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落書き帳

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[67150] 2008年 10月 28日(火)22:35:59【1】hmt さん
阿賀野川・阿賀川(大川)、そして只見川
5年も前になりますが、本流より長い(又は流域面積が大きい)支流、いわば 川の本流と支流との逆転 に関する一連の記事がありました。

要点を記すと、[18691]太白さんの問いかけに対して、[18697]千本桜さんが“20年来の気がかり”として、代表的な例である阿賀野川と只見川との関係を示されました。
更に、長さや流域面積以外の判定基準の存在について、流量([18701] 般若堂そんぴんさん)と川底の高低([18703] EMMさん)とが提示されました。
太白さんは、これら自然的要因のいずれにも当てはまらないケースの存在についても言及されました[18957]
いずれにせよ、確かに謎ですね。

古い話題を持ち出したのは、とある団体旅行で、先週この大河・阿賀野川の豊かな水量を実感したからです。
約50年前に訪れた只見川については、今回は片門発電所付近を車窓から一瞥しただけでした。

最初に数値などにより阿賀野川の広がりを確認しておきます。
210kmで日本国内 10位とされている長さは、「阿賀野川水系」 の本川延長、つまり「本川」として指定された一級河川阿賀野川 83km(新潟県)と、その上流福島県にある一級河川阿賀川 127kmとの合計です。

阿賀川(大川)の源流は、奥会津・栃木県境の荒海山を水源とする荒海川です。この部分も常識的には「阿賀野川の本流」なのでしょうが、本川指定がないので、河川管理上の「本川」の長さ 210kmには含まれていないはずです。

阿賀川の支流の只見川は、流路延長145.2kmとなっています。三津合の合流点から河口までは 110km以上あると思われるので、こちらの長さは 250~260kmあるでしょう。
只見川の源流部には群馬県境にもなっている尾瀬沼があり、ヨッピ川も群馬県側。県境といえば、奥只見湖も主として新潟県です。
つまり阿賀野川水系の上流部は、福島県だけでなく、一部は群馬県と新潟県の領域に及んでいます。

流域面積 7710km2は日本で8番目。そのうち 阿賀川の山科地点から上流の集水面積 は 2742 km2、只見川の片門地点から上流は 2765 km2でどちらの流れもあまり変りません。なお、基準点はいずれも合流点から数km上流です。
しかし年間の総流量は、阿賀川 37億m3に対して只見川 70億m3と2倍近く違います。豪雪地を流域とする只見川の雪解け水が阿賀野川の豊富な水量を支えていることを裏づけています。

これまでの比較では、流域面積で甲乙つけ難く、長さと水量で只見川の圧勝。
これを逆転して、阿賀川(大川)が本川と指定された理由は何か? そこで、河川勾配を検討してみます。
[18703] EMM さん
川の本流と支流を決定する要因は、長さでも太さでも水量でも流域面積でもなく、川底の高低だったような覚えがあるのですが。

阿賀野川水系の断面図 をざっと眺めると、150kmあたりで只見川に阿賀川が合流しているようにも見えます。

しかし、合流点はもっと先の110km付近でしょう。大川ダムから駆け下り会津盆地を通り過ぎた阿賀川は、狭窄部に入ってから、階段状のダム湖で高度を下げてきた只見川と合流します。断面図を詳細に眺めると、130km前後で会津盆地を通る阿賀川は、山間を通る只見川よりも低くなっているようです。

つまり、少し強引かもしれませんが、合流点の少し上手に着目すれば、盆地を流れてきた阿賀川(大川)に、山地を流れてきた只見川が合流するという構図です。
匙加減でどうにでもなるような基準ですが、これが地元の実感に合うようにも思われます。

また、流域面積でなく流域人口ならば、比較するまでもなく会津盆地を擁する阿賀川(大川)が、山地を流れる只見川に圧勝。

千本桜さん。20年来の気がかり、いや5年経ったから25年来となった気がかりに対する答になっているでしょうか?

上記の断面図を見ると、阿賀野川河口から尾瀬沼までは260km以上あります。
300km以上の信濃川と利根川とは別格として、石狩川に次ぐ日本第4位の長さ?

ついでに、阿賀野川水系が日本第1位のものとして、水力発電所数 122があります。
1914~1926年に建設された猪苗代第一~第四発電所は当時最大級の発電所で、東京への長距離送電の成功は、わが国の電力事業を一段と発展させました。
戦後は只見川の電源開発が行なわれ、巨大ダムの田子倉発電所と奥只見発電所(1959-60)が有名です。
参考までに、利根川水系の水力発電所は 98、木曽川水系 77、富士川水系 71。
[67161] 2008年 10月 29日(水)23:00:27hmt さん
甲子トンネルが開通した国道289号
[67150]で書いた団体旅行のルートは、東北道白河ICから先月9月21日に開通した「甲子道路」を経由して大川ラインに出るものでした。

地元 白河在住[22021]の Pachiさんによる約5年前の発言[23085]
現在工事中の国道289号線甲子トンネルが開通し、下郷町と直接繋がると、首都圏から尾瀬への短縮効果が高いので、白河が南会津への玄関口となります。
が、早速実現したわけですね。

新しいトンネルが開通する前の国道289号は、甲子峠越えの山道。
既に撤去されていると思いますが、登山道とその入口の階段付近に立てられた国道の標識が写されている画像を リンク しておきます。一番下の2枚です。

国道289号は、新潟市からいわき市まで本州を横断する国道です。

この国道の新潟県内 燕市内での迷走ぶり も落書き帳で紹介されています。
[16088] [56866] ペーロケさん
新潟県燕市の国道289号は芸術的ですね!
1本の国道が右左折する回数が多いのは、燕市がスゴイ。。。

今回の「甲子道路」開通後も、この国道の新潟・福島県境「八十里越」の区間が自動車通行可能になるのは、まだまだ先のことでしょう。

以下、国道289号とは只見でクロスする只見川へ
同じく新潟・福島県境ですが、「八十里越」の 10kmほど南、信濃川水系破間川(あぶるまがわ)の支谷(旧北魚沼郡入広瀬村)と只見川の谷との間の「六十里越」の方は、峠にトンネルができて1973年に国道252号が開通しています。
道路より一足早く、1971年には上越線小出からの国鉄にも長い六十里越トンネルができて只見線が全通。1963年に只見川沿いに只見まで到達していた会津線(の西側部分)と路線が統合されました。

私が只見川を訪れたのは、[67150]記載の約50年前ではなく、会津線が只見に到達した直後、45年前のことでした。
もちろん蒸気機関車牽引列車ですが、それだけではなく、貨車も併結している「混合列車」であったことが印象に残っています。
[67172] 2008年 11月 1日(土)14:32:23hmt さん
重要伝統的建造物群保存地区
[67163] 千本桜 さん
土産品を売る商店街と化した大内宿はいかがでしたか?。

大内宿が重要伝統的建造物群保存地区に選定された 1981年から27年。
紹介写真 とは異なり、観光客があふれている状態には驚きました。
大川沿いの断崖に浸食でできた柱状の奇岩が連なる「塔のへつり」(天然記念物)は紅葉の季節。ここも観光地化で様変わり。
鶴ヶ城、飯盛山観光はせずに、“朝湯が大好き”を楽しんだのは、中央分水嶺を東に越えた先の磐梯熱海温泉でした。

翌日再び阿賀野川流域に戻り、只見川を合わせた“豊かな水量を実感”[67150]した阿賀野川ラインの観光船に「阿賀の里」で乗船。全域が「阿賀町」になった[67155](futsunoおじさん)東蒲原郡は福島県だった時代もあり、阿賀川から阿賀野川に移行する「阿賀の川」地域のように思われました。

余談ですが、この阿賀町の北東端は「登山道の幅だけ福島県」[24072](みやこ♂さん)の 飯豊山 です。

燕では迷走国道[67161]の手前で昼食休憩。関越道で帰還というコースでした。

本題の重要伝統的建造物群保存地区は、1976年9月から2008年6月までに 83件が選定 されています。この中には、城下町・門前町・茶屋町・鉱山町などの産業関連・商家町・港町・宿場町・農山村集落などがありますが、宿場町を拾い上げると次の7宿です。
まず木曽の妻籠宿。これは1976年最初の指定地の一つ(角館、妻籠宿、白川郷、それに京都と萩が各2)。
1978年に中山道の奈良井。会津の大内宿は3番目でした。
その後、東海道の関宿、北国街道の海野宿。身延山参詣の講中宿として栄えた赤沢。若狭街道の熊川宿。

宿場町を離れて、近年選定された重要伝統的建造物群保存地区を見ます。
2007年12月pdf に但馬の城下町・出石が選定され、また1987年に選定されていた石見の大森銀山が町並みだけから周辺の山地に拡大されました。後者は、世界遺産登録とも関係あるのでしょう。
2008年6月pdf には、金沢の茶屋町である主計町、若狭の商家町茶屋町である小浜西組、平戸的山大島の港町の3ヶ所が選定。
落書き帳をにぎわせた 金沢市主計町の記事 は、[62442] 88さん のまとめがあり、その後にもちょっとだけ登場[65886]

以上の「伝統的建造物群」とは、文化財保護法第2条にいう文化財の6つのカテゴリーの一つです。
他の5つは、有形文化財・無形文化財・民俗文化財・記念物・文化的景観。

おまけ:文化的景観
上記の「文化的景観」は、2005年から新しく導入されたもので、重要文化的景観は「近江八幡の水郷」など 9件が選定 されています。
世界遺産の分野では、「文化的景観」は1992年から導入されました。50件のリスト は2004年のものなので、現在はもっと増えているでしょう。
[79718] 2011年 12月 9日(金)14:32:55【2】hmt さん
第8回落書き帳公式オフ会(会津オフ会2011)(3)野岩鉄道など
オフ会帰路の hmtは、かすみさん・MasAkaさんと共に JOUTOUさん & グリグリさんに「会津田島駅」に送っていただきました。
DCで到着した油天神山さんを加えた4人が 乗り込んだ 10:20発の電車は、浅草直通 [79711]ではなく、新藤原止りでした。
しばらくは阿賀川水系の最上流部、戦後間もなく国鉄会津線として開通した区間を走ります。1990年になってから、東武鉄道・野岩鉄道と直通運転するために、電化工事が行なわれました。開業後の第三セクター鉄道では唯一の事例でしょうか。

「会津高原尾瀬口駅」で赤い車体の AIZUマウントエクスプレスと行き違い。スナフキんさんのクイズに出た名鉄北アルプス号の後継車ですね。この駅は 1953年に国鉄会津線「会津滝ノ原駅」として開業。
2006年、駅名に「尾瀬口」という言葉が加えられましたが、尾瀬とは数十kmも離れています。

せっかく名が出たので、この記事を書きながら、地図上だけでも尾瀬への道をたどってみました。
会津高原の西も 南会津町 ですが、2006年合併前の舘岩村・伊南村等は阿賀川水系の田島町と違い 只見川水系になります。
地図 の「沼田街道」という字が目についたので、たどってみました。越後街道と分岐する会津坂下町から 只見町へと只見川を遡り、只見から伊南川沿いに檜枝岐村へと進みます。その先は、尾瀬沼を境に群馬県に入り、片品村を南下して 沼田に至る街道とわかりました。

檜枝岐へは、オフ会直前に かすみさんが訪問 されたとのこと。バス時刻を調べたら、会津高原尾瀬口駅からの所要時間 1時間半以上。それでも1日に4便あることがわかり、この秘境も、これまで思ったより近く感じました。
# 落書き帳記事数は「檜枝岐」が35件、「桧枝岐」が12件。意外な人気にびっくり。私の記事は[28571]

空想の脇道から戻って、電車は いよいよ野岩(やがん)鉄道の区間に乗り入れます。
すぐに県境のトンネルで、福島県側(岩代国)の登り勾配から 栃木県側(下野国)の降り勾配になります。
このあたり、車窓の景色を MasAkaさん持参の野岩鉄道資料【注】と見比べながら進行。
【注】二次会(トンネルの長さ)で使われたもの。オフ会記録ページに掲載していただければ有難い。

駅前に謎の緊急用ヘリポートがあるだけで人の気配が全くないという 「男鹿高原駅」 の次は「上三依塩原温泉口駅」。
塩原温泉は三依山の向うの那珂川水系ですが、1988年に尾頭トンネル開通で結ばれました。
「上三依塩原温泉口駅」「中三依温泉駅」「湯西川温泉駅」と3駅連続の温泉駅とトンネルとが続きますが、ちょっとだけ五十里(いかり)湖の湖面を渡ります。

五十里ダムのある男鹿(おじか)川と、川治ダムのある鬼怒川とは、「川治湯元駅」付近で合流します。「川治温泉駅」を経由して、「龍王峡駅」に到着。1両目はトンネル内、2両目は明かり区間に停車。ここで皆さんと別れて、途中下車しました。

龍王峡 は、年代の異なる火山岩を鬼怒川が侵食してできた景観です。繰り返された侵蝕の中でも、第一次五十里湖の決壊で生じ、川治温泉発見につながった享保8年(1723)の洪水[78104]は、今日でも語り伝えられています。

時間と体力があり、本格的に探勝すれば、いろいろと楽しむことができそうです。しかし、私の場合は 最も手近な 虹見の滝近くの虹見橋まで 降りる階段も 途中まで。滝や渓谷を見下ろせた地点で、最も安直に自己満足して、探勝を済ませてしまいました。

次の電車に乗り、新藤原で野岩鉄道の完乗を果しました。前方に増結された空車に席替え。


今回のオフ会旅行における鉄道路線のポイントになった野岩鉄道の沿革をまとめておきます。

『野岩鉄道の旅~おかげさまで開業25周年~』 によると、南会津と東京の間を結ぶ鉄道は「父祖三代の夢」でした。
明治24年7月福島県南会津郡長らによる会津~首都圏短絡路線の建設運動までさかのぼることができます。

構想としては、明治29年(1896)に仮免許を得た 「野岩羽」鉄道もあり、これは羽前国の米沢までを結ぶ路線でした(参考)。
しかし、これは現在の路線誕生と直接の関係はなさそうです。

その後 明治43年(1910)に 軽便鉄道法 が制定されました。本来この法律は 私鉄簡易路線用の制度なのですが、政府はこれを拡大解釈し、国が鉄道敷設法[61108]によらない小路線を作る根拠にしました。国有鉄道軽便線の数は、1918年に開業線・予定線合計 35線に達し、軽便鉄道法廃止後も実質的にこの制度を維持した結果、遂に 60線以上になったとのことです。

さすがに このやり方には 批判があったようで、大正11年(1922)になると鉄道敷設法が全部改正され、150もの路線が別表に記されました(更に追加あり)。
この別表中に、田島から野岩鉄道への区間【及び762mm軌間の軽便鉄道で開業済の鬼怒川線区間】が記されています。
33 栃木県今市より高徳を経て福島県田島に至る鉄道及高徳より分岐して矢板に至る鉄道

この別表には、会津若松-田島間が記されていません。
それは、既にこの区間が【拡大解釈した軽便鉄道法により】国鉄線として建設されるお墨付きを得ていたからです。会津若松-上三寄(現・芦ノ牧温泉)間は 1926~27年に、田島までは 1934年に開業しています。

現在の野岩鉄道は 1922年の改正鉄道敷設法に基く路線で、1966年に 日本鉄道建設公団が着工し、1969年に山王トンネルを開通させながらも、国鉄再建法により 1980年に工事凍結になってしまった「野岩線」が、第三セクター鉄道として復活し、1986年に電化線として開業したものでした。
明治24年から数えれば、まさに 95年後に現実になった「父祖三代の夢」でした。


新藤原から東武鉄道区間になります。鬼怒川線の「鬼怒川温泉駅」は「芦ノ牧温泉駅」から数えて8つ目の温泉駅[73239]
新高徳で鬼怒川と別れ、下今市の手前にあるのが「大谷向駅」。
今市宿の本体から見て大谷川の向う側にある地名だから「大谷向(だいやむこう)」です。そう言えば、昨年探訪した三県境の下流にも「向古河」という地名がありました[76929]。「向島」の読みのいろいろ[29974]もあるし、地名コレクションのタネになるか?

長い栃木県区間を走り抜け、「鶴舞う形の群馬県」 の頭の先をかすめれば埼玉県。柳生駅付近では、昨年の三県境探訪で見た風景を少し離れて再見。“車窓必見スポット?”[79541]と自分で書いておきながら 見落したのが、かつては茨城県だった伊賀袋。

本来は栗橋乗換でよかったのですが、切符を買ってしまったので引き続き春日部まで区間快速に乗車していたら、南栗橋駅で大勢乗車してきたのでビックリしました。
10両編成半蔵門線直通列車の始発駅ということで、利用客の多い駅になりつつあるのでしょう。
【追記】[79720]によると、イベント帰りの臨時客とのことでした。

こんな具合に観察したり想像を巡らせたりしながら、ボックス席の帰路も、退屈せずに過ごせました。
[84025] 2013年 8月 29日(木)18:05:32【1】hmt さん
御母衣 (3)高碕達之助
前置きが長くなり、[84006][84010]の2回を費やしましたが、ようやく御母衣ダム建設の時代に移ります。
J-POWERが詳しい資料をWEBに掲載してくれているので、適宜引用しながら、ポイントを説明してゆきます。

荘川桜コラム は、1952年にダム建設が公表され、反対運動が始まったことを伝えています。
「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」という名からも、強い反対意思を読み取ることができます。
この地は 寒冷な高地にありながら、平野部にも劣らぬ米の収穫率を誇っていた豊かな山村だったのでした。

コラムは、当時の“空前の電力危機”に対処する 大規模な電力資源開発政策に基く 電源開発促進法制定 に続きます。
この政策を実現させることになったのが、電源開発株式会社の初代総裁・高碕達之助【追記1】で、最初の大仕事は佐久間ダムでした。

高碕が引き続き関係したのが、只見川の田子倉ダムと庄川の御母衣ダムの事業計画です。
高碕は 1954年電源開発総裁辞任後、鳩山一郎に請われて閣僚になりましたが、水没反対住民との対話は続けていました。

苦渋の選択ながら、国を支える電力のために 村人の ふるさと を水没させることを求めた電源開発 vs 「死守会」の住民。
7年にも及ぶ対話が行われ、電源開発側の真摯な対応による水没補償に 住民が合意したのは、1959年11月でした。
「死守会」解散式に招かれた高碕は、水没予定集落を見廻った際に荘川村『中野』[84010] の光輪寺境内で 1本の桜の巨樹と出会ったのです。荘川桜物語4

高碕は、木の幹に手を遣りながら、「助けたい」といった。
それを聞いた(死守会書記長の)若山は、不思議に思ったという。なんでこんな古木を?
田口トモロヲの語りを伴ったドキュメンタリー番組を連想させるシーンですが、これが「荘川桜救出劇」の発端でした。→【追記2】参照

高碕の意を受けた御母衣建設事務所の檜垣は、「桜博士」と呼ばれた 笹部新太郎 という人物の存在を教えられます。
大阪の大地主の家に生まれ、就職せずに一生を在野のまま桜と付き合った人物です。武田尾の「亦楽山荘」、大阪造幣局「通り抜け桜」・西宮の夙川公園など各地の桜の管理指導をしています。

笹部の指導の下で行なわれた荘川桜移植の物語は、「白鹿」の柴崎が語る 願いを託された「桜博士」の功績 というシリーズに詳しいので、ご覧ください。

# 飛騨とも電力とも無関係と思われる お酒の「白鹿」が突然登場した理由。
それは西宮に住んだ笹部が、桜研究をしながら集めた資料を西宮市に遺贈し、これが白鹿記念酒造博物館付設笹部さくら資料室に寄託保管されているからです。

【追記1】
高碕達之助が最初に目指したのは、水産業への道でした。水産への思いは、缶詰製造会社・メキシコ・東洋製罐・満州重工業開発・電源開発・経済閣僚・日ソ漁業交渉の政府代表・国交正常化前の中国とのLT貿易(彼の頭文字が入っている)など 幅広い活躍の中でも 芯になっているように思われます。
水産講習所(後の東京水産大学→東京海洋大学)の1年後輩が 日本で初めてマヨネーズ会社を作った時に 「キユーピー」 ブランドを考えたのが高碕でした。

【追記2】
調べてみたら、NHKが2002/6/11放送した『プロジェクトX』は、次のような場面を描いていました。
桜に触れた高碕は、込み上げる想いを記した。
私には、この大木が水を湛えた青い湖の底で寂しく揺らいでいる姿がはっきりと見えた。
桜を救いたいという気持ちが、胸の奥から湧き起こるのを抑えられなかった。


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