[64969] 伊豆之国 さん
寄居町HPには、「…日本のみかん産地の北限として有名…」と記されています。
茨城県筑波山でもみかんが獲れます。
♪みかんの花が埼玉県
[64968] の寄居町風布よりも北にある観光みかん農園は各地にあるようですが、戦国時代に由来する風布(ふっぷ)みかんは、群を抜いた歴史を持つ「北のみかん」なのでしょう。
過去記事 参照。
「みかん」と言えば果実ですが、最近話題になった「橘」は、(実も結びますが)香りの高い花や常緑の葉の方が注目されてきた存在です。
♪橘かをる朝風に高く泳ぐや鯉のぼり
[64950] まさにシーズンですね。
新宮生まれの詩人・佐藤春夫は、望郷五月歌で次のように歌っています。
あさもよし紀の国の 牟婁の海山
夏みかんたわわに実り 橘の花さくなべに とよもして啼くほととぎす
心してな散らしそ かのよき花を
熊野の山野には自生する橘でしょうが、関東となると
植物園 で見るくらいの存在になってしまいます。
それでも武蔵国に橘樹郡があったのは何故かと思ったら、弟橘媛陵とされる
富士見台古墳 があったからなのですね。
[64960] 淡水魚さん が紹介された田道間守(たぢまもり)の話。66年前に国民学校の国語で習いましたが、改めて
日本書紀巻6 を読んでみました。
(垂仁天皇)九十年の春二月。天皇(すめらみこと)は非時香菓(ときじくのかくのこのみ)の噂を聞き、田道間守を常世国に派遣した。今の橘のことである。
(九十九年天皇崩御の)翌年の春三月。田道間守が遠方から帰還した。橘の果実と樹木とを持参していた。
唐招提寺から近鉄の線路を隔てた北西にある
宝来山古墳 が垂仁天皇陵で、それを取り巻く濠の中の小島が田道間守の墓とされています。
[64964] 伊豆之国 さん
兵庫県豊岡市にある中嶋神社
の「中嶋」とは、大和国にある主君の周濠の中の小島のことでしょう。神社のある但馬国は田道間守の領地でした。
【追記】
田道間守関連資料 をまとめて示したページがあったので補足しました。
地理関係のこの場では、10年間の旅の行先「常世国」がどこなのか知りたいところですが、残念ながら不明。
弟橘媛 の話が記された 日本武尊東征は、次の代の景行天皇40年のことですから、「橘」は当時としては最先端を行く名前だったのかもしれません。
時代は下って奈良時代。
[64923] Issie さんがちょっと触れているように「橘」という人物が活躍したことがありました。
宮廷女官の県犬養三千代(光明皇后の母)が賜った「橘」の姓。法隆寺に伝わる「橘夫人厨子」も彼女のものでした。
聖武天皇の天平9年(737)、当時の政府高官の大部分が疫病の流行で死んだ後、三千代の息子である橘諸兄が国政を牛耳ることになりました。
橘氏は「源平藤橘」の一つとして数えられていますが、その栄華は短期間で、橘奈良麻呂の失脚後に「橘」を名乗った有名人は楠木正成くらいのものでしょう。
「橘」そのものは「左近の桜・右近の橘」(
[64927] かすみ さん)と併称され、日本人にとって人気のある植物です。
向かって左側にあるので、左右を間違えた言い方をした例もみかけますが、もちろん紫宸殿から見て「右」なのです。
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寄席文字 の家元・橘右近さんは 1995年死去。
近世以来、「橘」は
家紋 としても多用され、1937年制定の
文化勲章 のデザインにも採用されました。
原案は「桜」だったのが、昭和天皇の“文化は永遠”という意見により EVER GREEN の「橘」に変更されたとか。