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[24183] 2004年 1月 26日(月)17:17:42hmt さん
伊豆七島 という名に苦しめられた 青ヶ島
[24179] トミ さん
伊豆七島とはどの島々のことですか?
大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島という辞典の説明だけでは「落書き帳」のレスとしては不十分ですね。
利島や御蔵島よりも人口が多い式根島が入っていないのは何故? 青ヶ島も入っていないし、八丈小島や鳥島にも以前は住民がいました。それなのに 七島 とは?

このような疑問に答えてくれるのが、菅田正昭さんの「島風とシマ神」です。
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021210.html をご覧下さい。「伊豆七島に入っていない」という理由で差別待遇に苦しんだ島の歴史が記されています。
菅田さんが助役を務めた青ヶ島村は、
村制施行は昭和15年4月1日と八丈小島より7年も早かったのに、昭和31年7月8日の参議院議員選挙の時まで、国・都レベルでの選挙権を奪われていた
そうです。たかが名称、されど名称の怖いところですね。

このようなこともあって、現在は「伊豆諸島」という名称が一般的になり、「伊豆七島」はあまり使われなくなっているようです。「伊豆諸島」は、例の南方四島(豆南諸島[19744])までを含みます。
リンクした菅田さんの文中に出てくる「伊豆七島観光連盟」も「東京諸島観光連盟」と改称されています。
「東京諸島」とはあまり聞いたことのない名称ですが、伊豆諸島・小笠原諸島を含めた地域のようです。
http://www.tokyo-islands.jp/index_2nd.htm
[24187] 2004年 1月 26日(月)19:12:54【2】hmt さん
「伊豆」は いずこ?
伊豆諸島関連でもう一言。
「伊豆」と言えば静岡県 と考え勝ちですが、言うまでもなく「伊豆国」は、現在静岡県になっている本土側の国地と、東京都になっている島嶼側の島地とから構成されていました。

【2】新政府になってからは韮山県を経て足柄県へ。明治9年の足柄県解体で伊豆部分は静岡県へ統合 [24127]
伊豆の本土側はそのまま静岡県になっていますが、【2】島嶼側は2年後の明治11年に東京府に移管されます。

実は明治9年に小笠原諸島の日本帰属が国際的に認められ、内務省小笠原出張所設置。これを東京府に移すことが検討されていたため(明治13年に実現)、小笠原諸島の手前にある伊豆諸島が一足先に東京府直属になったようです。
このようにして 伊豆の歴史の中で 全部が静岡県だった時代 は僅か2年で終了。

こんどは田方郡の一部から「伊豆市」が誕生するので、「伊豆とはどこ?」の答が更にややこしくなります。

【1】タイトル変更
【2】[24190] Issie さんのご指摘を受けて2個所を修正
廃藩置県後は韮山県を経て…→新政府になってからは韮山県を経て…
島嶼側(賀茂郡の一部)は→島嶼側は

“島地”は伊豆半島の南部と同じく「伊豆国賀茂郡」に属していた。
との記述 http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021101.html に基づいて書いたものですが、
伊豆諸島には律令時代以来,現在に至るまで「郡」が編成されたことがありません。
と指摘されると修正しないわけにはゆきません。
廃藩置県と書いたのは全くのミスです。
[24190] 2004年 1月 26日(月)21:51:48Issie さん
郡未編成区域
[24187] hmt さん
伊豆諸島関連でもう一言。

蛇足ながら,もう一言,二言。

文字通り「廃藩置県」で全国の「藩」が全廃されて(のちに設置された「琉球藩」を除く),それが「県」に変えられたのは明治4年7月14日のことですが,「府」「県」そのものは慶応4(明治元)年春以降,明治政府の機構が整えられていく過程で,旧幕府直轄地および旗本領を接収した“政府直轄地”に順次設置されていきました。

「韮山県」の設置は慶応4年6月29日。旧幕府の韮山代官所を引き継ぐもので,相・甲・駿・豆の各州にまたがる旧幕府直轄領・旗本領を管轄するものでした。
この地域の幕領・旗本領分布の性格から,藩領ほど管轄地が散在するわけではなく,比較的ひとつづきの領域を管轄してはいましたが,それでも例えば小田原藩などの領域との境界は複雑なものでした。
(たとえば,野州烏山藩は相模国高座郡に飛地領を持っていました。烏山藩領であった現在の神奈川県相模原市の一部は,廃藩置県後4ヵ月の間は下野の「烏山県」に属していました。
大岡越前守忠相の家は江戸時代初めより現在の茅ヶ崎市や寒川町の一部を領地としてきました。忠相の代に相次いで加増されて1万石の「大名」に到達し,三河の領地(現在の岡崎市郊外)に陣屋を置いて「西大平藩」となりました。廃藩置県後「西大平県」となりますが,茅ヶ崎や寒川の旧領地も,三河の「西大平県」の飛地となったのです。
これらに比較すれば,「韮山県」は割とまとまった領域を管轄していました。)

で,「伊豆七島」も旧幕府直轄領の1つだったので,「韮山県」の管轄となったものです。

ところで,伊豆諸島には律令時代以来,現在に至るまで「郡」が編成されたことがありません。
「伊豆国」のうち,半島部は 田方・君沢・那賀・賀茂 の4郡に分かれる(郡制施行後は田方・賀茂の2郡)のですが,沖合の島々はどの郡にも属していないのです。
北海道や(南)千島(国後・択捉)では明治2(1869)年に,1875(明治8)年の樺太・千島交換条約によって「日本領」となった中・北千島(得撫以北)も日本編入後に,そして「外地(植民地)」の(南)樺太でさえ1915(大正4)年に「郡」が編成されているのに,伊豆諸島には結局「郡」が編成されることはありませんでした。
だから,「大島町」や「三宅村」その他,伊豆諸島の島々の住所に「○○郡」と書くことはできません。

小笠原は「郡」どころか,どの「国」にも属していませんが。
[24269] 2004年 1月 29日(木)23:43:49【2】hmt さん
伊豆諸島が日本でなかった53日
[24187] では 明治11年(1879)の東京府移管まで しか記しませんでしたが、伊豆諸島の帰属を巡っては、まだとんでもない履歴がありました。
島庁、支庁の設置、都制施行は さておき、なんと 伊豆諸島が日本でなかった時期があったのです。
1946年1月29日(たまたま今日と同じ日付ですね)、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書 「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」 により伊豆諸島全域が 日本政府の統治領域から外されてしまいました。
戦後の混乱期とはいえ、3月22日に日本に復帰するまでの53日、下田よりも北にある伊豆大島が 日本でない時期があったとは!
しかも この間に伊豆大島では 独自の憲法草案まで作られたというから驚きです。
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

なお、伊豆諸島といっしょに日本でなくなった トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。現在は両村共に 鹿児島郡。
北緯29度以南の奄美諸島復帰は、トカラ下七島復帰から2年後の 1953年12月25日になりました。

なお 小笠原諸島の日本復帰は1968年6月26日。沖縄復帰は1972年5月15日。北方四島は未復帰です。
[24282] 2004年 1月 30日(金)11:30:04【1】hmt さん
七島なのに十島村とはこれいかに?
[24278] 太白 さん
十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足
私が参照したのは名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」 http://www.city.naze.kagoshima.jp/museum/museum/hukki-3.html 記載の年表でした。その1951年のところに
連合国最高司令官覚書により北緯29度以北(十島村の下七島)が日本復帰(12月5日)(大島郡十島村(じっとうそん)が二つ存在することとなる)
とありました。SCAP覚書の日付と現実に復帰した日付のズレかもしれません。

旧十島村(じっとうそん)の一部である三島村の硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した鬼界カルデラ(6300年前に大噴火)の北縁にあたります。

「トカラ」の表記は漢字が正しいのだろうと思いますが、入力の便宜上カナにしてしまいます。
十島村HPでさえも カナ表記が見られるので、地元も許してくれるでしょう。
【1】補足
[19907] 般若堂そんぴん さん 、[19914] U+3002 さん に教えていただいた表示法を試る機会だったかもしれませんが。

表記と言えば、[24269]では「奄美諸島復帰」と書いてしまいましたが、上記名瀬市のHPにあるように、当時の用語としては「奄美群島復帰」が正しいですね。訂正しておきます。
[24286] 2004年 1月 30日(金)16:13:22hmt さん
伊豆七島と言うも九島あるが如し
タイトルは[24282]に対応した自己レスです。
「日本の島事典」41頁の伊豆諸島の説明
伊豆半島の南東の太平洋上に富士火山帯に沿って点在する大小116の島々の総称
を参照すると、青ヶ島や南方四島を除外しても100島ぐらいはあると思われます。

0.01km2=1ha以上を目途に、主島別に主な付属島も列挙してみます。数字は面積km2。
大島(91.05)
利島(4.12)

新島(23.17)+ 付属島:式根島(3.69)、鵜渡根島(0.40)、地内島(0.19)、早島(0.11)、大平島(0.01)
# 式根島は元禄地震の大津波(1703)により新島との間の陸地が崩壊分離したと言われ、住民は新島に移住し、明治22年まで無人でした。しかし現在は利島や御蔵島よりも多い数百人が住んでいます。
神津島(18.48)+ 付属島:祇苗島(ただなえじま0.15)、恩馳島(おんばせじま0.04)
# 新島と神津島は、黒っぽい玄武岩や安山岩からなる他の島々と異なり、白っぽい流紋岩の熔岩。粘性の大きい流紋岩が火山ガスの泡を含んで固まったのが軽石。

三宅島(55.44)+ 付属島:大根原島(0.02) 御焼島の名の通り度重なる噴火に見舞われています。
御蔵島(20.55)+ 付属島:藺灘波島(いなんばじま0.01)
八丈島(69.48)+ 付属島:八丈小島(3.08)
これで17。伊豆諸島116と言っても小さな岩礁が多いのでしょうね。
1km2以上の付属島は式根島と八丈小島だけなので、やはり九島(青ヶ島を含めれば十島)ですか。

伊豆七島に入るか入らないか微妙な地位にある青ヶ島は、天明の大噴火で住民334人のうち生き残った202人が八丈島に脱出。八丈島での悲惨な生活から50年後に青ヶ島還住を実現したリーダーは、「青ヶ島のモーゼ」佐々木次郎太夫でした。(柳田國男:青ヶ島還住記)

熱海沖の初島(0.44)は本土の付属島として扱われ、現在は伊豆諸島には含まれませんが、初島を含めて10島の由来が述べられている古書があるように、昔は違うのかもしれません。

話が古くなったついでに、もう一つ
「和名抄」に見える(賀茂)郡内の郷は、賀茂、月間、川津、三島、大社の五郷である。(伊豆国の)延喜式内社は…46座で(中略)三島郷内の海島鎮座は24社とある。なお「続日本後記」の承和7年9月23日条には当郡上津島で噴火による造島
というような記載(角川日本地名大事典22巻331頁)を見ると、平安時代には三宅島、神津島等の島嶼部も賀茂郡の内と認識されていたように思われるのですが……「令外の郡?」>[24190] Issieさん


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