都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[17077]2003年6月20日
だんな
[24754]2004年2月11日
Issie
[29624]2004年6月23日
千本桜
[48827]2006年1月29日
グリグリ
[65046]2008年5月10日
Issie
[65065]2008年5月11日
淡水魚

[17077] 2003年 6月 20日(金)17:25:33だんな さん
風とともに去りぬ
台風6号は九州を中心に大変だったみたいですね。こちらは夜中に温帯低気圧にかわったものの、風が強くて目が覚めました。それでもとくに何事も無かったように朝は静かでした。と思いきや、夕刊を読んだところケヤキの木が倒れた写真が載っておりまして、どこかでみたような場所だと思ったら私の住むマンションの前に植えてあった木でした。

さて風といえば[17053]白桃さんの
皆様、お住まいのところにはどんな風が吹いていて、なんという名前がついているか、お教えください。
ですが、能登や富山の方では海の幸を運ぶといわれる東風のことを能登ではあえの風、富山ではあいの風と呼んでおります。由来は大伴家持が詠んだ「東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」の歌だそうです。
参考ホームページ  http://www.i-kaze.net/mokuji/

そういえば去年の忘年会は和倉温泉の「あえの風」でやりました。あの加賀屋グループだけに豪勢だったような気がします。というのも酔っぱらって途中で記憶がなくなっているので推測で書いております。
[24754] 2004年 2月 11日(水)23:22:42Issie さん
あづまうた
[24699] みやこ さん
万葉集

手許にある旺文社文庫「現代語訳対照 万葉集」(桜井満訳注)をひっくり返して探してみました。
巻八に収録されている「東歌」の中に当該の歌があるのですね。

3404 上野(かみつけの)安蘇の真麻群(まそむら) かき抱(むだ)き寝(ぬ)れど飽かぬを あどか吾(あ)がせむ
 *現代語訳:上野の安蘇の麻の束をかき抱くように,あの子をかき抱いて寝ても満ち足りないのに,これ以上どうしたらよいであろうか。

他の歌にも上野の地名が入っています。
3402:碓氷の山
3403:多胡の入野(いりの)
3411:多胡の嶺(ね)
3405:乎度(をど)の多杼里(たどり)が川路 (或る本:小野の多杼里が安波路[あはぢ])
3406,3420:佐野
3418:佐野田(=佐野の田)
3408:新田山(にひたやま)
3409,3410,3414,3415,3419,3422,3423:伊香保
3421:伊香保嶺(=榛名山?)
3412:久路保(くろほ)
3413:利根川
3416:可保夜(かほや)が沼
3417:伊奈良(いなら)の沼
3407:麻具波思麻度(マグハシマド:比定地不詳)

伊香保が人気ありますねえ。
佐野も意外に,…って後には安蘇郡ともども「下野」ですね。
「黒保根」の元になったとも思える地名も登場しています。

続いて下野国の歌が2首収録されています。

3424:下野(しもつけの)“みかも”の山の小楢のす まぐはし子ろは誰(た)が笥(け)か持たむ
 *現代語訳:下野の“みかも”の山の小楢のように,美しいあの子は,いったい誰の食事の世話をするのであろうか。(※文庫では“みかも”は漢字表記)

3425:下野(しもつけの)安蘇の河原よ 石踏まず空ゆと来(き)ぬよ 汝(な)が心告(の)れ
 *現代語訳:下野の安蘇の河原を,石を踏まずに宙を飛ぶようにやって来たよ。さあ,お前さんの本心を言っておくれ。

「安蘇」や「佐野」の帰属をめぐる考察は私にはできないのですが,1つ気になるのは,この歌集に収録された歌は必ずしも「同時代」のものとは限らなくて,その時代から見た「昔」から歌い継がれてきた“古典”も含まれているのではないかなあ,ということ。

「万葉集」が編纂にかかわったのは橘諸兄や大伴家持たちで,律令国家最盛期の奈良時代後期。
でも一方で,地方の行政区画は少なからず変更が続いていたのですよね。
それぞれの領域がおおよそ固定されて詳細に記録されるのは,平安時代になってからのことです。
まして,家持の時代から百年前には国・郡の制度の形成期で大いに流動的でした。
[29624] 2004年 6月 23日(水)22:12:18【1】千本桜[軒下提灯] さん
史都、阿武隈市、平野コレクション
[29440]なおさん
史都とは何のことでしょうか?
史都・多賀城の場合の史都とは、歴史ある都市および史跡ある都市の意味だと思います。多賀城市には陸奥国府「多賀城政庁跡」や九州太宰府観世音寺に似ていたとされる「多賀城廃寺跡」などの史跡が多くあります。また、奈良時代には歌人としても知られる大伴家持が赴任した土地であり、「末の松山」「野田の玉川」といった「歌枕」の多い土地でもあります。

[29452]月の輪熊さん
「阿武隈市」で応募することにします。
角田市、丸森町の合併新市名も結構難しいですね。仙南市、伊具市なども考えられますが、狭義の仙南地域で「仙南」を冠称する事業所・企業が多いのは大河原町、柴田町、白石市、角田市の順。そのことからすると、角田・丸森は少し外れている感じがしないでもありません。「伊具」ですが、これは世代によって受け止め方が違ってくるようです。明治大正生まれの人は「伊具という地名」から地域を色つきでイメージできるのでしょうが、私のような若年層にはセピア色に見えてしまう。月の輪熊さんや牛山牛太郎さんには伊具ってどんな色に見えるのだろう。そんなことを考えると、「阿武隈市」いいかも!。

愛比売命さん
平野コレクションの編集、おつかれさまです。ひとつ気になったのですが、北上川を挟んで東岸を江刺平野、西岸を胆沢平野とするならば、江刺平野の主な市町村は水沢市じゃなくて江刺市になるのではないでしょうか。水沢市の主要部は胆沢平野に位置していると思います。細かいことですみません。

訂正機能で追加書込みします。平野コレクションでいま気が付いた所。
相馬平野の主な川・宇田川→宇多川
信達平野・しんたち→これは「しんたつ」ではないでしょうか。福島市の人と会話するとき、いつも「しんたつ」と発音していて注意されたことが無かったから、たぶん「しんたつ」だと思います。
諸戸平野・もろと・双葉郡波江町・夏井川→これはたぶん、請戸平野・うけど・双葉郡浪江町・請戸川のことですね。
[48827] 2006年 1月 29日(日)19:31:33【2】オーナー グリグリ
奥の細道のルート【第十回 全国の市十番勝負 出題者雑感(問七)】
[48825] 2006 年 1 月 29 日 (日) 18:43:08【1】 EMM さん
ここを見ていると、越中の段の中に氷見の地名が織り交ぜられていることが説明されていました。
(中略)
その後改めて原文を詠み返すと、「行こうとしたけれども、地元のものに聞いたらあちらは貧しい漁村だから宿を貸してくれる家は無いだろうといわれたので行くのを止めた」というような内容でした。
芭蕉は古くは大伴家持も歌った有磯海に行きたかったようですね。次の句が有名です。
「早稲の香や分け入る右は有磯海 」
氷見市についてはこの故事に因み該当しない市にと思ったのですが、あまりに詳細すぎると考え見送りました。

・想定解から長岡市が抜けていませんか?芭蕉は弥彦から出雲崎に行っていますが、途中通ったであろう寺泊町や和島村は1/1付けで長岡市と合併しています。
むむっ。。。本当ですね。自分自身が出題日の合併確認を怠っていました。確かに抜けています。[48823] は訂正しておきました。ご指摘感謝。

・上記サイト内には「敦賀から大垣までどういうコースを辿ったかは今もって分かっていない。」とあり、なんだか非常に気になります。まぁ、普通に考えれば北國街道から関ヶ原のほうに抜けるところでしょうけれども………???
そうなんです。この部分はよく分からなかったのでEMMさんと同じように普通のコースを想定しています。そう言う意味で北国脇往還が辛うじてかすめている長浜市は一番怪しいところです。

蛇足:
なお、加賀国内では芭蕉は9つの句を読んでいますが、その中でEMMがそらで思い出せるのは...
私は文句なくこの句です。「あかあかと日はつれなくも秋の風」 兼六園など金沢市内三ヶ所に句碑があります。
[65046] 2008年 5月 10日(土)00:50:43Issie さん
内平かに外成る,地平かに天成る
[65040] 淡水魚 さん
元号が「平成」に決まったときに、漢字が似てるけどいいのかなと

もう「平成」も20年ですね。
私,個人的には「元号法」という法律の思想背景が気に入らなくて,プライベートでは基本的に「平成」の使用を拒否しているのですが(でも,お役所でのお仕事と,Wikipedia への投稿では“大勢”に従って使用していますが),それでも20年も経てば,もう慣れてきました。
今を去る19年前のお正月,「へーせー」なる音と「平成」という表記には大いに違和感を感じたものですが。
あの頃確か,「平城天皇」がらみで「いいのかしら」なんて話が少しばかり流れていたようにも思います。
ともかく,過去の例に従えば(…と言っても,過去の例は3つしかないし,現行憲法下の「象徴」についてはただ1例があるのみなのですが),今の天皇はやがて「平成天皇」として歴史に記されるのでしょう(…でも,今はまだ「平成天皇」は存在しないし,こんな名前で“あの人”を呼んだら甚だ失礼なことになるのですが)。

天皇の名前と年号(元号)のバッティング,“本朝”ではすぐには思いつかないのですが,“唐土”ではあったりしなかったでしたっけ。「四千年の歴史」(←そういえば,最近あまり言いませんね)を誇るあそこでは,何でもありそうですが。
本朝ですぐに思いつくのは,「大伴」という名前の皇子が天皇になってしまった結果(嵯峨天皇の弟で次の天皇の淳和天皇),一族が政争に巻き込まれて犠牲者が出る中,大伴家持 が血を吐く思いで(たぶん)

 剣太刀(つるぎたち)いよよ磨(と)ぐべし いにしへゆ清(さや)けく負(お)ひて 来(き)にしその名ぞ(万葉集 巻20,#4467)

とまで詠ったウヂ名「大伴」を「伴」と変えさせられた例でしょうか。だから,伴大納言(ばんだいなごん)・伴善男(とも・の・よしお)という名前になるのですね。

※大伴氏は,奈良時代末期から平安時代初期にかけて,結構怪しげな動きをしています。長岡京の放棄と平安京への遷都にも少なからず絡んでいて,陸奥で軍事司令官(陸奥按察使持節征東将軍)在任中に亡くなった 大伴家持 もある大きな政治的事件に絡んで死後官位剥奪処分を受けています。生きていれば,きっと失脚して重い処分を受けていたでしょう(その後,名誉回復措置がとられていますが)。「万葉集」はその末期,ほとんど家持のプライベートな“歌日記”のようなものになっていました。そのままでいたら,きっと「万葉集」が世に出ることはなかったでしょう。

天皇の名前がらみで改称させられた地名に,常陸の「白壁郡」があります。
奈良時代に,元は「新治郡」とされていた地域(古代の「新治郡」は筑波山の北西側にあって,今私たちが「新治郡」と呼んでいる筑波山の南東側は,以前に話題になったように「茨城(むばらき)郡」の一部,…どころか,中心でした)を割いて「白壁郡」が設けられました。
ところが,この「白壁」とは奈良時代最末期の 光仁天皇 の名前であったため,この天皇が亡くなったときに,亡くなった天皇と同じ名前では恐れ多いとして,「白壁郡」が「真壁郡」に改称された,と伝えられています。
光仁天皇(白壁)は,天智天皇の孫で,桓武天皇のお父さん。「奈良時代」,すなわち 平城京 の時代とは,その前の 藤原京 の時代も合わせて,天武天皇・持統天皇 夫妻の血統が天皇となった時代で,2人の玄孫(やしゃご)である孝謙/称徳天皇(未婚の女性)を以てその直系が絶えてしまったために,白壁 に「おはち」がまわってきて思いがけず天皇になったわけです。
たとえばもし,聖武天皇の男の子が無事に成長して天皇になり,さらに息子が後を継いでいれば,白壁なぞに皇位がまわってくることもなかったでしょうから,「白壁郡」を「真壁郡」と改称することもなかったでしょう。現在の茨城県に「真壁郡」などという郡はなかったかもしれません(…あっ,すでに「真壁郡」は消滅していたっけ)。

それよりも,白壁の息子の 山部 が天皇になって(桓武天皇),長岡京から平安京への遷都なんていうことを思いつくこともなかったでしょうから,奈良が「1300年の都」を誇っていたかもしれませんね。
[65065] 2008年 5月 11日(日)09:24:11淡水魚 さん
伴大納言絵巻
[65046] Issie さん
本朝ですぐに思いつくのは,ウヂ名「大伴」を「伴」と変えさせられた例でしょうか。
応天門放火事件の人ですね。中国でも皇帝の諱を避けて漢字を変更させられた地名があるとか。あいにくと具体的な場所は失念しました。宮城県はあるお方のお住まいと字が同じであるため、お伺いをたてたところ「苦しからず」とのお返事をいただいて字を変えずに済んだそうです。

大伴氏で歌といえば「海行かば」を思い出します…。


[65045] YASU さん
小学生向けの教材である学研の「学習」が廃刊になるとの記事が出ていました。
当方も「学研のおばさん」に配達してもらっていました。付録が楽しみで。なつかしいな~。


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