大正11年(1922)改正
鉄道敷設法 別表を見ると、四国の部には百番から始まる9線が記載されています。
後に4線追加あり。伊予・土佐間の鉄道計画に関係する部分を抜き書きします。
102 愛媛県松山付近より高知県越知を経て佐川に至る鉄道
103 愛媛県八幡浜より卯之町、宮野下、宇和島を経て高知県中村に至る鉄道及び…
105 高知県江川崎付近より窪川を経て崎山付近に至る鉄道
105-2 高知県須崎より窪川に至る鉄道
105-3 高知県窪川付近より中村に至る鉄道
102番が、国鉄バスの松山高知急行線が通っていた国道33号ルートです。計画線には挙げたものの、峠道を克服する技術が不十分であった時代、鉄道建設の見通しは すぐには立たなかったのでしょう。
その代わりに 1935年という早い時期から省営自動車路線が開業しました。
Old Map Roomで紹介
[85194]されたように、高速バス出現に伴い、従来の国道経由「なんごく号」は減便。
その後、運行区間は愛媛県内だけに縮小。高知に行かない現在の路線名は、
「久万高原線」 に変更されているようです。
もっとも、国道33号の難所であった三坂峠を含む区間には、2012年3月に
三坂道路 が開通しました。
せっかく道路が改良されたのに、JRバス路線は、久万高原町役場柳谷支所のある落出まで。高知には行きません。
105番の江川崎-窪川間が、後に予土線になる区間です。近永-江川崎間は、既に国有鉄道未成線となっていました。
[79718]の会津若松-田島間の同類・国有鉄道軽便線でしょう。
また、宇和島-近永間は、宇和島鉄道が 762mm軌間の軽便鉄道として 1914年に開業していました。
これらを併せた結果、土佐の窪川から四万十川<広見川<三間川へと支流の谷を遡り、低い分水嶺を越えて 伊予の宇和島に至るという現在の予土線ルートが、鉄道計画として成立したのでした。
その後の宇和島鉄道は、延伸と買収(1933)を経て省線の宇和島線となりました。
鉄道省は 1939年に八幡浜まで来ていた予讃線に向って宇和島線を北に延伸し、1941年にドッキング。
この時に軽便鉄道に由来する区間は改軌され、断面の小さな旧窓峠トンネル
[85199]などが廃線になりました。
戦後の延長工事により 1953年に高知県の江川崎、1974年に窪川の隣駅・若井【正確には中村線の川奥信号場】までの全線が開通し、「予土線」を名乗りました。
現在では、長大トンネルなど 進歩した土木技術の成果を各地で見ることができます。
しかし、そのような技術力や資金力が備わっていなかった20世紀前半の計画はどのような結果になったか?
伊予・土佐間の鉄道計画として示した5線の結果を列挙しておきます。
本命の松山高知間鉄道 102番は、残念ながら実現できませんでした。
103番の計画は、八幡浜から宿毛まで四国の西海岸沿いに南下し 東に進んで 土佐の京都・中村に至る鉄道。
伊予は 1941~1945年に予讃線の宇和島-八幡浜間が開通。土佐も 1997年に 土佐くろしお鉄道の宿毛-中村間が開通。
しかし、予土国境の宇和島-宿毛間海岸鉄道は実現していません。
105番は、西側の江川崎【四万十市】-窪川【四万十町】間が予土線として1974年に開通。
105番東側の窪川-崎ノ山【仁淀川町】間鉄道は実現せず。
105-2番の須崎-窪川間は、1939~1951年に土讃線開通。
105-3番の窪川-中村間は、1963~1971年に中村線開通。1988年 土佐くろしお鉄道に転換。
予想外と言ったら失礼かもしれませんが、かなりの鉄道が開通して、現存しているという結果でした。
本命の国道33号ルート鉄道こそ実現できなかったものの、松山高知直行バスは、少し遠回りながら新ルートの高速バス路線に生まれ変わり、現代に生きています。
そして、ローカル線ながら廃線にもならず、ホビートレインで客を呼びこむ努力をしている予土線。
記錄するに値する路線が多く、予想外の長文になりました。