[86339] ぺとぺとさん
和紙の取引の関係で大正5年に今の四国銀行の前身である高知銀行が【大竹】市内に開店
大竹の海兵団跡地に製紙工場があるのは知っていました。
しかし、手漉き和紙が それよりもずっと前からの
大竹の特産品 であったことは知りませんでした。
そこで
紙の歴史 を調べました。室町時代以降に多くなった書院造建築で紙の需要が拡大。また雨傘用の厚く強い紙も美濃や土佐などを中心に全国で生産。江戸時代になると 野中兼山などにより土佐藩の財政政策にも利用されました。
幕末になると 土佐国吾川郡伊野【いの町
[45511]】で大幅連漉き道具が考案されるなど技術の進歩もありました。
1901年には 全国の和紙生産戸数68562でピークを記錄。以降は洋紙化と和紙の機械化が進み、手すきの戸数は減少。
この年、高知県の伊野製紙などが合併して土佐紙合資会社設立。
日本紙業芸防工場 によると、この会社が大正14年の合併で 社名を日本紙業と改めた頃、合併相手の土佐紙は 高知県伊野町の他に 山口県和木村にも工場を有し、機械すき和紙の分野で独特の地位を占めていたとのことです。
これにより、
[86323] hmt が記した疑問が解決しました。
どのような経済的背景が四国と大竹とを結びつけたのか?
つまり、土佐紙合資会社による山口県和木村進出があり、これに呼応して高知銀行も小瀬川対岸にある紙の町・広島県大竹に支店を開設
[86339]、そして土佐紙と日本紙器製造との合併による日本紙業の成立に至る という流れだったのでした。
工場の名になっている「芸防」、つまり安芸・周防 両国の境界を形成しているのは「小瀬川」です。
そして、紙作りに欠かすことができない 水を供給して、この地を紙生産地たらしめたのもこの川でした。
西国街道 両国橋付近の大竹側の地名から「木野川」の呼び名もありますが
[15926]、現在では大竹側でも小瀬川と呼んでいるようです。
例1、
例2
例1の小瀬川干潟は、
[83553]で臨海工業地帯の工場夜景を紹介した河口付近にあります。