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落書き帳

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[30942]2004年7月23日
hmt
[30954]2004年7月24日
YSK
[30983]2004年7月24日
むじながいり
[30977]2004年7月24日
hmt
[31002]2004年7月25日
稲生

[30942] 2004年 7月 23日(金)23:50:43【1】hmt さん
山口村がうらやましい
[30910]sutekinaおじさん
南牧村の先に住む39人の生活ぶりが気になります。

タイトルで、信州臼田町ながら田口峠を隔てた馬坂・広川原地区の方の気持ちを代弁させていただきました。

「兜岩山の南面にへばり付くようにして、時には360度以上というヘアピン・カーブを作り…」という峠道に隔てられたこの地区は、行政関係を除く日常生活を完全に群馬県側に依存しているものと思われます。(引用文は[30893]Issieさんとは逆に信州から上州へと田口峠を越えた紀行です。)
この地区の住民の本心としては群馬県への越境合併希望でも、臼田町内の多数決原理の壁が厚く、話題にさえなり得ないのではないでしょうか。長野県や臼田町の領土が減るのは反対などと言わずに、このような地域は群馬県に移管するのが行政の効率化というものだと思うのですが。

地図で見ると長野・群馬県境が地形に対して不自然に曲がっているのがよくわかります。
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=36.9.29.190&el=138.36.45.405&la=1&fi=1&pref=%b7%b2%c7%cf&skey=%b7%a7%c1%d2&sc=5
田口峠の南東側斜面は、たしかに馬坂川→南牧川→鏑川→烏川→利根川と太平洋に続いています。

[30891]烏川碧碧さんが言われるように「それにしても、どうしてこのような境界になっているものか」不思議です。きっと歴史的ないきさつがあるのでしょうが、私も解明できませんでした。
古代には、諏訪・佐久・上州・奥州を結ぶ交通路の通過地点だったようで、坂上田村麻呂が奥州征討の帰路にこの道を通った記録があるとか。

「39人の生活ぶり」で、ふと 気になったのが電力。中部電力の50Hz地域[28186]を確認してみたら、この地区はありませんね。もしかすると長野県だけど東京電力管内?

分水嶺と県境がずれている有名なケースとして、[30886]N-Hさんが挙げられた野反湖と尾瀬の場合。
住民がいない尾瀬ヶ原には、信州の孤島になってしまっている39人のような問題はないでしょう。
野反湖もキャンプ場はあるが定住している人はなさそうです。
この「湖」、1956年に発電用のロックフィルダムができてからの名前だそうです。
それ以前の自然の状態で存在した水溜りは「野反池」。
語感としては池の方が人工的ですが、逆ですね。ダムで大きくなったから「池」から「湖」に出世したというわけですか。

【1】補足
[30983]むじながいりさん が紹介して下さったサイト“田口峠と県境(群馬~長野)の不思議”に「電気は群馬県から」とありました。民間企業としては当然の対応でしょう。郵便を峠越えで配達しているお役所仕事と対照的ですね。
学校のことも気になっていたのですが、「就学年齢の子供が一人もいない」とのこと。
[30954] 2004年 7月 24日(土)09:18:44YSK[両毛人] さん
寝坊?
[30942]hmtさん
(田口峠付近の長野/群馬県境が)
どうしてこのような境界になっているものか」不思議です。
私は一応この地域における県境と分水嶺との不一致は知っておりました。
そして、このような県境となった理由も聞いたことがあります。ついさっきまでその記憶が正確なものか、調べていたのですが、確実な情報源にあたることができませんでした。

そのいきさつというのは、

「江戸時代、田口峠付近の土地の領有を巡って、臼田町側と南牧村側で紛争があり、お上が次のような裁定をした。朝同じ時間に双方が峠に向かって歩き始めて、出会った地点を境界とする、と。臼田町側は定刻通り歩き始めたが、南牧村側は寝坊(←他の理由かもしれません)して出発が遅れてしまい、かくして臼田町側の人間は田口峠を越えて利根川水域にまで達し、この付近の土地を領有することと相成った」

というものです。具体的な時期や当事者の名前などはわかりませんし、上記文章の細部には誤りが少なくないと思いますが、県境が分水嶺を越えて東にずれている理由の大枠は上記のとおりであると思います。具体的な出典等をご存知の方、また「ここは違う」など、ご指摘をお待ちいたしております。
[30983] 2004年 7月 24日(土)22:00:50むじながいり さん
田口峠
田口峠周辺について詳しく書いてあるサイトを見つけましたのでご紹介します.
http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/column6.html
[30977] 2004年 7月 24日(土)20:43:01【1】hmt さん
♪これは寝過ぎた しくじった
[30954]両毛人さん
お上が次のような裁定をした。朝同じ時間に双方が峠に向かって歩き始めて、出会った地点を境界とする、と。

田口峠に向う道は上州側が急斜面、信州側が なだらか という地形ですから、たとえ寝坊していなかったとしても、上州側にとって ハンディキャップを負っていたことになりますね。(出発点は不明ですが。)

楽しいお話を有難うございました。
江戸時代にもなって このような裁定が実在したとは、hmtには信じることができないのですが、このような説話の存在が、人々が抱いていた境界への疑問を伝えていることはよく理解できます。

【1】補足
[30983]むじながいりさん が紹介して下さったサイト“田口峠と県境(群馬~長野)の不思議”は、たいへん理解の助けになりました。有難うございます。

寛文8年(1668)絵図において、既に上信国境は 尾根を外れて 南東の谷に食い込んでいるとのこと。
当時は佐久側が経済的優位にあったことを反映しているのでしょう。佐久側の田野口村も幕府領だった時代ですから、政治的な力関係による境界ではなく、佐久の人たちによる経済的進出の橋頭堡だったと思われます。

そして、このような経済的な意味が失われた後の時代に、残された国境のずれを解釈する「行合裁面(ゆきあいざいめん)説話」が誕生したと推測します。その中の亜種が寝坊説・牛馬説・鶏説。
[31002] 2004年 7月 25日(日)10:15:17稲生 さん
「越」の国&分水嶺と県境についてのご意見拝聴
「越」の国の疑問について
[30958]稲生
「越」を福井から新潟の4県の範囲とする言い回しと、新潟県だけを指す言い回しが併用されている訳ですね。
という結論にしようと思いましたが、
「越」が越中・富山を示す「加越能」「能越」([30961]EMMさん)
「越」が越前・福井を示す「越美」([30962]美濃織部さん)「若越」([30972]今川焼さん)
「越」が越後・新潟を示す「甲信越」「信越」([30846]両毛人さん)「上越」「磐越」「羽越」([30870] じゃごたろさん)
等、たくさんの例示をいただきました。
したがって、結論としましては、
[30982]両毛人さん
「越」は越前の略称でもあり、越中の略称でもあり、越後の略称でもある。また、越の国全体を指すことばでもある、ということですね。
皆さん、ご教示ありがとうございました。これで、安心して眠ることができそうです。

分水嶺と県境について
[30951]稲生
分水嶺と県境がずれているケースは、列挙していくのも面白そうですね。
どなたか、もっと教えてください。
[30972]今川焼さんご紹介の [823]Issieさんの書き込みが総まとめのものですね。
また、[30983]むじながいりさんご紹介の 田口峠についてのHPについて、一個人の方が、ここまで追求なさるとは、誠に頭が下がる思いでした。
[30886]N-Hさん、[30972]今川焼さん、[30942] [30977]hmtさん、[30985]太白さん
皆さんかねてから、興味がおありのようで共感しました。
それからIssie先生にいたっては、[30979]ギリシア・トルコ間の国境および[30992]イタリア国境にまで意見がおよび、恐れ入りました。
この落書き帳に訪問して9ヶ月が経ちましたが、とっても有意義な日々を送らせていただいております。感謝感謝であります。


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