富岡製糸場の世界遺産登録見込み
[85463]から始めた絹の話。製糸工程
[85516]に続く第3回は、枠を広げて衣服から始めます。
哺乳類は「けもの」というように保温性のある長い体毛を持つのが一般です。しかし、アフリカに住んでいたサルの仲間で、長い体毛の大部分をなくした種があります。言うまでもなく我々人類ですが、なぜ“裸のサル”になったのか?
人類が森から出て、サバンナで二足歩行を始めると、食物を得るために長距離を歩いたり走ったりする必要が出てきた。すると、今度は放熱不足で体温が上がりすぎる。そこで、毛が薄く汗が出るように進化し、効率的な水冷式ラジエーターとして作用する皮膚になった。
こんな説 を聞いたことがあります。
確かに、これで運動に伴う放熱対策には有利になったものの、寒さや外傷の危険は増大しました。
それを克服し、氷河時代のアジアや欧州への進出を可能にしたのが、体を保護する衣服です。
衣服の材料は、狩猟により得られる獣の皮と思われますが、それと共に 毛皮を裁断し 縫製する「裁縫」技術が必要でした。
現生人類は、裁断のための石刃だけでなく、4万年前に精巧な「縫い針」を発明することで 衣服作りでも技術的な優位を得て、最終氷期を生き抜いたものと思われています。
参考
氷河時代(更新世)に、縫い糸として最初に使われた糸は、狩猟で得られる動物の腱であったかもしれません。
しかし、温暖な後氷期(完新世)になると、もっと得やすい植物から得られる比較的長い靭皮繊維(麻)の糸が普及しました。最初はロープなどの利用であったかもしれませんが、そのうちに麻糸を縦横に組み合わせた「織物」が出現したと思われます。
古代エジプトでは紀元前1万年ごろ、既にリネン(亜麻)が栽培され、BC5千年には衣料に用いられてました。
資料
別の資料 には、世界文明の発祥の地メソポタミア・エジプトの他に、先史時代のスイス湖上生活民族における麻の利用も記されています。
絹糸の利用は、おそらく麻に次ぐ古いものでしょう。
司馬遷の『史記』には「黄帝妃養蚕を愛す」という記載があり、紀元前2460年頃 落した繭を湯の中から拾い上げようとした時、糸が箸に巻きついたことから 製糸法が発見されたとか。
参考
群馬県の
絹・生糸・製糸の起源 にも紀元前第3ミレニアムの遺物が記されています。
イタリアの会社のページ にも、約 4500年前頃の中国において養蚕や製糸が始まったことは間違いないと記されていました。
そのイタリアは、シルク産業と深いかかわりを持つ国です。古くはローマ帝国。1世紀の頃、中国から「シルクロード」を通ってはるばるとヨーロッパに伝えられた絹は、当然のことながら極めて高価。その贅沢品である絹を買える財力を持った国が、その頃から全盛時代を迎えたローマ帝国だったわけです。
絹の製法は門外不出とされていました。西ローマ帝国滅亡後の6世紀、ビザンチン皇帝のユスティニアニスが東方に派遣した僧侶が杖の中に蚕の繭を隠してコスタンチノープルに持ち帰り、地中海地域に養蚕が始まったとか。
蚕種伝播経路と年代
イタリアに続いてフランスにも絹産業が起りました。
リヨンの発展の歴史。18世紀末のフランス革命期には停滞がありましたが、19世紀になるとジャカールによりパンチカードを用いたプログラム式織機の発明などもあり、産業革命による機械工業時代を謳歌しました。
これにより、ヨーロッパは 原産地の中国をしのぐシルク産業の中心地になったわけです。
しかし、1855年に蚕の微粒子病が流行。これにより ヨーロッパの蚕飼育は打撃を受け、シルク産業は衰退しました。
1855年というと日本では安政2年ですから、まさに日本が開国する直前です。
ここで、「絹の話」を日本に移します。
3世紀の『魏志倭人伝』には絹織物を貢いでいたことが記載され、日本には 早くも弥生時代に蚕がもたらされたことがわかります。稲作と同じ頃に大陸からの移住者がもたらしたのかもしれません。先に紹介した蚕種伝播図にも1世紀に楽浪郡から伝来と記載されており、以後も百済や秦氏などによる古代の技術移転記錄があります。
古代国家の税制として租庸調が整えられる前から、女子の手になる絹布は「手末調」
[83676]として位置付けられており、「調布」という地名が それを現在に伝えています。
このように日本の絹産業の歴史は長く、絹織物については撚糸技術の導入(明から)により、西陣織など高級品の生産も行なわれるようになりました。しかし、生糸の生産技術は進歩せず、高級絹織物の原料は中国からの輸入生糸で賄われたようです。
その輸入代金に支払われたのが、当時の日本で産出量の多かった銅なのですが、江戸時代には 大幅な貿易不均衡 に陥りました。
かくして、江戸幕府は生糸輸入を減らすために養蚕を奨励。諸藩も技術改良により独自の織物を生み出しました。
大日本蚕糸会
このように、江戸時代後期は 日本の養蚕技術が長い停滞から脱却し、向上してきた時代でした。
そして、ペリー来航2年後の 1855年。ヨーロッパでは蚕の微粒子病が大流行し、隆盛を誇っていたシルク産業に大打撃。
微粒子病というのは、ノゼマという原生動物が蚕に寄生することによる病気だったのですが、当時はその原因がわからず、対策なし。養蚕が盛んだった南フランスの農家を救うために研究を開始したのがルイ・パスツールで、経卵感染で伝播することを明らかにして、この病気の防除に成功したのが 1870年でした。
日本と欧米諸国との貿易が始まった安政6年(1859)は、まさにこの時期。当時の日本が輸出できる代表品目と言えば、生糸と蚕種と茶くらいのもので、1865年の輸出額では生糸がが 80%近かったとか。
蚕種とは蚕の卵のことで、日本の蚕種は微粒子病に強い品種だったようです。
[85486] hmt
これは、先人たちの努力の成果と共に 時の運にも恵まれて、外貨の稼ぎ頭になりました。
という結果は、江戸時代の貿易不均衡対策から始まった養蚕技術改革、ヨーロッパの微粒子病流行、ペリー来航に始まる日本開国への動き などが重なることにより 実現したものだったのでした。