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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[24127]2004年1月25日
Issie
[36111]2004年12月27日
hmt
[55178]2006年11月15日
hmt

[24127] 2004年 1月 25日(日)00:36:22【1】Issie さん
足柄県
[24107] 月の輪熊 さん
静岡県には関東の一部といってもおかしくない「伊豆」の存在がありますし、

明治4年7月14日(旧暦。太陽暦では1871年8月29日)の「廃藩置県」から4ヵ月後に行われた全国的な府県再編の結果,伊豆国は相模国西半部(当初は境川以西。実際は相模川以西)とともに「足柄県」に編成され,県庁を相模国足柄下郡小田原に置きました。
ここでは,紛れもなく「伊豆は関東の一部」となりますね。

「足柄県」の管轄区域は旧小田原藩領(支藩の荻野山中藩も含む)と,その周辺の旧幕府直轄領および旗本領とを中心とするのですが,このうちの後者は幕府に代わって明治政府の直轄領となると「韮山県」に編成されていました。
この地域の幕府直轄領・旗本領を支配していたのが伊豆の「韮山代官」(天保期の江川太郎左衛門英竜が有名)だったからです。甲州・郡内の幕府直轄領・旗本領も同様。
つまりは,この単位で関東に結びついていたのですね。

足柄県は1876(明治9)年4月に解体されて,相模分は「神奈川県」へ,伊豆分が「静岡県」へ統合されます。伊豆にとっては,これが「運命の分かれ道」だったかもしれません。

*それまでの「神奈川県」は,三多摩も管轄下に置き,県庁所在地の横浜(久良岐郡)も所属する武蔵国の南半4郡(久良岐・橘樹・都筑・多摩)に,相模国の東半3郡(三浦・鎌倉・高座)を領域とする,つまりは武州に重心のある県でした。
旧足柄県北部を編入し,つまり相模国全域を管轄下に置いたことで,今に続く「神奈川県と言えば相州が本体で,武州はおまけ」的状況が生まれたわけです。

現在の交通体系から見れば,伊豆半島東海岸は明らかに関東ないしは「東京圏」に属していますね。これについては論を待つことはないでしょう。
でも,伝統的に伊豆の中心は狩野川流域の韮山や三島であって,特に三島は駿河東部の沼津と連続的な市街を形成していますよね。
局地的に見れば,東京よりも沼津の引力が強そう。
駿州が全体で「静岡県」を構成するなら,沼津=三島間の結びつきから,伊豆が静岡県に引っ張られてしまうのも納得の行くことではあります。

結局は静岡県が,あるいは少なくとも東部・駿州地域が東京(あるいは関東)へどれだけ引っ張られているか,という問題になるのかな,などと思っています。

愛知県は三河が「東日本」で尾張が「西日本」

戦国末期,尾張の織田と羽柴が“西”へ向かい,三河の徳川が“東”へ向かった,というのが何となく示唆的ですね。

もっとも,私には名古屋が「西日本」である,という感覚は少なくともありません。

#さっきの書き込み[24124] の続き…
リコ式吊手

東西線が西船橋に乗り入れた頃,子供の私はこの吊り手につかまる日が来ることを楽しみにしていました。
けれど私が大人になった日… には,すでにこの吊り手は廃止されてしまっていました。残念。
(あたし,中学校入学当初までは常に“背の順”で先頭の方に立っていたのでした。)
[36111] 2004年 12月 27日(月)18:52:03hmt さん
埼玉県の生まれた頃(4)―土地人民同縣ヨリ可受取
本題の関東地方の県の改廃に関する太政官布告に戻ります。
1971年の第1次府県統合による関東地方1府11県[36081]から、1973年には入間県・宇都宮県・木更津県が消えて1府8県へ[36081]、更に1975年に新治県は千葉・茨城両県に分割され1府7県へ。

1876年になると 2度にわたる全国的な第2次府県統合で3府35県になります。
関東地方では、先ず足柄県が 神奈川・静岡両県に分割されて 消滅しました(4/18)。
現在と同じ数の 1府6県となったのは この時だし、江川代官所から韮山県へと 関東と深い関係を持ってきた伊豆と 別れ別れになってしまったのも この時でした。

北関東では次の布告による3県の組換えがあり、埼玉県・群馬県・栃木県が “ほぼ” 現在の形になります。
この後、関東地方の県境で大きな変化があるのは、1893年の 神奈川県から東京府への 三多摩移管[33700]だけです。

太政官日誌明治九年第六十五號(1876年)
〇八月二十一日(第百拾弐號布告)
筑摩縣始左ノ通廢合并管轄替被仰付候條是旨布告候事
一 筑摩縣ヲ廢シ飛騨國ヲ岐阜縣ヘ合シ信濃國ノ内ヲ長野縣ヘ合併(注:関東とは無関係)
一 熊谷縣管轄武蔵國ノ内ヲ埼玉縣ヘ合シ橡木縣管轄上野國山田新田邑楽ノ三郡ヲ熊谷縣ヘ合シ熊谷縣廳ヲ上野國高崎ヘ移シ群馬縣ト改稱

武蔵(旧入間県)を埼玉県に渡し、橡木県[36083]から上州3郡を得て、結局上野国全域になった熊谷県は、新しい県庁予定地の名に由来する「高崎県」となるはずでしたが、“差し支え”あるとの理由で、高崎・前橋をともに含む郡の名を採用して(第2次)「群馬県」に改称しました。翌月には県庁所在地が前橋になっているので、これが理由だったのでしょう。
なお、栃木県庁が栃木から宇都宮に移ったのは 8年後の1884年でした。

最後に、旧入間県を受取ることになった埼玉県に対する文書。

埼玉縣
熊谷縣管轄武蔵國ノ分其縣ヘ管轄被仰付候條土地人民同縣ヨリ可受取此旨相達候事
明治九年八月二十一日 右大臣 岩倉具視

[36081]の布告が、 「“地所物成(ものなり=生産物、年貢)等”を請取るべく」と財産権的な表現だったのに対して、今度のように 「“土地人民”を受取るべく」と書かれると、人民としては「ギクッ」とします。
1872(壬申)年施行の戸籍法や 1873年布告の徴兵令により、支配対象が「石高」に象徴される「生産物」から、「生産手段」たる 「人民」そのものに変化してきたことを示しているのでしょうか。
版籍奉還の “版籍” も、まさに“土地人民”と同じ意味だったのですが、使い慣れた4字熟語になると、鈍感になってしまいます。
[55178] 2006年 11月 15日(水)21:56:29hmt さん
日付が1日違う「県民の日」
[55149] eiji_t さん
昨日11月13日は茨城県民の日でした。今日(11月14日)は埼玉県民の日ですね。

[4864] 日和[松戸] さん
茨城県民の日も終わり・・・ 驚いたことに、明日は埼玉県民の日らしいです。一日違いだったんですね。

茨城県のプレスリリース2005/11/2 には、県民の日の由来につき次のように記されています。
1871年(明治4年)7月に廃藩置県,同年11月13日に県の統廃合が行なわれ,新治県,印旛県,茨城県の三県が置かれました。
このとき,初めて「茨城県」という県名が用いられたことにちなみ,1968年(昭和43年)に「県民の日を定める条例」 により11月13日が茨城県民の日と定められました。

埼玉県HP による由来は次の通りです。
明治4年11月14日(旧暦)、太政官布告によって、「埼玉県」の名称が生まれた。
それからちょうど100年目に当たる昭和46年に、これを記念して、11月14日を「県民の日」とした。

そのまま読めば、「茨城県」と「埼玉県」(いずれも現在の県域の一部)が生まれたのは1日違いということになります。
しかし、両県の発足は実は同日ではないかと思われ、1日違いとなった原因が気になります。

なお、明治4年11月13日にせよ14日にせよ、当時の日本で行なわれていた天保暦法(いわゆる旧暦)による日付です。1年余り後の明治6年から採用された現行太陽暦(グレゴリオ暦法)による日付に換算すると1871年12月24日と25日になります。[21976]参照

「茨城県」や「埼玉県」が発足した日は、現実には(今で言う)年末寒波の季節でした。
しかし、人々をイベントに誘い出す「県民の日」としては、気候の良い日付を選ぶことが必要です。どっちみち、現在の県域とは違うのですから、「県」が発足した日と言ってもこじつけにすぎません。だから、あえて旧暦の日付をそのまま用いたことは納得できます。

以下、旧暦の日付で話を進めます。
明治4年7月にとりあえず藩を県に置き換えた後、主として明治4年11月に第1次府県統合が全国的に実施されました。
このうち関東伊豆ブロックでは、先行した群馬県以外の1府10県すべてが同じ日付の11月14日に設けられたと心得ていたので、茨城県と埼玉県の「県民の日」が1日違うことに疑問を感じたのです。

“関東伊豆ブロック”という言葉に釣られて脱線しますが、伊豆出身の北条氏による鎌倉政権以来、この明治初年までの長い間(♪歴史は長し七百年)、関八州と伊豆とは同じ地域ブロックを形成していました。江戸時代には伊豆韮山の江川代官所の支配する天領が関東にあり、明治初期には「韮山県」になりました。現在でも観光地としての「伊豆箱根」や、東京電力管内であることに見られるように、伊豆は関東との深い関係が続いています。
しかし、明治9年(1876)に足柄県が分割され、伊豆は行政的には関東から切り離されて静岡県に属することになりました。
[24127] Issie さん
伊豆にとっては,これが「運命の分かれ道」だったかもしれません。
道州制の区割り案を見ていると、甲州は関東ブロックに復帰しそうですが、伊豆が関東に戻る可能性は小さいようです。

本題の明治4年、「茨城県」や「埼玉県」が発足した日付に戻ります。
Isssieさんの頁(第1次府県統合にかかわる太政官布告) も、「埼玉県の生まれた頃(1)―今般関八州(中略)府県被置候事」[36047]で参照した「目でみる埼玉百年」(埼玉県1971)掲載の太政官布告も、いずれも「十一月十四日」と記されています。

ところが、「茨城県民の日」をきっかけにして、11月13日とする説が存在することを知りました。
そこで改めて Isssieさんの府県の変遷 を見たら、こちらの表では、茨城県も埼玉県も11月13日となっています。
出所はよくわかりませんが、「11月13日」と記された文書もどこかにあるのでしょうね。
オヤ? 群馬県も11月13日になっています。

135年も前の「日付が1日違う」ことを詮索しても、あまり実益はないと思いますが、ちょっと気になったので…

と書いたら、TDL date-navi の “できれば避けたい混雑する特定日一覧”の中に、6/15(千葉県民の日)、6/15(栃木県民の日)、10/1(都民の日)、10/28(群馬県民の日)、11/13(茨城県民の日)、11/14(埼玉県民の日)、11/20(山梨県民の日)が並んでいました。いずれも公立校が休み&入園料割引。

茨城県民の日と埼玉県民の日の「日付が1日違う」ことは、思わぬところで混雑分散効果を及ぼしていることを知りました。

ここに列挙された「県民の日」の日付を見ると、千葉県民の日([28604]猫使いさん)は、明治6年(1873)6月15日に印旛県と木更津県との統合によって「千葉県」の名ができた日付です[1644]
栃木県民の日も同じ日付に由来します。こちらは「杤木県」が宇都宮県を統合した日です[36081]。現在の県域プラス東毛3郡。
群馬県[54618] [54919]と山梨県は、茨城県・埼玉県と同様に明治4年の第1次統合により、それぞれの県名が生まれた日にちなんでいます。

「都民の日」[33692]だけは、「三市特例法廃止」によって「東京市」が自治を獲得し[53890]、新発足した明治31年(1898年)10月1日を記念しています。東京市時代は自治記念日と呼んでいたようです。

参考までに、多くの県が採用したように「東京都」という名の生まれた時を求めると、それは1943年7月1日です。しかし、これは大戦中の国家統制が強まった時であり、「都民の日」にふさわしいものではありませんでした。参考までに、初代の「東京都長官」大達茂雄の前職は、昭南特別市(シンガポール)市長でした。

神奈川県だけは「県民の日」が制定されていないようです [28601] N-H さん。
TDL date-naviには、6/1~6/12“神奈川県民週間”とありましたが、これは公式の存在なのでしょうか? それともTDL独自の割引期間?


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