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[24269] 2004年 1月 29日(木)23:43:49【2】hmt さん
伊豆諸島が日本でなかった53日
[24187] では 明治11年(1879)の東京府移管まで しか記しませんでしたが、伊豆諸島の帰属を巡っては、まだとんでもない履歴がありました。
島庁、支庁の設置、都制施行は さておき、なんと 伊豆諸島が日本でなかった時期があったのです。
1946年1月29日(たまたま今日と同じ日付ですね)、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書 「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」 により伊豆諸島全域が 日本政府の統治領域から外されてしまいました。
戦後の混乱期とはいえ、3月22日に日本に復帰するまでの53日、下田よりも北にある伊豆大島が 日本でない時期があったとは!
しかも この間に伊豆大島では 独自の憲法草案まで作られたというから驚きです。
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

なお、伊豆諸島といっしょに日本でなくなった トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。現在は両村共に 鹿児島郡。
北緯29度以南の奄美諸島復帰は、トカラ下七島復帰から2年後の 1953年12月25日になりました。

なお 小笠原諸島の日本復帰は1968年6月26日。沖縄復帰は1972年5月15日。北方四島は未復帰です。
[24278] 2004年 1月 30日(金)09:56:16【3】太白 さん
十島村(としまむら)
[24269] hmt さん
[24274] Issie さん
伊豆大島の帰属の話を大変興味深く読ませていただきました。
でも、反応するのは以前から興味があった「トカラ」ネタの方です…。

(hmtさん)
トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。
十島村のHPによれば、「トカラ」の由来は、「トハラ」(奄美方言で沖の海原を表す)、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」、「宝島」の「タカラ」など、諸説あるようです。それが、近世に三島村を含めた有人十島全体が「じっとうそん」と呼ばれるようになり、現在は「としまむら」となっています。
すなわち、「とから」→「じっとう」→「としま」との変遷を経ているわけですが、通称としては現在も「トカラ」の名が根強く生きていることになります。

余計なお世話ですが「十島村」という名称は、「名は体を現していない」典型ですね。村のシンボルマークも「7つの島の団結を示したもの」になっています。

以下は十島村の年表です。

文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族が十島列島にも落ち延びて定住(伝説)
嘉禄3年(1227年)十島は川辺郡に属し、平氏系統の川辺氏が支配
宝永元年(1704年)口之島、中之島、宝島に薩摩藩異国船番所、在番を設置。七島の島役は郡司、横目。
文政7年(1824年)宝島でイギリス坂の戦い(英捕鯨船が牛を欲しがったため)
→幕府の外国船打払令のきっかけ
明治4年十島村は廃藩置県の対象外とされ、在藩が引続き郡司・横目と共に行政を担当
明治8年在藩引き揚げ。口之島・中之島・宝島・硫黄島に戸長を置く。副戸長は全島。
明治18年川辺郡十島のうち、下七島は川辺郡帰属のまま金久支庁(翌年大島県庁)管轄、
上三島は大島郡金久支庁西之表出張所管轄となる
明治22年上三島を再編入。市町村制施行から除外され、中之島の戸長が十島全体を統治(?)
明治30年川辺郡より分離、大島郡十島となる。
明治41年「島峡町村制」が施行され、十島村発足。
大正9年本土並みの市町村制実施
大正15年大島県庁を廃し大島支庁を置く。
昭和21年GHQ指令により北緯30度で上三島(竹島・黒島・硫黄島)と分離され軍政下に
昭和26年現十島村で本土復帰運動が起こり、1,970人が署名
昭和27年2月4日に十島村が本土復帰、2月10日に十島村(としまむら)発足(上三島は三島村として同日発足)
昭和31年役場所在地を中之島から鹿児島市に移転し、中之島に支所設置。
昭和35年中之島・口之島に電話開通
昭和48年十島村は大島郡から鹿児島郡へ帰属変更

十島村といえば、「村内に役場が無い」ということで有名(?)なわけですが、歴史をみる限り、少なくとも明治41年以降昭和31年に至るまで、十島村の行政中心は中之島にありました。それが、昭和31年に鹿児島に移転しており、島外の役場設置は「必然」とはいえません。むしろ、電話も電気もなかった昭和20年代以前に、しっかり中之島に行政中心があったわけです。
ただし、村のHPを見ると、
県本土とのかかわりは、益々緊密の度合を増していったことから、昭和31年4月1日から役場庁舎を鹿児島市へ移転した。
とあり、竹富町のように、島相互の交通の便が悪いことによるものではないですね。島の開発を陳情しやすいように県庁近くに役場を置いたことを示唆しています。

また、重箱レスですが、十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足(上三島は三島村として同日発足)とありますので、同名期間はない(ないし6日間)ではないでしょうか? >hmtさん

【訂正機能にて追加】
明治19年から大正15年までは「大島県」というのが存在したようですが、その後「大島支庁」になっていることから、どうやら他の「府県」とは位置づけが異なるようですね。
[26554] 2004年 3月 25日(木)21:45:27【1】hmt さん
四島・七島・十島・三島の次は「五島」
領有権問題? がらみで いずれの町村にも所属していない南方四島[22460]
式根島や青ヶ島を数えていない伊豆七島[24183]
十島村(じっとうそん)が戦後に分断されて生まれた三島村(みしまむら)と十島村(としまむら)[24269]
…というわけで、今度は五島列島です。

中通島・若松島・奈留島・久賀島(ひさかじま)・福江島の五つの主島を中心として、これに周辺の島多数を含めて約140の島々。…というのが一応の説明でしょうが、“周辺”の範囲が問題です。

自然地名としての「五島列島」は、[17147] 地球人さん にあるように「北は宇久島から南は福江島まで連なる列島」で、宇久島・小値賀島(おぢかじま)を含んでいます。

ところが、離島振興法による「五島列島」は中通島から福江島までを中心とする島々で、中通島に隣接する野崎島以北の 北松浦郡小値賀町・宇久町に属する島々は含まれていません。
では、これら北部の島々は…というと、はるか60kmも東に離れた鷹島までを含む「平戸諸島」ということになっています。
そのせいで、離島振興法に準拠するシマダスでは、「五島列島」の中通島~福江島は「西海の島々」の章、「平戸諸島」の宇久島・小値賀島は「九州北部の島々」の章と 全く異なる場所に収録されています。

つまり、行政上の「五島列島」は長崎県五島支庁管内に限られ、自然地名としての「五島列島」と異なることになります。

[26381]で言及した“行政地名”「対馬島」は、事実上 自然地名の「対馬」と同じ意味であり、余計な字が付いているだけで実害は少なかったのですが、“行政地名”「五島列島」の方は、同じ言葉で自然地名と範囲が異なるので、混乱をもたらす可能性は こちらの方が大きそうな気がします。

もっとも、宇久・小値賀が行政的に狭義の「五島列島」から切り離されたのは、1878年に広大な松浦郡が東西南北に分割された時に遡り、小値賀島は江戸時代にも平戸藩領だったという歴史があるので、現地では二つの意味の「五島列島」を使い分けることに慣れているのかもしれません。

しかし、五島氏(宇久氏から改名)が福江島に本拠を移す前の発祥の地であり、江戸時代にも五島氏の支配が及んでいた宇久島が 「五島列島」でないというのは、やはり不自然な感じを受けます。
明治時代、中通島の手前の狭い海峡に引かれた南北松浦郡の境界線は如何なる背景を持っていたのでしょうか?

この点については、地球人さん[17147]も「いまだに謎です」と発言 。
私にもよくわかりませんでしたが、「長崎県の地名」(平凡社2001)には次のような記載がありました。
史料の制約を前提とするものの、五島を冠した地名が見えるのは、中通島・若松島・奈留島・福江島に限られていることから、少なくともある時期以降は 宇久島・小値賀島を除いた五島列島が「五島」であり、5つの島であったらしい。
文意からして「ある時期」とは中世のある時期、例えば14~15世紀頃かと思われます。
南北松浦郡の境界線には、明治よりもずっと前から、島の配置だけではわからない何かの存在理由があったのかもしれません。

ところで、行政の作り出した地名が従来からの地名と異なる範囲を示す混乱は、自治体名(の略称)がらみでは、顕著に現れていますね。
例えば:さいたま(市)と埼玉(県)と(南北)埼玉(郡だった地域)と埼玉(さきたま)と。
これに比べれば「2つの五島列島」など、騒ぎ立てるほどのことではないのかも…

【1】補足:中通島という名は、ここが五島列島の ど真ん中 であり、北端ではないことを表しているように思われます。
[40005] 2005年 4月 18日(月)19:34:45【1】hmt さん
沖縄・奄美・トカラ・上三島
[39936]ふぁいんさん 昭和25(1950)年沖縄県人口の謎
216,080人はどこに行ってしまったのかなぁ

大筋としては、[39953] 229 さん の「奄美諸島」関係説で正しいと考えますが、細かく言うと、トカラ列島を含む「当時の奄美群島」が関与しているようです。

総務省統計局の時系列データでは、昭和25年の沖縄県人口として914,937人が掲載されています。
しかし、昭和25年当時「沖縄県」が存在している筈がないので、これは本質的に誤りですね。昭和30年~昭和45年についても同様。「沖縄返還」は昭和47年(1972/5/15)です。

となると、琉球独自の“国勢調査”[39962]紅葉橋瑤知朗さん による人口が正しいと思われます。
そこで [39965]Issieさん に教えていただいた、琉球政府公報を探したのですが、何故か該当文書はpdfで白紙が現れて確認できず。

それはともかく、[39936]ふぁいんさん にある“沖縄県発表の698,827人”に、[39962]紅葉橋瑤知朗さん の“奄美諸島人口(216,110人)”を加えると、統計局の数字 914,937人ピッタリになります。

というわけで、前記の統計表では明示されていなかった 914,937人の根拠を推察することができたと思います。
しかし、「存在しなかった沖縄県」を「現在の沖縄県に相当する地域」と解釈しても、鹿児島県に属する奄美の人口を含んだ数字なので、二重の誤りと言えます。
総務省統計局がこの有様では、後は「白桃都市人口研究所」に期待するしかないか。

ところで、この“奄美諸島人口(216,110人)”の意味する地理的範囲が曲者です。

実は、北緯29度以南の「奄美群島」本体が復帰する前の1951/12/5(実質的には1952/2/4か)に日本に戻ってきた、北緯29度から30度の間にあるトカラ列島(下七島)[24278]太白さん[24282]hmtの存在を考慮する必要があります。
昭和25年国勢調査は、「トカラ復帰」よりも前のことでした。だから、前記“奄美諸島人口 216,110人”には、トカラ列島の人口が含まれていると考えられます。
【補足】トカラ列島を含むという推測は外れていました。[40026]参照

総務庁「日本長期統計総覧」による男女別人口の昭和27年の注を見ると、
昭和26年12月に復帰した鹿児島県大島郡十島村(トカラ)の人口2,968人(男1,449 女1,519)を含む。
とあり、更に昭和29年の注には、
昭和28年12月に復帰した鹿児島県奄美群島の人口201,132人(男93,269 女107,863)含む。
とあります。こちらの「奄美群島の人口」は、トカラを含んでいない数字ですね。
この統計表の注記を見ると、人口統計もいろいろなことを考慮しないといけないことがわかります。

[39953] 229 さん
1950年の国勢調査の鹿児島県のところを見ると大島郡には十島村しかありません。

当時の大島郡「十島村」(じっとうそん)は、現在の鹿児島郡十島村(としまむら)=下七島ではなく、鹿児島郡三島村(みしまむら)=上三島ですね。
【補足】
現在のデータの十島村人口は、上三島の人口に復帰前の下七島の人口が加算されている可能性があります。[40026]参照

上三島の硫黄島と竹島は、縄文時代に起こった鬼界カルデラ大噴火[24108]の跡です。
上三島は、戦前はトカラ列島(下七島)と共に「十島村」を作っていましたが、種子島北部と同緯度のため、1946年に日本の統治から外された特定外周領域[24269]にはならず、3島だけで「十島村」として日本に残りました。
約6年後「トカラ復帰」は実現したが、北緯30度線で分断されていた村は「南北統一」せず、三島村と十島村になりました。
両村共に鹿児島市に村役場があることは、[357]以来 度々話題になっています。1973年には両村共に大島郡から鹿児島郡に変更。やはり、奄美ではないようです。

ところで 「奄美諸島」か「奄美群島」か。
現在の地図では「奄美諸島」という表記が多いように思いますが、「奄美群島復帰」(1953/12/25)当時以前には、「奄美群島」の方が普通のようです。
例により、帝国書院の「復刻版地図帳」[25914]により記載状況を調べてみます。1934年版は「奄美群島」、1973年版では「奄美諸島」。そして、問題の1950年版はというと、アジアの図に初登場の南西諸島[38249]が小さく出ていますが、奄美はありません。
この時代の中学・高校生( hmt自身)は「日本でなかった奄美群島」について学習していなかったのでした。
[40026] 2005年 4月 18日(月)23:51:53hmt さん
そうだとすると、トカラの人口は?
[40012]ふぁいん さん
「奄美群島(市数1、町数5、村数14)は沖縄県に含め、鹿児島県から除いた。」と記載されているではありませんか。

“20市町村、人口 216,110人”には、十島村(トカラ列島)は含まれていなかったのですか。
[40005]hmtでは、「トカラ復帰」よりも前の昭和25年国勢調査だから、「トカラは奄美と同様の扱いになっていた」と推測したのですが、外れていたことになります。

そうだとすると、新たな疑問が…。
つまり、昭和25年国勢調査には、まだ鹿児島県に復帰しておらず、沖縄県に含めた20市町村にも含まれていなかったトカラ列島(下七島)の人口はどこに行ったのか?

ここから先はまた推測ですが、復帰前の下七島の人口は、昭和25年国勢調査当時は上三島だけだった鹿児島県十島村の人口に加算されて、「現在のデータが作り上げられている」のではないでしょうか。
私はデータを持っていませんが、昭和25年国勢調査の十島村(じっとうそん)人口が、トカラ復帰後の昭和30年国勢調査における十島村(としまむら)人口と三島村(みしまむら)人口との合計に近いものになっておれば、この推測が当たっていると考えます。

[40005]の関係する個所には、本記事を参照する補足を加えておきます。
[56242] 2007年 1月 15日(月)22:32:21hmt さん
十島村(じっとうそん) と 十島村(としまむら)
日本は、第二次大戦に敗れた 1945年の秋に「進駐軍」に占領されました。
年が明けた1946年になると、マッカーサー司令部から発せられた覚書 SCAPIN-677 によって、日本の施政権が及ぶ範囲は、 “四主要島嶼(北海道、本州、九州、四国)と、対馬、大隅諸島を含む約1千の隣接小島嶼” に限定されることになりました [56190]

実は、この文中で“大隅諸島”と書いた部分は、原文では“北緯30度以北の琉球(南西)諸島”なのですが、種子島・屋久島などのことを“琉球諸島the Ryukyu (Nansei) Islands”扱いにしている原文は誤解しやすく、かつ冗長なので、あえて原文に使われていない“大隅諸島”を用いました。

日本の施政権から外された地域には、沖縄、小笠原、竹島、千島などの他に、東京都の伊豆諸島と、奄美諸島、それにトカラ列島(鹿児島県十島村)の北緯30度以南が含まれていました。

屋久島と奄美大島との間に位置するこのトカラ列島。1889年に「町村制ヲ施行セサル島嶼」として指定された当時は「鹿児島県管下薩摩国川邊郡」であり、「川邊十島」という呼び名もあるのですが、1897年に奄美と同じ「大島郡」に編入されました。同時に「大隅国」に変更されたようです。
戦後の1973年には鹿児島郡に所属変更。この時は国界変更はない筈ですから、大隅国のまま鹿児島郡。

郡の境界付近で、新羅(新座)郡→入間郡→(新座郡統合後の)北足立郡→入間郡 と出入りを繰り返した針ヶ谷[41711]を紹介したことがありますが、同じ土地が 川辺郡→大島郡→鹿児島郡と、全く異なる3郡(2国)を渡り歩いたのは、珍しい事例だと思います。

郡の話はさておき、トカラの島々は、1908年の島嶼町村制による十島村(じっとうそん)を経て1920年に「本土並み」の村になっていたわけですが、前記のように、思いがけず村内の「北緯30度」に境界が引かれることになりました(1946年)。

このために、境界線よりも北の「上三島」(硫黄島、黒島、竹島)は日本に残り、北緯30度以南の「下七島」(口之島、臥蛇島、平島、中之島、悪石島、諏訪ノ瀬島、宝島)は奄美などと共に日本から切り離されました。
村外で起こった政治力学の影響により、十島村は完全に分断されたわけです。

5年余を経た 1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印されましたが、この条約 第3条の信託統治条項により、北緯29度以南はそのまま日本から分離されることになりました。
しかし、北緯29度と北緯30度の間のトカラ列島「下七島」だけは、日本に復帰することができたのです。

「下七島」の日本復帰にあたり、1946年以来、実質的には「上三島」だけになっていた「十島村(じっとうそん)」では、旧十島村を復活させるか、分村するかの議論になり、住民投票の結果、圧倒的多数で分村することになりました。出典

こうして従来の「十島村」と、「下七島」復帰により新たに生まれる「十島村」。
この「2つの十島村」は、どのような経過で現在の「三島村(みしまむら)」と「十島村(としまむら)」になったのか?

実は、この件に関しては、1946年に一時的に日本から切り離された伊豆諸島の復帰を 3年前に話題にした際 に触れたことがあります。
[24269] では、「奄美群島日本復帰50周年」の年表 に基づいて、連合国最高司令官(SCAP)覚書による1951年12月5日の日本復帰で、「2つの十島村(じっとうそん)」ができ、翌年2月10日に現在の「三島村」と「十島村(としまむら)」になり同名が解消されたと書いたのですが、[24278]太白さんから、“十島村HP の年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日”とのご指摘がありました。

今回、市区町村変遷情報の「十島村」 を調べてみると、1952/2/4はポツダム政令(昭和27年政令第13号)の官報告示日であり、“変更日 1952年2月10日”となっています。
# 十島村に関する暫定措置に関する政令(昭和26年政令第380号)も存在します。
見ていないのですが、便宜上「南十島村」と呼ばれていたとか。(1951/12/5から正式復帰する1952/2/10までの間?)

確認のために、変遷情報の「三島村」 を見たら、なんと! “従来の大島村の境界”を北緯30度以北とする変更と、「三島村」への名称変更を内容とする総理府告示第132号の日付が“1952/5/14”と、3ヶ月も後になっているではありませんか。

もっとも、“変更日 1952年2月10日”となっているので、告示が遅れただけで、2月10日に正式復帰した「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」は「三島村」に改称し、「2つの十島村」は同時には存在しなかったものと思われます。

# 官報告示には読み仮名が付いていないようですが、この時に「じっとうそん」から「としまむら」に変わったと考えるのが自然でしょう。

# 1952/5/14の告示では、“従来の大島村”と記されていますが、もちろん“従来の十島村”の誤記と思われます。
[56304] 2007年 1月 19日(金)14:33:48hmt さん
米国統治時代の「琉球」(1)パスポートの必要な地域
1946年に日本から分離された「外周領域」とその日本復帰に関しては、ずっと以前の伊豆諸島(1946年復帰)に始まり、トカラ(1952年復帰)、小笠原(1968年復帰)と記してきました。関係記事
いよいよ、桁違いに多くの人が住んでいた「琉球」(1953年奄美復帰、1972年沖縄復帰)に足を踏み入れます。

その前に一言。
1952年2月10日の復帰により、トカラの「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」が「三島村」に改称したので、「2つの十島村」は同時には存在しなかったと書きましたが[56242]、この記載には重要な前提があります。

つまり、「日本の法令の下において」という条件です。

村内に国境(!)が引かれてしまい、1946年2月2日に分断されてから約6年間、「鹿児島県十島村」の南には、“もう一つの十島村”が存在しました。こちらは、米国による「琉球」軍政の下ですから、「琉球の十島村」なのでしょう。
当然ながら、鹿児島県も「琉球」も両方とも「じっとうそん」。

何が言いたかったのかというと、
米国が施政権を持っていた時代の「琉球」は、現在の沖縄県に属する地域だけではなく、鹿児島県の一部である奄美とトカラを含んでいた時代があるということ、
そして、この地域の「市町村変遷」を探ることは、「日本の法令下」という枠から出ることになるということ、
この2件を改めて認識しておきたかったのです。

では「出国」しましょう。パスポートをお忘れなく。

「琉球」の統治組織は、時代により修正があっただけでなく、地域的な相違もあり、複雑ですが、沖縄県公文書館の中に、わかりやすい一覧図があったので、最初にこれをリンクしておきます。 http://www.archives.pref.okinawa.jp/press/ryukyu/05.htm

この一覧図によると、Occupied Japanに君臨したマッカーサー司令部(GHQ)に相当するものとして、米国軍政府、米国民政府から最終的には高等弁務官制になった米国の統治機構がありました。
米国(本土では連合国軍)の統制下に置かれた現地政府機構は、本土では「日本政府」だけだったのですが、「琉球」では「全琉球政府機構」と「群島別政府機構」[746]とがある連邦制のような形だったのですね。1952年、対日講和条約発効の直前に単一の「琉球政府」になりました。
…で、「琉球の十島村」はというと、「奄美群島」に属していました。

ここで「市区町村変遷情報」を開いてみると、沖縄復帰前の「琉球」で行なわれた市町村変遷も記録されています。
具体的には、沖縄県 の中に、1945.09.26の石川市から1971.12.01の糸満市まで33件、鹿児島県には名瀬市(1946/7/1、町制と誤記)と知名町(1946/9/1)が入力されています。

ここで疑問が出てきます。
「沖縄県」は、1945年6月の米軍占領から1972年5月の復帰までの間、存在したのか?
占領下、日本の法令によらずに実施された市町村の変更は、現在いかなる効力をもつのか?

占領当初の米国は、日本に征服された琉球は、信託統治後に独立させるという目論みを抱いていたようですが、日本側が、敗戦を機に沖縄県を廃止して、自ら手放したわけはありません。国際的な力関係によって、日本の施政権が及ばない状態になっただけです。
実際問題として、敗戦直後の日本には、沖縄の地位について主張する力がなかったと思いますが、「建前上」だけにせよ、沖縄県は残っていたということになります。

沖縄についての「日本の潜在主権」を米国側に認めさせることに成功したのは吉田茂です。
それは 1951年、講和条約の準備段階におけるダレス特使との会談によるものでした。参考

法令を調べてみると、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律 に、先の疑問に対する答えがありました。
第三条 従前の沖縄県は、当然に、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)に定める県として存続するものとする。
第七条 沖縄の市町村は、地方自治法の規定による市町村となるものとする。

奄美についても、同様に 奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律
第八条 奄美群島内の従前の市町村は、地方自治法(昭和22年法律第67号)の規定による市町村となるものとし、…

「沖縄県」については「当然に…存続」という表現で連続性があるが、「市町村」については「地方自治法の規定による市町村となる」という表現で、復帰の日を境に市町村の性格が変わったことを示しているように思われます。
[65138] 2008年 5月 16日(金)12:22:22hmt さん
村の中に「国境線」が引かれてしまった十島村
[65126] むっくん さん
鹿児島県大島郡十島村の事例を思い出しました。

本論に入る前に、88さんに連絡。
明治41年内務省令第1号により、沖縄県及島嶼町村制が 鹿児島県大島郡に施行された結果 誕生した 大和村、名瀬村… 十島村(じっとうそん) の16ヶ村は、長崎県対馬国の13ヶ村と同様に「市制町村制施行時の情報」として記載されるべきものではないでしょうか。ご検討願います。

それはさておき
大正9年(1920)に「本土なみ」の「町村制による村」になった十島村(トカラ列島)ですが、敗戦後の1946年になると マッカーサー司令部覚書 によって、思いがけず村の中を通る北緯30度に「国境線」が引かれてしまいました。
当然のことながら、村は 奄美と共に日本の施政権から外された「下七島」と、鹿児島県に残された「上三島」とに分断されました。

1951年9月調印のサンフランシスコ平和条約では、北緯29度以南の南西諸島(奄美・沖縄)のアメリカによる信託統治を受け入れざるを得ないことになりましたが、29度と30度の間にあったトカラ下七島の日本復帰が決まりました。
平和条約に基づくトカラ復帰の具体的な手続きは、[65126]で(4)として記されたSCAP覚書と暫定措置に関する政令で行なわれ、とりあえず昭和26年(1951)12月5日に、変則的な「自治体でない十島村」が誕生しました(鹿児島県市町村変遷史109頁)。
下七島の十島村については、鹿児島県知事が国の機関として一時的にその行政を行うことになった。

2ヶ月後には 鹿児島県大島郡十島村に関する地方自治法の適用及びこれに伴う経過措置に関する政令(昭和27年政令第13号) が制定され、1952年2月10日から施行されたので、変則的な制度はごく短期間で終りましたが、この約2ヶ月は、「自治体でない十島村」(下七島)と「自治体である十島村」(上三島)と、異なる制度の下の2つの「じっとうそん」が共存していたのですね。

参考までに、小笠原諸島復帰に伴う暫定措置により、「自治体でない小笠原村」が設置されたのは 1968年6月26日 で、こちらは議員と村長の選挙により「自治体たる小笠原村」が実質的に発足した 1979年4月22日まで10年以上も変則的な状態が続きました[53248]

ポツダム政令(注)の結果、上三島の十島村は自動的に分村した結果になったので、

ポツダム政令というのは、“「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官(SCAP)ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ”法律事項であっても緊急勅令などの命令で定めることを可能にした占領下の特別な制度の一種でした。
リンクした条文
この政令施行の際現にその区域に適用されている法令の規定によりその区域に置かれている村は、その区域をもつて、地方自治法の規定による鹿児島県大島郡十島村となるものとする。
から明らかなように、…暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)により置かれた「自治体でない十島村」が、その区域(下七島)のまま、自治体の「十島村」になるという内容であり、上三島が“自動的に分村”するということではありません。

[56242]でリンクした 《特定外周領域》の淵源とその系譜 には、
下七島の復帰によって、上三島では旧「十島村」を復活させるか、新たに分村するか、で議論となって住民投票した結果、675票中651票の賛成で「三島村」として独立することになり、
と記されていることからも、「自動的に分村」ではなく、上三島の住民は、ポツダム政令によって新しく設置される「十島村」と復縁する(合併する)か否かを投票によって決めたものと思われます。
「新たに分村」という言葉を使っていますが、既に1946年に強制的に分離させられた村が「元の鞘に戻らない」という意味ですから、「分村」の適切な用法ではありません。

分村及び村の名称変更の条例を制定
と鹿児島県市町村変遷史に書かれているそうですが、条例で制定したのは、新しい自治体として生まれる下七島の「十島村」と同じ字になることを避けるために「三島村」にする名称変更(2月10日実施)だけでしょう。
「分村」を村条例で定めるのは手続きとしておかしいし、以前から存在している自治体なのだからその必要もないと思われます。

下七島の「十島村」も、新発足にあたり、「としまむら」と呼ぶように変えました 十島村HP
旧・十島村(じっとうそん)と区別するためでしょう。

最後に、トカラ列島に関するトピックスを記した過去記事を一つ紹介[56250]
皆既日食も1年少し後に迫りましたね。


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