都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[19227]2003年8月23日
ゆう
[19232]2003年8月23日
スナフキん
[19236]2003年8月23日
TN
[19260]2003年8月24日
グリグリ
[19264]2003年8月24日
今川焼
[19269]2003年8月24日
Issie
[19277]2003年8月24日
スナフキん
[19278]2003年8月24日
白桃
[19293]2003年8月25日
ゆう
[19388]2003年8月28日
hmt
[20467]2003年9月30日
Issie

[19227] 2003年 8月 23日(土)14:51:25ゆう さん
上福岡のこと
[19012]kenさん
ところで「上福岡」の「上」問題は依然、謎のままでしょうか?
その後も折をみて調べてはいるのですが、決定的なものは見つかっておりませんが、現時点までに調べたことによる推測をご紹介します。

・市名「上福岡」
 福岡町が「福岡市」とできないための新市名として、域内唯一の鉄道駅「上福岡駅」から多分に影響を受けた命名であると考えられる。

・駅名「上福岡」
 駅開業時に「福岡村」内に駅ができる際、「福岡駅」が別の有名な福岡との関係で避けられた。
 駅前付近の狭域をあらわす「上福岡」を新作し駅名としたと考えられる。
 ※同じ東武東上線には「赤塚村」に「下赤塚駅」があり、これも常磐線赤塚駅との同名回避を受けての狭域地名選択という線も推測できる。

・駅前の「上福岡」地区
 これが使われたのは駅名としてが最初である。
 当時の福岡村の母体となったのは江戸時代の福岡村,中福岡村,川崎村,駒林村,福岡新田であり、福岡村,中福岡村,福岡新田は境界がそれぞれ錯雑していた。
 (江戸時代の)福岡村は大きく、滝、「土赤」†(本村)、下福岡の3地域に分けられていた。
 「上福岡」は他の小地名「中福岡」「下福岡」からの連想で命名されたと考えられる。

†…「土赤」は「つちへんにあか」の1字、読みは不明です。


【参考文献】
角川地名大事典、日本歴史地名大系(平凡社)、上福岡市史通史編、 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/hyakka.index.htmhttp://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/tiri.htmhttp://www.tobuland.com/http://www.jreast.co.jp/estation/、この落書き帳の過去ログ(個別記事番は割愛)
[19232] 2003年 8月 23日(土)16:23:02【1】スナフキん さん
「土へんに赤」の字、ほか
[19227]ゆうさん
本来なら住民である私が熱心に調べるべきことなのでしょうが…すみません、いい加減な性格なもので(大汗)。

「土赤」は「つちへんにあか」の1字、読みは不明です。
これ、埼玉県南部から西部にかけて主に地名に用いられる、珍しい「局所地域的作字」による漢字です。この字は多くの場所で「ハケ」と読ませます。意味はそのまんま直球で、赤い土の露出した「崖」です。「ハケ」とは埼玉県(だけじゃないかも?)における「崖」を意味する方言であり、その方言に対して意味を明瞭にさせる漢字を力ずくで充てた、というより作ったというものです。似たものには、西日本に分布する「タオ」と読ませる「垰」の字がありますが、これはPC上でちゃんと表示できてすっかり市民権を得ていますし、最近は本来の「峠」の字と混用されたり(一部、完全に使用される字が乗っ取られてしまったものも…)、よみがどんどんファジーになって「トウゲ」と一般化されてしまったり…。

余談ですが、先ほどまで近くの電車基地に新型車両を見に行っていました。全然その情報は知らなかったのですが先週、以前使っていた車が廃車になりそうな雰囲気で、ヤマ張って今日行ってみたらビンゴ!でした。これで、仙石線からの流れ者もいよいよお役ご免です。かく言う「新型車両」も、よ~く見れば今年の初めまで、山手線で通勤客を満載していた車に「お面」(汗)をつけて短くしただけなのですね…地方の鉄道車両に「おフルの使いまわし」は付き物です(悲)。
[19236] 2003年 8月 23日(土)16:43:18TN さん
ハケ
[19232]スナフキんさん
「ハケ」とは埼玉県(だけじゃないかも?)
割り込んですみません。
「ハケ」は、国分寺崖線(がいせん)の別称でもありますね。

「お鷹の道」とかなかなかすばらしいところですよ。
http://www.ocv.ne.jp/~takebe-n/takebe/myhometown/myhometown_20.html
[19260] 2003年 8月 24日(日)08:48:30【1】オーナー グリグリ
武蔵野夫人
[19232] スナフキん さん
この字は多くの場所で「ハケ」と読ませます。
[19236] TN さん
「ハケ」は、国分寺崖線(がいせん)の別称でもありますね。
思い出しました。「はけ」の言葉が出てきたときに何故か懐かしい感じが強くしたのですが、大岡昇平の「武蔵野夫人」に描写があります(「はけの道」そのものが舞台)。TNさんがご紹介されている野川の源流です。そうか、「はけ」は武蔵野固有の言葉だったんだ。ちがいます?
http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasino/musasinofujinn/musasinofujinn1.htm
[19264] 2003年 8月 24日(日)11:37:13今川焼 さん
ようばけ
[19232]スナフキんさん
意味はそのまんま直球で、赤い土の露出した「崖」です。「ハケ」とは埼玉県(だけじゃないかも?)における「崖」を意味する方言であり

埼玉県秩父郡小鹿野町に「ようばけ」という地名(地形?)があります。今年の五月の連休に北関東方面へ出かけた際に、その謎めいた名前に引き寄せられ立ち寄りました。「夕陽のあたる崖」の意味だそうですが、夕陽=よう、であるとして「ばけ」って何だろう、と疑問でした。四国の大歩危の「ぼけ」と同じ意味かなとも思っていましたが、これで理解できました。ほかに「はさみばけ」「ひょうたんばけ」というのもあるようです。
ただし崖の色は白でしたから、武蔵野の場合とは違った使われ方ですね。約2000万年前の新生代第三紀に形成された地層の露頭だそうで、化石を探している人がいました。
[19269] 2003年 8月 24日(日)13:08:58Issie さん
はけ
[19232] スナフキん さん
[19236] TN さん
[19264] 今川焼 さん

相模原市には「はけのはら(峽の原):西橋本地区」,「はけのたな(八景棚):下溝地区」という地名があります。

「峽の原」はバスの車庫があって行先名となっているのですが,よほど地元に詳しい人でない限り,読めなくて困惑する利用者が多いようです。
「原っぱ」は,相模川左岸河岸段丘の「上段」に広がっているのですが,「中段」との境の崖(ハケ)に近いことからついた地名なのでしょう。

「八景棚」は,明らかに「金沢八景」などにちなんだ当て字だと思われます。
実際,相模川が段丘を直接侵食する崖(ハケ)の上にあって,JR相模線沿線でも随一の景勝地です。

一般的に,「はけ」というのは関東平野西部に広く行われている地形表現であるようです(南東部の北総台地から房総半島ではあまり聞いたことがないように思います)。
基本的な意味は「崖」,または崖下の湧水帯を指すことが多いようですね。
関東ローム層が堆積していたりしますから,そこから「赤」という要素が加わることもあるのでしょう。

「八景棚」ほどひどくはなくとも,「はけ」に対する当て字は各地でさまざまです。
[19277] 2003年 8月 24日(日)17:54:05スナフキん さん
「にっとうし」に対するご返事ほか
[18930]kenさん
ところで、(関係者対象とはいえ)公募結果の全候補と投票数、どこかに開示されてませんでしょうか?
個人的に「入東(にっとう)市」がどれぐらいあったのか気になります。
私もその後の書き込みで
私は懐疑的で、すべてを公表はしないと踏んでます。
と書いておきながら、実はやっぱり気になっていたので今日、久々に時間余裕のある週末を利用して図書館の郷土コーナーで物色し、新市名選定小委員会の資料類をあさってきました。結果的にこのファイル内に、総応募名称が掲載されており、やっぱり何らかの形で公開はされていました。1900以上にも上る(漢字・ひらがな混じりの差なども全部「別名称」カウントなので)膨大な資料なので、とてもコピーすらする気にもなりませんがただ一つ、入東市(にっとうし)には7票が入っていたことだけ、報告しておきます。ただしこれは「入東市」という表記に関しての数字。ひらがな表記のみの応募数まではとても調べる気にならないほどの物量で、正直参りました。全体的に眺めれば、「東入間」はやはり相当上位得票であり、自分の考えが決して一般市民との間に著しくズレを起こしているわけではないなと少し安心しました(こういう仕事をしているとどうしても、認識が一般とずれることが多いのです)。

同じコーナーで「埼玉県の方言研究」なにがしとかいう書物もあり、思い当たる節あって手にとって眺めると、「ハケ」がしっかり「崖の意」と記載されていました。Issieさんご指摘のように埼玉県限定とも限らないようなので、武蔵の国の方言、とでも言えましょうか。余談ですが、私のページに掲載されている「養老橋架替」で紹介した近辺が「ハケ」にあたります。あまり周辺の景観を撮影してはいないので、ちっとも参考になりませんが一応書き添えておきます。

実は図書館をわざわざ訪れた最大の理由は「上福岡の由来」をつき止めるためでした。ところが、最も当てにしていた「上福岡市史」には、東上鉄道開通とそれに尽力した福岡村の有力地主の記載はあれど、名称の由来については何の突っ込んだ記述もないふていたらくぶり。埼玉県の地名の由来を綴った書物にもただ、「福岡県福岡市と区別するために付けたのでしょう」などときわめてファジーに、しかも全然関係ないあかの他人事のように書かれていてちょっとムッとしました。結果、やっぱりはっきりとしたことは分からないままです。今日はこのほか、何年ぶりかの「10円の買い物」をしました。10円で買えるものって、今は何がありますかねぇ…携帯電話? 近くの地元で古くから営んでいる和菓子屋さんでも、初めて買い物をしてみました。スーパーでは抽選で「残念賞」の狭山茶ペットボトルをもらいました。いやあ、実に地元に親しんだ(つもりになれた)一日でした(大汗)。
[19278] 2003年 8月 24日(日)18:43:51白桃 さん
アキとマキ、もとい♪ハケとホキの交換日記
崖のことをホキと言うようですが、今話題の「ハケ」は「ホキ」が転じたのではないですかね?
[19276]KNさん
僕も白桃さんと同じで3大都市圏が中央という考えを持っています。しかし、これは21世紀初頭だけではなく、バブル期のころからではないでしょうか?
レスいただきありがとうございます。どちらかというと、白桃は首都圏のみが中央で、大阪と名古屋は非地方という考えなのです。「中央と地方」の構造は世界中ほとんどの国でみられると思いますが、仮に3大都市圏を「中央」と位置付けるとしても、もう少し以前、まあ、遅くても1960年頃には形成されていたのではないでしょうか。
問九は四文字以上の市があると都道府県ですね
問九は、既にどなたかがお答えになっております。
[19274]深海魚さん
昨日、白桃 ソース付き プリンを食べながら NHKを観ていた処、茨城勢が優勝しました。これも偏に白桃効果の賜物かと。(笑)
白桃は、三本松高校の甲子園出場を祈願して「かたくちいわしの稚魚」を食し、雑魚効果を信じましょう。笑)
[19293] 2003年 8月 25日(月)02:23:38ゆう さん
Re: ハケ
[19232]スナフキんさん
多くの場所で「ハケ」と読ませます。意味はそのまんま直球で、赤い土の露出した「崖」です。「ハケ」とは埼玉県(だけじゃないかも?)における「崖」を意味する方言
読みのご教示ありがとうございます。関東に住んで5年になりますがまだまだ知らないことがたくさんありますね。すると上福岡の「上」にはやっぱり「ハケの上」の意味もあるのかも!?。

[19236]TNさん
「ハケ」は、国分寺崖線(がいせん)の別称でもありますね。
ことらも情報感謝です。一段下の府中崖線もハケと通称するようですね。
[19388] 2003年 8月 28日(木)23:51:26hmt さん
上福岡
はじめまして。
隣接する「上福岡」と同様に、市名に昇格?する予定の駅名を持つ「ふじみ野」(この地名は10年前の駅開設時から)の住人です。
[18247]
上福岡市の「上」はどのような感覚で付けられたものでしょうね。
前身の福岡村は5村の合併で生れましたが、その中に「上福岡村」の名はありません。
歴史的には、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された福岡村(本村)が、約2km下流の自然堤防地帯(下シモ)にも進出。17世紀に支流の福岡江川北側に開発した福岡新田が成立。18世紀に3集落の間に更に中福岡村が成立。
明治14年測図の迅速測図を見ると、福岡新田と中福岡村(両者逆位置に記入)の北東、下福岡地区に福岡村と記され、本村には地名が記されていません。しかし、ハケ地区と滝地区とから成る本村こそが「福岡」の名にふさわしい台地であり、下福岡、中福岡、福岡新田は沖積地です。福岡村成立後の明治39年測図5万分の1地形図も、大正3年鉄道補入で「かみふくをか」駅はあるものの、「上福岡」の地名はありません。地形図に「上福岡」の地名が登場するのは大正13年測図 昭和元年12月25日(昭和の初日!)発行の2万5千分の1地形図で、滝地区の北側に見えます。
このような経過から考えると、「上」は中福岡、下福岡との対比から、上流側にある本来の「福岡(本村)」に付加された言葉のようです。では、どの時代から? 明治の村名や地図に使用されず、大正3年の駅名に使われていることから、明治後半かと推察しながら、上福岡市立歴史民俗資料館 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_4.htm で尋ねてみました。その結果、僅かながら江戸時代から「上福岡村」の使用例があるとの教示を受けました。長宮氷川神社文書H5-1「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」。
この「上福岡」が1914年に駅名に採用されるにあたっては、東上鉄道を推進した星野仙蔵代議士の意向が働いていると思われます。星野家はもともと福岡河岸の回漕問屋福田屋を営んでいましたが、河川改修と鉄道の出現で新河岸川舟運を見限りました。福田屋の建物は福岡河岸記念館として公開されています。 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_1.htm
「東武鉄道・駅長さんが書いた駅名由来(平成4)」という本があるようですが、見ていません。
更に1972年に市名に採用されたわけですが、これについては、上福岡市教育委員会市史調査報告書第19集「20世紀を語る古写真―上福岡and新河岸川舟運+東上線」188頁に「市の名称選定風景(昭和46.10.3)」の写真があり、次の説明文がありました。
市の名称を募集し、上位5種の「上福岡」「武蔵福岡」「東福岡」「新福岡」「上岡」の市名の中から市制審議会で総合的に判断して現在の「上福岡」に決定する。
32年前にも同じことをやってたんだなあ。
[20467] 2003年 9月 30日(火)19:12:38Issie さん
Re:青梅市の中心街
[20399] かおらい さん
[20459] 太白 さん
少なくとも、戦前においては旧青梅街道沿いでない河辺は、相対的に発展していなかったのではないでしょうか。

1923年修正測図の地図によれば,「相対的に発展していなかった」どころか,現在の河辺駅周辺は一面の桑畑だったようです。河辺の本来の集落は現在の住居表示で言えば,「ハケ下」の河辺町1~3丁目。ハケの湧き水を当てにした,このあたりではごく普通の農村集落であったように思われます。
青梅線が通っているのは,ハケの上,多摩川に並行して発達する河岸段丘上で,こちらは水の便が極めて悪いために集落は形成されず,明治以降は一面の桑畑となったものです。養蚕・生糸産業が衰退した戦後は「普通の畑」になりますが,それであったために(土地があり余っていたから)ここ30年ほどの市街化の舞台となって,さまざまな公共施設が開設された,ということでしょう。
(なお,武蔵野台地西半は,確かにかつては青梅を“要(かなめ)”として多摩川が形成した扇状地でありました。しかし,その後の地殻運動でこのあたりは隆起をしてしまい,多摩川の水面からは一段高い台地になってしまいました。もはや多摩川による新しい土砂の堆積を受けることはありません。“かつての扇状地”が台地化したものを「隆起扇状地」と呼びます。広い分類による「洪積台地」に含まれます。)

ちなみに,当時の青梅鉄道に「河辺駅」も「東青梅駅」もありません。「小作駅」の次がもう「青梅駅」。

青梅は,少なくとも江戸時代後期以降はこの地域の要衝でありました。
「青梅街道」はもちろん青梅で終点なわけではなく,多摩川をさらにさかのぼり,遠く甲州の塩山方面に通じていて,甲州街道のバイパスとしての性格を持っていました。また,ここからは東京(江戸)だけでなく,豊岡(入間市)や飯能方面への街道も分岐していました。
青梅は奥多摩渓谷から平野への出口に位置し,多摩川上流域の山村で生産された物資の集散地として発展しました。「谷口集落」と呼ばれるものの1つです。基本的には商業集落であり,ハケ下の農業集落である河辺などとは性格を異にします。

1923年ごろの市街地は青梅街道に沿って,現在都バスの車庫のある辺り(金剛寺というお寺があります)から都立農林高校への入り口あるあたり(青梅街道と奥多摩街道の分岐点)まで。
現在でも“小さな地名”をよく保存しているバス停の名前を参考にすれば,青梅駅入口交差点の西側に「上町」「仲町」という停留所があります。おそらくはこのあたりが青梅の中心であったと思われます。
青梅駅は,当時の青梅の市街地中心に最も近い(けれども密集地の北縁よりも外)位置に設置されたものと考えてよいと思います。

付け加えるならば,青梅町は「西多摩郡」の設置以来,郡役所が置かれていました。1923年当時,郡役所は隣接する町役場ともども青梅駅の北側,現在の市立中央図書館のあたりにありました。


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