都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

記事検索

>
7件の記事を検索しました

… スポンサーリンク …



[26683] 2004年 3月 29日(月)18:43:49【2】hmt さん
「無人島」が日本領になるまで
[26610] 尖閣諸島に関連して [26657]井上清さん [26659]般若堂そんぴんさん [26662]夜鳴き寿司屋さん から情報をいただき、いろいろな考えの方の存在を知りました。感謝いたします。

【2】井上清さんご本人の書き込みを前提とした記載を削除([26689]ゆうさんのご指摘あり)

それにつけても、[26625]で 夜鳴き寿司屋さんが言及された 小笠原諸島 がこのような紛争の地にならずに済んだのは幸いだったと思います。

文禄の役における小笠原貞頼発見(1593)の伝説はさておき、1675年 島谷市左衛門らによる探索・領有宣言。
1827年の英国軍艦ブロッサム号のキャプテンビーチィが領有宣言(翌年にはロシア軍艦が来て残念がったとか)。
1830年 多国籍欧米人とオアフ島民からなる移民の定住。1853年にはペリーが寄港して領有も宣言。
1861年咸臨丸派遣により小笠原回収をしたが、1863年に引揚。1875年明治政府による再回収。
こういう歴史を見ると、長期間放置していた小笠原がよくぞ“無事に回収”できたことだと思います。

小笠原が ケンペルの「日本誌」(1727)や 林子平の「三国通覧図説(クロプロート訳1826)」で外国に知られ、Bonin Islandsと呼ばれるようになったのは、MOU NIN SIMA(無人島)と呼ばれていたためですが、どうもこの名前からして「ほったらかし」の感じです。

この「無人島」に住み始めた1830年の移民団は、ホノルル駐在英国領事の支援の下に結成されたもののようですが、英国・米国・ハワイ王国などの植民地ではなく、約30年間は無国籍の「南海の楽園?」として、当時盛んだった北太平洋の捕鯨船相手の薪水・食糧供給基地になっていました。
1840年には陸奥国気仙郡の難破船が島民に助けられ、帰国して報告していますから、幕府は異人の居住を知りながら放置していたわけです。
1853年には琉球から浦賀に向う前にペリーが寄港して(1827年ビーチィの領有宣言は承知の上で?)領有も宣言。もし日本が打ち払いを実行したら、黒船艦隊がここまで退いて態勢を立て直す前進基地でした。同時に石炭貯蔵地などを購入して、サンフランシスコ・サンドウィッチ諸島(ハワイ)・上海を結ぶ航路に備えた補給基地を確保しました。

この時に交渉した 島の指導者 ナサニエル・セボレーとペリーとは、同じ1794年生れで 出身地も近く、親しくなったようです。ナサニエル・セボレーから4代目~5代目の子孫は今も父島に在住し、ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載しています。【2】

1856年にペリーの「日本遠征記」出版。幕府はこれによって小笠原の重要性に気付かされ、1861年に至り、老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させることにしました。
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
と駐日各国公使にも通知して、1861年12月咸臨丸は父島に到着。セボレーたち島民にはジョン万次郎の通訳で日本の領有・既得権の保護・今後の日本移民による開拓への協力方を説明しました。米国公使ハリスの書記官ポートマンからの好意的な書簡もあり、島民も日本の規則に従うことを了承しました。
翌年には八丈島からの移民30人が送られ、実質的な日本領としての開拓・統治が開始されました。
せっかく日本の統治が始まったのに、翌1863年には早々と撤退してしまったのは、幕末多事・安藤や水野の失脚に加えて、生麦事件の賠償金をめぐり英国との間に確執が起き、真っ先に攻撃される事態になることを恐れたためとされます。賠償金問題の解決後も開拓は再開されず、明治維新後も放置状態が続きました。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国で、小笠原の所属を再度にわたり質問。
ここに至り明治政府は1875年 田辺太一らを明治丸で小笠原に派遣、神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。なお、明治丸は越中島の東京商船大学に保存されています。

翌1876年には小笠原諸島規則を制定して各国にも通達し、日本の小笠原領有は国際的にも確立されました。移民も再開。内務省出張所が設けられ、1878には学校も。1880東京府移管。1882までに先住民全員が日本に帰化。という具合に日本化が進みましたが…

第2次大戦末期の1944年、日本軍は強制的に島民を本土に引揚させ、残された食糧補給要員も戦後日本兵とともに本土に引揚させられ、「無人島」になりました。(米軍は駐留していたのでしょうが)
1946年、欧米系島民と配偶者135名が帰島。
1968年、「小笠原諸島返還協定」で6月26日に日本復帰
[53248] 2006年 8月 10日(木)14:41:16hmt さん
小笠原村の「設置」と「村制」の日付
[52770] 88 さん
小笠原村の入力の件も話題にしました

最初に、平成の大合併からスタートした自治体変更情報が、過去へと着実に遡及して、有用なデータの蓄積になっていることに敬意を表します。

さて、「合併以外の自治体変更情報」の中にある、“1968.06.26 小笠原村 村制” との記載に関するコメントを少々。

1968年6月26日は、米国から日本に返還された日であり、この日に「小笠原村」が新たに「設置」されました。[39017]
問題は、これを「村制」と表現して良いかどうかです。

この時に設置された「小笠原村」は、「地方自治法上の通常の地方公共団体」ではなかったのでした。
村長等の執行機関も、村議会も教育委員会もありませんでした。
東京都小笠原支庁長が「村長職務執行者」として村政に当たった行政区画であり、「地方自治体」ではありません。

村長と村議会議員が選出され、「地方自治体としての小笠原村」が実現したのは、1979年4月22日です。
東京都公式HP の中でも、都内島しょ地域の歴史的特性についての項目の中に、
戦後は米国の委任統治下におかれたが、昭和43年(1968年)6月に日本に返還された後、昭和54年(1979年)に実質的な村制が確立された。
と、「返還」と「実質的な村制」とを区別して書かれています。

これらの事実をふまえると、次のように区別して、両方の日付を入力しておくのが良いのではないかと考えます。

変更変月日自治体名変更種別変更対象/変更内容
1968.06.26(小笠原村)(村設置)小笠原諸島復帰に伴う暫定措置
1979.04.22小笠原村村制地方自治体としての発足


なお、村政が実質的に動き出したのは翌4月23日(月)ですが、ここでは選挙で選ばれた村長等の任期の初日を「村制」施行の日付としました。 http://homepage1.nifty.com/Bonin-Islands/sakusaku/3_1.htm 参照

時間的には前後しますが、1968年の「小笠原諸島返還」よりも前の概略は、次の記事に記してあります。
[26683] hmt  「無人島」が日本領になるまで
[53392] 2006年 8月 15日(火)18:25:37hmt さん
小笠原返還・南方諸島
[53386] 88 さん
[53310]で予告した、小笠原村の経緯のまとめです。

詳細な調査、有り難うございます。
1967年11月の佐藤首相訪米で「1年以内に小笠原返還」という日米共同声明が出され、翌1968年4月に通称「小笠原返還協定」が結ばれ、6月に返還実現という歴史は知っていても、「暫定措置」までは、なかなか知りません。

この1968年は、「明治百年」でしたが、学園紛争などで世情はさわがしかった年です。
なお、後に残った大物「沖縄返還」は、小笠原返還の翌年11月の佐藤首相訪米で「日米安保堅持・沖縄1972年返還」の日米共同声明が出されて道がつきました。

ところで、「小笠原返還協定」こと「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」の第1条第2項に
この協定の適用上,「南方諸島及びその他の諸島」とは,孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいい,これらの諸島の領水を含む。
と記されています。

これよりも22年前の「OCCUPIED JAPAN」時代のこと、1946年3月22日に
連合国最高司令官の布告(SCAPIN第841号)によって日本に対する行政権排除の対象が「修正」されて,「伊豆諸島及び嬬婦岩を含むそれ以北の南方諸島」は日本に含まれることになった
と書かれている[24274] とのことなので、伊豆諸島、嬬婦岩などの「南方四島」[22460]、それに小笠原諸島を総括した「南方諸島」という言葉は、どうやらアメリカ由来の外交用語のように思われます。
地図帳に関しては、小学館「日本列島大地図館」の日本全図の中で見つけたのが唯一の掲載例なのですが、一応は「島群」コレクション にも採用していだいています。

小笠原返還協定の定義によると、沖の鳥島(沖ノ鳥島と字が違う)及び南鳥島は小笠原群島などの南方諸島とは別建てです。

便宜上、行政的には小笠原村に属しており、「島群」コレクションでも南鳥島・沖ノ鳥島を「小笠原諸島」に含めているのですが、地形的には、沖ノ鳥島[26266]は大東諸島の延長線上にあり、「小笠原諸島」に含めることにいささか疑問があります。

小笠原村と無関係ですが、88 さん 宛てのついでに
名古屋市天白区が昭和区から分かれた日付は誤記ではないでしょうか。
[56190] 2007年 1月 12日(金)18:15:48【1】hmt さん
日本から政治的行政的に分離された「外周領域」
[56162]で、第二次大戦の末期に、硫黄島を含む小笠原諸島から、民間人の強制疎開が行なわれたことを記しました。
実は、小笠原からの住民引揚は、これが始めてのことではなかったのでした。

既に[26683]で書いたことなのですが、幕末の1861年(文久元年)に老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させ、翌年には八丈島からの移民を送り込み開拓を始めました。
ところがその1862年に起きた生麦事件[54415]の賠償金をめぐり、英国との間に確執があり、真っ先に攻撃される虞のある小笠原は、早々に開拓を放棄して本土に引き揚げてしまったのです。
この時には、旗本の奥方の疎開騒ぎ[33902]があったくらいで、江戸が襲われることも心配されました。
小笠原は、明治8年になってようやく再回収され、翌1876年には日本の小笠原領有が国際的に認められました。

19世紀の話はこのくらいにして、本題である第二次大戦の敗戦によって失なわれた「日本の外周領域」のことに入ります。

小笠原諸島では、1944年に軍属以外の6886人が本土に引き揚げ[56162]
優勢な米軍は、1945年2月に硫黄島に上陸。栗林部隊2万人が必死に抵抗するも3月には玉砕。
当時の大本営発表では「いおうとう」でした。国土地理院の「いおうじま」や米軍の「Iwo Jima」と違うのは、厚木(あつき)[22152]や物干場(ぶっかんじょう)[38388]のような軍隊方言のせいでしょうか?
父島・母島の生存者は、8月の日本敗戦によって本土に送還されました。

沖縄での地上戦は、3月26日の慶良間諸島(4月1日 沖縄本島)上陸に始まり、6月23日に組織的な戦闘が終了しました。
「鉄の雨」が降り注いだ3ヶ月間に、多数の民間人を含む20万人の犠牲者を出し、日本の行政機能は事実上壊滅ました。

敗戦後、戦場になった沖縄と小笠原を含めたいくつかの島々の行政が、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書(指令のMemorandum)によって日本から切り離されます。

「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件 Govermental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan」というタイトルで、SCAPIN-677 と呼ばれています。SCAP=連合国軍最高司令官(日本の新聞では「マ元帥」と表記)の Instruction Noteという意味です。

この覚書の第3条の中で、「日本の地域から除かれる地域」として列挙された3項目の中に
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島
があり、“北緯30度以南の琉球列島”の中には、沖縄、奄美群島、トカラ列島の「下七島」が含まれます。

(b)項において、伊豆諸島も日本の地域から除かれています。これに関連して、2004年1月29 日(SCAPIN-677発令58周年)に、[24269]「伊豆諸島が日本でなかった53日」という記事を書きました。この記事に対する Issieさんのレス[24274]にあるように、 SCAPIN-841 による修正によって、伊豆諸島が日本に戻りました。

(b)項には、南方諸島[53392]の名も見えます。(対日講和条約第3条や小笠原返還協定 第1条第2項では、小笠原を含む広い意味で使われています。)
沖縄県に所属するものの、「大東島群」(沖ノ鳥島やパラオ列島に連なる)は、別に挙げられています。
幻の「中ノ鳥島」([26266]の末尾)が、顔を出しているところはご愛嬌。

(a)鬱陵島、竹島、済州島や(c)千島列島、歯舞島群、色丹島が日本に含まれていないことは、領土問題についての韓国やロシアの主張の一つの根拠になっているのでしょうが、もともと SCAPIN-677 は、第6条に明記されているように、最終的な帰属を定めるものではない暫定的な性格のものだから、領土問題にこれを持ち出すのは筋違いということになります。
ついでに言えば、 SCAPIN-677 によれば、鬱陵島・済州島は、第4条の朝鮮とは区別された存在ですね。

原文を読もうと思ったら 画像 がありましたが、読みにくい。
外務省HPの中の 日露領土関係文書IIIの12番目は、全文ではありませんが、よく読めます。

1946年(昭和21年)1月29日に発令された SCAPIN-677 は、2月2日にGHQの民間情報教育局(CIE)から発表され、奄美復帰年表 では、「二・二宣言」と呼ばれています。
昭和21年2月3日毎日新聞(大阪)には、「日本領域マ司令部指定」という記事がありますが、読んでみると、“日本領域として特に指定された島嶼に 千島諸島 および北緯30度以北の琉球諸島を含んでいるが…”とあります。
これは明らかな誤報です。電話送稿で「対馬」と「千島」を取り違えたのでしょう。
[56162] 2007年 1月 11日(木)22:51:27hmt さん
硫黄島からの手紙
沖縄での地上戦の直前、1945年2月~3月に行なわれた激戦で知られる硫黄島が、久しぶりに思い出されています。
読売新聞 によると、硫黄島では、火山活動による隆起により、60年前に米軍が波止場建設のために並べた沈没船が海面上に姿を現しているとのことです。

硫黄島は摺鉢山以外は平坦であり、だからこそ飛行場を確保するために日米の激戦が行なわれたのですが、その南北にある南硫黄島と北硫黄島は、海上に突き出た800~900mの険しい山です。

この硫黄列島は、「火山列島」とも呼ばれますが、特に南硫黄島周辺にある海底火山「福徳岡ノ場」[23901]の84)の火山活動では、1904年、1914年、1986年と再三にわたり新島の形成が確認され、「新硫黄島」と呼ばれました。しかし、いずれも数ヶ月ないし数年の寿命で水没しました。参考:2005年海底噴火の写真

火山噴火による新しい国土の誕生はめったにありませんが、硫黄列島(24~25N)の北への延長線上(27N)にある西之島に隣接した場所で、1973年の海底噴火により新島が誕生し、「西之島新島」と名付けられました。翌年には更に拡がって旧島と接続し、1977年には湾口が閉じるなど、完全に一体化しましたが、波浪による侵食を受けているようです。海洋情報部

火山活動で何度か新島が形成され、自らの爆発や波浪の浸食で消滅する例は、更に北の「明神礁」でも繰り返され、青ヶ島からも遠望できたそうです。1952年の観測船・第五海洋丸の遭難事件は有名で、この後に登場した「ゴジラ」でも、その仕業かと疑われています。
明神礁カルデラ の外輪山・ベヨネース列岩(南方四島[22460])は1846年に発見したフランス軍艦の名に由来するようですが、別名の「ハロース」は外来語ではなく、“波浪の巣”とか。

火山の話はこのくらいにして硫黄島に戻ると、ここには米国と開戦する前年・1940年に町村制が施行されて「硫黄島村」 が生まれていました。
# “島嶼町村制施行”と書いてありますが、この勅令はこの1940年に廃止されているので、“町村制施行”の誤記だと思います。

硫黄島定住の歴史を遡ると、1889年に父島の漁師が入植するも挫折。その後、硫黄採掘も試みられ、1891年小笠原島庁の所管になった後、入植者が定住したのは1904年。硫黄島の人口は1915年679名、1921年1039名、1940年1164名というから、結構にぎわっていたのに驚きます。

第二次大戦では小笠原は軍事基地化され、米軍侵攻の危険が迫った1944年には、一般島民の強制引揚げに伴ない、戦前の村々(父島、母島、硫黄島の合計5村)は現地から姿を消しました。但し、村役場と小笠原支庁は東京に移って存続しました。
小笠原支庁と村役場が廃止されたのは、平和条約の発効により、小笠原が正式に米国の信託統治領になった1952年とのことです。現在の北方領土6村のような形式的に存在する村というよりも、旧島民を対象とする避難状態(先年の三宅村と同様?)が続いていたのかもしれません。

父島・母島も空襲と艦砲射撃を受けましたが、沖縄のような民間人を巻き込む悲劇は回避されました。
余談:父島の爆撃に従事していた(パパ)ブッシュ中尉は、乗機が対空砲火により撃墜され、漂流後に潜水艦に救出された由。Biography
[59286] 2007年 6月 20日(水)14:11:21hmt さん
「硫黄島」-その読み方の変遷史-
[59223] ほいほい さん
国土地理院が硫黄島の呼称を「いおうとう」に変更したそうです。

小笠原諸島地名事典 を参照しつつ、「硫黄島」の読み方の変遷を考察します。
最初は、イギリスの船乗りが「Sulphur Island」と名付け、幕府も「硫黄島」(おそらく「いおうじま」)と呼んだとのこと。

正式の命名は、明治24年9月9日勅令第190号 で、
東京府管下小笠原島南西沖(中略)に散在する3島嶼を小笠原島の所属とし其中央に在るものを硫黄島と(中略)称す
となっています。この勅令では読み方は明示されていませんが、「いおうじま」とルビをつけた新聞もあった由。
日本の大部分の島名では「島」を訓読みするので、初代の呼称は「いおうじま」だったと考えるのが自然でしょう。
旧海軍水路部がこの付近の海図を作製した年代はわかりませんが、アメリカ軍が「Iwo Jima」と呼んだのは、海図に記されたローマ字表記に基づくものとされます。

入植者が定着するようになったのは20世紀に入った1904年で、大戦前には人口が1000人以上という賑わいを見せ、1940年には「硫黄島村」も誕生しました[56162]
この現地開拓者たちの間では「いおうとう」の呼び名が定着し、学校名や会社名もそのように呼んだということで(硫黄島同窓会)、村の名もそのように呼ばれたと思われます。
つまり、19世紀の「いおうじま」から、20世紀には(陸地の呼称は)2代目の「いおうとう」へと変りました。

硫黄島は、B29の基地があったテニアン島(マリアナ諸島)などに比べるとずっと小さな島であり、大規模な空軍基地はできませんが、摺鉢山以外は平坦であり、謂わばマリアナ諸島と日本との間にある貴重な「不沈空母」です。日本側にとっては哨戒・迎撃・マリアナ米軍基地の攻撃、長距離爆撃の米軍側にはB29不時着地の確保と、双方にとり軍事的価値がありました。
大戦末期になると、この島の確保を狙う米軍に対する守備隊が増強され、日本陸海軍だけでも2万人になりました。

この陸海軍も、現地住民と同じく「いおうとう」を使ったということで、[56190]で記した
当時の大本営発表では「いおうとう」でした。(中略)軍隊方言のせいでしょうか?
の最初の部分は正しく、後の推測は外れていたようです。

「Iwo Jima」に対す猛攻撃を加えた米軍に敗れた「いおうとう」の守備隊が玉砕したのは1945年3月。
米軍による占領→米国の信託統治領(1952)を経て日本復帰(1968)。復帰直後の地形図では「いおうとう」だったものが、「標準地名集」[53057]の1981年版では3代目の呼称「いおうじま」に変更されたとのことです。

[59277] Issie さん
新聞報道によると,「いおうとう」が「いおうじま」になってしまったのには「占領軍」が絡んでいるそうですね。

確かに、日刊スポーツ には、
明治時代から一部で「いおうじま」と呼ばれていたが、戦中から米軍などがこう呼んだことから、政府の関係省庁などに定着したとの説が強い。
と書いてありました。
しかし、占領時代がずっと過去のものになった時代の「標準地名集」での変更は、占領軍絡みよりも、海上保安庁水路部の 海図 (たぶん明治時代から一貫して「いおうじま」)と国土地理院の地形図とを整合させた結果 と見る方が妥当な解釈ではないでしょうか。

1980年頃から陸の呼び名も海に合わせて「いおうじま」に変りましたが、世間の注目は集めませんでした。
ところが、映画のおかげで突然「いおうじま」が話題になります(2006年)。
これが、寝ていた子を起こすことになり、小笠原村にいる硫黄島旧住民を中心に「いおうとう」だという声が沸き起こったのだと思われます。

国土地理院の発表 でも、“地元で旧島民が「いおうとう」と呼んでいた背景”に基づく、小笠原村からの修正要望に応じたものとされています。
# 小笠原村の管内ですが、現在は一般住民不在。海上自衛隊基地。
かくして、陸では4代目の呼称として「いおうとう」が復活。
海図も、明治以来の「いおうじま」から「いおうとう」へと変更。

「居住地名」は「地名調書」に拠るが、「自然地名」は必ずしも地元の小笠原村の作成した「地名調書」の通りにはならない[56419]という状態を続けていたのですが、この度は地元の要望を容れて、「いおうとう」に戻したというのは、何か格別の事情もあったのか?とも思われます。

以上、硫黄島の読み方の変遷史を綴ってみました。

おまけ
[59270] スピカ さん
鹿児島県三島村を構成する3島の1つを「硫黄島」と言い、こちらは「いおうじま」と読むそうです。

南九州の縄文早期文化を壊滅させた、6300年前の大噴火[24108]の跡を残す鬼界カルデラ の北縁・鹿児島県三島村の硫黄島(鬼界ヶ島)[56250] は、火山の名としては、「薩摩硫黄島」 と呼ばれます。[23902]のNo.102
1934年(昭和9年)から翌年にかけて、この火山で海底噴火があり、形成された岩礁は「昭和硫黄島」を形成しています。

同様に小さな岩礁ですが、地名コレクション収録の安永諸島[40149](桜島火山)の中にも、小さな硫黄島 があります。これも「いおうじま」。

沖縄県久米島町の「硫黄鳥島」の所属に関する記事[28741]もあります。
[59385] 2007年 6月 23日(土)23:55:08【1】hmt さん
戦史に残る旧地名
[59352] にまん さん
「いおうじま」が「いおうとう」になったという話は既出ですが、その余波というようなニュースを見つけました。アメリカで不満が出ているそうです。

例えば Press-Telegram には、"the Battle of Iwo Jima" に従軍した老兵の発言が紹介されています。

しかし、日本が地名の読み方を変えても、アメリカで使われる「戦史の中の呼称」に直接影響するわけではありません。
老兵のご懸念は無用のことと思います。

第二次大戦の「スターリングラード攻防戦」など、戦史に残る地名と現在の地名表記が異なる例は珍しくないことでしょう。
帝政時代のツァリーツィンからスターリングラードへ、そして1961年からヴォルゴグラードへと改名。「廃墟からの復興」と題して広島と対比しつつ語った[4656] ニジェガロージェッツ さんの記事があります。

日本では「独ソ戦」と呼んでいたこの戦争自体の名前も、ソ連では「大祖国戦争」。
硫黄島攻防戦(日本の戦史ではずっと「いおうとう」だったと思います)があった戦争も、日本では「大東亜戦争」でした。

1905年に「奉天会戦」のあった地名は、現在では「瀋陽」ですが、清国・中華民国・満州国の時代には奉天でした。
市内を流れる瀋水(現在の瀋河)の北岸=「陽」[38301][38328]を意味する「瀋陽」は、後金の太祖ヌルハチが都とした地です。
その9年後の1634年に、太宗ホンタイジが「隆盛」を意味する満州語ムクデンと改名しました。漢語表記は「盛京」。

清国になって北京遷都後の1657年に奉天府が置かれています。
日露戦争後に権益を得た日本の南満州鉄道が奉天近くの柳条湖で爆破される事件があったのは1931年。日本では「満州事変」と呼んでいますが、英語では「Mukden Incident」です。

約300年間使われた「奉天」の地名は、大戦後の1945年に瀋陽に戻りました。(戦前の張学良時代にも一時的に瀋陽)


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示