都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[21037]2003年10月14日
ぴょん
[21346]2003年10月21日
ぴょん
[24141]2004年1月25日
ペーロケ
[25649]2004年3月2日
らるふ
[40523]2005年5月2日
トライランダー
[62889]2007年12月20日
hmt
[72047]2009年9月23日
Issie
[72138]2009年10月4日
有明つばめ

[21037] 2003年 10月 14日(火)14:11:29【3】ぴょん さん
筑豊の経済圏、御三家四天王(南関東・山梨編)
目を引く色がたくさん出現しましたね。たくさんなので省略しますが、皆さん自分色登録おめでとうございます。

[21029]深海魚さん
北九州市の経済圏との境界はどの辺りでしょうか。筑豊電鉄の存在から、直方市は北九州寄りかな、とは感じます。
合併協の枠組みもほぼこれに倣ってますが、筑豊はまず直方・鞍手郡の直鞍地区、飯塚・嘉穂郡・山田の嘉飯山地区、田川市郡の田川地区、遠賀郡と中間に分けられます。
中間に関しては遠賀川の川西と川東で意識差に開きが大きく、西は鞍手、東は北九州との一体性が強いです。遠賀郡は(町民が折尾を使うせいか)芦屋・水巻両町がより北九州との一体意識が強いです。私の親戚筋など多く住むこの地域、かなり複雑な経済圏だと思いますので表にしてみました。
※絶対正しいともいいきれませんが大体こんな感じです。

市町村(郡)ちょっとした買い物大きい買い物1日かけてショッピング
遠賀・水巻・芦屋・鞍手・中間(西)折尾黒崎小倉・博多
岡垣折尾・宗像黒崎小倉・博多
中間(東)黒崎黒崎小倉・博多
直方直方黒崎小倉・博多
宮田・若宮直方・宗像博多博多
赤池・方城・金田直方黒崎小倉・博多
小竹・頴田・糸田飯塚・直方飯塚・黒崎博多・小倉
頴田以外の嘉飯山飯塚飯塚・博多博多
田川・大任・川崎田川飯塚小倉
香春田川小倉・飯塚小倉
田川行橋小倉
添田田川日田小倉

大まかには遠賀郡-鞍手郡東部-田川地区までが広義の北九州圏といえそうです。

[20997]深海魚さん
福岡は出てしまっていて異論は無いので。無謀な?南関東・山梨に挑戦してみましょう。
東京---立川・八王子・府中---青梅    やっぱり町田かも..
神奈川---横浜・川崎・小田原---厚木   60万都市相模原が.....
千葉---千葉・船橋・成田---銚子     う..うぅ..苦しい..
埼玉---さいたま・熊谷・川越---秩父   所沢とか越谷・岩槻も捨てがたいし..
山梨---甲府・大月・富士吉田---なし

きっと異論がおありと思いますが..とりあえずこんな感じで。
[21346] 2003年 10月 21日(火)21:52:28ぴょん さん
Re:北九州市商圏
[21342]まるちゃんさん

興味深く拝見しました。
H12というと、小倉・黒崎両そごう閉店の年ですので、これを反映してるかどうかはわかりませんが、最近の黒崎の斜陽振りを見事に表したデータですね。

北九州市としての商圏について、いくつか挙げてみると、
若宮・玄海(今は宗像市北部)が1次商圏から圏外になってます。遠賀・宗像地区の動向を見ますと、博多に流れたわけでもない(博多も31.7→17.0)のでこれは赤間(宗像市)周辺で郊外型大型店舗が出店ラッシュをかけたことが理由のようです。
一方で、筑豊・川筋の2つの中心都市である直方・飯塚両市が年々北九州への出向率を上げているのも興味深いですね。やはりこの両市の地域の中心としての機能が相対的に低下しているということがいえそうです。
私にも謎なのが香春町の1次→3次という変化をはじめとした田川市郡。ここは元来日田彦山線で小倉地区へ近いことから、小倉商圏だったはずですが、理由が見つかりません。博多などへも流れてないところを見ると、田川がやや充実したのか?高齢化や不況で遠くへ購買しなくなったのか?といったところでしょうか。
あと、山口県域は確かに思っていたより低いですね。

拙稿[21037]で挙げた私の感覚による商圏と比較してみると、黒崎の商圏について、私の感覚は一昔前のものだったことがわかりました。小竹や頴田・赤池・方城・金田・糸田はかつては黒崎商圏(一部小倉も)だったものの今は狭義では飯塚・直方、でも黒崎・小倉・博多の商圏には入らない(あるいははいってもギリギリ)地域になったようです。これも「遠くまでは行かない」志向が強くなったあらわれなのですかねぇ。

でも北九州市もどうせ調査するならもう少しサンプル数増やせばいいのに...なんて思いました。
でもこんなものなのかな?
[24141] 2004年 1月 25日(日)10:44:48【1】ペーロケ[愛比売命] さん
県境とは理不尽なもの
[24100]なおさん
『玖珠~小国~津江』も生活的な繋がりが深いのですが・・・
 そうですね。熊本-大分県境では阿蘇の外輪山の関係で、波野村は竹田市と関係が深そうですし、また大分-福岡県境では日田市と浮羽町でも連続性を感じることが出来ますね。拙稿[22059]にて以前さらりと言及したことですが、大分県の内陸部の県境は、どうしてあんな形に引いたのだろうかと不思議に思わざるを得ないのです。尾根沿い、川沿い等ではなく、阿蘇の中腹や九重山(九住山?)の中腹を不思議な形で横切る姿はなんだかもどかしいですわ。そして小国町を残してクニャクニャに曲がった形も不思議です。
 中国地方では、岡山-広島県境も地形的隔絶が見られない例ですね。こちらは吉備高原で地形的にも結構山あり谷ありでありながら、地形を無視するかのごとく、ほぼ真っ直ぐに走っています。実際に地図上で分水線を引いてみたらわかりますが、意外なのことに倉敷のイメージが高い高梁川流域のほぼ半分は「広島県」なんですよ!!

[24085]両毛人さん
九州では比較的県境をあまり意識しないで生活圏が形成されているところが多いですね。
 そうなんですよ。ご指摘の小郡市もそうですが、福岡県の筑後地方と佐賀県は旧国が違うとはいえ、むしろ筑前地方よりも繋がりが深そうな感じがするのですが、それとも北関東と同じ事情で、福岡を中心とした放射状の交通体系の発達により、両者の横の関係よりも福岡-筑後、福岡-佐賀といった関係が深まっているのかもしれません。ここでもあえて「もしも」を使わせてもらえば、もしも福岡県筑後地方が佐賀県と同じ県であれば、久留米あたりは熊本くらいの大都市として発達していたかもしれませんし、そうなると佐賀県の地位も単に福岡県の衛星都市に甘んじるのではなく、もう少し高くなったのかもしれません。
 もっとも、廃藩置県時に必要に応じて旧国境とは違う新たな県境を設けた東北地方などとは違い、九州の県境は分割された肥前・豊前を除けば旧国境で引かれていますが、その旧国境も地形的隔絶とのズレを感じますね。例えば筑前の国は筑後平野の中流部右岸側も占めていますし、三郡山地ではなく遠賀川流域の筑豊盆地を横切り、北九州市の八幡あたりに出てきますしね。筑後と豊前にまたがる一体的な地域を「筑豊」と呼ぶあたり、どこかの地域にも似たネーミングセンスを感じてしまうのは私だけではないでしょう。しかしこちらは小倉県の解体となって「一つの県」になっているお陰か、筑後、豊前関係なく一体的な地域形成が進んでいるような感じがします。自動車のナンバープレートにもなっていますし。。。

 嗚呼、「とちぎ」ナンバーよりも見てみたい「両毛」ナンバー(笑)
[25649] 2004年 3月 2日(火)19:40:52らるふ さん
人生はコレクション
[25553] グリグリさん
ご多忙のところ「盆地コレクション」をアップしていただいてありがとうございます。
同時に「海峡コレクション」までつくってしまわれるのが、何ともグリグリさんらしいところですね。

さて盆地ですが、落書き帳の記事検索や図書館などでボチボチと集めて、一応自分なりに地図上で「このあたりが○○盆地」と特定できたものをリストアップしました。
だから、「よくわからなかった盆地」はリストには入れませんでした。例えば・・・

筑豊盆地(福岡県)
遠賀川流域に筑豊盆地といういい方もあるようなのですが、それは田川盆地あたりの別称なのか?遠賀川流域の盆地の総称なのか(ひょっとして直方平野まで含めるのか)?それとも直方平野が遠賀川流域の平野と盆地の総称なのか?それならば「筑豊盆地=直方平野」なのか?ん~よくわからない。

北野盆地(福岡県)
筑紫平野の北東部を「北野盆地」と呼ぶらしい(図書館にあった地名事典でみつけました)のですが、範囲はどこからどこまで?北野町が中心都市なの?これも何だかピンとこない。

弘前盆地(青森県)
東北地方の盆地はほとんど軒下提灯さんの[18813]をベースにさせていただきました。しかし、私には「弘前盆地」はどうも「津軽平野」との区別がつきませんので、リストには入れませんでした。(すみません・・・・)
[40523] 2005年 5月 2日(月)22:16:20【1】トライランダー さん
当時の筑豊について
[40517] 2005 年 5 月 2 日 (月) 19:38:44 miki さん
 
なお、宮田町以外の当時30,000人以上の筑豊の町は次の通りです。
稲築町(→嘉麻市)42,612人
川崎町 38,974人
穂波町(→飯塚市)36,857人
参考:当時の春日市...22,794人

実は、当時は中間・遠賀郡も筑豊でした。広域市町村圏が筑豊から北九州に移ったのは、昭和47年頃と記憶しております。
ですから、水巻町も筑豊でした。水巻町は平成初頭まで、人口密度が1平方キロメートル当たり3000人、北九州市の隣でしかも鹿児島本線の駅がある住宅密集地であるにもかかわらず、過疎地域に指定されており不思議な感じがしました。
90年代初頭頃に筑豊広域市町村圏を見直し、直方・鞍手地区(直鞍)と田川市郡を北九州に、飯塚市、山田市、嘉穂郡(嘉飯山)を福岡都市圏に分割するという話が西日本新聞に載ったことがありました。いつの間にか立ち消えになってしまいましたが。
[62889] 2007年 12月 20日(木)22:47:47hmt さん
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (10)広域地名としての「国」と「府県」
戸籍制度における「住所」(本籍地や寄留地)の表示として、戸籍行政を取り扱う組織が設定した区画である「府県」や「大区小区」(明治11年以降には「郡区町村」)が使われたのは、当然のことと言えるでしょう。 [62886]参照
そして、この「住所表示」は、出版届制度においても適用されていたことがわかりました。[62881]

しかし「住所表示」を離れると、一般的に広域の「地名」を指示する「国」は、ずっと後まで健在でした。
郡区町村編制にあたり、新設された郡区の位置を示すのに使われた[62795]のは勿論のことですが、 郡制施行時には 埼玉県下国界変更及郡廃置法律(明治29年)など[59173]を制定して、わざわざ「国」の領域を「県の管轄区域」にマッチさせる努力までしています。

例えば次のような表現はずっと後の時代まで使われました。
“福岡県の管轄区域:筑前国1市9郡・筑後国1市6郡・豊前国2市4郡” (大正元年10月現在)
戦時中に学習した「初等科地理」巻末表の記載も“福岡県:筑前国の全部、筑後国の全部、豊前国の一部”という形式であったと記憶します。

しかし これは「建前」としては広域地名として「国」が用いられた という話で、現実には鉄道[61378]によって密接に結ばれた炭田地域は、田川(豊前国)も直方・飯塚(筑前国)も共に「福岡県」に形成された「筑豊」という新たな経済地域として認識されるようになってきたものと思われます。
同様に、豊前国企救郡にあった門司・小倉と、筑前国遠賀郡にあった若松・八幡・戸畑などは、「北九州工業地帯」を形成し、ここでも豊前と筑前との「国境」意識を遠ざけました。
結局のところ、現在の福岡県は、北九州・筑豊・福岡・筑後の4地域圏に大別されているようで、「筑後」だけが「国」の名残を留めています。

もちろん、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」[47061]と、異なる自然条件を実感させる「国境」もあります。

参考までに、「国」という区画の歴史と現状に関する記事 を集めてみました。

行政的には1都2県に分断され、広域的には相模や下総も含む首都圏の一部になって、地域としてのまとまりを表すのに適当な区域でなくなった「武蔵国」。
筑豊や北九州という新たな経済ブロックの形成により福岡県内での地域区分としての価値を失った「筑前国」。
その反面、「加賀」「能登」「若狭」のように現代に生き続ける国もあります[59238]

「日常に残る旧国名」に関しては地域的な温度差があるということで、一概に広域地名の「国」が「府県」に変ったという言い方は正しくないようです。
しかし その一方で、始めは「行政組織」だった「府県」が、「住所に用いられる行政区画」を経て、独立した「広域地名」としての地位を確立してきたことは、まぎれもない事実であると感じられます。

「府県の地名化」について考えると、郡区町村編制によって確立した「府県 + 郡区 + 町村 + 町字 + 番地」(明治22年以降は区に代って市)という「住所表示」が影響していることは確かでしょう。
郵便の宛先として「住所」を記すことも、「府県の地名化」の促進に一役買っていると思われます。

しかし、府県が「独立の地名」になった決定打は、「府県の性格」の変化にあったと私は考えたいのです。
それを制度面で裏付けるのが明治32年の改正府県制です。
この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか。
[72047] 2009年 9月 23日(水)00:18:22Issie さん
肥薩筑豊
…これに「日」が加われば九州(本島)全域が入るのですね。

[72044] 有明つばめ さん
あと、余談ですが筑豊本線や筑豊電気鉄道は旧筑前国のみで旧豊前国を通っていませんし、肥薩線は旧薩摩国を通っていません(旧大隅国のみ、ただし藩でいえば旧薩摩藩ですが)。

肥薩線とは元々,鹿児島までの呼称だったようですね。
元は鹿児島までのメインルート(…というよりこれ1本しかない)として「鹿児島本線」を名乗っていたこの路線,1927年に海岸廻りの 川内本線 が全通したためにこちらに名称を譲り,八代-吉松-国分(現隼人)-鹿児島 間が「肥薩線」と改称されました。鹿児島は言うまでもなく 薩摩 ですからね,“看板に偽り”ではないわけです。
その後,こちらも現ルートとは違って都城から霧島の北を迂回する現吉都線ルートを通って吉松で当初の鹿児島本線に接続していた 日豊本線 を短絡するために都城側と国分(隼人)側の双方から建設が進められていた 国都線 が1932年に全通した結果,「日豊本線」の呼称を国都線ルートに移すと同時に隼人(国分から 西国分 を経て改称)以南区間も編入しました。それで,肥薩線は“大隅国の隼人”止まりとなったわけです。この路線,日向も通過するのにね。

筑豊。
現地の地理に詳しくない立場で遠方から眺めていると,「筑豊」というと北九州の内陸部に両国にまたがる盆地があって,そこに炭鉱が散在する(していた),なんてイメージがあるのですが,地図を見ると両国の間にはしっかり分水嶺があって,厳然と分けられるのですね。藩政時代も,福岡藩領(筑前)と小倉藩領(豊前)にきっちり分かれていたのでしょうか。
いずれにしろ,筑前・豊前よりもさらに前,「筑紫(つくし)」と「豊(とよ)」の時代からはっきり分かれていたのでしょう。
とすると,この両国をまとめて「筑豊」たらしめていたのは,ひとえに“大炭田地帯”の存在と,各炭鉱から積み出し港の若松に集約するように引かれた鉄道網の賜物と言えましょうか。
ともかく炭田としては全体で1つの「筑豊」。そこは恐らく,筑前 の博多・福岡地方や 豊前 の周防灘沿岸部のいずれからも独立した地域として,いわば福岡県北部には 筑前・筑豊・豊前 の3地方が鼎立する。そして,その「筑豊」に張り巡らされた鉄道網の総本線として,原田→若松間(石炭の流れに合わせて,あえて上下を逆に表記)のルートが豊前を通過していなくても全体の代表として「筑豊本線」を名乗る。
…なんて,ストーリーを考えてみましたが,いかが?

筑豊国境地帯の最北部は1963年の大合併で 北九州市 となりました。豊前(門司・小倉)と筑前(戸畑・八幡・若松)にまたがる大工業都市。そして,そのとき同時に北九州市は中選挙区制時代に「2区」(筑前東部)と「4区」(福岡県領豊前)の“複数の選挙区にまたがる市”になりました。ここでは 筑前 と 豊前 の境は峻厳で,帝国議会開設のために1890年に実施された第1回総選挙以来,明治・大正境界期(1902~17年)と敗戦直後の1回きり(1946年)の大選挙区制時代を除き,小選挙区・中選挙区の両時代を通して別の選挙区となっています。
それは筑豊の炭田地帯も同じ。筑豊地域を地盤に元々は石炭財閥の出身である 麻生さん は,お父さんの時代から「筑豊」のうちの“筑前”の方から選ばれているのですね(今回も辛うじて)。
[72138] 2009年 10月 4日(日)19:01:14有明つばめ さん
筑豊・三池
筑豊と三池という、2つの非常に好対照な炭田というか炭鉱地帯があった福岡県からの書き込みです(汗)。

[72047]Issieさん
返信が遅くなりました(汗)。

筑豊。
現地の地理に詳しくない立場で遠方から眺めていると,「筑豊」というと北九州の内陸部に両国にまたがる盆地があって,そこに炭鉱が散在する(していた),なんてイメージがあるのですが,地図を見ると両国の間にはしっかり分水嶺があって,厳然と分けられるのですね。

確かに飯塚市と田川市の間には山間部があり、両市間を通る国道や鉄道も峠やトンネルがあります。ただ、田川市を含む田川地域は、旧豊前国にありながら遠賀川の支流・彦山川の流域にあたり、むしろ同じ旧豊前国にあたる北九州市や行橋市・京都郡方面との間の方が地形的には急峻だったりします。
同様に、飯塚市や直方市も、同じ旧筑前国にあたる福岡市方面とは三郡山地で隔てられています。そのため、結果的に直方を基点として飯塚・田川を含めた地域が「筑豊」と呼ばれるようになったのかも知れません。

あと、直接関係はありませんが、旧「筑前」国にあたる朝倉地域は、実際には筑後川流域にあたるので、「筑後」扱いされることがよくあります。天気予報でも筑後地方扱いだし。

ともかく炭田としては全体で1つの「筑豊」。そこは恐らく,筑前 の博多・福岡地方や 豊前 の周防灘沿岸部のいずれからも独立した地域として,いわば福岡県北部には 筑前・筑豊・豊前 の3地方が鼎立する。そして,その「筑豊」に張り巡らされた鉄道網の総本線として,原田→若松間(石炭の流れに合わせて,あえて上下を逆に表記)のルートが豊前を通過していなくても全体の代表として「筑豊本線」を名乗る。
…なんて,ストーリーを考えてみましたが,いかが?

まさしくその通りでしょう。要するに、「筑前と豊前を結ぶ路線」ではなく、「筑豊という地域を貫く(通る)路線」という意味ですね。「筑豊電鉄」も然り。
でもそうなってくると、「筑肥線」や「筑肥山地」とは若干意味合いが違うような気も‥‥。


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