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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[84025]2013年8月29日
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[84032]2013年8月30日
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[84044]2013年8月31日
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[84025] 2013年 8月 29日(木)18:05:32【1】hmt さん
御母衣 (3)高碕達之助
前置きが長くなり、[84006][84010]の2回を費やしましたが、ようやく御母衣ダム建設の時代に移ります。
J-POWERが詳しい資料をWEBに掲載してくれているので、適宜引用しながら、ポイントを説明してゆきます。

荘川桜コラム は、1952年にダム建設が公表され、反対運動が始まったことを伝えています。
「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」という名からも、強い反対意思を読み取ることができます。
この地は 寒冷な高地にありながら、平野部にも劣らぬ米の収穫率を誇っていた豊かな山村だったのでした。

コラムは、当時の“空前の電力危機”に対処する 大規模な電力資源開発政策に基く 電源開発促進法制定 に続きます。
この政策を実現させることになったのが、電源開発株式会社の初代総裁・高碕達之助【追記1】で、最初の大仕事は佐久間ダムでした。

高碕が引き続き関係したのが、只見川の田子倉ダムと庄川の御母衣ダムの事業計画です。
高碕は 1954年電源開発総裁辞任後、鳩山一郎に請われて閣僚になりましたが、水没反対住民との対話は続けていました。

苦渋の選択ながら、国を支える電力のために 村人の ふるさと を水没させることを求めた電源開発 vs 「死守会」の住民。
7年にも及ぶ対話が行われ、電源開発側の真摯な対応による水没補償に 住民が合意したのは、1959年11月でした。
「死守会」解散式に招かれた高碕は、水没予定集落を見廻った際に荘川村『中野』[84010] の光輪寺境内で 1本の桜の巨樹と出会ったのです。荘川桜物語4

高碕は、木の幹に手を遣りながら、「助けたい」といった。
それを聞いた(死守会書記長の)若山は、不思議に思ったという。なんでこんな古木を?
田口トモロヲの語りを伴ったドキュメンタリー番組を連想させるシーンですが、これが「荘川桜救出劇」の発端でした。→【追記2】参照

高碕の意を受けた御母衣建設事務所の檜垣は、「桜博士」と呼ばれた 笹部新太郎 という人物の存在を教えられます。
大阪の大地主の家に生まれ、就職せずに一生を在野のまま桜と付き合った人物です。武田尾の「亦楽山荘」、大阪造幣局「通り抜け桜」・西宮の夙川公園など各地の桜の管理指導をしています。

笹部の指導の下で行なわれた荘川桜移植の物語は、「白鹿」の柴崎が語る 願いを託された「桜博士」の功績 というシリーズに詳しいので、ご覧ください。

# 飛騨とも電力とも無関係と思われる お酒の「白鹿」が突然登場した理由。
それは西宮に住んだ笹部が、桜研究をしながら集めた資料を西宮市に遺贈し、これが白鹿記念酒造博物館付設笹部さくら資料室に寄託保管されているからです。

【追記1】
高碕達之助が最初に目指したのは、水産業への道でした。水産への思いは、缶詰製造会社・メキシコ・東洋製罐・満州重工業開発・電源開発・経済閣僚・日ソ漁業交渉の政府代表・国交正常化前の中国とのLT貿易(彼の頭文字が入っている)など 幅広い活躍の中でも 芯になっているように思われます。
水産講習所(後の東京水産大学→東京海洋大学)の1年後輩が 日本で初めてマヨネーズ会社を作った時に 「キユーピー」 ブランドを考えたのが高碕でした。

【追記2】
調べてみたら、NHKが2002/6/11放送した『プロジェクトX』は、次のような場面を描いていました。
桜に触れた高碕は、込み上げる想いを記した。
私には、この大木が水を湛えた青い湖の底で寂しく揺らいでいる姿がはっきりと見えた。
桜を救いたいという気持ちが、胸の奥から湧き起こるのを抑えられなかった。
[84032] 2013年 8月 30日(金)15:24:35hmt さん
御母衣 (4)笹部新太郎 と 丹羽政光
[84006][84010][84025]の続きです。[84025]の冒頭に記したように、電源開発(J-POWER)のWEBページを資料としており、関西の「桜博士」笹部新太郎を主役として 移植が実行されたという筋立てです。
NHKテレビ番組では、豊橋の植木職人 丹羽政光が主役になっており、少し筋立てが違います。

ダム湖の底に沈む桜を救いたい。その意を受けた電源開発御母衣建設事務所の檜垣が 「桜博士」の笹部新太郎に実務の相談に行くより前、高碕達之助は 突然大阪を訪れて、笹部に面会しました。意気込みが感じられます。

「活着の見込みはありますか」
「自信をもって活着可能といい切れる人はまず無いでしょう」
「絶対に駄目ですか」
「絶対などという言葉は、こと活き物に関する限り いやしくも 私は使いたくありません」

こんなやりとりの挙句、樹齢 400年以上と推定される桜の巨木の移植を 引き受けてしまった笹部。荘川桜物語6

これだけの老樹を動かすことは、丁度病気の老人に大手術をするようなもの、手術しなければ死ぬし、手術しても助かる保証はない。失敗すれば、自分の長年の桜研究に不名誉な傷を残すことにもなるが、可能性がゼロでない限り救いたい。

現地視察の結果、笹部は依頼された 光輪寺の桜 に匹敵する桜を 照蓮寺[84010] でも発見しました。
こうして、都合2本の桜が移植されることになりました。「桜博士」の功績2

ところで、笹部は「桜博士」ではありますが、現場作業の専門家ではありません。
笹部が最も頼りにしていた園丁は既に亡くなっており、電源開発の紹介した豊橋の植木職人・丹羽政光と会うことになりました。
この二人の出会いから生じた関係は、桜博士3 に記されていますが、なかなかドラマチックです。

荘川桜物語7 の移植シーンには丹羽が登場しないのですが、「多少の手荒い作業になっても御諒承願い度い」とする丹羽は、笹部が来る前に桜の枝と根とを伐ってしまったのです。

丹羽にしてみれば、現実問題として機材の限界があり、笹部の指示どおりの作業をすぐに進めることはできない。
雪の降る前に手術しなければ病人は冬を越せないだろう。
現場の臨床医として、ここは病人の生命力を信じて 大手術を敢行する他はない。
笹部が来る前に、自分の責任でやってしまおう。
荘川桜の移植作業の様子について

笹部としても驚愕したでしょうが、もう伐ってしまったものは仕方ない。
せめて急所の切り口だけは綺麗な傷口にして回復を待とうということで、移送作業を進めました。

なお、電源開発が当初に予定した移植地は、『中野』の墓地だったそうです。
しかし笹部の意見により、将来の観光資源になることを考慮し、少し北の『海上』の湖畔 [84010](現在地)に改められました。

大移植作業が完了したのは 1960年12月24日でした。
「桜伐る馬鹿」の批判を甘んじて受けながらも、笹部はじっと待ち、翌年春に2本の桜が嫩芽をふいた報せに安堵しました。桜博士4

移植から1年半後(1962/6/12)、活着した桜のすぐ近くの水没記念碑除幕式で、荘川桜救出を指示した高碕達之助、この大作戦を指導した笹部新太郎、そして移植作業の現場を担当した丹羽政光の3人は再会しました
高碕達之助は、日ソ漁業交渉で訪れていたソ連から帰国したばかりでした。
集まった約500人の村人たちも、桜の幹を手で撫でながら涙し、声を上げて泣いたということです。

3人の中で最も長寿を全うした笹部も、1978年末(92歳になる少し前)に亡くなりました。彼は自分の死後も生き続ける桜の管理が気がかりであったと思います。管理が悪くて、せっかく移植した桜が生命を保つことができない事例を数多く見ていたからです。

幸い関係者の死後も J-POWERという組織により、荘川桜の管理は適切に行なわれているようです。
庭正造園(豊橋)の 丹羽英之は 丹羽政光の孫で、現在でも J-POWERの委託により荘川桜の手入れを実施しているそうです。
この 3代目「桜守」を紹介したページに、1962年の記念碑除幕式で再会した3人(高碕・笹部・丹羽)の写真が掲載されています。
[84044] 2013年 8月 31日(土)18:05:18hmt さん
御母衣 (5)桜ロード 巨木輸送作戦
タイトルは、NHKが 2002/6/11放送した『プロジェクトX 挑戦者たち』第89回のものを使用。
後に出版された本の 冒頭部 をリンクしておきます。

基本的な事実は[84025][84032]で J-POWERのWEBページに基づいて紹介した内容と共通している筈ですが、ノンフィクション・ドキュメンタリーと言っても作者が違えば違う切り口が見えます。
折角の機会なので、こちらも紹介しておきましょう。
巨木輸送作戦の発端となる部分は、[84025]の【追記2】に記したので、今回は[84032]に対応する部分です。

高碕達之助が水没予定地の桜の巨木に出会った 荘川村【御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会】解散式(1959/11/29)。
年が明けた昭和35年(1960)早春、大阪を訪れた高碕(74)は 自らを「桜男」と名乗る笹部新太郎(73)と会って 荘川村の巨樹救出を持ちかけました。

桜は難しい木だ。老いた木を移植できる人は、この世にいない。
笹部の答えで、高碕も一度は移植プランを断念。【[84032]では 高碕の粘りにより 笹部が引き受ける。】

その頃、豊橋の植木職・丹羽政光(52)が 工事現場に登場します。堤防に芝を植える仕事をしていました。
東京【大阪の間違い】 の偉い先生が無理だと諦めた 桜の移植のことを耳にし、7人の弟子と共に立ち上がる丹羽。
松の老木を移植して東海一の腕前を示した丹羽に対して、同業者は「あんたでも桜は無理」と忠告しましたが、丹羽は電源開発に乗り込んで、移植の許可を取り付けてきました。

ところが、移植先を探して2週間山を歩いたが、付近に適地がみつかりません。
その噂を聞いたのが笹部でした。大阪で丹羽に会った笹部は、所持する膨大な資料の中から 貝原益軒の『花譜』を選び、これを丹羽に渡して 参考にするようにと告げ、移植の成功を祈りました。
丹羽はこの本に導かれて移植の適地を発見しましたが、そこは直線距離で600m、高低差50mも離れており、巨木の輸送には大きな困難が予想されました。

1960/11/15 巨木輸送作戦が開始されました。
桜を傷つけずに運ぶため、大きく直径3mの土を根周りに残した巨木の重量は推定40tもありました。
クレーンが持ち上げようとしたが、バランスを崩して転倒。大きな枝が無残に折れてしまいました。

その頃堤防は完成し、貯水が始まりました。時間の余裕はありませんが、倒れた桜の木の根元を掘ってみて、新しい根が延びているのを発見した丹羽は、この木は必ず甦ると確信しました。
「すまん」と言いながら 鋸を振るい、枝を全部切り落とした丹羽。切り口には コールタールを塗布。

テレビでは コールタールによる防腐は前代未聞のことのように伝えていました。
しかし、石炭タール由来のクレオソート油は、木材の防腐用に広く使われています。タールの状態で 生きている植物に直接塗布する 前例もあったのではないか と私は推測します。
参考までに、木タールから得られる局方クレオソートは、人体の消毒に使われます。

そこに笹部もやってきて、小枝を1本残すように指示。春になってここに芽がふけば、生きている証しになります。

枝を伐って5t軽くなった巨木ですが、ぬかるみでクレーンが動けません。
そこに間組の永谷が登場。鉄骨で巨大な橇を作り、これに桜を載せて、ブルドーザで牽引しました。
600mの 急造「桜ロード」を 4日がかりで登り、移植先に到着。

大移植作業は、年の瀬近い 1960/12/24に完了。その2ヶ月後には、元の村は完全に水没しました。
そして、翌年春には残した小枝に咲いた僅かな花が、移植の成功を告げました。

満開の桜が、水没地住民の「ふるさと」のシンボルとして復活したのは、7年後のことでした。

テレビ番組の紹介はここまで。そう言えば、移植した荘川桜が2本あることに、全く触れていませんでした。

「桜ロード」と言えば、この荘川桜救出物語に感動した 国鉄バス名金急行線(名古屋-金沢)の車掌・佐藤良二が、バスルートに桜を植え続けた話があります。
読売テレビのドラマ「さくら道」が放送された 2009/3/17に、[68857] 伊豆之国 さん の記事があります。

原作は 中村儀朋の著書 で、1987年には、中学校1年国語教科書(光村図書)に「太平洋と日本海を桜で結ぼう」のタイトルで採用され、1994年には映画化もされたそうです。


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