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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[2363]2002年7月31日
Issie
[2364]2002年7月31日
Issie
[2369]2002年7月31日
たけもと
[45357]2005年10月3日
eiji_t
[45394]2005年10月4日
eiji_t

[2363] 2002年 7月 31日(水)18:42:58Issie さん
日立
>字体の新旧とは趣が異なりますが、旧常陸国である茨城県の日立市、滋賀県滋賀郡の
>志賀町など、同音で比較的簡易な漢字になっている例は、どう解釈するべきだろう?

「日立市」の場合は一応「常陸」とは別個のものと扱うべきだと思います。
「日立」という地名は「常陸」という国名が下地となってはいるのでしょうが,地元には徳川光圀による命名故事が伝えられています。
自治体名も「常陸国」からというより,「日立鉱山」によるものでしょう。
とすれば,別に「常陸」という国名を簡単な字に書き換えた,というものではないと解釈したほうがいいと思います。

「滋賀」と「志賀」はどちらも,漢字以前からあった「しが」という地名に対する当て字ですね。「ちかつあふみのくに(近江国)」の「しがのこほり」に対する漢字表記にはいろいろなバリエーションがあったわけで,結局,明治以降も郡名・県名として生き残ったのが「滋賀」の方
だけども,「志賀」という表記も多く見られますよね。
これも「滋賀」の簡単な文字への書き換え,というわけではないでしょう。

伊勢原市の「石田」にある県立高校は,わざわざ「伊志田」と表記を採用しています。より由緒のありげな表記にした,ということらしいのですが,学校などが意図的に一般的なものとは違う表記を採用することはままあることですね。
[2364] 2002年 7月 31日(水)19:25:38Issie さん
続・日立
少しく言葉足らず。

「日立鉱山」は初め「赤沢鉱山」と言っていましたね。
「日立市」の中心市街地の名前は「助川」だったり「大甕」だったり「多賀」だったり。
「日立鉱山」と,自治体名としての「日立町」とはどちらが先だったのか。
いずれにせよ「日立」の町は「日立鉱山」ないしは「日立グループ」ととに発展してきたわけで,少なくとも国名の「常陸」と自治体名の「日立」の間には何段ものクッションがあるようには思います。
[2369] 2002年 7月 31日(水)23:56:12たけもと さん
Re: 日立
>「日立鉱山」は初め「赤沢鉱山」と言っていましたね。
>「日立市」の中心市街地の名前は「助川」だったり「大甕」だったり「多賀」だったり。
>「日立鉱山」と,自治体名としての「日立町」とはどちらが先だったのか。

自治体名が先です。

元禄年間:徳川光圀が神峰山に登り「日の立ち昇ること領内一」の言葉を残す。
明治22年(1889):宮田村と滑川村が合併。日立村と名づけられる。
明治38年(1905):久原房之助が赤沢銅山に近代資本を投入。日立鉱山として採鉱開始。
大正9年(1920):株式会社日立製作所発足。
大正13年(1924):日立村が日立町に。
昭和14年(1939):日立町と助川町が合併し日立市となる。
[45357] 2005年 10月 3日(月)15:36:00eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(1)
合併による新自治体の名称で揉めるのは、平成の大合併に限らず、明治,昭和と続いてきました。それを一つの市に沿って辿ってみるのも意味があるかと思います。

日立市は明治22年の町村制による合併から始まって、編入以外の3回の合併で、その都度名称で揉めました。揉めた相手も理由もその都度違います。以下その経緯を。

1)日立村の誕生
[2369]たけもと さん
元禄年間:徳川光圀が神峰山に登り「日の立ち昇ること領内一」の言葉を残す。
明治22年(1889):宮田村と滑川村が合併。日立村と名づけられる。
しかし事はそう単純じゃないらしいのです。
このとき名称で揉めた相手は、県でした。当時の県官の威力は大きく、例えば現日立市の当時「中里村」は古来縁の「撫子村」を県に拒否され、里川が中心を流れているからと中里村にされたそうです。やはり現日立市の「坂本村」「東小沢村」は名称だけではなく、合併の相手先まで地元の意向を無視されたそうです。
宮田村と滑川村の場合、県は両村から1字づつ取って合成名「宮川村」を指定しました。地元有志は3日以内に新村名を選定して報告するるといって、県指定を拒否したそうです。
地元有志が考え出したのが上記の黄門様に由来する名称だったのです。
黄門様の御威光は明治の県官を納得させるだけの力を保っていたらしいです。(明治6年には光圀を祭神とする常盤神社が水戸に創建され、後に別格官弊社になっています)。
地元の作戦勝ちでしょうか。以後黄門由来説が定着します。

光圀よりも前の江戸期の古文書に「常陸国」を「日立国」と表記する例が2つ現存しています(どちらも個人蔵)。
茨城県の東の外れの一寒村にすぎない村の有志たちに「日の出を早く望むことが出来る常陸の東方=日立という心象」が先にあって、それを光圀の伝承に結びつけたというのが真実に近いらしいです。
[45394] 2005年 10月 4日(火)07:36:42eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(2)
[45357]eiji_t の続きです。

2)日立市の誕生
昭和14年9月に日立町、助川町が合併して「日立市」誕生。まずはそこに至る経緯から。
日立村に日立鉱山(明治38)日立製作所(明治43)発足。両社の発展とともに人口も増え、大正13年町制施行「日立町」。
助川町の経緯は、明治22年の町村制施行で助川村,会瀬村が合併して「高鈴村」。村名は地区の西部にある山から取る。助川駅開設(明治30)、鉱工業の貨物が増大。また助川地区には鉱工業の従事者が住み、人口が増えて大正14年に町制施行「助川町」。町名は旧2村の内、助川地区の発展が進み、奈良時代からの歴史のある名である助川に戻したもの。
昭和5年には助川町に日立製作所海岸工場(現日立事業所)が完成。日立,助川両町は地理的にも産業的に密接な関係になり、この頃から日立町,助川町に合併の話が出る。
何度か合併問題は不調に終わるが、昭和14年ようやく同意にこぎ着ける。
しかし新自治体の名称でこじれる。助川町は「日立助川市」を提案、日立町が拒否。妥協案の「茨城市」も両者に不満。ついに県に一任となって、県は歴史のある「助川」より知名度の「日立」を選ぶ。

その後、助川地区に工場が拡充、商店街が発展し市の中心となる。助川町が企業誘致で日立市に名称変更したという、誤った説が拡がる。
[45165]に「地名学の専門家も誤解していた」と書きましたが、こんな例を見つけました。、
企業名由来の自治体名を持つ唯一の市である豊田市の改名運動に、日立市の名が利用されたそうです。
『豊田市史』(第4巻第2章)
挙母市(豊田市の旧市名)商工会議所の有志が、昭和33年に市名変更の「請願書」を市議会に提出しましたが、そこに企業名由来の自治体名の例として「日立市」が挙げられていたのです。
豊田市の場合も強い市名変更反対があり、名古屋裁判所へ行政訴訟まで起こされたそうです。


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