都道府県市区町村
落書き帳

�n�}�̌�

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[17578]2003年6月30日
U+3002
[19579]2003年9月3日
太白
[19592]2003年9月3日
じゃごたろ
[33148]2004年9月20日
太白
[33199]2004年9月21日
hmt
[54516]2006年10月20日
hmt
[62550]2007年11月17日
hmt
[75460]2010年7月8日
伊豆之国
[75461]2010年7月8日
hmt

[17578] 2003年 6月 30日(月)15:40:08U+3002 さん
地図の向き
[17485]両毛人 さん
地図がなぜ北を上にしてつくられようになったかということにつきましては、一般的な説として、方位磁針が北を指し、また方位を知るために古くから北極星が目標とされていたため、というものがある

だとすると、かりに文明が南で生まれたとしても、必ずしも南が上ということにはならないですね。
南極星はないですし、すると、方位磁石が南を指す(正確にいえば、南を指すがわに印をつける)ともかぎらなそうです。

[17496]Issie さん
「北が上」というのが何を起源としているのか,私はよく知りません。
平城京(奈良)や平安京(京都)では確かに内裏が都の北端に置かれ,しかもそれぞれ大和盆地(奈良盆地)や京都盆地の北端に位置したせいで,地形的にも「北が高く,南が低い」という状況にあるのですが,これが「必然」とは必ずしも言えないと思います。

「天使は南面す」と言われますから、古来は「北が上」というのは自然な感覚だったと思います。
十二支の第1支「子」は真北で、五行説でも、第1行「木」は北です。
ただし、東アジアの地図は「北が上」ではなく、皇帝に見えるまま、つまり「南が上(というか遠く)」です。
私見ですが、現在の「北が上」という感覚は、古代の「北が上」とは断絶しており、ヨーロッパ起源だと思います。

以下、思いつくままに書き連ねます。

北を上とするのは、プトレマイオス『世界地理書』が起源と言われています。
プトレマイオスは円錐図法を採用したため、北を上にすると地図が正立三角形(△)になり、レイアウト上つごうがよかっらからだそうな。

ただ、「北が上」が主になるのは、ルネサンス以降です。
中世ヨーロッパでは、エデン(もちろん架空)の方角である東が上でした。
同時代のイスラムでは、南が上でした(理由は不明)。

天文学では、自然の法則として、北半球なら「北が上」です。
簡単な例では、(北緯35°なら)北極星の高度は35°、天の南極の高度は-35°です。
天の北極周辺の狭い領域では上下が逆転することもありますが、それ以外では常に「北が上」です。
ただ、これが地図の向きの確立と関係しているかどうかはわかりません。

天体望遠鏡では、視野が180°回転して見えます。
そのため、天体図(天体の地図)は、南が上に書かれることがあります。
近年になって、惑星探査機の写真をもとに地図が描かれるようになったからか、「南が上」の天体図は減りました。

神戸では、北を「上」、南を「下」と言うそうです。
標高/河流からでしょうね。
ただ、これは六甲山以北にまで適用されるのか、気になるところです。

オーストラリアの「南が上」地図は、観光客向けのみやげものらしいです。
[19579] 2003年 9月 3日(水)13:55:48【2】太白 さん
地図の向き
[19527] hmt さんの議論を興味深く拝見し、私もアーカイブスを見直しました。地名の議論からは外れますが、地図の向きについて一言。

[17578] U+3002 さん
「天子は南面す」と言われますから、古来は「北が上」というのは自然な感覚だったと思います。…ただし、東アジアの地図は「北が上」ではなく、皇帝に見えるまま、つまり「南が上(というか遠く)」です。私見ですが、現在の「北が上」という感覚は、古代の「北が上」とは断絶しており、ヨーロッパ起源だと思います。

知見もないので以下「私見」ですが…

U+3002さん指摘の、内裏が南向きという点とは逆になりますが、「神社仏閣の社殿が南向き」ということは関係ないのでしょうか。寺がなぜ南向きなのか、私は知らないのですが、神社については、日光で社殿内が祓い清められるように南向きになっているようです。古代・中世には地図を描くような場面は宗教が絡んでくる場面(寺社図)が多かったでしょうから、南斜面の山の上にある神社仏閣の見取り図を描くと、自然と北が上になるのではないでしょうか?

もっとも、これは国や地方全体の「地図」ではないですし、
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/shuu/gyoukizu1.html
などを見ると、やはり古代には「北が上」という感覚は一般的ではないようで、結論としては、私もヨーロッパ起源説を支持します。

余談ですが、神社仏閣が南向きというのは東アジア文化圏に限られており、同じ仏教圏でも上座部仏教のタイでは入り口は東向きです。これは、死者が「西方浄土」に向かうためだとか。他方、多くのキリスト教会は入り口は西向きでメインの祭壇は東側にあります。これも、エデンの東に関係しているのでしょうか。
(でも、キリスト教会の場合は「一般に西向き」とまでは言えないかな…)
[19592] 2003年 9月 3日(水)19:37:00じゃごたろ さん
地図の向き
こんばんは、じゃごたろです。

[19579] 太白さん
知見もないので以下「私見」ですが…

地図の向きの話題が出ていましたので、日本に限った話で私見をば。

まずは天皇家は天照大神の子孫とされてます。そして天照大神は太陽神であり、天皇家がその太陽神を奉る家系です。すると太陽を奉る天皇は当然「南面」して座することになります。そこから、内裏が北に位置して南面し、民衆が南に位置するという平安京などの配置に現れているのではないかと思います。

これを地図にした場合はどうなるでしょう。天皇(内裏)を下に置くのは恐れ多いということで、北が上になって描かれるようになったのだと思います。

ただ全ての地図が北が上だったかは疑問に思います。北が上でなかった地図も沢山存在し、その後北が上の地図が主流になっていったのではないでしょうか。
[33148] 2004年 9月 20日(月)23:54:12【1】太白 さん
江戸時代の地図を読む
先日、銀座の本屋さんの店頭で、古地図史料出版株式会社が復刻版として出している古地図のうち、嘉永江戸図(嘉永4年:1851年)を購入しました。いくつか気づきの点をご報告します。

1.地図は「西が上」
 版元の記載(縦書き)がきちんと見えるように地図を置くと、西が上になります。この描き方は、江戸時代の江戸の地図に共通しています。

2.”本郷もかねやすより先まで江戸のうち”
 この地図が表現する「江戸」の範囲は、
東端:三ツ目通り沿い?の運河
南端:北品川駅付近
北端:駒込駅付近
西端:新宿御苑付近(新宿御苑は公園ではなく、内藤駿河守ほかの屋敷)
 地図から推測するに、東側はさらに市街地が広がっているようですが、ほかの3方向は田畑がはじまっています。

3.屋敷の持ち主の記述は、「門の方向が上」
 例えば、江戸城(御城)は、正門、すなわち東方向が正面(上)です。このため、「御城」という記述は地図の上下と逆さまになります。
 このほか、”加州”(加賀藩邸:現東京大学)は西が上、”水戸殿”(現小石川後楽園)は南が上などと、記述の方向は入り乱れています。

4.石川島と佃島は1つの島
 19世紀半ばの時点で、隅田川東岸の海岸線は、現在の江東区永代~牡丹付近となっていました(だからこそ、当時の海岸の材木置き場が「木場」なわけですが)。隅田川西岸はおおむね現在と同様ですが、浜離宮より南では、現在の東海道線のラインが海岸線となっています。お台場や夢の島はもちろん、月島のもんじゃ焼きさえもありません。
 そんな中、唯一あったのが「石川島」と「佃島」。この2つはもともと別の島で、石川島はもともとあった無人島、佃島は江戸時代初期に浅瀬を埋め立てた人工島です。これらが一体化したのは、石川島に人足寄場が設置された18世紀末のことです。
 2つの島が一体化したとはいえ、現在の大川端リバーシティ21のごく一部(センチュリーパークタワーとイーストタワーズII?)に相当する非常に小さい陸地でした。
(参考) http://www.ihi.co.jp/ihi/ihi150/p/30.htm

5.新大橋は歴史がある
 当時、隅田川にかかる橋は江戸市中でわずか4つ。北から、東橋(ママ)、両国橋、新大橋、そして永代橋です。

6.溜池は池だった
 溜池の交差点にも表示がありますが、溜池は、江戸時代においては江戸城の外堀兼貯水池でした。徳川家光が泳いだという記録も残っています。ここが本格的に埋め立てられたのは、明治期、現在の特許庁付近に工部大学校を建設するためでした。

7.弁天島は陸続き
 不忍池の弁天島については、[32231] hmt さんが、
「陸続き」と疑われた不忍池(しのばずのいけ)の細道は、弁天様の参道です。
1:25000地形図によると、大正7年と昭和6年の間にできています。
とされていますが、地図を見る限り、東側からの参道が1本、つながっており、19世紀の時点ですでに「池中参道」があったようにうかがえます。
[33199] 2004年 9月 21日(火)22:51:03【2】hmt さん
Re:江戸時代の地図を読む
[33148]太白さん
この地図が表現する「江戸」の範囲
[33164] ryoさんが「朱引内」のソースとしてリンクされた東京都公文書館のHPには 江戸朱引図 があります。この図には 朱引線(御府内外境)と 町奉行支配境墨筋 とが記載されています。
この「墨引」範囲をたどってみると、東は猿江村のあたり [都営新宿線住吉駅付近] が張り出しているが、その他はほぼ大横川 [三ツ目通りの東の運河] の線です。北は駒込村、西は柏木村・千駄ヶ谷村までが墨引内。そして南は 下高輪町と北品川村の間に墨筋が引かれています。
太白さんの記述はこの「墨引」範囲を指しているようです。

リンク画像は「文政元寅年八月に江戸の範囲確定を評定所で評議し、十二月に老中決済を受けた」という趣旨のことが書いてある右端が切れているのですが、それでも「別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得」という勘定奉行の公式見解を読み取ることができます。

江戸東京博物館の図録「大江戸八百八町」に収録されている「旧江戸朱引内図」(上記リンク画像と同じ)から、朱引の内側に記入されている村の名を読みとってみました。
南品川町、下大崎村、上大崎村、白金村、中豊沢村、上豊沢村、上渋谷村、隠田村、代々木村、角筈村、鳴子宿、戸塚村、上落合村、長崎村、上板橋村、下板橋村、瀧川村、堀ノ内村、上尾久村、下尾久村、町屋村、三河島村、小塚原町、千住町組中川町、木下村、木下川村、葛西川村、亀戸村、小名木村、萩・又兵衛新田、中里新田村、八郎衛門新田、太郎兵衛新田

ryoさんもご指摘になっていますが、朱引の外にある中目黒村と下目黒村だけが町奉行支配の「墨引内」として突出しています。

ところで、[14798] Issieさんが紹介された
1989年に東京都が発行した「江戸復元図」によれば,1869(明治2)年の「朱引き線」は,以下の点を通過しています
の範囲は、文政元年の朱引の範囲より明らかに縮小されています。「御一新」による見直しがあったのでしょうか?

西が上になります。この描き方は、江戸時代の江戸の地図に共通しています。
上記の江戸朱引図は、東が上になっていますね。
もっとも、同じく東京都公文書館の「江戸府内朱引図」 (乾と坤)は、西が上です。こちらは墨引線がありません。
江戸切絵図は、御城の方角が上になっているものが多いように思いますが、そうでない図もあります。

石川島に人足寄場が設置された18世紀末
鬼平で知られる長谷川平蔵宣以が、1790年に開設した石川島の人足寄場は、技術習得、精神教育、資金提供を通じて収容者の社会復帰を図る施設でした。

新大橋は歴史がある
両国橋の「大橋」に対して「新大橋」と命名されたのですが、それが元禄6年(1693)のことですから、隅田川でも古参ですね。
1912年にカーネギー社の鉄材を使った橋が、木橋時代よりもやや上流の現在位置に架けられました。間もなく市電も開通。
1923年の関東大震災の折に避難の道として多数の人命を救ったこの橋も、1977年に現在の斜張橋に架けかえられ、旧橋の一部は、博物館明治村に保存されています。

溜池は池だった
溜池は江戸時代が始まって間もない1606年に浅野幸長が江戸城外堀として築造したとも伝えられますが、もともと四谷方面から流れていた川の水が自然に滞留する沼地だったのでしょう。
自然のままでは汐が逆流する可能性もあったことから、堰を造って溜池とし、上水の確保にも利用しました。ダムから勢いよく溢れ出る水が流れる下流は汐留川と呼ばれるようになり、汐留は現在は かつて河口があった付近の地名になっています。
明治8年(1875)の東京第二大区小区分絵図ではしっかり水を湛えた池が描かれています。池の下手にある工学寮が1877年に工部大学校に改称されたのですから、工部大学校を建設するために溜池が埋め立てられたわけではありません。

余談ですが、工部大学校址碑は会計検査院の横にあります。その敷地は、ここから文部科学省、霞が関ビル、更には現在の外堀通りの向う側に及んでいた日向延岡藩内藤家の上屋敷跡です。溜池から外堀に落ちた水は延岡藩邸に沿って左折し、虎の御門の前で右折し新橋に向いました。商船三井ビルと虎の門三井ビルのL字形配列は、この左折した外堀の跡です。現在の道路は鍵の手を避けて特許庁前(溜池の跡)から虎ノ門交差点へとカーブしているので、千代田区霞が関三丁目の一部が外堀通りの右側(港区側)に取り残されています。(実は、ここにかつてhmtの職場があったのです。)

それはさておき、
人文社の「明治の東京」(1996)p.60には、明治10年に堰の石を60cmほど除いたら、あれよあれよという間に干上がって、池が小川になってしまったと記されています。
というわけで、明治16年参謀本部測量の5千分一図ではここは湿地になっています。明治20年に埋め立てられました。
昭和になってからここに地下鉄が通りましたが、やはり溜池の跡は地盤が悪かったようで、営団は溜池山王駅開設の前に、地下構造物を造り直す大規模改良工事を行なったようです。

弁天島は陸続き…東側からの参道…19世紀の時点ですでに「池中参道」があったようにうかがえます。
[32193]hmtでリンクした不忍池の最後の項目には「寛文の末(1670)に陸道が築かれ、木橋が架けられ」と記されています。
 ア! [33170]KMKZさんが既にレスしておられましたね。
東側からの参道は17世紀から存在したのですが、架橋なので陸続きではないと考えています。
[32231]は西側からの長い「池中参道」についての疑惑に答えたものですが、短い東側についても同様である旨、言葉を添えておくべきだったかもしれません。
[54516] 2006年 10月 20日(金)23:44:50hmt さん
「全国の天気予報」の地図は「サテ瞰図」
[54495] 小松原ラガー さん
「ん?お姉ちゃん、それ富山県やけど、さかさまに持ってるでぇ。」

都道府県シルエットクイズとは全く異なる状況であることを承知の上で、あえてツッコミを入れます。

富山県が作成した 「環日本海諸国図」 をご覧ください。
日本海からの視点でとらえると、日本列島は、沿海州・朝鮮半島・中国南部を結ぶ架け橋としての姿を現しています。
その中心にあって大陸に向き合った富山県。決して「さかさま」ではないと主張しているようです。
[5573] ken さん の記事にも、次のようにあります。
普通に考えたら、大陸に向いている方が「表」で、その反対側が「裏」じゃないですかね。

地図とは、本来このように目的・主題に応じて向きも図法も選ばれるべきものです。例えば「ミサイルの射程距離」の解説図[54480]は、発射地点を中心とした正距方位図法という具合に。参考までに、「環日本海諸国図」は、富山を中心とした正距方位図法で描かれていますから、かなりこの目的に近い地図と言えるでしょう。

「北が上」でなければならぬことはないし、「正積」が望ましい地図もあれば、それが必要ない地図もあります。

話題の発端になった「全国の天気予報」テレビ画面に出てくる衛星画像や地図について。
日本付近の衛星画像 は、適当な図法(Polar Stereo?)を使った表示なので、形の歪みはあまり感じませんが、「全国のお天気」を示す絵図は、全球衛星画像 の中から、北海道~九州の範囲を切り出した輪郭線を使っているようで、北が縮んでいます。[54474] 般若堂そんぴん さん

つまり、赤道上の静止気象衛星に視点を置いて眺めた日本の姿。サテライトから俯瞰した鳥瞰図ならぬ「サテ瞰図」でしょう。
南の方から斜めに見た日本の姿だから、距離が遠く、傾斜角度も著しくなる北海道は、九州の2倍以上の面積があるのに、それほど大きくは見えないことになります。
しかし、テレビ画面本来の目的は、全国各地の「概略の位置」を示すものだからそれでも良いのだろう。理屈っぽく言えば「正積」である必要はなく、形も識別に支障がない程度のデフォルメは許される。
…と、私は考えていたのですが。

[54477] futsunoおじ さん
心配なことは、これが本当の日本列島の形だと思う人がいるかもしれない事です。

なるほど。こんな心配もあるのですか。
「地図は北が上とは限らない。」と同じように、「地図は真上から見た姿とは限らない。」ことも、常識からは外れているのかもしれませんね。

[54480] Issie さん
始めに「周辺地域の天気」で関東地方周辺の甲信越+福島県+静岡県東部・伊豆の予報を流した後,関東地方(1都6県)だけになると,単に関東平野がアップされる(縮尺が大きくなる)だけでなく,フワリと地図の形が変わるのですね。

南の方から斜めに見ていた「サテ瞰図」が、真上から見た普通の姿に変わる様子は、まさにフワリという感じです。
ところで、この天気予報地図、伊豆半島の東にある筈の伊豆大島が無視されているのが、どうも気になります。

本来は用途に合わせた図法だった地図が、違う用途に使われた結果、よく問題にされるのがメルカトル図法[54479]ですね。
GPSなどの電波支援システムのなかった大航海時代。目的地に確実にたどり着くための航海術の道具として重要だった「正角図法」であるメルカトル図法。これが、船乗りとは関係のない一般用の世界地図に転用された結果、シベリアやグリーンランドの異常な巨大さが違和感をもたらすことになりました。
ロシアをことさらに巨大な姿として描くことにより、その脅威を感じさせるという意図で、広く使われたという説もあるようです。

グード図法あたりを使えば「正積」で大陸の形もまずまずの世界地図になりますが、日本付近は「極東」ゆえにかなり変形しているし、もちろん両極地方も不都合。そして断裂させた海の部分には皺寄せがきています。やはり、球形の地球を一枚の平面地図で表すことは、本質的に無理があります。
[62550] 2007年 11月 17日(土)17:12:15【1】hmt さん
夏目漱石誕生の地・明治の朱引
本題の「都道府県スレッド」 からは脇道に入りますが、夏目家への復籍届を紹介したついでに、漱石誕生の地付近の地理を少々。

漱石の本名は夏目金之助。明治になる前年・慶応三年正月5日(1867/2/9)に江戸牛込馬場下横町の名主・夏目小兵衛直克の5男として誕生しました。現在の新宿区喜久井町[24294]。東西線早稲田駅から若松町方面へ登る「夏目坂」[62372]の坂下です。

私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。…
父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。(硝子戸の中23)

誕生の地・喜久井町1番地は、現代の地図 の中央やや左、そこから南東に続く道が夏目坂です。

「馬場下」という地名は、江戸時代に穴八幡神社(地図の北西端)横の坂を北西に登った先にあった「高田馬場」に由来します。
もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。
坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。…堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。(硝子戸の中19)

朱引内・朱引外という言葉が出てきたので、「朱引・墨引」に関する記事 をリンクしておきます。
江戸の拡大に伴ない、「御府内」の範囲の解釈がまちまちになり、幕府は統一見解を示すことになりました。その結果が文政元年(1818)の朱引図(札懸場境筋並に寺社方勧化場境筋)で、同じ図に墨引で示された町奉行所支配の範囲(突出した目黒付近は例外)よりもだいぶ広くなっています。
【追記】
[33199]でリンクしておいた東京都公文書館のHPにあった「江戸朱引図」のURL切れに気がつきました。
次のページの末尾にあります。江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれど

ところで、この絵図は 東が上 になっていることにご注意ください。
江戸や明治時代の東京の地図が、一般的に 西が上 になっているのに対して、極めて例外的です。
下町から御城の大手側を仰ぎ見る形の市街絵図と、東側の大手門を上に据えた為政者の絵図という 立場の違い の反映でしょうか。【追記終】

江戸図で調べてみると、穴八幡の下を東西に墨引線が見えますが、文政の朱引線はずっと西の戸塚村、上落合村に引かれています。漱石が「硝子戸の中」で“朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方”と書いたのは間違いか?

ところが、明治になると江戸は一時的に衰退し、市街地の範囲が縮小されました。
「江戸東京学事典」(三省堂1987)345頁には、明治2年(1869)に維新政府が市街地を朱引内、郷村地を朱引外とし、朱引内は田畑を禁じ、朱引外の住民を朱引内に移転させて「市在の境界」を設けようとしたとあります。
この明治の朱引は、東は本所扇橋川筋、西は麻布・赤坂・四谷・市谷・牛込、南は品川との境から高輪町裏通り・白金台町二丁目・麻布本村町通り・青山、北は小石川伝通院・池ノ端・上野・浅草寺・橋場町を結ぶ線の内部となっています。
[14798]でIssieさんが紹介された“1869(明治2)年の朱引き線” とは、これだったのですね。

朱引と言えば江戸府内の境界を示すものと思っていましたが、東京になってからも存在していたことに驚きました。
しかも、ずっと縮小された範囲に 引き直されている!

更に「明治の東京」(人文社1996)17頁には、明治6~7年に東京府を朱引内外に分け、朱引内を第一~第六大区に、朱引外を第七~第十一大区に区分したとあります。
というわけで、改めて明治初年の地図を眺めてみると、明治8年 「東京四大区小区分絵図」の11小区の西側(第八大区四小区)に「朱引外」の字がありました。現在の新宿区山吹町。新宿山吹高校の北半分です。

なるほど、漱石が“朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方”と書いたのは、“江戸絵図”ではなく、(現在の早大通りと早稲田通りの間あたりにあったらしい)「明治の朱引」に基づく判断だったのでした。

Mapionの右下の緑色(早稲田南町7番地)。ここには、明治40年9月に本郷区西片町10番地から転居した「漱石山房」がありました。この転居前の4月に教職を辞して、京橋区滝山町(現在の銀座六丁目)の東京朝日新聞社[35106]に入社し、「虞美人草」を発表していますが、転居後の10年間に「三四郎」・「門」・「心」・「道草」などを書き続けた場所です。
大正5年「明暗」の執筆中に胃潰瘍により没しました。享年50歳。この漱石終焉の地は、現在新宿区立漱石公園になっています。
[75460] 2010年 7月 8日(木)22:22:22伊豆之国 さん
佐世保市VS志摩市 & 逆さ地図
今回のタイトルの前半、お分かりですかね?
こちらのほうでも盛り上がっているのでしょうか‥。

話は変わって、今日の日経新聞の夕刊から。
日本海を中心に、南北を逆転させた富山県発行の地図「環日本海諸国図」が、富山県刊行物センターで販売を開始して以来、売り上げ数1位を保っている。この地図は、富山県が交流を続ける極東ロシアや韓国・中国を含めた北東アジアを大陸側から見たユニークな地図で、極東ロシアでも教育機関などに掲示されている
ということだそうです‥。このような「南が上」になっている「逆さ地図」。オーストラリアやニュージーランドでは観光客向けのお土産として「逆さ世界地図」作られ、買ってくる人も多いとか‥。

再び「日本海」に戻りますが、この日本海側から見た「逆さ地図」、どこかで「似たようなのを見た覚えがある」と思っていたら、樋口清之氏著「逆・日本史」([62640])第4巻に、「越の国は大陸からの玄関だった」と題して、7世紀頃の東アジアを大陸側から見た南北逆転の地図が載っていました‥。
[75461] 2010年 7月 8日(木)23:17:22hmt さん
環日本海諸国図
[75460] 伊豆之国 さん
日本海を中心に、南北を逆転させた富山県発行の地図「環日本海諸国図」

[54516]でこの図に言及した際に書いたように、
日本海からの視点でとらえると、日本列島は、沿海州・朝鮮半島・中国南部を結ぶ架け橋としての姿を現しています。

万国津梁 という言葉は、沖縄海洋博の時に世に知られたと思いますが、沖縄だけでなく、日本列島そのものが万国津梁(世界の架け橋)であり、富山はその中心であることを、この地図 は語りかけています。

興味本位から南北逆さになっているわけでなく、地図の目的・主題に応じて選ばれた向きや図法であることを申し添えておきます。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示