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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[24269]2004年1月29日
hmt
[24274]2004年1月30日
Issie
[24278]2004年1月30日
太白
[24282]2004年1月30日
hmt

[24269] 2004年 1月 29日(木)23:43:49【2】hmt さん
伊豆諸島が日本でなかった53日
[24187] では 明治11年(1879)の東京府移管まで しか記しませんでしたが、伊豆諸島の帰属を巡っては、まだとんでもない履歴がありました。
島庁、支庁の設置、都制施行は さておき、なんと 伊豆諸島が日本でなかった時期があったのです。
1946年1月29日(たまたま今日と同じ日付ですね)、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書 「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」 により伊豆諸島全域が 日本政府の統治領域から外されてしまいました。
戦後の混乱期とはいえ、3月22日に日本に復帰するまでの53日、下田よりも北にある伊豆大島が 日本でない時期があったとは!
しかも この間に伊豆大島では 独自の憲法草案まで作られたというから驚きです。
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

なお、伊豆諸島といっしょに日本でなくなった トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。現在は両村共に 鹿児島郡。
北緯29度以南の奄美諸島復帰は、トカラ下七島復帰から2年後の 1953年12月25日になりました。

なお 小笠原諸島の日本復帰は1968年6月26日。沖縄復帰は1972年5月15日。北方四島は未復帰です。
[24274] 2004年 1月 30日(金)01:19:01Issie さん
七島の帰った日
[24269] hmt さん
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

私のところの資料には,連合国最高司令官の布告(SCAPIN第841号)によって3月22日に先の行政権排除の対象が「修正」されて,「伊豆諸島及び嬬婦岩を含むそれ以北の南方諸島」は日本に含まれることになった,と書かれています。
(百瀬孝『事典 昭和戦後期の日本 占領と改革』,1995年,吉川弘文館)

[24271] 今川焼 さん
「四阿屋村(あずまやむら)」…(難読なのが難点か?)

少なくとも北信では難読ではないでしょう。
ただ,北信で「あずまや山」と言えば東筑摩郡の四阿屋山ではなくて,菅平の上の上信国境にある「四阿山」の方が,まずは連想されるものと思います。
「南アルプス市」よりも評判が悪いかもしれません。
[24278] 2004年 1月 30日(金)09:56:16【3】太白 さん
十島村(としまむら)
[24269] hmt さん
[24274] Issie さん
伊豆大島の帰属の話を大変興味深く読ませていただきました。
でも、反応するのは以前から興味があった「トカラ」ネタの方です…。

(hmtさん)
トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。
十島村のHPによれば、「トカラ」の由来は、「トハラ」(奄美方言で沖の海原を表す)、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」、「宝島」の「タカラ」など、諸説あるようです。それが、近世に三島村を含めた有人十島全体が「じっとうそん」と呼ばれるようになり、現在は「としまむら」となっています。
すなわち、「とから」→「じっとう」→「としま」との変遷を経ているわけですが、通称としては現在も「トカラ」の名が根強く生きていることになります。

余計なお世話ですが「十島村」という名称は、「名は体を現していない」典型ですね。村のシンボルマークも「7つの島の団結を示したもの」になっています。

以下は十島村の年表です。

文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族が十島列島にも落ち延びて定住(伝説)
嘉禄3年(1227年)十島は川辺郡に属し、平氏系統の川辺氏が支配
宝永元年(1704年)口之島、中之島、宝島に薩摩藩異国船番所、在番を設置。七島の島役は郡司、横目。
文政7年(1824年)宝島でイギリス坂の戦い(英捕鯨船が牛を欲しがったため)
→幕府の外国船打払令のきっかけ
明治4年十島村は廃藩置県の対象外とされ、在藩が引続き郡司・横目と共に行政を担当
明治8年在藩引き揚げ。口之島・中之島・宝島・硫黄島に戸長を置く。副戸長は全島。
明治18年川辺郡十島のうち、下七島は川辺郡帰属のまま金久支庁(翌年大島県庁)管轄、
上三島は大島郡金久支庁西之表出張所管轄となる
明治22年上三島を再編入。市町村制施行から除外され、中之島の戸長が十島全体を統治(?)
明治30年川辺郡より分離、大島郡十島となる。
明治41年「島峡町村制」が施行され、十島村発足。
大正9年本土並みの市町村制実施
大正15年大島県庁を廃し大島支庁を置く。
昭和21年GHQ指令により北緯30度で上三島(竹島・黒島・硫黄島)と分離され軍政下に
昭和26年現十島村で本土復帰運動が起こり、1,970人が署名
昭和27年2月4日に十島村が本土復帰、2月10日に十島村(としまむら)発足(上三島は三島村として同日発足)
昭和31年役場所在地を中之島から鹿児島市に移転し、中之島に支所設置。
昭和35年中之島・口之島に電話開通
昭和48年十島村は大島郡から鹿児島郡へ帰属変更

十島村といえば、「村内に役場が無い」ということで有名(?)なわけですが、歴史をみる限り、少なくとも明治41年以降昭和31年に至るまで、十島村の行政中心は中之島にありました。それが、昭和31年に鹿児島に移転しており、島外の役場設置は「必然」とはいえません。むしろ、電話も電気もなかった昭和20年代以前に、しっかり中之島に行政中心があったわけです。
ただし、村のHPを見ると、
県本土とのかかわりは、益々緊密の度合を増していったことから、昭和31年4月1日から役場庁舎を鹿児島市へ移転した。
とあり、竹富町のように、島相互の交通の便が悪いことによるものではないですね。島の開発を陳情しやすいように県庁近くに役場を置いたことを示唆しています。

また、重箱レスですが、十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足(上三島は三島村として同日発足)とありますので、同名期間はない(ないし6日間)ではないでしょうか? >hmtさん

【訂正機能にて追加】
明治19年から大正15年までは「大島県」というのが存在したようですが、その後「大島支庁」になっていることから、どうやら他の「府県」とは位置づけが異なるようですね。
[24282] 2004年 1月 30日(金)11:30:04【1】hmt さん
七島なのに十島村とはこれいかに?
[24278] 太白 さん
十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足
私が参照したのは名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」 http://www.city.naze.kagoshima.jp/museum/museum/hukki-3.html 記載の年表でした。その1951年のところに
連合国最高司令官覚書により北緯29度以北(十島村の下七島)が日本復帰(12月5日)(大島郡十島村(じっとうそん)が二つ存在することとなる)
とありました。SCAP覚書の日付と現実に復帰した日付のズレかもしれません。

旧十島村(じっとうそん)の一部である三島村の硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した鬼界カルデラ(6300年前に大噴火)の北縁にあたります。

「トカラ」の表記は漢字が正しいのだろうと思いますが、入力の便宜上カナにしてしまいます。
十島村HPでさえも カナ表記が見られるので、地元も許してくれるでしょう。
【1】補足
[19907] 般若堂そんぴん さん 、[19914] U+3002 さん に教えていただいた表示法を試る機会だったかもしれませんが。

表記と言えば、[24269]では「奄美諸島復帰」と書いてしまいましたが、上記名瀬市のHPにあるように、当時の用語としては「奄美群島復帰」が正しいですね。訂正しておきます。


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