の地名であるにもかかわらず、こちらの方は常用漢字に追加されなかった、極めて不整合の状態にあるといえます。

 一応都道府県名のほかに、近畿の「畿」も追加されていますが、結局のところ追加対象の基準がはっきりせず、なぜ「幌」は常用漢字にならなかったのか、といった批判がありました。

 都道府県名を特別扱いすると、あたかも都道府県名が絶対的な最上級の地名であるかのような扱いになってしまいます。以前この落書き帳で、「栃木市」の道路標識の表示について話題になったことがありますが、ただでさえ一般に知られていない都道府県名の命名法をより分からなくする危険性があります。そもそも、違う場所に県庁があれば、違う名前の県になっていた可能性があり、例えば栃木県の場合でも、初めから宇都宮に県庁があれば「栃木県」になっておらず、「栃」の字は県名に使用されている漢字ではなかった可能性さえあるのです。また、「堺県」も府県の整理の過程において存在していたわけで、もし大阪府になっていなければ「堺」も常用漢字表に含まれていたとか、さらに難しい字では現在の久留米市に県庁があった「三潴県」も現存していたら「潴」の字が常用漢字表にあったなど、結局のところ県の統廃合の結果に過ぎないのに、常用漢字になれるかなれないかの明暗が分かれてしまうという事態になったのです。

 また、廃藩置県から数年間の府県の変遷を一般に習うことなく、あたかも江戸時代の藩がそのまま現在の都道府県になったかのように考えている人も多いわけで、都道府県名を常用漢字に追加する際には、地理の授業で都道府県の成立過程や県名の命名規則なども教えるべきだったと思います。

 (3)学習学年について
 こうして追加された都道府県名の漢字は、現状では中学で習う漢字となっています。しかし、都道府県名を覚えるのは小学4年であり、一部では、小4配当漢字にしなければ整合性に欠けるといった批判があります。小学校で習う漢字の配当表を見直さないまま常用漢字として追加するのであれば、常用漢字の追加自体を延期してほしかったです。
 
 かつて、1981年に追加された95字について、現在小学校で習う漢字が1文字だけ存在しており(具体的には、小学3年で習う「皿」)、この前例が存在する以上、できないわけではないと思います。
 しかし、現在のところ学年別漢字配当表が見直される予定はなく、1992年度から全面実施されている現在の配当表は20年以上続いています。これについて調べたことがありますが、結局のところ、文部科学省において問題視されたことはないようです。

 仮に都道府県名に使用される漢字を小学4年に下げた場合、例えば岐阜の「阜」の場合、同じ読み方で既に常用漢字表に存在する「丘」よりも下の学年で習うことになり(「丘」は中学で習う漢字)、「阜」の字の意味やこの字を使った熟語を挙げることが難しくなるなど、また別の問題が発生します。
 小学生には都道府県名の漢字としては馴染みがあっても、その漢字の意味や使用される場合などになってしまえば、馴染みのない漢字となってしまうものがあります。これは、既に常用漢字に存在している滋賀の「滋」などについても同じようなことがいえます。滋賀の「滋」の漢字のイメージは、大人でもうまく思い浮かばないと思います。
[6684] 2002年 12月 19日(木)18:58:43ken さん
「袖が浦辺」
[6676] 雑魚 さん>
「袖が浦辺」 とは察するに、現在の袖ケ浦市に限らない海岸一帯

木更津、袖ケ浦、君津、富津の4市は合併話が、あまり具体化しないものの存在してますが。
この4市の名前の由来は、いずれも、日本武尊と弟橘媛(おとたちばなひめ)の話に因るとされてますよね。

日本武尊が、東征の際、三浦半島の走水海岸から、上総に渡海しようとしたところ、暴風雨に遭い、これは海神の怒りに違いないと、妻の弟橘媛が、日本武尊の身代わりとなって海に身を投じたところ、海は静まり、日本武尊は無事に、上総に上陸できた。しかし、妻を失った悲しみに、日本武尊は、しばらくその地を立ち去ることができなかった。
という話が日本書紀などにあります。

袖ケ浦は、弟橘媛の着物の袖が流れ着いた浦の意から、
富津は布流津(ふるつ)が元とされ、これも弟橘媛の着衣の一部が流れ着いた浜の意から、
君津、木更津は、日本武尊がなかなか立ち去れず「君去らず 袖しが浦に立つ波のその面影を見るぞ悲しき 」の君去らず(君去津)から来ているとされています。
袖ケ浦由来 http://www.city.sodegaura.chiba.jp/city/index1.html
木更津由来 http://www.city.kisarazu.chiba.jp/kanko/tower.html
君津由来 http://www.cuc.ac.jp/keiken/chiba/kimitsu/kimitsu.htm
富津由来 http://edge.tsano.net/chiba/area/futtsu/
「袖が浦辺」はその辺り一帯というか、もともとこの旧君津郡4市は、概念としては一体のものという考えもあるのでしょう。

このように由緒ある共通の名前の由来をもった4市ですが、合併では足並みが揃わず、仲が悪いですね。

合併したら、かずさ市(多分ひらがな)になりそうな気がしてなりませんが、弟橘市とかにするような歌心が欲しいものですね。

「富士の高嶺」は、千葉市内の我が家の窓からは、今ごろの季節は大変良く見えます。
県千葉からも、偶々遮るような構築物が新たに建って無ければ見えるのではと思いますが。
[63766] 2008年 2月 19日(火)09:07:15だんな さん
学校由来町名レス
ごぶさたです。
今年初の書き込みですので今更ながらあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

ぺとぺとさん、学校由来町名と思われるものを新たに見つけましたのでご報告を。

墨田区文花(ぶんか)1~3丁目です。

地名辞典等ではまだ確認できてないのですが、こちらによると、
吾嬬町東、吾嬬町西の一部であったが、これを昭和41年に合併し、地域の中に小中学校、
青年館、図書館などの文教施設が多かったことから「文」を、またもとの「吾嬬町」の名の
もととなった吾嬬神社の祭神である弟橘媛の橘を「花」としこの名となった。
そうです。

なお、由来のもととなった小中学校は文花小学校、西吾嬬小学校、曳舟中学校、吾嬬第三中学校ですが、小学校は平成11年に両校と第二吾嬬小学校が統合して押上小学校(校舎は町外の第二吾嬬小学校跡地)になり、中学校は同年両校統合により文花中学校となりました。

ところで「花」のほうは町内にある花王の工場が由来だったら企業由来町名との複合で面白かったんですけどね。

あともう一つ、学校由来かどうか怪しいのですが、釧路市文苑(ふみぞの)1~4丁目という町があります。
土地区画整理事業によって平成4年から13年にかけて大字愛国から住居表示されたものです。

町内に学校などの文教施設はとくにないのですが、隣接する芦野4丁目釧路公立大学があります。
大学は昭和63年に開学しているので、文苑の由来と何らかの関係があるとにらんでいるのですが、地名辞典等の発行年がそれ以前なので調べがつきません。
引き続き調査を継続したいと思います。
[64972] 2008年 5月 4日(日)19:02:51【1】hmt さん
みかん と 橘
[64969] 伊豆之国 さん
寄居町HPには、「…日本のみかん産地の北限として有名…」と記されています。
茨城県筑波山でもみかんが獲れます。

♪みかんの花が埼玉県[64968] の寄居町風布よりも北にある観光みかん農園は各地にあるようですが、戦国時代に由来する風布(ふっぷ)みかんは、群を抜いた歴史を持つ「北のみかん」なのでしょう。過去記事 参照。

「みかん」と言えば果実ですが、最近話題になった「橘」は、(実も結びますが)香りの高い花や常緑の葉の方が注目されてきた存在です。

♪橘かをる朝風に高く泳ぐや鯉のぼり[64950] まさにシーズンですね。

新宮生まれの詩人・佐藤春夫は、望郷五月歌で次のように歌っています。

あさもよし紀の国の 牟婁の海山
夏みかんたわわに実り 橘の花さくなべに とよもして啼くほととぎす
心してな散らしそ かのよき花を

熊野の山野には自生する橘でしょうが、関東となると 植物園 で見るくらいの存在になってしまいます。
それでも武蔵国に橘樹郡があったのは何故かと思ったら、弟橘媛陵とされる 富士見台古墳 があったからなのですね。

[64960] 淡水魚さん が紹介された田道間守(たぢまもり)の話。66年前に国民学校の国語で習いましたが、改めて 日本書紀巻6 を読んでみました。
(垂仁天皇)九十年の春二月。天皇(すめらみこと)は非時香菓(ときじくのかくのこのみ)の噂を聞き、田道間守を常世国に派遣した。今の橘のことである。
(九十九年天皇崩御の)翌年の春三月。田道間守が遠方から帰還した。橘の果実と樹木とを持参していた。

唐招提寺から近鉄の線路を隔てた北西にある 宝来山古墳 が垂仁天皇陵で、それを取り巻く濠の中の小島が田道間守の墓とされています。

[64964] 伊豆之国 さん
兵庫県豊岡市にある中嶋神社
の「中嶋」とは、大和国にある主君の周濠の中の小島のことでしょう。神社のある但馬国は田道間守の領地でした。

【追記】
田道間守関連資料 をまとめて示したページがあったので補足しました。

地理関係のこの場では、10年間の旅の行先「常世国」がどこなのか知りたいところですが、残念ながら不明。

弟橘媛 の話が記された 日本武尊東征は、次の代の景行天皇40年のことですから、「橘」は当時としては最先端を行く名前だったのかもしれません。

時代は下って奈良時代。[64923] Issie さんがちょっと触れているように「橘」という人物が活躍したことがありました。
宮廷女官の県犬養三千代(光明皇后の母)が賜った「橘」の姓。法隆寺に伝わる「橘夫人厨子」も彼女のものでした。
聖武天皇の天平9年(737)、当時の政府高官の大部分が疫病の流行で死んだ後、三千代の息子である橘諸兄が国政を牛耳ることになりました。
橘氏は「源平藤橘」の一つとして数えられていますが、その栄華は短期間で、橘奈良麻呂の失脚後に「橘」を名乗った有名人は楠木正成くらいのものでしょう。

「橘」そのものは「左近の桜・右近の橘」([64927] かすみ さん)と併称され、日本人にとって人気のある植物です。
向かって左側にあるので、左右を間違えた言い方をした例もみかけますが、もちろん紫宸殿から見て「右」なのです。
# 寄席文字 の家元・橘右近さんは 1995年死去。

近世以来、「橘」は 家紋 としても多用され、1937年制定の 文化勲章 のデザインにも採用されました。
原案は「桜」だったのが、昭和天皇の“文化は永遠”という意見により EVER GREEN の「橘」に変更されたとか。
[76727] 2010年 11月 10日(水)00:57:43【2】Issie さん
弟の橘姫
[76725] hmt さん
妹背

親族呼称というのは,どの言語でも体系立っているように見えて結構複雑ですね。日本語の場合もそうで,本来列島内でできあがった“ピュアなやまとことば”の体系らしきものの上に,全く違った体系を持った中国語由来の漢字語が入って来て,それらが混じりあった上で改めて親族呼称の体系が再構築(中には見当違いの思い込みによる類推も含む)されたもので,やっぱり複雑です。

男から見て女のきょうだいを意味する「妹」の訓は、「いも」が本来の形で

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

ここも年長/年少を区別する現代語の あに/おとうと,あね/いもうと とは違って,「せ」(男きょうだい)も「いも」(女きょうだい)も長幼の区別はなかったようです。必要に応じて elder/younger で区別しなくてはならない英語の brother, sisiter と似ているかもしれません。そして,これは hmt さんのご説明にある通り,異性のきょうだいに対する呼び方。「いも」は男から女のきょうだい(現代語の姉または妹),「せ」というのは,女から男のきょうだい(現代語の兄または弟)を呼ぶときの名前です。
同性のきょうだいの間では,年長者(elder)つまり 妹から見た姉,弟から見た兄 は「え」,年少者(younger)つまり 姉から見た妹,兄から見た弟 を「おと」と呼びます。
「え」という呼称は,たとえば 中大兄皇子 の「大兄:おほえ」という呼び名に見ることができます。あるいは干支(えと)の「え」(きのえ:甲,ひのえ:丙,つちのえ:戊,かのえ:庚,みづのえ:壬)。
「おと」には男女の区別なく「弟」という字が充てられました。だから,女性なのに「弟橘媛(おとたちばなひめ)」という名前が成立するのです。「おと」には「乙」という字も当てられました。「乙姫(おとひめ)」とは本来,年長の「大姫(おほひめ)」に対する“年少の娘”という意味です。そして,干支の「と」もこれに由来。
現代語の「いもうと」が「いもひと(妹人)」の転訛であるように,「おとうと」は「おとひと(弟人)」の転訛であると考えることができそうですが,この「いも」と「おと」は元は別の系列の呼称だったのですね。

さらに,「あに」「あね」は別の系列から,この体系に加わったようです。そしてこれらが混じりあい,再構築されて現代語の あに(兄)/おとうと(弟)・あね(姉)/いもうと(妹) という体系ができあがりました。その間に中国語由来の「きょうだい(兄弟)」という語が,“男用”の漢字しか使っていないのに,(日本語では)“男だけ”でなく,“女どうし”あるいは“男女混合”の場合にも使われるようになりました。その場合,「兄弟」という表記が何となくしっくりこないので,「きょうだい」と かな書き するしかない…。

そして古代に立ち戻って,お互いの間を“契(ちぎ)り合った”男女間で互いに「いも(妻)」,「せ(夫)」と呼ぶのは,このきょうだい間の呼称から派生したものなのでしょうね。で,現代の地名に現れる「妹背(いもせ)」というのは,語源である「きょうだい」ではなくて,もっぱら「夫婦」という派生的意味で使われているものだと思います。

「妹尾」の場合は「せのお」

ここで「妹」を「せ」と読ませるのも,このあたりの“複雑な事情”に由来するものなのかもしれませんね。


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