タイトルは、NHKが 2002/6/11放送した『プロジェクトX 挑戦者たち』第89回のものを使用。
後に出版された本の
冒頭部 をリンクしておきます。
基本的な事実は
[84025][84032]で J-POWERのWEBページに基づいて紹介した内容と共通している筈ですが、ノンフィクション・ドキュメンタリーと言っても作者が違えば違う切り口が見えます。
折角の機会なので、こちらも紹介しておきましょう。
巨木輸送作戦の発端となる部分は、
[84025]の【追記2】に記したので、今回は
[84032]に対応する部分です。
高碕達之助が水没予定地の桜の巨木に出会った 荘川村【御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会】解散式(1959/11/29)。
年が明けた昭和35年(1960)早春、大阪を訪れた高碕(74)は 自らを「桜男」と名乗る笹部新太郎(73)と会って 荘川村の巨樹救出を持ちかけました。
桜は難しい木だ。老いた木を移植できる人は、この世にいない。
笹部の答えで、高碕も一度は移植プランを断念。【
[84032]では 高碕の粘りにより 笹部が引き受ける。】
その頃、豊橋の植木職・丹羽政光(52)が 工事現場に登場します。堤防に芝を植える仕事をしていました。
東京【大阪の間違い】 の偉い先生が無理だと諦めた 桜の移植のことを耳にし、7人の弟子と共に立ち上がる丹羽。
松の老木を移植して東海一の腕前を示した丹羽に対して、同業者は「あんたでも桜は無理」と忠告しましたが、丹羽は電源開発に乗り込んで、移植の許可を取り付けてきました。
ところが、移植先を探して2週間山を歩いたが、付近に適地がみつかりません。
その噂を聞いたのが笹部でした。大阪で丹羽に会った笹部は、所持する膨大な資料の中から 貝原益軒の『花譜』を選び、これを丹羽に渡して 参考にするようにと告げ、移植の成功を祈りました。
丹羽はこの本に導かれて移植の適地を発見しましたが、そこは直線距離で600m、高低差50mも離れており、巨木の輸送には大きな困難が予想されました。
1960/11/15 巨木輸送作戦が開始されました。
桜を傷つけずに運ぶため、大きく直径3mの土を根周りに残した巨木の重量は推定40tもありました。
クレーンが持ち上げようとしたが、バランスを崩して転倒。大きな枝が無残に折れてしまいました。
その頃堤防は完成し、貯水が始まりました。時間の余裕はありませんが、倒れた桜の木の根元を掘ってみて、新しい根が延びているのを発見した丹羽は、この木は必ず甦ると確信しました。
「すまん」と言いながら 鋸を振るい、枝を全部切り落とした丹羽。切り口には コールタールを塗布。
テレビでは コールタールによる防腐は前代未聞のことのように伝えていました。
しかし、石炭タール由来のクレオソート油は、木材の防腐用に広く使われています。タールの状態で 生きている植物に直接塗布する 前例もあったのではないか と私は推測します。
参考までに、木タールから得られる局方クレオソートは、人体の消毒に使われます。
そこに笹部もやってきて、小枝を1本残すように指示。春になってここに芽がふけば、生きている証しになります。
枝を伐って5t軽くなった巨木ですが、ぬかるみでクレーンが動けません。
そこに間組の永谷が登場。鉄骨で巨大な橇を作り、これに桜を載せて、ブルドーザで牽引しました。
600mの 急造「桜ロード」を 4日がかりで登り、移植先に到着。
大移植作業は、年の瀬近い 1960/12/24に完了。その2ヶ月後には、元の村は完全に水没しました。
そして、翌年春には残した小枝に咲いた僅かな花が、移植の成功を告げました。
満開の桜が、水没地住民の「ふるさと」のシンボルとして復活したのは、7年後のことでした。
テレビ番組の紹介はここまで。そう言えば、移植した荘川桜が2本あることに、全く触れていませんでした。
「桜ロード」と言えば、この荘川桜救出物語に感動した 国鉄バス名金急行線(名古屋-金沢)の車掌・佐藤良二が、バスルートに桜を植え続けた話があります。
読売テレビのドラマ「さくら道」が放送された 2009/3/17に、
[68857] 伊豆之国 さん の記事があります。
原作は
中村儀朋の著書 で、1987年には、中学校1年国語教科書(光村図書)に「太平洋と日本海を桜で結ぼう」のタイトルで採用され、1994年には映画化もされたそうです。