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落書き帳

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[9240] 2003年 2月 15日(土)03:14:24【1】でるでる さん
合併情報レス
[9206]はやいち@瀬戸内管領 さん
愛媛県宇摩地区2市2町の新市名が 四国中央市 に決定した模様です。

いつも素早いご報告ですね。ありがとうございます。
宇摩地区の新市名の最終候補5(7)点、宇摩(うま)、ひうち、東愛媛(東えひめ)、四国中央、法皇の中から、委員投票の結果(29票)、「四国中央市」が17票、「宇摩市」が12票(もしかしたら決選投票の結果かもしれません)だったそうです。

「エックスハイウェイが交差する交通の要衝であり、将来、道州制が導入された時に州都を目指すのに好条件を備え、四国の中心地になるようにとの願いが込められている。全国からみても、地理的にイメージできる」(愛媛新聞HPより)
というのが、四国中央市の選考理由となったそうですよ。

#市区町村雑学コーナーの4文字の市に「四国中央市」が追加ですね(まだ先ですが)<グリグリさん

[9208]kenさん [9214]utt さん
私としては、宇摩市が一番いい感じと思ったのですけど。。。

私も個人的に本命は「宇摩市」だと思っておりました。
それと密かに?「法皇市」もイイかなと思ったりもしていたのですけどね。

[9227]りゅうじさん
岐阜県海津郡の合併協議会から、新市名の公募集計結果が発表されました。
公募の多数よせられた順は以下のとおり
海津(かいづ) 海津(かいず) 三川 南濃 木曽三川 治水 濃尾 輪中 水郷

素早いご報告を頂きまして、ありがとうございます。私も郡名そのままに「海津市」になるのではないかと思っております。海津郡3町の新市名の公募上位に名を連ねた名称には、この地域の地理的な特徴を表したものが目立つような印象を受けますね。このような、その地域の地理的な特徴を表した名称には、個人的には好感が持てます。

海津町と平田町は、木曽川・長良川・揖斐川の3つの川に挟まれた低湿地の水郷地帯で、堤防に囲まれた輪中地帯ですよね。また、国営の木曽三川公園もありますし。また、その地理的条件から、宝暦の治水工事に代表されるように水利(治水)事業が繰り返し行われたそうですし、海津町内には宝暦治水工事を請け負った薩摩義士が祀られた治水神社もあるとか。

・・・でも、水郷というと利根川下流域の低湿地地帯を真っ先に思い浮かべてしまう でるでるでした(^^;
特急すいごうと、かつての急行水郷のイメージが強いのかな?

[9236]まがみさん
長野県/東部町・北御牧村合併協議会は、新市名候補を以下の5点に絞り込みました。2月26日の合併協議会に提案される予定です。
東御(とうみ)、東信濃(ひがししなの)、美駒(みこま)、御牧野(みまきの)、湯の牧(ゆのまき)
#引用部分を一部編集させて頂きました。

ご報告下さりまして、ありがとうございます。
私も個人的には「美駒市」と「御牧野市」に好感が持てました。
「東御」は東部町と北御牧村から1字ずつ。「東信濃」は信濃の東に位置。「美駒」は平安時代から官牧だった美しい馬(駒)里ということから。「御牧野」は官牧の歴史と千曲川を挟んだ広大な野原のイメージ。「湯の牧」は観光名所として有名な湯の丸高原と官牧の歴史。というのが選定理由とのことだそうです。

島根県/邑東合併推進協議会は、新町名称の公募を開始しました。

そういえば合併情報の更新がまだでしたね。すっかり忘れるところでした(汗)
まがみさんと同じく、私も「邑東町」が真っ先に思い浮かびました。
他の名称が思い浮かばなかったということもありますが(^^;

はやいちさんも東部町・北御牧村の新市名候補のご報告をして下さっておりましたね。
[9236]の まがみさんとの重複ということで、削除なされたようですが)
どうもありがとうございました。


これらの皆さまから頂いた合併情報は、これから更新致しますので、もう少しの間お待ちくださいね。
いつも本当に助かっております。あらためまして、皆さまには感謝の気持ちを申し上げます。
[20690] 2003年 10月 6日(月)18:04:15【1】YSK[両毛人] さん
木曽三川分流工事の歴史
[20683]深海魚さん
合流しそうでなお、堤防を挟んで河口まで並行する形を採る上記両河川(註:木曽川と長良川)も、何やら含蓄がありそうで独特の雰囲気です。
これは、木曽三川の分流工事によるものですね。
濃尾平野では、木曽川、長良川、揖斐川という大きな川が収束する地勢のために水害に悩まされていまして、居住空間を堤防で取り囲んだ「輪中」を形成してきました。

江戸時代に入り、木曽川左岸(東岸)に西国からの防衛を目的から、尾張徳川家の藩祖となる徳川義直が堤防「御囲堤(おかこみてい)」を築き、木曽三川の合流部ではかえって災害が激しくなったのだそうです。そこで、木曽三川の最初の大規模工事である、「宝暦治水」です。これは、西国の有力大名であった薩摩藩の弱体化を狙って、幕府が薩摩藩に命じた工事のようで、当時の木曽川と長良川は下流部で1つの川になっていたようで、さらに木曽川+長良川と、揖斐川が現在の海津町南端の部分において合流していたため、この工事はこの地点における三川の分流を主目的に実施されたそうです。

長良川と揖斐川の背割堤に「千本松原」があります。その堤防の揖斐川河川敷に、85名の薩摩義士がまつられている「治水神社」があるそうです。

「長良川紀行」千本松原・治水神社
http://homepage1.nifty.com/fuufuyuuyuu/sub5/4tisuiginsya.htm

また、明治期にもオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケによる木曽三川の分流工事が行われ、木曽三川は完全に分流して流れるようになりました。深海魚さんご指摘の合流しそうで河口まで並行する木曽川と長良川との間に背割堤を設け完全分流にしたものです。

「三川分流」ってなーに?
http://www.mint.or.jp/nagashima/html/page14.htm

千本松原の美しい松並木や、木曽川と長良川との間の長大な堤は、このような、濃尾平野における治水工事の壮絶な歴史を物語っているのですね。
[25395] 2004年 2月 26日(木)12:17:54烏川碧碧 さん
どこかで聞いたような名前だったので
[25391] 月の輪熊 さん
#海津町から1票あったとなっている「平田ゆきえ市」って何なんでしょう・・・。
自分の名前を応募したんかい?(爆)
薩摩藩による木曽三川の治水(宝暦治水)の総奉行で、工事後、巨額の費用・多数の犠牲者等の責任を取って切腹した同藩の家老「平田靫負(ゆきえ)」に由来するものと思います。
[25397] 2004年 2月 26日(木)12:45:18BANDALGOM[月の輪熊] さん
平田靫負市
[25395]烏川碧碧さん
薩摩藩による木曽三川の治水(宝暦治水)の総奉行で、工事後、巨額の費用・多数の犠牲者等の責任を取って切腹した同藩の家老「平田靫負(ゆきえ)」に由来するものと思います。
宝暦治水のことは歴史の時間に習いましたが(教科書や資料集に出ていただけかも・・・もう10年以上前なので)、切腹した家老の名は覚えていませんでした。
これは大変失礼しました。

よく考えたら、今の平田町の名前も平田靫負から取ったものなのでしょうね。
さきほど合併協のHPを見ていて、宝暦治水にちなんだ「薩摩」「薩摩義」「薩義」「薩摩三川」「さつま」といった応募名称を発見しましたが、よく見たら「靭負」もありましたね。
でもその上には読みは同じ「幸恵」や「幸江」も・・・
[82265] 2012年 11月 26日(月)16:42:49【1】hmt さん
第9回落書き帳公式オフ会(岐阜オフ会2012) (2)助けてもらいながら 金華山と木曽三川公園へ
岐阜オフ会の第2日。前日に集合時刻を決め、早出の方もいなかったおかげで、20人が揃って朝食の席に着くことができました。
小さなことですが、これはオフ会史上初?

第2日は「成り行き」ということで、帰路名古屋からの「ぷらっとこだま」以外のスケジュールなし。
濃尾平野で行ってみたいところ。前々から漠然と考えていた所は、木曽三川です。
もちろん 長良川は宿の眼前に見えているのですが、もっと下流。人々が自然の力の脅威を感じながらも治水技術を積み上げて、日本有数の沃野を作り上げてきた地帯を目にしたいのです。

ところが、地図で眺めてもかなりの広がりのあるこの地域。ピントを絞ることができないままに、今回のオフ会参加となりました。

朝食の席で、こんな漠然とした希望を述べたところ、EMMさんが金華山の後で海津に行く予定とのことだったので、この海津行きEMM号に同乗させていただくことになりました。

金華山の麓までは、徒歩の海津行のグループとは別に、菊人形さんが車を出してくださいました。
ロープウェイの山上駅からは、予想されたことながら、足の弱い hmtには かなり困難な階段道の連続。
菊人形さんや 中島悟さんには ずいぶん気を使わせ、助けていただきましたが、手摺を掴みながら、どうにか 岐阜城往復を歩くことができました。単独行だったら、昨年帰路の龍王峡[79718]のように、途中で安易にギブアップしたところです。

菊人形さんには「すぎ山」まで送っていただき、ロビーで海津行EMM号・ラガー号を待ちます。ここで、新幹線岐阜羽島駅の時刻を調べておいたのが、後で役に立ちました。

EMM号には星野彼方さんと同乗。岐阜の市街地からは少し外れた岐阜県庁[81195]の近くを過ぎて、木曽三川と共に南下。
大きな岐阜県の中で見るとそんなに離れていないようですが、実際に走ってみると 岐阜県最南端の海津市までは かなりの道程があることを実感しました。

帰ってから調べて 気がついたのですが、ML00048号(2012/11/18)に“EMMのやぼう(笑)”が記されていました。
どうしても次の場所に行ってみたいから。空中写真リンク
東側に名鉄、西側に養老鉄道の駅がありますから、電車で岐阜に行くことになった場合でも行く気は満々なのですが、やはり場所的に車の方が行きやすそうです。

国営木曽三川公園のアクセスマップによると、公共交通機関は“養老鉄道石津駅より海津市コミュニティバス「木曽三川公園」下車”ですが、時刻表を見ると石津駅 9:42発の1本だけしかありません。タクシーを使えば、養老鉄道多度駅 or 名鉄尾西線佐屋駅から行くことができそうですが、基本的に自動車を使わないと行けない場所のようです。
帰宅後に知った情報ですが、オフ会朝食の時に希望を述べなければ、一生涯 hmtの行けそうもない場所だったのでした。

国営木曽三川公園は、3県にまたがる国営公園で、北は岐阜県各務原市、東は愛知県江南市、南は三重県桑名市に及ぶ 11の施設 があります。
中心的な施設と思われる「木曽三川公園センター」の位置。東側の木曽川と背割堤を介して並流する長良川。そこに西側から揖斐川が近づく地点で、岐阜県の最南端・海津市海津町油島という地名です。

ところで、ここから南は、並流する揖斐川と長良川とを分ける背割堤で、治水神社から宝暦治水碑までの間、1km余は千本松原と呼ばれる見事な景観になっています。この 「油島千本松原」 が、EMMさんの目的地でした。

センターで合流し昼食をすませた6人は、水と緑の館の展望タワーに登りました。
360度広がる木曽三川の眺めは、まさに この地ならではの絶景で、堪能しました。1階には 展示室 もあります。
なお 入場料には「JAF割引」があり、やはり自動車で来る所のようです。

施設の南に出ると、すぐに 治水神社。ここから始まる千本松原は、宝暦治水工事 【5/7コマ】の完成を記念して、薩摩藩士が油島締切提の上に植えた千本の「日向松」の苗が、二百年以上の年輪を積み重ねて成長したものと伝えられています。
5人は松林の中をどんどん進みますが、hmtは これに追従できずに落伍しました。
一本道ですから、戻ってくるまで待てば はぐれる心配なし。先に治水神社に戻って待ちました。
後で聞けば、5人は松原の終る 宝暦治水碑 まで行ったとのこと。ここが正真正銘の岐阜県最南端で、東側の長良川水面上が 岐阜・三重・愛知の「三県境」(28番)になります。

足の弱い hmtが参加したために、皆さんのペースを落してしまったようです。
センター北側の駐車場で ラガー号の3人(小松原ラガーさん、かすみさん、まなちゃんさん)と別れたEMM号。
岐阜羽島駅も結構遠く、ホームに上ると同時に、予定した列車が入ってきました。
EMMさんと星野彼方さんには 気を揉ませてしまったことと思いますが、岐阜羽島・名古屋と順調に乗り継ぐことができ、無事に帰ることができました。

多くの方に助けられましたが、とても楽しい岐阜オフ会になりました。ありがとうございます。

【誤記訂正あり】 誤変換に気づかず、失礼しました。
[82282] 2012年 12月 2日(日)18:07:59伊豆之国 さん
Re:第一回クイ図五番勝負・問四「かな回文駅」 &宝暦治水碑(in薩摩)
[82279]の補足です。

[82213]みかちゅうさん
便利な一覧サイトはあるのでしょうか
[82240]いささん
回文 駅で検索したら一覧のようなサイトがありました
ここで白状しますが、私がこの問に該当する駅を探し出すのにまず思い出したのは、今から40年以上も前、小学生時代に買った、元時刻表編集長の佐藤常治氏が著した「駅名旅行」という新書版の本(昭和42年刊・秋田書店)の中にあった「国鉄にある回文駅」の一覧でした。この記事に載っていたのは、漢字でもかなでも回文の「志布志」「瀬戸瀬」、一字一音の「津」、それに下記の19駅を合わせた計22駅でした。

 飯井・石井・糸井・伊比井・岩井・絵笛・折尾・木岐・木次・杵築・楠久・膳所・竜田・田端・田畑・津別・美々・間島・三角

現在、JRにある「かな回文駅」には、「今井」(信越本線・長野)と「海老江」(JR東西線・大阪)が新駅・新線開業で加わった一方、「津別」(相生線・北海道)が路線廃止により消滅、「楠久」(松浦線・佐賀)は松浦鉄道に移管されたため、差し引きすると「駅名旅行」当時と同じ22駅となっています。JR以外も含めると、平成20年に開業した横浜地下鉄グリーンラインの「高田」駅が最新の「かな回文駅」となっています。
再び、[82213]みかちゅうさん
濁点の有無には注意
「高田」と書く駅は、全国に計6ヶ所あるのですが、「たかた」と濁らず回文になっているのはいずれもJR以外なのに対し、JRにあるのは、信越本線(新潟)と和歌山線(奈良)はいずれも「たかだ」と最後が濁り、もう一つ、長崎本線(長崎)にある「高田」駅は「こうだ」と重箱読みで、好対照になっているのが面白いところです。「竹田」と書く駅は近鉄京都線・京都市地下鉄烏丸線(京都)と山陰本線(兵庫)にありますが、いずれも「たけだ」と濁り、大分県竹田市には「竹田(たけた)」という駅はありません(中心駅は「豊後竹田」…[80205])。濁点の差で回文にならない駅は、この他「白馬(はくば)」「春日(かすが)」など、結構多そうです。

話は変わって、「木曽三川治水工事」にまつわる話題を。
[82265]hmtさん
並流する揖斐川と長良川とを分ける背割堤で、治水神社から宝暦治水碑までの間、1km余は千本松原と呼ばれる見事な景観になっています。この 「油島千本松原」
治水神社。ここから始まる千本松原は、宝暦治水工事 【5/7コマ】の完成を記念して、薩摩藩士が油島締切提の上に植えた千本の「日向松」の苗が、二百年以上の年輪を積み重ねて成長したものと伝えられています
私がこの「千本松原」「宝暦治水工事」のことを知ったのは、松本清張・樋口清之氏著「南紀の旅・伊勢志摩」(昭和44年刊・光文社)というこちらも新書本でした。この中で、最後のほうの「北伊勢・伊賀」の最初に「千本松原」という項目があり、徳川幕府の命によりこの地域に何の縁もゆかりもない薩摩藩にこの治水工事を命じ、巨額の借金や言われなき中傷・侮辱などに苦しめられ、藩士の切腹を初め多数の犠牲者を出しながらもこの一大プロジェクトをともかく成し遂げたこと、しかもその「ご褒美」がわずか50着の着物だけだったという馬鹿げた話だったこと、薩摩藩自体もこの工事の出費で更に財政が悪化し、こうしたことが積み重なって幕府への反感を増幅させ、幕末になって薩摩を倒幕に走らせる一大要因になったこと、工事の犠牲者への評判は芳しくなく、その業績が見直されたのは明治になってからであった、といったことなどが書かれています。
ところで、私は先の夏休みに鹿児島・宮崎方面の旅に出かけ、鹿児島市内のホテルに宿泊した翌朝の散策で鶴丸城跡などを見てきたのですが([81852])、そのときに城跡から城山方面へ上って行く道のすぐ傍らにある、この「宝暦治水工事」の犠牲者の霊を祭った薩摩義士碑を見ています。この碑には、苗字が書かれていない犠牲者の名も彫られており、多くの百姓も工事に駆り出されたことが読み取れて、本で読んだ治水工事の話を思い起こして、胸にジ~ンと思いが込み上げてきたのでした。


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