都道府県市区町村
落書き帳

���Ñ������Ò��A�Z�����̉ߒ�

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[32407]2004年9月1日
Hiro_as_Filler
[32422]2004年9月1日
紅葉橋律乃介
[32431]2004年9月2日
Hiro_as_Filler
[32458]2004年9月2日
烏川碧碧
[32479]2004年9月3日
紅葉橋律乃介
[32482]2004年9月3日
Hiro_as_Filler
[32486]2004年9月3日
スナフキん
[32489]2004年9月3日
スナフキん
[32495]2004年9月3日
くにやす
[32516]2004年9月4日
紅葉橋律乃介
[32521]2004年9月4日
Hiro_as_Filler

[32407] 2004年 9月 1日(水)12:58:28【1】Hiro_as_Filler[Hiro(&TOKO)] さん
草津町と六合村(質問)
今、市町村の変遷についてちょっと調べてまして、疑問が出てきたのでここの皆さんに教えていただけたらと思いまして、書き込みします。

草津町と六合村の関係なのですが、群馬県東京事務所のページによると、六合村のところに
M33.7.1 草津村から大字赤岩・小雨・生須・太子・日影・入山が分立して六合村となる
とあります。草津村の6大字が分立して六合村になったということでこれは納得できるのですが、草津町のところにも
M33.7.1 草津村大字草津・前口が分立して町制
とあるのです。分立とは、元ある市町村の一部が独立して新たに法人格をもつことと解釈していたので、草津町は分立ではなく、草津村の残った地域が町制施行したと私は解釈していたのですが、他の文献でも、両方とも分立とありました。
もうひとつの考えとして、草津村を分割して(一度法人格が消え)六合村と草津町を新たに設置したという方法(分割設定?)もありそうですが、それも違うような気がするし。。。

これってどういう手続きで2つの町村になったのでしょうか?ご存知の方、是非教えてください。
(当時の告示とか知っている方いらっしゃいますか?)
[32422] 2004年 9月 1日(水)22:50:59紅葉橋律乃介[紅葉橋瑤知朗] さん
分割のなぞ
[32407] 2004年 9月 1日(水)12:58:28【1】 Hiro(&TOKO)さん
草津村を分割して(一度法人格が消え)六合村と草津町を新たに設置したという方法(分割設定?)もありそうですが

 当時、町村の告示は官報には記載されていなかったようですから、県の公報を当たれば見られるかも知れません。
 手持ちの資料には、いわゆる「合体」と「分割設定」を抜き出したものがあります(だいたい平成初年まで。『新版 全国市町村名変遷総覧』平成10年 日本加除出版刊より)。

 例によって原文ではありませんが、
 草津村より草津町、六合村
 とあります。
 記載を簡略化するためにこう書いてありますが、分割設定なら
 草津村―○町、六合村
 と書いてあるはずなんです。

 これを見るかぎり、「草津村」より「草津町」と「六合村」がそれぞれ分立したということになります。良く見ると、もとの「草津村」はどこへ行ったの…?
[32431] 2004年 9月 2日(木)05:56:59Hiro_as_Filler[Hiro(&TOKO)] さん
着実に進級を/草津村はどこ?
[32412] いっちゃん さん
とりあえず、着実に中学に進学できたらと思います。

いっちゃん中学校:小山市
------------------------------------
[32422] 紅葉橋瑤知朗 さん
早速資料を見ていただきありがとうございます。^^
「草津村」より「草津町」と「六合村」がそれぞれ分立したということになります。
そうですよね。。。私の手元の資料でも、「六合村」(分立)「草津町」(分立町制)みたいにあるんです。(コピーしたものなので、どの本か忘れてしまいましたが)
良く見ると、もとの「草津村」はどこへ行ったの…?
そうなんです。私も同じ疑問を抱いているのです。
ある自治体から、ある自治体が分立した場合は、そこには法人格が存続する自治体があると思っていたので、それでは「草津村」はどこ?って話になりますよね?

それとも、昔はそんなに厳密じゃなかったのかなぁ。。。
[32458] 2004年 9月 2日(木)17:42:07烏川碧碧 さん
前の時は幼稚園児だった。聞いたような気もしないでもないけれど、思い出せない。
法定協設置案を否決 吉井町議会
高崎地域五市町村の法定合併協議会設置への対応が注目されていた吉井町で一日、町議会臨時会が開かれ、同設置案を否決した。斎藤軍雄町長は五市町村枠の法定協参加を断念する意向。
(上毛新聞) http://www.raijin.com/news/thu/news02.htm

個人的には、例えば群馬郡の4町村よりも吉井町の方がより身近に感じていただけに、ちょっと残念なところです。3月末の群馬郡4町村任意合併協議会の解散後、榛名町、箕郷町が高崎地域の任意協に合流し、これで(7市町村の合併により)前橋を上回る36万都市だ! と密かに胸を躍らせていたのですが(もちろん、人口が増えれば好い、って単純には割り切れないことは承知……)、7月以来、随分と混迷の度を深めてまいりました。

結局のところ、今後の枠組みとしては、

法定協議会(1)高崎市、倉渕村、群馬町、新町※5市町村の法定合併協議会を4市町村で採決し直し
法定協議会(2)高崎市、榛名町※住民発議に基づく
法定協議会(3)高崎市、箕郷町※住民発議に基づく
法定協議会(4)高崎市、吉井町※住民発議に基づく

の4本立てで進行することになりそうです。もっとも、今のところ4つとも未設置なので、かなりいいかげんな整理なのですが。
とりあえず、他所で頻繁に破談の原因となっている新市名及び市役所の位置については、すでに何れも高崎市ということでまとまっていたのが幸いなところか。

どうなるにせよ、遺恨が後で火種にならないようにと願っています。



[32407][32431] Hiro(&TOKO) さん
[32422] 紅葉橋瑤知朗 さん

すでにお調べのことかもしれませんが、群馬県市町村要覧(六合村)でも、六合村ホームページでも、

草津村を廃し

と表現されていますね。
(公式のものとして)信用できる記述かどうかは判断しかねますが、ご報告まで。

「草津村」より「草津町」と「六合村」がそれぞれ分立したということになります。良く見ると、もとの「草津村」はどこへ行ったの…?

まさか実は人口ゼロ・面積ゼロの草津村が現在に至るまで(法律上は)存続していて……、なあんて。まさしく幽霊村ですね。それにしても、何らかの事情(自然災害とか)できわめて短時日に人口がゼロになってしまったり(住民が避難している、というようなケースではなく)、面積がゼロになったりしまったりした自治体というのは、どういう扱いになるのでしょう? 無責任な想像上の話ですが。

ところで、「六合村」というのは、6か村を併せて誕生したところから「六合村(くに・むら)」と称するのだとは聞いていたのですが、先の市町村要覧によれば、「六合(くに)」とは、東西南北及び天地の意であり、古事記・日本書紀に見られる言葉であるとか。なるほど、勉強になりました。



[32455] G さん
浅間山が噴火したようですネ!!

20年ぶりの規模の噴火が「防災の日」に。
さしあたり当面は大噴火を可能性は低いようですが、大事にならないように祈っています。
[32479] 2004年 9月 3日(金)02:04:34紅葉橋律乃介[紅葉橋瑤知朗] さん
誰もいない街(村)
 順を追って書きます。

[32431] 2004年 9月 2日(木)05:56:59 Hiro(&TOKO)さん
それでは「草津村」はどこ?
[32458] 2004年 9月 2日(木)17:42:07 烏川碧碧さん
まさか実は人口ゼロ・面積ゼロの草津村が現在に至るまで(法律上は)存続していて……

 「分立」と「分割設定」の違いは、もとの自治体があるかないかの違いである、と漠然と思ってはいましたが、先述の資料によると、「分立」扱いの町村もありました。
 実態は「分割設定」なのですが、もとの資料(この場合は県の公報?)がそうなっていたのであれば、昔は定義が曖昧であったのではないでしょうか。厳密に定義をしたところで、もとの町村がなくなっているのは事実ですから、実際の効力に影響はありません。
 現在でも、「郡」が消滅しても告示はありません。だからと言って、たとえば北海道札幌郡が書類上は残っているわけでもなし。

 ちなみに、“北方領土”の6村には誰も住んでいませんが、市町村コードは割り振られており、れっきとした「誰もいない村」であります。


[32467] 2004年 9月 2日(木)20:22:40 Issieさん
新しく設けられた「渋谷村」はこの「渋谷町」を直接継承したものではなくて,これを分割して「新・渋谷村」と「藤沢市」のそれぞれに“引き取られた”

 逆に、「編入」だけであれば「境界変更」ということになりますか。
 一部を藤沢市にやってしまったので、「町」の要件がなくなって「村」になってしまった、ということではないんですね?

[32478] 2004年 9月 3日(金)00:01:18 花笠カセ鳥さん
最初の告示を見ると、いかにも「渋谷町の全部が」藤沢市に編入されたような印象を受けます。

 渋谷町は一度編入され、すぐさま一部が独立して「渋谷村」とみたい。
 う~ん、難しいですねえ……。


 余談
[32453] 2004年 9月 2日(木)14:45:28 白桃さん
または大相撲の敢闘賞

 残念ながら、勝ち越しが最低条件。白桃関は役が長いので、横綱大関をかなり倒さなければ……。
[32482] 2004年 9月 3日(金)07:52:46Hiro_as_Filler[Hiro(&TOKO)] さん
秋の入市問題/草津村のゆくえ
昨日のうちに解答は思いついていたのですが、不覚にも寝てしまいました。
というわけで「秋の入市問題」です。

[32412] いっちゃん さん
高校:東御市
大学:入間市
---------------------------
[32458] 烏川碧碧 さん
すでにお調べのことかもしれませんが、群馬県市町村要覧(六合村)でも、六合村ホームページでも、
草津村を廃し
と表現されていますね。
参考資料ありがとうございます。群馬県の市町村要覧は見たことはありましたが、そこまでチェックしていませんでした。その表現だと、草津村の法人格は一度消えているような印象を受けますね。

それにしても、何らかの事情(自然災害とか)できわめて短時日に人口がゼロになってしまったり(住民が避難している、というようなケースではなく)、面積がゼロになったりしまったりした自治体というのは、どういう扱いになるのでしょう?
このケースかどうかはわからないのですが、渡良瀬遊水地をつくるために栃木県の谷中村を強制廃村にした時は、藤岡町に合併という扱いになってますね。

[32467] Issie さん
紅葉橋瑤知朗 さんの言われているとおり,明治憲法下の「市制・町村制」では「市」の異動だけが「内務省告示」として官報に掲載されていて,町村の異動については府県の方に当たらなければならないようです。
そうすると、群馬県報の古いものをあたってみる必要が有りますね。。。県庁にでも行ってこようかな。。。

[32479] 紅葉橋瑤知朗 さん
「分立」と「分割設定」の違いは、もとの自治体があるかないかの違いである、と漠然と思ってはいましたが、先述の資料によると、「分立」扱いの町村もありました。
 実態は「分割設定」なのですが、もとの資料(この場合は県の公報?)がそうなっていたのであれば、昔は定義が曖昧であったのではないでしょうか。厳密に定義をしたところで、もとの町村がなくなっているのは事実ですから、実際の効力に影響はありません。
この場合は、結局は定義が曖昧だったのではと推測できますよね。実態としては分割設定と読み取れますから。
[32486] 2004年 9月 3日(金)09:22:41スナフキん さん
草津村のこと
ちょっと気になるので調べてみましたが…分かりません(大汗)。

もともと、書物の編集者が当落書き帳参加者の皆さんのように法律上の文言や言い回しに長けていて、理解度も高い人ばかりではないですから、どうしてもあやふやな表現になるのは仕方がないのですが、歴史地名体系・群馬県の地名を見ても、角川の地名辞典・群馬県を見ても、記述のニュアンスは一緒でして、

「草津村→草津町+六合村」

としか読み解けません。草津村が残されてどうこう、とまで読み進められる記述にはなっていないのです。確か、自宅には10年以上前に六合村で行われた関東高等学校登山大会に参加したときの資料が残っているはずなので、帰ったら見てみようとは思いますが…これとて、高校生向けに作られた教本でありますし、そもそも六合村の制作担当者がこの分割劇に関してどれほど関心を示し、どれほど突っ込んで調べたかは未知数であり、あまり過度の期待はできませんけど…。

ただ一つ言えるのは、この大会参加時に、六合村の担当者はかなり草津町にコンプレックスを抱いているなというのが、高校生だった時分の私でも感じ取ることができました。どうしても、メジャーになりすぎた観光地から切り離された六合村、のイメージがついて回るせいかもしれません。
[32489] 2004年 9月 3日(金)13:15:39スナフキん さん
続・草津村のこと
以前の書き込みのあと、資料室長が1967年の六合村村勢要覧を持ってきてくれました。この冊子中、沿革の項に興味深いことが書いてあります。

明治33年7月1日草津村を廃し、大字草津村・前口村を以つて草津町、大字入山村・小雨村・太子村・日影村・赤岩村・生須村の6大字を以つて六合村と称し現在に至る。
(原文ママ、但し一部句読点を置換)

と、明確に「草津村がなくなった」ことが記述してありました。[32458]で烏川碧碧さんが紹介して下さったものの古いタイプとも言え、数十年にも渡って表現が変えられていないようです。以前にも書いたように、編集担当にどれほどの知識があったのかどうかが推し量れないのでイマイチ正確性には欠けますけど、それでも当事者であるところの六合村が発行する、限りなく公的文書に近い存在の村勢要覧での記述です。しかも、言い回しに何とも官報からそのまま抜粋、みたいな雰囲気があり、一つの参考資料にはなるかと思います。他方、草津町の要覧も手元にあるのですが、こちらは核心部分の表現が玉虫色になっていてはっきりしないので、あえてここで抜粋はしません。Issieさんご指摘の例もあるように、明治時代はひょっとすると昨今の情勢とは異なり、自治体の分割が行われること自体がちっとも不思議でなかったのかも知れませんね。今なら例えば、上九一色村の例を出すまでもなく、限りなく不可能に近いとは思いますが…。

角川の地名辞典には、分離の理由として
地域が広すぎること、温泉と農林業では生活習慣も違うこと
を挙げています。穏やかな表現に見えますけど、両町村はどうも「ケンカ別れ」的に分離したようにも見えます。ひょっとしたら再びそのケンカの火種になるのを恐れて、何だかよく分からないグレーな表現ばかりが見えているのでは…とか勘ぐってみたくもなります。

ちなみにこの村勢要覧の沿革下、「部落を行く国鉄長野原線(長野原~太子間)」なるタイトル付きの写真が掲載され、1両のディーゼルカーがポツンと走っています…うわ、萌え(汗)。

結局のところ、やっぱり分からないままなのですが(大汗)。
[32495] 2004年 9月 3日(金)19:04:37くにやす さん
続々 草津村のこと
はじめまして。
早速ですが、草津村のことについて

草津町が町制施行100周年の時に発行した「漫画草津町誌」の235ページに
(おそらく当時の)群馬県報(号外 明治33年6月28日)が載っています。
字が小さくて、全ては判読できないので、ここに全文記載はできませんが
「群馬県告示第百二号」
「(略)明治33年7月1日吾妻郡草津村ヲ廃シ(略)草津町ヲ置キ(略)六合村ヲ置ク」
「明治33年6月28日  群馬県知事 」
(ちなみに群馬県知事の名前は字がつぶれていたため、読めませんでした。)
と書いてあるように読めます。
だとすれば草津村は廃止されて、草津町と六合村が置かれた、ということでよろしいのでは
と思いますが。

この本は草津町役場の企画創造課か草津町の図書館に問い合わせをすれば
手に入ると思います。
[32516] 2004年 9月 4日(土)00:22:04紅葉橋律乃介[紅葉橋瑤知朗] さん
引き分け
[32482] 2004年 9月 3日(金)07:52:46 Hiro(&TOKO)さん
群馬県報の古いもの
[32489] 2004年 9月 3日(金)13:15:39 スナフキんさん
明治33年7月1日草津村を廃し、(後略)
[32495] 2004年 9月 3日(金)19:04:37 くにやすさん
群馬県報(号外 明治33年6月28日)
明治33年7月1日吾妻郡草津村ヲ廃シ(略)草津町ヲ置キ(略)六合村ヲ置ク

 やはり、古い公報(県報)には出ていたのですね。と言うのも、北海道公報には、戦前の町村異動も出ていましたから、各府県も同じではないか、と。
 これを読むかぎり、「分立」(もとの市町村は変更なし)とは受けとれません。それとも、「××を分け、新たに○○を置く」が「分割設定」の“正しい”文言なのか…。

 もう一つ疑問がありました。村が廃され、新しくできたのは「村」なのか「町(村の昇格ではなく)」なのか。この文言によると、「町」が直接新設されていますね。



[32497] 2004年 9月 3日(金)20:34:06 地球人さん
佐世保村 → 佐世保市 + 佐世村 ですね。

 こちらは、佐世保村より明治35(1902)年3月18日に佐世村が分かれ、4月1日に佐世保村が市制を敷いているようです。
 もっとも、当時は「市制」と「町村制」が別の法律でしたから、もし同日であっても佐世保村はいったん廃されなければなりませんね。
[32521] 2004年 9月 4日(土)09:09:53【1】Hiro_as_Filler[Hiro(&TOKO)] さん
草津村/渋谷村
みなさま私の疑問にいろいろ書き込みしていただいてありがとうございます。

[32495] くにやす さん
(略)明治33年7月1日吾妻郡草津村ヲ廃シ(略)草津町ヲ置キ(略)六合村ヲ置ク
明確な記述ありがとうございます。
この文言で、私の中のもやもやはほぼすっきりしました。
分立と記載してある文献が多かったのですが、この感じですと、草津村の法人格が消え、その地域を二分し草津町と六合村という新しい法人格が発生したということで、分割設定と考えていいみたいですね。
(略)の部分は「大字草津、前口ヲ以ツテ」とか「大字入山、小雨、太子、日影、赤岩、生須ヲ以ツテ」みたいな文章が入っているのでしょうね。きっと。

[32489] スナフキん さん
以前の書き込みのあと、資料室長が1967年の六合村村勢要覧を持ってきてくれました。この冊子中、沿革の項に興味深いことが書いてあります。

明治33年7月1日草津村を廃し、大字草津村・前口村を以つて草津町、大字入山村・小雨村・太子村・日影村・赤岩村・生須村の6大字を以つて六合村と称し現在に至る。
私の手元にある2001年六合村勢要覧でもほぼ同様の記述になっています。
一方、2002草津町勢要覧の中の年表では、以下のような記述になっています。
草津村が六合村と草津に分離独立して町制を施行し、草津町となる
ちなみに英文でも併記されていました。
Kusatsu village divided into Kuni village and Kusatsu town.

もともと、草津村と前口村(現在の草津町)は市制町村制施行以前に2ヵ村組合を編成していたようですし、つながりは深かったように思います。私が疑問なのは、分割した理由よりも、なぜ草津と六合が一時期ですが1つの村になっていたかということですね。^^;
ちなみに、草津村時代の役場は小雨(現在の六合村)にあったようです。

------------------------------
[32502] Issie さん
小出村の茅ヶ崎市への編入ですが、横からすみませんが茅ヶ崎市ホームページに記述がありました。
○市村の廃置分合
昭和30年3月31日
総理府告示第910号
地方自治法第7条第1項の規定により、神奈川県高座郡小出村を廃し、小出村大字堤、下寺尾、行谷及び芹沢の区域を茅ヶ崎市に編入する旨、神奈川県知事から届出があった。
右の廃置分合は、昭和30年4月5日からその効力を生ずるものとする。

[32479] 紅葉橋瑤知朗 さん
 渋谷町は一度編入され、すぐさま一部が独立して「渋谷村」とみたい。
私もそんな印象を受けました。告示だけ見ると、一旦藤沢市に全部編入されると決定した渋谷町から、後になって一部が渋谷村として独立したという感じに読み取れます。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示