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落書き帳

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[26683] 2004年 3月 29日(月)18:43:49【2】hmt さん
「無人島」が日本領になるまで
[26610] 尖閣諸島に関連して [26657]井上清さん [26659]般若堂そんぴんさん [26662]夜鳴き寿司屋さん から情報をいただき、いろいろな考えの方の存在を知りました。感謝いたします。

【2】井上清さんご本人の書き込みを前提とした記載を削除([26689]ゆうさんのご指摘あり)

それにつけても、[26625]で 夜鳴き寿司屋さんが言及された 小笠原諸島 がこのような紛争の地にならずに済んだのは幸いだったと思います。

文禄の役における小笠原貞頼発見(1593)の伝説はさておき、1675年 島谷市左衛門らによる探索・領有宣言。
1827年の英国軍艦ブロッサム号のキャプテンビーチィが領有宣言(翌年にはロシア軍艦が来て残念がったとか)。
1830年 多国籍欧米人とオアフ島民からなる移民の定住。1853年にはペリーが寄港して領有も宣言。
1861年咸臨丸派遣により小笠原回収をしたが、1863年に引揚。1875年明治政府による再回収。
こういう歴史を見ると、長期間放置していた小笠原がよくぞ“無事に回収”できたことだと思います。

小笠原が ケンペルの「日本誌」(1727)や 林子平の「三国通覧図説(クロプロート訳1826)」で外国に知られ、Bonin Islandsと呼ばれるようになったのは、MOU NIN SIMA(無人島)と呼ばれていたためですが、どうもこの名前からして「ほったらかし」の感じです。

この「無人島」に住み始めた1830年の移民団は、ホノルル駐在英国領事の支援の下に結成されたもののようですが、英国・米国・ハワイ王国などの植民地ではなく、約30年間は無国籍の「南海の楽園?」として、当時盛んだった北太平洋の捕鯨船相手の薪水・食糧供給基地になっていました。
1840年には陸奥国気仙郡の難破船が島民に助けられ、帰国して報告していますから、幕府は異人の居住を知りながら放置していたわけです。
1853年には琉球から浦賀に向う前にペリーが寄港して(1827年ビーチィの領有宣言は承知の上で?)領有も宣言。もし日本が打ち払いを実行したら、黒船艦隊がここまで退いて態勢を立て直す前進基地でした。同時に石炭貯蔵地などを購入して、サンフランシスコ・サンドウィッチ諸島(ハワイ)・上海を結ぶ航路に備えた補給基地を確保しました。

この時に交渉した 島の指導者 ナサニエル・セボレーとペリーとは、同じ1794年生れで 出身地も近く、親しくなったようです。ナサニエル・セボレーから4代目~5代目の子孫は今も父島に在住し、ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載しています。【2】

1856年にペリーの「日本遠征記」出版。幕府はこれによって小笠原の重要性に気付かされ、1861年に至り、老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させることにしました。
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
と駐日各国公使にも通知して、1861年12月咸臨丸は父島に到着。セボレーたち島民にはジョン万次郎の通訳で日本の領有・既得権の保護・今後の日本移民による開拓への協力方を説明しました。米国公使ハリスの書記官ポートマンからの好意的な書簡もあり、島民も日本の規則に従うことを了承しました。
翌年には八丈島からの移民30人が送られ、実質的な日本領としての開拓・統治が開始されました。
せっかく日本の統治が始まったのに、翌1863年には早々と撤退してしまったのは、幕末多事・安藤や水野の失脚に加えて、生麦事件の賠償金をめぐり英国との間に確執が起き、真っ先に攻撃される事態になることを恐れたためとされます。賠償金問題の解決後も開拓は再開されず、明治維新後も放置状態が続きました。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国で、小笠原の所属を再度にわたり質問。
ここに至り明治政府は1875年 田辺太一らを明治丸で小笠原に派遣、神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。なお、明治丸は越中島の東京商船大学に保存されています。

翌1876年には小笠原諸島規則を制定して各国にも通達し、日本の小笠原領有は国際的にも確立されました。移民も再開。内務省出張所が設けられ、1878には学校も。1880東京府移管。1882までに先住民全員が日本に帰化。という具合に日本化が進みましたが…

第2次大戦末期の1944年、日本軍は強制的に島民を本土に引揚させ、残された食糧補給要員も戦後日本兵とともに本土に引揚させられ、「無人島」になりました。(米軍は駐留していたのでしょうが)
1946年、欧米系島民と配偶者135名が帰島。
1968年、「小笠原諸島返還協定」で6月26日に日本復帰
[29851] 2004年 6月 29日(火)00:02:08【1】hmt さん
列島・諸島・群島
[29813] 作々さん
「列島・諸島・群島」コレクションというのは如何でしょうか。この3つ、定義が曖昧なところもあって、混合して使用されているのもあるようなんですが。

「列島・諸島・群島」に一応の区別はあるのでしょうが、おっしゃる通り、別名として同じように使用される例が多数あります。例えば八重山列島、八重山群島、八重山諸島は同じ「島群」(以下、この言葉を使います)です。

他方、小笠原諸島と小笠原群島とは区別して用いられます。
すなわち、小笠原群島は3列島(北から聟島列島・父島列島・母島列島)の総称ですが、小笠原諸島はこの3列島と硫黄列島(火山列島)を含む4列島に、更に西之島と西之島新島(両島は地続きになった)・南鳥島・沖ノ鳥島を含めて用いられます。南鳥島・沖ノ鳥島は “地理的には” かなり離れていますが、 “行政的に” 小笠原諸島に含まれているのだと理解します。

例えば我が地元(鹿児島)を例に少し書きますと、
南西諸島 なんせいしょとう 薩南諸島,琉球諸島
薩南諸島 さつなんしょとう 大隅諸島,吐喝喇列島,奄美諸島
大隅諸島 おおすみしょとう 種子島,屋久島,口永良部島

「南西諸島」 という呼び名は、もともと海上保安庁で使われていたものが広く使われるようになったようです。帝国書院の「復刻版地図帳」[25914]により記載状況を調べると、1934年版と1950年版には見当たらず、1973年版には記載されています。
鹿児島県の薩南諸島には 作々さんの挙げられた3島群と 三島村所属の上三島が含まれます。1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った「上三島」[24269]は、現在では大隅諸島に含めることもあるようですが、戦前は「吐喝喇列島(川辺十島)」に含まれていました。なお、草冠のある字は JIS外で表示できないために、作々さんにならって「喝」で代用しました。
ついでに触れておきますが、種子島北端や上三島と同緯度にあるにもかかわらず、草垣群島は薩南諸島に含まれません。薩摩半島西側の笠沙町に属するために“薩南”ではないのでしょう。しかし、甑島列島・宇治群島・草垣群島を総称する“薩西諸島”という呼び名は聞いたことがありません。

【1】脱字修正のついでに補足
種子島等は大隅国なので 大隅諸島と呼ばれるのは 当然として、ここや奄美の島々の総称が “薩南”諸島 であるのは何故でしょうか? 長期にわたる薩摩政権支配の間に“(広義の)薩摩の南部”という認識が生まれていたのでしょうか。

南西諸島ファミリーにおいて、島群の包括関係は 最大4階層の複雑な入れ子構造です。
勿論最初は「日本列島」
ア! 第0階層 日本列島を含めれば5階層でした。
第1階層 南西諸島の内訳=薩南諸島 + 琉球諸島
第2階層 薩南諸島の内訳=大隅諸島 + 上三島 + 吐喝喇列島 + 奄美群島
第2階層 琉球諸島の内訳=沖縄諸島 + 先島諸島 + 大東諸島
第3階層 沖縄諸島の内訳=沖縄島 + 伊平屋伊是名諸島 + 与勝諸島 + 慶良間諸島 + 久米島等
第3階層 先島諸島の内訳=宮古群島 + 八重山群島 + 尖閣列島

島群の呼び名や包括関係については、「島嶼大事典」(日外アソシエーツ1991)の呼び名と包括関係を用いましたが、歴史的な変化があります。

例えば1934年版では、前記のように南西諸島はなくて薩南諸島・琉球(諸島という字が入っていない)になっており、小笠原諸島は現在の小笠原群島の範囲で、同じ大きさの字で硫黄列島が別に存在します。この 1934年版を良く見ると、この 2島群と伊豆七島(現在の伊豆諸島)を含む図のタイトルは「豆南諸島」となっています。

豆南諸島の名は[19744]kenさんに登場し、本を引用した紹介文が記されています。
孀婦岩、須美寿島、ベヨネーズ列岩、鳥島という名前は聞いたことがあるかもしれない。これらの無人島群が豆南諸島。
昔、広い範囲で使われていた「豆南諸島」が、近年のダイバー用語では狭い意味で復活したのでしょうか。
これらの無人島群については、この落書き帳だけで通用する呼び名として、私が命名した「南方四島」[22460]もあります。
そうそう、南方と言えば、伊豆諸島と小笠原諸島の総称としての「南方諸島」の名が平凡社の「日本大地図帳」等に見えます。

これを使うと、南方諸島ファミリーは
第1階層 南方諸島の内訳=伊豆諸島 + 小笠原諸島
第2階層 伊豆諸島の内訳=伊豆七島 + 式根島・青ヶ島・鳥島等
第2階層 小笠原諸島の内訳=小笠原群島 + 硫黄列島 + 西之島等
第3階層 小笠原群島の内訳=聟島列島 + 父島列島 + 母島列島

「復刻版地図帳」に戻って、戦後の1950年版では、ユーラシア図の中に琉球列島・小笠原列島の名が見えます。日本の統治下でなかったので、日本図の部には出ていないのですね。
1973年版になると、現在とほぼ同じ伊豆諸島・小笠原諸島・(やや小さい字で)硫黄諸島になっています。
[53248] 2006年 8月 10日(木)14:41:16hmt さん
小笠原村の「設置」と「村制」の日付
[52770] 88 さん
小笠原村の入力の件も話題にしました

最初に、平成の大合併からスタートした自治体変更情報が、過去へと着実に遡及して、有用なデータの蓄積になっていることに敬意を表します。

さて、「合併以外の自治体変更情報」の中にある、“1968.06.26 小笠原村 村制” との記載に関するコメントを少々。

1968年6月26日は、米国から日本に返還された日であり、この日に「小笠原村」が新たに「設置」されました。[39017]
問題は、これを「村制」と表現して良いかどうかです。

この時に設置された「小笠原村」は、「地方自治法上の通常の地方公共団体」ではなかったのでした。
村長等の執行機関も、村議会も教育委員会もありませんでした。
東京都小笠原支庁長が「村長職務執行者」として村政に当たった行政区画であり、「地方自治体」ではありません。

村長と村議会議員が選出され、「地方自治体としての小笠原村」が実現したのは、1979年4月22日です。
東京都公式HP の中でも、都内島しょ地域の歴史的特性についての項目の中に、
戦後は米国の委任統治下におかれたが、昭和43年(1968年)6月に日本に返還された後、昭和54年(1979年)に実質的な村制が確立された。
と、「返還」と「実質的な村制」とを区別して書かれています。

これらの事実をふまえると、次のように区別して、両方の日付を入力しておくのが良いのではないかと考えます。

変更変月日自治体名変更種別変更対象/変更内容
1968.06.26(小笠原村)(村設置)小笠原諸島復帰に伴う暫定措置
1979.04.22小笠原村村制地方自治体としての発足


なお、村政が実質的に動き出したのは翌4月23日(月)ですが、ここでは選挙で選ばれた村長等の任期の初日を「村制」施行の日付としました。 http://homepage1.nifty.com/Bonin-Islands/sakusaku/3_1.htm 参照

時間的には前後しますが、1968年の「小笠原諸島返還」よりも前の概略は、次の記事に記してあります。
[26683] hmt  「無人島」が日本領になるまで
[53386] 2006年 8月 15日(火)14:03:1388 さん
小笠原村
[53248] hmt さん
[53310]で予告した、小笠原村の経緯のまとめです。
各種資料を再確認・年表式に整理すると、以下のようですね。
1968(S43).4.5「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(以下「協定」という。)調印
1968(S43).6.1「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(以下「法」という。)制定
1968(S43).6.26協定発効、復帰、法施行、法第18条の規定により小笠原村を設置
ただし、法第20条の規定により、村議会議員選挙及び村長選挙は留保
法第21条の規定により、東京都知事が任命した職務執行者(村長の代替)及び村政審議会(村議会の代替)を設置
1979(S54).3.5法第20条(村議会議員選挙及び村長選挙の留保)の解除の自治省告示、即日施行
1979(S54).4.22村議会議員選挙及び村長選挙投票日、名実共に小笠原村発足

関係資料等は末記しますが、ご指摘のように、1968(S43)年の復帰時点では、「小笠原村」とはいうものの、他の自治体のような体制は十分満たしていないことを確認いたしました。
あとはこれを、「合併以外の情報」にどう反映させるか、ですが、
――――――――――――――――――――――――――――――
変更変月日自治体名変更種別変更対象/変更内容
1968.06.26(小笠原村)(村設置)小笠原諸島復帰に伴う暫定措置
1979.04.22小笠原村村制地方自治体としての発足
――――――――――――――――――――――――――――――
とのご提案をいただきましたが、プログラム上、データの自動認識機能も含めての入力項目・表示となっているようですので、具体的な表現についてはちょっと保留させてください。備考欄(詳細情報欄)での補足は必要かと思いますが。
貴重なご指摘・情報提供ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

――――――――――――――――――――――――――――――
「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(昭和43年6月1日法律第83号)(抜粋)
何回か改正されているので、官報検索情報サービスから、制定当初のものを抜粋して転記。

第四章 村の設置
(村の設置)
第十八条 地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第五条第一項及び第七条第一項の規定にかかわらず、この法律の施行の日に、東京都に属する小笠原諸島の区域をもつて小笠原村を置く。
(旧村の権利義務の帰属)
第十九条 旧大村、旧扇村袋沢村、旧沖村、旧北村又は旧硫黄島村に属していた権利義務は、小笠原村に帰属する。
(設置選挙の特例)
第二十条 小笠原村の設置による議会の議員の一般選挙及び長の選挙に関する公職選挙法第三十三条第三項の規定の適用については、同項中「地方自治法第七条第六項((市町村の設置の告示))の告示による当該市町村の設置の日」とあるのは、「自治大臣の指定する日」と読み替えるものとする。
(機関の特例)
第二十一条 小笠原村の長が最初に選挙されて就任するまでの間においては、東京都知事が自治大臣の同意を得て任命した者をもつて村長の職務を行なう者(以下この章において「職務執行者」という。)とする。
2 職務執行者は、この法律及びこれに基づく政令で定めるもののほか、村長及び収入役の権限に属するすべての職務を行なう。
3 小笠原村は、議会が成立するまでの間においては、政令で定めるところにより、執行機関の附属機関として村政審議会を置かなければならない。
(議会の議員及び長の任期の特例)
第二十二条 第二十条の規定により読み替えて適用される公職選挙法第三十三条第三項の規定に基づいて自治大臣が指定した日から起算して四年を経過した日の前日までの間において選挙される小笠原村の議会の議員及び長の任期については、地方自治法第九十三条第一項及び第百四十条第一項の規定にかかわらず、政令で特別の定めをすることができる。
(条例の制定手続の特例)
第二十三条 小笠原村においては、議会が成立するまでの間は、地方自治法第九十六条第一項第一号の規定にかかわらず、職務執行者が村政審議会の意見をきいて、条例を設け又は改廃することができる。
2 小笠原村の長は、最初に招集された議会において、前項の規定による条例の制定について、その承認を求めなければならない。
(議決事項の特例)
第二十四条 職務執行者は、議会が成立するまでの間においては、その事務を管理し及び執行する場合において、地方自治法その他の法令により議会の議決を要することとされているときは、これらの法令の規定にかかわらず、当該議決に代えて村政審議会の意見をきかなければならない。
(政令への委任)
第二十五条 第十八条から前条までに定めるもののほか、小笠原村の組織及び運営に関し必要な事項は、政令で定める。

附 則
(施行期日) 
第一条 この法律は、南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の効力発生の日から施行する。ただし、附則第三条第二項の規定は、政令で定める日から施行する。
――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――
○ 外務省告示 第百三十号
 昭和四十三年四月五日に東京で署名された南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定が日本国によりその国内法上の手続に従つて承認された旨の通知は、昭和四十三年五月二十七日に東京で行なわれた。よつて同協定は、その第六条の規定に従い、昭和四十三年六月二十六日に効力を生ずる。
  昭和四十三年六月十二日      外務大臣 三木 武夫
――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――
○ 自治省告示 第五十八号
 小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律(昭和四十三年法律第八十三号)第二十条の規定により読み替えて適用される公職選挙法(昭和二十五年法律第百号)第三十三条第三項の自治大臣の指定する日は、昭和五十四年三月五日とする。
昭和五十四年三月五日
自治大臣 澁谷 直
――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――
公職選挙法(昭和二十五年四月十五日 法律第百号) (昭和二十九年十二月八日に当該箇所訂正)
(一般選挙、長の任期満了に因る選挙、定例選挙及び設置選挙)
第三十三條 地方公共団体の議会の議員の任期満了に因る一般選挙又は長の任期満了に因る選挙は、その任期が終る日の前三十日以内に行う。
2 地方公共団体の議会の解散に因る一般選挙は、解散の日から四十日以内に行う。
3 市町村の設置に因る議会の議員の一般選挙及び長の選挙は、地方自治法第七条第六項《市町村の設置の告示》の告示による当該市町村の設置の日から五十日以内に行う。
――――――――――――――――――――――――――――――

「小笠原諸島の復帰に伴う村の設置及び現地における行政機関の設置等に関する政令」(昭和43年6月24日政令212号 )もあります。詳細は割愛しますが、村制審議会の構成、国の出先機関としての「小笠原村総合事務所」の機能、都・国の職員の兼務可能、などが述べられています。
[53392] 2006年 8月 15日(火)18:25:37hmt さん
小笠原返還・南方諸島
[53386] 88 さん
[53310]で予告した、小笠原村の経緯のまとめです。

詳細な調査、有り難うございます。
1967年11月の佐藤首相訪米で「1年以内に小笠原返還」という日米共同声明が出され、翌1968年4月に通称「小笠原返還協定」が結ばれ、6月に返還実現という歴史は知っていても、「暫定措置」までは、なかなか知りません。

この1968年は、「明治百年」でしたが、学園紛争などで世情はさわがしかった年です。
なお、後に残った大物「沖縄返還」は、小笠原返還の翌年11月の佐藤首相訪米で「日米安保堅持・沖縄1972年返還」の日米共同声明が出されて道がつきました。

ところで、「小笠原返還協定」こと「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」の第1条第2項に
この協定の適用上,「南方諸島及びその他の諸島」とは,孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいい,これらの諸島の領水を含む。
と記されています。

これよりも22年前の「OCCUPIED JAPAN」時代のこと、1946年3月22日に
連合国最高司令官の布告(SCAPIN第841号)によって日本に対する行政権排除の対象が「修正」されて,「伊豆諸島及び嬬婦岩を含むそれ以北の南方諸島」は日本に含まれることになった
と書かれている[24274] とのことなので、伊豆諸島、嬬婦岩などの「南方四島」[22460]、それに小笠原諸島を総括した「南方諸島」という言葉は、どうやらアメリカ由来の外交用語のように思われます。
地図帳に関しては、小学館「日本列島大地図館」の日本全図の中で見つけたのが唯一の掲載例なのですが、一応は「島群」コレクション にも採用していだいています。

小笠原返還協定の定義によると、沖の鳥島(沖ノ鳥島と字が違う)及び南鳥島は小笠原群島などの南方諸島とは別建てです。

便宜上、行政的には小笠原村に属しており、「島群」コレクションでも南鳥島・沖ノ鳥島を「小笠原諸島」に含めているのですが、地形的には、沖ノ鳥島[26266]は大東諸島の延長線上にあり、「小笠原諸島」に含めることにいささか疑問があります。

小笠原村と無関係ですが、88 さん 宛てのついでに
名古屋市天白区が昭和区から分かれた日付は誤記ではないでしょうか。
[56162] 2007年 1月 11日(木)22:51:27hmt さん
硫黄島からの手紙
沖縄での地上戦の直前、1945年2月~3月に行なわれた激戦で知られる硫黄島が、久しぶりに思い出されています。
読売新聞 によると、硫黄島では、火山活動による隆起により、60年前に米軍が波止場建設のために並べた沈没船が海面上に姿を現しているとのことです。

硫黄島は摺鉢山以外は平坦であり、だからこそ飛行場を確保するために日米の激戦が行なわれたのですが、その南北にある南硫黄島と北硫黄島は、海上に突き出た800~900mの険しい山です。

この硫黄列島は、「火山列島」とも呼ばれますが、特に南硫黄島周辺にある海底火山「福徳岡ノ場」[23901]の84)の火山活動では、1904年、1914年、1986年と再三にわたり新島の形成が確認され、「新硫黄島」と呼ばれました。しかし、いずれも数ヶ月ないし数年の寿命で水没しました。参考:2005年海底噴火の写真

火山噴火による新しい国土の誕生はめったにありませんが、硫黄列島(24~25N)の北への延長線上(27N)にある西之島に隣接した場所で、1973年の海底噴火により新島が誕生し、「西之島新島」と名付けられました。翌年には更に拡がって旧島と接続し、1977年には湾口が閉じるなど、完全に一体化しましたが、波浪による侵食を受けているようです。海洋情報部

火山活動で何度か新島が形成され、自らの爆発や波浪の浸食で消滅する例は、更に北の「明神礁」でも繰り返され、青ヶ島からも遠望できたそうです。1952年の観測船・第五海洋丸の遭難事件は有名で、この後に登場した「ゴジラ」でも、その仕業かと疑われています。
明神礁カルデラ の外輪山・ベヨネース列岩(南方四島[22460])は1846年に発見したフランス軍艦の名に由来するようですが、別名の「ハロース」は外来語ではなく、“波浪の巣”とか。

火山の話はこのくらいにして硫黄島に戻ると、ここには米国と開戦する前年・1940年に町村制が施行されて「硫黄島村」 が生まれていました。
# “島嶼町村制施行”と書いてありますが、この勅令はこの1940年に廃止されているので、“町村制施行”の誤記だと思います。

硫黄島定住の歴史を遡ると、1889年に父島の漁師が入植するも挫折。その後、硫黄採掘も試みられ、1891年小笠原島庁の所管になった後、入植者が定住したのは1904年。硫黄島の人口は1915年679名、1921年1039名、1940年1164名というから、結構にぎわっていたのに驚きます。

第二次大戦では小笠原は軍事基地化され、米軍侵攻の危険が迫った1944年には、一般島民の強制引揚げに伴ない、戦前の村々(父島、母島、硫黄島の合計5村)は現地から姿を消しました。但し、村役場と小笠原支庁は東京に移って存続しました。
小笠原支庁と村役場が廃止されたのは、平和条約の発効により、小笠原が正式に米国の信託統治領になった1952年とのことです。現在の北方領土6村のような形式的に存在する村というよりも、旧島民を対象とする避難状態(先年の三宅村と同様?)が続いていたのかもしれません。

父島・母島も空襲と艦砲射撃を受けましたが、沖縄のような民間人を巻き込む悲劇は回避されました。
余談:父島の爆撃に従事していた(パパ)ブッシュ中尉は、乗機が対空砲火により撃墜され、漂流後に潜水艦に救出された由。Biography
[56190] 2007年 1月 12日(金)18:15:48【1】hmt さん
日本から政治的行政的に分離された「外周領域」
[56162]で、第二次大戦の末期に、硫黄島を含む小笠原諸島から、民間人の強制疎開が行なわれたことを記しました。
実は、小笠原からの住民引揚は、これが始めてのことではなかったのでした。

既に[26683]で書いたことなのですが、幕末の1861年(文久元年)に老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させ、翌年には八丈島からの移民を送り込み開拓を始めました。
ところがその1862年に起きた生麦事件[54415]の賠償金をめぐり、英国との間に確執があり、真っ先に攻撃される虞のある小笠原は、早々に開拓を放棄して本土に引き揚げてしまったのです。
この時には、旗本の奥方の疎開騒ぎ[33902]があったくらいで、江戸が襲われることも心配されました。
小笠原は、明治8年になってようやく再回収され、翌1876年には日本の小笠原領有が国際的に認められました。

19世紀の話はこのくらいにして、本題である第二次大戦の敗戦によって失なわれた「日本の外周領域」のことに入ります。

小笠原諸島では、1944年に軍属以外の6886人が本土に引き揚げ[56162]
優勢な米軍は、1945年2月に硫黄島に上陸。栗林部隊2万人が必死に抵抗するも3月には玉砕。
当時の大本営発表では「いおうとう」でした。国土地理院の「いおうじま」や米軍の「Iwo Jima」と違うのは、厚木(あつき)[22152]や物干場(ぶっかんじょう)[38388]のような軍隊方言のせいでしょうか?
父島・母島の生存者は、8月の日本敗戦によって本土に送還されました。

沖縄での地上戦は、3月26日の慶良間諸島(4月1日 沖縄本島)上陸に始まり、6月23日に組織的な戦闘が終了しました。
「鉄の雨」が降り注いだ3ヶ月間に、多数の民間人を含む20万人の犠牲者を出し、日本の行政機能は事実上壊滅ました。

敗戦後、戦場になった沖縄と小笠原を含めたいくつかの島々の行政が、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書(指令のMemorandum)によって日本から切り離されます。

「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件 Govermental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan」というタイトルで、SCAPIN-677 と呼ばれています。SCAP=連合国軍最高司令官(日本の新聞では「マ元帥」と表記)の Instruction Noteという意味です。

この覚書の第3条の中で、「日本の地域から除かれる地域」として列挙された3項目の中に
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島
があり、“北緯30度以南の琉球列島”の中には、沖縄、奄美群島、トカラ列島の「下七島」が含まれます。

(b)項において、伊豆諸島も日本の地域から除かれています。これに関連して、2004年1月29 日(SCAPIN-677発令58周年)に、[24269]「伊豆諸島が日本でなかった53日」という記事を書きました。この記事に対する Issieさんのレス[24274]にあるように、 SCAPIN-841 による修正によって、伊豆諸島が日本に戻りました。

(b)項には、南方諸島[53392]の名も見えます。(対日講和条約第3条や小笠原返還協定 第1条第2項では、小笠原を含む広い意味で使われています。)
沖縄県に所属するものの、「大東島群」(沖ノ鳥島やパラオ列島に連なる)は、別に挙げられています。
幻の「中ノ鳥島」([26266]の末尾)が、顔を出しているところはご愛嬌。

(a)鬱陵島、竹島、済州島や(c)千島列島、歯舞島群、色丹島が日本に含まれていないことは、領土問題についての韓国やロシアの主張の一つの根拠になっているのでしょうが、もともと SCAPIN-677 は、第6条に明記されているように、最終的な帰属を定めるものではない暫定的な性格のものだから、領土問題にこれを持ち出すのは筋違いということになります。
ついでに言えば、 SCAPIN-677 によれば、鬱陵島・済州島は、第4条の朝鮮とは区別された存在ですね。

原文を読もうと思ったら 画像 がありましたが、読みにくい。
外務省HPの中の 日露領土関係文書IIIの12番目は、全文ではありませんが、よく読めます。

1946年(昭和21年)1月29日に発令された SCAPIN-677 は、2月2日にGHQの民間情報教育局(CIE)から発表され、奄美復帰年表 では、「二・二宣言」と呼ばれています。
昭和21年2月3日毎日新聞(大阪)には、「日本領域マ司令部指定」という記事がありますが、読んでみると、“日本領域として特に指定された島嶼に 千島諸島 および北緯30度以北の琉球諸島を含んでいるが…”とあります。
これは明らかな誤報です。電話送稿で「対馬」と「千島」を取り違えたのでしょう。
[67240] 2008年 11月 9日(日)21:51:27【1】hmt さん
国土面積統計の変遷(8) 国土地理院面積データと長期統計面積データの違いを探る
日本の国土面積は国土地理院が測定していますが、国土地理院の公表値統計局の長期統計 における国土総面積 とが一致するのは、沖縄が復帰した昭和47年(1972)以降です[67221]

一例として、平和条約発効から3年後の 昭和30年(1955)の国土面積を示すと、統計局の長期統計値は 377,002km2となっています。
この値は国土地理院(地理調査所)の公表した 369,660.74km2よりも 7,341km2も大きな値です。
この違いを探ってみました。

実は、この2つの面積統計値、少し性格が異なるのです。
国土地理院の公表値は、地理調査所であった時代を含めて、公表当時の「ナマ」の数値と思われますが、統計局HP掲載の値は、長期統計という見地から、後でかなり「加工した」数値を用いているようです。

同じ統計局のデータでも公表時の印刷物、すなわち「第7回日本統計年鑑(昭和30・31年)」の冒頭には次のように記され、369,665.37km2となっています。完全には一致していませんが、国土地理院HPの昭和30年と近い面積です。
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この表は、他の諸表との関連的利用の見地から、現に行政権のおよんでいる地域のみについての数字を示す。【以下、簡略化して引用】小笠原群島、琉球諸島、歯舞群島および色丹島ならびにいまだ帰属が確定していない千島列島・国後島・択捉島・南樺太は便宜上含まれていない。
--------------------------------------------
# サンフランシスコ平和条約で既に放棄した千島列島・南樺太に、まだ言及しています。

要するに、統計局の方針は次のように理解されます。
昭和30年当時は、実態に合わせて、わが国の行政権が及んでいなかった外周地域を除外した面積で公表していた。
しかし、現在は、小笠原と琉球だけでなく、北方四島を含む外周地域すべての面積をも1945年に遡及して含めるようにしている。

# この記事では、琉球・小笠原・北方四島・竹島の総称を仮に「外周地域」と呼んでおきます。
類似の用語としては、1946年にSCAPIN-677によって日本の統治から外された際に用いられた「特定外周領域」[56190]という言葉がありました。こちらは、奄美群島も含み、一時的ですが伊豆諸島も対象になっていました[24269]

遡及はしませんが、国土地理院の面積データも、小笠原が復帰した昭和43年(1968)から外周地域を含むように改められました。
昭和25年~平成17年の国土面積公表値の推移 を見ると、昭和43年には前年より 7,531.82km2増加し、備考に“小笠原諸島、琉球諸島(硫黄鳥島除く)、北方四島、竹島追加”と記されています。

この年(1968)の 埋立面積 は 43.45 km2、従って追加された外周地域の面積は 7488.37 km2であり、その内訳は次の通りです。
小笠原諸島は 昭和43年現在の5万分1地形図により測定した 106.14 km2。未返還の琉球諸島 2386.24 km2[67073] と 北方四島合計 4995.76 km2[67072] とは 戦前(1935)の値を使用。竹島は 国有財産台帳上の 0.23km2。これが 1968年当時の数値でした。

外周地域の面積については、統計局HPでも、“一部の地域の基礎面積”として説明されています。
こちらは、北方四島・竹島・小笠原については上記国土地理院と同じですが、沖縄だけは 2239.22 km2と、異なる数値になっており、外周地域を総計すると 7341.35 km2になります。まさに最初に注目した国土地理院の公表値と統計局長期統計との差です。

これまでの検討から、面積に相違が生じたポイントは沖縄にあることがわかります。
沖縄の面積は、昭和46年復帰の前年に 4.36km2埋立があったにもかかわらず、復帰の昭和47年に再測定したら、古い面積より 145.26km2少なかったことが判明しました。更に、昭和44年より前のデータには、硫黄鳥島[28741](2.60 km2)が未算入でした。
従って、戦前から用いられていた沖縄の面積 2386.24 km2は、これら3点の修正を考慮した結果、実は 2239.22 km2が正しかったものと考えられます。
長期統計に遡及して用いられた面積は、このように後になってから「加工して作られた」数値だったわけです。

細部の検証になりましたが、これでようやく国土地理院の発表した測定値と、統計局HPの長期統計で使われた面積との整合性がとれました。

なお、上記の説明で使われた面積データは「過去の値」です。北方四島の面積は、1992年の再測定により 5036.14 km2に修正[67072]。小笠原諸島は 1988年に改測と西之島新島[56162]の加算が行なわれた結果 104.41 km2となっています。
[71887] 2009年 9月 6日(日)16:05:37hmt さん
支庁を考える (11)東京都島嶼部の4支庁 南の島がなぜ「東京」なのか
「支庁」の中で最も有名な存在は北海道の支庁。現在の4代目支庁(根拠は1948年北海道条例)の前身の3代目支庁(根拠は1897年勅令)[71731] から数えれば、112年の歴史があります。

現在では殆んど忘れられた存在が 山間地域の12支庁[71798]
1926年に 郡役所廃止を受けて 内務省告示で設けられた 25支庁[730] の半数を占めていましたが、その殆んどは 戦時中の1942年に全国に設けられた地方事務所という名の中に埋没しました。

そして、北海道ほど有名ではないが、地理に関心をもつ人ならば気になる存在が、東京都大島支庁[71478][71480]
今回は、北海道・山間地域と並ぶ第3の支庁設置区域である「島」の中でも、最も知られた存在の伊豆諸島・小笠原諸島の支庁を、その前身である「島庁」と共に探ります。

公職選挙法 第十三条  (小選挙区選出)議員の選挙区は、別表第一で定め、(後略)
別表第一 (第十三条関係)
東京都第三区 品川区 大田区(中略) 大島支庁管内 三宅支庁管内 八丈支庁管内 小笠原支庁管内
国会議員選挙の区割りに登場する「支庁」は、北海道[71744]以外では、この4支庁だけです。

伊豆大島は、本土から25kmほどですが、それでも熱海沖の初島のように、小舟で渡れる本土付属島とは異なる外洋の島です。ましてや、三宅島や八丈島は黒潮の只中の更に南の島。
伊豆七島 という呼び名が示すように、律令時代から「伊豆国」に属すとされていましたが、本土側の「国地」とは異なる世界の「島地」を構成していました。
# 現在は「伊豆諸島」と呼んでいますが、歴史的な呼び名の「伊豆七島」を使います。

明治9年(1876)に足柄県[24127]が解体されると、伊豆国は静岡県管内に統合され、伊豆七島もこれに従って一旦は静岡県管内になりました。

同じ年、小笠原諸島の日本帰属が国際的に認められました[26683]。政府は、とりあえず小笠原を内務省の直轄にし、更に府県に引き取らせて「本国化」することを考えました。
しかし、「伊豆国」ではないし八丈島の数倍も遠い小笠原を、静岡県に押し付けるわけにはゆかない。
そこで白羽の矢が立ったのが東京府でした。政府の影響力が強かった東京府は、離島の管轄を嫌がった静岡県に代って、伊豆七島(1878)と小笠原(1880)とを引き受けるハメになりました。[339] Issie さん

管内に離島を持つことは、自治体にとっては経済的な負担になります。
地方税収入などほんの僅かなのに、交通・教育・福祉…などの整備義務を負うことになります。
無人島でも、沖ノ鳥島の海岸管理のように莫大な費用が必要な例があります[26266]

ともかくも、伊豆七島と小笠原は明治11~13年に東京府の直轄行政区域になりました。
この年代は、北海道や離島を含む全国に郡区町村編制法が施行された時期ですが、ここだけは「郡」が編制されない特異な地域でした。郡区町村一覧 には、“七島 伊豆国”として、東京府直轄の 24村を記載。小笠原島は、まだ登場していません。

市区町村変遷履歴情報 を眺めると、伊豆諸島における近代的町村の記録は、日露戦争後の明治41年(1908)に始まり、島によって段階的に村落自治体制の近代化が行なわれたことを読み取ることができます。
島嶼町村制が施行されたのは、大島・八丈島が 1908年、そして三宅島など5島が 1923年でした。
青ヶ島と小笠原諸島に近代の村が設置されたのは、普通町村制の段階になった1940年。
そして八丈小島は、地方自治法になってからでした。

このような段階的移行状況を 全国的に2つの表にまとめた資料が、[65198]88 さんにあります。
後の表では、東京府伊豆大島・八丈島の島嶼町村制→町村制への移行が、正しい日付の S15(1940).4.1に記されていますが、最初の表では 伊豆(*3) (*4) の列が「町村」になる日付が T9.4.1 になっています。単純誤記でしょうが、例外的に認められる「資料価値の高い記事の訂正」[69571]に該当するように思われます。オーナー グリグリさんへの申請をご検討ください。
[71888] 2009年 9月 6日(日)16:16:37hmt さん
支庁を考える (12)東京都島嶼部の4支庁 3島庁から4支庁へ、そして現在の組織規程
前報[71887]では、郡区町村編制法時代の明治11年に 東京府管下になりながら 郡が編制されなかった 伊豆諸島にも、20世紀になると島嶼町村制が段階的に施行され(大島・八丈の2島は1908年、三宅など5島は1923年)、村落自治体制近代化への動きが始まったことを記しました。

日本統治の日が浅い小笠原は、東京府小笠原出張所による直轄統治体制でしたが、明治19年(1886)にこれが小笠原島庁と改称され、島司が置かれました。こちらは日露戦争後の島嶼町村制からも取り残され、町村制が施行されるのは大東亜戦争直前の 1940年になります。

伊豆諸島では、明治14年(1881)に東京府が各島に島役所を設置し、地役人・名主制を復活しました。しかし、この島役所体制は 本地で郡制が整備されてきた明治33年(1900)になるとを廃止されて、大島島庁と八丈島島庁とが設置されました。島地指定に関する勅令
大島・八丈島以外の三宅島など5島は旧体制のまま?

日露戦争後の時代になると、沖縄県及島嶼町村制の制定を受けた 島庁ヲ置ク島地指定ノ件(明治42年勅令第54号、M42/4/1施行) 中野文庫 により、改めて全国8地域が指定されました。

下記東京府以外で指定された島地は、長崎県対馬島・島根県隠岐島・鹿児島県大島郡・沖縄県宮古郡・沖縄県八重山郡です。
東京府【島庁名 管轄区域】
小笠原島庁 小笠原島、南鳥島、中ノ鳥島
八丈島庁 八丈島、小島、青ヶ島、鳥島
大島島庁 大島

今度は「八丈島庁」と1900年よりも1文字だけ短い名になっているのはともかく、疑問点があります。
中ノ鳥島という怪しい存在[65212]までも記されているのに、三宅島など伊豆諸島中の5島は、相変わらず大島支庁の管轄区域に含まれていません。5島が東京府大島島庁の管下になったのは1920年で、1923年には島嶼町村制施行地にもなりました。

全国13地域の島に支庁ができた1926年に、東京府の3島庁は、大島支庁・八丈支庁・小笠原支庁と改称。
戦時中の昭和18年(1943)4月に三宅支庁分立で4支庁となる。その年の7月に東京都制施行。

戦後、小笠原は米軍統治に置かれた後、1968年に返還[53248]
伊豆諸島[24269]も短期間ながら特定外周領域[56190]になりました。

日本国憲法・地方自治法に基づく戦後の体制では、もちろん北海道を含む各地と共通の地方自治法155条第1項に根拠を置く制度[71744]に移行しました。

東京都組織規程第34条による、東京都の「支庁」に関する規定。
地方行政機関の名称、所在地及び所掌事務は別表四のとおりとする。

北海道HP には、支庁が地域名であることを思わせる記載がありましたが、東京都4支庁についてはこのような記載はなく、都庁の純然たる出先機関であると思われます。
リンクした別表四も、いかにも役所(出先機関)のリストというスタイルです。

東京都島嶼部に設けられた4支庁。そこには、歴史的に「郡」がないという特殊な事情があります。
しかし、もちろん「支庁」は「郡」と同じものではなく、「住所表記上の上位階層」にはなりません。
また、北海道の支庁のような道公認の「地域」[71705] でもありません。

だから「東京都新島村が大島支庁に属している」という関係はないのでしょう。
地方自治法上で「市町村を包括する」広域の地方公共団体は、もちろん都道府県であり、支庁ではありません。


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