都道府県市区町村
落書き帳

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[1070] 2002年 3月 10日(日)07:43:19他力本願 さん
戦後、分立した後に市制施行した市って、
埼玉県鳩ヶ谷市(川口市から)
神奈川県逗子市(横須賀市から)
富山県新湊市(高岡市から)
山口県新南陽市(徳山市から)

他にもあります?

昭和の大合併に逆らってまで(時期的に直前ですが)分立した理由って、
戦時中の軍部の強い要請による強制合併の解消ということでよいのでしょうか。
[5144] 2002年 11月 20日(水)22:46:30NSK さん
市町村分割した自治体
はじめまして。
私は現在茨城県に住む、日本地理大好き人間です。

早速質問なのですが、
今全国的に市町村合併が大流行ですが、過去には一度合併しておきながら、分割した例もあるようですね。
私が知っている例では、

山口市→山口市+小郡町+阿知須町

があります。
このような事例は、他にもありますか?
[5162] 2002年 11月 21日(木)01:07:07白桃 さん
頭ぼんやりモーローレス
[5148]ゆうさん
 有難うございました。
[5145]YSK さん
 呑龍さん。なかなか良いところですネ。
 いつもどなたにでも品の良いメッセ―ジ、お世辞抜きで感服しております。
 ところで、YSKさんと、全角で打つといけないのですよネ。
[5144]NSKさん
 思いつくところで、
 徳山市→福川町、富田町
 川口市→鳩ヶ谷町
 相模原町→座間町
 横須賀市→逗子町
 高岡市→新湊町
[5138]ヒロオさん、[5133]いなさん
 仕事柄、観光あるいは観光地の問題は看過できないので、お二人のメーッセージに関心をもっております。白桃もこの件につき書き込みたいのですが、妻に「早く寝ろ」とおこられましたので又の機会にさせていただきます。今後もこの問題に関して書き込みをしていただければ幸いです。
[6729] 2002年 12月 20日(金)20:06:55N-H さん
山口市と小郡町
[6718] uttさん
>まさか、ここも分離したのかな?

ご明察。山口市と小郡町は1944年に一旦合併、戦後1949年に分離しています。
このように戦時中に強制的に(?)合併させられた市町村が戦後分離した
例は他にも結構あります。たとえば、
・川口市と鳩ヶ谷町(市)
・横須賀市と逗子町(市)
などです。横須賀市はこのせいもあって、首都圏にありながら戦時中の人口と現在
の人口がほぼ同じという不思議なことになっています。まあ理由の多くは戦時中は
軍港都市として多くの軍人とその家族が横須賀市民だったことによりますが。

すごいのは埼玉県の志紀町で、戦後志木町、宗岡村、水谷村、内間木村と4分割さ
れました。結局このうち志木町と宗岡村は再合併して現在の志木市へと至るわけ
です。
[25065] 2004年 2月 20日(金)17:36:20まるちゃん さん
2度目の合併など
[25055] 美濃織部 さん
多治見市と笠原町は、かつて合併して滝呂地区だけ多治見市に残して分離したという過去があるので、また合併するということもありえますね。(同じ自治体と2度合併って、前例あるんですかね?)

これは周南市の前例がありますね.
[5162] 白桃 さん
徳山市→福川町、富田町
とあるように,徳山市から分離した,福川町と富田町は後に新南陽市となり,現在は徳山市,熊毛町,鹿野町と合併した周南市になっています.
ただし,現周南市と旧徳山市の市域は異なります.

[5144] NSK さん
山口市→山口市+小郡町+阿知須町
[6729] N-H さん
山口市と小郡町は1944年に一旦合併、戦後1949年に分離しています。
とあるように,山口市から分離した過去のある,小郡町と阿知須町も,山口県央部合併が成立した場合は,山口市と2度目の合併になりますね.

[25041] [25042] faith さん
ずいぶん詳細な解説ありがとうございます.
広島大学も弘前大学のケースも,戦争による被害が移転には大きく影響しているようですね.
[25117] 2004年 2月 21日(土)09:32:50BANDALGOM[月の輪熊] さん
路面電車、「2度目の」合併協議
[25052]いっちゃんさん
韓国でLRT導入する場合、ヨイドを除けば仮に路面を走っても専用レーンにしなければ
頻繁にクルマと事故を起こしそうですね。
地方都市でもたいがい車線は多いですから、片側1車線ずつくらい減らして、専用レーンにすればいいと思いますし、当局もそう考えているのではないでしょうか。
日本以上の車社会ですが、ナンバーの偶数、奇数などによる運転自粛日を設けるなどの対策は一応とっていますし、例の清渓川も、高架道路を撤去したのは、車の通行を抑制し地下鉄利用を呼びかけるという狙いもあります。

そう考えると民営の路面電車の代替が市営の地下鉄というは珍しいですね。
[25078]faithさん
福岡市は、市バスも市電も持たなかったので、福岡市交通局は、市営地下鉄の開業にともなって新設されたとのことです。
北九州市内線も全廃した西鉄ですが、もともと郊外電車がメインの会社ですし、路面電車を廃止してもそれほど会社への影響はないと判断されたのでしょうか。
かつて岡崎市内線を廃止し、今また岐阜市内線を廃止しようとしている名鉄もしかり。

他にも市内線(路面電車)を廃止した、郊外電車メインの会社には、北陸鉄道や南海などもありますが、路面電車がメイン(あるいは路面電車だけ)の会社が運営している広島、岡山、長崎などは、路面電車廃止の嵐が吹き荒れた時代にも、会社の存亡にかかわるということで、なんとか廃止を避けようとしたのでしょうね。


[25055]美濃織部さん
多治見市と笠原町は、かつて合併して滝呂地区だけ多治見市に残して分離したという過去があるので、また合併するということもありえますね。(同じ自治体と2度合併って、前例あるんですかね?)
[25065]まるちゃんさん
徳山市から分離した,福川町と富田町は後に新南陽市となり,現在は徳山市,熊毛町,鹿野町と合併した周南市になっています.
ただし,現周南市と旧徳山市の市域は異なります.

山口市から分離した過去のある,小郡町と阿知須町も,山口県央部合併が成立した場合は,山口市と2度目の合併になりますね.
鳩ヶ谷市も戦時中に川口市に合併し(背景は徳山市や山口市と同じ)、戦後分離していますね。
今また「2度目の」合併協議中です。

長野県宮田村も、昭和の大合併以前は「宮田町」だったのが、駒ヶ根市に加わった後分離し、宮田村となっています。
#どなたか書き込まれていた記憶がありますが、検索で出ません。
ここも最近、駒ヶ根市との「2度目の」合併協議をしてきましたが、頓挫と相成りました。
[28038] 2004年 5月 8日(土)00:29:53【1】夜鳴き寿司屋 さん
Article 95 of Constitution of Japan
[27890] なお さん
※ところで自治体の設置に関する憲法or条例の改正はあったほうがよいと考えていますか?

 ある程度の改正なら地方自治法の改正で対応できると思いますので、極端に政府の権限を委譲するのでなければ憲法に手を付けなくても構わないと思います。外国の中にはイタリアの憲法のように細かく地方自治についての記載がある場合がありますが、日本国憲法は詳細を法律や条令で其の時の事情で変更できるので良いと思います。

 余談ですが旧憲法の「大日本帝国憲法」の条文76条(英訳による憲法では世界一短いといわれている日本国憲法より短いですね)で定められている政治組織は、天皇、帝国議会(貴族院と衆議院)、国務大臣、枢密顧問だけで、当時の時代背景では不思議ではありませんが、行政単位(自治体)に関する規定は一切ありませんでした。また日本国憲法制定に際しては、旧憲法第73条に則して行われたそうです。

[27893]Issie さん

第95条:特定の地方公共団体のみを対象とする法律制定の際の住民投票

 行われた事が殆どない空文なので、この条文がある事を忘れてしまいますね。前例が結構あったように思いまして調べたところ、この条文による住民投票が行われたのが、1949年から1951年までに18例あったそうです。そのうち2つを結果とともに紹介すると

「広島平和記念都市建設法」昭和24年8月6日法律第219号


 衆・参両院において満場一致で成立したのは1949年5月11日ですが、住民投票による賛同が必要とされた為の住民投票は1949年7月7日に行われ、投票率は65パーセントで

賛成 71852票
反対  6340票

と90パーセントを越える賛同を得たため8月6日の原爆記念日に公布されました。またこの法律は恒久平和の象徴として広島市が都市整備を行う際に、国からの補助率の引き上げや国有財産の譲与を認めるというものですが、その後一部が改正されたとはいえ現在でも有効で、最近でもこの法律を根拠に、2000年に被爆建物である旧日本銀行広島支店が広島市へ無償譲与されたそうです。

「長崎国際文化都市建設法」昭和24年8月9日法律第220号

 これも内容は先の法律と同様な内容で、同じような経過をたどったのですが、長崎市の住民投票は同じく1949年7月7日で投票率は74パーセントで

賛成 72990票
反対  8654票

と、賛成多数で公布されました。

 この2つの法律は核兵器による著しい破壊からの復興事業でネックになっていた国有財産処理法に対して特別処置が取れるように制定されたそうです。

 ただ、その後は「小笠原諸島振興開発特別措置法」や「成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律」など、どう考えても特定の地方公共団体のみを対象とする法律であっても、憲法違反にならないように自治体を介さずに政府が行う事で違憲にならないように回避しているようです。今後、もしも道州制を導入するためにこの条文を利用して住民投票が行われる可能性があるかもしれませんが、現状ではかなり低いように思われます。

 また、かつては戦時中に強制合併された市町村の分離も1948年から2年間だけ住民投票で決着できる法律があったそうで、実際に全国で33件が実施され、そのうち28件の分離が住民投票で決定になったようです。(個々のリストも欲しいところですが、どなたかアップして下さい。お願いします)

※私は,とりあえず第96条の「改正」に反対です。

 最後になりましたが、私も同意見です。

*一部訂正
[28051] 2004年 5月 8日(土)10:44:17林檎侍[花笠カセ鳥] さん
戦時中に合併したが戦後分立した自治体
[28038]夜鳴き寿司屋 さん
 また、かつては戦時中に強制合併された市町村の分離も1948年から2年間だけ住民投票で決着できる法律があったそうで、実際に全国で33件が実施され、そのうち28件の分離が住民投票で決定になったようです。(個々のリストも欲しいところですが、どなたかアップして下さい。お願いします)
私が、10年以上前に、図書館で緑色の厚い本(タイトル失念)を見て調べた内容のうち、アーカイブズ未収録のものを書きます。

秋田県大久保町、飯田川町、豊川村が17/4/1合併→25/7/1豊川村分立→25/10/1飯田川町分立
31/9/30昭和町、豊川村合併により昭和町

秋田県和田町→17/4/1豊島村を編入→25/7/1豊島村を分立→30/3/31和田町、豊島村、岩見三内村合併により河辺町

埼玉県皆野町、三沢村、国神村、日野沢村、大田村、金沢村18/9/8合併→21/12/1分割→
皆野町、国神村、日野沢村、金沢村30/3/1合併→三沢村32/3/31編入

埼玉県騎西町、種足村、高柳村、田ヶ谷村、鴻茎村18/4/1合併で騎西町→21/5/1分割→29/10/1高柳村以外再合併→30/3/20高柳村を編入

埼玉県栗橋町、静村、豊田村19/4/1合併→24/10/1分立→32/4/1再合併

岡山県加茂町、東加茂村、西加茂村17/5/27合併→新加茂町26/1/1分立→加茂町、新加茂町、上加茂村29/4/1合併により加茂町

高知県山南村、徳王子村、富家村、香宗村17/4/1合併大忍村→23/4/1分立→現在の香我美町、野市町

高知県宇佐町、新居村17/4/1合併で新宇佐町→新居村と宇佐町に24/4/1分立→高岡町、宇佐町、新居村
33/4/1合併で高岡町→34/1/1土佐市

ただし、これらは官報を調査していませんので、告示日などはわかりませんのでご了承下さい。
また、全都道府県を調査したものではありません。
ですから、他の実例を持っている方、追加をお願いします。
[37842] 2005年 2月 15日(火)15:13:12【1】hmt さん
戦時合併 と その解体
[37837] じゃごたろ さん
ところで、川口市、美野町、騎西町など複数の市町村が戦後に分割されているのが目に付きますが、これは戦前の合併がかなり強引だったことの裏返しということなのでしょうか。

戦時中の合併には、「紀元二千六百年記念事業」と「大東亜戦体制合併」とがあります。
埼玉県の場合、1940年に川口市や大宮市が周辺の町村を合併したのが前者の例です。もちろん皇紀2600年を口実にしていますが、都市の発展や地方団体強化の要請に裏付けられたものでした。
全国的な代表例としては、翌皇紀2601年の天長節に2町6村が合併して成立した神奈川県高座郡相模原町を挙げておきます。

「大東亜戦争」はこの傾向に拍車をかけ、1942年に埼玉県は「町村合併の手引」を配布し、その実施方策として「町村合併に関する懇談事項」を定めました。その要領の第1項を引用します。(原文は旧字体カタカナ)
一 大東亜戦争下国内必勝体制を整備する為自治体たる弱小町村の合併は刻下の急務なること
戦時合併は全国的な機運で、帝国議会にも市制・町村制の一部を改正する法律案が上程され審議されたようです。

この結果、埼玉県では1943/2/1~1944/4/1の1年余の間に 51町村が再編成され、18町村に生まれ変わりました。
一例を挙げると、北足立郡志木町は同郡と入間郡にわたる3村と郡越えの合併して「志紀町」になりました。紀元2600年から4年も経っていますが、合併日に紀元節を選び、町名に「紀」の字を使っているあたり、まだ2600年気分です。
#そう言えば、ミレニアムという言葉は、すっかり聞かなくなりました。キリバス共和国の「ミレニアム島」は健在でしょうね。

戦時合併は軍需工場の設置・拡張等による要請もあったと考えられますが、敗戦により事情が一変しました。
そこで、例えば 編入された純農村地区が元の村に戻りたいと考えても、地方議会の少数派で議決を得ることができない。
こうした事情に配慮して制定されたのが地方自治法附則第2条(1948)で、法律施行から2年以内に限り関係住民の直接請求を認め、投票を行なうという臨時措置でした。「地方制度資料」によると、本件に該当する戦時(1937.7.7~1945.9.2)合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)とされています。

神奈川県相模原町からは1948年に座間町が分離しましたが、「軍都・相模原」で形成された枠組みは戦後も解体せずに残りました。

埼玉県に戻ると、前記の「志紀町」も、1948年に元の志木町ほか3村に戻りました。合併前には入間郡だった宗岡村と水谷村は、今度は北足立郡の村として再生したわけです。後日談ですが、水谷村は1956年の合併で富士見村として入間郡に戻っています。遡ると、水谷村になる前の針ヶ谷村は新羅(新座)郡だった時代もあるらしいから、転々と郡を移り変わっているわけです。

北埼玉郡騎西町と秩父郡美野町は、早くも1946年に解体していますから、臨時措置法より前ですね。志紀町解体も同様かもしれません。1949年には北葛飾郡栗橋町が解体。
北足立郡鳩ヶ谷町が川口市から分離した1950年で戦時合併の後始末は終りました。
ところが、1954年騎西町、1955年皆野町、1957年栗橋町と再結合しているのですから、結果的にはパラパラ地図を徒に賑わせただけ。
[37958] 2005年 2月 20日(日)15:58:20hmt さん
強制合併時代の悪夢
[37931]白桃 さん
逗子市のHPをみると、
1943.4.1 横須賀市に強制合併
1950.7.1 住民の総意により、横須賀市から分離独立
とあります。

市当局が「強制合併」という きつい言葉を使っているのに注目します。
その時代、1947年11月に、米軍が接収して弾薬庫として使用していた池子で、火薬600tの大爆発があり、山林100haが焼失する大事故がありました。

逗子市制50年こぼればなし(5)にある“戦時中に強制合併させられた横須賀市から苦難の独立”という言葉は、分離独立への道も平坦ではなかったことを窺わせます。
1950年6月に施行された「旧軍港市転換法」と関係がありそう。

ところで、[5166]NSKさんの疑問
葉山町は横須賀市に合併されなかったのでしょうか?
御用邸があったことが、軍港施設除けに役立ち、ひいては強制合併も免れるという結果をもたらしたのでしょうか。
たしかに、いくら軍事優先の時代でも、御用邸の隣に弾薬庫は作りにくい。
[40516] 2005年 5月 2日(月)18:53:48トライランダー さん
いろいろと・・・
[40472] miki さん
福岡県宮田町もかつて(1965年)は51,200人のマンモス町だったのですが、
宮田が5万人を超えていた話は知っていましたが、市制施行できなかった理由は初めて知りました。
昭和35年ごろは、筑豊地区では穂波町、稲築町、水巻町、川崎町が3万人を超えていたと思います。穂波か稲築はどちらかが4万人を超えていた記憶があります。

[40474] ふぁいん さん
高島の人口は記憶違いであったようですね。失礼しました。
確か1960年当時は軍艦島(端島)が5300人ぐらいいて、島の人口密度が東京都の10倍という凄まじい人口密度だったそうです。大正5年から作られ始めた鉄筋高層アパートが林立していました。
http://www.interq.or.jp/cool/unya/gunkanzima/welcome.html
軍艦島に関しては、上記サイトが詳しいです。

[40484] 百折不撓 さん

岐阜県では、昨日可児市に編入されましたが、兼山町がそうですよ。
一応編入のため、除外させて頂きました。

[40489] 紅葉橋瑤知朗 さん
 
まぼろ市・あわや町・もしや村
どこまで本気だったかは分かりませんが、高知県安芸郡東洋町から甲浦地区が、北海道札幌郡豊平町(現札幌市)から定山渓地区が分離独立しようという話がありました。なお、豊平町からは広島村が分離、現在は北広島市になっています。

他の分離例としては、山口市から吉敷郡小郡町が、高知県香美郡大忍村が香宗、山南、徳王子、富家の4村に分離、高知県高岡郡新宇佐町が宇佐町、新居村に分離という例があります。これらの3件は、戦時に合併し、戦後すぐに分離というケースでした。
自治体ではありませんが、戦時合併→戦後分離、という例は、大東急(東急、小田急、京王、京急)や阪急電鉄(阪急、京阪)、近鉄(近鉄、南海)のように鉄道業界においてもありました。
[45417] 2005年 10月 5日(水)04:13:48eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(3)
[45357] [45394] の続きです。

3)昭和の大合併
昭和30年2月、1市6町村で合併し、新市名日立市。
この時の合併の重要な相手が多賀町でした。新市名で揉めたのも多賀町との間でした。

・まず多賀町の沿革から
昭和14年4月、河原子町,国分村,鮎川村が合併して多賀町が誕生します。この3町村の産業は農業を主体としていました。
この合併には軍需が絡んでいるのです。
それまで比較的軍需に消極的だった日立製作所も昭和十年代はいよいよ軍需産業に傾斜していきす。
日立製作所は新工場用地をこの地に求めます。それに平行して合併も進められます。
新工場と合併がいかに密接だったかは、合併期日と多賀工場創業が同日だったのに窺えます。
[37842] hmt さん
「大東亜戦体制合併」
私の造語では「軍需合併」、大東亜戦体制合併の一種です。
合併と新工場の密接さを窺わせるのは町の新名称にも表れます。地元では最初国分村の旧村名で、駅名にもなっている「下孫」を選んだが、日立製作所の専務が提言した新工場の名でもある「多賀」に決まります。
[2374]深海魚[雑魚] さん
常陸多賀周辺の沿革はなんだろう。郡名を名乗る以上、広域の中心地だったと思えるのだけれど。
ところが、事実は逆なのです。将来多賀郡の中心として発展することを祈ってつけられたそうです。
昭和14年10月「下孫駅」、「常陸多賀駅」に改称。
昭和16年1月「坂上村」編入。これにも日立製作所の施設(社宅)が絡みます。

・日立市と多賀町の合併
昭和28年の町村合併促進法に積極的だったのは日立市でした。市内に工場,住宅,学校などを増設する土地が不足しており、それを周辺の町村に求める構想があったからです。周辺の町村ではそれぞれの事情で温度差があったが、多賀町は消極的ででした。財政,都市設備も日立市に頼らなければということもなく、土地不足も特になかった。
そんななか、日立市,多賀町の首長は県知事に呼ばれ、「県北の鉱工業地帯の中心として発展する事が期待される。そのためには両者が合併する事が望ましい」と要請されました。
紆余曲折があって合併の合意にこぎつけましたが、新名称で揉めました。多賀町は「多賀」の名を残す事、あるいは「日立」の名前をはずすことを求めました。「常陸市」という名も挙がりました。
しかし結局「日立」の知名度が勝ちました。

他の5町村もそれぞれの問題を抱え、日立市との合併に関し経緯がありましたが略します。
昭和31年豊浦町編入。1年遅れたことに豊浦町の苦悩を感じます。
平成16年十王町編入。十王町は高萩市か日立市かで悩んだが日立市を選びます。

こうして3回に亘り日立市の合併の経緯を見てきますと、最初の日立村の誕生を除き日立製作所の存在がいかに大きかったか分かります。
[53580] 2006年 8月 23日(水)21:17:40むじながいり さん
市町村変遷には不思議がいっぱい
[53511] 千本桜 さん
旧伊達町の合併相手として、桑折町は浮上しなかったのでしょうか。
少なくとも伊達町史の該当部には桑折町のこの字も出てませんでした。

ふと思い立って伊達町史の資料編も見てきました。載っていた合併伏黒村建設計画では、役場は確かに伏黒村役場に置くことになっているのですが、「なるべく速やかに新築するものとする」とあり、伏黒村役場に置かれたのは暫定的なものであるようにも読めます。町制後の名称については触れられていませんが、役場の経緯と同じと考え方をするならば、やはりこちらも暫定的なもので、伊達町になることは合併前から決まっていたのかもしれません。


ところで、気になった変更を2件ほど。
熊本県に畫圖(画図)村という村がありました。この村は1932/12/15に画津村に改称し、同日熊本市に編入されるという手続きをとったのでした。なぜ編入され消滅するのに改称する必要があったのでしょうか。現在の熊本市を見てみれば、画図町という改称前の名前が残っているようですが。

同じく熊本県に高橋町という町がありました。1944/02/11に池上村、城山村と合併し三和町となりました。典型的な戦時合併です。1950/05/01に三和町は分割し3自治体に戻る訳ですが、旧高橋町はなぜか高橋村として分立したのです。長野県宮田村とも似たケースです。高橋町は市制・町村制施行時から町だったわけですが、分立の段階で高橋村は熊本県でもっとも小さい自治体となってしまっていたのでした。結局単独ではやっていけないということで1953年に3村揃って熊本市に編入されています。
[55654] 2006年 12月 24日(日)01:17:3688 さん
さらに「分立」 or 「分割」 ほか
[55648] hmt さん
その1 鳩ヶ谷町
埼玉県告示ではなく、総理府告示では
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理府告示 第三百二十七号
市町の廃置分合
 地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條第五項の規定により、昭和二十五年十一月一日から、埼玉県川口市のうち、旧鳩ヶ谷町の区域を分け、その区域をもつて北足立郡鳩ヶ谷町を置く旨、埼玉県知事から届出があつた。
 昭和二十五年十一月二十五日
内閣総理大臣 吉田  茂
――――――――――――――――――――――――――――――
と、「『旧』鳩ヶ谷町」でした。
なお、ご存知とは思いますが、この「地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條」とは、
――――――――――――――――――――――――――――――
附則
第二條 昭和十二年七月七日から同二十年九月二日に至るまでの間において、市町村の区域の変更があつたときは、その変更に係る区域の住民は、第七條の規定にかかわらず、本條の定めるところにより、從前の市町村の区域でその市町村を置き、又は從前の市町村の区域の通りに市町村の境界変更をすることができる。
2 前項の処分は、政令の定めるところにより、市町村の選挙管理委員会に対し、変更に係る区域の住民で選挙人名簿に登載されている者の総数の三分の一以上の者の連署を以て、その代表から、これを請求しなければならない。
3 前項の請求があつたときは、選挙管理委員会は、請求を受理した日から三十日以内に、当該区域が從前属していた市町村の選挙人の投票に付さなければならない。
4 第二項の規定による区域が現に存する他の市町村に属していた場合においては、前項の投票に関する事務は、同項の規定にかかわらず、その市町村の選挙管理委員会がこれを管理する。この場合において必要な事項は、政令でこれを定める。
5 第三項の投票において有効投票の過半数の同意があつたときは、委員会の報告に基き、都道府縣知事は、当該都道府縣の議会の議決を経て市町村の廃置分合又は境界変更を定め、内閣総理大臣に届け出なければならない。
――――――――――――――――――――――――――――――
です(官報情報検索サービスより。なお、この法律には「項」番号がないので引用者が補記)。
簡単に翻訳すると、
「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。この附則第2条第1項中の「(地方自治法本体の)第7条」が、本来(通常)の手続きということです。

その2 西武町
こちらのように補足しておきました。
なお、将来、「境界変更」自体をサービスインした際には、また補足すると思います(今回はあえて変更種別に「境界変更」を使いませんでした)。


[55649] hmt さん
「市区町村変遷情報・埼玉県」 で見たら、騎西町と美野町は「分割」、志紀町と栗橋町は「分立」となっており、解体再置の方式が違うのですね。これは知りませんでした。
それにしても、志紀町から志木町・宗岡村(現・志木市)・内間木村(現・朝霞市)・水谷村(現・富士見市)の4町村が「分立」したとすると、法人格が残ったはずの「志紀町」の抜け殻は、どうなったのでしょうか?
[55646]拙稿で紅葉橋律之介さんへのレスと同じことの繰り返しになりますが、「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)の特に「分立」「分割」の表現はあやしいものがあります。
志紀町の件は、前掲書では「分立」になっていましたが、官報情報検索サービスで告示を確認すると、
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理廳告示 第三十号
   町村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十三年四月一日から、埼玉縣北足立郡志紀町を廃し、その区域を分けて左記の通り 志木 ( しぎ ) 町、 内間木 ( うちまぎ ) 村、 宗岡 ( むねおか ) 村及び 水谷 ( みずたに ) 村を置く旨、埼玉縣知事から届出があつた。
 昭和二十三年四月二日
内閣総理大臣 芦田  均
一、志木町 大字志木及び大字宮戸の内字大原の区域
一、内間木村 大字浜崎、宮戸(字大原を除く。)、田島、上内間木及び下内間木の区域
一、宗岡村 大字宗岡の区域
一、水谷村 大字水子及び針ケ谷の区域
――――――――――――――――――――――――――――――
という訳で、明らかに「分割」でした。冒頭の「埼玉縣北足立郡志紀町を廃し」が、「分割」の表現です。失礼しました。
参考までに、栗橋町のほうは、
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● 総理府告示 第百三十五号
町村の廃置分合
地方自治法の一部を改正する法律
(昭和二十三年法律第百七十九号)附則第二條の規程により、昭和二十四年十月一日から、埼玉県北葛飾郡栗橋町のうち、大字伊坂、松永、間鎌、佐間、高柳、島川を分け、その区域をもつて靜村を、大字北広島、河原代、新井、狐塚、中里、小右衛門を分け、その区域をもつて豊田村を置く旨、埼玉県知事から届出があつた。
昭和二十四年十一月十五日
内閣総理大臣 吉田  茂
――――――――――――――――――――――――――――――
「埼玉県北葛飾郡栗橋町のうち、○○を分け」というのが、「分立」の表現です。つまり、栗橋町そのものの法人格は存続する、ということです。
騎西町と美野町は「分割」
これも、[55646]拙稿とおなじですが、「総覧」をそのままの表現です(ともに「分割設定」でした)。
「市町村名変遷辞典 三訂版」(2003年8月(3版)、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)を見ると(今頃見るのが遅い、という話もありますが)、騎西町は「分立」、美野町は「分割」となっています。この「・・辞典」は、「分立」「分割」に関しては法人格の継続するか否かで明確に表記を区別していますから(他の文献にはない観点)、信用してもいいかもしれません。
hmtさんにお願いなのですが、[55646]で紅葉橋律之介さんにお願いしたのと同じなのですが、これらの埼玉県告示の表現を確認することは可能でしょうか? 官報情報検索サービス での確認対象外なので、苦慮しています。もし確認できるのであればとても助かります。
ちなみに私は、いまだに地元香川県ですら、戦前の告示文書を確認しておりません(反省)。


なお、「境界変更」については、私個人としてはいずれは市区町村変遷情報 で対応したい(少なくとも大字単位のものは)との野望を抱いていますので、乞うご期待。

引用が過半の長文、失礼しました。
[55656] 2006年 12月 24日(日)13:46:33【1】hmt さん
旧町村民に 戦時合併からの離脱自決権 を認めた臨時措置
[55654] 88 さん
埼玉県における「分立」「分割」「境界変更」の事例に関する件、早速の回答をいただき、ありがとうございます。

鳩ヶ谷町
総理府告示は、埼玉県知事からの届出を告示しているのに、準拠法も区域も埼玉県告示 から変わっているのですね。
県告示(1950/10/11)の段階では誤っていたものを、地方自治庁に指摘され、届出を修正したのでしょうか。
それとも県告示と国への届出とは「別の手続き」であり、準拠法も区域も異なったままで正しいのか?
“○○の区域を分け、その区域をもつて△△を置く”を短縮した言葉が「分立」であると理解します。

さて、引用していただいた昭和23年改正法の附則第二條。
簡単に翻訳すると、
「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。
とありますが、これは誤解ではないでしょうか。

この規定の実体は、第1項に記されている通りです。
その変更に係る区域の住民は、(中略)從前の市町村の区域でその市町村を置き、又は(中略)境界変更をすることができる。

市町村の廃置分合、境界変更をする主体は 住民 であるということが、「住民」を主語とする文章によって明確に示されています。
「民主主義」という言葉が高らかに謳われた時代です。
あくまでも、手続きを簡単にした規定ではなく、合併した自治体内で少数派になった旧町村民の自決権を認めた臨時措置であることを御認識願います。

手続き上のポイントは、関係する旧村民による直接請求(第2項)と投票(第3項)です。
当該区域が從前属していた市町村の選挙人の投票

[37842]では、このあたりの事情を次のように記しています。
例えば 編入された純農村地区が元の村に戻りたいと考えても、地方議会の少数派で議決を得ることができない。
こうした事情に配慮して制定されたのが地方自治法附則第2条(1948)で、法律施行から2年以内に限り関係住民の直接請求を認め、投票を行なうという臨時措置でした。

西武町 市区町村変遷情報の補足 了解
志紀町 分離した4町村を「分立」から「分割」に修正 了解

埼玉県告示の表現を確認することは可能でしょうか?

浦和に行く機会が少ないもので…。近場でどの程度のことがわかるかな?
[55681] 2006年 12月 25日(月)23:15:4788 さん
三たび、「分立」 or 「分割」、「下夕村」 or 「下タ村」
↑は「夕」と「タ」を使い分けているのですが、判別できますか? 前回の「日」 or 「曰」よりは見やすそう・・・・。

引用する文献を、その都度正確に表記するのも見苦しく字数ばかりかかるので、ここで一度まとめます。今後、基本的にはこの記事番号を引用します。(時々はフルに文献名を書きます。)
略称正式名称等
「総覧」「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)
「幕末以降総覧」「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1,2)(別冊)」
 (1,2)(別冊)(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)
「辞典」「市町村名変遷辞典 三訂版」(2003年8月(3版)、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)
「消えた辞典」「消えた市町村名辞典」(2000年9月、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)
「便覧」「旧市町村名便覧」(1999年4月、日本加除出版株式会社出版部編、日本加除出版)

その1 埼玉県の分立・分割について
[55656] hmt さん
旧町村民に 戦時合併からの離脱自決権 を認めた臨時措置
鳩ヶ谷町
総理府告示は、埼玉県知事からの届出を告示しているのに、準拠法も区域も埼玉県告示 から変わっているのですね。
県告示(1950/10/11)の段階では誤っていたものを、地方自治庁に指摘され、届出を修正したのでしょうか。
それとも県告示と国への届出とは「別の手続き」であり、準拠法も区域も異なったままで正しいのか?
埼玉県告示では
地方自治法の一部を改正する法律(昭和25年法律第143号)附則第6項の規定により
となっていましたが、
――――――――――――――――――――――――――――――
地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十五年五月四日法律第百四十三号)
附則
6 第七十六條第四項中「その総数の三分の一の数に」の下に、「、第七十四條の二乃至第七十四條の四の規定は、同項の規定による請求者の署名に」を加える。
(項番号がないので引用者が補記、また、条はなく項のみの法律です。)
――――――――――――――――――――――――――――――
第74条の2~第74条の4は、署名の有効数等の規定を同じ法律で追加したものですから、単に署名の数だけの条文で埼玉県では誤って告示してしまい、総理府告示で補正したものと思われます。
さて、引用していただいた昭和23年改正法の附則第二條。
>簡単に翻訳すると、
>「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。
  (↑この段、88分の再引用(引用者注))
とありますが、これは誤解ではないでしょうか。
私の文章表現不足で申し訳ありません。
「拡大後の大きな自治体の住民」ではなく、附則第2条第1項で『その変更に係る区域の住民』とあるように、「元の自治体の住民」の意思でということを「簡単な手続き」と言う表現で端折りました。
市町村の廃置分合、境界変更をする主体は 住民 であるということが、「住民」を主語とする文章によって明確に示されています。
「民主主義」という言葉が高らかに謳われた時代です。
あくまでも、手続きを簡単にした規定ではなく、合併した自治体内で少数派になった旧町村民の自決権を認めた臨時措置であることを御認識願います。
「住民」と言う言葉ですが、旧自治体も、その長も議会も存在しないのですから、「住民」という言葉しかないのでしょう。もっとも、本則であれば「新自治体全体での意思」というのが成立したばかりの地方自治法の本旨でしょう。しかし、強制合併とも言われる経緯が経緯だけに、戦前・戦中の市町村の旧来への復帰を認めた経過措置的な特例でしょう(企業も従前のように分割された時期ですし)。なお、
――――――――――――――――――――――――――――――
附則
第二條
5 第三項の投票において有効投票の過半数の同意があつたときは、委員会の報告に基き、都道府縣知事は、当該都道府縣の議会の議決を経て市町村の廃置分合又は境界変更を定め、内閣総理大臣に届け出なければならない。
――――――――――――――――――――――――――――――
とあるように、決定権は都道府県知事にあるところは、従来どおりの「市制町村制」時代を踏襲したのでしょうか? 地方自治法第7条では総理府告示(当時)で効力が発生するのですから。
浦和に行く機会が少ないもので…。近場でどの程度のことがわかるかな?
わかる範囲で、また何かの折で結構です。私もまだまだ整理が追いついていませんので・・・。

その2 北海道の分立・分割について
[55667] 紅葉橋律乃介 さん
調査費30円なり
早速ありがとうございました(経費までかけていただいて・・・)。
で、私の書き方が不十分だったのですが、官報情報検索サービスで、戦後(正確には1947(S22)年5月3日以降)の総理府等の告示は私で調査可能です。申し訳ありません。これ以前のものは、官報の紙(マイクロフィルム)や、各都道府県告示を調べるしかない、ということです。
 分かりやすい例と言うことで、昭和23年4月1日付の「佐呂間町・若佐村」(分割設定)と、昭和27年8月1日付の「安平村・追分村」(分立)を北海道告示を抜き出してみましょう。
これらは、官報情報検索サービスでは、次のとおりです。
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理廳告示 第八十号
村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十三年四月一日から、北海道常呂郡佐呂間村の一部を分けて、あらたに若佐村を置き、その境界を次の通りとする旨、北海道知事から届出があつた。
昭和二十三年五月五日
内閣総理大臣 芦田  均
(「次の通り」は引用者略)
● 総理府告示 第二百十号
   村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十七年八月一日から、北海道勇払郡安平村のうち次の区域を分け、その区域をもつて追分村を置く旨、北海道知事から届出があつた。
 昭和二十七年九月十一日
内閣総理大臣 吉田  茂
(「次の区域」は引用者略)
――――――――――――――――――――――――――――――
このとおり、総理庁・総理府告示では、両方とも明らかに「分立」です。「分割」ではありません。北海道告示とは表現が異なります。
 ところが、明らかな違いがあります。
 佐呂間町の町長は、まず昭和22年4月の統一地方選で選出されたのち、改めて23年4月1日より4年間の任期を務めています。つまり、一旦3月31日で「佐呂間町」はリセットされ、若佐村と分かれたあと、改めて設置されたものと解釈できます(設置選挙は? という疑問がありますが)。
 一方で『早来町史』(安平村は分村後「早来」へ改称)を読むと、早来村長の任期は分村後も途切れることなく続いています。つまり、早来から「追分村」が出て行った、と解釈できます。
町村長の任期との整合では、安平村の方は一致するのですが、佐呂間村は一致しません。佐呂間村長が辞職か何かして、再び選挙を行った、と言う理屈は考えられます。
また、[55654] 拙稿でも書いたように、「辞典」を確認すると(これも「今頃」なのですが)、「若佐村」「追分村」はやはり分立で、総理庁・総理府告示と一致しました。よって、若佐村追分村とも「分立」で処理させていただきます。
でも、やはり気になるのは、「市制町村制」時代の「分立」 or 「分割」です。しかも、北海道は一級町村制・二級町村制ですから、他の地域とはさらに異なるルールかも。一番間違いないのはやはり「北海道告示」でしょう。
「総覧」には、「分村により一級町村制を施行した村名」なる記載があります。例えばT8(1919).4.1に紋別郡上湧別村が上湧別村と遠軽村に分かれた際に、遠軽村がこの「分村により一級町村制を施行した村名」として挙げられています。つまり、上湧別村は『当然のこととして』一級町村制です。これも、「総覧」の本文では「分割設定」の表現なのですが、やはり「『分割』となっているが実は『分立』」と解釈するのが正答かもしれません。「辞典」も、「分割」でなく「分立」でした。このため、遠軽村は分立としてとりあえず変更して処理しました。

「分立」「分割」に限っては、資料の優先順位を、
(1)総理府等の告示
(2)「辞典」
(3)「総覧」
にしようかと思います(従来は、「辞典」よりも「総覧」を一次資料にし、適宜総理府等の告示で補足していました。一致しなければもちろん告示優先。)。「市制町村制」時代は市以外は国の告示ではなく、都道府県告示しかないということですので([55276] Issieさん)、(1)を都道府県告示と読み替えます。
なお、これは当面の話であり、もちろん有力な資料があればそれに従います(やはり特に戦前の都道府県告示を確認したい)。また、この優先順位は「分立」「分割」限定としておきます(「辞典」は、「分立」「分割」に関しては法人格の継続をよく抑えた表現のようですので)。
今後、当面、「辞典」を確認の上、「辞典」に沿って順次当面処理しようと思います。

その3 「下夕村」 or 「下タ村」について
[55663]白桃 さん
富山県上新川郡に標記の村があり、「シタムラ」と読んでいたようですが、そうなると、「タ」は夕方の「夕」ではなく、カタカナの「タ」だったのですかね?
すでに皆様からのレスもありますが、私の手持ち資料5点(冒頭のもの)及び官報情報検索サービスの告示を再確認しました。すべて、明白に「夕(ゆう)」ではなく「タ(た)」でした。よって、修正しました。ありがとうございました。

毎度ながら、長文で失礼しました。


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