都道府県市区町村 > 落書き帳 >このページの最後へ ▼

落書き帳記事集東京市周辺町村の人口増に関する記事


記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[3326]2002年9月25日
いろいろと 夜鳴き寿司屋
[3327]2002年9月25日
>[3326] うるう
[7439]2003年1月7日
re:re:24番目の区を考える ken
[8132]2003年1月24日
Re:東京35区の人口 Issie
[17456]2003年6月28日
地下鉄開業の頃 Issie
[27871]2004年5月3日
平塚か平野か 白桃
[35668]2004年12月11日
荏原町の町民、平塚村の村民 KMKZ
[35674]2004年12月11日
渋谷市 Issie
[35704]2004年12月12日
東京市に編入された町村の人口 BEAN
[37397]2005年2月2日
人口13万人の「町」! mul-sa
[37411]2005年2月3日
人口13万人の「町」・荏原町 KMKZ
[37443]2005年2月4日
町とばし うらうら
[74867]2010年4月11日
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5.1)六大都市区域の拡張 hmt
[82041]2012年11月2日
東京市15区を包囲した5郡 hmt
[83695]2013年7月14日
各回国勢調査の「町」人口トップ3 白桃
[83699]2013年7月15日
各回国勢調査の「村」人口トップ3 白桃
[83708]2013年7月21日
東京府荏原郡平塚村 hmt



[3326] 2002 年 9 月 25 日 (水) 01:53:19 夜鳴き寿司屋 さん
 いろいろと

[3299]
 実は「福岡県博多市」とミステロップした番組を見ていました。しかし「博多駅」を大写しに
しても、すぐに間違いに気づき驚きましたが一瞬自然なものに見えた事に、考えてみると不思議ですね。
 たけもとさんが言われるように、最近の報道関係の歴史や地理のミスは結構ありますが、結構地名や人名の読み方の間違いは多いと思います。全国放送でも「岡山県高梁市」を「おかやまけんたかはりし」と読んだりしていましたし。それに人名でも広島カープの選手で苫米地投手がいますが、とても「とまべち」と呼ぶとは最初しりませんでした。

[3301]
 宇野港は所在地の「玉野市」よりも有名ですね。ちなみに玉野の地名は港町の「宇野」と市役所がある付近の「玉」の合成地名だそうです。(宇玉や野玉では語呂が悪いから?)しかし旧国鉄の宇高連絡船の読み方は「うこう」で、民間の宇高国道フェリーの読み方は「うだか」というのは何故でしょうか?

[3305]
 現在の23区と同じ大東京市に吸収合併される前の「渋谷町」や「新宿町」も人口が8万人も
ありながら市制はされなかったのですね。関東大震災以後に東京の人口が郊外に爆発的に広がったためだと思います。
 そういえば森口誠之著「鉄道未成線を歩く私鉄編」(JTB刊)に、昭和初期に山手線のように近郊を環状線で結ぼうとする「東京山手急行電鉄」という挫折した鉄道計画の話が収められていますが、その61ページに当時の東京山手急行電鉄が株式募集の資料に添付されていた東京近郊の都市がいかに人口を抱えているかの地図がありますが、そこの地図の東京郊外の町と地方都市との比較が下記のように書いています。

東京市深川区その人口函館市(と同じ)
   本郷区    金沢市
   小石川区   福岡市
東京府砂町     高田市
   大畠町    秋田市
   亀戸町    富山市
   小松川町   水戸市
   吾嬬町    宇都宮市
   寺島町    長岡市
   墨田町    小田原市
   千住町    長野市
   日暮里町   福井市
   三河島町   静岡市
   王子町    豊橋市
   滝野川町   横須賀市
   巣鴨町    津市
   西巣鴨町   新潟市
   板橋町    岡崎市
   野方町    大津市
   杉並町    姫路市
   中野町    浜松市
   和田堀内町  大垣市
   代々幡町   徳島市
   世田ヶ谷町  松山市
   松澤村    熱海市
   目黒町    岡山市
   駒沢町    尾道市
   荏原町    門司市
   品川町    久留米市
   大井町    高松市
   碑衾町    別府市

 これらの町は東京市に吸収合併されますが、全国各地の市制都市と同じ程度の人口が有していた事に驚きます。細かい数字があれば良かったのですが、戦前の各町村の人口を載せたホームページはどこかにないでしょうか?

[3327] 2002 年 9 月 25 日 (水) 05:35:51 うるう[ゆっ] さん
 >[3326]

大正14年の国勢調査の人口です。全町村をの人口が載っているホームページは、見つけられませんでしたので、手持ちの資料からです。参考になるでしょうか
その地図の年代はもう5〜10年くらいあとかな。資料がちょっと古い時代のものでした。後で、改訂版書きます。とりあえずその当時の町村名です。差が大きいのもいくつかありますが、それなりに人口は近いでしょう。

東京市深川区------160297-----北海道函館市----163972
東京市本郷区------135079-----石川県金沢市----147420
東京市小石川区----152620-----福岡県福岡市----146005
南葛飾郡砂町-------20346-----新潟県高田市-----30897
南葛飾郡大島町-----35420-----秋田県秋田市-----43887
南葛飾郡亀戸町-----57321-----富山県富山市-----67490
南葛飾郡小松川町---24135-----茨城県水戸市-----46527
南葛飾郡吾嬬町-----59921-----栃木県宇都宮市---76138
南葛飾郡寺島町-----39251-----新潟県長岡市-----53156
南葛飾郡墨田町-----21290-----神奈川県小田原町-25330
南足立郡千住町-----52101-----長野県長野市-----66555
北豊島郡日暮里町---56928-----福井県福井市-----59943
北豊島郡三河島町---59252-----静岡県静岡市-----84772
北豊島郡王子町-----60086-----愛知県豊橋市-----82371
北豊島郡滝野川町---82252-----神奈川県横須賀市-96351
北豊島郡巣鴨町-----40148-----三重県津市-------52536
北豊島郡西巣鴨町---98950-----新潟県新潟市----108941
北豊島郡板橋町-----30891-----愛知県岡崎市-----44556
豊多摩郡野方町-----24332-----滋賀県大津市-----33779
豊多摩郡杉並町-----36608-----兵庫県姫路市-----55713
豊多摩郡中野町-----60962-----静岡県浜松市-----92152
豊多摩郡和田堀内村-11663-----岐阜県大垣市-----33639
豊多摩郡代々幡町---51755-----徳島県徳島市-----74545
荏原郡世田谷町-----38068-----愛媛県松山市-----58292
荏原郡松澤村--------7237-----静岡県熱海町-----10406
荏原郡目黒町-------45268-----岡山県岡山市----124521
荏原郡駒沢町-------20991-----広島県尾道市-----27740
荏原郡平塚村-------72256-----福岡県門司市-----95087
荏原郡品川町-------53096-----福岡県久留米市---72221
荏原郡大井町-------58619-----香川県高松市-----71897
荏原郡碑衾町-------17751-----大分県別府市-----37529

5万人を越える町村が乱立状態です。昔から東京への集中は変わらなかったんですね。東京府以外ではこの年5万人を越えている町村は神奈川県鶴見町(50120人)しかありません。ちなみに上に書いた以外の5万人以上の町村は・・・。

豊多摩郡淀橋町----52215人
北豊島郡南千住町--54775人

です。

[7439] 2003 年 1 月 7 日 (火) 16:43:01 ken さん
 re:re:24番目の区を考える
ARC なぜ「葛飾」は複数の都県にまたがっているのか? ARC 東京都再編を考える

[7425] の私の書き込みは、[7409] ヒロオ さんのご提議に対し、一見ちょっと批判的な物言いになってしまいましたが、
「現23区は異常な状態にある」というご主旨には大賛同なのです。

要は
「都市東京」を如何なる存在と定義し、その行政機構としてどういうものが相応しいか。
もはや単なる現行23区の離合集散では解決できる次元ではないのではないか、ということなんです。

例えば、江戸時代の「本郷もかねやすまでは江戸のうち」、「ご朱引きの内」という時の「江戸市中」の朱引きは、何を基準に判断し、どう行政手続化されたのか。
 (参考「かねやす」http://www.travelsite.co.jp/oedo/001.htm

・南葛飾郡を下総国のままでは不都合で、武蔵国に変更すべきと考えたのは何故だったのか。
当時、深川、本所、向島はともかく、砂村や小松川村などは、純農漁村であって、市中になったわけではないのに。
しかし、江戸市中を囲むある一定の周縁部のバッファー地帯は、江戸と同様の武蔵国内にすべき、という発想があったからこそ、付け替えが行われたのであろう。

・当初の東京15区の範囲は如何なる根拠で、東京市と定められたのか。

・1932年の周辺部の新20区の編入、35区化は如何なる判断で、行われたのか。
 当時渋谷町などは8万人を超える人口を持ちながら市制を敷かなかったのは何故?
(関東大震災の影響は十分考慮しなければなりませんが)
<参考>大昔の書き込みですが
[3327] ゆっさん

・1936年北多摩郡の砧村、千歳村を世田谷区に編入、この判断は、何故、誰が、どのように行ったのか?
・これの裏返しとして、同じ北多摩郡のその他の町村は、何故、その後、市街地の拡大にも関わらず、東京市に編入されることがなかったのか?
この点は瑣末ですが重要で、北多摩郡のこの2村が東京市に入れられたということは、旧豊多摩郡、北豊島郡、荏原郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡は東京市にして、「北多摩郡は、府下にしておこう」という発想・判断基準は無かったことを意味します。

・1947年、板橋区を分区したのは何を判断基準に行ったのか?
・1947年、都心部を中心に合区をしたのは何故か?

都府県界は(歴史上も)アンタッチャブルではないですし、
現23区の領域自体、都市の発展とともに変遷・拡大してきたものである。(ある時期まで)

東京市は
1889年 15区にて東京市成立
1932年 20区を加え35区
1936年 北多摩郡砧村、千歳村を世田谷区に編入。現領域に。
1947年 都心部を中心に合区22区に再編。
1947年 板橋区を板橋区と練馬区に分区、23区に。
この間約58年間に以上4回の見直しが行われているが、一方1947年意向は
なんと56年間も、何の変更も加えられていない。
(この間の地域実態の激変については改めて述べるまでもないと思いますが)

単純比較にはなりませんが、横浜市の例を対比してみれば
1889年 横浜市誕生
1927年 鶴見区・神奈川区・中区・保土ヶ谷区・磯子区の5区設置
1939年 都築郡内の9村を編入し港北区に、鎌倉郡内の1町7村を横浜市に編入し戸塚区に。現市域に。
1943年 中区より南区分区
1944年 中区より西区分区
1948年 磯子区から金沢区分区
1969年 南区から港南区分区、保土ケ谷区から旭区分区、港北区から緑区分区・戸塚区から瀬谷区分区
1986年 戸塚区から栄区分区、泉区分区
1994年 港北区+緑区から青葉区・都筑区新設し4区に再編
と18区体制ができるまでにほぼ10年に一度は見直しが行われています。

10年一昔と申します通り、都市の発展と地域行政の見直しが、10年単位くらいでは必要になってくる一例だと思います。
56年間も、その激変にも関わらず、一度も手が入れられていない東京23区は、異常と言えます。
その歴史の前半で出来ていたことが、ある日を境に出来なくなった一因は、「特別地方公共団体」という、異形の自治体となってしまったことも影響しているでしょう。普通地方公共団体であれば出来たことが「特別」であるために出来ない。
その影響度の大きさに比べ、権限が非常に制限されている。
「身長2.2m体重250kgの1歳児」の如き奇形の自治体とでも言いましょうか。「特別」は普通でないということで、良い意味にも悪い意味にもなリ得ますね。

新東京の都市行政を真面目に考えるなら、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の都県界を一度完全に廃し、上尾市、さいたま市、上福岡市、所沢市、立川市、府中市、多摩市、町田市、川崎市、横浜市、習志野市、八千代市、船橋市、鎌ヶ谷市、柏市、流山市、吉川市、越谷市、岩槻市、といった範囲に括られる内側を新「東京都」、あるいは新「東京市」とし、その内部は他の道府県の市町村とは違った、新たな発想の行政区分に再編すべき、
残部の東京都は、現行の都道府県制を継続するなら、埼玉県もしくは神奈川県(これは足柄県にでも名称変更必要ですね)に統合、あるいは、両者に分割。千葉県の残部は千葉県として存続。
(野田市、関宿町は、まあ、ご随意に、という感じですが、すみません。)
という感じです。

[8132] 2003 年 1 月 24 日 (金) 18:55:49【1】 Issie さん
 Re:東京35区の人口
ARC 大都市における行政区及びその人口の変遷

[8124] ken さん
一応解決したみたいですが,手許にこんな数字があります。

区名人口(人)面積(坪)−− 区名人口(人)面積(坪)
(旧市域)(新市域)
麹町区58,7112,505,002品川区179,4963,074,006
神田区129,976937,750目黒区108,2084,454,615
日本橋区107,645942,287荏原区132,1081,753,895
京橋区131,8881,543,960大森区147,3357,076,384
芝区175,7602,603,012世田谷区133,24911,736,699
麻布区864,4931,296,817渋谷区213,5334,608,891
赤坂区60,2341,301,355淀橋区153,5023,041,336
四谷区75,021979,495中野区134,0984,660,013
牛込区129,1321,576,630杉並区134,52910,313,436
小石川区151,4931,833,150豊島区236,7014,011,756
本郷区136,7491,474,082瀧野川区100,7461,572,093
下谷区173,9771,525,205荒川区280,6163,195,309
浅草区241,6951,594,260王子区126,6734,786,458
本所区235,3241,763,830板橋区113,58624,400,559
深川区176,8152,490,785足立区127,50716,186,475
向島区155,5192,355,568
城東区142,9713,078,544
葛飾区84,45610,822,241
江戸川区96,97114,157,304
 博文館編纂部『大東京写真案内』,博文館,1933年(1990年復刻),折込ページ「大東京区域人口面積図」による

ところが,とんでもないことに,この数字がいつのものなのか,記載がないのですね。
推測できるのは,合併当日(1932[昭和7]年10月1日)の推計人口か,直近の国勢調査である1930(昭和5)年10月1日のデータのいずれかだと思うのですが。
それにしても「坪」という面積の単位,時代を感じさせます。

以前に触れたことがありますが,ここでいう「大東京」というのは本来,従来の旧市域15区の範囲に対して,隣接地域も含めた「より広い東京 Greater Tokyo 」というほどの意味で,「偉大なる東京 Great Tokyo 」という意味ではありません。
この写真集では合併当初の「35区=旧市域+隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)」の範囲を「大東京」として扱っていますが,関東大震災をはさむ都市計画(震災復興計画も含む)では,これに加えて「北多摩郡砧村・千歳村」も含めて「大東京」いることが多いようです。どうもこのあたり,この2村があとから東京市世田谷区に編入される伏線になっていたのでしょうね。

[17456] 2003 年 6 月 28 日 (土) 11:09:23【1】 Issie さん
 地下鉄開業の頃
ARC 銀座線をつなげ! ―相互乗り入れによる直通運転を考える―

東京で最初の地下鉄として東京地下鉄道が浅草−上野間を開業したのは1927年末のことでした。この路線は1934年までに日本橋・銀座を経て新橋まで延長されました。
地上の市電で戦後に廃止されるまで“栄えある1系統”を掲げていたのは上野−日本橋−新橋−品川系統であり,この地下鉄路線も当初は品川へ向かう路線として計画されていました。
ただ,新橋開業の段階では,後から新橋−渋谷間を開業した東京高速鉄道との乗り入れを考慮したのか,新橋駅を品川方向ではなく西へ振った赤坂方向に変更していますね。この時点までに品川延長をやめたのでしょうか。

東京で地下鉄建設計画が具体化するのは1923年の関東大震災をはさんだ1920年代のことです。
1920年に実施された第1回国勢調査によれば,このときの東京市15区および隣接5郡の人口は以下のとおりです。
東京市2,173,201現:千代田・中央・港・新宿(東半)・文京・台東・墨田(南半)・江東(西半)
荏原郡253,871現:品川・目黒・大田・世田谷(東半)
豊多摩郡278,403現:渋谷・新宿(西半)・中野・杉並
北豊島郡379,426現:豊島・北・荒川・板橋・練馬
南足立郡60,780現:足立
南葛飾郡204,538現:墨田(北半)・江東(東半)・葛飾・江戸川
これに「北多摩郡砧村 3,680」「北多摩郡千歳村 4,287」(ともに現世田谷区西半)を加えると,ほぼ現在の23区の範囲となります。

関東大震災後の復興過程と京浜地区の重化学工業進出をはじめとする産業構造の転換によって東京への人口流入と市街地の膨張が急速に進行して,東京市は1932年に隣接5郡を編入して35区となるわけですが,それでもおそらくは敗戦前はもちろん,戦後しばらくまでの間,まさか半世紀後に新たに編入した5郡の区域が住宅で埋め尽くされることなど,想像だにできなかったことだろうと思います。

そのような中で計画され開業した銀座線です。
この当時の地下鉄計画は当然のことながら「東京市域=15区」の範囲+α(山手線の駅まで)ですね。
地上では東京市15区の外縁を境に内側・市内交通としての「市電」と周辺の都市間輸送に主眼を置く「私鉄」との役割分担が厳格に存在していました。地下鉄の基本的構想はこの市電エリアを対象にしていて,周辺私鉄との乗り入れとなどいう発想は全くなかったと思われます。
また,それをしようにも特に京浜・京王・京成は,昭和初期までは路面電車に毛の生えたような路線でしたから,現実には不可能であったでしょう。
玉電・王電・城東電車に至っては路面電車そのものでしたからね。

東京地下鉄道があつらえた電車は,長さ16mの全鋼製電車。1920年代後半としては標準的な長さです。路面電車起源の京王線では1960年代まで長さ14mの小型車が主力であったし,ほかの私鉄でも1970年代末くらいまでは16〜18m級の電車が混在していましたから,銀座線のこの規格は必ずしも小さかったわけではないのですね。
それよりも,機関車と貨車は黒,客車は茶色というのが常識であった当時,地下での視認性を考慮して黄色く塗った電車は,耐火性を考慮した全鋼製の車体とともに,非常に画期的なものでした。保安面でも,機械式(打子式)ではあるけれどもATS(自動列車停止装置)を備えるなど,「当時としては」きわめて先進的な規格だったのですね。

かえって昭和初期にはきわめて進んだ技術を採用したがゆえに,1980年代まで大幅な更新をする必要もなくそれが使えてしまった。で,その間に東京では劇的な膨張が進んで,国鉄や周辺私鉄もそれに対応するために大規模な改良を行い,結果として取り残されてしまった,ということが言えるかもしれません。

そういえば,日比谷線を走っているのはいまだに18m級の電車ですね。これも,乗り入れ開始当時は東武側でも東急側でも標準の規格だったわけですが,その後それぞれ20m車両が標準となり,車両が大型化できず長編成化もできなくて列車あたりの輸送量の小さい日比谷線乗り入れ列車は双方にとって少々厄介な存在になっているようです。伊勢崎線も東横線も日比谷線とは別ルートの乗り入れ先を確保するに至ったというのも,そのような事情が関係するのでしょうかね。

[27871] 2004 年 5 月 3 日 (月) 19:07:15 白桃 さん
 平塚か平野か

[27861]地理好きのケン さん
過去の日本一人口の多い村
国勢調査の時点で最多人口を記録した村はどこなんでしょうか。平塚村(東京:後に町制→荏原町→東京市)が1925年(第2回国勢調査)で72,256人を記録しておりますが、ひょっとしたら、平野村(長野:→岡谷市)かもしれません。1925年人口は49,014人ですが、1930〜1935年に蚕都として人口が急増したと聞いております。8万位いたのでは?岡谷市として市制後の1940年国勢調査では、40,033人に減少しているのですが。(この件は前からの宿題だったにもかかわらず、まだ調べておりません。)
Issie 先生、お助けください。

[35668] 2004 年 12 月 11 日 (土) 05:10:24【1】 KMKZ さん
 荏原町の町民、平塚村の村民

[35649] じゃごたろ さん
かつて東京には「荏原郡」があった

関東大震災の前年の1922(大正11)年生まれで品川区出身の母、子供の頃の住所は荏原郡荏原町だったと良く話していました。通っていた小学校は平塚小学校だったそうなのですが、この小学校の現住所が品川区荏原ですね。

IssieさんのHPで荏原町の変遷を調べると、
1889(明治12).5.1合併で荏原郡平塚村成立
1927(昭和2).4.1町制施行で平塚町に
1927(昭和2).7.1平塚町を荏原町に町名変更
1932(昭和7).10.1東京市に編入され荏原区に
1947(昭和22).3.15旧品川区と合併し新品川区に

[27871]白桃 さんによれば平塚村は「1925年(第2回国勢調査)で72,256人を記録した、国勢調査の時点で最多人口の村で恐らく過去で日本一人口の多かった村」なのだそうですね。
また[25193]TN さんによれば荏原町の1930年(第3回国勢調査)の人口は132,108人で過去で日本一人口の多かった町らしいですね。
人口が多かったので平塚村の村域=荏原町の町域がそのまま区になって荏原区になったわけですね。

母は1922年生まれなので日本一人口の多かった村の村民であり、日本一人口の多かった町の町民だったのかな。

# 荏原町の変遷中、旧品川区と合併した年が間違っていたので修正

[35674] 2004 年 12 月 11 日 (土) 12:06:45 Issie さん
 渋谷市

[35668] KMKZ さん
1945(昭和20).3.15 旧品川区と合併し新品川区に

合区が行われたのは戦後,新憲法体制準備中の1947年3月のことですね。

人口が多かったので平塚村の村域=荏原町の町域がそのまま区になって荏原区になったわけですね。

北豊島郡から編入された 瀧野川(滝野川)町 も単独で区に編成されています。
豊多摩郡の渋谷町では編入される以前に単独で「市」となる構想があったようです。
(もっとも,仮に「渋谷市」が発足していたとしても,荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾5郡と北多摩郡の千歳・砧2村からなる都市政策上の「大東京:グレーター・トーキョー」を統合する動きは遅かれ早かれ出てきたでしょうから,「伏見市」が満2年足らずで京都市に編入されたように,「渋谷市」も短命に終わったことでしょう。)

1923年の関東地震が引き起こした関東大震災後,昭和のはじめの段階で東京の市街化前線がちょうど山手線の沿線まで到達していた結果ですね。
荏原町(旧平塚村)の市街化がやや早かったのは,東急の前身である目黒蒲田電鉄の営業政策の現れでしょうか。

東京の周辺に大工場が立地するようになるのがちょうどこの頃ですから,それらは当時の市街地の外縁に当たる地域に立地するわけで,それが荏原郡の東部(品川・大崎地区)であったり,北豊島郡東部(王子地区)であったり,南葛飾郡西部(亀戸地区)であったりしたわけです。

[35649] じゃごたろ さん
「こんな東京のいい所に工場があるんだ」

関東大震災前後まで,まさしく市街地のまん真ん中である後楽園や本所両国に軍の大工場がありましたが,これは大名屋敷跡地を転用したもので,「お国」だからできることですね。
民間が既成市街地(しかも極めて人口密度の高い)を買い上げて工場を建てることなどできないから,東京への工場立地は明治後期に市街地外縁であった麻布の古川沿いや小石川の神田川(江戸川)沿い,そして深川東部から始まったのです。
その頃の日本鉄道支線(山手線)沿線は,まだおおむね田園だったのでしょう。
「春のうららの隅田川」を上り下る舟,この歌が作られたころまでは昔ながらの川舟だったのでしょうが,その頃から産業用のはしけが主体となってきたはずです。

今の感覚では,IHI(石川島播磨重工業)の工場がある豊洲も「都心のいいところ」となるかもしれません。一昔前よりも小さくなりましたが。
それに,この会社名の由来となっている石川島のドックの方は,バブルの頃に「ウォーターフロント」と騒がれた高級マンション街になっています。

[35704] 2004 年 12 月 12 日 (日) 22:47:31【1】 BEAN さん
 東京市に編入された町村の人口
ARC 国勢調査等の人口データ秘蔵館

[35668]KMKZ さん
[35674]Issie さん
こんなものを見つけました。
関東大震災がきっかけとなって大きな人口移動が起きたことがわかります。当時の東京市にあった15区のほとんどは震災から2年を経てもなお震災前の人口を上回ることができず、それどころか、第1回国勢調査の人口が歴代国勢調査中最大であった区もあるようです。
そこから流出した人口が近郊の町村の人口急増をもたらしたわけですが、中でも平塚村=荏原町の人口増は急激なものでした。

1920〜1925年 東京市近郊5郡の町村人口増加率ランキング
町村名1920年人口1925年人口増加率
1平塚村8,52272,266747.88
2杉並町(村)5,63236,608550.00
3尾久町(村)7,52547,493531.14
4碑衾村4,19317,751323.35
5蒲田町(村)6,42025,616299.00
6長崎村3,50413,830294.69
7馬込村2,72510,489284.92
8野方村7,32324,332232.27
9小松川町8,01924,135200.97
10和田堀内村3,90711,663198.52

そして、東京市拡大の直前には、人口5万人以上の町が多数できていました。

1920〜1930年 東京市近郊5郡の町村人口ランキング
192019251930
1渋谷町80,799渋谷町99,022荏原町131,108
2西巣鴨町51,478西巣鴨町98,950西巣鴨町115,664
3南千住町50,713滝野川町82,252渋谷町102,566
4日暮里町41,551平塚村72,256滝野川町100,746
5品川町41,059中野町60,962王子町89,009
6滝野川町40,689王子町60,086中野町87,263
7淀橋町40,453吾嬬町59,921吾嬬町80,985
8亀戸町38,548三河島町59,252三河島町80,217
9王子町38,368大井町58,619杉並町79,193
10大井町36,659亀戸町57,321尾久町73,368

これを電車の路線網が発展していった過程と重ねると面白いと思います。
人口の増えた町の中には、もちろん市になることを検討したところもあったと考えられますが、当時の市になる要件を満たせなかったのでしょうか、それとも国あるいは東京府が阻止したのでしょうか。

おまけ
●1920〜25年の、平塚村の人口増加率747.88%は、おそらく国勢調査間の市町村人口増加率としては歴代最高と思われますが、そうだとしても、2000〜05年の三宅村が更新するのでしょうね。
●1930年の北豊島郡の人口858,322人は、国勢調査における郡の人口としては歴代最大である可能性があります。

[37397] 2005 年 2 月 2 日 (水) 22:00:24 mul-sa さん
 人口13万人の「町」!

もしかしたらもうどなたかが指摘なさったことかもしれませんが・・・・・・
昭和7(1932)年10月1日の拡大前の東京市周辺の話です。

大正年間に入ったころより、東京市周辺の町村にも都市化が始まりました。大正12年の関東大震災により東京市が壊滅すると、周辺部の人口増加はさらに進みました。
これによる市街地の拡大に伴い、東京市は市域を拡大することとなったわけですが、それまでは東京市周辺の5郡(荏原、豊多摩、北豊島、南足立、南葛飾)には多くの町村が分布していました。

昭和5(1930)年の国勢調査をみると、驚くべきことが分かりました。当時市昇格の規準であった人口3万人を上回る町が、無数にあったのです。

中でも荏原、渋谷、滝野川、西巣鴨の4町は人口10万人を超えていました。他人口5万以上10万未満のものが17町、3万以上5万未満のものも17町。

これらの町は何故市にならなかったのでしょうか?詳しい方、宜しくお願い致します。

日暮里市、目黒市、千住市、淀橋市・・・・
こんな「消滅した市」がこのサイトに載っていた可能性もあったのですね。

最後に人口10万人以上の町について、その人口を載せておきます。

荏原郡荏原町   132,107人
北豊島郡西巣鴨町 115,650人
豊多摩郡渋谷町  102,051人
北豊島郡滝野川町 100,745人

[37411] 2005 年 2 月 3 日 (木) 09:09:53【2】 KMKZ さん
 人口13万人の「町」・荏原町

[37397]mul-sa さん
昭和5(1930)年の国勢調査をみると、驚くべきことが分かりました。当時市昇格の規準であった人口3万人を上回る町が、無数にあったのです。
(中略)
これらの町は何故市にならなかったのでしょうか?
はじめまして。
[35668]で書きましたが、母が1930(昭和5)年の国勢調査で人口13万人の「町」だった東京府荏原郡荏原町(現在の品川区西部)の出身です。

[35674]Issie さんによれば当時人口10万人の町であった渋谷町には市制施行の構想があったそうですが、結局、町のままで東京市に編入されてしまいましたね。
想像するに「大東京市構想で東京市に編入されそうなので、あえて市制を施行するまでもないだろう」との判断だったのではありませんか。

ところで、荏原町の前身である平塚村は1925(大正14)年の国勢調査で人口7万人を上回っていたのですが、当時は村からいきなり市になることはできなかったのでしょうか?

[37443] 2005 年 2 月 4 日 (金) 00:35:10 うらうら さん
 町とばし

[37411] KMKZ さん

荏原町の前身である平塚村は1925(大正14)年の国勢調査で人口7万人を上回っていたのですが、当時は村からいきなり市になることはできなかったのでしょうか?

落書き帳アーカイブズの村から単独で市になった場所ってありますか?によると、
戦前、村からいきなり市制を施行したのは以下の4市のようです。

1902(明治35)年4月1日佐世保市(長崎県・東彼杵郡佐世保村から)
1921(大正10)年11月1日宇部市(山口県・厚狭郡宇部村から)
1936(昭和11)年4月1日岡谷市(長野県・諏訪郡平野村から)
1940(昭和15)年11月10日芦屋市(兵庫県・武庫郡精道村から)
制度の変遷には詳しくないのですが、宇部の市制と時期が近いので市制も可能な気がしますね。
なぜ市制ではなく町制になったのか、私にはよく分かりません。

[74867] 2010 年 4 月 11 日 (日) 23:51:27 hmt さん
 同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5.1)六大都市区域の拡張
hmt 区制度の変遷

先走って[74793] 東京都制による35区を先に書いてしまいましたが、その前に明治44年「市制」に基づく「区」[74736] が設けられた「六大都市」における「区域」の拡張について記すべきでした。そこで、枝番で処理します。

文政元年(1818)に幕府評定所で確定した江戸の範囲は老中決済を経て、「別紙絵図 朱引 ノ内ヲ御府内ト相心得」として公表されました。朱引は、町奉行支配境墨筋よりも拡張されており、主要部が墨筋の外だった新宿も朱引内になりました。墨筋突出の目黒は例外。

江戸に在勤していた諸藩の武士が明治になって引き上げると、東京は一時的に衰退しました。
荒れた武家地を桑畑や茶畑にして産業振興を図ろうとしたのが明治2年8月の「桑茶政策」参考pdf資料 です。朱引の範囲も、この時にかなり縮小されました[14798]

郡区町村編制法では、この明治の朱引線を目安として、朱引内に東京府直属の15区[74334]を、朱引外に6郡を設置しました。
明治22年に、形式的にせよ東京市が発足した際に、白金・早稲田など区域拡張があり A2の 15区になりました[74335]

勅令指定都市時代の東京市は、大正9年(1920)に 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入
新宿追分の京王線ターミナルも市内になったわけで、その後「四谷新宿」と改名したのも、区の名を誇りに思ったからでしょう。

このような区域の修正はあったものの、東京市の区域は概ね江戸の朱引内由来の15区のままであり、日本の産業構造の変化に伴う全国的な都市化の進行に合った行政区域になっていませんでした。

これに対して、大阪市では 1925年に区域の大拡張が行われ、京都市も 1931年に伏見市など隣接部を編入。
名古屋・横浜・神戸の3市も(省令指定より前を含めて)隣接部の編入を繰り返して、大都市行政の区域を拡張してきました。
その詳細は 変遷情報 で見ることもできますが、市の変遷にも抽出されています。

さて、市域拡張の遅れた東京市ですが、1923年に関東大震災に襲われた結果、比較的被害の少なかった郊外への人口流出が加速しました。それがもたらした小学校関係の経費が増大は、周辺町村の財政を圧迫し、都市計画区域において町村長が施行すべき道路・上下水道整備の進捗を遅らせることになりました。

1918年に五大都市に準用された東京市区改正条例(翌年 都市計画法制定)が「六大都市」の起源であることは[53893]で記しました。
この「都市計画区域」になっていたのは、東京市及び隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)、それに北多摩郡千歳村と砧村を加えた区域であり、東京以外の五大都市の周辺町村編入範囲も、それぞれの都市計画区域が基準になっていました。

現実に都市化したが財政基盤が弱いままの東京郊外部の町村。
これを救済するために東京市への編入が計画されますが、これは旧市域住民の負担増につながるという反対論がありました。

実は大都市を有する府県においては、府県財政を市部と郡部に分け、市部・郡部・市郡連帯の3方法により経費を支弁するという「三部経済制度」なるものが存在していたのですが(明治32年3月改正府県制付則第140条2項)、この制度は社会の実情に合わなくなっており、廃止の動きがありました。

ここで、東京市域拡張と三部経済制度廃止を同時に行うという案が出ます。
市域拡張による旧市域の負担増は、三部経済制度廃止のみを行う場合と大差なく、新市域が発展することによる税収増加等の利益は旧市域も享受できるという考えで理解が得られ、隣接5郡の一括編入 が 1932年10月1日に実現しました。

こうして実現した「大東京」には 20区が新設され、従来の 15区と合わせて 35区になりました。
続いて 1936年には 北多摩郡の2村も世田谷区に編入

子供の頃、それまで別の沿線と認識していた京王線の千歳烏山と小田急の千歳船橋とが、昔の村の名を共有していることを「発見」して興味をそそられた記憶があります。

[82041] 2012 年 11 月 2 日 (金) 20:27:34 hmt さん
 東京市15区を包囲した5郡
白桃 日はまた昇ってほしい

[82040] 白桃さん
New Taipei Cityのことを聞いて、これと対比したくなったのが、80年前、つまり 1932年の編入 より前に 「東京市15区を包囲」 していた5郡(荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡)です。

1930年国勢調査データを使うと、5郡の人口は合計 2,899,926人で、東京市の人口 2,070,913人の1.4倍ありました。
これが 1920年国勢調査のデータでは、1,177,429 / 2,173,201 = 0.54倍と、東京市の人口にはとても及ばなかったのです。
なお、5郡と東京市15区との面積比は、469.614km2 / 81.235km2 = 5.78倍でした。

この 10年間に何があったのか、ご存知ですね。そうです、1923年の関東大震災。
[46290]
今回の激震は、田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!それは非常口のない活動写真館から、広々とした大公園に移転することです。すべての基本である安住の地を定めるのは今です。
これにより東京市 15区の人口はやや減少し、それを取り囲む郡部の人口は2〜3倍に急増しました。

これが東京市 15区を 35区へと大拡張させた主な原因になりました。
面積拡張については[78504]で記していましたが、人口データに触れていなかったので、今回補足します。

白桃マガジンの特集タイトル 日はまた昇ってほしい に合せて、東京市と5郡との合計人口を確認してみました。
震災前 1920年の 3,350,630人から、震災後1930年の人口は 4,970,839人と、1.48倍になっています。

1920年から1930年への10年間には、全国の人口も 55,963,053人から 64,450,005人へと1.15倍になっています。
このことを考慮しても、大震災後の東京の復興ぶりを窺うことができます。

東京以上の被害を受けた横浜市の人口も、1920年の 502,413人から 1930年には 620306人と 1.23倍になりました。

[83695] 2013 年 7 月 14 日 (日) 17:34:15【1】 白桃 さん
 各回国勢調査の「町」人口トップ3

毎度お騒がせします。

国勢調査年1位-人2位-人3位-人全町数A町順位B町順位C町順位
1920年渋谷(東)80,799豊崎(阪)56,110西巣鴨51,4781,3656041,157
1925年渋谷(東)99,022西巣鴨98,950滝野川82,2521,5296231,336
1930年荏原132,108西巣鴨115,654渋谷(東)102,0561,7046781,471
1935年布施48,696夕張42,508貝塚37,3451,7116991,324
1940年夕張64,998美唄54,122貝塚42,7971,7636501,422
1947年相模原73,217美唄72,222武蔵野63,4791,8225131,307
1950年相模原68,898芦別58,547三鷹54,8201,8915071,360
1955年三笠(北)57,519宮田(福) 51,795豊平(北)49,6131,873918465
1960年豊平(北)77,312浜北53,548小平(東)52,9231,933661462
1965年保谷71,303戸田52,298朝霞51,5272,008563391
1970年新座77,704君津70,440座間56,7272,020490404
1975年五日市(広)64,893坂戸51,232綾瀬50,3671,976359357
1980年五日市(広)87,325浦安(千)64,673四街道59,2361,993315385
1985年廿日市52,020牛久(茨)51,926幸手51,4622,001300422
1990年鶴ヶ島63,064阪南54,073日高(埼)53,1692,003290449
1995年印西57,667広島(北)53,537田辺(京)53,0401,992261461
2000年栗東54,856府中(広)50,673白井50,4311,991238481
2005年三好(愛) 56,252岩出50,834府中(広)50,7321,178173
2010年長久手52,022野々市51,885府中(広)50,442757127

各回国勢調査において人口がトップ3であった「町」をリストアップしました。
広島の府中(安芸郡)を除き、その後、市制施行したところや大都市と合併したところばかり、ま、当然と言えば当然ですね。
当然過ぎて面白みが無い表になってしまいましたので、クイズを出させて下さい。

問題:ズバリ、A町、B町、C町をあててください。
(ヒント)B町は、生まれたばかりの町と合併してC町になりました。A町は今でも「町」ですが、町村制施行当時から「町」であり、1975年頃にはC町に肉薄、現在はカゲが薄くなった近辺の「市」に代わり、その地域の中心になっています・・・かしら???

※1947年は、古仁屋、和泊、喜界、亀津、知名(以上鹿児島)及び糸満、名護、本部、城辺、大浜(以上沖縄)について国勢調査(及び準じる調査)が行われていないので、この10町はランキング外になっております。

[83699] 2013 年 7 月 15 日 (月) 14:26:31 白桃 さん
 各回国勢調査の「村」人口トップ3

今日は宇美の日?
ごく一部の方?のご要望により作成いたしました。^j^)~~(町と村をあわせたものは省略)
※ただし、「町」と比べ、とっても手抜き作業になりましたので、取り扱いにはご注意を!

国勢調査年-----1位-----2位-----3位
1920年平野(長野)44,278宇部(山口)38,063穂波(福岡)37,235
1925年平塚(東京)72,256平野(長野)49,014西灘(兵庫)40,997
1930年平野(長野)53,874小田(兵庫)40,290穂波(福岡)37,013
1935年小田(兵庫)54,484平野(長野)41,333精道(兵庫)35,567
1940年大庄(兵庫)43,971精道(兵庫)39,137三笠山(北海)38,579
1947年頴娃(鹿児島)38,295穂波(福岡)36,319鳴尾(兵庫)26,762
1950年穂波(福岡)39,771鳴尾(兵庫)33,812具志川(沖縄)32,369
1955年穂波(福岡)42,185越来(沖縄)35,283具志川(沖縄)31,552
1960年具志川(沖縄)33,756宜野湾(沖縄)29,501浦添(沖縄)24,512
1965年具志川(沖縄)35,453浦添(沖縄)30,821八千代(茨城)22,687
1970年美里(沖縄)24,123八千代(茨城)21,945読谷(沖縄)21,410
1975年東海(茨城)25,151豊見城(沖縄)24,983読谷(沖縄)24,232
1980年桜(茨城)34,507豊見城(沖縄)33,075都南(岩手)29,626
1985年桜(茨城)41,335豊見城(沖縄)37,965都南(岩手)37,307
1990年都南(岩手)43,063豊見城(沖縄)40,777滝沢(岩手)38,108
1995年豊見城(沖縄)45,253滝沢(岩手)44,189読谷(沖縄)32,912
2000年滝沢(岩手)51,241豊見城(沖縄)50,198読谷(沖縄)36,115
2005年滝沢(岩手)53,560読谷(沖縄)37,306東海(茨城)35,450
2010年滝沢(岩手)53,857読谷(沖縄)38,200東海(茨城)37,438

不要かと思いますが・・・
○平野村→岡谷市、○宇部村→宇部市、○穂波村→穂波町→飯塚市
○平塚村→平塚町→荏原町→東京市→品川区
○西灘村→神戸市、○小田村→尼崎市、○大庄村→尼崎市、○精道村→芦屋市
○三笠山村→三笠町→三笠市、○頴娃村→頴娃町→南九州市
○鳴尾村→西宮市(鳴尾球場、鳴尾記念)
○具志川村→具志川市→うるま市
○越來村→コザ村→コザ市→沖縄市、○美里村→沖縄市
○八千代村→八千代町(今でも「町」です)
○宜野湾村→宜野湾市、○浦添村→浦添市、○豊見城村→豊見城市
○都南村→盛岡市、○桜村→つくば市(イチローと合併したのではありません:謎)
○滝沢村→市制施行予定
そして、東海村、読谷村は、そのまま今に至る。

[83708] 2013 年 7 月 21 日 (日) 18:16:47【1】 hmt さん
 東京府荏原郡平塚村

[83699] 白桃 さん
1925年【国勢調査の「村」人口】1位 平塚村(東京) 72,256人
○平塚村→平塚町→荏原町→東京市→品川区
その荏原町も、前回の平塚村と並んで歴代国勢調査を通じてのトップ[83695] に輝き 二冠達成。
1930年【国勢調査の「町」人口】1位 荏原 132,108人

1930年人口13万人の「町」・荏原町の記事は[37411][37397]にもありました。1925年平塚村についても [27871]で言及されていました。

1889年の町村制で誕生した平塚村が「史上最大の人口」を持つ村であったとなると、気になるのが、ランキング入り前の人口です。同じ地域のまま名称が変った東京市荏原区と併せて戦前20年間の人口を列挙してみました。
1920年 東京府荏原郡平塚村  8,522人
1925年 東京府荏原郡平塚村 72,256人 
1930年 東京府荏原郡荏原町 132,108人 面積 1,753,895坪[8132]
1935年 東京府東京市荏原区 161,863人 面積 5.80km2[74308]
1940年 東京府東京市荏原区 188,100人

1920年からの人口増。これは、当時の東京市近郊5郡の町村にある程度共通するものでしたが、中でも5年間に 8.5倍近い値を記録した平塚村は、特に急激なものでした。[35704] BEAN さん
この時期は、どのような時代であったのか?

市制町村制制定当時と比べ、日本の産業構造は大きく変化していました。
ところが、その変化に伴う都市化の進行に見合った行政区域の修正は、ともすれば遅れ勝ちです。
それでも 大阪市では 1925年に区域の大拡張が行なわれ、伏見市など隣接部を編入した京都市(1931)、省令指定都市になる前を含めた名古屋・横浜・神戸の3市も隣接部の編入を繰り返して、大都市行政の区域を拡張してきました。
大都市の市域拡張が最も遅れていたのは、大正9年(1920)に 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入しただけの東京市でした。

そこに起きたのが、1923年9月1日の関東大震災です。住まいを失った東京市民が、郊外に求めた住居。
その有力な選択肢として、大地震の半年前に開業したばかりの目黒蒲田電鉄沿線があったと思います。
目蒲線は 平塚村の北西境界近くを通り、府立第八中学校(現小山台高校)の近くに 武蔵小山駅が開設されていました。この駅から南東に行くと中原街道との交差点「平塚橋」に至ります。

1930年の東京日日新聞附録復興完成記念 東京市街地図 の 南西端近くを拡大してみると、現在の地図との対応関係がよくわかります。武蔵小山駅・平塚橋間の小山本道にも、五反田から来る中原街道にも、建設中の新道(破線)が並んでいます。

「平塚橋」交差点の南側に町役場が記され、荏原警察、荏原電話局[55694]や郵便局も含めて、この付近が 平塚町>荏原町 の中心地であったことを示しています。同潤会住宅【表参道ヒルズで言及[67594]】の文字も見えます。

この地図には、震災後に開通した 池上電気鉄道の延長部分と 目黒蒲田電鉄大井町線も姿を見せており、この町が、目黒だけでなく 五反田・大井町・蒲田など各方向に電車が通じる 便利な町になったことを示しています。

現在はすべて東急の路線ですが、目蒲線の「小山」に加えて、池上線の戸越銀座・荏原中延、大井町線の荏原町・中延・戸越公園【蛇窪から改称[77004]】・下神明【戸越から改称】と、たくさんの新旧町名・大字名が 駅名に使われています。
「旗の台」は源頼信旗揚げの地ですが、大字中延にあった字旗ヶ岡に由来します。さすがに「平塚駅」はないようです。

戸越銀座と言えば、全国各地にある 「○○銀座」 の元祖とも言える存在です。Wikipediaによると、関東大震災後に銀座の瓦礫を運び、低地を埋め立てたことからの命名とか。311の瓦礫処理からも、何か新しいものが生まれることを期待したいです。

震災による旧市街の消失による東京市民の移動は、時宜を得た電車開通に恵まれた荏原町をして「史上最大の人口を持つ町」たらしめました。それが 独立した都市圏を持つ町 ではなく、東京都市圏の一部にすぎないことは、言うまでもないのですが。

現実に都市化したが 財政基盤が弱いままの東京郊外部の町村。これを救済するための東京市域拡張計画。三部経済制度廃止と組み合わせることにより、旧市域住民の負担増につながるという反対論を抑え、1932年10月1日に ようやく 隣接5郡の一括編入 が実現したことは [74867]に記しました。

荏原郡荏原町は単独で「荏原区」になりました。瀧野川区も北豊島郡瀧野川町から単独で区になった仲間ですが、さすがに この2区は 新設20区の中で面積最小の仲間です[8132]
足立区は南足立郡10町村まるまる、板橋区も9町村です。新設20区の中で面積格差は 15倍以上に及んでいたのでした。

平塚村>平塚町>荏原町>荏原区の範囲をはみ出しますが「荏原」についての 記事集

「荏原」という地名は、菜種油が普及する前の油料作物 エゴマ(荏胡麻)由来でしょう。
武蔵国には都筑郡荏田村(現・横浜市)という地名もありました。田園都市線の駅名は「江田」になっています。



都道府県市区町村 > 落書き帳 >このページのトップへ ▲

検索結果参照用リンクを編集 Copyright(C) 2017 M.Higashide 検索条件を変更