都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

記事検索

>
3件の記事を検索しました

… スポンサーリンク …



[86697] 2014年 11月 19日(水)19:45:33hmt さん
津の守坂 (1)美濃高須藩
丸ノ内線が通る新宿通を四谷三丁目から少し東に進むと「津の守坂入口」という交差点があります。
北の合羽坂下に向う道が途中から下り坂になり、その西側が 松平摂津守の上屋敷跡 であったことに由来する地名です。
その地点から一つ東側の通りにある新宿歴史博物館で開催中の特別展 高須四兄弟 新宿荒木町に生れた幕末維新 を先週見てきました。

高須四兄弟については、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県まで に収録した 記事 の中で、次のように紹介しています。
余談ですが、3万石の小藩ながら、高須松平家出身の4兄弟は 幕末の歴史を彩りました。尾張藩主になった徳川慶勝は、議定として慶応3年師走の小御所会議[75495]に出席し、翌年正月には、徳川慶喜逃亡後の大阪城[43497]を新政府代表として受け取りました。それより前、慶応2年末に徳川慶喜の徳川宗家相続に伴い、一橋家を継いだのが 弟の徳川茂徳です。更に下の弟の 会津藩主・松平容保と 桑名藩主・松平定敬とは 幕末京都で治安維持の役目を担い、戊辰戦争の 朝敵 にされてしまいました。戦後、慶勝と茂徳とは、容保と定敬の助命に奔走し、明治11年に4兄弟は再会を果たしたそうです。

「津の守」と呼ばれた大名の家に生まれ、それぞれ別の大名の家督を継ぎながら幕末の動乱期を生きぬいた兄弟。
落書き帳の過去記事と関連させながら、関係する地名を交えながらこの記事を書いてみます。

松平摂津守、末尾を取れば「津の守」ですが、何故に摂津の略称が「津」なのか? Issieさんの解説[21549]をご覧ください。
もちろん江戸時代の難波の津は大坂奉行管轄下の幕府直轄領であり摂津守の領地ではありません。参考[72856]
では松平摂津守とは いかなる大名で、領地はどこだったのか?

徳川家康が天下を取った後で、この国の支配権を自分の子孫に確実に伝える仕組みの一つとして、後継者の予備軍である御三家の制度を作ったことはよく知られています。徳川御三家の筆頭が尾張家ですが、尾張家としてもその役目を確実に果すためには血統を伝える分家が必要になります。このようにして尾張家にも3つの分家が作られました。それぞれの江戸屋敷の所在地【いずれも現在の新宿区内】から、四谷家・大久保家・川田久保家と呼ばれましたが2家はスペアの役割を果して消滅し、幕末期に尾張本家以外に残っていたのは四谷家だけです。

この四谷家の当主には 松平摂津守として信濃国に3万石を与えられ、元禄13年(1700)に 本拠が美濃国高須に移されました。
「高須」は岐阜県海津市役所の所在地で、約60年前の昭和合併で海津町になる前は海津郡高須町でした。
# 播磨坂に名を残す松平播磨守は水戸藩の分家で常陸府中(石岡)2万石の殿様とか[72799]

展覧会の主役は江戸四谷にあった高須藩江戸上屋敷とその地で育った4兄弟であり、美濃高須藩の所領には殆ど触れられていなかったのですが、折角の機会なので美濃国の南端である高須輪中について少し記しておきます。

高須という地名は、横須賀関連で話題にした 須賀地名 の仲間で、河岸や海岸に土砂が堆積して形成された微高地に由来します。
木曽三川が作った濃尾平野に住みついた人々は、毎年のように繰り返される洪水被害に遭いながらも、自然堤防や人工堤防を利用して水利用を進めてきました。鎌倉時代中期の文献に高洲阿弥陀寺などの記錄があります。

現在高洲輪中の中央を流れている大江川は 木曽川・長良川の旧河道でしたが、天正14年(1586)の大洪水の結果、ほぼ現在に近い東寄りの流路に変ったとのことです。
江戸時代になると、名古屋を居城とする尾張徳川家の御囲堤が慶長14年(1609)に完成。これにより尾張側は保護されたものの 美濃側の洪水は一層深刻な状態になり、水害対策に財政破綻した小笠原氏は転封を願い出る事態になりました。

木曽三川については、木曽川下流河川事務所が発行している『KISSO』という刊行物があり、1991年の創刊号から最新号(92号)まで閲覧することができます。バックナンバーリスト
歴史ドキュメントや歴史記録の長期連載もあり、読み応えのある資料ですが、その56号p.10を見ると、60余万石の美濃国のうち約20万石が幕府直轄領、約15万石が尾張藩領で、残る約25万石が大垣藩・高須藩など10藩の大名領と70余の旗本領とに細分され、錯綜状態であったと記されています。高須藩領は図示された海津町域に限っても34%に過ぎません。

美濃高須藩は3万石の小藩であり、木曽川の治水を自力で遂行できる財力も、複雑な利害関係をまとめる力もなく、幕府の力に頼らざるを得ません。
幸いなことに 幕府領になったこの地に美濃郡代として着任したが、見沼代用水[67644]でも登場した 井沢弥惣兵衛為永でした。彼は 将軍吉宗の命を受けて、享保20年(1735)笠松陣屋着任後の短期間に綿密な現地調査に基づく三川分流計画を立案しました。

この建言は為永の在世中直ちに実施されるには至りませんでしたが、1747年には奥州二本松藩による第1回の木曽川改修御手伝普請が実施されました。
二本松藩は多数の藩士を現地に派遣したものの、既に幕府により請負業者が配置されており、工事期間2ヶ月。

第2回の御手伝普請が薩摩藩による有名な 宝暦治水工事(1754-1755)です。
この時は地元農民を雇用して施工する「村方請負」が指定されました。
薩摩藩は難工事箇所を町方請負とするよう請願したが数箇所しか認められず、派遣された薩摩藩士947名、現地雇用を含めて2千人とも伝えられる大工事になりました。工事期間は2期にわたり 1年3ヶ月(実質10ヶ月)。

1766年の第3回(萩藩・岩国藩・若狭藩)工事では過酷だった宝暦の事例を踏まえた反省から、町方請負や幕府が施工する「お金御手伝」が取り入れられ、更に第4回から第16回まで続いた御手伝普請は、藩が直接施工せず費用負担だけを求めれれる方向に変質して行ったとのことです。16回の普請で御手伝(1~4回)を求められた藩の合計は48藩。
資料をリンクしておきますが、細かい字で判読困難な部分があります。56号 p.10-12, 57号 p.9-14

対象が本題の高須藩から少し拡大してしまいましたが、高須輪中付近の江戸時代の治水事業について記しました。
江戸時代の藩は独立国のように扱われる一面がある反面、美濃のような複雑な地を水害から守るためには、幕府の権威による「御手伝普請」という強制的な経済協力制度も必要でした。
江戸時代初期、金鯱の名古屋城造営の時とは制度が変っていますが、豊かな田園に恵まれることになった美濃高須藩の姿を見ると、親藩大名を優遇する政策という点では類似するように思いました。

美濃高須藩より後の時代になりますが、明治以降も国営の治水工事が引き続き実施されました。
この木曽川改修工事の時期は、1889年に全国で実施された 町村制施行と重なっていました。
これが、他の府県で行なわれた「明治大合併」を 岐阜県では同時に実施できなかった一因であろうと思われます[79347]
更に濃尾地震・日清戦争もあり、とうとう明治30年の「郡と町村とをひっくるめた再編成」[70814][70820]にずれ込みました。

岐阜県には、この明治30年再編成で、海西郡と下石津郡に由来する新郡名として「海津」 が誕生しました。
この地名は 昭和大合併での海津町に引き継がれました。
海津町誕生当時の「高須輪中」は、東の木曽川・長良川と西の揖斐川とに挟まれた“陸の孤島”に近い状態でした。
しかし、1980年以降に木曽三川の長大橋が相次いで開通し、この豊かな穀倉地帯は陸上交通も便利になりました。
鉄道は通っておらず、私には行けない場所だったのですが、2年前岐阜オフ会の翌日に EMM号に同乗する機会を得て、この地域を訪問することができました[82265]

平成大合併で市になる際に、一旦は「ひらなみ市」[9775]が選定されました。
落書き帳でも賛否両論ありましたが、結局は海津市に落ち着いた[28842]ことは、みなさんの記憶する通りです。
[86719] 2014年 11月 23日(日)22:45:16【2】hmt さん
津の守坂 (2)屋敷があった荒木町、4兄弟長兄の徳川慶勝
今回のシリーズ。そのタイトル・津の守坂(つのかみざか)は、現在の新宿区荒木町にあります。
執筆の動機は、江戸時代 この地に上屋敷を構えていた尾張徳川家の分家・松平摂津守家(四谷家=高須松平家)とその屋敷に生れた四兄弟をテーマにした特別展でした。しかし、前回[86697]は 所領であった美濃高須や、木曽三川の治水工事に筆を費やし、特別展で紹介された江戸屋敷や人物について語るには至りませんでした。

高須松平家。それは治水の面で幕府から多大の支援を得ていただけでなく、「江戸定府」で参勤交代の義務を免れていた特殊な大名でした。
江戸で育って一生を江戸で暮す定めですから、美濃でなく江戸こそが「津の守」兄弟のふるさとなのでした。

江戸の武家地には町名がないので、荒木町という地名が現れるのは明治の地図です。
『明治十一年実測東亰全図』[78145]を見ると、陸軍士官学校になった尾張徳川家の上屋敷跡【市ヶ谷台】の南西に 四ツ谷荒木町の文字と高須藩上屋敷庭園跡の泉水が見えます。
市民に開放された庭園は新しい木【アラキ】で整備され、明治時代 この付近は芝居小屋・料理屋・芸者屋のある盛り場になったようです。「策(むち)の池」の一部と津の守弁天の祠は現存。
なお、現在の新宿西口・昔の角筈村にあった高須藩下屋敷にも「策(むち)の井」があり、こちらは[44125]で触れています。

[86697]で記したように、四谷家つまり松平摂津守家の最大の責務は尾張徳川家の後継者確保なのですが、実際問題としては 実子による相続だけで続けることは困難です。
8代将軍吉宗の政策に反対して敗れた第7代尾張藩主宗春の後 第8代尾張藩主になった宗勝は、四谷家第3代でした。これは当初目論見通りのスペア役を果たしたように見えます。
しかし 実は四谷家の実子ではなく、スペアのスペアである川田久保家からの養子だったのです。

大名家というのは、こんな具合に複雑な養子関係によりようやく維持されていました。
四谷家第9代の義和(よしなり)は水戸徳川家第6代治保(はるもり)の次男でした。つまり幕末近くの四谷家は、尾張の分家ながら 水戸の血筋 になっていたわけです。

高須藩第10代の松平義建(よしたつ)は 義和の嫡男で、その正室・規姫(のりひめ)も水戸家から来た従姉妹【治保の孫、有名な徳川斉昭(水戸家第9代)の姉】でした。
この夫婦の子が 12代将軍家慶の時代に尾張家14代を継ぐことになる徳川慶恕(よしくみ)、つまり高須四兄弟の長兄・慶勝です。

彼は御三家筆頭の立場ですが尊皇攘夷派で、安政5年(1858)に 大老井伊直弼が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印すると 徳川斉昭・一橋慶喜[43497]・松平慶永【春嶽】らと共に江戸城に押しかけて(不時登城)これを糾弾しました。
しかし、この抗議行動は当局側の弾圧【安政の大獄】を招き、慶勝も戸山の下屋敷での幽閉蟄居処分を受けました。

多趣味な文化人の彼は戸山謹慎の期間も有効に活用したのではないでしょうか。
書や博物学【注】だけでなく、写真術の研究家でもあり、撮影だけでなく自ら調合した薬品で現像も行いました。
【注】博物学への傾倒
 昆虫標本の作成。植物の精密なスケッチ。 四兄弟の写真 の背景に『草花図画帖』収録の作品が使われています。

慶勝(よしかつ)という名は、万延元年(1860)の復権【注】後に改めた名で、14代将軍家茂の補佐になり、将軍上洛に先立ち文久3年(1863)から朝廷と幕府を一体とする安定体制を築くべく京都での国事周旋活動を始めます。
【注】謹慎を解かれたが慶喜・慶永との面会・文通は禁止。正式の赦免は文久2年(1862)。

京都では異母弟の会津藩主・松平容保が京都守護職として黒谷の金戒光明寺に陣を構えており、この会津と薩摩が組んだクーデターから長州追放、禁門の変、第一次長州征伐へと政局が動き、慶勝は征討軍総督を勤めました。

慶勝は参謀になった薩摩藩・西郷に交渉させ、内部対立のあった長州藩相手に戦わずして決着させました。これは将軍後見役だった慶喜から見れば生ぬるい処置であり、後に復活した長州によって徳川政権が崩壊するに至った原因であったとも言えます。

慶勝は慶応3年(1867)の大政奉還後の上洛時に新政府の議定に任命され、小御所会議に出席。徳川慶喜【母方の従兄弟】に辞官納地を催告する役目を負わされました。そして鳥羽伏見の戦い後には慶喜逃亡後の大阪城受け取り。徳川御三家の筆頭として体制を守るべき尾張家なのに、新政府側としてこのような役割になってしまったのは残念なことだったでしょう。

新政府の地方官として府県と並列する「藩」という言葉が登場したのは慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の政体書でした。
この時点で正式の改称があったわけではないと思いますが、幕藩体制時代から慣習的に呼ばれていたと思われる「尾張藩」が、新政府の地方組織である「藩」として再発足したので、便宜上これから先は「名古屋藩」と呼ぶことにします。名古屋藩という呼び方は、明治4年の廃藩置県で「名古屋県」に改められるまで使われました。

…というわけで、幕藩体制下において大名家系を存続させるスペアとしての存在意義を失った高須藩は、明治3年12月23日に廃止され、名古屋藩に編入合併される形で幕を閉じることになりました。太政官布告 M3-979 及び 980
[86730] 2014年 11月 25日(火)23:01:47hmt さん
津の守坂 (3)高須の松平義比から尾張の徳川茂徳へ、隠居玄同から御三卿の一橋茂栄へ
徳川慶勝に続く高須松平家4兄弟の2人目は、10代義建の五男【夭折2人あり実質三男】として誕生した茂栄(もちはる)です。
幼名鎮三郎。元服後は建重・義比・茂徳・玄同・茂栄など多数の名が使われていますが、便宜上統一して使う場合は、慶応元年に最終的な名になった茂栄にします。

過去記事では 尾張藩主時代の「徳川茂徳」を使っていました。今回の御三卿当主の実名も、正式には「徳川茂栄」ですが「一橋茂栄」という形で使われることが多いと思います。

部屋住みのまま一生を過ごす可能性もあった分家の五男。それが3万石の高須藩主「松平義比」(よしちか)に始まり、約62万石の尾張藩主徳川茂徳(もちなが)へ、そして御三卿の一橋茂栄へと 3つの家を相続するに至ったのは大出世です。
それは激動の幕末の中心で活躍した人物だからですが、彼の名をあまり知らなかったのは 私だけではないと思います。

彼が高須藩11代の跡継ぎになれたのは、長兄の慶勝が名古屋の本家を継ぎ、その次の武成(たけしげ)が石見国浜田藩を継いだためでした。
なお 慶勝と武成は正妻の子ですが、茂栄は異母弟です。慶勝・茂栄・容保・定敬は4兄弟と言ってもすべて腹違いでした。

安政の大獄の時代、一橋派の兄・慶勝が戸山に謹慎させられ 尾張家15代を継いだ彼は 14代将軍家茂の偏諱を得て徳川茂徳と改名しました。慶勝に続き 四谷家は尾張家のスペアの役割を担ったわけですが、前藩主の政策を支持する家臣団の統制にも苦労があり 彼にとって 本家藩主の荷は重かったようです。
結局尾張藩の実権は 復権した やりての兄に握られてしまったようで、文久3年(1863)には 33歳で隠居。玄同はその号でした。

14代将軍家茂から再度の偏諱による 茂栄 の名を賜った慶応元年(1865)には35歳。この頃には 15歳年下の将軍と親しい関係にあったようで、第二次長州征伐で上洛した家茂の補佐役的な立場で働きました。

この年横浜に赴任してきた英国公使のパークスは、外国嫌いの孝明天皇が拒否している通商条約の批准を求め、条約4カ国(英仏米蘭)の連合艦隊を兵庫に送り込み、日本を威嚇しました。
これに対する幕府と朝廷の二元外交。対応はモタモタし、遂に家茂が辞任まで言い出して条約勅許を求める状況になり、孝明天皇も止むなく3港開港の通商条約を許すことになりました。パークスの軍事力示威作戦が成功したわけです。
茂栄は この間 苦悶する家茂と 朝廷との間の調整に尽力。家茂からは「今後親とも思う」という心情が伝えられました。

茂栄は江戸に帰った後、大阪城での日々を偲んで家茂像を描きました。
茂栄自身が撮影した写真が残されていますが、残念ながらその画像は Webで未発見です。現物は天璋院に献上後焼失。
茂栄が描いた顔に御用絵師が陣羽織の立姿の体を加えたものと考えられており、首の角度が不自然です。
和宮はこの絵を「異風」であるとして不満であり、茂栄は書き直した束帯姿の画像を贈りました。 こちらの絵は Wikipediaに掲載されています。

茂栄への処遇として、家茂は生前に清水家相続の内命を与えていました。御三家の元当主が御三卿になるのは異例ですが、家茂は親しい茂栄を側に置きたかったようです。家茂の死によってこの話は中止されましたが、兄慶勝の請願もあり、慶喜が将軍になったために空席になった一橋家相続ということになりました。清水家を継いだのは慶喜の弟・徳川昭武[43497]でした。

そして慶応4年(1868)の戊辰戦争。その後始末の段階で、茂栄は徳川本家の総代として 嘆願活動の中心になりました。
3月には江尻まで出向いて、東征大総督の有栖川宮から朝敵になった慶喜への寛大な処分の了承を得ました。
徳川家の存続についても田安亀之助[85225]による相続が認められ、駿府70万石を確保することができました。

御三卿は将軍の家族という立場だったのですが、一橋家は田安家と共に明治元年(1868)5月に至り初めて藩屏に列し、徳川宗家から独立した藩【一橋藩・田安藩】が成立しました。
しかし、3つ目の藩主になった茂栄の「一橋藩主」時代は束の間に終りました。

翌明治2年に出願した版籍奉還願に対する新政府の回答は、諸藩と違う形の処置でした。
茂栄はそれに従い、家政に従事する家臣138人を残し、他の1432人の家臣には暇を出し最寄りの地方役所所属とすることになりました。年貢も地方役所が徴収。新政府による「廃藩」のテストケースにされたようです。

藩知事表 に続く 151コマには一橋茂栄の名が見えます。
しかし、その頭に「知事」が付けられていないことにより、一橋藩が廃藩されたことが示されています。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示