[80419] 88 さん
早速、官報により総理府告示を調査していただき、ありがとうございます。
No.5,6,7が空欄なのは、官報情報検索サービスの対象期間(1947/5/3以降)よりも前
[56459]だからですね。
No.20 阿知須町分立は、地方自治法になってからの 1947/11/23実施ですが、告示は半年以上前だったのでしょうか。
集計表により、特別措置が適用されたのは、No.25 高知県高岡郡新居村(S24. 4. 1施行)を第1号として、No.18 岡山県苫田郡新加茂町(S26. 1. 1施行)までの合計 20町村の分立であったことがわかりました。
# 施行日を使ったのは、何故か告示日の方が遅いものが多いからです。
同じ徳山市から同時期に分立したのに、No.22 福川町が ○で 富田町が × という違いがあったのは 意外でした。
分立にあたっては、個々事情の相違がある。当然のことを改めて認識させられたデータでした。
No.14.1 富山県射水郡牧野村の挙動なども、いかにも事情ありげです。
[15592] TN さん により紹介されていますが、1940年に先ず隣接する新湊町に編入。次いで、1942年に高岡市に編入と2段階の戦時合併。
戦後の特別措置で分立することになるのですが、今度は1942年の新湊町ではなく、1940年の新湊町と牧野村まで戻ります。
これが、1951年の正月元日でした。
そして正月に分立した2町村のうち、新湊町が3月に新湊市になったのはよいとして、4月には牧野村が高岡市に出戻り。
地図 を見ると、庄川の東側に張り出した高岡市牧野地区は、“第1次戦時合併当時(1940~1942)に戻りたくない”ことを語りかけているように見えます。
熊本県飽託郡三和町からの No.27 池上村「分立」 が特別措置で実現して 「三和」の一角が崩れました。
こうなれば、残る2地域No.28 も 戦前の自治体に戻ることになり、翌年「分割」。これは よく理解できます。
しかし、明治22年の町村制施行時からの「高橋町」に戻ることはできず、城山村と共に生れたのは「高橋村」でした。
[53580] むじながいり さん
なかなか理解できなかったのが、No.18 岡山県苫田郡新加茂町の分立です。
[74025] 白桃 さん
1924年 苫田郡加茂村が町制施行し、加茂町(1)に。
1942年 加茂町(1)、東加茂村、西加茂村が合併。【新設合併で加茂町(2)となる】
1951年1月1日 加茂町(2)の一部【旧加茂町(1)の地域】が新加茂町として分立【旧東加茂村、旧西加茂村の地域は、加茂町(3)として残る】
1954年4月1日 加茂町(3)、新加茂町、上加茂村が合併し、加茂町(4)となる【新設合併】
理解しやすいように、4つの加茂町に番号を付けました。加茂町(2)と加茂町(3)の範囲は違いますが、法人格は継続。
加茂中心部の地図 を見ると、南流する加茂川に西から倉見川がY字型に合流。戦時合併した3自治体は、 Y字の川を境界に隣接していました。現在でも津山市役所支所のある北側が行政中心地の加茂町(1)、街道が通り因美線美作加茂駅のある東側は交通の拠点となっている東加茂村。西側の西加茂村には病院マークが見え、生活の拠点のようです。
相互に補完する機能を持つ3自治体の合併に無理な点はなかったのに、なぜ戦後になって特別措置による新加茂町分立という事態になったのか? これが謎でした。
[74025]にリンクされた
加茂分町の歴史 により、その原因が戦後の学制改革であったことを知りました。
3町村にあった小学校の1つを廃校にして中学校にする。犠牲になった旧加茂町(1)の地域からの分離運動は、住民投票で多数を得たものの、県議会でも もめた。その結果が、前記のように 20町村分立の どんじりになった理由でしょう。
このような行きがかりで、分立ということになってしまいました。
しかし、幸いにして 深刻な争いに発展せずに、2町が融和提携する道を歩んだようです。
役場も共用して経費を節約し、発端になった学校問題も2町の学校組合立3小学校へと方針転換。
1954年の昭和大合併では、上加茂村を加えた3町村の合併による加茂町(4)で、復縁を果しましたとさ。
めでたし めでたし。