[78139] k-ace さん
「吉田のうどんマップ」の地図を見てみると、富士吉田市の地図がありましたが、南が上。
“独特なんです。富士吉田の地図の見方、、「南」が上になっているわけですが、市民にとっては、「富士山」が上にあってその下に街が広がっているというイメージです。” という説明書き
[78140] Issie さん
昔の江戸の地図も西,つまり富士山が上になっているものが多かったので,本当は「独特」というわけでもないし
富士吉田の場合,富士山を正面に見てその手前に町が広がっている様子を考えれば,南が上である方が合理的
他人に地域情報を伝えるために 自然発生的に出現した地図。
地図の描き方は、自分と相手とが共に重要と認識している目標物との関係で決められたはずです。
現在、私たちが書く略地図も、出発点をや目立つランドマークなどを基準にしています。
このように、地域情報から出発したローカル地図は、作成目的に応じた向きを使うのが正攻法であり、汎用的な「地図の向き」で統一する必要は、全くなかったものと思われます。
江戸時代の絵図を見ると、大きな絵図を四方から見るように地名が入っていたり、江戸切絵図の大名屋敷の名が正門の向きになっていたりします。すなわち、絵図の表題や凡例などのための「全体としての向き」はあっても、注記された個々の文字情報は、必ずしも絵図全体の向きとは一致していません。これも画一的な「地図の向き」という考え方を否定する一材料です。
やがて世界地図のような広い範囲を示す地図が現れ、万人に共通する基準を用いた「地図の向き」という考え方も生まれてきたようです。
地図の歴史の部屋 を見ると、3500年前のローカル地図の次に、2700年前のバビロニアの世界図があります。上方に 空を支える山、中央には ユーフラテス川が 上から下に流れて 海に注ぐ。
山を背景に 都市があり、川は 手前の海に流れ下る。
富士山を背景に 富士吉田【南が上】や 江戸【西が上】の町が描かれている 日本の都市図の原型がここにあります。
北山を背にして鴨川が流れ下る平安京【北が上】も同じ構図です。
リンクページの3番目に プトレマイオスの世界図があります。北極星の方角を上にして、東西に長く広がる世界を描いたこの図は、万人が受け入れる「地図の向き」として「北が上」を定着させる大きな力になったものと思われます。
もっとも、西洋世界でも、そのまま「北が上」が定着したわけではないことは、4番目左に紹介されている中世の「TO図」を見れば明らかです。聖書が絶対とされた時代には、地図の中心はエルサレムで、エデンの園があるとされた「東が上」でした。
なお、4番目右に描かれたイスラム世界における「イドリーシの地図」は、バビロニアの世界図の逆で、「南海が上」になっています。
話が広がりましたが 富士吉田に戻ると、南方の富士山を基準として上方に描き、その手前に町が広がる構図は、極めて自然です。
江戸の場合、下町にできた市街から見ると、西には富士山の手前に御城があり、これも江戸絵図の向きを決定する要素になっていました。
江戸全図の場合、西が上になる場合が多いのですが、江戸城中心に描いた
東京都公文書館・江戸の範囲 末尾掲載の 文政元年江戸朱引図
[62550]は「東が上」になっています。大手門を上にしたためでしょう。
江戸切絵図は、御城の方角が上になっているものが多いものの、例外もあります。
東京地図の場合、明治4年の「東京大絵図」は、全体としては西が上で、個々の地名は周囲から取り囲んで見る江戸スタイル。
郡区町村編制法の明治11年 内務省地理局地誌課による「実測東亰全図」になると、現在と同じ「北が上」の地図になり、これ以後の官製地図に引き継がれました。地名「東亰」については、
[75459]参照。
しかし、民間の地図では、明治になっても西を上にして描く習慣が普通に行なわれていました。
例えば、明治28年改正東亰全図(嵯峨野彦太郎)。明治45年最新番地入り東京市全図(忠誠道)。
落書き帳の過去記事から拾い出した
地図の向き 。
2003年
地名における上と下 から派生し、
なぜ地図は「北が上」なのか? というアーカイブズも作られていました。
富士吉田でも使われていた「南が上」の地図については、
[3446] だいてんさん
オーストラリアでは南が上になった地図が主流ですね。
がありましたが、
[17578] U+3002 さん、
[75460] 伊豆之国 さん の発言にあるように、
オーストラリアの「南が上」地図は、観光客向けのみやげものらしいです。
富山県が作成した
「環日本海諸国図」 も、ほぼ「南が上」になっていますが、これは日本海を中心として日本列島の位置を把握するための配置で、南や東を基準方位として選んだ結果ではありません。
開拓使による
北海道・千島・樺太の地図 が「南を上」にしているのは、図外にある日本本土を意識し、これを上位に置いた結果なのでしょう。