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落書き帳

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[22356] 2003年 11月 29日(土)11:56:10hmt さん
四千万歩の男(1)レス
[22335][22355] なきら さん
平日の昼間なので、さすがにお年寄りが多かったですが。
「伊能忠敬と日本図」展(東京国立博物館)、一日違いでしたか。私は27日に行きました。
平成館2階の、伊能小図・中図を含む主展示もさることながら、おまけのような形の1階「大図フロア展示」に特に興味がありました。これについては、別稿に記します。なお、主展示品を収録した図録1800円もお値打ち品でした。
踏絵のような感じでちょっと躊躇しましたが
私は地図の上を這い廻って、「大日本沿海輿地全図」の名が示す海岸線や街道沿いに見て廻りました。

[21562] わたらせG さん
東京国立博物館のHPの案内だけで我慢しときます(悔し)
1998年の「国立国会図書館開館50周年記念貴重書展」のデジタル図録が公開されており、展示された伊能大図の美しい画像を見ることができます。拡大図により細部までわかります。こちらの所蔵範囲はおよそ本州の東半分43枚です。
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/wb39-6/mokuji.html

[21545] なお さん
行きたいのは山々ですが、やはり費用やヒマが足りないですからね
ゼンリンの「地図の資料館」(北九州市小倉北区)に伊能中図(一里当曲尺六分=21万6千分の1)の展示があり、これも地図の上を歩けるようですよ。こちらは20万分の1地勢図に近い縮尺ですね。
http://www.c-crews.co.jp/gnext_express/news/back/0307/030718_01.html
国土地理院復元の伊能大図も、全国を巡回展示するという噂を聞いたので、九州でもチャンスがあるかもしれません。

[21744] かおらい さん
伊豆諸島や瀬戸内の多数の島々、或いは内陸部の地名も描かれていましたが、全ての場所を踏破したのでしょうか。
文化12年の伊豆七島測量では、八丈島から三宅島に戻る途中で風がなくなり、黒潮に流されて3日間漂流するなどの苦労があったようです。幸いにもアメリカまでは流されず、三浦三崎に上陸できました。
[22357] 2003年 11月 29日(土)12:03:07【1】hmt さん
四千万歩の男(2)伊能大図フロア展示
「大日本沿海輿地全図」の大図は一里当曲尺三寸六分=3万6千分の1ですから、現在の地形図に近い縮尺で、全国を214面でカバーします。
今回の展示品は、2001年に米国議会図書館で発見された207面(おそらく明治初年の写で彩色のないものが多い)のデジタルデータを国土地理院が入手し、国内にある図を参照して彩色や絵画的な部分を手作業で復元しているものの一部です。
http://www.c-crews.co.jp/gnext_express/news/back/0308/030814_04.html
【1】 http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/3156/inoozu.html

これまでに復元した福島県から明石海峡付近までの60枚につき、再デジタル化したものを原寸大(1枚がたたみ1畳ぐらいの大きさ)に出力し、接合したものを展示しています。
http://www.tnm.jp/doc/Guide/Dyn/eten/eten28-5.html
接合と言えば、伊能図は測量データはよかったが、地図の投影法の研究が遅れていて接合に問題があったので、伊能忠敬自身も修正に苦心していたようです。(渡辺一郎:伊能測量隊まかり通るNTT出版1997)

今回も接合の問題はあったのかもしれませんが、地図のない空白域(日本海など)を含めて12m×16mというサイズは、とにかく迫力があります。
伊能図の経度(大図には表示なし)原点である京都付近が欠図となっているのは、惜しいところです。

この図の前身である「日本東半部沿海地図」は文化元年9月に11代将軍家斉の上覧を得ており、この上覧を機に伊能忠敬の全国測量事業は国家プロジェクトになり得たわけですから、199年前の 江戸城大広間フロア展示 は大きな意義を持っていたわけです。

最終的な「大日本沿海輿地全図」は伊能忠敬の没後3年あまりを経た文政4年(1821)に完成し、幕府に上程。老中・若年寄の面前で大図の西半分を接合して閲覧に供しました。500畳敷の江戸城大広間も、全部をフロア展示するには広さが足りなかったようです。
http://members.jcom.home.ne.jp/t-sakamo1b/inohzumonogatari(1).htm
[27486] 2004年 4月 18日(日)15:09:39【1】hmt さん
「踏み絵コーナー」全国で開催
2003/10/3~12/14東京国立博物館で開かれた「江戸開府400年記念特別展・伊能忠敬と日本図」において、2001年に米国議会図書館で発見された伊能大図複写図に基づく彩色復元図のフロア展示[22357]があり、この落書き帳でも「踏み絵コーナー」として話題になりました。

国土地理院復元伊能大図の全国を巡回展示計画は[22356]でも紹介しておきましたが、昨日から神戸を最初として下記の予定で実現しているようです。詳しくは http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2004/0414.htm をご覧下さい。

昨年作業中だった復元も今回はすべて完成したので、釧路・名古屋・幕張では全国展示があるようです。
他の大部分は展示場の制約で開催地を中心とする部分展示と思われます。

また、神戸・仙台・熱海・名古屋では『伊能忠敬の日本地図』展も開催されます。ここでは「踏み絵」のもとになった「伊能大図複写図」も展示されるとのことです。

「アメリカ伊能大図 里帰りフロア展」開催日程
2004年
4/17 ~ 5/23   神戸市立博物館(神戸市) 『伊能忠敬の日本地図』展 同時開催
6/4 ~ 6/11    仙台市科学館(仙台市)  6/4 ~ 7/19 『伊能忠敬の日本地図』展 開催
6/13 ~ 7/19   仙台市博物館(仙台市)
7/16 ~ 7/19   釧路観光国際交流センター(釧路市) (全国展示)
7/23 ~ 7/25   札幌市中央体育館(札幌市)
7/30 ~ 8/1    帯広市十勝プラザ(帯広市)
7/30 ~ 9/5    MOA美術館(熱海市)  『伊能忠敬の日本地図』展 同時開催
8/21 ~ 8/25   松山市総合コミュニティセンター(松山市)
10/11 ~ 10/24  広島県立美術館(広島市) 期間内の1週間
10/30 ~ 10/31  ナゴヤドーム(名古屋市) (全国展示)
11/1 ~ 11/7   徳川美術館(名古屋市)  10/2 ~ 11/7 『伊能忠敬の日本地図』展 開催
11/9 ~ 11/16   武蔵大学(東京都)
11/19 ~ 11/23  新潟県立自然科学館(新潟市)
11/26 ~ 11/28  福岡市立少年科学文化会館(福岡市)
12月予定      日本大学文理学部(東京都)
2005年
1/22 ~ 1/23   幕張メッセアリーナ(千葉市)予定 (全国展示)
[35754] 2004年 12月 14日(火)15:03:56hmt さん
伊能大図(彩色復元図)全国214面のフロア展示開催中
地図の大縮尺と小縮尺の話題[35714][35738][35742][35743]。私も「分数の大小」と心得ています。

伊能大図こと「大日本沿海輿地全図」の大図[22357]は、現代の表現では「1:36000」ですが、「一里当曲尺三寸六分」と表示されています。
同様に中図は 「一里当曲尺六分」、小図は 「一里当曲尺三分」です。
この表現ならば、三寸六分>六分>三分で、大・中・小に混乱はありません。

ところで、[27486]でお知らせした「踏み絵コーナー」全国で開催も終りに近付き、現在(2004/12/6~12/23)、前回のアナウンスでは未定だった日本大学文理学部で開催中です。しかも、東京国立博物館の時と異なり、米国議会図書館で発見された207面、海上保安庁海洋情報部で発見された4面及び残り3面を加えた 全国214面の伊能大図(彩色復元図)の展示というから、見逃せません。

[35753] じゃごたろ さんの「真空度」で迷ったことはありません。多分、「圧力」とか「高真空」とかいう言葉は使っても、「真空度」という用語は使っていないのでしょう。
地理と無関係の分野で、わかっていても混乱するのが「円高・円安」。
これも、1万円=96ドルというような表示にしてくれれば混乱しないのですが…。
[45234] 2005年 9月 29日(木)19:20:08【1】hmt さん
地球を測った人々(4) 高橋至時と伊能忠敬
今年、世界遺産に選ばれたシュトルーヴェの測地弧(19世紀)[45147]を発端として、2000年以上前ののエラトステネス[45172]に遡り、17~18世紀のフランスを中心とするヨーロッパにおける子午線測定の成果[45183] [45211]を振り返ってきました。

ヨーロッパにおけるこのような新知識は、オランダの暦書として日本に伝えられました。1803年、幕府天文方・高橋至時が「ラランデ暦書管見」で紹介しています。
高橋至時は、かねてから暦学上の必要性から子午線測定に関心を持っていましたが、それまでの日本では、25里、30里、32里など諸説が入り乱れ、信用できる実測値はありませんでした。

この時から少し前の寛政4年(1792)には、ロシアの使節ラクスマンが根室へ来て、日本人漂流民を送り届け、通商を要求するなど、北辺の動きが慌しくなっていました。幕府は蝦夷地に目を向け、寛政11年にここを直轄領とし、堀田仁助をして蝦夷地南岸と陸奥の東海岸を測量させました[42889]

高橋至時は、南北に長い子午線に沿って江戸から蝦夷地までを測量をすれば、子午線1度の実測値を得ることができ、北辺防備にも役立つという理由で幕府の許可が得られると考えました。しかし、誰にこれをやらせるのか? 

ここに、絶好の人物が現れます。
高橋作左衛門至時が天文方になった寛政7年に入門してきた下総国香取郡佐原村の伊能勘解由忠敬です。財をなした御隠居の身でありながら向学心に燃えています。
彼は子午線の長さの件でも実行力を発揮して、江戸市内の自宅と職場の間(緯度差1分半)で実測を試みましたが不成功。
相談された師匠は、待ってましたとばかりに、「もっと大きな緯度差で測らなければ角度の誤差が大きくて駄目だよ。蝦夷地までの測量をやってみる気はない?」と持ちかけました。

伊能忠敬のやる気を確認した高橋至時は、幕府に申請して許可を得、寛政12年(1800)閏4月19日に、伊能忠敬の一行6名は江戸を出発しました。幕府の命令書には
御用中一日につき銀七匁五分宛下される
とありますが、この程度の補助金では費用は賄いきれず、この大事業は、金と時間のある御隠居のボランティア活動で始まりました。そして、閏4月から10月迄をかけて、奥州街道と蝦夷南海岸を測量して実測図を作り上げました。

幕府に提出した大図21葉、小図1葉の出来栄えに、“測量試み”として許可を出した幕府は驚き、苗字帯刀を許されることになりました。勿論「伊能」という苗字は百姓身分の頃から持っていましたが、これを公式に使えることになったということでしょう。また、日本刀は方位磁石を狂わせるということで、実際には竹光を差していたそうです。

翌 享和元年の第2次測量を経て、享和2年(1802)には、発端になった子午線1度の弧長を28里2分(110.75km)と計算しています。
# 尺貫法の十進表記もあるのですね。

最初に記したように、その翌年、第3次測量の後にはオランダから、ヨーロッパの測定結果がもたらされました。
自分たちが求めた子午線弧長の測定値とヨーロッパのそれとが一致していることを知り、高橋・伊能の師弟は手を取り合って喜びました。

【1】 苗字帯刀に関して追記
年譜を見ると、“享和元年(1801) 幕府より苗字帯刀を許される”とあったので、上記のように書いたのですが、それより前の天明3年(1783)にも、浅間山噴火のあった年に “利根川洪水で凶作。利根川堤防修理に活躍。津田氏より苗字帯刀を許される。”とありました。
寛政12年(1800)の命令書にも
高橋作左衛門弟子 西九小姓番頭津田山城守知行所 下総国香取郡佐原村元百姓 浪人 伊能勘解由
とあり、学問の道に入った時には既に士分であったようです。
# 苗字帯刀には、領主のローカル・ライセンスと幕府の全国ライセンスがあるのかな?
[45236] 2005年 9月 29日(木)19:28:24hmt さん
地球を測った人々(5) 伊能忠敬の地図
子午線の測定からは外れますが、ここまで来たので、ついでに伊能忠敬の地図作りを記してしまいます。

高橋至時の暦学的観点から始まった測量事業ですが、伊能忠敬の方は、最初から地図作りに情熱を燃やしていたのかもしれません。第3次、第4次の出羽・越後・北陸・東海沿岸の測量から戻った後で高橋至時は若死しますが、伊能忠敬は「日本東半部沿海実測図」を完成させて幕府に提出し、文化元年(1804)9月に11代将軍家斉将軍家斉の上覧を得ました[22357]。この時の大図・中図・小図の縮尺3点セット[35754]が最終版にまで引き継がれています。

地図の正確さに感心した幕府当局は、伊能忠敬を正式の幕吏として登用し、これ以降の西日本の測量(第5次~第8次)は、幕府の事業として、「伊能測量隊まかり通る」ことになりました。測量は第9次、第10次の江戸府内測量へと続いた後、文政元年(1818)に74歳で死去しました。
「大日本沿海與地全図」が完成して、幕府に提出され、伊能忠敬の喪が公表されたのは文政4年、その後来日したシーボルトが「カナ書き特別小図」[22387]を持ち出そうとした事件は文政11年(1828)のことでした。

ところで、前記のようにヨーロッパの測地学の成果は、1803年には高橋至時の知るところとなりました。
地球が扁平な回転楕円体であるいう情報も入手していたわけで、この点については伊能忠敬も助言を受けていた筈ですが、伊能図は地球を球体として表現されています。
現代の地図と伊能図とを重ね合わせると、蝦夷地が東にずれている等のゆがみが指摘されています。
この点に関しては、いろいろな議論 があるようですが、地球楕円体を無視したことも主な要因でしょう。

伊能忠敬の測量した大図は、本質的に地表を平面とみなせる範囲の海岸線を正確に表わしたものであり、緯線と経線とは描かれていませんが、本質的には直交しているものと考えられます。これに対して、中図・小図では、サンソン・フラムスチード図法のように、京都基準の中央経線(中度)以外では、平行緯線と斜交する経線が描かれています。
この経線は、現在の地図と比較すると、あまり正しくないことがわかります。伊能忠敬は、日食・月食の機会だけでなく、京都と江戸での木星衛星食の同時観測(カッシーニが開発した経度測定法[45211])も行ない、経度の測定を試みましたが、結局はあまり成功せず、地図には反映されませんでした。

シーボルト事件では厳しい処置をした幕府ですが、開国後になると態度が変わります。
文久元年(1861)に英国海軍アクティオン号が海図作成のために日本沿岸の測量を始めましたが、この時に同乗した幕吏は、地名の質問に答えるために伊能図を持参していました。これを見た艦長はオールコック公使を通じて伊能図を入手し、その海岸線を利用して海図を作成したそうです。この時に再来日したシーボルトも日本に居たとか。

江戸城無血開城のおかげで、伊能図は無傷のまま明治政府に引き継がれましたが、不幸なことに明治6年の皇居火災で正本(最終上呈本)は全部焼失しました[34231]
しかし、測量事業の関係者が下図から針穴で写して彩色した副本や、江戸時代や明治時代に作られた写本が存在し、その姿を伝えています。最も代表的な副本は、伊能家に伝わる副本ですが、明治政府は正本の焼失後、その提出を求め、近代的な地形図整備に利用しました。内務省、陸軍、水路部等で作製された地図が伊能図を基礎としているのは、このような経過によります。
この副本も関東大震災の際に、保管先の東京帝国大学図書館と共に焼失してしまいました。

国立国会図書館の写本は、東日本に限られているものの、色彩・保存状態共に良好で、ネットで閲覧することができます[42805]。この写本は、明治初期に副本から模写されたもので、1997年に気象庁図書館で発見後、移管されたものです。
伊能忠敬の地図と史料 の中に、伊能図總目録があります。
[49327] 2006年 2月 19日(日)16:49:59【1】hmt さん
伊能大図・全214枚の復刻出版(1)伊能忠敬
たびたび話題になっている 伊能忠敬 の「大日本沿海輿地全図」の「大図」(一里当曲尺三寸六分=3万6千分の1)全214枚が復刻出版されることになりました。

新聞記事(読売2月13日、毎日2月16日)によると、伊能忠敬研究の第一人者・渡辺一郎さんが監修し、国内外で確認されているものから最も状態のよい資料を採用して日本地図センターが編集し、河出書房新社から今年12月に限定300部の刊行を目指しています。予価36万円で、予約受け付け6月とのこと。

【追記】
書名を示すのを忘れていました。「伊能大図総覧」全2巻 です。

畳ぐらいの大きさの原図を約3分の1に縮小したB2版2つ折の体裁ですが、高解像度のデジタル撮影などで地図上の字を完全に判読できるようにし、彩色の退色部分も原色に近づけるように工夫しているそうです。

せっかの機会なので、伊能忠敬と彼の業績を 落書き帳の記事 から振り返ってみます。

伊能忠敬は上総国で小関家に生まれましたが、17歳で下総国香取郡佐原村伊能家の婿養子になり伊能三郎右衛門忠敬を名乗ります。ここで家業に励み、佐原村本宿組名主として地元のために尽力します。天明3年(38歳)には利根川堤防修理の功績が認められて、領主から苗字帯刀を許されています[32084]

49歳で家督を譲り、通称を勘解由と改めます。普通の人ならこれで楽隠居の身となるところですが、翌年妻と死別すると、向学心に燃えた彼は江戸に出て、幕府天文方の高橋作左衛門至時に入門します。
ここで地球の子午線1度の弧長決定[45234]を目的として、江戸と蝦夷地の間を測量することになります。

その旅の出発が、寛政12年(1800年)閏4月19日。当時はまだ全国の測量という目的は掲げられていませんでしたが、後の「大日本沿海輿地全図」の第一歩ということで、4月19日は「地図の日」[27533]とされています。
江戸の起点となった地点が芝丸山古墳で、 記念碑 があります。電車唱歌[35013]の22番にある「伊能忠敬の碑」とはこれです。

子午線1度の弧長は第2次測量で答えを出しましたが、ボランティア活動で始まった伊能忠敬の地図作りへの情熱は幕府を動かし、第8次までの全国測量、その後の江戸測量と、73歳で死去するまで続き、死後3年の文政4年(1821)に、後継者の手により「大日本沿海與地全図」大図・中図・小図の3点セットが完成しました。

一里当曲尺三寸六分(3万6千分の1)の「大図」は、その中でも最も詳細な実測図で、(副本が)明治政府の内務省、陸軍、水路部等による地図作製の基礎資料として利用されました。
一里当六分の「中図」と三分の「小図」も編集され、こちらには経緯度が入っていますが現代の地図と比較するとずれがあります。
[49328] 2006年 2月 19日(日)16:53:08hmt さん
伊能大図・全214枚の復刻出版(2)大図214面の発見と復元
今回復刻出版される「大図」は214面から構成されていますが、江戸城にあったその正本は明治6年に、伊能家に伝えられ明治になって政府に提出された副本も大正12年に焼失しました。

正本・副本の失われた伊能大図の姿を今日に伝えてくれるのは、江戸時代や明治時代に作られた写本です。
ネットで閲覧することができる[42805] 国立国会図書館の「文政4年大図模写」は、明治初期に副本から模写された彩色・描図が優良な模写本とされ、良い保存状態のまま、1997年に気象庁図書館で発見された後に、移管されましたが、その範囲はおよそ本州の東半分43枚です。
その他に所在が知られていた写本を含めても、従来知られていた大図は、約60面でした。

ところが、2001年7月に、「アメリカで伊能大図の写し207枚発見」という大ニュースが報じられました。
30年前から伊能図探しをしていた渡辺一郎さんが、2001年3月にアメリカ議会図書館別館のマジソン館地図室を訪れ、伊能大図の写しに出会ったのです。その数は214枚中の207枚ですから7枚を欠くだけです。
この図は、明治初期の日本陸軍が、国土の基本地図作成の目的で写したもので、測線と海岸線を主体とし、沿道風景などの絵画的部分は簡略化され、大部分は彩色も省略されたものでした。アメリカに渡った経歴は不明。

この発見を受けて、2003年に国土地理院が「アメリカ伊能大図」のデジタルデータを入手し、原寸大に出力した画像に、国内にある図を参照して彩色や絵画的な部分を加えて手作業で復元しました。この復元作業は、伊能忠敬の子孫の洋画家・伊能洋さんが監修しました。

復元作業が進行中の2003/10/31~2003/12/14に東京国立博物館平成館で60面のフロア展示が行なわれ、この落書き帳でも盛り上がり、「踏み絵コーナー」という呼び名も生まれました。フロア展示は、その後、神戸[28560]を皮切りに各地で行なわれ、特に2004年12月の全214面の展示はご覧になった方も多いことと思います。

このような復元・展示事業が行なわれている間に、「アメリカ伊能大図」の発見後も所在不明で残されていた4面が、海上保安庁の保管庫で見つかりました。[29977]のリンクは切れているので、 伊能大図最後の4枚発見、伊能大図がつながったという記事 をリンクしておきます。
この4面の中には、133号「山城・河内・摂津」つまり京都付近の重要な地域が含まれています。2004年12月の展示には、これら4面も展示されていました。リンクした記事に画像がありますが、他の伊能大図とずいぶん違うタッチの図でした。

と、書いてから改めて調べたら、その後、海上保安庁海洋情報部の伊能大図も、国土地理院の手により 彩色図 が作成され、アメリカ伊能大図と共に国土地理院HPの中で公開されていました。

今回の復刻版では、国立国会図書館、アメリカ議会図書館、海上保安庁海洋情報部、松浦史料博物館など合計6か所から最も状態のよい資料を集めるとのことで、魅力はありますが、36万円は やはり考えますね。
アメリカ大図の要部は2004年の図録(日本地図センター,2500円)があるし、不足分はネットで補えばよいか。


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