都道府県市区町村
落書き帳

���m�ցH

… スポンサーリンク …



[123] 2001年 1月 21日(日)18:02:43Issie さん
合体改称市制
>グリグリさん
時間の制約もあるので(何しろお役所ですから一般利用は5時までです。職場から都心までは2時間近くかかるので時間があまりありません),調査に行く前に,以前に作成した「市一覧表」から「改称の行われた市」のリストを作って,それについてだけ確認する方法をとりました。常陸太田市の場合は「常陸太田町」からの市制としてあったので,絞込みには引っかからず,確認をしていないのです。
同じく,陸前高田市のように合併で新設された市についても今回は省略しました。この場合,“従前の自治体”が「廃止」されてその区域に改めて「新自治体」が設置された,と解釈すべきだと考えたからです。
ただし,「赤間関市→下関市」の改称についての確認をしている際に,偶然,広島県の「呉市」が「安芸郡呉町」からの市制施行で設置されたという内務省告示をみつけました。でも手許の資料では呉市は「和庄町」以下の合併による改称市制となっています。
戦前の「市制・町村制」下では「市」を設置する場合だけ内務省が告示するという制度だったようで,町村の廃置分合や市の改称(町村も)については内務省告示には掲載されていません。
多くの資料では呉市は和庄町以下の合併市制で発足したと記載されていますから,告示を信用するとすれば合併によって一旦「呉町」が設置された後,即日市制が施行されて「呉市」になったのかもしれません。
戦後の「地方自治法」の下では町村の廃置分合や自治体の解消についても告示される(総理庁→総理府→自治省)ことになっていますからこのあたりの確認はもう少しやりやすいとは思いますが,呉市のように合併の際に“新しい名称”で「町」が発足し,それが即日「市」に昇格した,という例があるかもしれません。
[882] 2002年 2月 12日(火)21:56:56Issie さん
防府と長府
「防府」というのは,もちろん「周防府中」の略称です。
近世以来,この地にある集落は「三田尻」と呼ばれていますが,同時に「防府(周防府中)」という地名も行われたようです。
一般に1つの土地に対して2つ以上の地名が行われることは消して珍しいことではありません。
信濃善光寺の門前町は一般に「善光寺(宿)」と呼ばれていましたが,同時に「長野村」という名称もありました。現在の市名・県名はつまり「善光寺」ではない,こちらの名称によるものです。
あるいはまた,直江津の周辺はここに越後国府があったことから「越後府中」と呼ばれたことがあります。室町時代後期,越後守護代として守護大名の上杉氏以上に反映した長尾氏の中で,本家筋でこのあたり(頸城=下越地方)に勢力を持った系統は「府中長尾氏」と呼ばれていました(なお,「直江津」というのも古代以来の伝統を持つ,たいへんに古い地名です)。
長門の「下関」には,「赤間関」と「馬関」という2つの別称がありました。日清戦争後の講和条約である「下関条約」は,当時むしろ「馬関条約」の名で呼ばれたし,ここに設置された市ははじめ「赤間関市」という呼称でした。しかし,一般には「下関」という呼称が行われていたので,やがてこちらに統一されたという次第です。
「防府」の場合は,これが公式の行政地名として採用されたのは三田尻村が佐波村と合体して町制を施行した1901年のことです。ここで「防府町」というのは正式な自治体名となりました。その後,国鉄山陽線の駅も「防府」と改称されます。

「長府」は,やはり「長門府中」のこと。
ここには藩政時代,萩の毛利本家の分家を藩主とする「府中(長府)藩」が置かれました。長府(長門府中)は当然,下関(赤間関・馬関)とは独立した別個の市街を構成していました(下関は長府藩ではなく,萩の本藩の直轄だったのでは?)。今でこそ,長府は下関市の一部ですが,歴史的にはお互いに別々の都市だったのです。

このほかに「駿府=駿河府中」や「甲府=甲斐府中」というのが有名ですね。
ただし「甲府」の場合,律令時代の甲斐国府はここにはなく,笛吹川をはさんだ八代郡,現在の石和町から御坂町にかけての地域にありました。川の対岸の山梨郡域に現在の「甲府」という地名が生まれる直接の由来は律令時代ではなく,中世に甲斐一国を支配した武田氏の本拠が現在の甲府に置かれ,ここが甲斐国の主都とされたことによります。
この武田氏の本拠であった場所には「古府中」という地名がありますが,これが律令国制下で一時期ここに国府が置かれたことによるのか,武田氏がここに本拠に置いたことによるのか,それとも戦国末期に武田勝頼が現在の韮崎市に本拠を移した(「新府」とよばれる)ことへの対比なのかはわかりません。

「駿府(駿河府中)」の場合は,1869年の版籍奉還の際に「静岡」と改称されています。
これは徳川宗家第16代の徳川家達が明治政府から知藩事に任命されるに際して,「ふちゅう」では「不忠」につながるので改称したと説明されています。
しかし,これと同時に「常陸府中藩」が「石岡藩」に,「対馬(府中)藩」が「厳原藩」にと,全国の「府中藩」が一斉に改称されているので,これは「駿府藩」独自の問題ではないようです。
いずれにせよ,これによって全国の「府中」という地名が減ったことは確かです。

「防府」や「長府」「甲府」の例にならえば,当然「芸府」や「武府」という呼称があっても不思議ではありません(「備府」では備前か備中か備後か区別がつかないので,こういう呼称はありませんが)。
でも結局,実際には行われなかった。それだけのことです。
なお,国土地理院の地形図ではよその「府中」と区別するために,東京都の府中を含む図幅については「武蔵府中」という名称を使用しています。
[27855] 2004年 5月 3日(月)01:53:28Issie さん
内務省告示
[27853] 地名好き さん
まず官報で再度、整合性のチェックをおこなっておきたいと考えており、

旧憲法および市制・町村制下では,「市」の異動(新設・合体)については内務省から告示がなされ,それが官報で公開されるという手順がとられていますが,町村の廃置分合については内務省が告示する事項ではなかったようで,官報や法令全書には掲載がないようです。町村の既存の「市」への編入も,告示はされていません。
既存の「市」の,他の既存の「市」への“編入”については,実例がないので不明です。
また,赤間関市 →下関市 の“改称”に関わる告示を見つけ出すこともできませんでした。

現行憲法・地方自治法体制になって,町村の廃置分合も内務省(→総理庁→総理府→自治省→総務省)が告示する事項となり,官報・法令全書であとをたどることが可能になります。

…というわけで,あたしが町村の異動に関して告示番号を確認してあるのは1965年10月1日以降の分だけなのでした。1954年3月末からしばらくなんて,とても確認する気になりません。だから,ここは「市」の分だけ。

政令指定都市の「区」の廃置分合は,現在も総務省の告示事項ではないので官報には掲載されません。

そういえば(既に日付が変わっているので),
本日が,その現行憲法・地方自治法体制に移行して,ちょうど57年目の当日なのでしたね。
それで「休み」なわけだ。
[74498] 2010年 3月 31日(水)17:59:14hmt さん
「下ノ関市」の謎 (1)1902年に赤間関市から改称した市の名前は?
&KOMA[74496] むっくん さん 郡区町村編制法時の各府県布達
開拓使 乙第4号布達 M12.7.23
この布達の存在は[62816]で触れていたのですが、資料を見つけることができずにおり、[74362]でも未確認と記していました。

今回リンクしていただいた文書には、函館市史に引用された通りの文言が記されているので、これが「乙第4号布達」の内容を掲載した資料であることに、間違いはないように思われます。
しかし、資料自体には“明治12年7月23日(開拓使)”と記されているだけで、布達番号は記されていません。

この資料は、「府県及北海道境域沿革一覧」(内閣統計局編、明治43年東京統計協会)という2冊本に集録された資料「第三編 府県及北海道境域沿革に関する詔勅並諸法規」の一部で、詔勅、布告及太政官達、…法律、…内務省告示と並んだ最後にある「其他」に分類されています。
開拓使や府県発のものを、統計局が官報から集録した資料と推察しますが、布達告示等の種別番号が記されていません。

それはさておき、リンク資料の前後のコマを眺めていたら、「下ノ関市」 を発見しました。
明治35年4月5日
山口県管下長門国豊浦郡赤間関市を下ノ関市と改称し同年6月1日より実施(同上)

新聞社の単純ミスと思われる愛知県田原市市[74433]と違い、これは見過ごすことができません。

(同上)と記された部分は(本局編纂の郡市町村廃置分合表に拠る)の意味なので、統計局の 郡市町村廃置分合一覧表 を見ました。
この資料は、明治31年末からの5年毎でまとめられており、4冊で20年分(1898年末-1918年末)があります。リンクした頁には、明治36年末までの5年間の郡市廃置分合が一覧表になっており、次の通り記されています。
広島県安芸郡呉町→呉市   明治35年10月1日実施
山口県赤間関市 →下ノ関市 明治35年6月1日実施

内閣統計局がまとめた 明治36年12月31日現在の 市町村別現住人口でも 下ノ関市44734人 となっています。

「明治35年4月5日」の改称告示?の出所が明確でないのですが、統計局の複数の資料で「下ノ関市」となっていることから、「下ノ関市」で告示されたことは間違いなさそうです。

ところが、下関市HP内を「下ノ関」で検索してもヒットする資料はありません。
水道事業の沿革、下関市立中央病院、こども市報(下関の歴史をのぞいてみよう)などを見ても、1902年「下関市」となっています。
下関市は、明治22年市制施行と同時に「赤間関市」として誕生し、明治35年に「下関市」と市名を改め、平成14年6月に市名誕生百周年を迎えた。
[74499] 2010年 3月 31日(水)18:32:19hmt さん
「下ノ関市」の謎 (2)1889年赤間関市→1902年下ノ関市→?下関市
明治23年4月1日に市制を施行した「赤間関市」。
その根拠とされる明治22年内務省告示第1号で使われた文言は、[62504] むっくん さん の記事にあるように、
明治二十一年法律第一号市制第百二十六条ニ拠リ市制施行地左ノ通指定ス
山口県管下  赤間関
でした。

「市制施行地」が「赤間関」と指定されたのであって、市名を「赤間関市」にせよとは言っていない。
だから、市名には最初から「下関」を使っても「馬関」[882]を使ってもよかった。しかし、ともかく「赤間関市」で発足。

これを改名した告示については、落書き帳の草創期から Issieさん が気にしていましたが[123]、結局は未発見のまま[27855]
赤間関市 →下関市 の“改称”に関わる告示を見つけ出すこともできませんでした。

[74498]で記したように、内閣統計局編「府県及北海道境域沿革一覧」の中に、改称告示らしい「明治35年4月5日」という日付がありました。
そこで、私もこの日付付近を閲覧してみましたが、改称の内務省告示 は、確かに不存在。

よく考えてみると、「市制施行地」の指定権を持つのは内務省だが、「市名」を決めるのは地方に任されており、例えば(市制121条により内務大臣の許可は必要だが)市条例で改名することができるのではないか…と思われます。
だとすると、出所が明らかでなかった赤間関市→下ノ関市 の改称告示は「市条例」だったのかもしれない。
そして、同じように下ノ関市→下関市も「市条例」レベルでOK。

実際問題として、「下ノ関市」が存在したのはごく短期間だったのでないかと推測します。
だから下関市民は明治35年6月から「下関市」になったと信じている。
この状況では、「ノ」が取れて「下関市」になった日付を明らかにすることは、新発見の有力な資料がない限り困難でしょう。

遠く離れた東京にいる内閣統計局は、「下関市」になったことを知らなかった可能性があります。
昔の人はおおらかですから、「ノ」の有無を気にして、注意する人もなく放置された可能性があります。
明治37年12月31日官報の記載「下ノ関市」をもって、少なくともこの時までは「下ノ関市」だったとする証拠にはならないと思います。

遅くとも 大正2年(1913)の日本帝国人口静態統計 では、内閣統計局も「下関市」であることに気がつき、表記を「下関市」に改めています。

同じ頃の 改正新旧対照市町村一覧(鐘美堂1913) でも同様に下関市になりました。
[74506] 2010年 4月 1日(木)00:24:53Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
[74498] hmt さん
それはさておき、リンク資料の前後のコマを眺めていたら、「下ノ関市」 を発見しました。

なるほど。そういうものがありましたか。
ここまで来れば,「ノ」の有無は全く問題にならないと思います。十分,「誤差の範囲」に収まるのではないかと。

[74499] hmt さん
昔の人はおおらかですから、「ノ」の有無を気にして、注意する人もなく放置された可能性があります。

もう少し前の時代の漢文訓読に基づく表記法であれば,この場合の「ノ」は行の隅に小さく書かれるべきものであって“正規の文字”であるかどうかは甚だ曖昧。漢文の感覚が残っていれば,むしろ「ノ」がない方が“より正式”なのかもしれませんが,それほど気にすることではなかったような気がします。“かな”の形だって,ようやく学校教育の現場で統一されたばかりの時代で,日本語の「正書法」はまだ確立していません。周りを見渡せば“表記の揺れ”など,いくらでもあったであろうし,それを“揺れ”とも思わない時代であったでしょうから。
「ケ」の大小でさえ「正しい」か「正しくない」かを問題にする“潔癖症”的な現代とは感覚が違うと思います。

※そんなわけで日付が変わり,迷惑なことに我が家の住所が3文字分長くなってしまいました。さっそく,本日付で行われる公立学校教員人事を伝える昨日付けの新聞の折込特集では,相模原市の小中学校が「一般市町村」から離れて横浜市や川崎市と同じ扱いになっていました(←政令指定都市になると威張っていながら,横須賀市にはある「市立高校」さえ自前で持たずに,高校教育は県に全面的におんぶ)。もう,人事権が県を離れたということなのでしょうね。
まだ,新しい郵便番号をおぼえていません。
[74509] 2010年 4月 1日(木)01:00:02oki さん
「下ノ関」に関する資料
[74498] hmt さん
[74499] hmt さん  「下ノ関市」の謎

実際問題として、「下ノ関市」が存在したのはごく短期間だったのでないかと推測します。
だから下関市民は明治35年6月から「下関市」になったと信じている。
この状況では、「ノ」が取れて「下関市」になった日付を明らかにすることは、新発見の有力な資料がない限り困難でしょう。

「下ノ関」の名称が記載された資料をご紹介します。税務署の名称と管轄地域に関する勅令、およびその関連資料計4件で、国立公文書館のデジタルアーカイブで見つけました。
資料名称は次の通り。

1-A:
1902(明治35)年1月16日付「明治三十五年勅令第二号」
同年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更
1-B:
1901(明治34)年12月28日付上記勅令「案」

2-A:
1902(明治35)年6月14日付「明治三十五年勅令第百六十二号」
同年7月1日付で、「下ノ関」税務署が「下関」税務署に名称変更。同時に、下関税務署の管轄区域を赤間関市から「下関」市に改称
2-B:
1902(明治35)年6月4日付上記勅令「案」

まず資料1-Aから、1902(明治35)年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更されていることが分ります。言うまでもありませんが、この時点で存在するのは「下ノ関」市でも「下関」市でもなく、赤間関市です。
次に、2-Aにより、同年7月1日付で、2月に改称されたばかりの「下ノ関」税務署が再度「下関」税務署に改称され、同時に下関税務署の管轄区域が赤間関市から「下関」市に変更されています。
2-Bの3コマには、これが同年6月1日付で施行された赤間関市から「下関」市への改称に伴うものであることが明記されています。

以上の資料から判断すると、赤間関市が「下ノ関」市を経て「下関」市と改称された可能性は薄いと思います。資料2-A・Bは、いずれも「下ノ関」税務署から「下関」税務署への改称に関するもので、「下ノ関」と「下関」との相違を充分に理解した上で作成されています。したがって、いったん「下ノ関」市に改称された上で「下関」市になったのだとすれば、資料2-Bにその旨が明記されてるはずです。それがない以上、1902(明治35)年6月1日に、直接「下関」市になった、と判断する方が妥当ではないでしょうか。
なお、資料2-Bには「赤間関市を下関市と改むる件」について「明治35年4月許可、同6月1日より施行」とあり、「府県及北海道境域沿革一覧」に記載された「明治35年4月5日」は、この「許可」の日付だろうと推測されます。

ただ、以上が正しいとしても、まだ疑問は残ります。資料2-Aで「長府」税務署から「下ノ関」税務署に改称されたのはなぜか、また、「府県及北海道境域沿革一覧」や内閣統計局による「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市という市名が使用されている理由は何か、が分らないからです。
で、以下は推測です。
まず、「長府」税務署から「下ノ関」税務署への改称は、税務署が当時の長府村から赤間関市に移転したためだと考えられます。「赤間関」税務署にしなかったのは、その時点(遅くとも1-Bの発行時点である1901年年末段階)で、「下ノ関」市への改称が規定方針であったからでしょう。しかし、実際には「下ノ関」市ではなく「下関」市になった。そのため、改めて「下関」税務署に名称変更する必要が生じたのだと思います。
また、「府県及北海道境域沿革一覧」や「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市が使われているのは、もともと「下ノ関」市に改称されるはずであったのが「下関」市になってしまったため、政府部内に混乱が生じ、一部資料に「下ノ関」市の表現が残ったためではないかと考えます。
以上、あくまで推測ですが、ご参考になれば。

上記を投稿しようとしたところで、、
[74506] 2010 年 4 月 1 日 (木) 00:24:53 Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
を目にしましたが、そのまま書き込みます。
大蔵省(税務署関係)は「下ノ関」と「下関」の相違に厳格に対応したのに対し、他のお役所は「ノ」の有無にこだわらなかったのかもしれません。
[74715] 2010年 4月 5日(月)13:33:25hmt さん
「下ノ関市」の謎 (3)「下之関」もあったが…
[74498][74499]hmt 「下ノ関市」の謎
[74509] oki さん  「下ノ関」に関する資料
2-Bの3コマには、これ【税務署の改称など】が同年6月1日付で施行された赤間関市から「下関」市への改称に伴うものであることが明記されています。

右ページの“山口県下赤間関市ヲ下関市ト改ムル件 明治35年4月許可 同6月1日施行”との記載ですね。
このペンで記された参照事項が示すことは、“内務大臣の許可を得て制定された市条例が6月1日に施行され、赤間関市から直接「下関市」になった”という事実と思われますが、ここでも「施行」の対象(市条例と推測)が示されていません。

[74506] Issie さんの、“「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!”という意見もありますが、「しものせき」をどのように表記するかについて、当事者は 結構議論をしていたようです。
改称の前年、明治34年11月14日大阪朝日の記事。(明治ニュース事典 第6巻p.768)

赤間関市が名称を改めんとする事はしばしば報道を経たるが、「しものせき」と改称することは市会の是認する所なるも、なおこれを書する上に就いて、或いは「下の関」と仮名の「の」を挿入すべしと言い、或いは「の」の字は言辞の上の接続助辞に過ぎざれば、これを省略して 単に「下関」となすべしと言い、或いは漢字の「之」の字を挿入するを可なりと主張する論者ありて、容易に決定せざりしが、ようやく 11日の市会にて「之」字を挿入し 下之関とするの説多数を占め、ついにこれに可決したれば、直ちにその旨参事会に向かい答申の手続きに及びたり。

続報は記録されていませんが、条例案の段階で 下之関市→下ノ関市→下関市 と三転したのでしょう。

もう少し前の時代の漢文訓読に基づく表記法であれば,この場合の「ノ」は行の隅に小さく書かれるべきものであって“正規の文字”であるかどうかは甚だ曖昧。漢文の感覚が残っていれば,むしろ「ノ」がない方が“より正式”なのかもしれませんが…

西郷隆盛、坂本龍馬等と滞在中の 中岡慎太郎が 下関から郷里に出した手紙 には、「下之関」と「下ノ関」の両方が使われていました。

助辞を表記した用例は、幕末の私信を出すまでもなく、明治政府の公文書にもありました。
明治28年に結ばれた 日清講和条約公布の勅令 には、「下ノ関」と表記されていました。
朕明治28年4月17日下ノ関に於て朕が全権弁理大臣と清国全権大臣の記名調印したる講和条約及別約を批准しここに之を公布せしむ

助辞のことはさておき、世間で最も通用していたこの町の呼び名は、昔から「下関」だったようですが、政府は安徳天皇阿弥陀寺陵の付近の地名と思われる「赤間」を好んで使ってきたのですね。

遡れば明治5年の山口県赤間関支庁。明治8年の赤間宮、明治12年の赤間関区[7772]、明治22年の赤間関市[34434]
明治8年10月25日太政官達【上海定期航路の郵便汽舩下関へ寄港】では 「下関港」 で開港したが、赤間関市に伴い赤間関港に改称。

異例とも思われる明治35年の改称は、公式にも使われてきた 自分たちの町の名「下関」を 市名として取り戻したい とする地元の要望によるものでした。

「馬関」という呼び名もありましたが、これは「赤間関=赤馬関」の略称由来でしょう。
敢えて言えば、溝の口を「のくち」[74419]と呼ぶのと同類?

でも、馬関は 結構広く使われたようで、山陽鉄道 [61226]の駅名は「馬関」でした。
鉄道唱歌の 1900年には 工事中でしたが、翌年開通。市名を改めた 1902年 には 駅名も 港湾名も 「下関」になりました。
25 出船入船たえまなき 商業繁華の三田尻は 山陽線路の終わりにて 馬関に延ばす汽車の道
27 【門司の】向の岸は馬関にて 海上わずか二十町 瀬戸内海の咽首を しめてあつむる船の数

上下地名 の下関は、瀬戸内海の防長三関(上関・中関・下関)由来。
[16393] ペーロケさん と [18420] Issie さん が言及しています。

「Shimonoseki」は、「下関戦争」によって 国際的にも知られた地名でした。
文久3年(1863)に「攘夷」を決行した 長州藩による海峡封鎖→元治元年(1864)の四国艦隊砲撃事件。
この戦争は「馬関戦争」とも呼ばれますが、赤間関戦争は聞いたことがありません。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示