そりゃーカポックでなく
シェフレラだよ、とか言う微妙なダジャレはさておいて、
[38669] 平成少年さん
[38671] 有明つばめさん
[38672] 白桃さん
えーと、「かほく市」と言うネーミングは河北郡から来ている、これは間違いないです。
かほく市役所HP内に残されている旧合併協議会のページにある、第5回合併協議会の会議資料中に書かれております。
では河北郡がなぜ河北郡なのか、っちゅうことになるのですが、
[18449]Issieさんの書き込みによると、元々石川郡と河北郡を合わせた区域が「加賀郡」だったのが、823年に南側が石川郡として分けられ、残った北半分も加賀郡からやがて呼び名がかわり、加北郡または河北郡と呼ばれるようになった、とのことでした。
(表記が河北に固定されたのは明治以降、とのこと)
「加北」は「加賀の北の方」、「河北」は「川(ほぼ郡界となる浅野川?)の北の方」と言うことで当てられたと推測でき、この辺が白桃さんの言われる「二説」になってくるのです。
「ほんなんなら、具体的にはどっちながけ?」と言うことになるのですが、色々考えていくとどっちも排除できないんですよ。
「加賀の北」説の弱いところは、「河北郡と石川郡はかつて加賀郡という一つの郡だった」と言う話が地元でほとんど知られていないこと。
[18449]Issieさんの書き込みに対する地元民の反応(
[18455]グリグリさんと
[18483]不肖わたくしめの書き込み)が如実に物語っています。
一方、「浅野川の北の方」の痛いところは、現在は流域が変わってしまっていますが、より大きな川である手取川がかつて石川郡と能美郡の郡界であったことが引っかかってきます。
石川郡は加賀郡、能美郡は江沼郡からそれぞれ分かれて新しく作られた郡なので、もし川からの位置が郡の名に関係してくるとすると、手取川を挟んで新しくできた郡が「河北」「河南」のような名になっていても良いような気がするのですが、そうはなっていない。
なら、それより多少(?)小さい浅野川が郡名の由来になっている、と言うのが疑問に思えてくるのです。
(このほかに、村域のど真ん中に浅野川が流れている旧湯涌谷村、浅野川が流れ込んでいる河北潟~大野川の北にある旧粟崎村が石川郡なのはなぜ?と言うことも引っかかります。しかし、湯涌谷村の方は山の中ですから川よりも尾根筋の方が境目となりやすかったのではないか、と考えられます。また、粟崎の方は北隣に向粟崎というところがあり、
[38440][38447][38448][38451][38501][38561]で話題となっている「元宇品」と「向宇品」と同様に粟崎と向粟崎の間が分かれていた可能性もあるのかもしれません。ということで、旧湯涌谷村・粟崎村の位置関係からは「浅野川の北」説は排除しきれないと考えます)
まぁ一言で言ってしまえば、「加賀の北」と「浅野川の北」、どっちが現在の河北郡という郡名の直接の由来なのかは白黒つけがたいのです。
むろん両方から来ている可能性もありますし、もしかしたらまだ別の由来が隠れているのかもしれません。
そこら辺がはっきりとわからなくなってしまっている現状では、かほく市は「旧国名の入った市」には入れがたいのではないか、と金沢市内でも昔は河北郡だったところに住んでいる者としては思ってしまうのでありますよ。
※前振りを微修正f^^;