都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[19527]2003年9月2日
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[34440]2004年10月24日
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[39334]2005年4月3日
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[19527] 2003年 9月 2日(火)14:36:03hmt さん
「上」と「下」の地名
落書き帳アーカイブズ等に示された事例を興味深く拝見しました。
私は上下の意味付けは命名者の立場で異なるものと考え、次のようにまとめてみました。

先ず、支配者の内裏・都を基準にする上下。まさに「お上」の感覚で名付けた官製地名ですね。
[17469]両毛人さんの上京・下京、[17485]上野・下野(東山道)
[17496]Issieさんの上総・下総(武蔵国編入前の東海道)、[18420]上関・中関・下関(瀬戸内海)
[17590]U+3002さん 相模・武蔵(知りませんでした)
いずれも[17599]Issieさんご指摘の通り広域地名です。

大部分を占める地元密着型の「上下地名」の代表は、発端となった[17468]三丁目さんや [17496]Issieさんのご意見にあった河川の上流・下流と考えます。
[18505]ありがたきさん、[18517]Issieさんにより多数の例が挙げられた武蔵野台地は西高東低であり、おおまかな理屈では川の流れだけでなく、土地の高さでも、京都の方角でも 西=上 を説明できます。
しかしこれらの例における「上」と「下」の高低差は極めて僅かで、川の流れにより結果的に土地の高低がわかる程度でしょう。まして京都の方角など、東国の人々にとっては考慮外のことと思われます。
神田川水系の高井戸・井草、石神井川の石神井・板橋、仙川の連雀と流れの方向は西→東から少し北、南に振れていますが、いずれの例も川の流れの向きと上→下の向きは一致します。北沢川緑道という南東に流れた川の遺跡も日大の近くにあるようです。
河川による「上下地名」は、川越付近の地名でも実証できます。
ここには川越から南東に流れる荒川・新河岸川と、それと直角に南西から流れ込む入間川・不老川(「としとらずがわ」だったのですが、役人が「ふろうがわ」にしてしまったようです。)があります。前者の流域には老袋・古谷・新河岸・福岡・南畑等、後者の流域には奥富・寺山・赤坂・松原等の「上下地名」があり、いずれも川の流れと上下の向きが一致することから、単純な西=上でなく、流れに沿った上下であることが明白です。

ところがこの付近で、上記の規則性に反する実例を見つけてしまいました。
それは上富・中富・下富で、東から西へと並んでいます。見た目には平らですが厳密には西に向って僅かに高くなる筈です。川はありません。
実は、この地は柳沢吉保が川越藩主の時代に開拓させた三富新田であり、ローカルながら“官製地名”なのです。
http://www.pref.saitama.jp/A02/BH00/santome/santome-history.htm
「上」は川越の方角でなく、江戸の方角です。柳沢吉保は将軍綱吉の側近で六義園に住んでいたから、江戸基点も当然かもしれません。江戸時代の支配者にとっては、基点は京都でなかったわけです。
[18502]ゆうさん 東京を基点にした上下の例。[18506] 上=東という用法 にも該当。
「いざ鎌倉」の時代にできた鎌倉基点の官製上下地名もあるかもしれませんね。

地元密着型の「上下地名」に戻ると、第2類型は [18537] Issieさんが示された垂直方向の上下地名です。
例示(上田名・下大島・上原・下原)から、「うえ(うわ)・した」と読む場合は、上下揃っていない場合も含めてこれに該当する地名と思われます。上野原は駅のある桂川の谷から数十m高い段丘上に市街があり、代々木上原も本来は駅から坂を登った台地上です。
駅で思い出したが、「上野」と「下谷」は熟語の上下ペアすね。「上野の山」の別名は「しのぶがおか」(鶯谷駅近くに忍岡中学校)で、しのばずのいけ=不忍池とペア。これは上下から脱線。

[18247]ゆうさん を発端とする上福岡市の「上」問題については、市名の直接のベースになった上福岡駅が、[18524]スナフキんさん指摘のように、中福岡・下福岡のある低地との間に明らかな段差のある台地上にあることから、第2類型の垂直方向上下地名という解釈の余地はあります。
しかし、「うえ」と読まないこと、江戸時代や地形図に「上福岡」の使用例がある([19388] hmt参照)福岡村本村地区が新河岸川の上流に位置することから、第1類型である河川説の方がより妥当と思われます。

アーカイブズ未収録ですが、上諏訪・下諏訪も奥の深そうな地名です。
[18142][18143]kenさん指摘の通り京都基点の街道沿いとは逆で、諏訪大社の上社・下社起源が妥当と思われます。
では、なぜ上社が「上」か? 地図で見ると諏訪湖南岸の上社は、北岸の下社よりやや低い標高のようですから垂直説も否定。河川も無関係。残るは[18158]じゃごたろさんの 本家(本宮)=「上」 説ですか。
この本家説は福岡村本村=上福岡にも使えると言い出すと、また議論再燃になりますね。
親戚に山際(地名)の「かみ」という家があり、隣家は本家なのに「しも」と呼ばれていました。本家よりも河川の論理が優先された例です。
[34440] 2004年 10月 24日(日)00:13:47hmt さん
「原」と「野」
[34380]では、「原」地名として一般的に通用しそうな段丘を相模川水系の上流山間部で3つ挙げました。

「原」の第一義は「適当な広さが見渡せる平地」であり、山間部では川沿いにある昔の氾濫原がこれに該当すると考えます。
山間部における貴重な平地は、耕地等として利用されているのが普通であり、広辞苑のように“特に耕作しない平地・原野”に限定する必要はないと思います。
草原が畑になっていても、見通しを妨げないうちは「原」で良いのですが、樹木や建物が多くなって適当な広さが見渡せなくなると、平地であっても「原」という風景から離れてくるようです。

「野」も「原」と同じようなイメージですが、一般に「原」よりも広範囲の呼び名のような気がします。広い「野」は、「原」のように一目で全体を見渡すことができず、平地林によって視界が遮られる部分があっても許容されると思われます。

武蔵野は、もともと “草よりいでて 草にこそ入れ”[34120] という草原でした。しかし、その風景は時代と共に変ってゆきます。
国木田独歩は 「今の武蔵野」 (1898年発表当時の題名) で次のように書いています。

“昔の武蔵野は萱原のはてしなき光景を以って絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。則ち木は主に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴る計りの新緑萌え出づる…”

開拓民が薪炭や落ち葉を得るために育てた人工林が、「武蔵野」にとって欠かすことのできない要素になっていたことがわかります。

「相模野」も同じような落葉平地林のある広い 「野」 だった筈で、林の間には局所的に見通しの利く 「原」 が、たくさん存在したことでしょう。明治15年の地図を見ると、大部分は「畑及桑」と「楢」と記された林で占められ、「草」と記された草原は僅かしか残されていないことがわかります。

実は、このフランス式彩色地図が作成される前年1882年に、この場所のすぐ南西に陸軍参謀本部測量課(後の陸地測量部)が 相模野基線を設けています。私達が日常利用している日本地図を作る全国三角測量網の、文字通りのベースラインになった記念すべき場所です。「見通しの利く平地」は、このような面でも利用されてきました。

相模野基線の名から、明治時代には陸軍も「相模野」と呼んでいたことがわかりますが、1937年に市ヶ谷台から移転した士官学校(本科)等の陸軍施設をかかえた軍都が開発されるに伴なって、「相模野」の北部は「相模原」と呼ばれるようになってゆきました。駅名(小田急1938年、横浜線1941年)、そして2町6村の大合併で生まれた町の名として(1941年)使われるようになったことが、地名「相模原」の普及に決定的な役割を果たしました。
南部では、その後も相模野海軍航空隊(1942年)、海軍航空技術廠相模野出張所(後に高座海軍工廠)など「相模野」が使われました。戦後も相鉄線に「さがみ野」駅が1975年に開設。

「〇〇原」が 駅名や行政地名になることは、逆に自然地名としての「〇〇原」を忘れさせることにもなります。かつては「小田原」とか「伊勢原」とかいう「原」が存在したのでしょうが、現在でも残っているのかな?。

「相模原」や「小金原」[34193]のように広大な「原」もあるのですが、「原」は局地的な地名として使われることが多いように思われます。例えば地形図・座間を見ると、北原・上原・中原・下原が並び、そして東名高速道路の南にまた上原があります。

古く「柴胡の原」と呼ばれた地も、相模野の一部でしょう。ミシマサイコというオミナエシに似た黄色い花が秋に咲き、根は解熱剤として利用されたそうです。

[22588]Issie さん
大雑把には「上段=相模原面」「中段=田名原面」「下段=陽原(みなはら/みなばら)面」
には、田名原・陽原という名が出ています。但しこれらは、「中津原台地」[34159]と同様に接尾語が付いた地理用語であり、純粋の「原」地名ではないのかもしれません。

[18930]ken さん
本来、「野」地名は、耕作不可能な原野、に付けられる「不毛の地」を示す地名ですね。
台、とか、原もそうですが。水利が悪く、開墾しにくい場所をに付けられる地名。
たしかに、平地であっても一面の水田地帯には「原」や「野」はあまり使われず、かつては水利が悪かった高台が多いように思われます。従って
[19012]ken さん
そもそも「~久保」は「~野」にはゼッタイなり得ないわけなのですが。。。
ということになるのでしょう。

しかし、現実には水利の悪い「原」や「野」も開墾されてきたことは、各地で見られる通りです。開墾といえば、小説「宮本武蔵」に登場する「法典ヶ原」なんてのもありましたね。「船橋法典」という駅名がありますが、法典ヶ原は現存する地名でしょうか?
また、新しい時代の氾濫原である「田島ヶ原」や「徳丸ヶ原」(現在は高島平)[34089] のような用法を見ると、「原」は、必ずしも水利が悪い高台とは限らないようです。

相模川水系の上流山間部に戻ると、本流が山梨県に入ったところに「上野原」があります。駅のある桂川の谷から数十m高い上野原段丘は、市街地化こそしていますが、山間地帯にあって広々とした見通しの利く 名実共に備わった「原」ではないでしょうか。

上野原から支流の鶴川を遡ると、かつて日本でも有数の長寿村だった 棡原(ゆずりはら)があります。ここはお年寄りが元気に山や野良の仕事をしていた「日本のフンザ」だったのですが、バスが開通した1954年以降、食生活が激変して下界と同様に成人病に侵されてしまったようです。地図で見ても「原」と言えるような平地は見当たりませんが、何故か名前だけは「棡原」。

上野原と同様に、「代々木上原」も 本来は駅のある谷底ではなく、坂を登った台地上(駒場公園前に 代々木上原 バス停)です。
[39334] 2005年 4月 3日(日)18:36:14【1】hmt さん
ローカルセンターがらみの上下地名、台地の「うえ」と「した」地名
[39305]今川焼さん
[17469] 両毛人 さんが
なお、その他の「上」「下」につきましては、鉄道の「上り」「下り」のように、より大きな都市に向かう方向を「上」、その反対を「下」とする区分法もありますよね。
と、書いておられる第3のケース、それも旧村名や大字名といったローカルな地名にあることに最近気がつきました。

“第3のケース”というのは、1)河川の上流下流 でも、2)都基点でもなく、3)各地の“大きな都市”基準という意味でしょうか?
そこで、能登半島の「甘田」と、●の付けられた5例について、上下の基準となる都市がどこなのかを考えてみました。

伊豆「多賀」の上下の基準は 熱海、足摺に近い「川口」では 高知、知多の「野間」は 名古屋?、霞ヶ浦北岸の「大津」と南岸の「馬渡」の場合は いずれも 土浦 が近くの“大きな都市”でしょうか。
これらは、すべて京都基準としても一応の説明は つきます。
しかし、京都の勢力圏がこれらの各地にまで及んでいるとも思われず、ローカルセンター基準と考えた方が合理的でしょうね。

丹後半島の宇川だけは、基準都市も考えにくいし、同名の川がありますから河川がらみではないでしょうか。

実は、[19527] を書いた時にも、川越や鎌倉など京都・江戸以外の基準地があるのではないかと考えたのですが、適切な実例を挙げることができなかったのです。

さて、地形に由来する上下地名で、河川がらみでないものがあります。

それは、[18537]Issieさん が“垂直方向の上下地名”として紹介している台地の「うえ」と「した」です。
相模原の「上田名」(うえだな)。
近くの上溝(かみみぞ)・下溝は鳩川の上流・下流という普通のケースですが、上田名は、読み方も「うえ」です。
上大島(かみおおしま)のある台地の下の河原は、「下大島(したおおしま)」。
もっと上流、道志川の津久井町青根地区にある「上原(うわはら)」「下原(したはら)」も紹介されています。

[19527] に書いた「上野原」や「代々木上原」、そして「上野」と「下谷」の熟語ペアも同類です。
すべて「うえ」、「した」と読むところが特徴的です。

このようにして、大部分の上下地名を次のように分類することができました。(順番を変えました)

第1に、支配者である「お上」が付けた官製地名。基準は京都で広域地名が多い
例:上野・下野(東山道)、上総・下総(武蔵国編入前の東海道)、上関・中関・下関(瀬戸内海)、上島諸島(下島諸島は消滅[33439])(瀬戸内海)、大崎上島・大崎下島(瀬戸内海)、上島・下島(天草)、上県・下県(対馬)、足柄上郡・足柄下郡(相模)、上北郡・下北郡(陸奥)その他各地の郡(閉伊・都賀・新川・伊那・高井・水内・益城・浮穴等)添上・添下(大和)
京都内の上京・下京は内裏基準
例外として江戸時代における江戸基準の上富・中富・下富(武蔵)

第2に、ローカルセンター基準  上記のように半島や霞ヶ浦に関係した数ヶ所が例示されました。

第3に、自然地形由来の大部分を占める河川の上流・下流。
この話題の発端の「下士別」も、独立のアーカイブズになっている「上福岡」も、このグループであり、実例はいくらでも挙げることができます。

第4に、台地の「うえ」と「した」。

そして、上記のいずれにも該当しなかったのが、「上諏訪」と「下諏訪」。
これについては、「上社」「下社」に由来し、「御神渡」の神事と関連があると考えられております。
[26344] hmt、[36757]じゃごたろ さん


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