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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[86217]2014年8月4日
ぺとぺと
[86221]2014年8月4日
白桃
[86321]2014年8月23日
faith
[86322]2014年8月24日
白桃
[86323]2014年8月24日
hmt
[86325]2014年8月24日
faith
[86339]2014年8月28日
ぺとぺと
[86342]2014年8月29日
hmt

[86217] 2014年 8月 4日(月)21:34:13ぺとぺと さん
意外な場所に意外な地銀が
[86208]伊豆之国さん
3) 横浜銀行の支店がある
[86213]白桃さん
3)三本松に中国銀行(北京、上海ではなく、岡山市に本店がある)があるようなもの?

先月川越に行った際に八十二銀行の支店があるのを意外に思いましたが、ご指摘のケースはそれよりもさらに珍しい出店パターンのように思われます。
横浜銀行の創立90周年記念誌「地域とともに141年 横浜銀行の歩み」によれば、M支店はお隣のライバル市にあるT支店と同様、前身の国立銀行時代に横浜の生糸売込商と生糸の産地との資金決済のために開設された経緯があるようです。同行は世界遺産となった製糸場とも人的、資金面でのつながりが深かったようで、経済圏の異なる遠く離れた県に3支店(もうひとつはノコギリ屋根の織物工場で有名なK市)を有する理由もなんとなく頷けます。

なお、三本松に中国銀行があるのは、平塚に静岡銀行やスルガ銀行や静岡中央銀行の支店があるのと同じような理由のように思いますが、実際のところどうなのでしょう。
[86221] 2014年 8月 4日(月)23:39:47【1】白桃 さん
中国銀行三本松支店自慢
[86217]ぺとぺと さん
三本松に中国銀行があるのは、平塚に静岡銀行やスルガ銀行や静岡中央銀行の支店があるのと同じような理由のように思いますが、実際のところどうなのでしょう。
仰せのとおり、中国銀行は(岡山県の)隣県である香川県にも沢山の支店を持っておりますので、三本松に支店があるのは意外でも何でもありません。むしろ、三本松に無かったならば、それこそ「意外」以外には言葉が見当たらないでしょう。^j^)~~
事実、三本松支店は「外国為替取扱」「金融商品仲介」「貸金庫」の3つの業務を行っており、県内では五本の指に入る主幹支店のようです。
※五本の指・・・高松、丸亀、坂出、観音寺、三本松(ひょっとしたらひょっとして、多度津が入るかも・・・)
因みに、私が小さい頃は中町(なかんちょう)というアーケード街にあったのですが、地元の百十四銀行や香川相互銀行(当時)の支店と比べても凄く立派なもんで、三本松が中国銀行本店所在地かと思っていました。(笑)
中国銀行三本松支店については、以前、この落書き帳に投稿されたことがある、まっちさんのホームページ、「まっちの街歩き」に非常に美しい画像があります。(ご本人に了解を取っておりませんのでリンクを張りませんでした。)
[86321] 2014年 8月 23日(土)16:26:37【3】faith さん
中国銀行三本松支店
[86217] ぺとぺと さん
[86221] 白桃 さん

ご無沙汰しております。

三本松に中国銀行があるのは、平塚に静岡銀行やスルガ銀行や静岡中央銀行の支店があるのと同じような理由のように思いますが、実際のところどうなのでしょう。

平塚に各銀行の支店がある経緯について、横浜銀行の店舗の歴史(PDF)
には以下のようにあります。
平塚の特徴は、近隣地区に本店を置く銀行が多くの支店を設置した点にある。秦野銀行、国府津銀行(小田原実業銀行を経て明和銀行となる)が、それぞれ平塚支店を設置したほか、すでに藤沢・厚木に出店するなど、神奈川県内への進出に積極的だった駿河銀行(現・スルガ銀行)も、45 年に平塚支店を開設している。
なお、秦野、明和の両行は上記資料にもあるように、1941年に横浜興信銀行(現横浜銀行)に合流します。
要するにスルガ銀行の平塚支店はスルガ銀行自ら開設したようです。(他の静岡県の2行についてもそうだと思われますが、調査ができていません)

一方、岡山に本店のある中国銀行が三本松に支店を開設したわけではなく、香川県の大内銀行によって開設された支店が、1931年の香川銀行の中国銀行による買収によって、中国銀行の支店となったという流れのようです。(参考:てくてく近代建築)
注: ここに出てくる香川銀行は、現在の香川銀行とは無関係です。

さらに言いますと、大内銀行についての詳しい資料はないものの、行名からは、現在の東かがわ市と重なる、旧大内郡に本拠があった可能性が高いです。
とすれば、まさに現在の東かがわ市にあたる地域を地元とする銀行が、地元に支店を開いているだけ、ということになります。

以上、三本松の重要性についてとやかく申し上げるつもりはありませんが、ご参考まで。

その他参考
地方金融史研究会「日本地方金融史」,日本経済新聞社
銀行変遷史データベース

※誤字・脱字訂正:「岡山に支店のある」→「岡山に本店がある」「三本松支店を開設したわけではなく」→「三本松に支店を開設したわけではなく」
※※香川銀行について注を追加
※※※参考のリストの記法を改めた
[86322] 2014年 8月 24日(日)08:58:52白桃 さん
大内銀行
[86321]faith さん
岡山に本店のある中国銀行が三本松に支店を開設したわけではなく、香川県の大内銀行によって開設された支店が、1931年の香川銀行の中国銀行による買収によって、中国銀行の支店となったという流れのようです。
貴重な情報、大変有難うございます。「大内銀行」のことは全く知りませんでした。
大内銀行についての詳しい資料はないものの、行名からは、現在の東かがわ市と重なる、旧大内郡に本拠があった可能性が高いです。
ただの御礼だけでは申し訳ないので、何か資料はないか、あ、そうだ!
さる御方から送っていただいた「大内町史」を見てみよう。ということで、以下は「大内町史上巻」からの抜粋です。
三本松は、早くに開けた港町であった。嘉永六年(1853)に刊行された『讃岐国名勝図会』に「豪商富賈工人漁家等数多あり」と記されているように、近世末期から糖業で大発展した港町であった。(649頁)
このように旺盛であった金融事業が基礎となって、明治十一年の興民社勧業部という糖業者の組合制金融が開始され、さらに進展して明治三十年十二月には、株式会社大内銀行が開行され、東讃地方の金融の中心地としての態勢を整えたのであった。(中略)以来三本松は、東讃地方の金融の中心としての位置を持続してきているのである。(650頁)
大川郡に出現した最初の銀行は、文政二年砂糖会所が置かれ、明治七年には志度村製糖場が置かれて糖業の中心地として糖業資本の蓄積が大きかった志度の、明治二十三年開行の「私立東讃銀行」(中略)であった。これに続いて「株式会社大内銀行」が明治三十年に当町三本松三〇五番地第三に開行した。三本松には明治十一年興民社が開設されて組合制金融が早くから商人金融の不備を補っていたので、銀行の出現が志度に先を譲ったのであろう。(662頁)
株式会社大内銀行定款(明治四十年七月二十八日改正)
第三条 当銀行ハ株式会社大内銀行ト称シ本店ヲ香川県大川郡三本松町参百五番地第参ニ支店ヲ同郡引田村参百九拾番戸・同郡津田町千百番戸ニ設置ス(663頁)
以上から、大内銀行の本店は讃岐三白の一つである砂糖の積出港として栄えた三本松に設置され、支店を引田村(後に引田町、現東かがわ市)と津田町(津田は旧寒川郡、現さぬき市)に置かれたことが判りました。
脱線しますが、現在でもかなり残っていると感じる、三本松の志度に対するムラムラッとした対抗意識が町史からも読み取れます。(笑)
さて町史によると、この大内銀行は大正15年(1926)に綾歌銀行と合併し香川銀行となり、その香川銀行は昭和6年(1931)に中国銀行に合併、と書かれていますが、三本松における大内銀行の歴史的意義?をクドイぐらい強調している部分を最後に引用いたします。
三本松が、糖業経済が過ぎ去った後々までも地方経済の中心地の位置を保持できたのは、興民社勧業部(組合制金融)のあとをうけて、大内銀行がこの地に開行したからである。大内銀行は、三本松が手袋経済時代もなお東讃地方の経済の中心地の位置を保持できたのは、この銀行が立地して歴史を作ったたまものである。(666~667頁)
[86323] 2014年 8月 24日(日)11:57:55hmt さん
Re:意外な場所に意外な地銀が
[86217] ぺとぺとさん
[86221] 白桃さん
[86321] faithさん
[86222] 白桃さん
大内銀行の本店は讃岐三白の一つである砂糖の積出港として栄えた三本松に設置され

ここで思い出したのが、40数年前に口座を開いていた四国銀行大竹支店です。
広島県に四国銀行【本店は高知市】の店があることも意外でしたが、その建物は予想外に立派なものでした。
尋ねてみると 大竹○○銀行の本店であったとのこと。○○の部分は記憶喪失。

落書き帳で紹介しようと四国銀行の沿革を調べましたが、Wikipediaには出ていません。証券投資用語辞典にもなし。
銀行図書館 により、明治30年~大正7年に存在した「大竹貯蓄銀行」を確認することができました。
大正7年9月に本店が高知に移り高陽貯蓄銀行と改称。更に高陽銀行と改称後昭和5年に四国銀行に合併。
大竹が四国に直接統合されたのではないので、調べにくかったのでした。

四国銀行は大竹市での地位を確保しているようですが、どのような経済的背景が四国と大竹とを結びつけたのか?
hmtが最も知りたかった この点については、残念ながら調査の成果を得ることができませんでした。

とりあえず、岡山から香川県への進出の逆ケースとして、高知から広島県への進出もあった事例を報告しておきます。
[86325] 2014年 8月 24日(日)13:09:40【1】faith さん
Re^2:意外な場所に意外な地銀が
[86322]白桃 さん
こちらこそ、貴重な資料のご紹介をありがとうございます。
大内銀行は三本松発祥の銀行だったのですね。
現在でもかなり残っていると感じる、三本松の志度に対するムラムラッとした対抗意識が町史からも読み取れます。(笑)
確かに、
三本松には明治十一年興民社が開設されて組合制金融が早くから商人金融の不備を補っていたので、銀行の出現が志度に先を譲ったのであろう。
など、読む方からは唐突に思えるぐらいに志度が意識されているようです。

大内銀行は、三本松が手袋経済時代もなお東讃地方の経済の中心地の位置を保持できたのは、この銀行が立地して歴史を作ったたまものである。
大内銀行が三本松の経済発展に果たした役割についても言及されていますね。
ところで、「手袋経済」(この言葉自体初めて目にしましたが)に、私も自動二輪用のグローブを東かがわ市所在のメーカーから何度か購入して貢献しております(笑)

本筋とはずれますが、それにしても、[86321]でもご紹介したてくてく近代建築に出ている東かがわ市内の旧支店、良い感じの建物です。

[86323] hmt さん
広島県に四国銀行【本店は高知市】の店があることも意外でしたが、その建物は予想外に立派なものでした。
広島市内に中四国に本拠を置く各行の支店があるのは分かりますが、確かに大竹は(失礼ながら)意外ですね。
四国銀行のあゆみにも
(昭和)5年 3月(株)高陽銀行を合併 (資本金1,229万5千円)
とあるだけでした。前身の大竹貯蓄銀行が高知に移転することになった経緯は調査できていません。
同行が、今日でも支店や出張所を大竹市に有するだけでなく、(広島銀行等をさしおいて)大竹市の指定金融機関に指定されているところ、大竹市にとっても「地元の銀行」という意識があるのでしょうね。

※誤字訂正 (1か所)
[86339] 2014年 8月 28日(木)23:20:22ぺとぺと さん
もろもろ
[86325]hmtさん
[86325]faithさん
フォローありがとうございました。また四国銀行の話、大変興味深く拝見しました。
すでにご確認済かもしれませんが、平成19年3月の大竹市議会第1回定例会の議事録に、
「和紙の取引の関係で大正5年に今の四国銀行の前身である高知銀行が市内に開店し、昭和39年から始まった指定金融機関制度開設当初より現在に至っている。」
との記載がありました。
これ以上の詳細はわからないのですが、横浜銀行高崎支店と同様、やはり遠隔地間の商取引の関係を契機として開店したようですね。

[86332] 白桃 さん
さて、ここで問題です。この4市が8月に大幅な減少を示すのはなぜ???
[86338] にまんさん
おそらく、自衛隊がらみでしょう。善通寺、多賀城には陸自の教育大隊、防府には空自の航空教育隊と新隊員教育が行われる部隊がありますから、新隊員が入ってくる4月に人口が増えて、7月には3ヶ月の教育が終わって他の部隊、学校に異動になるので、大きく人口が減る。そういうことだと思います。

少なくとも防府市については、お二人の推測に間違いはないと思われます。
同市の自治会別人口の推移を見ると、7月から8月にかけて「自衛隊南基地」自治会の人口が1,000人規模で減少しています。これは防府市全体の減少数とほぼ同じです。
[86342] 2014年 8月 29日(金)20:30:03【1】hmt さん
紙の里 大竹
[86339] ぺとぺとさん
和紙の取引の関係で大正5年に今の四国銀行の前身である高知銀行が【大竹】市内に開店

大竹の海兵団跡地に製紙工場があるのは知っていました。
しかし、手漉き和紙が それよりもずっと前からの 大竹の特産品 であったことは知りませんでした。

そこで 紙の歴史 を調べました。室町時代以降に多くなった書院造建築で紙の需要が拡大。また雨傘用の厚く強い紙も美濃や土佐などを中心に全国で生産。江戸時代になると 野中兼山などにより土佐藩の財政政策にも利用されました。
幕末になると 土佐国吾川郡伊野【いの町[45511]】で大幅連漉き道具が考案されるなど技術の進歩もありました。
1901年には 全国の和紙生産戸数68562でピークを記錄。以降は洋紙化と和紙の機械化が進み、手すきの戸数は減少。
この年、高知県の伊野製紙などが合併して土佐紙合資会社設立。

日本紙業芸防工場 によると、この会社が大正14年の合併で 社名を日本紙業と改めた頃、合併相手の土佐紙は 高知県伊野町の他に 山口県和木村にも工場を有し、機械すき和紙の分野で独特の地位を占めていたとのことです。

これにより、[86323] hmt が記した疑問が解決しました。
どのような経済的背景が四国と大竹とを結びつけたのか?
つまり、土佐紙合資会社による山口県和木村進出があり、これに呼応して高知銀行も小瀬川対岸にある紙の町・広島県大竹に支店を開設[86339]、そして土佐紙と日本紙器製造との合併による日本紙業の成立に至る という流れだったのでした。

工場の名になっている「芸防」、つまり安芸・周防 両国の境界を形成しているのは「小瀬川」です。
そして、紙作りに欠かすことができない 水を供給して、この地を紙生産地たらしめたのもこの川でした。
西国街道 両国橋付近の大竹側の地名から「木野川」の呼び名もありますが[15926]、現在では大竹側でも小瀬川と呼んでいるようです。例1例2

例1の小瀬川干潟は、[83553]で臨海工業地帯の工場夜景を紹介した河口付近にあります。


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