[74498][74499]hmt 「下ノ関市」の謎
[74509] oki さん 「下ノ関」に関する資料
2-Bの3コマには、これ【税務署の改称など】が同年6月1日付で施行された赤間関市から「下関」市への改称に伴うものであることが明記されています。
右ページの“山口県下赤間関市ヲ下関市ト改ムル件 明治35年4月許可 同6月1日施行”との記載ですね。
このペンで記された参照事項が示すことは、“内務大臣の許可を得て制定された市条例が6月1日に施行され、赤間関市から直接「下関市」になった”という事実と思われますが、ここでも「施行」の対象(市条例と推測)が示されていません。
[74506] Issie さんの、“「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!”という意見もありますが、「しものせき」をどのように表記するかについて、当事者は 結構議論をしていたようです。
改称の前年、明治34年11月14日大阪朝日の記事。(明治ニュース事典 第6巻p.768)
赤間関市が名称を改めんとする事はしばしば報道を経たるが、「しものせき」と改称することは市会の是認する所なるも、なおこれを書する上に就いて、或いは「下の関」と仮名の「の」を挿入すべしと言い、或いは「の」の字は言辞の上の接続助辞に過ぎざれば、これを省略して 単に「下関」となすべしと言い、或いは漢字の「之」の字を挿入するを可なりと主張する論者ありて、容易に決定せざりしが、ようやく 11日の市会にて「之」字を挿入し 下之関とするの説多数を占め、ついにこれに可決したれば、直ちにその旨参事会に向かい答申の手続きに及びたり。
続報は記録されていませんが、条例案の段階で 下之関市→下ノ関市→下関市 と三転したのでしょう。
もう少し前の時代の漢文訓読に基づく表記法であれば,この場合の「ノ」は行の隅に小さく書かれるべきものであって“正規の文字”であるかどうかは甚だ曖昧。漢文の感覚が残っていれば,むしろ「ノ」がない方が“より正式”なのかもしれませんが…
西郷隆盛、坂本龍馬等と滞在中の 中岡慎太郎が
下関から郷里に出した手紙 には、「下之関」と「下ノ関」の両方が使われていました。
助辞を表記した用例は、幕末の私信を出すまでもなく、明治政府の公文書にもありました。
明治28年に結ばれた
日清講和条約公布の勅令 には、「下ノ関」と表記されていました。
朕明治28年4月17日下ノ関に於て朕が全権弁理大臣と清国全権大臣の記名調印したる講和条約及別約を批准しここに之を公布せしむ
助辞のことはさておき、世間で最も通用していたこの町の呼び名は、昔から「下関」だったようですが、政府は安徳天皇阿弥陀寺陵の付近の地名と思われる「赤間」を好んで使ってきたのですね。
遡れば明治5年の山口県赤間関支庁。明治8年の赤間宮、明治12年の赤間関区
[7772]、明治22年の赤間関市
[34434]。
明治8年10月25日太政官達【上海定期航路の郵便汽舩下関へ寄港】では
「下関港」 で開港したが、赤間関市に伴い赤間関港に改称。
異例とも思われる明治35年の改称は、公式にも使われてきた 自分たちの町の名「下関」を 市名として取り戻したい とする地元の要望によるものでした。
「馬関」という呼び名もありましたが、これは「赤間関=赤馬関」の略称由来でしょう。
敢えて言えば、溝の口を「のくち」
[74419]と呼ぶのと同類?
でも、馬関は 結構広く使われたようで、
山陽鉄道 [61226]の駅名は「馬関」でした。
鉄道唱歌の 1900年には 工事中でしたが、翌年開通。市名を改めた 1902年 には 駅名も 港湾名も 「下関」になりました。
25 出船入船たえまなき 商業繁華の三田尻は 山陽線路の終わりにて 馬関に延ばす汽車の道
27 【門司の】向の岸は馬関にて 海上わずか二十町 瀬戸内海の咽首を しめてあつむる船の数
上下地名 の下関は、瀬戸内海の防長三関(
上関・中関・下関)由来。
[16393] ペーロケさん と
[18420] Issie さん が言及しています。
「Shimonoseki」は、「下関戦争」によって 国際的にも知られた地名でした。
文久3年(1863)に「攘夷」を決行した 長州藩による海峡封鎖→元治元年(1864)の四国艦隊砲撃事件。
この戦争は「馬関戦争」とも呼ばれますが、赤間関戦争は聞いたことがありません。