都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[21801]2003年11月6日
今川焼
[21827]2003年11月7日
またーり
[54430]2006年10月14日
hmt

[21801] 2003年 11月 6日(木)00:42:41今川焼 さん
「飾磨県」について
[21774] 愛比売命 さん
5国を繋ぎ合わせて成立した兵庫県は、全県的なまとまりよりも、旧国単位でのまとまりの方が顕著ですからね。

兵庫県のまとまりのなさについては、よく言われるところですね。ちょうど手元に神戸新聞の「ふるさと全史-新兵庫学」の切り抜きがありましたので、そこから「飾磨県」を中心に纏めてみました。

明治4年11月   播磨全域が「姫路県」として成立(一週間後に「飾磨県」に改名)
明治9年8月14日 飾磨県新庁舎竣工
    8月21日 飾磨県の兵庫県併合が決定
          (「豊岡県」のうち但馬と丹波2郡、「名東県」のうち淡路島も)

飾磨県新庁舎建設に際して財政難の政府は、地元が建設費の3分の2を負担するならとの条件をつけ、地元も地域の発展のためならとこれを受け入れました。ところが瀟洒な洋風建築の新庁舎が竣工の後、わずか一週間で飾磨県廃止となったわけですから、地元は収まりません。当然地元が支払いを拒否すると、結局政府はこの無用となった庁舎の建設費を国の予算で処理することにしてしまいます。これは県域を拡大し、開港場神戸の地域経営を安定させるという大久保利通の「大兵庫県構想」があったためと言われますが、その急な方針転換は謎とされています。

しかし、その後も飾磨県復活の運動が続きます。

明治14年12月付「飾磨県再置請願理由書」から(抜粋)
 地 理  異質の5国一体化は県組織をゆがめる
      最遠隔地は県庁から50里 不便さは全国一
      播磨は県の単位として最適
 人情風俗 淡路は営業活発、但丹は撲実勉励、摂津は奢侈・浮薄狡猾、播磨は敏慧温柔・怠惰柔弱
      そんな5国が会しても「相親しむの情」などわかず、同県人とはなれぬ
      地方官庁は1国1県でまとめ合併は排せよ
 物 産  合併後播磨の産業が振るわないのは、県政策が他に偏っているからだ
 理 財  けた違いに多い播磨の税の地元還元がない。何のための納税か
 庁の所在 県庁は県の中央に置くべし
      旧飾磨県庁舎は未使用のまま保存中。これを使うべし
 県 会  異なった5国の状況を一堂で議論するのは氷と炭のようにまとまらない。時間の無駄

人情風俗などいささか誇張気味であるものの、今でもある意味当たっていることもありますし、現在の市町村合併にも言えることもありますね。
ところで、理財についてですが、明治13年度に播磨が納めた国税は、約112万6千円で、尾張、肥後とともに全国ベスト3。地方税で見ると、播磨が22万6千円に対し、摂津8万6千円、但馬4万4千円、丹波・淡路各3万8千円と圧倒的に多くなっています。

つまり、

[21789] 瀬戸家さゞなみ さん
明治時代に神戸の経済力になびいてしまったから吸収されてしまったのだろうか?(あくまで「明治時代」の神戸。富国強兵,対外政策の1中心都市としての神戸。)
ではなく、播磨はその豊かさゆえ、独立させてもらえなかったということなんです。

ちなみにこの時期、分県運動は全国各地で巻き起こり、明治13年から21年にかけて徳島県、福井県、鳥取県、富山県、佐賀県、宮崎県、奈良県、香川県が分県独立を果たしています。
一方、飾磨県と同じような境遇にあった県としては「浜松県」が該当しそうです。

[21753] またーり さん
の「嫌兵庫県感情」の理由もこんなところにあるのか、それとも全く違うところにあるのか、それはわかりませんが。

いささか付け焼き刃的な知識での書き込みです。間違い等あれば御教示下さい。
[21827] 2003年 11月 7日(金)01:48:03【2】またーり さん
メンバー紹介の事について
自分のメンバー紹介の出身地・居住地のところから「『兵庫県』を外して欲しい」と
書き込んだ事に対し、皆さんから色々とレスetc.を頂きありがとうございました。
そこから派生したものも含めてレスします。
[21761]太白 さん
[21804]オーナーグリグリ さん
自分のような新参者(7月デビューですが書込件数を考えるとまだまだ新参者です)の
我儘を聞いて頂きありがとうございました…と言ってもグリグリさんが既に[14388]
既にOKを出していたからのようですね。
今考えると「よくあんな事が書けたな…」と恥ずかしくなってしまいます。
[21764]なお さん
そうなんです。
自分が『兵庫県』を嫌っているのは、『飾磨県』が吸収されてしまった事自体よりも
むしろ「その後現在に至るまでその影響が尾を引いている」からなんです。
県庁所在地の地位を失ったが故に、更に失ってしまったものは数知れません…。
これについては(主なものだけですが)また後で書きます。
[21774]愛比売命 さん
岩国もそうですよね。自分はある「恥ずかしい」目的で(実は自分の『自分色』にも
それが絡んでいたりします)青春18きっぷで光市まで行った事があるんですが、
広島~岩国間は本当に近かった印象があります。むしろ福山~広島間がやたら遠く
感じましたね(距離を考えると当然ですが)。
ちなみに自分が住んでいるところは『灘のけんか祭り』程の知名度はありませんが
祭りマニア(?)にはある程度有名な通称『網干提灯祭り』の氏子だったりします。
[21789]瀬戸家さゞなみ さん
いやいや、大半の姫路市民は瀬戸家さゞなみさんと同じで『兵庫県民』としての
アイデンティティも同時に持っていると思いますよ。
[21801]今川焼 さん
飾磨県消滅と再置運動については自分が書かなきゃいけない立場だったんですが、
先に書かれてしまいましたね…。
もちろん自分が『兵庫県』を大嫌いな理由の『出発点』はそこです。ただ、上でも
少し触れているように問題なのは「それが未だに尾を引いている」という点です。
飾磨県が消滅しても、もしそれに見合った還元がなされていれば自分も『兵庫県』を
「播磨が支えてきた県である」とむしろ誇りに思っていたはずです。

【余談】
ところで少し話が逸れますが、実はこの「○○が支えてきた△△である」というのは
現在自分が『姫路市』に抱いている思いと同じなんです。
自分が住んでいる『勝原』というところ(網干警察署管内なので周辺をまとめて
『網干界隈』と言った方が適切かも知れません)は、戦後間もない1946年3月1日に
飾磨市や日本製鐵(現・新日本製鐵)の工場を抱える飾磨郡広畑町などとともに
姫路市と合併しました(この合併は画策した進駐軍軍政官・ラモート中佐の名前を取って
俗に『ラモート合併』と呼ばれています)。実はその時の経緯を書いても一つの物語に
なるんですが、それについては今回は割愛します。
さて合併して以降の話ですが、その後もこれらの地域(以下『ラモート地域』)は
「姫路市の一員としての意識を持つ一方で、地区同士がスクラムを組んで姫路市中心部に
対抗して行く」というユニークな関係を保ちます(現在でも『ラモート地域』の住民は
姫路市街へ行く事を「『姫路』へ行く」と言います…もちろん自分もそう言います)。
そして高度経済成長期を迎え、『ラモート地域』の住民には「我々の地域の工場が
姫路の発展を支えているのだ」という誇りが芽生えて行きました。
そして現在でも『ラモート地域』は姫路市を支える必要不可欠な存在となっています。
なお『ラモート地域』と『姫路市』の関係が『姫路市』と『兵庫県』のそれと違うのは、
『ラモート地域』は『単独自治体としての地位』など『姫路市との合併で失った分』を
『姫路市と合併し、現在に至るまで発展してきた事によって得たもの』で取り戻せている
という点にあります。だからこそ自分は『ラモート地域』に生まれ育った一方で、
生まれる前からその『ラモート地域』が発展を支えてきた『姫路市』への誇りも同時に
持っているのです。
それに比べて『兵庫県』からは『失った分』を取り戻すどころか127年経った今年、
そして来年も…。

【書込訂正】
余談の最後の部分を「127年経った今でも…」→「127年経った今年も…」→
「127年経った今年、そして来年も…」と2度変更。
後日予定している投稿への伏線である事を明確に表すためです。
[54430] 2006年 10月 14日(土)19:22:09hmt さん
兵庫・神戸(4)県域の変遷
安政5年(1858)に米・蘭・露・英・仏の5ヶ国との間にそれぞれ調印した修好通商条約に基づいて開港した五港のうち、名目と実態が異なる 兵庫と神奈川 について書いてきました。

神奈川・横浜の最終回に神奈川県域の変遷を記したので、バランス上(?)兵庫・神戸シリーズの方にも兵庫県域の変遷を付け加えておきます。
これに関連して、興味ある話題に言及することができればよいのですが、あいにく手持ちがなく、データの列挙に近いだけのものになりそうです。

と、言いつつ調べてみたら、兵庫県のHPの中に 県域の変遷 が図示されており、その説明も参考になりました。今川焼さんの記事[46937]からのリンクは、URLが変更されたために、切れています。
以下、このHPを参照しながら、役所と管轄区域の変遷を記してみます。

神奈川よりも8年半遅れ、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に兵庫が開港した翌月、慶応4年正月に、兵庫奉行などの幕府関係者は将軍慶喜の後を追って江戸に引き揚げてしまい、後は接収した新政府の管理するところとなります。

外国掛兵庫事務所、兵庫鎮台、兵庫裁判所を経て、知県事・伊藤博文が任命されて「兵庫県」になったのは慶応4年5月23日です[54322]
「兵庫県」になった根拠は、慶応4年閏4月21日の太政官布告(政体書) ですから、当然のことながら神奈川県の前身の「神奈川府」の発足と同じ年ですが、知府事・東久世通禧の任命で神奈川府が発足したのは6月17日というように、日付はまちまちです。
# 慶応4年は、この後9月8日(1868年10月23日)に明治元年と改元。

「第一次兵庫県の県域」によって最初の兵庫県管轄区域を見ます。
開港場の神戸、西攝津4郡内の旧幕府領の他に、播磨国にも飛び地があります。神奈川県の場合にも“虫食い状態”[54421]と書きましたが、尼崎藩領や三田藩領が介在するこちらは、入り組み方が更にひどく、「飛び地の集合」状態です。
現在の大阪府域のうち、淀川より北(旧摂津県→豊崎県)も兵庫県になっていた時代がありました。
稲田騒動のあった淡路国津名郡の一部も、一時的に兵庫県管轄になっていました。

「第二次兵庫県の県域」には、明治4年廃藩置県後の第1次統合により、ようやく「飛び地の集合」を脱して、摂津5郡(八部、兎原、武庫、川辺、有馬)一円となった「小さな兵庫県」(17万石)が、大きな飾磨県(66万石)と豊岡県(46万石)、そして名東県の一部(淡路9万石)と共に図示されています。

「第三次兵庫県の県域」には、明治9年(1876)8月21日の第2次府県統合によって、面積で9倍と一気に拡大し、現在に近い大きさになった姿が示されています。この巨大な県がいかにして生まれたのか?

先ず特筆されるのは、飾磨県だった大国・播磨の全域が兵庫県になったことですが、兵庫県のHPによると、内務卿大久保利通が
開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ
と指示したことが、飾磨県を消滅させて兵庫県にした原動力になったようです。
県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である
なるほど。

実は慶応4年正月に遡ると、江戸に引き揚げた幕府関係者の中に、老中だった姫路藩主・酒井忠惇がいたために、佐幕姫路藩の追討令が出されていたのです。すぐに開城恭順したのですが、どうもこれが姫路、ひいては播磨の政治的地位に悪影響を及ぼしていたようです。
明治4年11月の第1次統合で誕生した「姫路県」が7日後には「飾磨県」と改められただけでなく、明治9年の第2次統合では、“県庁ひとつを減らす”対象にされてしまったのです。お気の毒。

日本海側の豊岡県は分割され、但馬国全域と丹波国2郡とが兵庫県に編入されました。山陰に近いこの地域が因幡国でなく播磨国と同じ県になった理由は、内務省地租改正局出仕の櫻井勉(但馬国出石出身、後に内務省地理局長)の意見(交通の便を考慮)によると伝えられます。そして前記のように播磨国が兵庫県になったので、但馬国までも兵庫県ということになりました。

更に、淡路国も全域が兵庫県になりました。「阿波への路」という意味で、四国と密接な関係にあった淡路国が兵庫県になったのは、明治3年の稲田騒動で悪感情が高まっていた淡路と阿波(名東県→高知県→徳島県)とを分離させるためでした。

こうして5ヶ国に及ぶ大県になった兵庫県。人口も6倍強になり、東京府・大阪府よりも多かったとか。

この明治9年(1876)の第2次府県統合では、山間部の交通が不便という櫻井勉の意見により但馬国との合併が否定された因幡国までの山陰5ヶ国(隠岐国を含む)が島根県になっています。
この年、石川県も越前国から越中国まで4ヶ国に及ぶ大県になり、明治14年に堺県を併合した大阪府も摂河泉に大和国を加えた4ヶ国です。
しかし、明治14年(1881)以降の分割・再編成でこれら3つの府県域は縮小しました。

# 5ヶ国に及ぶ兵庫県と共に無傷で生き残ったのは4ヶ国に及ぶ三重県でした。3ヶ国(伊勢・伊賀・志摩)の全域と紀伊国の一部。なかなか侮れない存在です。

その後、明治29年(1896)に美作国の一部も岡山県から兵庫県に編入されましたが、県界変更と同時に国界も変更されたようなので、5ヶ国は変わらず。
現在ではほとんど実用的価値を失っている旧国の領域ですが、昭和38年(1963)の備前福河編入により、兵庫県は一応6ヶ国に及ぶことになっています。
兵庫・岡山県境変更関係の記事


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