都道府県市区町村
落書き帳

�l���̓S��

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[85193]2014年3月17日
hmt
[85194]2014年3月18日
ペーロケ
[85199]2014年3月20日
hmt
[85201]2014年3月20日
hmt
[85203]2014年3月22日
デスクトップ鉄
[85204]2014年3月22日
MI
[85205]2014年3月22日
デスクトップ鉄
[85206]2014年3月22日
hmt
[85207]2014年3月22日
MI
[85208]2014年3月22日
hmt
[85213]2014年3月25日
デスクトップ鉄

[85193] 2014年 3月 17日(月)19:34:49【1】hmt さん
「予土」の3ルート
予土線に登場した「鉄道ホビートレイン」[85143]に便乗して、「予土」について。

言うまでもなく「予土」とは「伊予と土佐」、つまり「愛媛県と高知県」です。
地図を眺めると、東から西へと走る四国山地が 石鎚山から四国カルストへと続き、南の宿毛湾に至るまで長々とした県境が目につきます。

県境の交通路コレクション で調べると、この県境の長さは 249kmもあり、日本一の長さであることを知りました。
参考までに、次点は岩手・秋田県境、3位は島根・広島県境でした。
一方、陸上隣接の最短は 石島の 岡山・香川県境(約2km)と思われますが、距離が示されていません。
これに次ぐ短い県境は、これも落書き帳の話題になった渡良瀬遊水地の 栃木・埼玉県境 3.5kmでした。

この長い予土国境の中で、鉄道線路は 1974年全通の予土線1本だけ。しかも南西部に大きく偏った位置です。
このような状況下で、松山と高知を結ぶ公共交通機関は、国道33号を通る松山高知急行線バスの役目になりました。
この路線は、省営自動車予土線として、1935年に松山市と高知県佐川町を結び、1951年に高知乗り入れを実現。

長い境界線で接していながら、鉄道で結ばれていなかった「予土」2国。
国鉄時代の一時期、この松山-高知間に、多度津経由の大迂回で、無理やり直通のディーゼル列車 「予土号」 を走らせたことがありました。
片運転台のキハ58ですから、もちろん1両だけの「予土号」は単独で走れず、予讃線内、土讃線内それぞれ別の列車に併結してもらうダイヤです。

創刊500号で現在のB5サイズになった「時刻表1967年10月号」を所持していたので、開いてみました。
大迂回の「予土号」は、松山発0620→高知着1144で 所要5h24m。帰路は 6h01m。
国鉄バスの松山高知急行線は 12往復もあり 所要時間 3h35m~3h47m。勝負にならぬこと、歴然としていました。

1930年代からの歴史がある 省営自動車→国鉄バスの 予土(南北)線、1960年代の DC急行予土号、1974年全線開通時に宇和島線から改称された 予土線。
過去には、「予土」という名前を使いながら、3つの異なるルートで伊予と土佐とを結んだ歴史がありました。

伊予と土佐の2県都を結ぶ直行バス便は、1960年代から「松山高知急行線」を名乗っていました。
つまり、バスの路線名としての 予土北線・予土南線 は、予土線開通より前から使われなくなっていたようです。
そして 21世紀になってからは、4番目のルートである 高知自動車道経由の「なんごくエクスプレス」・「ホエールエクスプレス」になっています。もちろん、ここでも「予土」という言葉は全く使われていないようです。

「予土」という名は、四国西端のローカル線の名として定着してしまったように理解されます。
[85194] 2014年 3月 18日(火)02:40:37ペーロケ さん
予土線
[85193]hmtさん
予土の3ルート、興味深く読ませていただきました。予土線は四国の最低分水嶺にあるんですよね。最低分水嶺といえば兵庫県丹波町石生が有名ですが、以前、福岡オフの際、かぱぷうさんが九州の最低分水嶺が大宰府市にあると紹介され、北海道では千歳市付近が最低分水嶺になると話題になりましたが、四国はどこだろうと考えてみました。ま、あまり端ならばいくらでも低いのは見つけられますので、一つの縛りとして、「分水嶺で区切られた2つの領域に両方とも標高1000m以上の山がある」とすると、四国の場合、宇和島市三間町務田付近になるんですよね。これは、予土線と見事に重なります。鬼北地区は四万十川流域ではありますが、宇和島市と非常に繋がりが深い地域です。分水嶺の窓峠は標高160mくらいでしょうか、それでも予讃線の伊予石城~双岩間あるいは土讃線影野~土佐久礼間、繁藤~新改間より低いです。ちなみに、松山~高知間には標高720mの三坂峠があるため、鉄道を敷設しようものならものすごい難工事が予想されます。その割には大きな町があるわけでもなく、松山~高知間鉄道の構想はあったかもしれませんが鉄道敷設の具体的な動きは鈍かったですね。かといって、多度津経由は大回りすぎ。松山~高知間は、現実的にはバスで移動が一般的です。

 私自身、松山から18切符で多度津経由で高知へ行こうとしたことがありました。時刻表も確認せずに、朝9時ごろだったか松山を出発し、まあそのうち着くだろうと思ってたら、昼過ぎにようやく愛媛脱出、阿波池田に着く頃は既に日がだいぶ傾いており、やばい、下手すれば高知に辿り着けないと危機感を感じ、慌てて「くろしお」に乗り換えたこともありました。帰りはそのまま土讃線を南下、予土線へ乗ろうとしたら、窪川で3時間待ちをし、宇和島に着く頃は真っ暗。やむを得ず予讃線は宇和海で松山へ帰宅しました。鉄道が本当に不便なこと。このルートでは、1泊足りなかったかな?

 その三坂峠を越え、国道33号を通っていた松山高知急行線、高速バスと競合していた2001年くらいに、Old Map Roomにて近道じゃなくなった道として紹介されていたこともあります。道のりは国道33号の方が短いものの所要時間は高速バスの方が短い、カーブも少なく乗り心地もいい、となると高速バスに客が流れるのは必然でしょうか。現在はMAKIKYUのページによると愛媛県内完結路線になっている模様です。高知に行かないのに、路線名がそのままというのも凄いですがw。
[85199] 2014年 3月 20日(木)12:41:30【1】hmt さん
伊予・土佐間の鉄道計画(1)前史
[85195] ペーロケ さん
[85196] futsunoおじ さん
四国と縁がない hmtが書いた[85193]ですが、レスをいただき、ありがとうございます。
瓢箪島だけでなく、大槌島[72964]の県境も忘れていました。

[85194] ペーロケ さん
予土線は四国の最低分水嶺にあるんですよね。(中略)分水嶺の窓峠は標高160mくらいでしょうか
松山~高知間には標高720mの三坂峠があるため、鉄道を敷設しようものならものすごい難工事が予想されます。

なるほど、予土線ルートと国道33号ルートとでは、越さねばならぬ峠の高さが、ずいぶん違いますね。
軽便鉄道トンネル廃線跡 や、「窓峠」を「まどのとう」と読むことなど初めて知りました。
長い予土国境の中で 1本だけ開通した鉄道の予土線。
その立地は、両県の中心部から大きく離れるという弱点を抱えながらも、自然の障壁を避けたものであることを理解しました。

この機会に、伊予・土佐間の鉄道計画について記してみます。
四国における最初の鉄道は 明治21年(1888)に 762mm軌間で開業した伊予鉄道[61378][67080]です。
その翌年には 丸亀-琴平間に讃岐鉄道が開業。
この頃、全国的な鉄道敷設計画が 帝国議会で成立しました[61108]。明治25年法律第4号「鉄道敷設法」です。

鉄道敷設法は、四国線 として、後の土讃線・徳島線・予讃線に相当する3線を記しています。丸亀から琴平までの既設線と、高松までの未成線【明治30年(1897)開業】の存在とを前提として、4県の県庁所在地を結ぶ路線である と理解することができます。
一 香川県下 琴平より 高知県下 高知を経て 須崎に至る鉄道
一 徳島県下 徳島より 前項の線路に接続する鉄道
一 香川県下 多度津より 愛媛県下 今治を経て 松山に至る鉄道

高松-琴平間の讃岐鉄道は、日露戦争中に山陽鉄道に買収され、戦後の明治39年に国有化されました。
鉄道院の「讃岐線」は、鉄道省になった大正9年(1920)には 伊予土居駅(四国中央市)まで開通していますが、延伸はチビチビです。松山に達したのは「讃予線」時代の昭和2年(1927)。その3年後に「予讃線」になります。
予讃線が 終着駅である宇和島まで全通したのは、敗戦僅か2ヶ月前の昭和20年6月でした。

実は、旧鉄道敷設法の改正経過をざっと調べて見たのですが、松山から先の敷設に関する根拠法を発見できていません。
大正11年に全部改正された 鉄道敷設法 の別表にも、松山-八幡浜間の鉄道については、記載がありません。
私鉄簡易路線用の制度である軽便鉄道法を拡大解釈してローカル路線作りの根拠にした「国有鉄道軽便線」。
松山から先の鉄道敷設も、この方法により予算を確保したのかもしれませんが、詳細は不詳です。

国有鉄道軽便線については、会津鉄道・野岩鉄道に関連して[79718]を書き、大正11年の鉄道敷設法改正にも言及しています。
さすがに このやり方には 批判があったようで、大正11年(1922)になると鉄道敷設法が全部改正され、150もの路線が別表に記されました(更に追加あり)。

長くなりそうなので、本題の大正11年改正「鉄道敷設法」別表に入る前の前史段階で(1)を終ります。
[85201] 2014年 3月 20日(木)13:20:14【1】hmt さん
伊予・土佐間の鉄道計画(2)大正11年に計画された予土連絡線
大正11年(1922)改正 鉄道敷設法 別表を見ると、四国の部には百番から始まる9線が記載されています。
後に4線追加あり。伊予・土佐間の鉄道計画に関係する部分を抜き書きします。
102 愛媛県松山付近より高知県越知を経て佐川に至る鉄道
103 愛媛県八幡浜より卯之町、宮野下、宇和島を経て高知県中村に至る鉄道及び…
105 高知県江川崎付近より窪川を経て崎山付近に至る鉄道
105-2 高知県須崎より窪川に至る鉄道
105-3 高知県窪川付近より中村に至る鉄道

102番が、国鉄バスの松山高知急行線が通っていた国道33号ルートです。計画線には挙げたものの、峠道を克服する技術が不十分であった時代、鉄道建設の見通しは すぐには立たなかったのでしょう。
その代わりに 1935年という早い時期から省営自動車路線が開業しました。

Old Map Roomで紹介[85194]されたように、高速バス出現に伴い、従来の国道経由「なんごく号」は減便。
その後、運行区間は愛媛県内だけに縮小。高知に行かない現在の路線名は、「久万高原線」 に変更されているようです。

もっとも、国道33号の難所であった三坂峠を含む区間には、2012年3月に 三坂道路 が開通しました。
せっかく道路が改良されたのに、JRバス路線は、久万高原町役場柳谷支所のある落出まで。高知には行きません。

105番の江川崎-窪川間が、後に予土線になる区間です。近永-江川崎間は、既に国有鉄道未成線となっていました。[79718]の会津若松-田島間の同類・国有鉄道軽便線でしょう。
また、宇和島-近永間は、宇和島鉄道が 762mm軌間の軽便鉄道として 1914年に開業していました。

これらを併せた結果、土佐の窪川から四万十川<広見川<三間川へと支流の谷を遡り、低い分水嶺を越えて 伊予の宇和島に至るという現在の予土線ルートが、鉄道計画として成立したのでした。

その後の宇和島鉄道は、延伸と買収(1933)を経て省線の宇和島線となりました。
鉄道省は 1939年に八幡浜まで来ていた予讃線に向って宇和島線を北に延伸し、1941年にドッキング。
この時に軽便鉄道に由来する区間は改軌され、断面の小さな旧窓峠トンネル[85199]などが廃線になりました。
戦後の延長工事により 1953年に高知県の江川崎、1974年に窪川の隣駅・若井【正確には中村線の川奥信号場】までの全線が開通し、「予土線」を名乗りました。

現在では、長大トンネルなど 進歩した土木技術の成果を各地で見ることができます。
しかし、そのような技術力や資金力が備わっていなかった20世紀前半の計画はどのような結果になったか?
伊予・土佐間の鉄道計画として示した5線の結果を列挙しておきます。

本命の松山高知間鉄道 102番は、残念ながら実現できませんでした。
103番の計画は、八幡浜から宿毛まで四国の西海岸沿いに南下し 東に進んで 土佐の京都・中村に至る鉄道。
伊予は 1941~1945年に予讃線の宇和島-八幡浜間が開通。土佐も 1997年に 土佐くろしお鉄道の宿毛-中村間が開通。
しかし、予土国境の宇和島-宿毛間海岸鉄道は実現していません。
105番は、西側の江川崎【四万十市】-窪川【四万十町】間が予土線として1974年に開通。
105番東側の窪川-崎ノ山【仁淀川町】間鉄道は実現せず。
105-2番の須崎-窪川間は、1939~1951年に土讃線開通。
105-3番の窪川-中村間は、1963~1971年に中村線開通。1988年 土佐くろしお鉄道に転換。

予想外と言ったら失礼かもしれませんが、かなりの鉄道が開通して、現存しているという結果でした。
本命の国道33号ルート鉄道こそ実現できなかったものの、松山高知直行バスは、少し遠回りながら新ルートの高速バス路線に生まれ変わり、現代に生きています。
そして、ローカル線ながら廃線にもならず、ホビートレインで客を呼びこむ努力をしている予土線。
記錄するに値する路線が多く、予想外の長文になりました。
[85203] 2014年 3月 22日(土)11:32:24デスクトップ鉄 さん
予土連絡線
[85193] [85199] [85201] hmt さん
一連の書き込み興味深く拝読しました。2点フォローさせていただきます。
伊予と土佐の2県都を結ぶ直行バス便は、1960年代から「松山高知急行線」を名乗っていました。
つまり、バスの路線名としての 予土北線・予土南線 は、予土線開通より前から使われなくなっていたようです。
国鉄自動車線路名称の予土北線と予土南線が統合し、松山高知急行線が新設されたのは、1967年8月1日でした(昭和42年7月28日付国鉄公示第376号)。
予土北線の部を次のように改め、予土南線の部を削る。
松山高知急行線松山高知急行本線(松山高知間、大街道道後温泉間、大街道立花町間及富士見町西佐川駅前間)
面河線(御三戸面河間)
八釜線(落出古味間)
長者線(上仁淀織合橋間)
池川線(土佐大崎檜谷間及三叉土佐樫山間)
桐見川線(越知桐見川間)
古畑線(富士見町古畑間)
国鉄バスの国鉄自動車線路名称も、鉄道と同様部・線の2段階方式で体系化されていましたが、こちらは、線に多くの枝線があり、頻繁に改定されました。1967年7月までは、予土北線と予土南線は落出で分かれており、予土北本線松山落出間、大街道道後温泉間、大街道立花町間と面河線、八釜線が予土北線の部、予土南本線高知落出間、富士見町西佐川駅前間、富士見町・古畑間と長者線、桐見川線、池川線が予土南線の部に属していました。
国鉄自動車線路名称の改定以前にも、松山高知急行線が系統名として使われていたかもしれませんが、時刻表には予土北線・予土南線と表示されています。

実は、旧鉄道敷設法の改正経過をざっと調べて見たのですが、松山から先の敷設に関する根拠法を発見できていません。
大正11年に全部改正された 鉄道敷設法 の別表にも、松山-八幡浜間の鉄道については、記載がありません。
おっしゃるとおり鉄道敷設法には松山・八幡浜間が欠落しています。明治25(1892)年鉄道敷設法(旧鉄道敷設法)の改正について、「日本国有鉄道百年史」に興味深い記事がありました。明治29年の第9回帝国議会に望月右内議員が旧鉄道敷設法第2条の予定線の四国線を「徳島から高知・松山を経て八幡浜に至る鉄道、本線から分かれて須崎に至る鉄道及び高松からこの線路に接続する鉄道」に改める提案をしたが、否決。望月は翌年も否決された四国線の変更を再提案し、衆議院の特別委員会で可決されたが、貴族院が特別委員会を開催するに至らず消滅したとあります(第3巻、p22-24)。
この提案に含まれている高知・松山間は、松山高知急行線ルートでしょう。大正11年(1922)鉄道敷設法(改正鉄道敷設法)別表に
百二 愛媛県松山附近ヨリ高知県越知ヲ経テ佐川ニ至ル鉄道
として記載されました。しかし予讃線松山・八幡浜間は改正鉄道敷設法にも欠落しています。この間の建設は、次のような経過をたどっています。
松山・伊予長浜間:1927年6月着工、30年2月郡中(伊予市)まで、32年12月伊予上灘まで、35年10月伊予長浜まで開業
伊予長浜・伊予大洲間:1933年11月買収した愛媛鉄道(762mmゲージ)の改築工事に着工、35年10月竣工
伊予大洲・八幡浜間:1933年1月着工、36年9月伊予平野まで、39年2月八幡浜まで開業
したがって本来改正鉄道法に記載すべき路線であり、
百三 愛媛県八幡浜ヨリ卯之町、宮野下、宇和島ヲ経テ高知県中村ニ至ル鉄道及宮野下ヨリ分岐シテ高知県中村ニ至ル鉄道
の「八幡浜ヨリ」を「松山ヨリ八幡浜、」とすべきところを、誤って記載したのではないでしょうか。
なお四国内の国鉄軽便線は小松島線だけのはずです。
[85204] 2014年 3月 22日(土)16:05:02MI さん
八幡浜線
[85199] hmt さん
私鉄簡易路線用の制度である軽便鉄道法を拡大解釈してローカル路線作りの根拠にした「国有鉄道軽便線」。
松山から先の鉄道敷設も、この方法により予算を確保したのかもしれませんが、詳細は不詳です。
[85203] デスクトップ鉄 さん
なお四国内の国鉄軽便線は小松島線だけのはずです。

 お二人の書き込みを拝見しまして、少々調べてみました。
大正八年度鉄道院鉄道統計資料 第五編 p260 と、大正九年度鉄道省鉄道統計資料 第五編 p263 の「工事未着手線」を比べてみますと、後者の末尾に「線名未定」ながら「松山、八幡濱」43哩00鎖が「軽便線」として計上されています。
 これを補強する史料として、神戸大学の新聞記事文庫に「大正日日新聞 1919(大正8)年1220付」鐵道豫算の内容 なる記事がありました。
 要約すると、建設改良費を削減した結果、鉄道敷設法改正案第一期線に追加するのは僅か五線にとどめ、その代わりに軽便鉄道を敷設することに決しているとあります。そのリストが上述の「線名未定」「軽便線」とかなり共通しており、松山八幡浜線も含まれているのです。鉄道敷設法に漏れているこの区間はやはり軽便鉄道として敷設することになったのだと思われます。
 この区間は、1918(大正07)年0214に長浜町~大洲と、1920(大正09)年0501に若宮分岐点~内子を狭軌線で開業している愛媛鉄道と重なることに加えて、松山との接続を長浜経由か内子経のどちらにするのかという問題もあり、決めかねた経緯もあったろうと思います。
 これについては、川上幸義,『新日本鉄道史 下』,鉄道図書刊行会,1968 も参考になりますが、川上幸義の四国鉄道史 で読むことができるようです。
[85205] 2014年 3月 22日(土)17:36:46【1】デスクトップ鉄 さん
松山・八幡浜間
[85204] MI さん
情報ありがとうございました。
私が
なお四国内の国鉄軽便線は小松島線だけのはずです。
と書いたのは、「日本国有鉄道百年史」の第9巻p113からの四国における鉄道建設の記事中の地図に国鉄軽便線としては、小松島線しか記載されていなかったためです。たしかにご紹介いただいた大正8、9年の「鉄道院鉄道統計資料」と大正8年12月20日付「大正日日新聞」では、松山・八幡浜間は軽便線となっていますね。
一方、川上幸義の四国鉄道史に次の箇所があります。
大正8年2月の帝国議会に四国循環鉄道案が提出された。松山-宇和島間は長浜まで海岸に沿って走るが、長浜から大洲に至り、肱川流域を遡って、宇和島ヘ至るもの、長浜から大洲・八幡浜経由宇和島に至るもの、長浜から海岸に沿って八幡浜・宇和島に至るものの3線が各政党により支持され、第1案と決定したので、八幡浜は猛運動の結果、大正9年7月の議会で松山-八幡浜間を予定線に編入するのに成功した。
ということは、旧鉄道敷設法第2条の予定線になったことを意味します。軽便線として建設決定した直後に格上げになったということでしょうか。
[85206] 2014年 3月 22日(土)18:41:19hmt さん
Re:予土連絡線
[85203] デスクトップ鉄さん
フォロー記事をありがとうございます。
1967年の線路名称改正で自動車線から「予土」の名が消え、1968年 急行「予土号」も廃止。
その時から 1974年の全通により予土線の名称に使われるまでの6年間は、「予土」が使われていなかった期間になります。
# 無関係なのですが、よど号 事件は、この「予土」が使われていなかった期間内、1970年の出来事でした。

徳島・高知・松山・八幡浜間の鉄道敷設計画について、「日本国有鉄道百年史」の記事紹介ありがとうございます。
予土連絡線は 19世紀末に帝国議会で審議されたが、不成立に終ったとのこと。古い問題であったことを知りました。
徳島・高知間は、大正11年の別表107番に「高知県後免より安芸、徳島県日和佐を経て古庄付近に至る鉄道」として現れた四国東海岸線なのでしょうね。現在は奈半利-甲浦間を除き 鉄道がありますが、古庄(阿南市の那賀川北岸)は 路線変更で 現在の牟岐線から外れています。

なお四国内の国鉄軽便線は小松島線だけのはずです。

四国内で軽便線として営業したのは、確かに 小松島軽便線 だけであると思います。
松山-八幡浜間についての推測[85199]は、旧鉄道敷設法を改正せずに「敷設」のお墨付きを得るためだけの便法として、「国有鉄道軽便線」の手法を使ったのではないかという趣旨です。

百三 の「八幡浜ヨリ」を「松山ヨリ八幡浜、」とすべきところを、誤って記載したのではないでしょうか。

私が 松山-八幡浜間について、既に「敷設」のお墨付きを得ていたものと推測した根拠を示しておきます。
参照したのは、雑誌『旅』の1999年11月号別冊付録【三宅俊彦:改正「鉄道敷設法」別表を読む】の図であり、この区間は“国有鉄道未成線(大正12年4月末時点)”となっていました。
もちろん、本来は幹線として鉄道敷設法を改正すべき区間ですが、「軽便線です」と言えば簡単に免許取得の誘惑に負けた?

大正11年改正鉄道敷設法は、次の附則で 軽便線として予算を得た線路も 正式の予定鉄道線路と看做してしまいました。
本法施行前鉄道建設費予算を以って帝国議会の協賛を経たる鉄道線路は本法に依り敷設するものと看做す
このように、「軽便線」は 1922年の法改正より前の予算審議に際しての説明として使われただけと思います。
予算審議の結果、お墨付きを得た敷設予定線のリストがあればよいのですが、これを見出すことはできず、前記の資料を根拠にしました。
もちろん、1930~1939年に完成した松山-八幡浜間[85203]は、予讃線(1933年から予讃本線)として開業しました。

上記資料で“国有鉄道未成線(大正12年4月末時点)”となっている路線の例として、会津線[79718]も挙げておきます。
この線も 開業年(1927~1934)が軽便鉄道制度廃止後なので、会津軽便線を名乗ったことはありません。
[85207] 2014年 3月 22日(土)18:57:45MI さん
四国循環鉄道完成に関する建議案外一件委員会
[85205] デスクトップ鉄 さん
 早速有難うございました。急いで帝国議会をと検索したのですが、凄い時代になったもので、あっさりと会議録が見つかってしまいました。
第四十三回帝国議会 衆議院 四国循環鉄道完成に関する建議案外一件委員会
のうち、大正9年7月23日の分に「四国循環鉄道完成に関する建議案」が載っています。
 私もいま読んでいるところですが、ひとまずお知らせします。
[85208] 2014年 3月 22日(土)19:00:04hmt さん
Re:松山・八幡浜間
[85205] デスクトップ鉄さん
ということは、旧鉄道敷設法第2条の予定線になったことを意味します。

大正9年8月7日の官報 に(旧)鉄道敷設法の改正が出ていますが、第2条は改正されていません。
[85213] 2014年 3月 25日(火)12:51:14【2】デスクトップ鉄 さん
松山・八幡浜間は軽便線
[85207] MI さん
第四十三回帝国議会 衆議院 四国循環鉄道完成に関する建議案外一件委員会
のうち、大正9年7月23日の分に「四国循環鉄道完成に関する建議案」が載っています。
この建議案は7月23日の委員会で可決、7月28日の本会議でも可決されていますね。しかしこの建議案の性格が今一つ分かりません。「松山から八幡浜に至る軽便鉄道の建築が計画されて、今日追加予算として出ておるのでありますが..」(原文は旧漢字、カタカナ)と松山・八幡浜間が軽便線として計画された旨の発言(渡邊修議員)もあります。川上幸義の四国鉄道史(川上幸義『新日本鉄道史 下』がウェブサイトの記述どおりであることを確認しました)が書くように、「松山-八幡浜間を予定線に編入する」ものだったとは読めません。
したがって、[85208] hmt さんの
大正9年8月7日の官報 に(旧)鉄道敷設法の改正が出ていますが、第2条は改正されていません。
ということになります。

「日本国有鉄道百年史」第7巻(p31-2)の「大正8年当時の建設計画」では、当時の計画線をのべたあと
以上述べた計画線は、その大部分が旧鉄道敷設法による予定線であるが、そのほかに、すでに述べたような軽便鉄道法による線路が多数含まれていた。前に掲げた左沢線・久慈線・横黒東西線・十日町線等はそのおもなものである。これらの軽便線は、おもに支線として地域開発の役割を果たす線路として計画されたものであった。
とあります。大正8年の計画線には、松山・八幡浜間は記述されていませんが、百年史第7巻に「鉄道敷設法(大正11年法律第37号)予定線路図」が掲載されており、その中で松山・八幡浜間は、久慈線、十日町線(飯山線十日町・越後川口間)などとともに、国有鉄道未成線として水色で記載されています。
軽便鉄道法は、1919年(大正8年)4月10日、地方鉄道法(大正8年法律第52号)の成立によって、私設鉄道法とともに廃止されました。しかし、Wikipediaの軽便鉄道法によると、
なお当法が廃止された後も制度が続いたのは、予算枠を1929年(大正18年=昭和4年)まであらかじめ先取りしてあったためである。
ということらしく、大正9年の議会に軽便線として提案されたという松山・八幡浜間は、[85208] hmtさんの
松山-八幡浜間についての推測[85199]は、旧鉄道敷設法を改正せずに「敷設」のお墨付きを得るためだけの便法として、「国有鉄道軽便線」の手法を使ったのではないかという趣旨です。
で間違いないようです。

なお、[85205]
「日本国有鉄道百年史」の第9巻p113からの四国における鉄道建設の記事中の地図
と書きましたが、第5巻p44-5の「官設・私設軽便鉄道線路図」の誤りでした。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示