都道府県市区町村
落書き帳

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[90100] 2016年 3月 23日(水)19:57:11hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (1)入間市と狭山市
「人口異動を伴う境界変更」のリリース[90092]ありがとうございます。人口のからむ境界変更に関する過去記事を検索してみたら、2012年9月[81821]から10月にかけて急増した時期があったのですね。
その頃から始まった YTさんによる情報提供も、今回の形で結実に至ったことをお祝いいたします。

このサイトにおける境界変更の取り扱いについては、それより前から 変遷情報との関連で問題にされていました。2007年の[56539]あたりが、代表的な記事と言えるでしょう。

それはさておき、人口異動と言っても、その数は 1桁と2桁が大部分です。今回示された1980年以降の国勢調査で該当するとされた77組の中で人口異動の値が100人以上になる組み合わせは僅か14組でした。
その中で突出して多かったのが、1983/4/1 入間市と狭山市との境界変更で生じた数百人の人口異動でした。

狭山市の増加887と入間市の減少877の差 10人の行方もさることながら、それ以上に「境界が変更された場所」が気になります。

数百人もの異動にもかかわらず 市区町村変遷情報からは無視されているので、自治省告示で地名を確認しました。
狭山市に編入する区域は「入間市大字黒須」の一部でした。
入間市に編入する区域の中には、「狭山市入間川字飛地」という地名もありました。

現在の地図では入間市駅の北側にある「黒須」の方が目立ちますが、線路沿いに池袋方に約2km進んだ入間基地南端付近にも大字黒須が残っています。
黒須は扇町屋と共に豊岡町の市街地を形成した地名のようです。参考:黒須銀行

航空自衛隊入間基地の前身は米軍のジョンソン基地です。
戦前にあったのは 陸軍航空士官学校(修武台)ですが、現在の入間市である豊岡町黒須で開校後に、敷地が入間川町【現在の狭山市】側に拡張され、現在では本部所在地も狭山市になっているものと思われます。[87268]参照

入間市の基地跡地利用に関する年譜には、昭和57年に「ジョンソン基地跡地内行政境界変更案」について入間・狭山両市が合意し、翌年実施されたとあります。
異動した数百人の人口は、入間基地内宿舎の住民たちであったと理解できます。
[90105] 2016年 3月 24日(木)19:05:47hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (2)埼玉県入間郡東金子村 改め 西武町
[90100]を書いているうちに西武池袋線入間市【豊岡町から改称1967】と飯能の間、仏子(ぶし)・元加治という駅が続くあたりに「西武町」という自治体があったことを思い出しました。[12847][55648]

タイトルに記した関係市町村の変遷情報を もっと詳しく書くと 次のようになります。
1889/4/1(明治合併、町村制) 高麗郡(野田村+仏子村→)元加治村、飯能町、入間郡東金子村、豊岡町など成立
1896/4/1(郡再編) 入間郡・高麗郡など→入間郡【以下、郡名省略】
1943/4/1(戦時合併) 飯能町、元加治村など→飯能町新設
1954/1/1(市制) 飯能町→飯能市
1954/4/1(境界変更) 飯能市の一部【旧・元加治村の区域】が東金子村に編入
1954/4/1(町制) 東金子村→東金子町
1954/4/1(名称変更) 東金子町→西武町
1956/9/30(昭和合併最終日) 豊岡町、西武町の一部【旧旧・東金子村の区域】など→武蔵町新設
1966/11/1(改称/市制) 武蔵町→入間市
1967/4/1(編入) 西武町【旧・元加治村の区域が残っていた】→入間市に編入

複雑な変遷ですが、ポイントになる1954/4/1の境界変更に注目し、国勢調査記録によって人口異動を調べます。
[81919]には統計局からの情報が紹介されています。1954年のデータは昭和30年国勢調査です。
左端の昭和30年から統計表一覧を開き、末尾の13に掲載された「付表2…境界変更…一覧表」を見ると、注釈と県別データで合計4ファイルになっていることがわかります。これが右端の「PDF1,PDF2,PDF3,PDF4」に対応するので 埼玉県のデータは「PDF2」にあると判ります。これを開いてみると「55ah02b.pdf」というファイルで、飯能市は25/32コマに掲載されています。
29.4.1 (境)  一部の地域が入間郡東金子村へ   昭和25年人口 △5155
これで、昭和25年に飯能市として数えた人口は、境界変更により5155人減ったことが知れます。

念の為に人数の増加を東金子村のデータで確認したいところですが、昭和30年国勢調査時には既に消滅しています。そこで次コマの西武町を見ると
29.4.1 (名)  入間郡東金子町 34)が西武町になる   昭和25年人口 8627
注記の 34)【28コマ】には、東金子村イ) が東金子町になったこと、続くイ)の4行目には「飯能市の一部(5155)が東金子村に編入」が記されています。

S25の人口3472人だった【面積5.80km2の】東金子村には、【面積は4.78km2とやや小さいが、人口は1.5倍近い】旧・元加治村の区域の人口5155人が S29の境界変更により加わり、8627人【西武町境域のS25人口】になりました。
なお、面積は戦前唯一のデータである 『昭和十年全国市町村別面積調』 の値です。

このシリーズのタイトル「大きな人口異動を伴う境界変更」の極端な事例のように思われます。
[90145] 2016年 3月 30日(水)19:17:43【2】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (3)県境の事例
人数では[90105]の5000人以上に及ばないものが大部分ですが、hmtが ずっと注目して 落書き帳に書き続けてきた 県境変更の事例中には、かなりの人口異動を伴うものもあります。

大正9年以来の「都道府県間の境界変更」は、[90107]で紹介されているように 国勢調査の一覧表 参考6 に集められています。
今回は、その中から人口異動を伴うものを抽出し、面積異動や関係過去記事、変遷情報収録状況と共に示すことを試みました。

県境変更に伴う面積異動の値については、栃木県「入飛駒」のように過去記事[79559]に記した例もありますが、ほとんど未調査でした。栃木県菱村や京都府樫田村のように「村ごと」の場合は、変更前の1955年国勢調査に村の面積があるので容易に知ることができます。
2005年に県境変更した長野県山口村の場合は、国土地理院の2004年面積調の値が使えます。

では、分村のケースで面積を知るには? 
1958年に境界変更により分村し、翌日岐阜県白鳥町に編入した 福井県大野郡石徹白(いとしろ)村を例に 計算で求めてみます。

一部を福井県に残すために 前日実施した境界変更(分村)による面積異動を計算します。
1955年当時 (178.22+128.29=)306.51km2であった穴馬2村の面積が、1960年和泉村332.26km2となっていることから、福井県に残留した面積は 25.75 km2であったことが判ります。
越県合併の相手方・岐阜県郡上郡白鳥町の面積は、石徹白村併合により22.39から110.78へと88.39 km2増加しています。
合計114.14 km2は、1955年の石徹白村面積103.07km2と少し合いませんが、岐阜県に越県合併した面積が大部分であることは知れます。人口異動も1297人で、昭和30年国勢調査人口1402人の大部分です。

1955/4/1に岐阜県恵那郡三濃村から愛知県東加茂郡旭村に越境した事例の面積異動も、同様の計算で求められると思ったのですが、1950年国勢調査は人口だけであり、面積がなかったので1955年面積との比較ができません。
現在の地図で見ると豊田市浅谷町(あざかいちょう)を主とし、須渕町の部分もあるので、豊田市の町別面積人口表から両町の面積を加えて、越境合併した面積は 5.59km2と見積りました。

2010年 前小屋の県境手直しにおいては、面積調でも交換した面積異動の差0.83km2迄しかわからなかったのですが、変遷情報の詳細には深谷市への編入119.6haという値が記録されていました。

こんな具合に、いろいろなデータから面積異動の値を求めて作ったのが、下の表です。
面積異動の値が不明や、計算不一致で信頼できない結果となった地域も含まれています。ご容赦下さい。
境川を挟む領地の交換について:人口異動は国勢調査の実数(4件合計61人)が示されていますが、面積異動は「無人地帯と併せてほぼ0」の差額で発表されており、面積異動の実態は不詳です。

都道府県境に関係する人口異動を伴う市町村変遷情報(大正9年国勢調査以降)【注】

関係自治体(数字は県code)地域名*日付人口異動(人)面積異動km2記事変遷情報
08新郷村→11川辺村伊賀袋1930/7/1 144?[78789]境界変更
08河内村→12栄町利根川1956/1/1930.71[79523]の6番未収録
09田沼町→10桐生市入飛駒1968/4/15575.65[54264] [79523]の17番[81913]未収録
09菱村→10桐生市菱村1959/1/1572421.90[2878][14592]編入
09足利市←10矢場川村矢場川1960/7/131313.66[2878][14616] [79523]の9番境界変更
10太田市→11深谷市前小屋2010/3/11391.20[79438][79661] 境界変更
11元狭山村→13瑞穂町元狭山1958/10/1521303.53[4049] [54264] 編入
11戸田町→13板橋区舟渡1950/4/1289 [65713] 未収録
11横曽根村→13岩淵町岩淵1926/10/1412 [65713] 境界変更
13町田市→14相模原市境川1999/12/13[79523]の32番未収録
13町田市←14相模原市境川2004/12/142[79661] [79523]の35番未収録
13町田市←14相模原市境川2007/12/110[79523]の38番未収録
13町田市←14大和市境川1985/2/16[79523]の28番未収録
18石徹白村→21白鳥町石徹白1958/10/15129788.39[31291][54264]編入
20神坂村→21中津川市神坂村1958/10/15143236.53[25925][54264] 編入
20山口村→21中津川市山口村2005/2/13204024.67[46924][54264] 編入
21三濃村→23旭村浅谷*1955/4/118055.59[46981][54264] [79523]の5番境界変更
26亀岡市→27東能勢村牧・寺田*1958/4/13868.08[79559] [79523]の8番境界変更
26樫田村→27高槻市樫田村1958/4/188918.00[31152][54264] 編入
33日生町→28赤穂市福浦1963/9/116407.50[41400][46914] [79523]の11番境界変更
34八鉾村→32八川村三井野原*1953/12/1571.01[90148][79523]の2番未収録

* 地域名のうち、従来使っていた三濃村などの旧町村名は 現在ではあまり使われなくなっていました。
これを今回改め、現在の地図でも見ることのできる 浅谷(あざかい)、牧・寺田、三井野原にしました。

【注】
1 この表よりも前の明治時代には、特別法による県境変更が行なわれました。[85062]の前半は特別法による事例です。後半は県境にある自治体の境界変更による事例で、この記事の表の旧版と言えるでしょう。
2 この表の21件のうち、人口異動最大の菱村を始めとする6件が「編入」として変遷情報に収録されていました。いずれも元の自治体の消滅を伴うもの、すなわち廃置分合の1種としての編入です。
変遷情報に「境界変更」として収録された7件の大部分は自治体の領域が変るだけで消滅しないものですが、矢場川村と三濃村のケースは分村によって消滅しました(廃置分合)。
変遷情報未収録の8件は主として比較的小規模の境界変更ですが、入飛駒だけは未収録で残されていることを不自然と感じさせるほどの規模です。
[90517] 2016年 5月 18日(水)13:09:49hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (4)東葛市の75日
東葛市という名をご存知でしょうか? 
昭和合併時代の1954年、千葉県東葛飾郡柏町など4町村の合体により登場した市ですが、由来である東葛飾郡には 既に市川・船橋・松戸・野田の4市が誕生しており、5番目なのに今更…という市名です。
そして、この名で存続した日数は僅かに75日で、市区町村雑学 短命の市 の第3位に挙げられています。

やはり曰く付きの履歴がありました。
そこには シリーズのタイトルである 大きな人口異動を伴う境界変更 が関係していました。
変遷情報を見ると 短期間に4回も登場しています。下表は変遷情報の表記をやや改めており、1950年国勢調査に基づく東葛市→柏市の人口と その増減【注】とを付け加えてあります。

日付変更種別自治体名変更対象/変更内容東葛市の人口異動
1954/9/1新設/市制東葛市←東葛飾郡 田中村, 柏町, 土村, 小金町41504
1954/10/15境界変更松戸市←東葛市の一部-7139
1954/11/1編入東葛市←東葛飾郡富勢村の一部+4108
1954/11/15改称柏市←東葛市38473

東葛市~柏市誕生ものがたり~にも 4町村合併に反対運動があった旧・小金町の帰属についての記載があります。副知事から提示された無投票分離で決着。
柏との合併を議決した議会と異なり、住民の意向は明らかに松戸志向で、投票するまでもなかったようです。
松戸市に境界変更した地域の人口【注】は 7193人で、旧・小金町【1950年国勢調査7326人】の大半でした。
【注】人口データ出典
[81919]にリンクされている昭和55年調査報告書の「PDF2」をクリックすると 55ah02b.pdf が出ます。その末尾近く31/32コマの注16) 最終行には「29.10.15 東葛市の一部(7139)が松戸市に編入」と記されています。
総務省告示に基づく変遷情報詳細と併せ、境界変更の地名と人口異動とを知ることができます。

この7139人は [90105]西武町の記事で シリーズタイトルの「極端な事例」と紹介した5155人を更に上回っており、1950年国勢調査以降に行なわれた「市町村の境界変更」の中で 史上最大の人口異動であると考えられます。
「政令指定都市の行政区改変」に関しては10万人規模の人口異動もありますが、これは考慮対象外です。念のため。

富勢村編入に伴う4108人も かなりの規模の人口異動でした。昭和合併に際して 富勢村の意見は 我孫子町と柏町とに分かれており、結局分村編入することになりました。こちらは「廃置分合」として扱われるので、「境界変更」の通常の用法からは外れます。

それはさておき、シリーズタイトルの主役である 松戸市への境界変更に話を戻します。
Web内には、公的なデータだけでなく、60年以上前から語り伝えられた話も伝えられていました。
境界変更の実態を探求する目的を持つ私達にとっても 興味ある歴史が伝えられていると思われるので、幻の東葛市をリンクしておきます。
松戸市立図書館には 詳しく書いた書物があると紹介されています。

小金町を挟んだ松戸と柏との三角関係は、地元では有名な話かと思いましたが、60年を経た現在では 人々の記憶から失われつつあるようです。千葉県議会議員をされている方【当時は幼稚園】のブログによると、家でも学校でも聞くことなく育ったようでした。
[90556] 2016年 6月 4日(土)18:13:00【1】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (5)1960年代と1970年代
このサイトの「都道府県市区町村変遷情報」は「廃置分合」が盛んに行なわれた平成合併時代の「市町村合併情報」からスタートしており、「廃置分合」情報を柱として進んで来ました。
しかし、次第に「境界変更」情報の重要性も認識され、その方面の情報充実も課題になってきました。

改めて言うまでもないことですが、「境界変更」とは何か? その確認から復習します。
「境界変更」が自治体【市町村、特別区、都道府県】の区域の変化を伴う変更であることでは「廃置分合」と同じです。
「廃置分合」と「境界変更」との違いは、法人格の変動【新設や廃止】の有無。それだけです。

「廃置分合」は、複数の自治体の合体などにより新たな自治体を設置する「置」と、編入合併などの形による「合」を中心に実施されています。これに少数例である「分」【分割と分離】も含め、市制町村制施行(1889年)以降の変遷情報が ほぼ洩れなく集積されています。

唯一 配慮が十分に及んでいないと思われる「廃置分合」情報は、町村廃止の情報です。
新設合併や編入合併という形で町村が「丸ごと」移行する場合は、特別の記録表示がなくても、旧自治体の廃止を伴うものであることは自明です。
記録しておく必要があるのは、分村編入による消滅です。
実は分村編入の大多数は消滅につながっているのですが、少数ながら複数の分村があっても、なお母村が残るケースがあります。従って、分村編入については消滅か存続かの区別の記録が必要です。

変遷情報記録を語るうちに 話が少し逸れましたが、本題の境界変更情報に戻ります。
2016/3/21にグリグリさんから 人口異動を伴う境界変更一覧がリリースされました[90092]。現在のところ、その対象は1980年代以降です。正確に言えば、昭和55年国勢調査の行なわれた 1980/10/1より後の35年間に実施された「境界変更」のうち、人口異動を伴うもの 77組が記録されています。

このシリーズの第1回[90100]で取り上げた「入間市と狭山市」は77組の中で最大の人口異動を伴った事例でしたが、その数は数百人止まりでした。しかし、これに触発されて過去の事例を探しているうちに、昭和合併時代には数千人規模の人口異動を伴う境界変更事例があったことを改めて認識しました。例えば 西武町[90105]や 東葛市[90517]

こうなると、過去に数百人、数千人という大きな人口異動を伴った境界変更事例を具体例で集めたくなります。
幸い、グリグリさんが統計局に問い合わせた結果得られた資料[81919]が、情報源として利用できます。
これによると、「人口異動を伴う境界変更」の情報は昭和30年国勢調査分以降について入手可能であり、昭和55年国勢調査までがPDFで公開されています。

国勢調査に基づく境界変更/人口異動データのまとめ。ご隠居仕事として挑戦してみるか。
先ずは 既にリリースされている1980年代以降につながる 1970年代と1960年代の20年間から。

自治体Aの「一部」の地域が その「人口」と共に 自治体Bに変更される 境界変更
これを「国勢調査報告書付表3 市区町村の廃置分合境界変更名称変更一覧表」から抽出する作業手順:
1. 一覧表を目視しつつ異動地域の中の「一部」という語句に注目し、人口変化がゼロでない記録を抽出する。
A→Bの異動があると、Aには負、Bには正の人口変化が記録されているので見落し防止に役立つ。
2.抽出結果は変遷情報と対比し、廃置分合に該当しないものを境界変更とする。
例えば、1962/4/1に宮崎県児湯郡東米良村5231人は 西都市に4421人、木城村に810人が編入されて消滅した【人口は1960年国勢調査人口】。「一部」というKWからの抽出結果には含まれているが、これは廃置分合の一種である「編入」として記録されており、境界変更には該当しない。

結果を集計すると、20年間の境界変更は175組でした。
人口異動最大は 1961/4/1 兵庫県美方町→村岡町の 4506人。[90315]末尾に記載したように、1955年までは射添村だった地域です。
以下 岡山県日生町→兵庫県赤穂市の 1640人、青森県弘前市→大鰐町の1430人、長崎県時津町→長崎市[81913]の 1087人、埼玉県杉戸町→庄和町 993人、高知県本山町→土佐村 706人と続きます。
リンクから知れるように、長崎の事例以外の5件は変遷情報にも「境界変更」と入力されています。
175組のうち、変遷情報入力済みは僅か13組でしたが、5組がトップクラス入賞は立派でした。

昭和合併と平成合併との中間にあって、変遷情報が少ないと思われた20年間ですが、それでも境界変更175組が存在するということは、リリース済みの35年間を上回るペースです。
最初は、大きな人口異動のものだけでも変遷情報に収録していただきたいと思っていたのですが、後に控えている昭和合併を含む10年間(1950年代)のことを考えると、とても変遷情報への入力をお願いできる分量ではないことがわかりました。

せっかく集めたデータなので、後日エクセルファイルの形でグリグリさんにお送りし、その処置を委ねたいと思います。
人口異動の大きさで線引きするのも難しいと思われるので、やはりリリース済みの35年間と同様に、変遷情報とは別の簡易な形式を採用し、データを皆さんに開示していただくのが現実的なのではなかろうかと思っています。
[90578] 2016年 6月 12日(日)11:10:12【3】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (6)人口異動と変遷情報採否の問題 西宮市田近野
「人口異動を伴う境界変更」をテーマにした検討の背景には、都道府県市区町村サイトの大プロジェクトである 市区町村変遷情報【以下単に 変遷情報 と記載】への採否問題があります。
10年近く前の記事ですが、当時担当されていた88さんの考え方を示しておきます。

[56539] 市区町村変遷情報 苦悩日記 No.8 境界変更について、さらには市区町村変遷情報の対象について

この記事では、変遷情報の対象を4段階に分け、従来からの持論である(2)を念頭に、更に進みたい姿勢を示しています。
(1) 廃置分合まで 市町村の増減を主とし、あわせて改称、郡・区設置等を記載
(2) 境界変更(大)まで 実質的に「藩政村」【近世村】の変遷を記載
(3) 境界変更(小)まで 地方自治法第7条にいう「境界変更」すべてに対応
(4) 所属未定地の編入・埋立まで 自治体の範囲が変わるものはすべて網羅

2007年当時は変更種別に含まれていなかった境界変更。その1年後には 正式に変更種別の一つとして追加され[63303]、「大きな境界変更」について変遷情報に追加される道が開けたように思われました。

その後、山奥の独立集落である入飛駒[79559]【面積5.65km2、人口557人】や、村の面積の過半(2.22km2)が市街地化して富山市に編入された 桜谷村[79560]について、変遷情報収録に値する「大きな境界変更」なのではないかという意見が出されました。

しかし、上記2つの意見によって 「近世村」を基礎とする88さんの考え方を崩すことは できませんでした。
[79660]末尾を見ると 88さんは「大字単位であれば変遷情報に収録する」編集方針を見直して、収録対象範囲を少し縮小させることも考えていたようです。

変遷情報への採否が揺れた具体例として、1969年に行なわれた尼崎市・西宮市間の境界変更 を示します。
一旦は下記の2件が変遷情報に記録されましたが、 #2の田近野町は削除され、武庫川河口の #1 が残っています。
#1 1969/4/1 西宮市→尼崎市 平左衛門町【1965年国勢調査人口異動 35人】 変遷情報存続
#2 1969/4/1 尼崎市→西宮市 田近野町 【1965年国勢調査人口異動 553人】 変遷情報削除

#2が削除された理由[65812]
ご指摘の尼崎市西昆陽字田近野の区域を西宮市に境界変更するものは、確かに小規模で他の情報との整合がとれていないことから、今回、情報から外しました。

このコメントを読んだ2008年当時は気がつかなかったのですが、上記補足データ【1965年国勢調査人口異動数】から 境界変更 #2 は 境界変更 #1 の10倍以上の人口異動を伴うものであったことを知り(2012年)、#2 が削除されたことに疑問を抱きました。

変遷情報への採否を決める境界変更範囲の大小を決めるのは、近世村が存在した時代の村落規模なのか?
それとも境界変更が実行された現代の集落規模なのか?
問うまでもなく後者が正解でしょう。
こんな考えに基づいて「近世村でないという理由だけで差別したくない」と訴えたのが[81934]でした。

しかし、[81934]は88さんへの直接問いかけという形を整えておらず、しかも折悪しく 88さんの変遷情報作業が中断していた時期[82239]でした。
そして、ご意見を聞くことができないまま 88さんの落書き帳退去という事態になってしまったのは残念です。

余談ですが、田近野に関しては、居住経験のあるuttさん【敢えて懐かしい旧旧名で引用】の記事[9524]があり、「領土交換条約」という呼び方で 上記2件の境界変更にも言及しています。
田近野町って変な町です。【中略】平行に並んでいるアパートを【西宮市と宝塚市の】市境が串刺しにしています。
なんでも昔は尼崎だったらしく、西宮と尼崎で領土交換条約(…)を結んで西宮市になったそうです。

【追記】数棟のアパートを串刺しにしている 西宮市と宝塚市の境界線
[90580] 2016年 6月 14日(火)20:23:42hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (7)昭和の境界変更で 柿崎町飛び地ができたが 32年後に柏崎に復帰
市の変遷・新潟県 柏崎市には 境界変更による組み入れが4件記録されています。このうち 平成元年の境界変更は 昭和合併時代の大きな境界変更で生まれてしまった飛び地の後始末となっており、2010年に落書き帳の話題になりました。
平成はともかく、昭和境界変更では かなりの人口異動があったので、今回のシリーズに再登場させます。関係記事集1

今回の事例のポイントは変遷情報に記録された奇妙な遍歴[74321]です。

1956/12/19  柏崎市が中頸城郡米山村を編入
#1 昭和合併の期限日(1956/9/30)に間に合わなかった。
1957/1/1  柏崎市の一部【大字小萱、大字上輪など】を中頸城郡柿崎町に境界変更
#2 この時の人口異動は 912人。かなり多い。小萱などは柿崎町の地続きで問題なかったが、米山の北にある 上輪・高畔・蕨野の3地区は柿崎町の飛び地になった。

【そして、飛び地状態が32年間継続した後で】
1989/4/1 柿崎町大字上輪あげわ, 大字高畔たかぜ及び大字蕨野の区域を柏崎に境界変更【飛び地解消】
#3 この時の人口異動は 178人と記録されていた。小萱などを含まないので #2より少ないのは当然であったが、飛び地の人口は予想外に少なかった。地名コレクションには「過去の飛び地」が残されていないので、代りに倉田昆布さんのページを付けておく。

1956年に消滅した米山村があった地域は、郡区町村編制法の8村時代から中頸城郡でした。1889年の町村制では南の4村が鉢崎村、北の4村が米山村になりました。1901年の新潟県内町村再編成[90141]で2村が合併して新たな米山村になりましたが、旧鉢崎村にあった駅の名は「鉢崎」のままで、「米山」への改称はずっと後(1961年)でした。
この地域は、米山を主峰とする山地が海岸まで迫っている地形で、文献史料上「米山以北」という表現で知られる「上越」と「中越」との境界地帯です。新潟県文書館

昭和合併当時の米山村は、行政境界である中頸城郡からすれば 柿崎側の「上越」ということになります。
しかし、自然地理的な境界は刈羽郡との境界よりもずっと南側にあり【鉄道や道路のトンネルは米山(鉢崎)―笠島間】、住民の意識としては「中越」つまり柏崎寄りの人々も多かったと思われます。

[74321] oki さん
30年以上たってから出戻るなら、どうして柿崎に出て行ったのか、その理由が知りたいところです。

むじながいり さんの [74348]は このあたりの事情を伝えています。
柏崎派と柿崎派との対立。合併は先送りされていたが、【昭和合併の期限が迫って】県議会は条件付きで柏崎との合併を議決。分離請求の住民投票を経て、上輪などが柿崎を、鉢崎などが柏崎を選んだ。
飛び地になってまで柿崎を選んだのは、昭和の住民投票の結果でした。

このようなケースでは、米山村を分村して 柏崎市と柿崎町とに編入合併する形の「廃置分合」を行うのが通常の処理方法と思われます。しかし、ここでは 先ず米山村全体を柏崎に編入合併し、2週間後に「境界変更」する という2段階処理になりました。国や県から昭和合併を迫られた時間的な制約が、その背景にあったように思われます。

昭和の住民は中頸城郡時代の隣村・柿崎を編入先に選んだ。
しかし、世代も変った平成の住民。柏崎に溶け込み、飛び地の不便を解消する道を選んだのでしょう。

なお、今年になってから グリグリさんによる国勢調査の新ページ作成に際して、平成境界変更の告示と面積調との日付が相違していることが問題になりました。その解明に至る経過も関係記事集2 に集めておきます。


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