都道府県市区町村
落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[25193]2004年2月22日
TN
[27871]2004年5月3日
白桃
[35649]2004年12月10日
じゃごたろ
[35650]2004年12月10日
N-H
[35654]2004年12月10日
hmt
[35656]2004年12月10日
まがみ
[35664]2004年12月10日
EMM
[35668]2004年12月11日
KMKZ
[35674]2004年12月11日
Issie
[35704]2004年12月12日
BEAN
[35725]2004年12月13日
hmt
[35798]2004年12月16日
hmt
[37397]2005年2月2日
mul-sa
[37411]2005年2月3日
KMKZ
[55694]2006年12月27日
hmt

[25193] 2004年 2月 22日(日)22:04:45TN さん
人口数え歌
[25185]白桃さん
[25187]なおさん
♪天下の大学 人(口)でもつ そいつぁ剛毅だね そいつぁ剛毅だねぇ
※大学とは白桃地理大学の事[6100]

唐突ですが、町の最多人口は荏原町の132,108人(第3回国勢調査)だったのでしょうか?

[25162]でるでる部長殿
こちらこそ、いつも合併情報を活用させていただいており、本当に感謝しております。
最近お役に立てなくて申し訳ないです。
茂原商工会議所と茂原市本納商工会が合併する方向で合意
情報どうもありがとうございました。

開設されましたのでお知らせしておきます。
白石市・蔵王町任意合併協議会
http://s-z-gappei.jp/
信州新町・小川村・中条村合併協議会
http://www.gappei3.jp/

[25145]スナフキんさん
地元説明会の参加お疲れ様でした。記述の理解を助けようと公団のHPにあるパースを見てみました。
http://www.udc.go.jp/saitama/work/area/kamifukuoka.html

再開発事業を大雑把に言えば、地権者の床である権利床とそれ以外の保留床から成り立っており保留床の処分で事業費を賄うことはご存知かもしれませんが、いかに資金を賄うのか(利益も含めて)を考えた時に保留床を増やすこと(高層化)は仕方ないことなのかもしれません。しかしこういった再開発の仕組みそのものから脱却する必要性を感じますし、「駅前だからシンボリックなものを」という言い分も、本当にそうなのか考えさせられます。
それにしてもかわりますね、驚き。
東上線の駅の最近の話題として川越駅ビル「ルミネ」開業(2/19)、若葉駅西口開設(3/14)などがありますね。
もう見に行かれましたか?

[25188]まるちゃんさん
[25189]両毛人さん
全国で唯一の
そういう言葉にはめっぽう弱いです。
[27871] 2004年 5月 3日(月)19:07:15白桃 さん
平塚か平野か
[27861]地理好きのケン さん
過去の日本一人口の多い村
国勢調査の時点で最多人口を記録した村はどこなんでしょうか。平塚村(東京:後に町制→荏原町→東京市)が1925年(第2回国勢調査)で72,256人を記録しておりますが、ひょっとしたら、平野村(長野:→岡谷市)かもしれません。1925年人口は49,014人ですが、1930~1935年に蚕都として人口が急増したと聞いております。8万位いたのでは?岡谷市として市制後の1940年国勢調査では、40,033人に減少しているのですが。(この件は前からの宿題だったにもかかわらず、まだ調べておりません。)
Issie 先生、お助けください。
[35649] 2004年 12月 10日(金)16:46:46じゃごたろ さん
エバラ
こんにちは、じゃごたろです。

羽田空港の話題が出たついでというわけでもありませんが。

私は現在の職業柄、「荏原製作所」という企業があることは知っていました。しかし直接の担当ではないこともあり、どこの企業なのか、とか気にはしていませんでした。ところが、ある日出張で羽田空港に向かう際に、モノレールの中からふと外を見ると、荏原製作所の大きな工場が見えてきたのです。ただその時思ったことといえば、「こんな東京のいい所に工場があるんだ」といった程度のものでした。

その後、こちらの落書き帳にお世話になり、皆さんの書き込みを読んでいると、かつて東京には「荏原郡」があったというではありませんか。そこでようやく「荏原郡」と「荏原製作所」が結びつき、地名を冠した企業名であることを知ることになりました。

「エバラ焼肉のたれ」の「エバラ」は・・・、関係ないでしょうね。
[35650] 2004年 12月 10日(金)17:55:56N-H さん
「東京のいい所の工場」
[35649]じゃごたろさん
ようやく「荏原郡」と「荏原製作所」が結びつき、地名を冠した企業名であることを知ることになりました。
荏原製作所の沿革を見ると、確かに社名は地名の荏原郡に由来しています。
しかし設立当時に工場のあった場所は現在の羽田ではなく、東京府荏原郡品川町南品川だったとのこと。羽田移転時の現在の場所の住所は東京市蒲田区羽田でした。

「エバラ焼肉のたれ」の「エバラ」は・・・、関係ないでしょうね。
こっちの本社は横浜にあります。雑居ビルなんですよね。同じビルに私の子供が通ってた幼児教室みたいなのが同居してたのでよく知ってるんです。
社名は創業者の名前じゃないかと想像してますが、根拠はありません。

こんな東京のいい所に工場がある
確かに荏原製作所の羽田の工場は都内にあるわりには立派で大きいですね。
以前は東京都区内でもかなり大きな工場が多く立地していましたが、その多くは郊外へ移転したりしました。
私がよく覚えているのは日立製作所の亀戸工場で、総武線の車中からいかにも工場といった建物が良く見えたものです。跡地が現在の亀戸中央公園です。
さて、そんな中、都心に近いところでがんばっている比較的大きな工場にはどんなものがあるでしょう。
よく言われるのは印刷工場で、千代田区飯田橋付近に集中しています。ただし、とても「大きな工場」とはいえないような中小工場ばかり。国鉄の貨物駅がここにあって、そこから原料の紙を運んでいたように記憶していますが、その貨物駅も今はありません。
私が車窓からみていつも「こんなところに」と思うのが、新宿区にあるロッテの新宿工場。
新大久保の駅に程近く、本当にここでガムなんかを製造してるのでしょうかね。

都心からかなり離れたところになると、目だったところでは葛飾区の金町の西に三菱ガス化学と三菱製紙の大きな工場がありました。
ただし、三菱製紙のほうは工場は閉鎖になったようで、ついこのあいだまで活躍していたJR貨物の引込み線も廃線になったようです。

一方引込み線が健在なのは北区の王子5丁目にある十条コンテック。ただここは工場というより単なる倉庫みたいな感じです。
[35654] 2004年 12月 10日(金)20:07:14hmt さん
昔は広かった「荏原」
[35649]じゃごたろ さん
羽田空港に向かう際に、モノレールの中からふと外を見ると、荏原製作所の大きな工場
かつて東京には「荏原郡」があった

荏原製作所といえば渦巻ポンプ。井口博士の発明品を製造した「ゐのくち式機械事務所」を1920年に承継して、東京府荏原郡品川町に設立された会社です。1938年に現在の羽田に移転した時には、東京市蒲田区になっていましたが、ここも元は荏原郡羽田町。(この部分[35650]と一部重複)

「荏原」の地名は、現在では品川区の中原街道沿いの町名として残るだけですが、35区時代には「荏原区」がありました。品川区と合併した際に、当用漢字でなかったことが災いして採用されなかったのでしょうが、「荏原郡」は、現在の東京南部に広がる伝統ある地名でした。

旧品川区の品川町・大崎町・大井町、旧荏原区の荏原町、目黒区の目黒町・碑衾町、旧大森区の馬込町・東調布町・池上町・入新井町・大森町、旧蒲田区の矢口町・蒲田町・六郷町・羽田町、世田谷区の世田ヶ谷町・松沢村・玉川村・駒沢町という「荏原郡」の領域を振り返ると、縮小してしまった「荏原」に同情します。
芝区(→港区)になる前の白金村も荏原郡だし、歴史をもっと遡ると「荏原郡桜田郷」などとありますから、現在の千代田区の一部までが「荏原郡」だったのでしょう。

「荏原」の由来と考えられるのは荏胡麻(えごま)。
胡麻とは違うシソ科の植物ですが、古来から油料作物として広く栽培されていました。
斎藤道三が油商人から身を起こして美濃一国の国主になったことは「国盗り物語」で有名ですが、彼が売り歩いた油は荏胡麻の油です。

江戸時代になってから、新たな油料作物の「あぶらな」が普及し、菜種油が荏の油に代って使われるようになりました。
風景としての「荏原」の消滅は、地名の縮小よりも前に進行したわけです。

田園都市線の「江田駅」(横浜市青葉区荏田町)に至っては、字まで変えられてしまいました。
[35656] 2004年 12月 10日(金)21:54:17まがみ さん
Re:エバラ
[35649]じゃごたろさん
「エバラ焼肉のたれ」の「エバラ」は・・・、関係ないでしょうね
こちらも、地名の「荏原」に由来します。

1958年5月の創業当初から本社は横浜市にあったようですが、工場が品川区にあったため、「荏原食品株式会社」としたようです。1968年7月、現社名である「エバラ食品工業株式会社」に社名を変更しています。

エバラ食品工業のHPにも、簡単ながら社名の由来が載っています。
トップページ>お客様相談室>バラエにおまかせ!Q&A>番外編>何でエバラって名前にしたの?
[35664] 2004年 12月 10日(金)23:42:06EMM さん
荏原いろいろ
ああっ!晩飯喰ってる間に話が進んでるっ!

[35649] じゃごたろさん
[35650] N-Hさん
[35654] hmtさん
[35656] まがみさん

じゃごたろさんの記事を見て、私もすぐにエバラ食品のHPを見に行ったのですが、会社案内を開いたら沿革が書いてないためすぐに諦めていました。
まさかそんなところに由来が書いてあろうとは。

話が変わりますが、荏原製作所の社名は「株式会社荏原製作所」で、通称が「荏原(EBARA)」となっています。
ところが紛らわしいことに、「株式会社荏原」という会社もあったりします。
荏原製作所とは直接関係ないようです。
(書いてても紛らわしいのでこれ以降は(株)荏原のほうは商標のEBACで示します。)
EBACは所在地が目黒区なんですが、沿革を見ると途中で所在地が移転しています。
移転前の所在地は書いてないですが、設立当初の社名が「荏原設備」ですので、地名から来てそうな感じがします。
でも現在位置からは地名の荏原と結びつかないような気がしていたのですが、hmtさんの記事に書かれたエリアを見ると問題は無いような。

参考までに、荏原製作所はポンプ屋さんですが、EBACは冷凍機屋さん。
この会社の存在を知ったのは、現在いる部署で超低温のフリーザーを買うことになり、取り扱っている会社を調べていたら行き当たりました。
見つけてしばらくは荏原製作所と勘違いしており、全然関係ない別の会社だと気づいたのは半日後でした。
[35668] 2004年 12月 11日(土)05:10:24【1】KMKZ さん
荏原町の町民、平塚村の村民
[35649] じゃごたろ さん
かつて東京には「荏原郡」があった

関東大震災の前年の1922(大正11)年生まれで品川区出身の母、子供の頃の住所は荏原郡荏原町だったと良く話していました。通っていた小学校は平塚小学校だったそうなのですが、この小学校の現住所が品川区荏原ですね。

IssieさんのHPで荏原町の変遷を調べると、
1889(明治12).5.1合併で荏原郡平塚村成立
1927(昭和2).4.1町制施行で平塚町に
1927(昭和2).7.1平塚町を荏原町に町名変更
1932(昭和7).10.1東京市に編入され荏原区に
1947(昭和22).3.15旧品川区と合併し新品川区に

[27871]白桃 さんによれば平塚村は「1925年(第2回国勢調査)で72,256人を記録した、国勢調査の時点で最多人口の村で恐らく過去で日本一人口の多かった村」なのだそうですね。
また[25193]TN さんによれば荏原町の1930年(第3回国勢調査)の人口は132,108人で過去で日本一人口の多かった町らしいですね。
人口が多かったので平塚村の村域=荏原町の町域がそのまま区になって荏原区になったわけですね。

母は1922年生まれなので日本一人口の多かった村の村民であり、日本一人口の多かった町の町民だったのかな。

# 荏原町の変遷中、旧品川区と合併した年が間違っていたので修正
[35674] 2004年 12月 11日(土)12:06:45Issie さん
渋谷市
[35668] KMKZ さん
1945(昭和20).3.15 旧品川区と合併し新品川区に

合区が行われたのは戦後,新憲法体制準備中の1947年3月のことですね。

人口が多かったので平塚村の村域=荏原町の町域がそのまま区になって荏原区になったわけですね。

北豊島郡から編入された 瀧野川(滝野川)町 も単独で区に編成されています。
豊多摩郡の渋谷町では編入される以前に単独で「市」となる構想があったようです。
(もっとも,仮に「渋谷市」が発足していたとしても,荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾5郡と北多摩郡の千歳・砧2村からなる都市政策上の「大東京:グレーター・トーキョー」を統合する動きは遅かれ早かれ出てきたでしょうから,「伏見市」が満2年足らずで京都市に編入されたように,「渋谷市」も短命に終わったことでしょう。)

1923年の関東地震が引き起こした関東大震災後,昭和のはじめの段階で東京の市街化前線がちょうど山手線の沿線まで到達していた結果ですね。
荏原町(旧平塚村)の市街化がやや早かったのは,東急の前身である目黒蒲田電鉄の営業政策の現れでしょうか。

東京の周辺に大工場が立地するようになるのがちょうどこの頃ですから,それらは当時の市街地の外縁に当たる地域に立地するわけで,それが荏原郡の東部(品川・大崎地区)であったり,北豊島郡東部(王子地区)であったり,南葛飾郡西部(亀戸地区)であったりしたわけです。

[35649] じゃごたろ さん
「こんな東京のいい所に工場があるんだ」

関東大震災前後まで,まさしく市街地のまん真ん中である後楽園や本所両国に軍の大工場がありましたが,これは大名屋敷跡地を転用したもので,「お国」だからできることですね。
民間が既成市街地(しかも極めて人口密度の高い)を買い上げて工場を建てることなどできないから,東京への工場立地は明治後期に市街地外縁であった麻布の古川沿いや小石川の神田川(江戸川)沿い,そして深川東部から始まったのです。
その頃の日本鉄道支線(山手線)沿線は,まだおおむね田園だったのでしょう。
「春のうららの隅田川」を上り下る舟,この歌が作られたころまでは昔ながらの川舟だったのでしょうが,その頃から産業用のはしけが主体となってきたはずです。

今の感覚では,IHI(石川島播磨重工業)の工場がある豊洲も「都心のいいところ」となるかもしれません。一昔前よりも小さくなりましたが。
それに,この会社名の由来となっている石川島のドックの方は,バブルの頃に「ウォーターフロント」と騒がれた高級マンション街になっています。
[35704] 2004年 12月 12日(日)22:47:31【1】BEAN さん
東京市に編入された町村の人口
[35668]KMKZ さん
[35674]Issie さん
こんなものを見つけました。
関東大震災がきっかけとなって大きな人口移動が起きたことがわかります。当時の東京市にあった15区のほとんどは震災から2年を経てもなお震災前の人口を上回ることができず、それどころか、第1回国勢調査の人口が歴代国勢調査中最大であった区もあるようです。
そこから流出した人口が近郊の町村の人口急増をもたらしたわけですが、中でも平塚村=荏原町の人口増は急激なものでした。

1920~1925年 東京市近郊5郡の町村人口増加率ランキング
町村名1920年人口1925年人口増加率
1平塚村8,52272,266747.88
2杉並町(村)5,63236,608550.00
3尾久町(村)7,52547,493531.14
4碑衾村4,19317,751323.35
5蒲田町(村)6,42025,616299.00
6長崎村3,50413,830294.69
7馬込村2,72510,489284.92
8野方村7,32324,332232.27
9小松川町8,01924,135200.97
10和田堀内村3,90711,663198.52

そして、東京市拡大の直前には、人口5万人以上の町が多数できていました。

1920~1930年 東京市近郊5郡の町村人口ランキング
192019251930
1渋谷町80,799渋谷町99,022荏原町131,108
2西巣鴨町51,478西巣鴨町98,950西巣鴨町115,664
3南千住町50,713滝野川町82,252渋谷町102,566
4日暮里町41,551平塚村72,256滝野川町100,746
5品川町41,059中野町60,962王子町89,009
6滝野川町40,689王子町60,086中野町87,263
7淀橋町40,453吾嬬町59,921吾嬬町80,985
8亀戸町38,548三河島町59,252三河島町80,217
9王子町38,368大井町58,619杉並町79,193
10大井町36,659亀戸町57,321尾久町73,368

これを電車の路線網が発展していった過程と重ねると面白いと思います。
人口の増えた町の中には、もちろん市になることを検討したところもあったと考えられますが、当時の市になる要件を満たせなかったのでしょうか、それとも国あるいは東京府が阻止したのでしょうか。

おまけ
●1920~25年の、平塚村の人口増加率747.88%は、おそらく国勢調査間の市町村人口増加率としては歴代最高と思われますが、そうだとしても、2000~05年の三宅村が更新するのでしょうね。
●1930年の北豊島郡の人口858,322人は、国勢調査における郡の人口としては歴代最大である可能性があります。
[35725] 2004年 12月 13日(月)15:40:56hmt さん
もっと昔はもっと広かった「荏原」
[35654] hmt
歴史をもっと遡ると「荏原郡桜田郷」などとありますから、現在の千代田区の一部までが「荏原郡」だった

かまくら道探索というページに、中世の江戸湊周辺、後の千代田城付近のことを記したエッセイがあり、荏原郡に関係した記載があったので、それを引用しながら補足します。

律令制度の時代には、この海岸線に沿って旧官道(古東海道)が通っていた。街道を見下ろす場所に関所があり、高台には荏原郡を管轄する郡衙があった。そこから武蔵国府に連絡する国府路も通じていた。

ここにあった漁村・芝崎村の鎮守が神田明神で、ここに首を埋められた平将門が祭神になった。神社が湯島台に移された後も度重なる変事が起き、その祟りを恐れて武家屋敷地となっていた元の場所、当地に奉るようになった。――という趣旨のことも書かれています。

これは、大手町1丁目にある平将門首塚のことと理解されますが、この地に首塚を祀ったのはどの時代でしょうか。
“武家屋敷地となっていた”とあるように、江戸切絵図では酒井雅楽頭上屋敷の真中、明治の地図では大蔵省で、いずれも首塚らしい気配はありません。余談ですが、電車唱歌[33135]の【2】番で歌われた“大手町には内務省”は、この大蔵省の南隣にありました。
関東大震災後に、大蔵省を建て替えようとしたら大蔵大臣?を始めとして関係者に変事があったということが伝えられていますから、おそらくこの時に祀られたのでしょう。

鎌倉期には、平川が豊島郡と荏原郡の郡境であった

「かまくら道」は「ときわばし」[33433]から西へ進み、平将門首塚の前を通り、平川沿いに現在の内堀通りを竹橋へ。そこから国立近代美術館・国立公文書館の前を北桔橋(きたはねばし)門へと登る紀伊国坂付近が太田道灌の城の正面だったらしく、ここから西に通じる国府路(こうじ→麹町)、西北の清戸道・川越道、北に向かう岩槻道と主要道が整備されたことが図示されています。

このように、現在の皇居の大部分は、中世には荏原郡だったように思われますが、検地によって土地制度が変った近世には、豊島郡の領域とされることになったようです。

この “皇居は荏原郡か豊島郡か” という問題は、約2年前に八幡和郎さんが提起されたことがあります。Issieさんとの問答は、既に元の掲示板では消えてしまっているのですが、八幡和郎がニュースを解説の中に転載されていました。ご参考まで。
[35798] 2004年 12月 16日(木)15:22:03hmt さん
税金がかからない土地は 東京の地図から消えた
[35654]で いわゆる「大東京」市(35区)発足(1932年10月1日)直前の荏原郡 17町2村を列挙して、その中の荏原町だけが荏原区になり、現在は更にその一部だけが 品川区荏原(1~7丁目)として「荏原」の地名を残していることを記しました。

遡れば、中世の豊島郡と荏原郡の郡境は平川でした[35725]
そこで、近世における荏原郡・豊島郡の境界を、伊能図により補足します。

伊能大図第90図部分の右端・東海道沿いの測地線は芝の増上寺と高輪大木戸の間で、古川(図示されず)が境界です。
図の左端には大山道沿いの境界が見えます。これは、現在の渋谷区・目黒区の境。日本地図センターの近くです。
甲州街道が玉川上水を渡る代田橋付近は、豊島郡(渋谷区)・荏原郡(世田谷区)・多摩郡(杉並区)の境界です。現在の道路で言うと、国道20号と環七との大原交差点。

この境界は、明治になってからも同じで、明治16年の五千分一を見ると、薩摩藩邸跡地[35013]にできた三田育種場付近に「荏原郡」の字が見えます。但しこの頃は同じ地図に記されている東京府「芝区」の時代になっており、荏原郡であることは有名無実であったと思われます。[33692]の後書き参照。

さて、せっかく[35654]で荏原郡の 19町村を列挙したので、その中に登場する合成地名を拾い上げ、現在の使用状況を調べました。いずれも1889年の明治合併で生まれた合成村名です。

碑衾(ひぶすま)村:もとの地名は、碑文谷(ひもんや)村と衾(ふすま)村。碑文谷は目黒区の町名として現存します。
衾町という町名は消滅しましたが衾町公園(八雲)に名をとどめています。合成地名の碑衾は完全消滅したようです。

入新井(いりあらい)村:もとの地名は、不入斗(いりやまず)村と新井宿村。現在大田区の町名には残っていないが、大森駅の南側の入新井特別出張所や小学校など公共施設名として使用されています。
旧村名の不入斗と新井宿は消滅した模様です。
この「不入斗」は難読地名です。「税金がかからない」という意味で、鈴ヶ森八幡=磐井神社の社領に由来する地名です。
不入斗という地名は、横須賀その他にもあります。

松沢(まつざわ)村:もとの地名は、松原村と上北沢村。都立松沢病院(世田谷区上北沢)は有名です。上北沢・松原は共に世田谷区の町名に残り、駅名(京王線・東急世田谷線)にもなっています。
本邦初公開(正確には7月の釧路に次ぎ2回目)の全国伊能大図展示中[35754]の日本大学文理学部の近くにも、都立松原高校と区立松沢中学があり、江戸時代からの旧村名と明治の合併で生まれた行政村名とを伝えています。

おまけ
六郷(ろくごう)村の由来には、合併した村域の八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六郷を総称したとする説もあるようですが、これは“合成”とは言えないでしょう。
伊能図にはこれらの旧村名と共に六郷川の名が見えますから、直接には川に由来すると考えます。
[37397] 2005年 2月 2日(水)22:00:24mul-sa さん
人口13万人の「町」!
もしかしたらもうどなたかが指摘なさったことかもしれませんが・・・・・・
昭和7(1932)年10月1日の拡大前の東京市周辺の話です。

大正年間に入ったころより、東京市周辺の町村にも都市化が始まりました。大正12年の関東大震災により東京市が壊滅すると、周辺部の人口増加はさらに進みました。
これによる市街地の拡大に伴い、東京市は市域を拡大することとなったわけですが、それまでは東京市周辺の5郡(荏原、豊多摩、北豊島、南足立、南葛飾)には多くの町村が分布していました。

昭和5(1930)年の国勢調査をみると、驚くべきことが分かりました。当時市昇格の規準であった人口3万人を上回る町が、無数にあったのです。

中でも荏原、渋谷、滝野川、西巣鴨の4町は人口10万人を超えていました。他人口5万以上10万未満のものが17町、3万以上5万未満のものも17町。

これらの町は何故市にならなかったのでしょうか?詳しい方、宜しくお願い致します。

日暮里市、目黒市、千住市、淀橋市・・・・
こんな「消滅した市」がこのサイトに載っていた可能性もあったのですね。

最後に人口10万人以上の町について、その人口を載せておきます。

荏原郡荏原町   132,107人
北豊島郡西巣鴨町 115,650人
豊多摩郡渋谷町  102,051人
北豊島郡滝野川町 100,745人
[37411] 2005年 2月 3日(木)09:09:53【2】KMKZ さん
人口13万人の「町」・荏原町
[37397]mul-sa さん
昭和5(1930)年の国勢調査をみると、驚くべきことが分かりました。当時市昇格の規準であった人口3万人を上回る町が、無数にあったのです。
(中略)
これらの町は何故市にならなかったのでしょうか?
はじめまして。
[35668]で書きましたが、母が1930(昭和5)年の国勢調査で人口13万人の「町」だった東京府荏原郡荏原町(現在の品川区西部)の出身です。

[35674]Issie さんによれば当時人口10万人の町であった渋谷町には市制施行の構想があったそうですが、結局、町のままで東京市に編入されてしまいましたね。
想像するに「大東京市構想で東京市に編入されそうなので、あえて市制を施行するまでもないだろう」との判断だったのではありませんか。

ところで、荏原町の前身である平塚村は1925(大正14)年の国勢調査で人口7万人を上回っていたのですが、当時は村からいきなり市になることはできなかったのでしょうか?
[55694] 2006年 12月 27日(水)15:08:29【1】hmt さん
ダイヤルMを廻せ!
ヒチコックのような怖~い話をするつもりはありません。昔の電話はダイヤルを廻していたことを思い出しただけです。

来る2007年の2月25日に箱根の市内局番が2桁になるとのアナウンス がありました。
これに先立つ2007年2月1日には飛騨の神岡地域も同様に桁数が増えることになっており、箱根を最後に、国内すべての固定電話番号が10桁(市外局番の頭に付いている市外識別番号「0」を含む)になります。

さて、電話番号の始まりはいつでしょうか。

アレクサンダー・グラハム・ベルが発明した電話( 特許証 )の商用サービス開始は1877年。加入者21人だったそうですから、交換手に「○○さん」と接続先を告げれば十分だったでしょう。私が会社に入った頃の内線電話交換も、この方式で足りていました。

電話の加入者が増えると、番号が付けられます。
1890年(明治23年)、日本での創業時の「電話加入者人名表」(東京155人、横浜42人)は、電話番号順に記載されています。

加入者が、遠隔操作によって自ら交換機を動かす「ダイヤル式自動電話」が日本で登場したのは1926年(大正15年)です。
余談ですが、1889年にアメリカで発明された最初の自動交換式の電話機は、ダイヤル式でなく「ボタン式」だったそうです。但しボタンは一つだけで、桁毎に数字の回数だけボタンを押して、パルス信号を送る仕掛けとか。

電話番号が10桁にもなった原因は、電話加入者の増加にあるのはもちろんですが、市内電話だけでなく、全国がダイヤル式の自動即時通話網で結ばれたという背景も見落とせません。

ダイヤル式市外通話が始まったのは、1935年9月1日で、3年前に「郡部」から東京市内に編入されたばかりの荏原 [35654]と東京の間でした。この時に、「0」に数字を一つ付けた「市外局番」が誕生しました。やがて、世田谷や荻窪など他の電話局と共に東京市内の電話に統合され、戦前のダイヤル式市外通話は自然消滅しました。

大戦後の復興を経て、武蔵野・三鷹と東京の間がダイヤル式市外通話になり、東京が「03」、近郊が「04…」という現在に続く市外局番システムが登場したのは1956年頃ではないかと記憶しますが、裏付けるデータが手元にありません。
当時の東京の市内局番は2桁。これが1960年に3桁、1991年に4桁になりました。

マイクロウエーブによる大容量の長距離回線が確保されて、ダイヤル市外通話が東京~大阪間で使えるようになったのは1964年、全国都道府県庁所在地相互間は1967年、そして衛星回線により父島([26683]でハローページに言及)が本土と結ばれて全国自動即時化が完了したのは1983年でした。


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